被災された方の生活を支える
〈令和6年能登半島地震災害義援金〉
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https://collaj.jp/春分 2025 点と線、下関・門司・小倉をつなぐ 日本遺産 関門ノスタルジック海峡本州・九州を隔てる関門海峡で向かい合う下関と門司の街には、日本が近代国家建設へ向け躍動した明治・大正のレトロな建物が、まるで時が止まったように遺されています。今は失われた建築デザインの手法から多くを学ぶことが出来ました。 関門海峡 下 関 門 司 山口県 下関 唐戸 歴史の転換点を見つめた海峡の街 山口県下関市の唐戸は、関門海峡を挟んで福岡県北九州市門司と向かい合う街です。九州と瀬戸内をつなぐ長州藩の港町、北前船の寄港地として発展し、朝鮮通信使が立ち寄る外交の拠点でもありました。明治時代にはいち早く英国領事館が置かれ、行政や貿易の中心地として栄えました。港の近くには、下関南部町郵便局と旧秋田商会ビルが建ちます。明治の終わり頃になると下関〜釜山航路が開通し、新橋〜下関〜釜山〜奉天を列車と船で結ぶルートが完成すると、大陸への玄関口として栄えました。 旧下関英国領事館 旧下関英国領事館は明治 34年(1901)に開設され、明治 39年には日本最古の赤レンガ造の領事館が完成しました。下関への領事館開設を進言したのは駐日英国公使アーネスト・サトウで、初代領事にはフランク・ウィリアム・ウォルター・プレイフェアが着任。設計は長崎英国領事館にも携わったウィリアム・コーワンで、1階は領事室などの執務空間。2階には寝室や居間、浴室が設けられ、使用人の付属屋が隣接しています。 下関南部町郵便局 下関南部町郵便局はルネサンス様式の左右対称コの字型の建物です、1階はアーチ窓、2階はペディメントを持つ窓が並び、赤レンガ造ですが表面はモルタルで仕上げられています。 下関南部町郵便局は、現在も使用されている最古の郵便局といわれます。明治 33年(1900)に建てられ 1階は郵便、2階は電信を扱いました。設計は辰野金吾の教え子 逓信省技師 三橋四郎で、正面玄関の左右には柱頭飾りのついた角柱を配しアーチ型のペディメントを設けています。三橋四郎は独立後、中国・ロシアの領事館を多数設計し、ウラジオストク領事館の建設中に 47歳で客死しました。旧下関英国領事館の向かいに建つ関門ビルは、昭和 6年(1931)関門汽船の事務所として建てられた鉄筋コンクリート建築です。玄関はビルの隅切り部分に設けられ、その上にガラス張りの窓を連続させています。玄関脇にはモダンクラシックな柱が立ち、最上部には逆三角形の装飾が施されセセッションの影響が感じられます。このビルが建てられた当時は港湾の改修事業が進められており、新しい時代のモダン建築として設計されました。関門汽船は明治 22年の創業で、今も関門連絡船や巌流島連絡船を運航しています。 キミに届くまでの距離はどのくらい? Vol.69 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 旧秋田商会は港に近い場所にあり、ドームの上に灯るライトは船の目印となっていました。屋上には離れの座敷があり、日本庭園「棲霞園」が設けられています。近くには詩人 金子みすゞが勤めていた上山文英堂がありました。 秋田商会は明治38年(1905)の創業で、満州、朝鮮、台湾など25カ所に支店を持ち木材や食料などを扱う総合商社でした。日清・日露戦争で財を築き大正 4年(1915)西澤忠三郎の設計により新社屋が建てられました。西日本初の鉄筋コンクリート造事務所建築で、西澤忠三郎が中国旅順の関東都督府で得た知識を導入したと考えられています。1階は接客カウンターを設けた、広い事務所空間です。 2、3階は和室の居住部で、鉄筋コンクリート造の内部に天井板を張り畳を敷いています。造作は京阪神の宮大工後藤柳作によると推察され、屋上にあがる木製の螺旋階段も作られました。和室は襖で仕切り家族の居室として使われましたが、柱や襖を外すと 50畳以上の大広間になります。窓が低くまで設けられているのは、和室に光を取り入れるためだと考えられます。大正期になると明治期の純洋館から、和室を備えた和洋折衷の洋館が建てられるようになります。秋田商会はその移行期を示した貴重な建物です。 秋田商会の創設者秋田寅之介は日清戦争中に食料、雑貨、木材を台湾に輸出し、大陸進出の波に乗り、満州へ販路を広げて成功しました。30隻以上の汽船を保有し、下関、対馬、中国を結ぶ海運業をはじめ、軍の要請で広大な自社林の材木を大陸へ供給します。市議会議員や衆議院議員としても活躍し、下関と大陸を結ぶ広域なビジネスを体現した人物のひとりでした。 関門海峡 下関唐戸の桟橋から連絡船に乗り、対岸の門司港に向かいます。ほぼ 20分間隔の連絡船は大切な交通手段です。トンネルや橋が開通するまでは貨車を積んだ外輪船や大型客船が運航されていました。関門海峡の潮流の最大速度は10ノット(時速 18.5km)にも達し、そこを1日最大1000隻が行き交います。太平洋戦争中、米軍は約5000発の機雷を海峡に設置しました。戦後は自衛隊による機雷除去が進められ、現在も作業は続いています。 福岡県 北九州市 門司港へわたる 大陸の玄関口として栄えた街 和布刈神社 関門大橋の橋脚のたもとに、和布刈神社(めかり神社)が見えます。創建は1800年前と伝わり、潮の満干を司る「瀬織津姫」を祀っています。関門橋、関門トンネルの周辺が、壇ノ浦の戦いに敗れた平氏が入水した場所とされています。対岸までの距離は約 700mで、関門海峡で一番狭く潮の早い難所です。幕末には長州藩が外国船を撃つための砲台を築き、1863年海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダ艦船を警告なしで砲撃しました。報復として西洋列強は連合艦隊を結成し、彦島や前田の砲台に陸戦隊を上陸させて占拠・壊滅します。和布刈神社で旧暦元旦の深夜に行われる「和布刈神事」は、3人の神官が松明、手桶、鎌をもって海に入り、わかめを刈って神前に供える行事で、近年まで「見ると目がつぶれる」秘儀とされました。少年のころ対岸の下関に暮らした松本清張は推理小説『時間の習俗』でこの神事をアリバイ工作に利用しています。 Event Information ロッシュ ボボア新作発表会 "BAMBOO MOOD" 2025年 2月 20日 ロッシュ ボボア トーキョー(東京・北青山)にて、新作 "BAMBOO MOOD"の発表会がひらかれました。 "BAMBOO MOOD"をデザインした Jiang Qiong Er (ジャンチョンアー)さんは、上海でアートとデザインを学んだのちフランス・パリにわたりデザイン・建築を修得。2013年にはフランス芸術文化勲章、2016年国家功労勲章を受章しました。