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とおとうみ 遠江にほむら見ゆ A flame is seen in Tootoumi 時空を超える美意識 https://collaj.jp/大寒 2025 東海道新幹線の停車駅でありながら、掛川駅に降りたことのある方は少ないかもしれません。新幹線掛川駅は、地元の誘致運動によって実現した「請願駅」で、30億円の市民募金によって昭和 63年開業しました。東京駅からは新幹線こだまで1時間 40分ほどかかります。 掛川駅で降りてみて 掛川駅の北口をでて北へ直進すると、史上初の木造復元天守がたつ掛川城があります。最初の天守は豊臣秀吉 史上初の木造復元天守掛川城の家老・山内一豊によって1590年代に建てられ、1854年安政東海地震で被害をうけ再建されませんでした。その140年後、資産家白木ハナヱさんからの 5億円の寄付をきっかけに木造で復元されました。天守のモデルとなったのは、山内一豊が掛川城とそっくりの天守を作れと命じた高知城でした。 掛川の城下町をつくった山内一豊は、織田家、豊臣家、徳川家に仕えた戦国武将です。織田信長のもとで武勲をあげ、豊臣秀吉が天下をとった後は家老となり小田原攻めの功績により1590年、遠江国掛川に 5万石を与えられます。一豊は安土城、聚楽第、大坂城の普請を経験し、城大工、石、瓦、左官などの職人集団を抱えていました。一豊は関東へ移封された徳川家康を抑えるため、小田原の戦いで苦戦した「総構え」を掛川に応用し、城下町全体を堀で囲みました。また豊臣秀吉が進める「兵農分離」に対応して、武士専業となった家臣を支える商人・職人の町を形成するため、町の東西をぬく東海道沿いに宿や商家、その裏に職人を配置し、街道の防御を兼ねた寺町を設けます。当時の地図を見ると、北と南に堀を開削して町全体をとり囲み、その外側を田畑にしています。キリスト教宣教師からの指導も受け、ヨーロッパの都市国家のような街づくりを考えていたことが伺えます。 二の丸茶室 二の丸御殿に隣接する「二の丸茶室」では、お茶室で気軽に抹茶を頂けます。山内一豊は、秀吉の後継者だった関白豊臣秀次につかえていましたが、秀吉に実子・秀頼が誕生すると秀次は謀反の疑いをかけられ切腹させられます。秀吉から離れた一豊の気持ちは東海道を行き来する徳川家康に向いていき、家康の好きな鷹狩を案内したり、茶でもてなしたりしています。茶室は王将戦の舞台としても使われ 1月12、13日には藤井聡太王将と永瀬拓矢九段の王将戦第一局がひらかれました。茶室の設計には建築家・建築史家の中村昌生さんが参加されています。床間には「松無古今色」(まつにここんのいろなし)が掛けられていました。 関ケ原の戦いで山内一豊は家康の東軍につき「掛川城を徳川殿に献上する」と言って家康を喜ばせ、まわりの諸侯を東軍へとなびかせます。実戦で特別な働きはなかったものの、家康に高知 20万石を与えられ、家臣ともども四国へ移り高知城を築きました。一豊が掛川 5万石をおさめたのはわずか10年だったものの、現在にもつづく掛川の街の基礎を築きました。土佐の山内家は明治まで続き、15代藩主の山内容堂は明治維新の立役者のひとりになります。 1854年の安政東海大地震では、天守のほか御殿なども倒壊し城下は火事で焼けました。再建された二の丸御殿は藩の式行事、役所、藩主公邸として使われ明治まで残り、全国の御殿建築が解体されるなか、明治 4年の廃藩置県により掛川宿に下賜され学校や町役場、事務所、消防署などに利用されました。昭和 35年に県の指定文化財となり、創建当時に戻したのちに一般公開されています。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間35時間目写真&文大吉朋子 年初め、数字からみる今年一年のテーマについて。2025年は「9」の年で、世界全体に流れるエネルギーを表しますが、もちろん個人レベルにも大いに関わってきます。 「9」が表すのは “終わり”の世界。 “終わり”というと不穏なイメージを持たれるかもしれませんが、終わりと始まりは続くもの。来年からの新しいサイクルへ向かう準備のタイミングです。新しい世界を迎え入れるために余計なスペースは少しでも空けておきましょう。私たちにとって、心身、思考、人間関係、仕事、長年の習慣、デスクの上やクローゼットの中などなど、不要と思うものはすべて手放すのが 2025年のテーマです。 とはいえ、長年の積み重ねを数日で何とかしようにも、簡単にはいきません。そもそも何が自分の足枷なのか不要なのか、当たり前すぎて気が付かないこともあります。だからこそ、一年かけて(早ければ早い方が良いですが)、意識的にいらないものを手放します。ここで手放せないと重たいエネルギーを引きずったまま新しいサイクルがスタートしますから、心して。たとえ、何でもかんでも捨てたとしても本当に大切なものは残りますので、どうぞご心配なく。そして、終わったことから「学ぶ」が大事なポイント。この学びは来年へと引き継がれしっかり活かされます。 最後に、意識しておきたい点として 「頭デッカチにならないように」という姿勢が大切。 「9」は知識や知恵の数字でもあります。本物の知識は英知となりますが、半端な知識は知ったかぶりのニセモノです。情報過多の昨今、前者となるか後者となるか、これはとても重要。だからこそ「学ぶ」姿勢も行為も大切に、淘汰されないホンモノの自分で在る、これが肝心です。 