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時空を超える美意識 https://collaj.jp/春縞 2025 言霊の岸辺にて小倉 小倉城の天守閣は、関ケ原で功績をあげた細川忠興によって1602年に造営されました。「南蛮造」呼ばれる最上階が張り出した形状で、現在の復元天守とは異なり破風のないモダンな姿をしています。細川家が熊本に移ると、九州の外様大名のお目付け役 「九州探題」として小笠原忠真が小倉に移ります。忠真は徳川家康の孫にあたり、織田信長の血をつぐ戦国のサラブレッドでした。幕末まで小倉藩をおさめた小笠原家は、今も礼法や流鏑馬の普及で知られます。小倉藩は江戸初期から綿の栽培を推奨し、藩士の妻たちが糸を紡ぎ袴地や帯を織りました。丈夫で実用的な小倉織は、全国に知られるようになりました。北九州市の中心都市として栄える小倉。JR小倉駅と企救丘を結ぶ北九州モノレールは、1985年の開業です。小倉で育った松本零士さんのキャラクターをあしらった車両が街を彩ります。 北九州市立中央図書館 設計:磯崎 新 北九州市役所の17階展望台から小倉の街や北九州中央図書館、小倉城などを望めます。 チューブを曲げたような姿の北九州市立中央図書館(1975年)は、磯崎新さんの設計。小倉城近くの勝山公園に建ちます。J型に曲げられた 2本の半円形ヴォールト屋根が並行し、城内の景色に馴染むよう計算されています。「同じ結論に導かれることのないアプローチ」という言葉が、この建築の特性をいい当てています。公園の様々な方向からアプローチでき、正面や裏側のない建物となっています。直径 11mの巨大なヴォールト屋根に目を奪われます。屋根を支えるリブはゴシック教会を思わせ、真ん中にスリットを入れることで軽快に見せています。エントランスホールには新聞閲覧コーナー、その上に吹き抜け 2階の学習室が見えます。 ヴォールト屋根の部材はプレキャストコンクリート製で、数種類の部材を組み合わせることで、自然光を取り込んだ豊かな空間を作り上げています。半世紀前に建てられたとは思えない空間で、常に新しい発見があります。 「ヴォールトは円弧状の一定の断面を無限にひきのばしていくものだ。当然端部があらわれる。《切断》はその端部を決めるひとつの手法である。まったく別の形態や一枚の壁のようなファサードに突きあて、円弧状の切り口をみせない方法もあろうが、切り口は内側の空洞を外にのぞかせて魅力的だ。内側になにかが含まれ発生していることを暗示している。そして《湾曲》も同一の断面をもっていながら、空間をねじれさせ回転させることによってまったく異なった意味を感じさせるためのひとつの手法である。またヴォールトが一本でなく《並列》していることは、そのすき間を内部もしくは外部の空間として意識的にデザインすることができる。」磯崎新 (現代の建築家) 鹿島出版会より 図書館に併設された北九州文学館 (有料)は、女流俳人 杉田久女、橋本多佳子はじめ、松本清張さんを応援した小説家火野葦平、岩下俊作、門司で生まれた林芙美子など北九州市ゆかりの文人を紹介しています。ヴォールトの端部には、三浦梅園『玄語』の図式をアレンジしたステンドグラスが嵌められました。 春の音を聴いたんだけど春はどの音?春はドの音? Vol.70 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 小倉が育てた国民作家 松本清張を次代へ伝える 北九州市立松本清張記念館 小倉城址公園に建つ北九州市立松本清張記念館(1998年)は、長野県小布施の街づくりで知られる建築家・宮本忠長さんの設計です。かつて小倉城の外堀だった角地にあり、瓦屋根を低く抑えた低層棟は景観によくなじんでいます。白い屋根の中央棟は東京・浜田山の松本邸を内包した作家の魂を感じる空間です。 ▲アプローチには諏訪の鉄平石が使われ、古い石垣も見えます。▼地階にはカフェやショップ、情報ライブラリがあり、ゆっくり過ごせます。 松本清張さんの没後 7回忌の年に開館した「北九州市立 松本清張記念館」は、作家の業績を伝えるとともに、膨大な作品世界の研究・普及の拠点として活動を続けています。館の設計を託された宮本忠長さんは、清張さんの芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』の題材となった森.外の記念館(島根県津和野町)を手掛けていて、その縁もあり選ばれました。宮本さんはまず松本清張全集を読み込み、まるで自分がその場にいるような文章の「平明さ」というイメージを見いだし建物に反映したそうです。▼ 82年の生涯を辿った年表をはじめ、推理小説、歴史小説、現代史、古代史、映像作品など広大なジャンルに渡る清張世界を俯瞰できます。 記念館の企画段階から、『昭和史発掘』など 30年以上にわたり創作を支えた担当編集者藤井康栄さん(名誉館長)が参加し、東京・浜田山の松本邸が館内に再現されました。「思索と創作の城」と名付けられた高さ13mの大空間には、編集者が清張さんと向き合った1階の応接室をはじめ、2階の書斎や 2階建て書庫などがそっくり再現され、ほとばしる創作のエネルギーを体感できます。 写真提供:北九州市立松本清張記念館 松本ナヲ夫人から遺品や蔵書が寄贈され、宮本さん、藤井さんはじめ多くの人の情熱により「作家の戦場」といえる仕事場が再現されました。机に置かれた傾斜付き原稿台は、新聞社で広告原稿を手掛けたデザイナー時代の清張さんをほうふつとさせ、煙草の焦げ跡や引き出しの傷から創作の苦闘が伝わってくるようです。清張さんが夜中に資料を読んだ書庫には約 2万 3千冊の蔵書が生前のまま並べられ、貴重な研究資料となっています。作家の創造世界をここまで忠実に封じ込めた大空間は、世界に類を見ないでしょう。松本清張記念館は定期的に研究誌『松本清張研究』を発行するほか、清張文学の研究を支援する松本清張研究奨励事業や、中高生対象の読書感想文コンクールを運営しています。 写真提供:北九州市立松本清張記念館 旦過市場へは、北九州モノレール「旦過駅」が便利です。 時代が明治から大正へと移るころ、のちに国民的作家となる 8歳の松本清張(きよはる)少年は、小倉名物「旦過(たんが)市場」に近い風呂屋に暮らしました。