大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、パリ装飾芸術美術館、ギメ東洋美術館などに作品が所蔵されています。 他にも QISSチェアや LOVEソファ、ENVERGUREソファ、PARESSEベッドなど、グラマラスなフォルムの家具が揃いました。暮らしにうるおいを与える独特な色づかいも魅力です。 門司港駅大正 3年(1914)に建てられた門司港駅。石造風の木造建築で、左右にジャイアントオーダー(巨大な柱)を立て、天然石スレートと銅板を張ったマンサード屋根を載せています。門司港駅の前身となる門司駅は、九州鉄道の起点として明治 24年(1891)に開業しました。九州鉄道は創業当初から本州と九州の連絡運転に重点をおき、門司に本社を構えました。駅構内には関門連絡船の桟橋に直結する地下通路が残されており、最盛期には年間 880万人が連絡船を利用して行き来していました。 大時計の左右にドーマー窓、ペディメントや屋根の上の装飾的な柵など宮殿を思わせるネオルネサンス風の造作です。 くりと 中学時代の友人が 年近くアシスタントをしているお料理 教室が横浜にある。友人は大のお料理好き。ご主人が会社の若い人を連れてきては料理を振る舞い、孫たちの運動会にはお弁当を作り、掛け持ちで子供の家で料理を作っていると楽しそうに話していた。自宅でお料理を教えたいと、家を新築するときには広めのキッチンにしたとも聞いていた。その彼女が、軽い認知症になったと、共通の友人が知らせてきた。ショックだった。認知症も軽いうちなら元へ戻る。なんとか力になれないかと友人は言い、一緒に彼女と会う約束をした。が、気が重かった。3日ぐらい悩んだ。何ができるのだろうかと……そんなとき、自宅のすぐ近くで、都立松沢病院斉藤名誉院長の「人生100年時代の認知症対策」の講演があることを知り聞きに行った。行ってよかった。認知症は誰にでも起こりうること。あり のままを受け入れる。と、たくさんの患者さんを診察し、ご自身の体験も踏まえた話に不安は消えた。会いに行こう。 ありのままを受け止めよう …… 毎年のように行われていたクラス会はコロナで5年の空白があり、彼女とも年賀状のやり取りだけで会っていない。電話をかけると昔の彼女のままの元気な声が返ってきた。認知症??とは思えなかったが、話をしていくと、やはりそうか、と思う節もあった。とにかく知らせてくれた友人と一緒に会いに行くことを伝え、彼女の住む横浜近くの駅で待ち合わせをした。 5年ぶりに会う彼女は、以前と変わらぬ優しい笑顔だったが、時折不安げな様子も見せる。駅前の喫茶店で話をし彼女の家に案内してもらった。駅からは彼女のペースでゆっ 分くらい。運動が得意だった面影はそこにはなか ったが、私たちを家の中にと招いてくれた。その後二人で何回か会って、食事をしたり銀座で買い物もするようになった。そのうちしばらく休んでいるお料理教室に通いたいと、彼女から言ってきた。遠いし通える自信もなかったので、気安い返事はできなかったが、好きな料 30 20 (提供:Mika Tabei) 理をすれば、少しは自分を取り戻せるかもしれないと、見学がてら横浜にある料理教室へ出向いた。教室で料理をする彼女の姿や、仲間の方(元気な高齢者)たちとおしゃべりする姿を見て、心が和んだ。足がすくみ、会うことを躊躇っていた自分を恥じた。結局、月1回、彼女とお料理教室に通うことになった。その前日には電話で様子を確認し、「明日楽しみに」を合言葉に電話を切る。初めて手にする食材や作ったことのない料理をエプロン姿の男性と一緒に調味料を測り、玉ねぎを刻む。先生から体にいい高タンパク質の摂り方や野菜の豆知識を教わりながら、できた料理をみんなでいただく。小学校の時の家庭科を思い出しながら、片付けもみんなでやる。終わると駅前でコ 30 ーヒータイム。先生も参加しても楽しんでいる。 ひょんなことから通い始めた料理教室だが、今では彼女が欠席の時も、「参加します」と、LINEに書き込む。普段作らないパーティ用の料理やデザー 分ほどあれこれ。彼女もその時間をとて 65 トなど、楽しい料理もたくさんある。おもてなし料理を教われば、人を呼びたくなる。初めての料理教室通いは、私の楽しみ時間になっている。 2040年には歳以上の五人に一人は認知症となるといわれる。国は認知症基本法を制定し様々な施策を打ち出している。人生100年時代というが、後期高齢者になれば運転免許には認知機能検査は必須。認知症介護は大変と、生命保険会社はあれこれ不安要素を盛りだくさんに提示する。認知症に関する本もたくさん出て、ボランティア活動ではフレイル予防プログラムがいくつも組まれている。抵抗しても始まらないが、いたずらに恐れても仕方ない。あるがまま、正しく知って、明るく対処できるよう、その心がけはしておきたいと思う。 心がけ、まずは断捨離と思って戸棚を開けると ……あぁ……。 !! 三寒四温、調子も上がったり下がったりだが、暖かな春はもう少し、桜が咲けば心もウキウキ、断捨離よりまずはお花見を楽しもうきっと彼女もその方がいいに決まっている。開けた戸棚は閉めればいい。 (提供:Mika Tabei) (^-^;;;;; 北九州市門司区役所 門司港を見下ろす高台に建つ門司区役所は、昭和 5年(1930)の竣工。昭和 38年に門司・小倉・若松・八幡・戸畑が合併して北九州市となりますが、それ以前は門司市庁舎でした。 建設当時「全国に誇るべきモダンな庁舎」と報じられた門司区役所は、東京帝国大学で岡田信一郎と同期だった倉田謙の設計です。倉田謙は京都市嘱託技師を経て明治 44年に九州帝国大学技師となると、箱崎キャンパスを中心に多くの施設を建てました。当時の九州大学にはまだ建築学科が無く、大学教授ではない人物が設計した大正・昭和の大学建築郡として国の登録有形文化財に指定され再評価が進んでいます。昭和 3年(1928)、欧米各国を視察した倉田謙は、昭和 5年に工学部本館と同時に門司区役所を設計。ふたつの建物はよく似ています。他に熊本市役所、福岡日日新聞本社、久留米市役所などを手掛けました。 旧九州鉄道本社(九州鉄道記念館)門司駅開業にあわせ明治 24年(1888)、駅の南側に九州鉄道本社が建設されました。明治 22年、門司港が石炭の特別輸出港に指定されると、筑豊の石炭が鉄道で門司に運ばれ、港から大量に送り出されます。九州鉄道は各地の鉄道を傘下におさめますが、明治 40年に国有化され国鉄となります。建物はレンガ造 2階建で、長さ約 63m。中央には両面に玄関を設けています。2003年「九州鉄道記念館」としてリニューアルされ、明治の客車や鉄道ジオラマ、九州の鉄道史などを展示した博物館になりました。外壁の煉瓦は長手と小口を交互に積んでいく「フランス積み」で、1階と 2階の間には焼過ぎ煉瓦を矢筈に積んだ水平帯(胴蛇腹)が見られるなど、丁寧なつくりになっています。 