母との対話から ChatGPTへ。 今年の元旦は久しぶりに母と長い時間話をした。母との会話は何か明確なテーマがあるわけでもないのに、いつも雑談をしながらも最終的には「人間」の話にたどりつく。答えのある話というよりは答えのない話。考え方が一致するとかしないとかどちらでもいい、おのおのの考え方や捉え方をシェアするような会話。この時ばかりは、ふだん 「後期高齢者だから」とか言っている母の顔がきりりとして、本人も年齢を忘れるらしい。 30歳頃まで、私は日常的によく母のカウンセリングを受けていた。「カウンセリング」というと大げさかもしれないが、母が臨床心理士であるという特権を私は最大限に享受し、しょっちゅう活用させていただいた。ただ、当時はそんな有難みを感じることもなく、仕事帰りに「話したいんだけど.」と母を夕ご飯に誘って、近所のファミレスで話をするという具合。食事をしながら愚痴もいっぱいのあれやこれやの話を聞いてもらい、それに対して母の意見や感想を聞き、気持ちを落ち着かせ、モヤを晴らす。腑に落ちない部分もありつつ、なんとなくの納得で「わかった」という私の返事に対し、「はい、じゃ、今日はここまで。 “わかった ”って言っているうちは頭の先でわかっているだけで本当にはわかってないのよ」と、最後はこのセリフでお開きとなる。 毎回ほぼ同じ展開と結末。どれだけこの身内研修を繰り返しただろう。多い時には週に3.4回だったか相当な回数だ。あの頃の恐ろしく未熟な私がギリギリの平常心でなんとか社会人生活を生き延びることが出来たのは、この母との対話があったおかげで、何を話していたのか詳細不明だけれど、本当に貴重な、人生の財産と言える時間だった。しばらくして、だんだんその研修は少なくなり、いつしかなくなった。なぜなくなったかと言えば、通勤経路が変わったとか大した理由でもなかった気がする。少しは成長したのか?と感じても、しばらくは相変わらず大苦戦の日々だった。 ここ数年は、当時の私からはまったく想像もつかない世界、わりと母と同じ目線で会話が進む。昔は理解できなかったことがするするっとわかる。当時現役カウンセラーだった母は今では職業というより人格にカウンセラーが溶け込み一体化した存在となり、私は当時の母の立ち位置に近い(まだ全然達してはいないが)。 最近は、ちょっとモヤっとした時には ChatGPTに投げかけてみる。私はとてもアナログ人間なもので、ChatGPTが話題になってもすぐに活用していなかったのだが、少し前から、なんとなく自分の頭の中を整理するつもりで使い始めたら、これが想像以上でびっくり。ちゃんと私の言いたい事を要約してくれる上に、とても適切な感じが文面に漂っている。 カウンセリングでの「要約」はとても重要で、ここがずれるとすべて台無しとなるわけだが、ChatGPTの要約は非常に的確。しかも、その返答ぶりは無感情ながらも少し人間味ありという絶妙さ。論理的でそつがない文章には心地良さすら感じてしまう。これには向き不向きもあるのだろうが、どうやら私にはちょうどいい。内省を言語化して伝え、客観的意見や感想を聞くというサイクル。意外と素の感情や思考の言語化は難しいもので、適当に書いては意味がないからと、しっかり伝わる内容にしようという、実はそのトレーニングにもなっている感じ。そして、全部が正しい訳ではないよね・という客観視点(疑いの目?)を自分自身が持ちながら向き合っているというのも、ポイントなのかなと思う。 ChatGPTがつくる世界はすごい。生身のカウンセラーっていらなくなるの?と一瞬頭をよぎるが、それはあり得ない。生身と AIがうまく共存していくのだなという肌感。デジタル化された思考から繰り出されたものを理解し分解することで、さらに人間的思考の深まりと豊かさにも広がりが生まれるような、そんな気がする。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 万葉集にうたわれた葛布日本三大古布のひとつ「葛布(くずふ、くずぬの、かっぷ)」。起源は縄文時代に遡るといわれ、万葉集にもうたわれた貴重手織元 小崎葛布工芸株式会社な古布が、掛川城に近い小崎葛布工芸で織り続けられています。 をみなへしさき沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む(詠み人知らず)万葉集第七巻 ▼丈夫な葛布の座布団は掛川城でも使われていたそうです。数十年間使い続けるうち渋い光沢が際立ってきます。 室町時代の歌人藤原為相 (ためすけ)が掛川に葛布を扱う家が並ぶさまを詠んでいることから、鎌倉時代には葛布が織られていたと考えられています。一説には滝で修行していた行者が川に晒された葛の蔓を見つけ織物に利用できると信徒に教えたとも伝わり、東海道 26番目 掛川宿の土産物として全国に知られていきました。小崎葛布工芸では葛布を自社工房で手織りして、バッグや小物、日傘はじめ、インテリアのスクリーン、襖紙など多彩な製品を制作しています。葛は殺菌力が高く、葛糸を左官材にまぜて室内の清潔性を保つ効果もあるそうです。小崎葛布工芸社長の小崎隆志さんが、2階工房を案内してくださいました。葛布は今も「高機(たかばた)」によって手織りされています。タテ糸には木綿や絹糸を用い、ヨコ糸に葛糸を使います。杼(シャットル)は通常のより大きめで、糸は管にまかず、束の状態で杼にセットします。幅が広い葛糸は、筬(おさ)の打ち方で布の表情が大きく変化するそうです。日本では縄文時代以前からクズ、カラムシ、バショウなどの繊維を利用した布が織られていました。