大正 5年、父は小倉初のモダンなデパートとなる兵庫屋呉服店に勤めます。大正時代の小倉には大正デモクラシーの風が吹き、陸軍の軍都でありながらも、文芸サロンとなった橋本多佳子の櫓山荘では芥川龍之介、里見.、直木三十五などの講演会がひらかれ、後に清張さんの『菊枕』に描かれる俳人 杉田久女が高浜虚子の手ほどきをうけました。 ▲大規模火災後に設けられた旦過青空市場。 北九州の台所といわれた旦過市場は、清張少年が暮らした大正時代に生まれました。神嶽川をのぼる船が荷揚げした魚や生鮮品を商ったことにはじまり、200軒以上が軒をつらねる市場に発展。しかし度重なる水害、火災に見舞われます。2009年、2010年は豪雨によって神嶽川が氾濫し多くの店舗が浸水。1999年は火災により12店舗が消失し、2022年には 2度の大規模火災が発生します。現在は旦過地区再整備事業として、鉄骨造4階建て商業ビルの建設が進められています。昭和 30年代の木造建物が神嶽川にせり出した独特の風景。大正 12年、この近くに清張少年の父は飲食店をだしますが、中学校進学という夢は叶わず、尋常高等小学校高等科を卒業すると15歳で川北電気の給仕となり、工場で働く文学青年と交流しながら文藝春秋、新青年、岩波文庫などを読み始めます。芥川龍之介、夏目漱石、志賀直哉、菊池寛、江戸川乱歩、夢野久作、ドフトエススキー、ポオなど興味のむくまま読みこなしました。10代の経験を投影した短編に『河西電気出張所』(川北電気の給仕時代)や『月光』(橋本多佳子の半生を描く)があります。尋常小学校時代に松本清張さんが暮らした中島 1丁目界隈(左)。当時は紫川の小倉製紙所から独特の匂いが漂っていましたが、今は美しさを取り戻しています。川北電気が閉所すると、清張さんは石板印刷の見習工として高崎印刷に就職し、広告版下制作の腕を磨きます。昭和 11年にはナヲ夫人との結婚を機にフリーランスに転向。門司から小倉に移転した朝日新聞九州支社の広告部嘱託となり、昭和 16年には雑誌『廣告界』のコンテストに「防諜」をテーマにしたポスターが入選しました。砂津にあった朝日新聞の社屋は円形のユニークな建物として有名で、向かいには松本零士少年の家がありました。現在は朝日新聞西部本社としてリバーウォーク北九州業務棟に移転しています。。 小倉の城下町は、九州の玄関口として大いに栄えました。 紫川にかかる常盤橋は九州五街道のひとつ長崎街道の 出発点で、多くの宿屋や店が並び賑わいます。参勤交代 や朝鮮通信使もこの橋をわたり江戸に向かいました。 明治維新後の小倉城には陸軍第 12師団司令部が置かれ、明治 32年、森.外は小倉の第 12師団軍医部長に就任します。小倉の街や門司を散策し、風俗や年中行事を観察し、出張先で近松門左衛門や貝原益軒の墓や石碑をさがし、教会の神父からフランス語を学ぶ様子を『小倉日記』に書き残しています。この日記が、清張さん の運命を大きく変える事になるのです。松本清張さんの芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』は、郷土史家の田上耕作を主人公として、森.外の小倉での足跡をおった短編です。.外の『小倉日記』は行方不明になっていて、その空白を埋めるため田上は.外を知る人を訪ね歩きます(現実には清張さんがまわりました)。田上の死後『小倉日記』が発見された所が、作品に深みを与えています。 小倉にはフランシスコ・ザビエルの布教活動により、数千人のキリスト教信者がいました。小倉に入府した細川忠興は関ケ原の影響で失った妻・玉(細川ガラシャ)を弔うためキリスト教信者を養護しますが、江戸幕府のキリシタン禁令に従い方向転換します。重臣のひとりディエゴ加賀山隼人は忠興から改宗を指示されたものの、それに従わず 2年の蟄居のうえ処刑されました。カトリック小倉教会にはその史実を伝える石碑が立ちます。小倉駅近くに暮らした森.外は、教会のベルトラン師からフランス語を習いました。東京に戻った鴎外は小倉時代の思い出を綴った三部作『鶏』『独身』『二人の友』を書いています。清張さんは朝日新聞の同僚から考古学の面白さを教えられ、北九州の遺跡をめぐり京都、奈良まで脚を伸ばすします。郷土会や句会に参加し熱心に英会話を学び、第二次世界大戦末期には衛生兵として朝鮮に送られソウルの街を観察しています。短編小説『背広服の変死者』には鬱屈した新聞社のサラリーマン生活が描かれますが、実際は充実した日々を過ごしたようです。40歳で広告部意匠係主任に昇進すると、42歳「週刊朝日」の懸賞小説に『西郷札』が入選。直木賞候補となります。翌年『或る「小倉日記」伝』が芥川賞を受賞し、それを機に 44歳の清張さんは朝日新聞東京本社に転勤しました。清張さんはすでに九州のデザイン界で名が知れていたため、小説家を目指した上京に反対する人もいました。 松本清張さんが小倉を舞台にした作品には、週刊朝日の 「百万人の小説」に入賞した『西郷札』(1951年)、俳人杉田久女をモデルにした『菊枕』(1956年)、和布刈神事をトリックに使った『時間の習俗』(1962年)、10代の経験をもとにした『表象詩人』(1973年)などがあります。小倉黒人米兵集団脱走事件を扱った『黒地の絵』(1958年)は、小倉の秘史を描いています。1950年米軍城野キャンプからは、沢山の兵士が朝鮮戦争へ送り込まれていました。7月の暑い夜、排水孔の土管から黒人兵 200名以上が自動小銃を持って脱走し、民家や飲食店、学校を襲い酒・煙草などを強奪。複数の婦女を暴行し、MPや警察と銃撃戦となりました。事件当時、米軍城野キャンブに近い黒原営団に暮らした清張さんですが、朝まで事態に気付かなかったそうです。新聞報道はごく僅かで、全容は米軍によって秘匿されました。事件から7年後、朝日新聞を退社し『点と線』を執筆中の清張さんは小倉へ赴き、当時の警察官、MRA(米軍戦死体収容所)などを取材して短編『黒地の絵』(1958年)にまとめます。被害にあった女性たちは深い傷を負い、黒人兵はすぐに激戦地に送られ大半は死体となって小倉に帰ってきました。米軍統治への疑念は、社会現象ともなった『日本の黒い霧』(1960年)へとつながっていきます。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 38時間目写真&文 大吉朋子 2025年 5月は「5」のエネルギーが流れます。