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諏訪湖 時空を超える美意識 スワリーテイル https://collaj.jp/稲熟月 2024 太古のロマンあふれる諏訪湖(長野県)その名は古代中国のシュ ホウ(神の意思判断を仰ぐ)から来ているともいわれます。 諏訪盆地は「フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線」と「中央構造線」という日本をつらぬく2本の大断層が交差する場所です。諏訪湖は12kmにおよぶ中央構造線のズレによって地盤が沈み込むことで出来たと考えられています。 1989年頃、藤森照信さんのもとに第 78代当主守矢早苗さんから史料館を作りたいという相談がありました。藤森さんは最初、下諏訪出身の伊東豊雄さんや友人の石山修武さんを推薦しようとしますが、悩んだ末に自分が設計しようと決意します。 館内では、御柱祭とならぶ諏訪神社上社の祭礼 「御頭祭(おんとうさい)」を紹介しています。御頭祭は旧暦 3月酉の日に上社前宮で行われ(現在は4月15日)、江戸中期の旅行家 菅江真澄の記録をもとに御贄柱(おにえばしら)が再現されました。頭を尖らせたヒノキの角柱にコブシの枝や柏の葉をつけ、75頭の鹿の首をまな板の上に並べ、猪、白鷺、ウサギ、雉子、山鳥、鯉、鮒、肉、米、餅、海老、魚、蛙などを神に供えます。 片方の耳を欠いた鹿は、神の矛にかかったといわれています。 史料館には、歴代の神長官が遺した御柱祭など祭祀の伝承や手記、織田、武田、北条等戦国武将の書簡、鹿の肉食を許した札といった貴重な史料約 1600点(県宝 155点・茅野市指定文化財 50点)が保管されています。防災のため史料保管庫は鉄筋コンクリート造ですが、壁・天井に土を塗り、古民家のような環境を維持するよう工夫されています。建設に先立ち行われた発掘調査では、鎌倉時代の常滑焼、瀬戸焼、中国明代の青磁が出土したほか、鉄砲玉も見つかりました。藤森さんは最初、諏訪に多い「本棟造り」の古民家をモチーフにしますが、歴史主義ではないと思いたち、吉阪隆正の著書のなかに「泥の塊のような蒙古の民家」を見出しスケッチを描きます。それは丸い土の塊に棒がささり、布がヒラヒラとしているような建物でした。環境を壊してはいけない、誰にも似ない、歴史の様式をしないを設計の目標としたそうです。 Vol.63 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 白い歯を見せてニッコリ笑う大きな顔をしたお月さま西の空のむこうからキキに話しかけてきました 敷地内の高台には御頭御社宮司(おんとうミシャグジ)総社が鎮座しています。ミシャグジ神は諏訪を起源とした日本最古の信仰のひとつといわれ、総社を囲む木々(カジノキ、カヤ、クリ)は市の天然記念物です。銅鐸をルーツにもつと考えられている鉄鐸は、ミシャグジ神の鈴「サナギ鈴」といわれます。 大祝家墓所 諏訪を支配してきた大祝(おおほうり)諏訪家の墓所が、御頭御社宮司総社の近くにあります。諏訪大社建御名方神の生ける神体として崇敬され、その神事を守矢家が司りました。大祝家の跡取りは 8歳になると、諏訪大社上社前宮の精進屋に 30日間もこもり、わずかな飲食のみで潔斎したのちに、神長官によって神を降ろす儀式が行われ生き神となります。 大祝家墓所から坂道をあがると、藤森照信さんによる3棟の茶室が見えてきます。 「空飛ぶ泥舟」は、御柱のような 4本脚とワイヤーで宙に浮かんでいます。2010年茅野市美術館で開催された藤森照信展のワークショップで市民の手によって作られ、翌年藤森家の畑に移設されました。柱から渡された 2本のワイヤーは底の部分に通されていて、その上に茶室を載せた構造のためハンモックのように心地よく揺れるそうです。中は 3畳ほどで、テーブルのまわりに椅子が置かれ薪ストーブが設置されています。 「高過庵」(たかすぎあん 2004年)は、一夜亭や矩庵を作った藤森さんが、自分のための茶室が欲しいと思い立ち、実家の土地に建てた茶室です。約 6mの 2本のクリの木で支えられ、ハシゴを登って床に開かれたにじり口から入ります。藤森さんは足場が外されて初めて登ったとき、揺れるのにそなえ茶室の中に入ったとたんに身を伏せたそうです。高過庵と見つめ合うように建つ竪穴式茶室「低過庵」(ひくすぎあん)は、縄文アートプロジェクト2017の一環として市民参加のワークショップで作られました。石垣の際に埋め込まれ中は暗闇ですが、屋根がスライドすると一気に空が広がります。2021年に開館した茅野高部公民館は、設計を手掛けた藤森照信さんの提案で、建設に地域民が参加しました。屋根を貫く柱は、高部山から切り出して皆で皮をむいたヒノキ材で、かつて立っていた火の見やぐらを継承し半鐘を吊っています。屋根の鋼板を叩いたり、茅野北山の杉を焼いて外壁にしたり、和紙の照明器具を作ったりと、大勢が参加して公民館を作り上げました。2021年 9月の集中豪雨により下馬沢川流域で土石流が発生し、住宅など 64軒に大きな被害がありました。公民館にも土砂が流入し、県道岡谷茅野線も長期にわたり通行止めとなりました。 