シナノキの樹皮を織った科布(しなふ)、バショウの繊維から織られる芭蕉布、そして葛布は日本三大古布といわれ、平安時代の延喜式には、税として絹や麻と共に葛布が納められていたという記録があります。酒井抱一「夏秋草図屏風」には、秋の草花の代表として葛が描かれています。この絵は尾形光琳「風神雷神図屏風」の裏にあとから描き加えられました。▼ 織る前に水につけることで、繊維が締まり強くなるそうです。 葛はツル性の植物で樹木に巻き付く性質がありますが、葛布にはできるだけ真っ直ぐなツルを選び、外皮と芯の間の内皮を使います。6〜 8月に自生した天然のツルを採取し何本か揃えて丸い輪にしたものを鍋で煮てから流水に浸します。次に「室(むろ)」の中で 2昼夜ほど発酵させると皮が剥がれやすくなり、内皮だけをとったものをよく洗ってから米のとぎ汁につけ、天日でよく乾燥させたものを葛苧(くずお)といいます。これを細かく裂いて端を1本1本結び合わせ糸にします。葛糸づくりは大変な作業で、10キロの葛からとれる糸は100グラムほどしかありません。万葉集第七巻には「をみなへしさき沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む 」(詠み人知らず)が納められています。女郎花の咲く沢のほとりの真葛原の葛を、いつか糸にして私の衣にできるだろうかという意味で、葛布が憧れの布だったことがうかがえます。平安貴族は「蹴鞠(けまり」の際に葛布の袴をつけ。今も京都の蹴鞠保存会は掛川の葛布を使った袴を着用しています。江戸時代には武士の直垂(ひたたれ)、狩衣、陣羽織、裃、道中着に利用されました。 明治になると葛布は掛川藩の庇護を失いますが、明治初期にはタテ糸に木綿や絹を使った襖地が考案され、明治30年頃からは壁紙として米国へ盛んに輸出されました。小崎葛布工芸はオリジナルのインテリアスクリーンを開発し、輸出産業として成功させています。 インテリア スクリーンの制作には、2人がかりで操作する幅の広い織機が使われます。太古から衣服や薬、食料として重宝されてきた葛ですが、近年は利用が減り鉄道や道路、森林、河川などに悪さをするやっかいものとして扱われることも増えています。米国では土壌改良対策として日本の葛が導入されましたが、繁殖力を制御できずグリーンモンスターと言われるそうです。こうした問題の解決策として、小崎隆志さんは葛を紙の原料に使うことを進めています。すでにソフトバンクなど大企業が葛の紙を名刺に使い、活動がひろがっています。その収益の一部は葛布の後継者育成にあてられ、掛川の伝統を次世代につなげることに役立っています。また江戸時代に起きた飢饉の際、葛の根は貴重な食料として人々を救ってきました。繁殖力の強い葛は、食糧難から世界を救う可能性も秘めているのです。 掛川 松月堂の葛湯。 葛布問屋の豪商が建てた竹の丸 旧松本邸 天守閣の北「竹の丸」には北門や外堀を守る重臣の屋敷が置かれましたが、明治になると葛布問屋「松屋」松本義一郎が本宅を建てました。松本家は江戸時代から掛川を代表する豪商で葛布問屋として財を成しますが、明治になると掛川藩への多額の貸付によって逼迫します。7代目 松本文治は掛川銀行を設立して経営を立て直すと、報徳運動家岡田良一郎を支援し農学社を設立。竹の丸周辺で野菜や果樹の種子、苗木、農機具の実験・販売を行ない近代農業の発展に尽力しました。 2階バルコニーには、小川三知と思われるステンドグラスが嵌められています。2階の貴賓室には、葛布壁紙がふんだんに使われています。明治維新で葛布は一時停滞したものの内装材への転換がはかられ、幅の広い襖用生地や壁紙が織れるよう織機が改良されました。明治初期には海外輸出がはじまり染色した葛壁紙が大ヒット。明治末には10万反も生産され静岡の主要産品になります。昭和11年、松本家は東京へ転居し竹の丸の邸宅は掛川市に寄贈され、改修後に一般公開が始まりました。 ドラゴンシリーズ 123 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 人間の本当の姿 心が自由になるってことは何と気持ちのいいことだろう。本質的に昔から怠け者のオレは人との約束やお袋や家族や子供や仕事や会社などの色んなしがらみから逃れポカポカした柔らかな冬の日差しの木造の縁側でお茶をすすりながら開放的な気分で何の縛りも制約も無いところでボケーっと気持ちよさそうに寝ている黒猫に無意味な先制攻撃を仕掛けて戯れ合いながら生きてゆけたらどんなに幸せなんだろうなどと時々ニヤニヤしながら想像する。 どうせオレの心の中なんて誰にも見えやしない。想像することだけは神様が唯一オレに与えてくれた本当の心の自由なんだよ。だからオレは今でも暇が出来たり嫌なことがあると一人でニヤニヤと色んなことを考えたり黒猫への新しい攻撃方法を想像したりしてニヤけている。誰にもオレの心の中や考えていることを想像すら出来ないはずだ。オレがどこか一人でニヤニヤしていたら素晴らしい恍惚の自由な時間の中でロクでも無いことを想像していると思ってしばらくほっといてもらいたい。なぜに神様は宇宙をも包み込むことができる無限の大きな宇宙をオレ達の心に与えてくださったのか。一人一人の心の内面を知ることはできない。ただ、自分自身には誰にも言えないような内面に湧き上がるような感情があるはずだ。誰にも言えない自分の夢。誰にも言えない自分の失敗。誰にも言えない恥ずかしいこと。誰にも言えない嫌な出来事。