「5」は ”体 ”を表す数字。2月 3月 4月のアイデアを練る時間から、それらを現実的に実行するタイミング。体を動かすことでエネルギーが作られる 5月は、とにかく動くこと。じっとして考え悩むより、動き出してから考えるくらいがちょうどいいです。 とりあえずやってみる、試行錯誤の実践が「5」。運動もとりあえず始めてみて、やりながら続けられそうな自分なりのやり方を探っていく。それがいずれ習慣になっていきます。経験や体験を重ねることでエネルギーが活性化していくこの時期は、動いて、人と会い、人とつながっていくこともポイント。動いてエネルギーをつくり人とのつながりから、さまざまな変化も生まれていきます。 自分の中に「5」がある人(5月生まれ、5日,14日、23日生まれ)は、もともと体を動かすことが好きな人たち。この性質に輪をかけるように、5月は流れに乗ってよりアクティブに動ける一か月となりそうです。ただ、「からだの声をきく」を忘れずに。体が動くからこそ、知らず知らずのうちに無理をしてしまうのも「5」。休むことも仕事のうち。メリハリをつけて、動いたら休む。休むことでまたエネルギーが溢れだします。疲れた時には、「適切な行動を選べているか?」をチェック。 新学期、新年度、新しい生活や環境からの疲れが出てくる時期です。くれぐれも無理をせず、休む時には潔く休み、アクティブに変化を楽しむ一か月にいたしましょう。 「動いてエネルギーをつくる」5月。 うしろ姿から想像する。 私は人の姿を観察するクセを自覚している。駅や道、さまざまな場所で、いろいろな人の姿勢や立ち姿、歩き方、後ろ姿の佇まいなど、無意識のうちに意識的に目で追ってしまう。ふだん一人でいる時には当然自分の行為の程度がわからないわけだが、家族とくに姉妹と行動を共にする時にはいつも指摘される。「見すぎ」だと。 立ち姿や姿勢は、顔や表情以上にその人の本質を表現しているように感じる。特に後ろ姿は顔が見えないだけに、その人がまとっているオーラまでも、理屈ではうまく説明できないのだけれど、私のセンサーでは瞬時に分類され、頭の引き出しに入っていく。あくまでも、自分の中だけで行なわれている人間観察活動。誰に言うことでもなく、ただキャッチした情報を自分の中にデータとして蓄積していき、頭の中でさまざまな角度からのものさしが構築していく感じというか。 人の後ろ姿を気にするようになったのは、今は亡き祖父の言葉がきっかけだった。97歳まで生きた人格者。若かりし頃は褒められることばかりではなかった祖父。祖母の苦労も計り知れないものだったとも聞いた。晩年は長い人生を実に深く生きてきた人だということを肌で感じることが多かった。言葉ひとつひとつに重みというか、深さと濃さを感じた。もう少し自分が早く大人になって、祖父と大人の会話ができていたら面白かっただろうなと時々想像する。 祖父は決して人の悪口や噂話、自身の愚痴や誰かと比較するなどの話をしなかった。だから何を考えているのか、本当に計り知れないという言葉がぴったりの人だったのだが、そんな祖父が人を見るポイントについて話したことがある。「その人の歩き方、後ろ姿を見なさい」と。それは、私の姉が外国人パートナーとの結婚を考えていた時、その相手に会ったことのない母が「現地でその人に会ってこようかと思って」と祖父に話かけた時の返答だった。何かに対する具体的なアドバイスは、後にも先にもその言葉だけだったのではと思う。その時私は、内容よりも祖父が人に対する捉え方を語ったことにとても驚いた。 そこから数年して、うっすら頭の片隅にあったその言葉は少しずつ自分になじんできた。なんとなく観察する感じから始まり、ぼんやりとした観察はだんだんとリアリティが出てきて、言語化は難しいものの自分の中に観察結果の引き出しがいくつか出来てきた。そして体の勉強を始めるとまずは自分の筋肉や姿勢を意識するようになり、ヨガなどレッスンする際には、彼らの体の使い方や姿勢を凝視する。運動においてのそれは骨格や解剖学的な目で見る客観的なものだけれど、少しづつその目が養われていくと、徐々にその全体を眺めるような、祖父の言葉が表す ”姿 ”にも目がいくようになってきた。 人を認識する時、顔つきや表情、雰囲気、洋服のセンスなどわかりやすい外見が圧倒的に大きな情報となって、人柄や性格的なものまでも勝手に自分なりの設定で相手を決めている気がするけれど、そこに顔情報のない ”後ろ姿 ”や ”歩き方 ”が加わると、違う印象をもつことも度々ある。一見したところ好印象でも、そこにスマホを持って立つ姿勢や後ろからの歩き方や姿が加わると、初めの印象と一致しないことがままある。またその逆もあり、おっとり控えめの柔らかな印象の人が、立つと姿勢がすっとして歩き方もブレがなく整っていると、おっとりとは一転、内に秘められた凛とした強さが際立って目に映る。 今でも祖父の言葉から私の中に生まれた ”ものさし”は、自分がどうありたいかを考える時とても大事にしている。母は姉のパートナーに会って、歩き方を後ろから眺めたらしい。「まぁ、いいんじゃない」という答えだったという。何がまぁ良かったのか、母が祖父の言葉から何を感じ取って眺めたのか、今度ちゃんと聞いてみようと思う。 Time & Style Milan よみがえる小倉織の物語小倉駅から南へ 7kmほど離れた里山に、平家の落人伝説の残る猪倉集落があります。今では海外にも知られるようになった小倉の 築城則子さん「遊生染織工房」名産品「小倉織」復興の物語は、ここから始まりました。 丘の上に 500年前から建つといわれる阿弥陀堂は、クスの大木に守られながら集落の歴史を見守ってきました。5つの市が合併した北九州市はかつて豊前国と筑前国に分かれていて、猪倉集落はその国境にあたります。金山川を遡ると細川忠興の金山跡があり、鉱山開発には小倉のキリシタンが協力したとも伝わります。築城則子(ついきのりこ)さんの「遊生染織工房」は、集落の奥に建つ昭和初期の民家を工房に活用しています。築城さんは草木染めに使う草木を探していた時に、空き家だったこの民家を偶然見つけたそうです。 「小倉織」を家具の張地に活用しているTime & Styleの吉田安志さんと一緒に工房を訪ねました。