五庵 東京オリンピック「パビリオン・トウキョウ 2021」の企画として、国立競技場近くビクタースタジオ前に設置された茶室「五庵」が藤森照信さんの生家近くに再築されました。東京オリンピック後に解体されものを藤森さんが譲り受け、再建築では壁面緑化されていた1階部分を取り除き、巨岩の上にヒノキの柱 4本で茶室を支えています。 17 約 〜 ■セファルディの「安息日のシチュー」 前回お話したようにユダヤ教の戒律では、「土曜日の日中は火を使って調理をしてはならない」決まりです。では、古くからそのような戒律に縛られてきたセファルディ系のユダヤ人は、土曜日のランチにどのような料理を食べてきたのでしょうか。その代表的な料理が「安息日のシチュー」(adafina, hamin等地域により多様な呼称あり )です。要は、肉と豆と野菜の煮込みです。ざっと材料をご紹介すると、肉は、豚以外の下記の肉。ラム(羊)の肩肉、牛の胸肉やバラ肉、もしくは鶏肉(1羽丸で)。好みによってこれらの肉を組み合わせる場合も。ひよこ豆(乾燥)は必須で、その他の乾燥豆各種を好みで。あとは調味的な意味で、玉ネギ、ニンニク、クミン、パプリカ、ターメリックにシナモン。こうした素材をそれぞれに下処理したうえで、鍋に蓋をして、超弱火で長時間煮込みます。「長時間」がどれくらいかというと、金曜日の日没前から土曜日の昼前までの、 時間煮込みます。その昔は、蓋の周囲をパイ皮で止めて、 密閉して煮込むことも行われていました。 「その昔」がいつ頃からかというと、少な くとも700年ほど前から、このお料理が盛んに作られていたことが判っています。「記録」がたくさん残っていますから。 ■セファルディのはじまりとその職業 ユダヤ人は紀元前6世紀頃からイベリア半島に移り住み始めます。古代ローマ帝国が半島に初めて足を踏み入れる(紀元前218年)、はるか以前のことです。では、彼らは広大なイベリア半島のどこに住み始めたのか。地中海沿岸のカディス(アンダルシア州)やカルタヘナ(ムルシア州)などの港街です。中でもカディスは今から3千年以上の昔、フェニキア人が築いた古代からの交易拠点です。半島のユダヤ人たちはこうした交易の盛んな都市に集中。ローマ帝国を初めとする様々な支配者が興亡を繰り返す中、宗教的絆で強く結ばれた独自の集団として、着実にその存在感を高めていきました。 「セファルディ」とは、旧約聖書に登場する地名(ヘブライ語でイベ リア半島を指す言葉)「スファラド」(Sepharad)から来た呼び名です。このようにセファルディ系のユダヤ人は、その多くが港町を中心とする都市の住民として、多様な小商売、キリスト教徒は就くことができなかった貸金業、領主の代理としての徴税請負人(税金の取り立て代理人)、手工芸品の工房経営等の仕事に就く人々が大半でした。また一部は領主様の宮廷で、外国語の能力と金融の知識により、財政の実務や時に外交官的な役割をも担当した「宮 18 西欧食文化ヒストリー 講師大原千晴さん 早稲田大学エクステンションセンター中野校2024年 10月30 日 日日 11月6 2024年秋講座 廷ユダヤ人」。同じ能力を活かして、当時は限られた人だけが実現できた遠隔地との交易で大きな富を築く豪商。こうしたエリート層もいて、少数ながら目立つ存在でした。その暮らしの水準は今風に言えば、ミドルクラスからアッパーミドル、一部はアッパークラスに準ずる豊かな暮らしぶりでした。いずれにしても、当時のイベリア半島の人口の約9割を占めていた農民一般から見れば、「お金持ち」と見られていて、やっかみの対象であったことは間違いありません。その生活水準の高さは、先程挙げた「安息日のシチュー」に代表される、彼らが残した食文化の豊かさを見れば一目瞭然です。 ■調理は薪の暖炉で 彼らの家で調理はどうしていたのか。基本は暖炉です。それも大半は、煙突なし。日本の昔の農家の「囲炉裏」と大差ありません。西欧の農家では日本と同様に部屋の真ん中に「暖炉を切る」場合が珍しくありませんでした。それに対して、都市の住民の家では、現在の暖炉のように、煙突はないものの、壁付けする形で暖炉が置かれる場合も多かったようです。この暖炉で料理をしていました。暖炉一つで、暖 房と調理をおこなっていたわけで、燃料は薪です。薪ですから、新たに火を起こすのは、そう簡単ではありません。マッチさえなかった時代ですから。火を起こすこと自体が「ひと仕事」だったのです。だからこそ「安息日には仕事をしてはならない」という「仕事」の中に、「新たに火をおこすこと」も含まれることになり、結果として、「安息日には新たに火を起こして料理をしてはならない」ということになってしまったわけです。 80 17 ■「熾き火」(おきび)で長時間煮込む鍋料理 では、「安息日のシチュー」はどうやって調理したのか。金曜日の日没後から時間も「弱火」とはいえ、調理を続けていくわけですから。戒律破りじゃないの?そう思ってしまいます。ここで、厳しい戒律と日常の折り合いをつけるために考え出された「一種の方便」が登場します。「方便」などという表現は失礼かもしれませんが、異教徒である私の目には、間違いなくそう映ります。日本で炭や練炭を燃料とした囲炉裏や火鉢での火の扱い方、歳以上の方なら、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。