オレの心の宇宙が神様だったら、世界はまずいことになっちまう。 世間では自由が無いとか政治や社会がどうのこうのとか情報がどうのと言う議論がなされているし、ネットの情報に溢れた社会の中では携帯からの情報にどっぷりと浸かってしまい偽の情報で騙したり騙されたりしているけれど、人間はそんなものに頼らずとも十分に暇な時間を楽しむことができる。ネットと携帯なんて足で踏みつけてぶっ壊してバラバラにしてゴミ箱に捨てちまった方がいい。その方がよっぽど本当の情報を獲得することができる。みんながググルとかアプルとかインタマとかの稼ぎの罠にハマって騙されちまっているんだよ。みんな、ダサいね。 それに本だって素晴らしい本来怠け者の歴代の熟練者が長い時間を掛けて食えない中で水飲みながら空想した作品の数々が古本屋に行けばいくらでも埃を被って安価に眠っている。そんな血と汗と鼻水の混ざったような凝縮された孤高の時間の蓄積によって丁寧に美しく作られた装丁の本は一昔前の唯一の情報源であり最高の創造物であった。この世が退屈だなんて当たり前で、そんな時には頭中に自分だけの場所を作れば、ギリシャ人にでもジャズミュージシャンでもヒーローにでもアイドルでもなれるんだ。 15家の前の公園を年くらい前から一人の好青年が反対側から現れ颯爽と走ってすれ違うようになった。毎週末の夕方時ごろその代後半の若者は水色のランニングウェアにしっかりとキャップを被りバネの効いた走りでグイグイと少し跳ねるように前だけを見据えて颯爽と走り去ってゆく。初めて会ってから年くらいたち彼もそれ相応に歳を重ねて若々しさは少し失われたけれど、オ 15 レは勝手に彼は爽やかな性格の明るい好青年だと決めつけていた。 先週末日曜の夕方に重い体を無理やり起こして公園を走っていた。公園の角を曲がるコーナーで初めて彼と出会い頭にぶつかりそうになり、不幸にも同じ方向に避けてしまい僕らは正面衝突しそうになった。僕は咄嗟に『ごめんなさい』と声を出し、彼は『どりゃ.』と言う低音のドスの効いた叫び声を上げて走り去って行った。オレは何が起こったのか理解できずその爽やか青年の放っ 6 15 たヤクザのような『どりゃ.』と言う声が、あまりにも想定外、あまりのショックで、その場にしばらく立ち尽くした。年間に積み上げられた前向きな感情は一瞬の内に見事に壊れオレの心の芯にグサリと深く何かが突き刺さった。 20 しかし考えてみればオレが勝手に作った想像の姿であり、人の本当の姿は何もわからないと言うことをまざまざと体験した出来事だった。それから彼の姿を見ていないがその出来事が何を意味しているのかをしばらく時間を掛けて考えてみたいと思っている。 オレ達の人生は現実と空想の混じり合ったようなモノだ。何が自分の心の実像なのだろうか。テレビに映っている人物の姿は、彼の本当の姿なのだろうか。最近も元アイドル司会者の男性の実態について色々と話題になっているが、当然のことだが誰にも人間の実像はわからない。 まさか人々は社会が求めて出来上がった虚像だけを彼の実像だと思ってきたのだろうか。テレビで見える姿も実像であり、また違った姿も実態であり、表に見える姿だけから人間の全てを知ることなどできない。自分のことを考えてみると人に言えないような個人的考えや恥ずかしくて言えないことばかりのはずだ。それが人間の本質と言うものだ。その人間としての当たり前のことを忘れ社会や自分だけの物差しで人間を測ることはできない。 日本は島国と言う特別な環境の中で育まれた独特の美しくて繊細な文化慣習がある。違った国の人々にも、その土地で育まれた考え方や文化や慣習がある。今の時代は世界の国々の距離が縮まり、それぞれを受け入れる寛容さを持たなければ共存できない世界が一つの国になるような時代となった。他人を批判し、攻撃している人々の心の中を覗き込みたいものだ。どんなに恥ずかしくて人に言えないことを考えているのだろうか。本来、オレ達人間とはそんな恥ずかしい存在では無いだろうか。 批判と攻撃ばかりじゃなく、オレ達も時に他人の失敗を許すことも人間として大事なことなんじゃないか? 掛川城に近い「ねむの木学園 城下町やさしいお店」は、ねむの木学園のグッズやガラス製品を扱うお店です。壁面の絵には、こんな言葉が添えられています。『この絵は宮城まり子がねむの木学園のこどもたちと一緒に描いたものです。外壁の塗り替え工事を行うにあたり、この絵をどうするか、こどもたちと相談しました。(中略)こどもたちの意見は、「お母さんが描いてくれた絵には、誰も手を加えてほしくない。ぼくたちが描き直すこともできない。色が褪せて行ったとしても、このまま残してほしい。」というものでした。』 掛川駅北口からバスに乗り、ねむの木学園へ行きました。ねむの木学園は1968年歌手・女優の宮城まり子さんによって浜岡町(現御前崎市)の浜岡砂丘に設立され、1997年に掛川市上垂木「ねむの木村」へ移転しました。ねむの木学園・特別支援学校ねむの木は、発達障害・知的障害・身体不自由の重複障害など、さまざまな支援が必要で家庭での生活が難しい人のための福祉型入所児・者施設です。ねむの木学園やさしいお家、ねむの木学園星に祈る、特別支援学校ねむの木などのほか美術館や文学館、喫茶店、小さなお店が点在し、山の自然のなかで一日楽しめます。ねむの木村に最初に建てられたログハウスを利用した「ねむの木図書館」。薪ストーブの火をながめながら、あたたかな空間でゆっくり読書を楽しめます。もとは浜岡にあった図書館の絵本や児童書、寄贈された本などを中心に、宮城まり子さんのパートナー吉行淳之介さんの幅白い交友関係を感じさせる本も並んでいました。 