小倉に生まれた築城則子さんはジャーナリストを志し早稲田大学文学部で学びましたが、築城さんの心を捉えたのは能舞台できらめく装束の世界でした。世阿弥の『風姿花伝』などを研究しながら能楽堂に通い、やがて染織作家としての道を歩み始めます。故郷小倉の染織研究所で基礎を学び、久米島紬、信州絣織など各地で伝統的な織物の研鑽を積みました。やがて築城さんの中に、能衣装のようにはっきりとした非日常的な線を描きたいという欲求が高まっていきました。 色合いの微妙に異なる糸によって描かれた縞模様のグラデーションには、糸に刻まれた「時」が封じ込められているようです。 築城さんは1984年に小倉織を復元すると、翌年、日本伝統工芸展に初出品しました。小倉織は日本の工芸として認められ、築城さんの作品は 2004年に東京国立近代美術館、2006年にはヴィクトリア &アルバート博物館にも収蔵されました。2014年小倉織復元 30周年記念展が北九州市立美術館でひらかれ、2016年はミラノ・サローネへの出展を果たします。築城さんは主に工房周辺に自生する草木を使い、日々木綿の糸を染め続けています。木綿糸は絹糸に比べて染まりにくく、特に紫根染めは寒い時期にしか染められず、年に2〜3回が限度です。深い紫に至るまでに15年かかることもあり、年ごとの色の変化が縦縞のグラデーションを描き出します。かつて紫が公家にしか許されない「禁色」とされた理由も、自ら染める中で実感できるそうです。額田王は紫草を恋の歌に詠みました。「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」。紫草は九州では筑紫野、京都では金閣寺に近い紫野に産地があり大切に守られてきました。能装束にみせられて織物の世界に入った築城さんは、 「非日常の中にある美しさ」を大切にしています。工芸は日常の道具であるものの、その表現の先に広がるのは非日常へのあこがれの世界なのだそうです。作品づくりは、色鉛筆によるスケッチから始まります。自由に色で遊びながら、集落に降る雨音を感じ、チェロの音に耳を傾け、色と音の織りなすハーモニーが縞模様に投影されていきます。築城さんは北九州の人々の一本気で筋を通す気質が、美しい縞模様を生み出したのではないかと感じているそうです創作の秘密が詰まった「整経(せいけい)」の部屋。独特の縞模様はここで生まれます。整経とはタテ糸を準備し順番に巻き取っていく工程のことで、築城さんは1cmあたり60本、幅 35cmの反物においては 2200〜 2500本ものタテ糸を使います。これは通常の手織物の約 3倍にあたり通常の整経機では対応できないため専用のものを制作しました。作品のイメージを色鉛筆などでスケッチしても、実際の糸の色味を見ながらでないと最終的なデザインは決められません。糸の色や濃淡を探りながら、築城さんは三日三晩部屋にこもりまだ誰も見たことのない縞模様を探し続けています。築城さんは古い小倉織を再現するために、そのルーツを探りました。徳川美術館には家康の鷹狩の羽織が残され、東京の永青文庫では利休尻ふくら茶入の箱に小倉織の紐が使われていました。豊前小倉藩を幕末まで治めた小笠原家はもともと信州を基盤としていたことから、名産の真田紐がルーツと築城さんは推察しています。力強い縞模様を表現するため築城さんはヨコ糸の 3倍のタテ糸を使います。しかしその分だけ抵抗が増し綜絖 (そうこう)は非常に重くなります。試行錯誤を重ねながら、8枚の綜絖(ダブル綜絖 4枚)を使いリズムをとりながら筬(おさ)を力強く打つという、独自の織り方を編み出しました。 Time & Styleとの出会い Time &Styleの吉田龍太郎さんが遊生染織工房を初めて訪れたのは10年ほど前。それをきっかけに機械織の小倉織椅子張地が開発されました。その後建築家 隈研吾さんが工房を訪ね、築城則子さんがテキスタイルのデザイン監修をつとめる「小倉 縞縞」とのコラボレーションが実現。「KUMASHIMA」が誕生します。2023年 5月には Time & StyleAtmosphereで発表会がひらかれました。 KUMASHIMA「光放つ葉」を張った隈研吾さんデザインのソファ「KA」。 KUMASHIMA「闇の気」「深い森」を張った隈研吾さんデザインの「FU」。 うどん文化が根付いた小倉には、沢山の美味しいうどん店があります。築城則子さんのおすすめは、到津の森公園近くの「こんぴらうどん」。手打ちうどん定食を頂きました。おかずの1品に選んだのは、小倉名物の「床煮(ぬか炊き)」。イワシやサバなどの青魚をぬか床を入れて炊いたもので、骨まで柔らかく臭みがありません。北九州で多く獲れる青魚を美味しく食べる工夫だそうです。 ヴェネツィアにはスウィーツ(お菓子)のお店が多い。食べるこ とに興味がある人なら、たぶん、そう感じるはず。観光客の重みで島が地盤沈下していくのではないかと思われるほど混雑するサンマルコ広場からリアルト橋周辺一帯には、飲食店や土産物屋がきりなく軒を連ねていて、その中には様々なお菓子がウィンドウを飾る店が何軒もあります。また、こうした観光名所から少し離れたところでも、スウィーツのお店に出会うことになります。そこに並ぶお菓子は、日本の「洋菓子店」のそれとは随分と雰囲気が違っています。イチゴのショートケーキやチョコレートケーキなんてまず、見かけません。そのかわり、日持ちの良さそうなヌガーやビスケットやウェハース包み的なものが中心となっています。 その代表が、写真にあるマンドルラート(Mandorlato)。ナッツ入りのヌガーとでも言う感じで、ヴェネトの伝統菓子として大抵のお店に置かれています。ヌガーはおそらくペルシア起源と言われ ていて、その作り方の基本は次の通り。まず湯煎して流動性を高めた蜂蜜を用意。別容器で卵白を泡立てて、泡立て続けながら、固くなり始めたところに、熱い蜂蜜を少しずつ流し入れて混ぜ合わせていく。卵白と蜂蜜がよく混ざったら、予めオーブンで火を通しておいたアーモンド、それにシナモン少々を混ぜ入れる。ライスペーパー(本来は水で溶いた小麦粉を紙状に薄く焼いたもの=ウェハースの原点)を敷いたバットを用意しておき、ここに先ほどアーモン ドを混ぜ合わせたものを流し入れて平らに慣らす。その表面を覆うように、ライスペーパーを被せた後、冷ます。冷えて固まった後、きれいにに切り分けて、出来上がり。