1967年、世界初の寝台電車として登場した 581系は、昼の座席車と夜の寝台車を兼ねる電車として開発されました。夜は寝台特急「月光」として新大阪〜下関〜小倉〜博多を結び、昼は座席特急「みどり」として大分〜別府〜小倉〜新大阪を結びました。寝台は 3段になっていて、上段、中段は天井部分から降りてくる仕組みです。 門司郵船ビル 門司港駅の向かいに建つ門司郵船ビルは、昭和 2年(1927)に建てられた鉄筋コンクリート4階建ビルです。門司初のアメリカ式オフィスビルで、エレベーターやセントラルヒーティング、水洗トイレなど最新設備を備えました。 エーゲ海には千を超えると言われるほ ど多数の島々があり、その大半はギリシアの領海に属します。その最南端に位置し、数ある島々の中でも群を抜いて大きな島 が、クレタ島です。東西250 、南北 〜60㎞東西に細長い形の島で、面積は四国の半分弱。これで「最大」というのですから、エーゲ海は多数の小さな島々が浮かぶ「多島海」なのだとわかります。 クレタ島の中心都市は、北岸の中ほど に位置するイラクリオン。その市街の海辺から南の丘陵地帯へと5㎞ほど上った所に「千を超す部屋数がある迷宮」とも呼ばれ、色彩鮮やかな見事な壁画で知られる、クノッソス宮殿があります。紀元前2000年頃から同1400年頃にかけて栄えた古代ミノア文明(クレタ文明)の中心地です。地中海文化圏で最も重要な遺跡のひとつであり、世界中から観光客が訪れる名所です。多くの観光客にとって「クレタ島=クノッソス宮殿」であるため、それ以外の島の名所についてはあまり語られることがありません。しかし、後ほど触れますが、クレタ島は前回から続くテーマに重要な関係がある島なのです。 イラクリオンはギリシアの首都アテネから直線で約320 この両都市の間に多くの島々を抱いて広がるエーゲ海、クレタはその「最南端」に位置します。では「最南端の島」の南側はどうなっているのか。そこには島らしい島がひとつもない、広大な海が広 がっていて、クレタ島の南岸から海上を500 北アフリカ沿岸にたどり着きます。この海域は古代から「リビア海」と呼ばれていて、今でもこの呼称は生き続けています。リビアと聞けば多くの日本人にとっては、カダフィ大佐の反米姿勢、大佐亡き後の内戦による混乱、その結果として多くの難民が出ている 地域というイメージです。国土は広く日本の約その9割が砂漠という厳しさです。 そのリビアで歴史的に特に重要な場所の一つが、東部の地中 海沿岸地域にあるキレナイカ(Cyrenaica)一帯。ユネスコの「保存の危機にある世界遺産」に 指定されています。この地域は紀 元前7世紀頃から古代ギリシア人 の植民地として発展し始め、活発 な海運交易に支えられ都市文化が 栄えます。やがて古代ローマ時代 に至ると地中海沿岸域でも目立 って豊かな地域となっていきま す。その繁栄の源泉となったもの は何か。それが「シルフィウム」 km 12 4.6 。 ほど南下すると、 倍もありますが、 リビア キレナイカの古代遺跡 エーゲ海に浮かぶクレタ島 km km )というスパイスでした。食と医(特に堕胎薬)をはじめとして様々な用 (Silphium 途に用いられたこのスパイス(植物)は、キレナイカの一部地域に自生していて、他所では入手が困難だったと言われる特殊な植物です。その希少性ゆえに首都ローマ、更には帝国に属する主要な都市で珍重され、大変な高値で取引されました。当時キレナイカで発行されたコイン(金銀貨)には、シルフィウムのイメージが打刻されています。このことだけでも、古代都市国家キレナイカにとってこのスパイスが、いかに重要なものであったのか、ということがわかります。古代ローマ時代の中頃にはすでに「幻のスパイス」と呼ばれ始めていたシルフィウム。興味のある方は、本連載第134回(2022年11月号)をお読みになってみて下さい。このように地中海世界でスパイスは、今から二千年をさかのぼる古代から「ひとつの都市国家 15 16 に繁栄をもたらすほどの力がある物産」だったのです。 で、前回の続き、ヴェネツィアのスパイス交易です。中世から世紀前半頃までヴェネツィアは、東方からもたらされるスパイス交易の欧州最大の窓口となることで、欧州でも有数の繁栄を誇る都市国家となっていきます。その背景には、上で述べた「地中海世界で古代から続くスパイスへの希求」という長い伝統があったのです。一方、中世から近世初頭にかけて欧州文化圏では、「スパイス」という言葉が意味するものの中に「塩と砂糖」が含まれる場合がありました。中世から世紀に至るも、両者が薬種商の取扱品目となっていることも珍しくなく、現代日本における「スパイス」という概念とはかなり違っていたのです。当時の欧州における を理解するためには必須の重要ポイントです。 そのヴェネツィア人が僅かな農業と漁業以外に商売の種として始めたのが、海運業と「製塩業」でした。広いラグーン(潟/がた)という地形を活かし、潮の満干を利用しながらの天日製塩。この地の利を活かした素朴な試みが、やがて軌道に乗り、ヴェネツィアは欧州各地に塩を輸出し始めます。これが当たります。当時欧州の内陸部には何箇所か知られた「塩鉱山」がありましたが、いずれも山中の不便な場所ばかりで、掘り出した後の輸送に難がありました。対してヴェネツィアは造船と海運に力を入れ、自前の船で海路から河川を遡上して、欧州各地に塩を届けることができた。こうしてヴェネツィア産の塩の需要は着実に伸びていき、やがて、ヴェネツィアのラグーンでの製塩では増え続ける需要に間に合わない、という状況に至ります。 で、どうしたかというと、自国の外に塩田に適した場所を探り、アドリア海の沿岸各地に次々と塩田を開発し、また既に製塩が行われていた地域があればその塩を購入することで、一大塩交易ネットワークを作り上げていきます。これが後のヴェネツィア隆盛の基礎となります。各地の塩田で作られた塩は、船で一旦ヴェネツィアに運び込まれ、用途別に精製した上で、欧州各地に送り出されていきました。そ 「スパイス」という言葉が意味したもの、それ がどのようなイメージ(世界)であったのか。その歴史的な背景は何か。話が長くなるので、ここでは触れませんが、それは西欧の食文化史 地中海沿岸都市をつなぐ、ヴェネチアの航路キレナイカ発行のコイン 早稲田大学 エクステンションセンター 中野校 の輸送はすべてヴェネツィア商船が独占的に行っていました。当時の海は常に海賊の危険があったため、商船団には必ず砲を積んだ武装船の護衛が同行していました。商船と武装船、その両者共にヴェネツィアは、自国で建造する高度な技術力を発展させていきます。造船技術、操船技術、海戦力、アドリア海からエーゲ海さらには黒海から北アフリカ沿岸にまで及んだ拠点となる港湾の管理と維持。これらの事業に必要な簿記や緻密な管理業務などの分野も進展していきました。では、ヴェネツィアが塩を通じて交易を行っていた地域はどこか。