あかしあ通りには、こどものお店毛糸屋さん、お花屋さん、ガラスギャラリーなどが並び、こどもたちの絵をあしらったグッズや織物作品、ガラスなどがこどもたちによって販売されています。学園のこどもたちが大人になり、自分たちの絵画、織物、ガラス、農産物を販売するマーケットをたて、街の人々を招き入れて共に生きることが、宮城まり子さんの描いたねむの木村の姿でした。路線バスの終点ねむの木美術館前から山中を15分ほど歩いた所に、坂茂さん設計の「ねむの木こども美術館 緑の中」(1999年)が建っています。平面は正三角の形で、壁を全てガラスにすることで周囲の森とこどもたちの絵が重なって見えます。屋根には「ペーパーハニカム三角格子構造」を採用し、FRP折板をハニカム構造にした上に PVC(合成樹脂)膜を張っています。 天井の膜構造やガラスの壁は「こどもの絵を自然の光で見てほしい」という宮城さんの願いを叶えるために考えられ、室内のライトは普段は消されています。屋根が軽いためか柱は細く本数も少なく見えます。 深い渓谷の道を歩いたら「喫茶MARIKO」でひとやすみ。美味しいコーヒーが待っています。 自然光のふりそそぐ北欧風の店内。ホットケーキ、アイスクリーム、ぜんざい、コーヒー、ハーブソーダのほかビーフカレーもあり、テラスからは桜木池の景色を楽しめます。自然のなかで贅沢な時間を過ごしていると、宮城まり子さんがいった「通常よりもゆっくり、ゆっくり育っているこどもたちの、内なるすばらしい才能が毎日産まれている」ことを実感できました。 浜岡から掛川への移転が始まった1994年、最愛のパートナー吉行淳之介さんを失った宮城まり子さんは、色とりどりの木々が育つ裏山の自然林を見て、ここに文学館がほしいと思ったそうです。ねむの木学園をはじめた理由を問われると「愛しちゃったのよこどもたちを」と答えていた宮城さん。「はじめたら絶対にあきらめるな」という吉行さんの言葉が、ねむの木の活動を支え続けました。 茶室「和心庵」 文学館に併設された茶室「和心庵」は、「福祉を文化と読んで欲しい」という宮城まり子さんの信念を感じる場所です。ねむの木学園の小中学部はオープンクラスになっていて自分の気に入ったクラスを選べます。美術、音楽、ダンス、農業、茶道に長い時間をとり、本格的な練習が行われています。谷口六郎さんの指導をうけた絵画は世界各国で展覧会がひらかれ、コーラスやダンス、演劇も高い評価を得ています。裏千家 15代家元 千宗室(現 千玄室)さんによって命名された「和心庵」では、うす茶とお菓子をいただけます(要事前の問い合わせ)。宮城まり子さんが茶道を導入したのは、まずは「どうぞ、失礼します、お先に」といった挨拶やお辞儀を徹底すること。さらに精神の集中をはかり、感謝、協力、責任、思いやり、清潔、整頓といったことを身に着け「あの人に何かしてあげたい」というこどもたちの気持ちを叶えるためとのことです。 暮れの京都南座「吉例顔見世興行」に懲りずに出かけた。コロナ以降ようやく元に戻り、昼の部、夜の部の2公演となる。料金も大幅に上がったが、1年に1度の顔見世興行、そこは奮発していい席を選んだ。 演目は仁左衛門の元禄忠臣蔵「仙石屋敷」他。吉良邸討ち入りを終え、沙汰を待つ大石内蔵助と赤穂浪士四十六人が一同に詰めた仙石屋敷。幕府大目付仙石伯耆守と大石内蔵助との問答に、浪士たちは時ににじりより時に啜り泣き、主君の恨みを果たしたその想いと、尋問をする伯耆守に大石内蔵助が、幕府のご政道に対して異議を申し立てるというもので ある。切々と心情を述べる内蔵助のセリフは、仁左衛門は 80 歳を超えているが、まる で大石内蔵助本人がそこにいるかのように、澱みなく、仇討ちの真意、想いを明らかにする。暮れの南座は忠臣蔵の色々な場面を演目とするが、仙石屋敷を見るのは初めてである。 歌舞伎にハマったのは 年前、ここ 南座で初めて顔見世興行で仁左衛門の「土蜘蛛」をみてから。大立ち回りで糸を操り、大格闘する土蜘蛛の仁左衛門に魅入ってしまった。それ以降東京の歌舞伎座でも仁左衛門が出ると知れば、 W E Bでチケット発売日の朝に、花道を見られる前列の席を探した。とにかく席優先で、日にちは二の次。いい席は会員によってすでに購入されている。何度も席次表を確認して、空いている席があれば、急いでポチッと確保する。チケット引き落とし口座で O Kまでいかないと、その間に確保した席がなくなってしまうこともある。一瞬のことだが、その時はまた最初からやり直す。そんなことは何度もあったが、大事な予定が入っている日を忘れてポチッとし、別の日で二度買いしたこともある。支払まで済ませたものは、キャンセル、払い戻しは一切できない。そのことはちゃんと決済前に確認画面が出ているが、焦っているとそれを見落としてしまう。玉三郎が共演となれば、席はあっという間になくなる。チケット発売日はパソコンの前で席の確保が最優先の仕事となる。 10 超超長台詞である。 コロナ以降、香川の金比羅歌舞伎に行く機会はなくなった。公演が中止になったこともあるが、毎年4月の金比羅歌舞伎には、岡山から瀬戸大橋を渡ってうどんツアーを楽しみ、桟敷でお弁当を食べながら歌舞伎を観るの 10 が恒例になっていた。今は、しんどさが先に立ってしまい、金比羅歌舞伎 10 は行けていない。しかし、京都までならなんとかなる。暮れの南座「顔見 10 世興行」だけは、幾つになっても行きたいと思っている。仁左衛門や玉三郎がずっと舞台に立っていることを願って・・・・ 今回南座で、年前をプレイバックした。