夜寝る前に、囲炉裏や火鉢の炭や練炭は軽く灰で覆う。すると、酸素の供給を大幅に絞られた炭の火が弱まる。ごく僅かな窓のような部分を残して、炭(練炭)を灰で覆う。すると、炭は完全に火が消えることなく、白く 日日 、、27 (毎水曜第第2回第3回第4回第西欧食文化史の現在を知るフランス料理中世.19世紀中期グルメ誕生への道筋を知るモノ食卓・台所・宴席の人間社会史ミルク(牛乳)と乳製品の昔と今欧州農民の仕事と暮らしの歴史その1 15回回(食器や台所用具や農具 10:40.12:10)全5回 )から探る、 ※詳しくは左下のリンク(早稲田大学エクステンションセンター)をご覧ください。 なった炭の燃えカスの間から点のように灼熱の赤い色が僅かに見える状態となり、しかし決して消えることがない。これを「熾き火」(おきび)と呼びます。翌朝、かぶせた灰を取り除いて、少し口で吹いたりして空気を送り込むと、一気に火が戻る。これで毎日火起こしをすることなく、暮らしていたわけです。薪でも話は同じです。西部劇映画でよく出てくるでしょ、カウボーイが夜、大きな焚き火をしたあとに、周りの燃えさしや土をかぶせて火を極小にして、その周りで体を横たえて寝る。これで朝まで暖を取ることができた。 セファルディ系のユダヤ人たちは、金曜日の日没前に、暖炉の火を「熾き火」状態にして、その上に「安息日のシチュー」の鍋を置きました。場合によっては、鍋の蓋の上にも「小さな熾き火」を作って乗せたりしている。そして、翌日土曜日の昼前まで、この状態のまま置いておく。金曜日の日没前に沸点近く鍋の温度を上げておけば、あとは超弱火でもゆっくりと加熱されて煮込まれていく。時間後にはトロトロに煮込まれた「安息日のシチュー」の出来上がり。おいしいに決まってい 17 ます。確かにこれなら、「安息日に新たに火を起こすこと」にはなりません。戒律の厳しさと、その戒律と折り合いをつけるための「方便」が、はからずも美味を生み出した、という感じです。 このトロ火で長時間煮込んだ「安息日のシチュー」を子供の頃から食べて育ったユダヤ人の中から、「電熱を制御することで長時間のトロ火鍋を実現できるはずだ」と考えついた男が登場します。アービング・ナクソン(1902〜1989)という様々な発明をしたミニ・エジソン的な人物です。日本 でも半世紀ほど前に流行し、今も作り続けられている「電気スロークッカー」を考案し、1940年に米国で特許を獲得しています。前回ご紹介した「サバス・モー ド付きの電子レンジ」のさきがけとも言えそうです。それにしても、なぜユダヤ人は、そこまでして古来の戒律にこだわりつづけるのか、ほんとうに不思議です。 ■命がけの「安息日のシチュー」料理 命がけで戒律を守り続ける。特に古い時代には余計にそうであったらしいと、私の目には映ります。その戒律遵守の象徴のような料理が「安息日のシチュー」です。少なくとも700年以上前から作り続けられてきたことが判っています。「当時の記録」が山程残されているからです。その「記録」は料理人のメモ書き ではありません。また個人の日記でもありません。ではいったい、何か。裁判の記録です。悪名高き「スペインの異端審問」という宗教裁判の記録です。その中に「安息日のシチュー」に代表される、中世以前からユダヤ人の家庭で丁寧に作られてきた料理とその作り方や材料に関する記録が山ほど残されているのです。では、なぜ、宗教裁判である「異端審問」の裁判記録の中に「料理」が山ほど登場するのか。その背景を探っていくと、激しい命がけの宗教的対立の中で、食文化が「民族の根幹たる宗教的戒律遵守の象徴」という重要な役割を果たしてきた姿が見えてきます。日本の文化とは全く異なる他者の食文化を知ることで、私達は改めて自分自身を知ることができるはず。これについては、次回改めて詳しくご紹介したいと思います。 諏訪大社 上社本宮 今も大きな謎に包まれる諏訪大社は、諏訪湖の南側に上社前宮、上社本宮、北側に下社春宮・下社秋宮という 4社で構成されています。いにしえの諏訪湖は現在の市街地まで広がっていたと思われ、各社は湖に面し水上交通で結ばれていたようです。上社前宮は諏訪信仰発祥の地といわれ、深い森に包まれています。生き神である大祝家の居館が設けられ大祝職位式など多くの祭事が守矢家によって司られました。下社春宮・秋宮は春と秋で御祭神が行き来します。黒曜石の産地に近い場所にあり、朝廷によって造営されたという説もあります。雨・風・水を司り、狩猟、農業、航海、戦の神として信仰された「お諏訪さま」は北海道から沖縄まで広がり、今も1万社以上の分社が全国にあります。神長官守矢史料館からやまぶき街道を北上し、諏訪大社上社本宮を目指します。守矢家は前宮と本宮の中間に位置し、御祭神の生活の場といわれる前宮と祭事の中心である本宮を行き来しやすかったことが分かります。東参道に入ると鳥居が見えてきました。明治の神仏分離令によって、参道に建ち並んでいた多くの寺院や僧坊が取り壊されました。諏訪大社上社本宮は 4社のうちで最大の規模をもち、背後の守屋山を御神山として御祭神建御名方(たけみなかた)神を祀っています。銅製の鳥居をくぐると、入口御門と布橋が表れ、その横には二之御柱が立っています。布橋は三十八間あり、かつては大祝しか渡ることを許されませんでした。 