それは次のような地域です。イストリア半島 (現在のクロアチア、スロベニア、イタリアにまたがる地域)、ダルマチア沿岸(クロアチア沿岸部)、アルバニア沿岸、クレタ島、キプロス島、黒海クリミア半島沿岸、北アフリカ沿岸 …。今風に言えば、そのグローバルな展開ぶりに驚かざるを得ません。その後の胡椒交易によるヴェネツィアの発展は、この塩交易に 西欧食文化ヒストリ 2025年春講座が開催されますー よって準備された、といっても過言ではないでしょう。 その交易網の中でもクレタ島はヴェネツィアにとって特別な重要性がありました。クレタ島の主要な塩田は、イラクリオンから西に140㎞ほどに位置するハニア (Chania)周辺等にありました。しかし、ヴェネツィアにとって製塩業よりもはるか重要だったのが、キプロスやアレキサンドリア(エジプト)そして北アフリカへと向かう商船団の中継拠点としてのクレタ島の役割です。船の水・食料補給と船舶の修理が確実に行える港湾拠点。その戦略的な重要性が極めて大きかったため、第四次十字軍を経て、一時ジェノヴァとその支配権を争いながらも、徐々にヴェネツィアはクレタ島全土をその支配下に置き始めます。その実質的な支配は1212年頃から約460年間にも渡って続くことになります。 そのためクレタ島には今も様々な形でヴェネツィア文化の足跡が残されています。はじめて「クレタ島」という名を耳にしたのは、今から半世紀も前のことになります。クレタ島への旅から戻った母が旅の楽しさを語る中で、「クレタ島で食べたお料理の中で一番美味しかったのはね、イタリアン・レストラン! その店の親父の祖先がベニスから来たとかなんとかいう話で …」。その意外性が面白い。ただそれだけの思い出話です。ところが、その話の奥には、深い歴史的な背景があった。今回はじめてそのことを知り、ほんとうに驚いた次第です。この春のお彼岸に墓前で報告したいと思っています。次回へと続きます。 第5回 大原千晴さん 全5回2025年5月21日、28日、 6月4日、 11日、18日(毎水曜10:40.12:10) 第1回欧州ルネサンス宮廷宴席。料理や食材、歌、踊り西欧の味覚を変えた塩・ハチミツ・砂糖の歴史モノ人間社会史「モノの歴史研究」最前線建国途上のアメリカ合衆国。スペイン・インそしてフランスが残した今に続く食文化をめぐる足跡仏料理の変革者、ヴァレンヌ、カレーム、そして、エスコフィエ 世界に冠たる仏料理への発展史第3回 (道具や調度 )から探る、食卓・台所・宴席のグランド 第2回第4回 クレタ島 クノッソス神殿のフレスコ画 意外でしょ。 ※詳しくは左下のリンク(早稲田大学エクステンションセンター)をご覧ください。 門司港レトロ 明治 22年、静かな漁村だった門司の港は国の特別輸出港に指定され、日清・日露戦争が起きると、中国大陸に石炭、木材、米などを送り出す商社や銀行がめざましく発展。欧州航路や満州への貿易船、客船の寄港地として賑い、大正から昭和初期にかけて日本三大港(神戸、横浜、門司)のひとつとして繁栄を極めました。しかし太平洋戦争の終戦とともに大陸貿易や石炭の輸出が減り、関門トンネル開通によって本州との交通の要衝という役割も失います。1988年、門司港駅が国の重要文化財に指定されたのをきっかけに、行政と民間が協力して周辺の歴史建築を整備。1995年「門司港レトロ」として生まれ変わり、年間 200万人以上が訪れる観光地として活気を取り戻しました。 旧大坂商船 大正 6年(1917)に完成した旧大坂商船は、東京大学で伊東忠太たちと共に学んだ河合幾次による設計です。河合幾次は大阪を拠点として、大坂商船本店や朝日新聞創業者村山龍平の神戸自邸、大阪中之島の大阪ホテルのほか、宇治発電所、木曽川発電所などを手掛けた民間建築事務所の草分けといわれています。完成当時は道路のすぐ横に岸壁があり、灯台のような八角形の塔は門司のランドマークでした。1階は待合室や税関事務所、2階は事務室、3階には電話交換室や倉庫がありました。旧大坂商船の隣にはかつて門司水上警察があり、表から見えなかった建物の背面はモルタル仕上げの簡素なつくりになっています。日清・日露戦争を契機に門司は大陸航路の一大拠点となり、大坂商船も朝鮮、台湾、大連航路を運行して大量の人員と物資を運びました。昭和 39年には三井船舶と合併して、今に続く商船三井となりました。 ホームリンガ商会 旧大坂商船の向かいにあるかわいらしい建物は、慶応元年(1868)に創業したホームリンガ商会の門司支社でした。幕末に来日し茶貿易の監督官として長崎グラバー商会に勤めたフレデリック・リンガーが、エドワード・Z・ホームと共に創業した同社は、石炭、製粉、石油備蓄、捕鯨、保険、ホテルなど事業をひろげ、リンガー氏は長崎の貿易・外交に大きな影響を与えました。その美術コレクションは、故郷イングランドのノリッジ城博物館に寄贈されています。 旧 門司税関 2代目の旧門司税関は大正元年、妻木頼黄(つまきよりなか)の指導のもと建築技師咲寿栄一によって設計されました。妻木はジョサイア・コンドルに学んだ後、米国コーネル大学に留学。帰国後はベックマンの官庁集中計画に参加し東京裁判所、日本勧業銀行、大蔵省、横浜正金銀行はじめ多くの官庁や銀行、港湾、税関、レンガ倉庫、煙草・塩専売施設などの建設に関わりました。建築界に大きな影響力をもち、辰野金吾、片山東熊と並ぶ明治の三大巨匠といわれます。 旧 三井倶楽部 三井倶楽部は三井グループの迎賓施設で、北九州市に無償譲渡されたのち山あいの門司区谷町から門司港駅前に移築されました。解体時の調査から設計は松田昌平と判明し、天然スレート葺の屋根や外壁、室内の壁紙、絨毯、家具などが大正 10年(1921)の建設当時の姿に復原されました。木造 2階建で外壁は平らな瓦を張った下地の上に、1階は人造石の洗い出し壁、2階にはハーフティンバーを採用し、モルタルに凹凸をつけたドイツ壁で仕上げています。 管理人の住居として使われた和風の附属屋も本館と合わせて移築されています。本館の向こうに見える旧 JR九州本社ビルは松田昌平の弟松田軍平の設計で、移築によって兄弟の建築が向かい合う形になりました。松田軍平は日本建築家協会の初代会長で、コーネル大学やニューヨーク時代の経験を活かし、三井本館、石橋正二郎邸、ブリジストン本社ビル、 松屋銀座本店、東京国際空港ターミナルなどを手掛けています。 本館 1階はホールを中心に、食堂、応接室、客間が配置され、現在はレストラン「三井倶楽部」が営業されています。 2階ゲストルームには、複数の寝室が用意されています。ここに泊まった著名人にアルベルト・アインシュタインがいます。大正 11年(1922)11月、改造社の招待で来日したアインシュタインは東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸で講演を行い、来日途中にノーベル賞受賞が決まったこともあり各地で熱狂的な歓迎を受けます。