初めての南座に興奮して席に荷物を置いたまま中を見学。開演5分前ブザーが鳴って戻ったら、荷物を置いた席に人が立っている。係の人もいて何やら騒がしい。席は2階の正面席。特別席だった。今ならわかる。こんな席を手に入れられるわけがないことを・・・・扉の番号に右とあるのを見落としていたのだ。大慌てで自分の席を探して座った途端にドッと疲れて睡魔に襲われた。結局何を観たのかよくわからないままの4時間半だったが、歌舞伎の世界をたっぷりと味わい、ドツボにハマった。あれから年、今回の席は2階正面、通路後ろの最前列真ん中。ご夫婦らしきお二人が仲良く並んでいる。年前が頭をよぎる。何度もチケットの番号を確認するが、間違いない。開演5分前のブザーがなり始める。係の人を呼ぶ。間違えていたのは、座っていたお二人、真ん中の席なので、列の人が一斉に立つ。申し訳ないと何度もご主人が謝る。いえいえ私も間違えたことあるんですよ・・・・ そう、南座の2階席は分かりづらいのだ。席は探せただろうか、気の毒にもなる。あの時の忠臣蔵は、内蔵助の山科閑居の場、討ち入り計画をひた隠しに隠遁生活を送る大石内蔵助、今回は討ち入りを果たし裁きを待つ内蔵助。忠臣蔵はどこを切っても歌舞伎の演目である。暮れの京都南座顔見世興行、懲りない面白さはまだまだある。今回怪我で出ていなかったが、愛之助や中車、癖のある独特の雰囲気で見栄をきる姿がいい。扇雀の美しい踊りや孝太郎の女形もいい。耳をそばだてないとセリフがよく聞こえない時もあるが、長唄、三味線、鳴物など、華やかに彩る大道具や衣装など、歌舞伎には面白いものがいっぱい詰まっている。元気でいればこそまだまだ楽しめる。 掛川は静岡県のなかでも遺跡の多い場所として知られ、掛川埋蔵文化財センターには縄文から江戸まで幅広い発掘品が展示されています。特に興味をひいたのは、八坂地区の栗下・メノト遺跡から発掘されたカゴでした。 栗下・メノト遺跡ではドングリを貯めた穴が 20カ所以上発見されました。穴の底からカゴ、ザルの 破片が見つかり、穴の内側には竹ヒゴの編み物が巻き付けてありました。縄文人はドングリ、トチノミ、 クリ、クルミなどの木の実をカゴに集め、それを小川に浸してアクを抜き皮をむきやすくしてから天日 にさらし、石器ですり潰して土器で煮炊きしていたと考えられています。狩猟に使われた弓矢のヤジリ(石鏃)には黒曜石が使われ、150km離れた長野の諏訪から運ばれていました。 栗下・メノト遺跡は逆川と海老名川に挟まれた丘陵地帯にあります。3000年ほど前の気温は今より少し低く、ドングリの木やシイノキなど照葉樹が森の半分を占め、ヤマモモ、サカキ、スギ、クルミ、エノキ、ウルシなどが混在した深い森でした。湿地に生えている細い竹(シノダケ)を材料に、様々な編み方でカゴが編まれていました。また麻、 土器の底に残っていた編み物の拓本。カラムシ、葛などからとった繊維を糸にして、布、ヒモ、衣服が織られました。 話題の和紅茶や柴田牧場「しばちゃんちのジャージー牛乳」。 特産物直売所では、農家がもちこんだ野菜、果物が名入りで販売されています。サトイモだけでもヌメリのある白芽(赤柄、青柄、石川小芋)とホクホクする赤芽(海老芋、セレベス)が揃っていました。トマトなど新鮮野菜や地元名物の珍しい食材も多く、掛川の豊かさ、地域のエネルギ−を感じます。 掛川名物の「自然薯」は一本、一本吟味して購入されていました。沢山の種類のキノコ、温かな作りたてコンニャク、穫れたてのしらす、つきたてのモチ、無農薬レモンなどなど、美味しそうなものばかりで価格も手頃です。 うまい処(レストラン)では、地元の農産品で作ったおかずをカフェテリア式で選べ、羽釜で炊いたご飯と一緒に食べられます。その他喫茶コーナーでは石窯の焼きたてパン、ジャージー牛乳のソフトクリーム。自然薯とろろ汁や遠州そばのそば処。深むし茶を楽しめる茶処などが揃っていて、縄文時代から続くまつりの興奮を感じました。 枕草子にうたわれた事任(ことのまま)八幡宮 平安貴族の信奉をあつめた事任八幡宮。 ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき。枕の草子 遠江一之宮事任八幡宮は、清少納言枕の草子 225段で「ことのままの明神いとたのもし」と紹介され、言葉のまま願いが叶う社として京都の平安貴族にも知れ渡っていました。 事任八幡宮の主祭神己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は、言の葉を通して世の人々に加護を賜う神として慕われています。東海道の三大難所小夜の中山(さよのなかやま)の入口として多くの旅人が立ち寄り峠越えの安全を祈りました。西行は歳をとってから小夜の中山をまた越えられた喜びを歌に詠んでいます。 大日本報徳社明治8年(1875)、掛川の豪商で二宮尊徳の報徳思想を学んだ岡田佐平治、岡田良一郎親子によって遠江報徳社が設立されました。明治44年(1911)に大日本報徳社と改称すると全国の報徳社の中心組織となり今に続きます。 掛川城内の「大日本報徳社」入口には花崗岩に道徳門・経済門と刻んだ正門が建っています。「道徳」(天賦の良心)と「経済」(天地の恵み)の調和をめざす報徳思想を象徴し、渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉、松下幸之助、稲盛和夫など多くの経済人の指標となってきました。正門の奥に建つ「大講堂」は明治 36年に完成した現存最古の公会堂で、国の重要文化財に指定されています。