布橋から見える茅葺き屋根の 2棟の御宝殿(上)は本宮で最も重要な社殿で、左の東宝殿と右の西宝殿を 6年に一度の御柱祭にあわせ交互に建替え、収められている神宝を新しい宝殿に移します。この茅葺き屋根からは雨が降らなくても水滴が落ちると言われ、諏訪大社が水の守護神と崇められる由縁となっています。 宝殿のとなりには徳川家康から寄進された「四脚門」が立ち、その後ろには常に水を湛え続ける苔むした神聖な巨石「硯石」。その背景にはご神山である守屋山がそびえます。 幣拝殿は1838年から8年かけて、2代目立川和四郎富昌が建立した社殿で特に彫刻が見事です。本殿はなく幣拝殿に向かって参拝しますが、ご神山の守屋山とは 90度異なる富士山の方向をむいています。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 31時間目 写真&文大吉朋子 10月は 2025年のエネルギーが動き出します。 ヨガ数秘学では10月は翌年の縮図のような1カ月と捉えます。10月から徐々に翌年のエネルギーが動き出し、2月頃にその年のエネルギーへと切り替わります。10月の1カ月に得た感覚や思い、行動は 2025年を映し出します。スムーズに進んだと感じたらそのまま進めていき、上手くいかないと感じたことは修正して翌年へ備えます。 2024年 10月のエネルギーは「9」。完結、終わり、直感、執着と手放し、死、知識、知恵、学び、マスターなどを表します。ひとつのサイクルが終わるタイミングで、今年 2月頃から始まったプロジェクトや課題があればこの10月で一旦完結します。すると11月からは新しいサイクルへと自然に進んでいく、といった流れです。長らく終わらせるか否か、悩んでいることがある方は、ぜひこのタイミングでひと区切りを。流れに乗ればおのずと次の扉が開いていきます。 終わりの役目を担う「9」は、“執着と手放し”というのも大切な要素です。感情の執着、固執した思考、過去の経験や体験から脱却できない、など何か心当たりがあればこのタイミングで潔く手放しましょう。長い時間携えてきた感情や思考や経験を手放すことはそれなりの覚悟が必要ですが、いらないものは全部捨てた!と手放しても、″本当に大切なもの″は残ります。 この10月は背負った重荷は一度手放し、心身思考を身軽にし、直感を信じてお過ごしくださいませ。学びを深める時間としても、有意義な1ヶ月です。 夏の終わりのひとりごと。 毎年、7月 8月の夏時間はなんだか瞬く間に過ぎていき、「海のシーズンですね!」と言われるわりに、実はいつも以上に海から遠のく時期でもある。真っ黒に日焼けしてこその夏!というイメージは叶わぬまま、ランニングの日焼けで終わるここ数年。夏は短いというのに、庭の芝生はぐんぐん伸びて、木々も知らぬ間にびっくりするほど生長している。 と、夏の終わりを寂しがるのはお決まり的で、灼熱の太陽が和らいでくるのは正直ほっとするし、早朝の救急車のサイレンで目が覚めることも減ってきて、なんとなく安堵したりもする。日中は夏の太陽が照り付けて汗だくでも、日が暮れてくると秋の風が吹いていて、確実に季節の移り変わりを感じる。周辺には緑が多く、昼も夜も虫の大合唱となり、夏は耳が痛いほどの大音量で暑さに輪をかけてくる。それが気づけば秋の音色となって、日が落ちると賑やかな虫の音が実に涼やかな空気を作り出す。 夏の醍醐味を味わうことなく夏時間が過ぎ、せわしくなく過ぎる日々をありがたく思いながらも、ふと、「とっておきの休み時間」なんてタイトルにしながら近頃の私の休み時間ってどんなだっけ? と頭をよぎった。 そんなことを考え、ランニングを終えて家に着く。夏終わりの独特な空気とともに、暗い空にぼわ.んと浮かび上がる庭の木々のシルエットが美しく、とても癒された。周囲には不思議なほど人工的な音もなく、虫の音だけが響き渡り、それ以外は自分が動く音しかしない瞬間。すーっと気持ちが穏やかになり、体温もいくらか下がるような静けさを感じるあの感覚。なんだかいいなぁと、しみじみ思った。先日、「最近若い人には “咀嚼音 ”が人気なんです。」という話を聞き、私はほんとうに心底驚いた。コロナ禍で人気が出始めたとのことで、咀嚼音を聞くと気持ちがやわらいだり、落ち着く感覚があ るらしく、YouTubeでわざわざその動画を見るという。しかもその類の動画は多いらしい。 心地よいと感じる感覚は人それぞれだから…とはいえ、なかなか理解がムズカシイ。理解などいらないのだろうが、「くちゃくちゃ」などの音はできるだけ聞きたくないと思う側の人間からすると、その感覚は不思議でならない。「咀嚼音人気なぜ」と検索して出てきたAIの説明によると、「食べる様子を動画で見ているだけで″自分も食べた気になって幸せ″」や「背筋がゾクゾクしたり、鳥肌がたったり、自然と涙が出てきたりするなど、″音楽や映画を視聴したあとに出る感覚に似た現象″」という意見が出てきた。OMG! 驚きを隠せないのは私だけではないと思うのですが、どうなんでしょうか。 人の感受性は内側に向き、感動も体験も自分の手が届く範囲や妄想で完結してしまうような、なんとも狭められた世界ではないかと、考えても答えはでないものの無駄にあれこれ考えてしまう。 風や川や虫の音色に夕暮れの淡い空の色、スマホから顔を上げれば何でもない日常にも美しい音や景色がたくさんある。