12月 23日三井倶楽部に投宿。博多講演の後、門司 YMCAのクリスマスパーティで得意のヴァイオリンを演奏。27日関門海峡や下関を見学し餅つきを体験、29日榛名丸に乗って離日しました。 ものごとを多方面から俯瞰し眺める4月。 2025年4月は「4」のエネルギーが流れます。「4」は秩序のある世界を表す数字。善悪のジャッジをせず、プラスとマイナスの両方から見るマインドで全体を見渡し、落ち着いた世界が広がります。 3月に自由に広げたことや思考や発見を整理して、具体的な計画をたてるタイミングの4月。さまざまなイメージを実行可能にするためには、ここでしっかり「考える」が大切です。楽しくワクワクしていたことは一旦冷静に見定め、枠組みを整えます。そうすることで、5月からは身軽に行動していけます。 4月は年度始まり、スタートダッシュの時期でもありますが、今年の4月はいきなりダッシュで走り始めるよりもややスロースタートな感覚があるかもしれません。ただ、”事 ”はじっくり計画をたて、自分自身のなかでコレ!という方向性を整理整頓し整えることで、今後流れに乗っていけますので焦らずに。 また、自分と違う意見や考えに対してジャッジをしたり、批判的な視点を向けてしまいそうな時には、いったんその場を離れ、少し引いたところから全体を見て、眺めるくらいの余裕を持ちたいものです。決め打ちでいくよりも、俯瞰した広い視野で、多様な視点をもったマインドセットを意識していきましょう。 心・体・思考の健康をデザインするとっておきの休み時間 37時間目写真&文 大吉朋子 「楽しい」より「おもしろい」。 高校3年生の12月、大学進学も決まり時間にも気持ちにも少し余裕ができ、アルバイトをやってみようと思い立った。当時はインターネットも携帯電話もない。家の電話から気になるお店に電話をかける方法で少し手間と勇気がいったが、どうせ働くならおしゃれなエリアがいいと思い、場所を条件に、働いてみたいお店にいくつか電話してみた。そして、辿り着いたのは東京・恵比寿の洋菓子店。今はもう閉店してしまったが、大通りに面した路面店で場所もよく、繁盛している喫茶店と洋菓子やパンのお店で、面接に行くとすぐに来てほしいと言われ、数日後アルバイトが始まった。 初めての職場、まずは掃除から教わる。今でも大事にしているけれど、「トイレ掃除をきちんとやる」大切さはここで学んだ。どんなに表が良く見えてもトイレがきれいでないお店はイマイチ、ということを刷り込まれた。それから次々と喫茶店の給仕や接客を教え込まれ、初めは緊張したもののすぐに感覚をつかみ、自然に立ち振る舞えるようになっていた。 12月の洋菓子店は「クリスマス」商戦真っ只中。その店の人気商品は苺と生クリームの王道クリスマスケーキ。クリスマスイブにはお店の外で街頭販売もするという。よく見かけるサンタの服を着て売るあのスタイルで。なんと、新人アルバイトの私にそのお役目が回ってきた。実は皆、サンタの格好をして街頭販売などしたくないらしく、販売未経験の私がやることになったのだ。お店として勝負のかかる大事な日の販売員が私でいいのか?と思ったけれど、何しろすべてが初めてのことだらけ、素直にワクワクした。 クリスマスイブ当日。朝から早速サンタの服を着て外に立つ。用意されているケーキはすべて手作りでとても美しくおいしいものだった。日中は働く人が多い恵比寿の街中、真っ昼間からホールのケーキを買う人がいるのだろうかと思いながら、「クリスマスケーキいかがですかぁ.」と大きな声で街ゆく人に声をかける。これはなかなか勇気がいった。それでも止まる人はなく、張り切るにはかなり気合がいった。でもやるしかない。サンタの格好をしているし、恥ずかしがっていても仕方がない。開き直り、とにかく大きな声で声掛けをし明るく振舞った。すると、通りかかる人が足をとめてくれるようになり、一人二人と買っていく。人が人を呼び、人の会話を聞いてまた次の人が買っていく。日が暮れると客足がさらに増え、待つ人の列も出来たりして飛ぶようにケーキが売れていた。周囲の様子を眺める余裕もない中、途中、声でわかる有名な女性歌手が立ち止まり、「お姉さんのケーキ、美味しそうだから」といって買い物をする場面もあった。感激に浸る間もなかったのだが、その人の素敵なオーラは今でも記憶に残っている。 閉店時間、最後のひとつまで売り切った。結果は大成功。新人にしてはというレベルではなく、過去最高の売上だったらしい。帰り際、「お疲れさま!すごかったねぇ」と一番大きいサイズのクリスマスケーキを渡され、帰宅ラッシュの電車にデカいケーキの箱を抱え必死に帰ったことも印象深い。 この日、「働くっておもしろい」という充実した気持ちでいっぱいだった。楽しいではなく”おもしろい ”という実感。どう伝えれば人の気持ちが動くのか、モノの良さが伝わるのか。何を語ると喜んでもらえるのか。高校生なりに一生懸命考えながら、あの手この手と試行錯誤した時間だった。学校では決してすることがない頭の使い方。これがものすごく面白くて、自分の中から言葉が出てくる感覚も興味深かった。 この体験は、今につながる自分の仕事観の原石だったと思う。自分に課された仕事を自分なりに工夫してなんとか形にしていく作業。新人の私にその役目を任せた人たちもある意味すごいと思うが、その機会があることで開花する可能性が生まれることを自分が自分の体験を通して初めて知った貴重な時間。コスパ、タイパと何かと効率を求める世の流れがあるけれど、初めから最高のパフォーマンスで走れる人などいない。開花前のつぼみが膨らむ時にこそ、その花のエネルギーはしっかり充填され、時が来たらパッと華やかに花開くものだと思う。 門司港レトロハイマート展望室 門司で唯一の高層マンション「レトロハイマート」31階には、地上 103mの市営展望室が設けられました。設計した黒川紀章さんは、100年経てば高層建築もレトロな街に仲間入りするだろうという言葉を遺しています。1994年、門司港レトロに計画された高層マンションに対し、北九州市は都市景観条例にあわせた見直しを求めました。それに従いレトロ調の外観に改めたものの市は建築確認を行わず裁判となります。市が問題としたのは観光名所の第一船溜まりから史跡である和布刈山が見えにくくなることで、それを回避するため15階から 31階と建物を高くして幅を狭めました。最上階は市が買い取り市営展望室・カフェとして公開。夕暮れ時になると沢山の若者や観光客で賑わう人気スポットになりました。 観光客向けのショップや飲食店、ホテル、遊覧船乗場に囲まれた「第一船溜まり」は、門司港発祥の地といわれます。特別輸出港に指定された明治 22年当時は大型船が接岸できる岸壁がなく、船溜まりの艀(はしけ)に荷を載せて、沖に停泊した大型船に運んでいました。一時は再開発により船溜まりを埋め立てる計画もありましたが「水面そのものが歴史的建造物である」という声が高まり、誰もが水に親しめる空間となりました。 