大講堂の1階は約 80畳もある大広間。2階には洋風なテラス式回廊が設けられ、日本屈指の大規模近化和風建築として知られます。完成後、明治から1度も欠かさずに月一回の常会が開催され、報徳思想や農業の最新技術を伝えてきました。1800回近く続く常会は今も第一日曜日にひらかれ、誰でも参加が可能です。 報徳運動の創始二宮尊徳は、両親と死別した貧しさの中で勤労・倹約を重ね見識を積みました。幕府に認められ600以上の農村を救済した経験を体系化したのが「報徳思想」で、4つの柱「至誠」(誠実に取り組む)、「勤労」(懸命に勤める)、「分度」(力量と物事の関係性)、「推譲」(余剰は蓄え社会に還元)からなります。特に「分度」は尊徳独自の考え方で、自己の力量と自然、歴史、地域などとの関係をわきまえ客観的な貸し借りを悟ると、自分の得たものが与えたものより遥かに大きなことが分かります。その余剰を社会に還元することが「推譲」になります。 岡田良一郎(淡山)は、日本最古の信用金庫「掛川信用金庫」(現 島田掛川信用金庫)の創設者です。庶民のための金融機関として 勧業資金積立組合を設立し、産業組合法の成立をうながしました。 淡山翁記念報徳図書館は昭和2年(1927)の完成で、関東大震災(1923)の影響をうけ建てられた初期RC構造として貴重な建築で す。昭和 27年〜 44年にかけて掛川市立図書館として使われました。 旧掛川市立図書館新掛川市立中央図書館 現在は淡山翁記念報徳図書館の向かいに、木造・RC混構造の市立中央図書館が建っています。 Vol.67 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 目覚まし時計なんて今日は必要ないや 掛川市のとなり島田市を流れる大井川は、「越すに越されぬ大井川」と詠われた橋のない 大河でした。江戸時代は川幅が狭く流れが急だったため、高い料金を支払って川越人夫の力を借りるしかなく、雨で増水すると川止めとなり1カ月近くも渡れないことがありました。島田市神座のみかん畑大井川に木の橋が掛かったのは明治 9年、鉄橋は昭和のはじめでした。 大井川をわたる 牛尾山掘削跡大井川水路橋からは、掛川の城下町を作った山内一豊による横岡(一豊)堤が見えます。一豊は対岸の駿府を治める中村一氏(なかむらかずうじ)と協働して、大井川の流路を変える「天正の瀬替え」(1590年)を行います。それにより現在の志都呂や島田市街の土地が生まれ新田が開墾されました。その 420年後には川の流れを狭めていた牛尾山を掘削する「平成の大改修」が行われました。 横岡(一豊)堤 大井川水路橋は大井川左岸(神座)から右岸(横岡)へ農業用水を送るため昭和 35年に架設されました(現在は2代目)。自動車や人が渡れる珍しい水路橋で、車両は一方通行のため時間によって渡る方向が定められています。対岸の「神座」は日照時間がながく年間を通じて温暖なため、みかんやお茶の栽培が盛んです。明治になり橋が掛けられるようになると、1000人以上いた川越人足や関連の人々が失職しました。大井川に橋が無かったのは、江戸幕府が西からの軍勢を抑えるためと言われていましたが、最近の研究では川越しが一大産業に発展し、その既得権益を守るためという説もあります。失職した人々は茶畑やみかんの栽培など、新しい産業に n従事していきました。神座という地名は、大蛇の頭(神の座)が流れ着いたという伝説に由来するそうです。 大井川流域に出来た新たなフードパーク KADODE OOIGAWA 大井川流域の農産物、特産品を集めたフードパーク「KADODEOOIGAWA」は、2020年、新東名高速と大井川鉄道が交差する地点に、新しいタイプの複合施設としてオープンしました。 KADODEOOIGAWAは新東名の島田金谷 I.C.と大井川鐵道が交差する場所にあり、35年ぶりの新駅となる門出駅が新設されました。島田名産のお茶、ミカンなど農産物の振興や観光のハブとして、大井川農協、島田市、大井川鐵道、中日本高速道路の連携事業として進められ、マルシェ棟、カフェ棟、レストラン棟、観光案内物産販売所の 4棟に分かれ、乃村工藝社によって設計・デザイン・テナントリーシングが行われました。カフェエリア棟は茶畑をモチーフにした階段式のベンチが特徴。キッズパーク「ちゃめっけ」(有料)は大井川の自然をモチーフに、室内外に楽しい遊具が揃い親子で愉しめます。大井川の新鮮な農産物を揃えたマルシェ。野菜、果物、鮮魚のほか、地ビールの種類が豊富です。 「緑茶 B.I.Y.スタンド」は、16種類の緑茶の中から気になるお茶を選び、その場で飲むことができるコーナー。巨大な茶柱には蒸しと火入れを変えた緑茶がならび、性格や.液型、その日の気分といったお茶選びのヒントが記されています。ティーバッグを購入したあとは、お湯スタンドでデカンタにお湯をいれ 90秒待ってから20回上下すると出来上がる仕組み。 道を隔てブリッジでつながった向かい側には、大井川鐵道の門出駅や観光案内所、レストランなどがあります。入口には大井川鐵道を走っていた SLが復元展示され「門出駅」からとなりの「合格駅」への記念きっぷが、合格祈願の札として SLのまわりに掛けられていました。大井川流域を紹介した「大井川でやるべき100のこと」コーナーや島田市の名産品を扱うショップなどがあり、線路側には「門出駅」のホームがあります。ここからは迫力ある SLの通過が見られます(普通列車のみ停車)。 