セロファン紙で包んでリボンを掛ければ贈り物に。なお、ヌガーの素材として蜂蜜に砂糖も加えるのは、砂糖が普及した後に生まれたレシピです。 ところで、このマンドルラート、そっくりなものがイオニア海の島々の一部で「伝統の名産品」として知られています。例えばザキントス島。ペロポネソス半島(ギリシア)の西岸沖に浮かぶ島で、長靴型のイタリアのかかとの先端と、遥かに南下したクレタ島のちょうど中間ほどに位置する島です。中世以来ヴェネツィアの海上航行にとって戦略的重要性があったため、ザキントス島はクレタ 世紀末から 世紀末までヴェネツィアの支配下に置かれ、 この間に島は大いに繁栄し「小さなヴェネツィア」と呼ばれるまでに。「島の名産マンドルラート」は、その時代の遺産です。 このように植民地とされた地域には、かつての宗主国の食文化が思いもかけない形で残されている場合が珍しくありません。な同様に 15 18 ザキントス島と伝統菓子マンドルラート。 (西暦 10 世紀末〜 ので西欧食文化史を探っていくと、ごく自然に、西欧列強が進出していった地域の食文化についても探っていくことになります。その過程で出会う歴史の光と影が、それまで見えていた世界の色彩をより深くより色濃い映像へと変えていく。だから探求が止められないのです。 ところで、このお菓子、先に触れた作り方の基礎が生まれたのは、サーマン朝期 11 世紀前半)のイラン(ペルシア)だと言われています。アーモン ドとかピスタチオは言うまでもなく、あちらの一大特徴だし、卵白と蜂蜜の凝った下準備の仕方も。そしてウェハース的なるもの。こちらは世紀の初め頃、フランスやフランドルで専門職人のギルドが誕生していることが注目されます。いずれにしても、こうした洗練された味覚を生み出す「東方の文化」に対して、当時の欧州は強いあこがれもって仰ぎ見ていました。中世からルネサンス期にかけてヴェネツィアは、西欧諸国に溢れていたこの「東方への強い憧れ」を商売の種としたということです。だから、当時彼らが身につけた衣装も、今に残るあの建築も、さらにはスパイスからお菓子に至るまで、東方の香りが一杯だったのです。そういえば、バ 12 ブル期以前の我々も、ひたすら西欧の文物に憧れて ……。 で、ここで話はヴェネツィアの砂糖へとつながっていきます。サトウキビを素材とする砂糖作りは、インドからペルシアを経て広くイスラーム圏に広まっていったもの。そのため、ルネサンス期に至るも西欧で砂糖は、王侯貴族のみが口にすることが出来た「東方からもたらされる舶来の高価な貴重品」でした。これは食の世界史の中でも重要な史実です。貴重で高価な品であったからこそ、東方からの文物の欧州最大の窓口であったヴェネツィアは、その輸入から、やがては植民地を支配しての生産へと乗り出す 14 に至ることになるわけです。「高価な品をできるだけ独占的に扱うことで大儲けする!」戦闘的商業都市国家ヴェネツィアの基本路線です。今のニッポンは、ヴェネツィア史に学ぶべきことが山ほどあるように思われます。 このように西欧の医と食に大きな影響を及ぼしたイスラーム社会における砂糖の社会史を知りたければ、東大と早稲田で教授を務めたイスラーム学の大物、佐藤次高『砂糖のイスラーム生活史』(岩波書店、2008年)をどうぞ。本書の英訳版並びに氏の研究論文(英語)は、多くの欧米の食文化史の専門書で引用されていて、先生はこの分野の数少ない世界水準の日本人研究者です。 前回お話した塩と同様に砂糖についてもヴェネツィアは、その海上交易ネットワークを通じて、盛んな取引を行い始めます。では、当時欧州にもたらされた砂糖は、どこから運ばれてきたものだったのか。誰がどこでサトウキビを栽培して、砂糖造りを行っていたのか。その栽培には、亜熱帯的な気候風土と、厳しい収穫作業に耐えうる多数の人手を必要とします。また、その精製過程では、大量の水と燃料(薪)が欠かせません。となると、欧州の大半の地域はこれにあてはまらず、その生産地は、限られてきます。当時欧州にもたらされた砂糖が作られていた主要な地域は、以下の通りです。 まずはキプロス島。世紀に生産のピークをむかえていて、その生産量は年間約500トン前後と推定されています。当時欧州では砂糖に関してこの島が最も高品 ヴェネツィアの支配地域(黄色)と交易路。 早稲田大学 エクステンションセンター 中野校 西欧食文化ヒストリ 2025年春講座が開催されますー (ホスピタラー騎士団)、フランス貴族、そして、 いで、シチリア島。9〜 11 ルディ(本連載 2024年 (水)からスタートする早稲田大学エクステンションセンター中野校での講義の中で、その大きな構図をお話しするつもりです。 ムの支配下にあり、その先進的な農業技術が導入されることで砂糖作りの基礎ができあがっています。そしてイベリア半島(スペイン)では、ヴァレンシアとグラナダ周辺。そして北アフリカのモロッコといったところが欧州向けの砂糖の主要な産地でした。さらにクレタ島では、ヴェネツィア商人がサトウキビ農園を経営し、その労働力として黒海沿岸地域から連れてこられたスラブ人奴隷が使役されていたとのこと。これが後のカリブ海やブラジルのサトウキビ・プランテーションにおけるアフリカ奴隷使役のさきがけとなった、という仮説が近年通説となりつつあります。 前回触れた塩の交易と同様ヴェネツィアは、こうした諸地域から自国の船団で砂糖をヴェネツィアに運び込み、これを更に様々な用途に向けて精製し、高品質の砂糖を生産する技術を確立していきます。注目すべきは、こうしたお金のかかる、また、危険負担も大きな事業を、背後から金融の力と独自の情報交換網で支えたのがユダヤ商人(金融業者)だったという点です。彼らは、コロンブス以降大きく展開するカリブ海諸島やブラジルのプランテーション開発にも深く関わっていて、当時の製糖業の影の主役といっていい存在でした。これが大物「ベニスの商人」の歴史的実像です。ヴェネツィアのユダヤ人はその大半がイベリア半島から逃れてきたセファ質な砂糖を生み出す最重要供給地であると考えられていました。面白いのは、その生産者たちの顔ぶれです。十字軍の主役でもある聖ヨハネ騎士団 ヴェネツィアの大商人コルナーロ家。こうした歴史ドラマに出てくるような面々が砂糖生産をめぐって熾烈な競い合いを繰りひろげていました。