壮大な大自然に身を置かなくても自然を感じる瞬間はあるし、映画を見なくても感動に出会うこともあれば、底抜けにすがすがしい気持ちにもなれる。もちろん自然や創造の世界は最上級だけれど、すべては自分しだいで、世界の見え方はどのようにも素敵に変わる。 「とっておきの休み時間」は、特別な場所や時間でなくても、いつものそこらへんにも色々あるのだ! と、衝撃的な情報からあらためてその味わいをかみしめているこの頃です。 諏訪湖畔には遊歩道やサイクリングコースが整備されています。 諏訪湖博物館 赤彦記念館 下諏訪町の湖畔にたつ諏訪湖博物館・赤彦記念館は、伊東豊雄さんの設計で 1993年にオープンしました。そのフォルムは諏訪湖の「環水平アーク」(水平虹)をモチーフにしたそうです。 父親が下諏訪で創業した味噌屋を姉夫婦にまかせ、伊東さんは母親と上京して日比谷高校に入学します。母は新しい家を建てようと吉村順三さんを訪ねますが多忙とのことで、米国から帰国した芦原義信さんに依頼しました。中野に出来たスキップフロアの小住宅 伊東邸(1957年)が、伊藤さんの建築家体験になったそうです。味噌屋をついだ姉夫婦の夫は幸田露伴の血縁で、中央公論社ビルを設計中の芦原さんを紹介されたようです。(『伊東豊雄読本』ADAエディタトーキョー 刊より) ▼「諏訪法性」(普段はレプリカを展示)。 赤彦展示室は、アララギ派を代表する諏訪出身の歌人島木赤彦の書や作品はじめ伊藤左千夫、島崎藤村、斎藤茂吉との書簡など貴重な資料を紹介しています。島木赤彦は1876年諏訪で生まれ、教職につくかたわら短歌に没頭し、短歌雑誌『アララギ』を創刊した伊藤左千夫に師事。左千夫の死後は斎藤茂吉に代わり編集兼発行人となり、経営難に陥っていた同誌を立て直すため上京します。同じ諏訪出身の岩波茂雄(岩波書店創業者)に頼んでアララギを販売してもらったり、平福百穂の作品を頒布したり、会員を増やしたりと基盤づくりに尽力しました。 ▲日本画家平福百穂による『アララギ』の表紙。平福はアララギの同人となり絵の頒布会をひらいて経営を助けました。 ▼ 斎藤茂吉(左)を見舞う島木赤彦(中央)。 本陣 岩波家 中山道と甲州街道が合流する下諏訪は、江戸時代、中山道最大規模の宿場町でした。諏訪大社や中山道随一の温泉も人気で 45軒の旅籠が軒を並べました。本陣・問屋をつとめた岩波家 28代当主の岩波太佐衛門尚宏さんは、建物を整備し一般公開しています。かつて明治天皇や和宮親子内親王をはじめ大名、公家が潜った表門から入ります。岩波家は小笠原家につながる武家で、17代尚方氏の時に下諏訪宿本陣問屋役を命じられ 1688年から明治維新まで 180年ほど本陣を営みました。下諏訪の耕地の多くを所有する地主で、明治になると電気事業でも成功します。庭には書庫蔵や炭蔵をはじめ、京都から江戸に嫁いだ和宮親子内親王が出立した小さな裏門も残されています。 自然の地形を活かした庭園は「日本の庭園100選」に選定されています。泉水石組に面した主屋の座敷と連動し、全国から 600個以上の銘石を集め江戸後期10年をかけて作庭されました。主屋座敷は庭園を屏風絵のように広く見渡せるよう、軒を1本の隅木受け柱のみで支えています。全体に京風のつくりで、京都から棟梁を招いたとも考えられています。 この庭を眺めながら和宮親子内親王が茶を召し上がったそうです。 毎年暑さが増している。残暑になっても テレビをつけると不要の外出は控えるように注意が出る。この夏は3〜4日外に出ないまま過ごすことも多く、部屋の片付けも見て見ぬふりという日が続き、気づいたら随分と脚が弱っていた。何度も玄関の絨毯で躓きそうになる。駅の階段では2度ほど踏み外した。幸い下から数段だったので、持っていた荷物を放り出すだけで大事には至らなかったが、以降必ず手摺に捕まり「ひだり、ひだり」と、上がらなくなった足を意識して、階段を降りるようにしている。冷房嫌いなどとは言っていられない酷暑の毎日だったが、冷房の効いた部屋でほとんど動かなかった体は、それ相応に筋力が衰えている。スーパーの買い物は、緩やかな上り坂(今まで感じたこともなかったが)の途中で一息入れるようになり、有料でも重たいものは運んでもらうようになる。とうとう来たかと思いながらも、なんとかせねばという気もある。 そんな時、区報で「筋力向上教室」が開催されることを知り、早速電話で申し込みをした。いつもの高齢者向けイベントとは違って、少しばかり仰々しい。事前に面談が必要とのこと。3カ月のトレーニングの前に理学療養士による講座、管理栄養士による栄養講座や口腔セミナーもある。面談では日常生活のあれこれを聞かれ、絨毯で躓いたことや階段の踏み外しのことは伏せていたが、日常生活でなんの問題もなければこのプラグラムを受けることはできない、やむなく階段の手摺を使うこと を記載した。なんのことはない。 歳以上の介護予防プラ グラムだったのだ。いつものウォーキング参加のようなつもりだったが、介護事業プログラムということで、管轄が違っていた。介護保険書が必須でケアマネジメントの面接が必要な理由をようやく理解した。戸惑ったが最初からそうとわかっていたら、申し込みはしなかっただろう。筋力の衰えを感じ 65 度越えが続き、 ることはあっても、まだまだ介護保険の必要性を実感するには至っていない。しかし、もう充分にその歳であることは間違いない。