北九州銀行 門司支店 昭和 9年に建てられた横浜正金銀行門司支店の建物が、北九州銀行門司支店として活用されています。設計者の桜井小太郎は英国で建築を学び、日本初の英国王立建築家協会建築士となりました。呉鎮守府司令長官庁舎、横須賀鎮守府司令長官官舎、静嘉堂文庫などを手掛け、今は神戸市立博物館となった横浜正金銀行神戸支店も桜井の作品です。 元銀行を活用した結婚式場、マリーゴールド門司港迎賓館THE BANK mojiko。 ドラゴンシリーズ 125 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) どこまでも続く。 親父がこの世を去った年齢に差し掛かろうとしている。ふと あの深い優しい塊のような温かで寂しそうな瞳を思い出す。あの頃の親父もこんな風に自分の人生の軌跡を振り返り、一息ついてはまた、その気持ちを振り切って前を向いていたのではないかと思う。 親父は人前で怒ることは決してせず、いつも笑顔を絶やさず奥歯を食いしばって屈辱や怒りに耐えているように見えた。しかし一旦何かの有事で本当の災害や苦難がやってくると、体の芯から鋼のような強さが現れてくる。どんな状況でもいつも災害や災難の先頭に立ち、向かい風が強くなるほどニコニコと笑顔を浮かべ平気な顔をして先頭に出て戦っていた。 親父は小さな頃から母親や兄妹の家計を支えるため港で建築用の砂袋を運ぶ仕事をしていただけあって、ラグビーのフォワードのように足腰の芯の強い筋肉質で屈強な身体をしていた。 女の子のように華奢だったが悪さばかりしていた俺は、親父の力こぶにぶら下がったり肩車をしてもらいながら肩や首に手を回すのが大好きだった。ずっと小さな頃から俺はいつもそんな芯に強さを持つ親父に守られていた気がする。 実家を離れ、どこに居るのかもわからないまま一人暮らしをしていた俺を、親父はどこからかそっと静かに見つけては遠くから声も掛けずに様子を見ていたような気がする。その頃の俺は、本当にどうしようもない出口の見つからない八方塞がりで自分に向き合うことさえできない、浅はかで、だらし無く、嘘つきで、逃げてばかりだった。実際、母からは「お前は小さなころから弱虫で嘘つきでどうしようもない子供だった」と大人になっても言われ続けた。今でもその本質は変わっていないような気がする。 歳後半になった親父は時々、小さな少年の俺に『龍太郎、 外国に行けよ。』と、 代の若い頃に貨物運搬船に乗り けてブラジルへ渡り、そして数年間の海外生活と仕事を経験したことを時々懐かしむように、楽しそうに話してくれた。『龍太郎、世界は広いぞ。』と当時は珍しかったブラジル仕込みのサイフォン式コーヒーで淹れ、ドロドロになるくらいたっ 30 20 1 カ月か 代から 10 ぷりの砂糖でうまそうに味わいながらニコニコと瞳を輝かせて話し聞かせてくれた。三つ子の魂百までと言う。若い頃に味わった劣等感とその頃に植え付けられた不安感は、これまでの人生の中にそして今の自分の深い部分に生き続けている。 20 代に掛けて感じていた自己に対する劣等感と不安感は、それか 40 ら年以上が経った今でも俺の心の奥底に脈々と生き続けている。それが俺の人間としての真実であり人生の実感かもしれない。 俺の深いところに在る人間としての弱さの本質は、小さな頃から変わっていない。今日もここに小さな頃の自分がそのまま存在している。 その真実は俺だけでなくこの世に生きる全ての人にも言えることだろう。自分の後ろには自分の歩いてきた時間が横たわっている。時々、その一つ一つの時間の断片が夢や記憶として自分の中に現れてくる。見えていない今の自分が、過去の自分によってはっきり見えてくる。若い自分が不安に苛まれ、出口も見えずただ漂い彷徨い歩いていた記憶が蘇ることで、不安の持つ意味と過去の苦しみの価値を見出すことができる。 『何も無い』ことは俺自身であり、俺の人生そのものではないだろうか。埋まることの無いこの不安こそが俺の人生の実感なのかもしれない。 親父にはいつも根拠のない希望をもらった。『龍太郎、お前は大丈夫だ』という言葉を小さな俺は覚え間違いして『俺はな、バンキタイセイなんだぞ』と間違いも意味もわからずに近所のおばさんたちに言って笑われていた。 30 2 2 2 親父と過ごしたのは人の人生の中でわずかな時間だった。小さな頃、数回だけ親父と人で行った汽車の旅の記憶は遠く深くにあり、今は行き先を知る由もないが、俺と息子が小さな頃に人で旅をした記憶と重なり、温かく幸せな感情とその優しい温もりが混在した一番大切な人生の記憶となっている。今でも親父の強くて太い腕の中で安心して眠りたいと思う。そして息子を腕の中に抱いて安心して眠りたいと思う。 今の自分の人生は親父が俺に渡してくれたものだと感じている。親父は俺が代前半にこの世を去ったので、自分の人生の半分も一緒に過ごすことができなかった。俺は親父には何も返せなかった。自分の人生は親父が挑んできた何かの延長にあるものだと言うことを、親父が世を去った彼の年齢になってようやく感じる。そして親父が俺に対して何を思い感じ願っていたのかを少しだけ理解することができる。 旧大連航路上屋満州の玄関口大連と日本を結ぶ日満連絡船の発着所として、昭和 4年(1929)に竣工した大連航路上屋。太平洋戦争の敗戦まで 15年以上にわたり、多くの人々がここから満州へ旅立ちました。 1階は日満連絡船などを紹介した資料館になっています。 設計は妻木頼黄の後継者として国会議事堂や横浜税関を手がけ官庁建築界の頂点にいた大熊喜邦で、この建物の重要性がうかがえます。一方、アールデコ風のエレガントなデザインには異国へと旅立つ旅客に対する心遣いが感じられました。エントランスには改札があり、出国検査を終えた旅客は右手の階段を上がって 2階待合室へ向かいました。 長さ130mのコリドーはかつて岸壁に面していて、すぐ横に客船が停泊しました。旅客は待合室でしばし休憩したり軽い食事をとったあと、2階から桟橋を渡り船に乗り込みます。見送りの人たちは岸壁から紙テープを投げて別れを惜しみました。大連友好記念館門司と大連のつながりを示す建物が、大 連友好記念館です。昭和 54年(1979)に北九州市と大連市は友好都市を締結し、それを記念して15年後に大連友好記念館(当時は国際友好記念図書館)が建てられました。モデルになったのは大連市の「東清鉄道汽船会社事務所」で、大連で焼かれた 45000個のレンガや現地の農家がこつこつ削った 5000個の御影石が使われています。 「つなぐデザインしずおか」のブースには、江戸時代から受け継がれた木工や紙を活かした製品が並んでいました。中山家具とデザイナー横山友美さんがコラボレーションした新しい祈りの場 Departure of Life ・帆(左)と Departure of Life ・花蓮(右)は、中山家具の天然木の加工技術をベースに天然石やミラーを加え、故人の船出をイメージした帆や水面に浮かぶ睡蓮をモチーフに制作されました。