次 世紀にかけてイスラー 11 7月〜 月号)であって、彼らはその後も、様々な形で 欧州の金融事業で重要な役割を果たしていくことになります。 3回に渡ってヴェネツィアの富の蓄積の原点を探ってきたわけですが、その基礎が「塩と砂糖とスパイス」であったというのも、驚くべきことだと思いませんか。実は、このスパイスをめぐる交易と欧州列強間の競争は、実に様々な側面で、現代の我々に直結する重要な問題を私達に教えてくれます。これについては、5月 大原千晴さん 全5回2025年5月21日、28日、6月4日、11日、18日(毎水曜10:40.12:10) 第1回 第2回第3回 第4回 16世紀の砂糖精製場。 21 日 欧州ルネサンス宮廷宴席。料理や食材、歌、踊り西欧の味覚を変えた塩・ハチミツ・砂糖の歴史モノ人間社会史「モノの歴史研究」最前線建国途上のアメリカ合衆国。スペイン・イングランドそしてフランスが残した今に続く食文化をめぐる足跡仏料理の変革者、ヴァレンヌ、カレーム、そして、エスコフィエ 世界に冠たる仏料理への発展史第5回 (道具や調度 )から探る、食卓・台所・宴席の ※詳しくは左下のリンク(早稲田大学エクステンションセンター)をご覧ください。 手織の技を機械織に置き換える 築城則子さんが復元・再生した小倉織を広く伝えるため2007年、現代の小倉織ブランド「小倉縞縞」が誕生しました。昭和初期に100軒以上あった小倉織の工場・工房が絶えてから、半世紀を過ぎての復活です。築城さんは「世界に認知されても、手織だけでは普及に限界があり途絶えてしまう」という危惧をもっていました。そのディレクションにより、手織の風合いをいかにして機械織に移植するかが検証されます。機械織で復活した当初は市外の織物工場で織られていましたが、展開が進むにつれ引き合いも多くなり自社工場が設立されました。 輪転機を回していた新聞社のビルは建物が頑丈で、重い織機や整経機を設置するのに適していました。織機には古いタイプのレピア織機を使用し、タテ糸をヨコ糸の 3倍程度にするなど手織と同じ仕様の生地が織られています。 ▲タテ糸が切れるとドロッパーという金属板が落ちて自動停止します。▼手織に使う「杼」の代わりに、レピアがヨコ糸を引っ張って往復します。 工場長の三満田巧さん(右から 2番目)は福岡県内でキ ュレーターとして活躍され、織物は初めての挑戦でした。 小倉織はタテ糸の密度が高いため糸が切れたり毛羽立ち が出やすく、糸のテンションや織りのスピード調整に気を 配るそうです。手織と同じく綜絖は 8列あり、糸は最も細 いもので 60番双糸を使います。 小倉織の継承者となる築城弥央さん(右端)は国内外への情報発信を積極的に進めてきました。立ち上げ当時は外部で織っていたものの、多様な注文が増えるにつれ自社工場が必要と感じたそうです。代表取締役の窪田秀樹さん(左端)は元八幡東区長、会長の渡部英子さんはジャズピアニストと、様々な才能が集まり従来の織物にとらわれな い新しい試みが生まれています。小倉の街のあちこちで見かける「小倉 縞縞」は、名産品として市民権を得ています。左は小倉駅に展示された SDGsをテーマにした風呂敷。小倉織は木綿100%ですが、これはヨコ糸に回収した衣類を原料に生産された再生ポリエステルを使っています。関門橋に近い平家ゆかりの神社 甲宗八幡宮(右)では、小倉織のお守りや御朱印帳を提供。小倉織の袴は「槍も通さない」といわれ災難よけとして珍重されていました。北九州空港(上)では築城則子さんが空港をイメージしてデザインした小倉織オリジナル柄「空と大地と」のグッズを販売しています。 台北マリオット・ホテル(台湾) 小倉縞縞のテキスタイルは、海外の建築空間にも採用されています。2016年には台北マリオット・ホテルのレストラン 3店舗にオリジナルのテキスタイルを提供。壁面や照明に使うことで、多彩でありながらも大人なラグジュアリー空間が演出されました。 ミラノ・サローネ(イタリア) 2016年のミラノ・サローネ「INTERNI OPEN BORDERS 2016」では、築城則子さんの手織作品と小倉 縞縞のテキスタイルが出展されました。建築家の白川直行さんとコラボレーションすることで、小倉織のしなやかさ、強さ、動きを表現させる立体的なインスタレーションを歴史的な建造物の中に創出しています。完成したばかりの BIZIAKOKURA、エントランスホールに設けられたオブジェ「龍神昴」は建築家 ヤン・ヘン・チェンさん(Yang HenChen)のデザイン。天に昇る龍をイメージされたそうです。を人工染料で可能なかぎり再現することを目指し、染色工場との試行錯誤から生まれました。新型の整経機は、築城則子さんの手織の「整経」を機械で再現するために導入されました。最大で一度に16種類のタテ糸を反物の幅いっぱいにリピート無しでデザイン通りに整経でき、タテ糸の微妙な色の違いを利用したグラデーションも可能。小倉縞縞は15年ほどの間に約150柄を開発されたとのことです。小ロットの特注生地も手掛け、企画、デザイン、試作、生産までを一貫して行っています。用途にあわせ、糸 の太さや密度を調整することもできます。 Time &Styleとのコラボレーションは、第1弾の縞模様の椅子張地、第 2弾の「KUMASHIMA」を用いた家具に続き、第 3弾としてソファなどの張りぐるみに適したボリュームのある生地が開発されました。木綿とウールの混織生地で、2色の糸を合わせた太い杢糸を使っています。「ハイレベルな国産家具の多くには、未だにヨーロッパの生地が使われています。Time & Styleは天然木や金属パーツ、皮革など素材の国産化を進めるなかで、張地も日本製を使い、それを世界に発信していきたいという思いから小倉縞縞とのコラボレーションを始めました」と吉田安志さんは語ります。2025年 4月8日〜13日のミラノ・サローネ期間中、ブレラ地区のTime & Style Milanでは「Time & Style ×小倉 縞縞」の新作生地を張った家具を発表し、あわせて築城則子さんの手織作品も展示されました。パーティでは溝上酒造と小倉縞縞のコラボから生まれた「天心介」が提供され、世界各国の来場者に喜ばれました。 小倉城の南側にある直営ショップ「小倉 縞縞 本店」では、生地の反物をはじめ服飾、バッグ、小物、カーテンなど多彩な製品が並びます。