月からマシーントレーニングが始まる。認知機能評価もあるらしい。楽しみではあるが、高齢者にとっぷり浸かりたくないという思いもある。N H Kスペシャル取材班が出版した『老後破産』は、「長寿という悪夢」という副題がついている。なんともなぁと思いながら、まだまだ友人たち 25 と旅行もしたいし、しっかり歩いて美味しいものを食べたい。そのために「筋力向上教室」を頑張ろうと思う。 もう一つ、水中エクササイズ。友人がカーブスを始めて、気軽に運動できるのがいいと教えてくれた。近所で探したがなかなかない。そんな中すぐ (^-^ 近くのプールで、水中エクササイズがあることを知った。無理なく足腰鍛えるのにいいと聞いていたので申込をした。あるはずの水着はどこへ行ったか出てこない。前日大慌てで買いに行ったが、デパートのスポーツコーナの水着売り場には、同じような年恰好の女性が多くいて驚いた。先日1回目が行われた。何十年ぶりのプール、深さは0・85 M、全くのカナヅチでも十分足はつく。ベテラン組と初参加組と別れて準備体操をするが、プールの中では同じ行動をする。トレーナーはどんどん指示を出していくが、ベテラン組は早い。要領は分からなくても、見様見真似でついていく。明らかに年上と思われる方が多い。浮板やポールを使って気持ちよさそうに体を浮かしている。足はつくし、心配ない。真似してやってみた途端にひっくり返る。で、溺れた。足がつかない。立とうとしても立てない。パニクって水を飲む。 「どうしたの?」と声をかけてくれた年配の方の腕にしがみついた。すぐにトレーナーの方が来てくれたが、どうして0・85 Mのプールで溺れたのか、その理由はいまだにわからない。ネットで「泳げない人必見」を見て、思い当たることはある。洗面器に顔をつけてまずは水に慣れることからはじめてみることにする。 何にしても身体に覚え込ませることは容易ではない。出来ないことに抗うことなく、周りの手助けを借りることかもしれない。水中エクササイズで筋力がついたら、次は M泳ぎに挑戦。来年の夏はプールサイドのロッキングチェアで本を読みながら避暑するのを夢見て、楽しんでやってみようと思う。 黒曜石 岩波家に近い「しもすわ今昔館 おいでや」内の「星ヶ塔ミュージアム矢の根や」では、諏訪を語るうえで欠かせない黒曜石を展示しています。黒曜石採掘坑の実寸大ジオラマは、国史跡 星ヶ塔(ほしがとう)黒曜石原産地遺跡の採掘跡を忠実に再現したものです。霧ヶ峰山麓の星ヶ塔では、縄文時代前期〜晩期にかけ、2700年にわたり縄文人が手で掘ってきた黒曜石採掘跡が 193カ所見つかっています。黒曜石は上昇したマグマが急速に冷えて固まったガラス質の鉱物で、霧ヶ峰北西部に標高 1400m付近には南北 3kmにわたる岩脈があります。 ▲ 東北で作られた岩板など、各地との交易を示す出土品。 黒曜石を石(ハンマーストーン)で打撃すると鋭い刃物になります。石鏃(やじり)、ナイフ、槍の刃、皮なめしなど縄文人は様々な道具に利用してきました。諏訪の黒曜石はガラスのように透明なのが特徴で、関東、中部はもちろん北海道からも出土しています。全国各地との交易が「縄文王国」諏訪を支えていたと考えられ、現在の諏訪を繁栄させた繊維や精密電子機器産業のルーツも、この黒曜石にあるのかもしれません。 ミュージアムに隣接する青塚古墳は諏訪では唯一の前方後円墳です。他の古墳にくらべ規模が大きく、かなりの権力者あるいは朝廷の影響も考えられます。 BOOK REVIEW商空間を見つめてきた著者の視点が、店舗デザインの核心をつく 商空間のデザイン手法時代をつくる発想 34 山倉礼士 著A5判・192頁(カラー86頁)3000円+税 学芸出版社 2000年前後から現在までの商空間 34件を、20年以上にわたり店舗デザインを見つめてきた山倉礼士さんが案内する、とても内容の濃い1冊です。山倉さんは 2003年『商店建築』編集部にはいり、2017年まで編集長をつとめました。今はオーストラリアメルボルンを拠点にイ ンテリアデザインを発信するオンラインマガジン IDREIT(アイドレイト)の発行をつづけています。2000年代の商空間は、大きな変革期を迎えていました。外資系ホテルをきっかけに日本人デザイナーの実力が海外でも認められ、建築家が商空間を手掛けることが増えました。こう したデザイン界の流れと共に、ホテル、レストラン、ブティック、カフェ、ワークプレイスといった商空間の機能とデザインの関係について、核心をついた解説を行っています。それらを俯瞰したデザイナー飯島直樹さんとの対談も必読です。 諏訪大社下社春宮 正面の神楽殿は1680年代に建立されたもので、巨大な注連縄は出雲大社を想わせます。 下社春宮と秋宮は同じ絵図面から建てられたといわれ、秋宮は上社本宮と同じ立川流の立川和四郎が担当。一方春宮は大隅流の柴宮長左衛門が請負い彫刻の技を競いました。立川流と大隅流は寺社建築の二大流派でした。半年に一度、8月1日に春宮から秋宮へ、2月1日に秋宮から春宮へ神様を遷す神事「遷座祭」が行われます。幣拝殿の前に一之御柱、二之御柱が立ち、その背後には三之柱、四之柱が立つことで、4本の御柱による結界が神域を形成しています。御柱にはモミの木が選ばれ、4社合計で 16本の御柱が 6年に一度立て替えられます。