プロデューサーの日原佐知夫さん(左)、デザイナーの横山友美さん(中)、中山家具の担当者 大石行晴さん(右)。グランピングのコーナーにはフィールドアスレチックで知られる北海道当麻町から中央銘木、太田農場、世良鉄工が出展。ステンレス製ストーブが素敵です。人気のサウナフェア。キューブ型、ドラム型、オーダーメードサウナ、サウナストーブ、屋外バスタブ、サウナグッズなど多彩な出展。 いま欧米では抹茶が大人気です。抹茶を気軽に立てられるお道具セットが出展されていました。上は京都のHITOFUKU。下は福井県鯖江の高橋工芸。 OKUYAMATONARAブースには6社が出展。奈良県南東部の奥大和には優れた木工房が点在しています。ヒノキの家具やカッティングボードが並びました。 門司 鈴木商店の残滓 門司赤煉瓦プレイスの醸造場 明治から大正にかけて、日本最大の商社として隆盛を極めた鈴木商店。その赤レンガ造りの麦酒醸造所が門司駅近くに残され、現在は「門司赤煉瓦プレイス」として活用されています。 門司駅はかつて大里駅でしたが、昭和 17年(1942)の関門鉄道トンネル開通に合わせ、「門司駅」に改名されました (元々の門司駅は門司港駅に改名)。トンネルによって九州の玄関口となった門司駅の近くには、大正時代に鈴木商店が建てた帝国麦酒の醸造所があります。鈴木商店は明治 7年 (1874)神戸で創業し、明治 36年 (1903)には大里製糖所(現・関門製糖)を門司に設立。関門海峡沿岸に製粉、製塩、洋酒などの食品工場を次々と 建設し、世界各地に輸出しました。 帝国麦酒 醸造棟 大正 2年(1913)に建てられた帝国麦酒の醸造棟は、日本最大級の赤レンガ建築です。麦酒の急速な需要拡大とともに、九州にも麦酒工場が必要と考えた門司の実業家たちが、鈴木商店の援助を受けて建設しました。南北 55m、7階建ての規模を誇り、連続するアーチ窓や御影石の装飾が特徴です。内部には糖化槽、麦汁濾過器、煮沸釜、酵母投入機、発酵槽、麦酒濾過機、瓶詰機、エレベーターなどが工程に沿って配置され、当時最新のドイツ製醸造機器を採用しています。 彦島 醸造所の目の前には関門海峡が広がります。海峡の向かいに浮かぶ彦島は、古来から伝説的な戦いの舞台となってきました。幕末に起きた下関戦争の戦後賠償では、連合国から租借地にしたいと要請されましたが高杉晋作の巧みな交渉によって免れたといわれます。その席には、下関に英国領事館を開いたアーネスト・サトウもいました。下関戦争を契機に、長州藩は攘夷から倒幕へと方向転換します。もし彦島が香港のような租借地になっていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。醸造棟は普段は公開されていませんが、一部を活用してレストランやカフェを営業しています。イタリアンレストランTsunagiには門司の海鮮を生かした料理もあり、地元の人々に親しまれています。いま門司駅周辺では、古い工場地帯を再開発し海辺の遊歩道やマンション・宅地を整備した「大里赤煉瓦タウン構想」が進められています。 醸造棟の向かいにあるレンガ倉庫は、イベントスペース「赤煉瓦交流館」として活用されています。帝国麦酒は「サクラビール」のブランドで、中国、インド、タイ、インドネシア、ケニア、北米など世界各国へ麦酒を輸出していました。第一次世界大戦の影響で欧州の麦酒生産が低迷し、その供給不足を補う形で輸出や内需を拡大。大戦の終了と共に世界恐慌が起こり、それに続く昭和恐慌によって鈴木商店が破綻した後も、帝国麦酒は国内第 3位のブランドとして、30年以上にわたり販売を続けました。第二次世界大戦によって大日本麦酒に吸収され、戦後はサッポロビール九州工場として 2000年まで 87年にわたり麦酒をつくり続けました。今も門司には門司製糖やニッカウヰスキー門司工場など、鈴木商店の流れをくむ工場が稼働しています。 北九州市 門司麦酒煉瓦館 帝国麦酒の事務所棟として大正 2年(1913)に建てられた門司麦酒煉瓦館。ゴシック風の重厚なデザインは、建築家林栄次郎による設計で、製鉄所からでる鉱滓煉瓦を使用した最初期の建築です。 鉱滓煉瓦は、製鉄の際に出る高炉スラグを利用したレンガです。北九州は官営八幡製鉄所によって鉄の街として栄えますが、鉄 1トンあたり300kgも出る鉱滓の処理に悩んでいました。1907年ドイツの技術を取り入れ鉱滓に石灰や水を混ぜて成形する鉱滓煉瓦が開発され、焼成を必要としないレンガとして全国の製鉄所で盛んに生産されました。現在、鉱滓煉瓦は作られていませんが、失われた技術として再評価されています。 鈴木商店は明治 7年に神戸で創業し、後藤新平の後ろ盾をえて台湾の樟脳や砂糖の貿易を通じて世界各地に拠点を築き、保険、海運、製鉄、製粉、織物、皮革、製糖、塩、人工繊維、麦酒、煙草、炭鉱、造船、金融、製油など幅広い事業を展開します。大正時代には年商が国家予算の約 2倍、15億円にも達し、GNPの10%を占める日本最大の総合商社となりました。昭和金融恐慌の影響で事業を停止しましたが、双日、豊年、神戸製鉄所、IHI、帝人、ニップン、ダイセル、日本発条など、多くの企業に事業が継承されました。ゴシック風の装飾は、様々な形の鉱滓煉瓦を巧みに組み合わせています。鉱滓煉瓦の規格は 227×110×60mmでしたが、焼成の必要がない利点を生かし色々なタイプが作られたようです。 Event Information 細川家の日本陶磁. 河井.次郎と茶道具コレクション .2025年1月11日〜4月13日 永青文庫(東京・文京区) 河井.次郎「兎糸文火焔青花.」大正 10年河井.次郎「草花文花.」大正 10年 河井寛次郎はデビュー当時から永青文庫の創設者である16代細川護立の支援を受けていました。大正 10年に.島屋で初個展をひらいた際は、上のような中国 鈞窯(きんよう)など歴史的陶磁を手本とした作品を制作していました。 東京都文京区にある永青文庫(肥後細川庭園に隣接)にて、肥後細川家伝来の茶道具と、民藝運動を代表する陶芸家・河井寛次郎の展覧会が開催されています。 河井.次郎「鐵繍花茶.」(. 磁窯黒花)大正 11年 河井.次郎「三彩四方煙草筒」(. 唐三彩)大正 11年河井.次郎「流薬鉢」(スリップウェア)昭和 5年 河井.次郎「茶.」(. 朝鮮刷毛目)大正 10年 細川護立公のコレクションには、民藝運動に参加する前の初期河井寛次郎作品(大正3〜15年頃)が残されています。古来の中国・朝鮮・日本の陶磁器に学び、様々な様式、技法を自分のものにしていく過程が見られます。 重要美術品 伝 長次郎「黒楽茶碗 銘 おとごぜ」 桃山時代(16世紀) 伝 楽宗入「赤楽茶碗」 江戸時代(18世紀) 細川幽斎、細川三斎と茶の湯を愛した細川家には、古くからの「唐物」「和物」の茶道具が遺されています。