着心地の良いシャツやワンピースは、博多区中洲のマテリアルとコラボレーションしています。縫製にこだわった小物などを手に取ると、丁寧な作りが伝わります。 KUMASHIMAを使ったオーダーカーテンやテーブルセンター、クッションなどインテリアアイテムにも力を入れています。 築城則子さんの自宅で吉田安志さんの歓迎会がひらかれました。築城邸には Time & Styleの家具や EVOLのカーテンが使われています。小倉 縞縞の窪田社長、築城弥央さん、三満田工場長、ヤン・ヘン・チェンさんも参加して、小倉名物のフク刺しや溝上酒造の純米酒「天心」、地ビール「MOJIKO BEER」はじめ手料理を満喫されていました。北九州空港「ラウンジひまわり」の壁を彩る「空海扇運」(くうかいせんうん)。末広がりの扇面をモチーフにしています。小倉 縞縞のテキスタイル「藍輪舞」と、建築家ヤン・ヘン・チェンさんによるオブジェが融合しました。 小倉駅周辺に佇む松本零士作品のキャラクターたち。『銀河鉄道 999』などで知られる松本零士さんは、小倉で少年期を過ごしました。6歳から漫画を描き朝日新聞の印刷工場を遊び場とした松本少年は、松本清張に会ったこともあったそうです。小倉駅北口には松本零士、畑中純、北条司など小倉ゆかりの作家を紹介した『北九州市漫画ミュージアム』があります。 西日本総合展示場 設計:磯崎 新小倉駅北側の海岸に近い旧魚市場跡に建てられた「西日本総合展示場」(1977年)。隣接する北九州国際会議場、アジア太平洋インポートマート (AIM)と共に「国際コンベンションゾーン」の中核施設です。水をテーマとしたデザインは、関門海峡を行き来する船を思わせます。吊橋のようなポールとワイヤーで屋根を吊り、幅 42m長さ173mの無柱空間を実現しています。 垂直のポールはやじろべいのように、地面のカウンターウェイトと屋根の重量バランスをとっています。 写真「公益財団法人 北九州観光コンベンション協会」。 16本のポールで屋根の126点を吊ることで、天井の梁を細くして圧迫感をなくしています。屋根に張られた透過性の膜は、光線で輝く水面の皮膜をイメージしたそうです。冬季は大展示場の一部がスケートリングとして利用されています。 ドラゴンシリーズ 126 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 未知の可能性 僕らが日本で「ものづくり」に挑みながらできること、で きないことは何か。「可能か、不可能か」、それは「できるのか?できないのか?」 —これまでずっと、そういう問いを自分に言い聞かせながらやり続けてきた。 都度の岐路で判断を下しながら進んできた道筋は、振り返ってみれば偶然の連続でもあり、自分自身でもその不可解さに戸惑うことがある。まったく根拠も確信もないまま、何かに挑戦することがある。自分でも「これは可能なのか?」と確信を持てているわけではなく、どちらかというと「降ってくるような根拠」に頼るしかない。だからこそ、その根拠を後付けでこしらえて、周囲の人々や会社、金融機関を説得するための作文をしてきた。 1992年にドイツから日本に戻り、紙で家具を作り始めたのが始まりだった。今では北海道の自社工場で木工製品を手がけるようになった。そして、全国各地の協力工場や地場産業、伝統工芸の工房や職人たちとともに、多様な製品をデザインから製品化し、国内外の自社店舗や世界各地のパートナーを通じて販売するようになった。仕事の領域は広がっていったが、自分た ちの意識の立ち位置は、当初とまったく変わっていない。年前、小岩で倉庫兼オフィスとして借りた橋本金属工業の 階の貸工場から始まり、今に至るまで、感覚的な本質はほとんど変わっていない。金属の削りカスと埃にまみれて過ごした日々の風景は、場所こそ変わったが、その感覚は今もなお、自分の身体の中に確かに残っている。 たぶん、それが僕らにとって本来の心地よい場所なのだろう。周囲の人たちはそうではないかもしれないが 年代前半、紙の家具の限界を感じて 行してから、もう 年以上が経つ。その後、必然的な流れとし て北海道で木工家具の製作に取り組み始めた。そして、自社 工場を立ち上げてから年が経ち、今では製材から乾燥、加 工に至るまでのすべての工程を自社で内製化する、日本では 90 2 34 ……。 M D Fの家具へと移 30 17 珍しい家具工場となった。 それが可能だったのは、日本という島国が森林資源に恵まれ、良質な木材を有していること、そして全国各地に今も多くの伝統的なものづくりと産業が根づいているからだ。僕らのまわりには、日本全国に素晴らしい天然素材と職人たちが存在している。この偶然と必然の重なりの中で、僕らのものづくりは着実に進化してきた。 これまで、木工製品を中心に、成型合板や曲木の技術を活かした椅子など、地域性を反映した製品を各地の協力工場とともに作ってきた。木枠にウレタンやフェザーバッグを包み込み、イタリアや北欧などから輸入したインテリアファブリックを張ってオリジナルソファを製作することも行ってきた。 木工製品からソファまで、総合的なインテリアプロダクトを全国の協力工場と連携して製作してきたからこそ、広範な製品構成を実現することができた。さらに、全国の地場産業では、数百年の歴史を持つ陶磁器、漆器、鋳物、和紙、指物など、伝統工芸の工房や職人たちとの協力によって、日本の伝統に根ざしたオリジナルプロダクトを数多く制作してきた。国内で自分たちが製品づくりに関わることは、製品一つひとつに共通した考え方、感情、感性を宿らせることにつながる。それが、多様で多彩な日本の素材や技術によって生まれる製品に、同じ「匂い」を持たせるための、必要不可欠な要素だと考えている。 こうした多様な製品づくりの中で、長らく「できないこと」「不可能」として感じていたことがある。それが、日本における椅子の張りやソファ用の張り生地としてのインテリアファブリックの製作だった。ソファ用の生地は、高い耐久性と豊かな素材感が求められ、それが製品としての佇まいを決定づける。僕らにとって「日本ではできないこと」の一つと感じてきたのが、素材感に富み、独自性の高い、日本ならではの感性と技術で織り上げる「インテリア・テキスタイル」の開発だった。