その他、諏訪地域の神社すべてで 4本の御柱が交換されます。御柱祭は大半の市民が関わる祭事として続いています。 浮島は境内の脇を流れる砥川の中洲にできた島で、祓戸大神(はらえどのおおかみ)を祀る浮島社が鎮座しています。 秋のお彼岸へと暦は移りゆきましたが皆様お元気でいらっしゃいました でしょうか。すでに酷暑猛暑も五月から数えて4ヶ月以上 しています。私はといえば、あいも変わらず自身のバイオリズムの調整に四苦八苦の日々であり、そんなこんな、あーでもないこーでもないをウチの旦那とやりあってる間に、花火もお月見もあっという間に過ぎ去ってしまいましたとさ(笑) ある意味、こんなに暑さが続いたのだから南風時も多かったわけです。身近な上空に、しかも左側右側両方向から低空飛行攻撃を受けてしまうでしょう?窓は締め切らなくちゃならないし、部屋の換気は遮られちゃうでしょ?ヤバい環境にならざるをえません・・・酷暑長引く夏休み中でも騒音まきちらす二重の苦しみに都民はよく耐え抜いたと思います。政府は高齢 その52 青山かすみ 過ぎようと !!! 5 者や子どもたちを弱めてしまう行為を 年にわたって続け、よく平気で いられるものだなぁと思います。低空飛行を行うのなら、まずは官庁ひしめく霞が関のうえでこそ実践して頂き、その感想を聞かせてほしいと思うんだけど・・・・そういえば今期から港区の区長が女性の清家さんにバトンタッチされました。武井区長の区政に対し受け入れられないという結果が出されたのです。我が意を得たり、やはり港区民の多くが同じ気持ちだったんだわ〜と納得した次第です。日々の暮らしのなかで起きる小さな変化を積み重ねること。今の日本に問われているんだと感じます。タイムリーな兵庫県知事さんの一件もしかり。 ”人のふり見て我が振りなおせ ”の言葉どうり、裸の王様か否かを一人ひとりが見定めているのだとあらためて身の引き締まる思いがいたします。総裁選、大統領選も同じ一線上のことではないでしょうか。 さまざまな問題が噴出しだした秋の夕暮れ。不揃いながら人それぞれお疲れごとがおありと存じます。授かった命をどうかお大事に。 万治の石仏 万治の石仏は世界に例のない神聖な石であり、 永遠の人生を象徴する石である。 -岡本太郎 浮島の橋を渡りしばらく歩くと、岡本太郎によってその存在が知られるようになった「万治の石仏」が鎮座しています。岡本太郎はその姿に衝撃をうけ講演や雑誌で全国に紹介。諏訪のパワースポットとして人気になりました。春宮に石造りの大鳥居を作った時のこと、石工が大きな石にノミを打ち入れたところ血が流れでました。驚いて仕事を止めた石工の夢枕に「上原山に良い石材が出る」というお告げがあり、無事に鳥居は完成しました。万治 3年(1660)と刻まれている所から万治の石仏と呼ばれ、参拝すると万事無事に治まるといわれます。 落合水力発電所 御柱が運ばれる山道を上り「木落し坂」へ向かいました。その近くにある落合水力発電所は、明治 33年(1900)に完成した諏訪地域初の発電所です。東俣川の流れを利用した電力を諏訪の製糸工場に供給しました。その後、200kWに発電量を増やし精密機器工場などに電力を供給し続けています。その取水口は木落し坂の上方にあります。 木落し坂(下社) 御柱祭は7年に一度、甲年と寅年に開催されます。高さ17m、直径1m以上のモミの木を伐採して山から人力で運び出し、諏訪大社 4社に曳建てる行事です。下社用 8本は霧ヶ峰の東俣国有林で伐り出され、下社まで約 10キロを曳きまわします。なかでも御柱に人が乗り急坂を落ちる「木落し」は有名で、死者や怪我人を出しながらも営々と続けられています。下社春宮近くの「おんばしら館よいさ」では、丸太に乗った木落し体験ができます。 御柱祭ののち、諏訪地域に 3000本はあるといわれる神社の御柱が立て替えられます。 ドラゴンシリーズ 118 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 森林の真実 15 自分たちで工場を始めてから 年以上が経った。僕も弟の 安志も木工について経験も知識もないところから工場を始めたので。どんな問題が待ち受けているかも分からなかった。 いま北海道の工場は、始めた頃からすると随分進化したと思うものの技術も生産効率も品質もまだまだ発展途上。これから変革と学習を続けながら前に歩み続けるしかない。 家具も小売店舗もそうだけれど、木材の仕入、製材、加工の工程など何も知らない全くのゼロから工場をスタートした。未経験の無知ではあったが、何か根拠の無い自信みたいな確信を持っていた。新しい製品や海外店舗も全ては何もないところから始まった。根拠はないけれどやる気と根性はある。それさえあればもしかすると 1000000分の 1の可能性はあるかもしれない。それが僕ら兄弟の、何か訳の分からない目的に向かう上での根拠のようなものだ。 だから今、自分たちのいる場所がどこだろうが関係無く、昔も今も同じように何も持ち合わせていない学ぶための初心者だと自覚している。何か自分ができると錯覚した時に、僕たちの成長は終わると思っている。 2007年の 2月、気温マイナス 10 ℃の北海道東川町の工 場倉庫の何も無いコンクリート床に座り、木工機械と塗装ブースを配置する工場のレイアウトを決めた。