被災された方の生活を支える
〈令和6年能登半島地震災害義援金〉
(日本赤十字社)にご協力お願い致します。
コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします |
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
Backnumbers
Click 木曽浪漫 奈良井宿 https://collaj.jp/紅染月 2024 新宿駅から特急あずさ号で、長野県 塩尻駅まで 2時間半。ぶどうとワインで知られる塩尻駅のホームには、日本で唯一のぶどう畑があります。塩尻駅はJR東日本、JR東海の境界駅になっていて、中央本線はここで東京方面からの中央東線と木曽・名古屋方面へ行く中央西線に分かれます。木曽の奈良井駅に向かうため、中央西線に乗り換えました。 江戸時代には中山道の宿場町として木曽11宿が発展し、木曽の木製品は全国に流通するようになりました。明治になると木曽の森林は明治政府の宮内省御料局(営林署の前身)によって管理され、住民に開放されていた「明山」まで出入りが禁止されました。森林資源の開放を求め嘆願書を出したのが島崎藤村の父島崎正樹で、その顛末を描いたのが「木曽路はすべて山の中」のフレーズで知られる『夜明け前』です。島崎正樹は、木曽の民が山を有効利用することが、伐採を禁じられたヒノキなどの生長を促進し木曽の美林を形成した。木曽五木を民に開放すべきと訴えました。 どこまでもつれて行ってよ世界に果てがあるとしても Vol.62 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 木曽 11宿のひとつとして「奈良井千軒」といわれるほど栄えた中山道の奈良井宿。奈良井川に沿って今も1Kmほどの宿場町が残り、江戸の風情を楽しめます。宿場町の先には中山道の難所、太平洋と日本海の分水嶺となる鳥居峠がそびえ、峠越えにそなえた多くの旅人が脚を休めました。建物の多くは幕末から明治、大正、昭和の初めまでのもので、江戸(東京)に近い奈良井駅の方から下町、中町、上町に分かれ、切妻平入の奥行きの長い家が、ゆるい S字カーブを描きながら200軒ほど並びます。松尾芭蕉の紀行文「更科紀行」(1688年)には、奈良井宿に泊まった夜に詠んだとされる「あの中に蒔絵書たし宿の月」があります。松尾芭蕉が「蒔絵書たし」と詠んだのは、江戸時代から奈良井は漆工の街として知られていたからです。尾張藩から支給される「御免白木」を使い、名物の櫛や椀、折敷などが作られ、旅人は土産物屋をひやかしながら街道を歩きました。漆職人の多かった下町の道幅は 4m以下である一方、宿屋や茶店の多い中町は道幅が 5〜 8mあります。主屋正面の高さは、江戸から明治の家は軒高 4m前後と低く、時代が下るにつれて 5〜 6mと高くなりますが、1階高さが 2.5m前後と揃っているので、町並みに統一感があります。 旧楢川中学校 専念寺八幡宮二百地蔵 江戸 観光案内所 杉並木 WC 中町下町 中町下町 WC P 奈良井宿 の碑 〒郵便局 ATM 奈良井宿 WC 上町 上町鍵の手 WC 若宮様 夏草会の碑 230m あります。 一里塚高札場 中の茶屋楢川鎮神社歴史民俗 資料館 石畳の坂 京都 600m ▼ そば処 楽々亭 旅館 ゑちごや 食事 お六櫛つくる くるみ沢展望台 夜なべや 月もよく 青邨 桝型 桝型 水場 みやげ 花野屋 食事処 立喰麺屋ひろ 民宿 津ち川 雑貨 湖月堂 着物レンタル 着付けと着物 凛 喫茶・軽食 こでまり 水場 みやげ 柴田漆器店 神明宮奈良井義高墓地大宝寺法然寺奈良井氏居館跡 食事・みやげ 越後屋 ギャラリー 土 保存地区 選定の碑 水場 マリア地蔵 とおいち- みやげ 藤屋 おやき てずから みやげ 大坂屋 そば処 相模屋 みやげ たかしまや みやげ大源 喫茶たなかや 食事処松波 水場 消防詰所 木製品 まるきち 御宿 伊勢屋 木曽奈良井宿 きむら 地酒・ワイン 笹屋酒店 上問屋史料館 喫茶 caf.風花 みやげ 小島屋漆器店ころ音(ね) 奈良井公民館 長泉寺 食事・甘味処 こ 水場 そば処 かぎの手 資料館 中村邸 みやげ 才田屋 みやげ 竹仙堂 手焼きせんべい 会津屋 そば処 山なか 道祖神 桝型 水場 奈良井駅奈良井宿鳥居峠 ▼ JR奈良井駅 地下歩道海抜934m 旅館 あぶらや みやげ 島屋漆器店 食事処 コナヤ みやげ 柳屋漆器店 ギャラリー アトリエ深雪 民宿 しまだ みやげ さわや漆器店 喫茶 松屋茶房 食事 いなかや みやげ 花筏 民宿 かとう 民宿 いかりや町田 みやげ 斎藤漆器店 御宿 BYAKU Narai レストラン . kura 温浴 山泉 SAN-SEN みやげ 宮川漆器店 ギャラリー パーウザ・ディ クローマ 食事・茶房 徳利屋 みやげ 松坂屋 日野百草本舗 かなめや 食事 さつき庵 みやげ・軽食 奈良井宿お土産市場 荒沢不動尊 宿泊施設・ギャラリー wakamatsu カフェ 宿場カフェいずみや ピザ あかいくまさん みやげ 奈良井宿民芸会館 民宿 あおき 鳥居トンネル hito.to.