門出駅の隣の「合格駅」はもともと「五和駅」(ごかえき)でしたが、地域おこしとして合格駅という愛称がつけられ「KADODE OOIGAWA」のオープンにあわせ正式名称となりました。五和という旧村名は、大井川の天正の瀬替えの後にできた新しい村(島村・番生寺村・竹下村・牛尾村・横岡新田)が志戸呂五ヶ村と呼ばれたことからきています。 牧之原公園から見た富士山、島田市、大井川。 昨年 月 ンし北側から C 12 24 日国土交通省で、羽田新航路固定化回避の技術検討会がひ らかれました。これは今回 6 回目で 2 年半ぶりの開催。都心上空を飛ぶ 新航路への批判をかわすため、航空会社や大学教授が 別の方法をのんびり検討する会です。師走にご苦労さまです。いま検討されている方法は、一昔前「羽田カーブ」(1)と言われた方法に似ていて、南(東京湾側)から侵入して品川の臨海地帯で急ター 滑走路に着陸します。これにより南風時でも都心上空 を飛ぶ事なく降りられるのです。これは D 滑走路の完成と共に廃止に なりました。滑走路は、年間発着能力を 7000億円近い巨費と漁業者の犠牲のもと東京湾上に作られた 万回から 万回に増やすのと同時に、着陸・ 離陸を分離することを目的にしていました。昨年 1月2が海上保安庁機に追突した事故も、そもそもの原因は と離陸に共用しているからで、世界の大空港では安全性を高めるため離 着陸の分離がトレンドになっています。 2010年にすると、南風時には B、D滑走路を着陸、 A、Cことが可能になりました( 滑走路を離陸に使う 2)。 30 40 1) 南風時に使われていた「羽田カーブ」(青い線)。 その56 青山ナシヲ 名ほど集まって 日に D JAL機 C D 滑走路を着陸 滑走路が完成 8 11 45 それが都心上空を飛ぶ羽田新航路によって、離着陸共用に戻ってしまい ました。これには疑問を持つ専門家もいて、乗りものニュース 2025 年1月2日で使用した従来の運用方法に比べ、滑走路 中島二郎氏(航空アナリスト)は「国交省は滑走路 本を使用する新しい運用方法の 方が多くの発着便を処理できると説明していました。使用する滑走路の数は半減するのに処理能力は増えるというのは不可解」として、離着陸は分離すべきとの提言を行なっています。また中島氏は、新航路によって飛行距離が長くなり二酸化炭素排出が増えている、海上自衛隊下総基地や航空自衛隊入間基地の飛行経路に影響を与えている、着陸時の降下角度が 度と急角度、騒音が東京都の環境確保条例を上回っていることなどを問 題点としてあげています。こうした数々の問題を抱えながら、国交省は羽田新航路をやめる気はありません。しかし在日米軍のために変更する可能性がでてきました。昨年 月、米軍情報紙「星条旗新聞」は横田基地にある在日米軍司令部の赤坂 移転について報じています。司令部からは毎日定期的に赤坂の米軍ヘリ基 2 羽田空港への導入可能性のある飛行方式 【RNPAR】 【RNP+WPガイダンス付き】 (Way Point) (Required Navigation Performance−Authorization Required) 【概要】 【概要】 測位衛星からの信号を元に、航空機に搭載されたコンピュータが自 測位衛星からの信号による経路を飛行ののち、進入復行点以降、ウェイ 機の位置を把握しながら計算して飛行する、精度の高い曲線経路を含 ポイントを参考にしながらパイロットの目視により進入する方式 む進入方式 航空機上のコンピュータにより作られた着陸コースこの地点までに滑走路を視認できれば滑走路への進入を継続できる 【具体的取組事項】 .飛行方式単体の安全性評価 ⇒基準策定 . A・C滑走路への同時進入のための安全性評価 ⇒基準策定 .航空機の運航に関する基準の整理 .シミュレーションによる運航手順、パイロット操作負荷 等の検証 航空機上のコンピュータに曲線のより作られた着陸コース飛行経路 【具体的取組事項】 . A・C滑走路への同時進入のための安全性評価 ⇒基準策定 . RNP-AR進入方式の実施率向上のための許可要件 見直しに係る検討 .対応機材拡大のための運航者への働きかけ 羽田新航路固定化回避技術検討会の資料から。「羽田ターン」に似た着陸を GPS等を利用して行います。国交省は、検討会の目的はあくまで技術研究であり、実施する予定はないと言い続けています。 本を 3・ 昨年 100 m いますが、戦後 80 10 地(青山公園)へ向けてヘリが飛んでいますが、司令部ごと赤坂へ移転しようとの計画です。あの狭い場所にどうやって司令部を設けるか分かりません。青山公園や青山墓地を基地化するのかもしれません。 月、司令官に就任したスティーブン・ジョスト空軍中将は、在日 米軍司令部を「統合軍司令部」に改称して格上げし、部隊指揮権の一部を付与する再編計画を実行予定です。一方自衛隊も陸海空3自衛隊を一元指揮する「統合作戦司令部」を創設します。連携を強化するためにも日本政府、米国大使館、防衛省に近い赤坂に引っ越したいのでしょう。 そうなると首都圏上空を飛んでいる横田〜赤坂間の米軍ヘリが増え、羽田新航路と低空でクロスする問題が生じます。現状も青山墓地あたりで ほどの低空を飛ぶ米軍ヘリが旅客機の下を通る事があります。こ うした航空法違反の状況を目撃されると困るため、新航路を廃止し米軍ヘリの往来を優先する可能性があります。赤坂に米軍司令部が移転すれは、我が国の防衛省よりも首相官邸や国会議事堂の近くに他国の司令部があることになります。日米同盟は重要と思