僕は凍てつく寒さに夜高熱を出した。 年前の工場立ち上げと同時に、床に北海道産楢材のフロ ーリングを全面張りし、ヨーロッパ製横挽き製材機とバイオマス乾燥ブースを備えた。それと冬のストーブ用に、集塵した木屑を固めビスケット状の固形燃料にする機械を導入した。 木材は直接市場から丸太で仕入れ、任意の厚みに横挽き製材機で丸太を積み上げるように製材し、屋外の土場に積み上げ天然乾燥してからバイオマス乾燥機で理想の含水率までゆっくりと乾燥する。通常の家具工場は製材所から十分に乾燥 15 させた木材を仕入れ、そこからが家具工場のスタートラインとなる。 地場産業の家具製造は、製材と家具加工は分業制で効率的に営まれてきた。僕らのように丸太から製材し乾燥、木取りを行う一連の流れを自社の工場で実践することは不効率であり、必要な材種を必要な量だけ仕入れ加工する方 75 が効率的に生産できる。しかし丸太の仕入れから製材、乾燥させることで木を扱う難しさを知ると同時に、木を学ぶ機会をより多く持つことができる。 15 まだまだ浅い経験で木を語ることなどできないが、僕らが本当の意味で良い 40 木工製品を作るためには必要なプロセスと思っている。 北海道の森林組合や地方自治体、東北の森林組合、岐阜の木材市場から丸太を仕入れることをこの年間継続し行ってきた。森林組合が開催する毎月の木材市場へ行くと、製材業のプロに混じって札を置いて競りに加わる。林業や製材業に長年関わるプロ達からすると、違った匂いのする人種なのだろうか。冷ややかな視線を感じつつ、自分たちの感覚を信じて札に値を付ける。木材の価値を決めるのは市場の 6原理だが、木材を加工して製品にすることで、それが生み出す価値は全く違ったものとなる。高級といわれる木材も良材と言われて等級を付けられるような檜や杉なども、結局のところは建築物になったり家具となった時にどのような価値の製品や建物にできるかという価値創造に大きく左右される。新鮮な高級魚も料理人がどんな調理をするかによって味も値段も変わるように、どんな木材の価値創造も同じこと。いつ、どこの海で獲れた魚なのか、市場で自分の目で鮮度を見て仕入れ、包丁で丁寧に捌き、料理することと木材を扱うことは全く同じだ。どんな魚を仕入れて料理を作るかは料理人の情熱次第だ。 日本の国土は%が森林だと言われる。その森林全体の割は杉や檜のような針葉樹の植林された森林である。今ではその多くの木々は建築用材としての伐期齢を迎えているが、そのような森林は手入れをしないまま放置され続けている。そして残りの%の森林が広葉樹の森であり、多くは植林を行わない天然更新林と言われる。日本の国土は、北海道から九州まで様々な樹種の植生の広葉樹の木々が育つ豊かな森林が今でも多く残され、自然豊かな国土を形成している。 しかし今、森林をめぐる恐怖の景色が、北海道から東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州までどの地域にも広がっている。どこの森林を訪れても、目を疑うような恐ろしい森林の実態を目の当たりにする。日本が古くから先祖代々に渡り数百年掛けて大切に育ててきた豊かな広葉樹の森林が、 10 0年を超える大径木から数十年の小径木まで根こそぎ丸裸にされる皆伐が行われるのだ。丸裸になった山の風景が、日本全国の山々どこに行っても広がっている。そしてさらに恐ろしいことに、その木材が山のように積み上げられた土場には、大きな楢や欅、栗などの広葉樹が、死体のように幾重にも積み上げられている。その皆伐された木材が全国各地で今、どのように使われているかを日本国民は知らない。 もう数十年も前から毎日のように、全国で数百トンに上る貴重な広葉樹、針葉樹の木が採取され、チップ材に粉々に砕かれた木材を燃やし僅かな電気が作り出されている。それこそ日本政府が再生可能エネルギーの一環と言ってきた、バイオマス発電である。全国 1 0 0 0カ所以上に建設が進められ、バイオマス発電所と言う響きの良いネーミングで日本の森林を大量に燃やす施設である。立米単価 4 0 0 0〜 6 0 0 0円という価格で取引される木材チップは、日本人が数百年にわたり大切に守り続けてきた天然更新した広葉樹林の木々を見境なく粉々に砕いたものなのだ。 そして日本の大手製紙会社は今でも、そうした森林から運ばれるチップ材を安値で買取りトイレットペーパーを作り続けている。その風景を見ると無差別に人々を殺戮した戦時中の人間の恐ろしさと同じ恐怖に怒りを感じる。 政治主導の補助金事業として全国で動き出している公共事業には、様々な利権と金が絡んでいる。森林の中にあるチップ工場に積み上げられた木材を見る度に、日本人と日本と言う国に対する怒りと危機感を感じる。 木々も森林も酸素を生み出し、山々の自然災害を防ぎ、森林の存在により海の自然が豊かになり、多くの動物、昆虫、植物が生きる場所を育み、地球の豊かさは木々と森林によってもたらされてきたのだ。人間がこんなことを続けていたら、日本も地球も滅びるしかない。有限な資源を使いたいだけ使い、無駄なエネルギーを毎日のように無限に使用して利便性だけを追いかけてきた人間社会は、何を目指しているのだろうか。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】