日本の生地を作りたいという願いはあっても、ソファや椅子、つまり西洋的なインテリアの歴史が浅い日本には、これまで長い時間をかけても、高品質・高感度で国際的なインテリアに対応できるレベルのテキスタイルは存在しなかった。 日本でものづくりを進めていく中で、家具製作の木工技術については試行錯誤を重ねながら、伝統的な指物や木組、仕口、そして素材としての木材について、古典建築や宮大工、指物師の技術から多くを学んできた。また、実際に自分たちで木工家具を製作し、そのプロセスを繰り返し検証することで、製品の完成度や品質も少しずつ向上してきた。さらに、手間のかかる作業も、近年の機械化により効率的に行えるようになり、機械化と並行して製造技術の向上も可能となった。 しかしこの機械化は進化であると同時に、人間が一度その便利さに頼ってしまうと、元々持っていた技術や精神は失われ、それを取り戻すのが困難になる。木工加工に限らず、機械化やデジタル化による効率化は、本質との間にねじれを生じさせる。 これまで、海外から来日する多くの取引先やデザイナーたちから、「なぜ日本には着物という素晴らしい織物の伝統があるのに、ソファや椅子といった製品には、わざわざ欧米から輸入したテキスタイルを使うのか?」という、ある種残念とも言える声を、長年黙って聞いてきた。日本には確かに美しい伝統的な織物文化があるが、それは主に着物や帯といった領域に特化しており、その歴史と技術は現代のインテリア・テキスタイルと結びついてこなかった。 欧米のインテリア・テキスタイルと日本のテキスタイルには、品質や質感において大きな隔たりがある。イタリアや北欧が築いてきた高度な技術と感性に、日本で作られるインテリアテキスタイルが追いつけるとは、これまで想像すらできなかった。 業界の人間であれば、欧米と日本のテキスタイルの根本的な違いを理解しているはずで、その見えない大きな隔たりが、いずれ融合したり適合するような未来が訪れるなどとは、到底信じがたいほどだ。その根本にある「存在理由の違い」こそが、埋めることのできないほど大きな壁として立ちはだかっている。 それでも、もしこの障壁を乗り越えることができなければ、僕たちがこれまで進めてきた「日本の家具」の根本的な構成の完成には至らない。 日本の伝統織物と西洋のインテリアテキスタイルとの間にある、決して小さくない文化的背景の違い。その大きな壁を乗り越え、「世界標準を凌駕する、日本初のインテリアテキスタイルの開発」へと、僕たちは挑むことになった。 北九州国際会議場 設計:磯崎 新 国内外のゲストを迎える迎賓館として企画された「北九州国際会議場」(1990年)は、西日本総合展示場の向かいに建ちます。 メインホールの屋根には大波のうねりのようなコンクリート・シェル構造の屋根が採用されました。外観には、スタッコ、アルミ・カーテンウォール、花崗岩など質感や色合いが異なる材料を使い分けられ、つくばセンタービル(1983年)を思わせます。メインホール(左)などの内部にも屋根のうねりが反映され、イベントホール(上)の天井面には夜光虫を思わせる照明が浮いています。国際会議室のある黄色い棟は、岩田学園(大分市)をほうふつとさせます。黄色やピンクなどが採用されたのは、関門海峡を往来する船が視認性を良くするためカラフルな色を使っていることからといわれます。 30 南風なれども B 30 トランプ関税が世界を騒がせていますが、日本へのディールはやは り軍事費の増額に終始するようです。航空自衛隊が機導入する予定の F35は一機約 150億円、機買うと 6300億円、寿命とされる年間にかかる整備費、燃料代、改修コスト、パイロットの訓練などをあわせると一機あたり 600億円近くが見積もられています。つま 42 り全部で兆円近い費用がかかるわけです。 航空戦が無人機やドローンへとシフトするなか、この投資が国防にどれくらい寄与するかは分かりません。それより大切なのは多額の武器やソフトウェアを購入することかも知れません。 昨今お米が異常に値上がりする要因は、流通のせいではなく国産米の 42 生産量が足りないからです。農水省は事実上の減反政策をやめませんから、これからも上がり続けるでしょう。輸入米の関税は一キロあたり 340円程度ですが、関税を払っても輸入米が安くなったためカルフォルニア米の輸入が急速に増えています。主食である米を適正な価格で安定供することは最も基本的な国の役割であり、主食を自国生産することは食料安全保証のうえで最も大切なことです いま「経営・管理ビザ」を利用した外国人の民泊経営が話題となっています。経営・管理ビザは日本で起業したい外国人の方のためのビザで、 その 59 青山ナシヲ DNA 30 500万円以上出資すれば、日本に滞在しながら会社経営できます。 東京港区の新築マンションの多くは外国人の所有で、主に民泊に使われているのが現状です。またヴィンテージなマンションはオフィスや倉庫に使われます。実際、南青山を歩いていると聞こえてくるのは外国語ばかりで日本語は珍しいほど。ベビーカーを押すカップルも増えています。役場の住民票には現れない実質的な住民の入れ替わりが確実に進んでいるのです。 もちろん自衛隊や日米同盟は大切ですが、こうした状況を体感していると、軍事による国防にいくら予算をつぎこんでも意味がないとさえ思ってしまいます。予算の掛け方にバランスの悪さを感じてしまうのです。 日本国の姿が大きく変わることは避けられないことと感じます。日本には古墳時代から、沢山の方が海を超えてやってきました。最新の 研究では、日本人の DNAに占める縄文人、弥生人の割合は %程度で、ほかはヨーロッパから中東、東アジア、東南アジアまで様々 な祖先が入り混じっているそうです。松本清張さんは奈良飛鳥の遺跡にゾロアスター教が関連していると唱えました。様々な文化、宗教、人種が入り混じったグローバルな飛鳥の世界が想像力をかき立てます。 李祖原さん(台北)の掛け軸と、石山修武さんの彫刻「ドラゴン」 ▲ 彫刻家 高岡典男さん「雲の座または雲形の座 Cloud seat」▲ 増井真也さん、田村和也さん「源景」、「左官のかまど 3号竃」など ▼ 椅子モデラー 宮本茂紀さん「座椅子」▼ 建築家 藤野高志さん「あるく根」 ▲ 彫刻家 木本一之さん「伊勢・五十鈴川・石の椅子」 の Aと B ▼ 建築家 門脇耕三さん「谷に架橋(プロトタイプ)」