重要美術品の黒楽茶.、瀬戸肩衝茶入をはじめ数々の銘品が展示され、日本の美意識の変遷を感じとることができます。 重要美術品「瀬戸肩衝茶入 出雲肩衝」桃山時代(16.17世紀) 「朝鮮耳付茶入」(1618世紀) 北九州市立美術館 神話へと昇華する 2本の角筒 磯崎新さんにより半世紀前に設計された北九州市立美術館。「磯崎新の原点九州における1960-70年代の仕事」が 2025年1月4日〜3月16 日(日)まで開催されました。小高い丘の上に立つ美術館に磯崎さんはシンメトリーなギリシャ神殿の姿を重ねたそうです。 ホールは白い大理石に包まれ、天井から自然光の降り注ぐ空間。同じ年( 19 74)に開館した北九州市立美術館と群馬県立近代美術館は、グリッドを基調にした点が共通しています。 展覧会場には、大分医師会館(1960)、岩田学園(1964)、旧大分県立大分図書館(現アートプラザ 1966)といった初期作品の木製建築模型や図面、写真が並びました。 1960年代当時、東京大学の大学院生だった磯崎新さんに活躍の場を与えたのは、上田保元大分市長をはじめ三浦義一氏など、早くして亡くなった父・磯崎操氏の友人たちでした。岩田学園の創設者 岩田正氏もその一人で、1964年の1・2号館からはじまり体育館、学生寮など 30年以上にわたり学園の設計を依頼しました。ガンダムにも例えられる1・2号館は空中回廊で各館と結ばれ、模型からは同じスタイルの校舎があと4棟建てられる構想だったことが伺えます。大分市の中心部に建つ旧大分県立大分図書館(アートプラザ)。1966年に図書館として開館し一時は解体計画もでましたが、市民の保存運動によってアートプラザとして蘇り、磯崎新さんの建築模型を多数展示しています。プロセス・プランニングという発想から導かれたフォルムは、ジャクソン・ポロックの絵画などで暗示された都市の混沌、不連続、事件の集積などを建築の手法へと転用することから生まれました。四角い角パイプを断ち切ったようなアンバランスに見える姿は、有機体のように成長する建物をある瞬間に切断した断面といわれてます。 実質的な処女作といえる1960年の大分医師会館旧館(左)と12年後に建てられた新館(右)。残念ながら現存しませんが、木製の模型からその全容が伝わってきます。シリンダーを宙に持ち上げたような旧館と、ギリシャの半円形劇場を積み重ねたような新館。12年の間に磯崎新さんの設計思想に大きな変化があったことを伺わせます。 1970年代福岡相互銀行の仕事 岩田正氏により福岡相互銀行社長四島司氏を紹介された磯崎新さんは、福岡相互銀行大分支店 (1967)をかわきりに、大名支店、東京支店、長住支店、六本松支店、本店(右)と同銀行の店舗を次々に手掛けました。ここで磯崎さんは、従来の銀行建築にはなかった鮮やかな色彩を取り入れ、現代アートを空間に飾ることに成功します。展覧会では店内に展示されていた斎藤義重や野見山暁治のコレクションも紹介されました。上の椅子は大分支店会議室のためのものです。 建築空間(福岡相互銀行大分支店) モンローチェア 1970年代北九州市の仕事 1967年から20年にわたり北九州市長を務めた谷伍平氏は、門司、小倉、若松、八幡、戸畑の5市が合併した北九州市には統合のシンボルになる施設が必要と考えていました。1972年福岡総合銀行本店を訪れた谷氏は市立美術館を磯崎新さんに託すことを決め、その後、中央図書館、西日本総合展示場、国際会議場といった磯崎作品が市に誕生します。 磯崎新さんは1977年から 300点を越える版画制作を行っています。北九州の展示場、図書館、美術館をモチーフにした「還元」シリーズが展示されました。版画について磯崎さんは「建築が、建築家の手からうまれでていくその瞬間のイメージの視覚化といっていい」「建築は100年後には1つも残らないだろう。でも紙は残る」と記しています。 1978年、北九州市企画局と磯崎新アトリエによってまとめられた『北九州市の街のたたずまいを考える』は、都市景観整備に関する提案を行っています。商店街のアーケード、小さな公園、団地の通路、史跡の環境、ひらかれたカフェ空間など、大きな施設を建てなくても細かな工夫しだいで街全体が豊かになることを現地調査をもとに描きました。 館内のレストラン「カフェ・ミュゼ」からは北九州の街や工業地帯、響灘を望めます。展覧会にあわせ磯崎新さんの故郷 大分の名物(中津風唐揚げ、りゅうきゅう)をあつめた特別メニューが提供されました。 MP 今月取材した北九州市小倉は、作家松本清張さんの故郷です。清張さんはこの街で 40代まで過ごし『或る「小倉日記」伝』によっ て芥川賞を受賞。本格的な作家デビューを果たしました。小倉で少年時代を過ごした漫画家松本零士さんは、朝日新聞社に勤めていた清張さんに「上京して漫画家になれ」と励まされたそうです。 さて、清張さんは『或る「小倉日記」伝』の他にも、小倉を舞台にした短編小説『黒地の絵』を発表しています。これは小倉黒人米兵集団脱走事件に題材を得た作品で、 1950年夏、朝鮮戦争に送られる直前のアフリカ系アメリカ人兵士が 200名以上、小銃や手榴弾で武装し小倉のキャンプを脱走。町内で強盗や婦女暴行を働いた状況を描きました。 が出動して照明弾を打ち上げ、小倉の警官隊も巻き込んだ銃撃戦 となりました。事態は数日間続き、 名以上の女性が強姦され、酒や煙 草を盗まれるなど強盗事件も多発します。警察には数十件の被害が寄せられますが、大半の記録はもみ消されました、松本清張記念館(小倉)の調査によって米国立公文書館に保管された英文の被害調書が発見されるなど、全容は徐々に明かされています。 清張はキャンプに隣接した団地に暮らしていましたが、朝まで騒動に気づかなかったことにショックを受けます。新聞の報道は北九州版に、司令官の短い謝罪コメントが掲載されただけでした。脱走兵は日本では処罰されず、数日後には朝鮮半島の激戦地に送られ全滅したと言われて 10 その 58 青山ナシヲ 約 75 います。米国の兵士たちもまた、立場の弱い被害者であったのです。この事件が清張さんに進駐軍への不信感を植え付け、その後の作品に大きな影響を与えることとなりました。 年前の事件ですが、状況は今も変わりません。米軍関係者は入国管 理の手続きが不要のため、横田基地から入国し直接ヘリで赤坂のヘリポートに降り立ち、六本木の街に繰り出すことも可能です。日本政府は在日米軍関係者の正確な人数すら把握していません。 もちろん日米の同盟関係は、国際的なバランスをとるうえで重要なことです。同盟のは同じ目的のために同じ行動をとるように約束するものですから、その関係を出来るだけフェアに保つことが、同盟をより深めることになるのではないでしょうか。 【 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