倉庫奈良井宿市場 WC P 観光案内所 P 幕末に撮られた木曽の宿場町(桜沢宿)とほぼ変わらない奈良井宿の町並み。 旅人の喉を潤した水場は奈良井宿に大小 6カ所以上あり、奈良井水場組合によって管理されています。山の伏流水が豊富に溢れ出し、防火用水にも使われました。山の斜面を少し掘ると水が出てしまうため、住宅を立てる際は斜面を削ることが難しく、山側の家には床がスキップフロア状になっている所もあります。 秋田杉のフレーム高さは 3種。 「KumikoPartition」は、鎌倉時代から800年の歴史ある組子細工により作られたパーティションです。組子の柄は 200種以上あるといわれ、その中から三つ組手、麻の葉、胡麻、紗綾形くずし、七宝つなぎ、千本格子の 6種類が選ばれました。フレームは紐蝶番によって連結され、表裏どちらにも折り曲げられます。高さは120cmで、座ると目隠しになり、立つと視線が通るため、圧迫感なく空間を仕切ることができます。木曽ヒノキを使った「Kiso」は、中津川でヒノキだけを扱う製材所との出会いから生まれたそうです。樹齢 300年を超えるヒノキを有効利用するため、古くから日本に伝わる小ぶりな折りたたみ椅子「胡床(こしょう)」をモチーフにデザインされました。春慶塗のお盆を載せるとサイドテーブルに、ヌメ皮やキャンバス生地を張るとスツールになります。神棚などを作る工房で制作されています。 海外の反応 ミラノサローネやアムステルダムの店舗をつうじ、Time& Styleの製品は海外からも注目されています。イ草、藁、杉、ヒノキ、鋳物といった素材にひかれる方や、組子細工の驚異的な技法に感心する方も。欧米では多くが失われてしまった伝統技法や素材が日本にあることに、大きな価値を感じる方も多いようです。木曽の宿場町特徴に「出梁づくり」があります。2階の梁が 1階よりも出っ張り、その先の小屋根とあわせアーケードような雨よけなります。突然の雨にも濡れずに歩け、旅人には嬉しい仕掛けです。古い出梁の腕木は 2階の大引と連動し2階の柱と間隔が合っていますが、連動していない家屋もあります。間口は 2〜3間×奥行 6〜8間と、間口5間×奥行 7〜 9間の家屋が多く、宿場での役割に応じて間口が割り当てられました。壁を共有する家が多いものの、小さな袖壁が隣家との境界を示しています。「出梁」の先にかけられた小屋根は、猿頭という特徴的な部材をつけた吊り金具で吊られています。1階正面の土台の上に太い框をたて、天井下には背の高い胴差しを間口いっぱいに通すことで、框、胴差し、柱によって口型の丈夫な枠を作り開口部を広くとります。2階には手すりを付け障子などで素通しにしていましたが、明治以降は格子を付けるようになります。もともとの屋根は板葺の石置きでしたが、現在は 3寸勾配=16.7度というゆるい屋根勾配に、農茶色の長尺鉄板葺が規定されています。勾配がゆるいため通りからは鼻隠板までしか見えません。日本瓦を使うと建築基準法で 4寸以上の勾配が必要になり瓦屋根が見えてしまうため、長尺鉄板葺の方が宿場町の雰囲気を守れると判断されたのです。 国指定重要文化財の中村邸は、1840年頃の建物とみられています。奈良井名物「お六櫛」の問屋兼工房で、正面には「しとみ戸」や「潜戸」が残されています。しとみ戸は上下 3枚に分かれていて、下の板と真ん中の障子がはめ込み式、上の板戸は跳ね上げ式になっています。お祭りの時は真ん中の方立て柱を外し全面開口できます。入口は京風の片開き大戸に、普段づかいの潜戸がついてます。普段は小さな潜戸をつかい、必要なときだけ大戸をあける仕組みです。出梁づくりで小屋根を猿頭で吊り、間口は 3間 2尺×奥行 9間半です。 中村邸当主の中村利兵衛は、奈良井に塗櫛を根付かせた中村恵吉の次男でした。櫛づくりは櫛挽き、塗り、細工など分業化されていましたが、中村家は問屋と製造を兼ねた御櫛所でした。潜戸を入ると板の間の見世があり、土間が奥の庭まで通っています。囲炉裏や炊事場のある吹き抜けの勝手の奥に中の間と座敷が並び、裏庭の奥には漆の作業場として使われた土蔵も残っています。通りに面した見世の上には 2階があり、街道を見下ろせます。2階は普段は漆工房と使われいましたが、床の間などが設えられていることから、大名行列などで宿泊者が多い時は宿屋としても使われたと考えられています。奈良井宿は宿場町としては専業の宿屋が少なく、塗師と宿屋を兼業した家が多く、宿屋が一杯のときは見世の上の 2階に旅人を泊めることもあったようです。吹き抜けの勝手は、胴差しに太い材を使うことで柱の少ない大空間を実現しています。江戸時代「木曽五木」の伐採は禁じられていましたが、それ以外の樹種は建築や薪炭材、食用(クリなど)に使うことが許されていました。昭和 44年、空き家となった中村邸を神奈川県川崎の日本民家園に移築する計画がもちあがりました。当時の楢川村や村民達は現地での保存を目指した活動を行い、建物や敷地が中村家から村に寄贈されます。修繕後には一般公開され、県外からも多くの客が訪れるようになりました。この出来事は村民が自らの町並みを再評価するきっかけとなり、町並み保全の機運が高まりました。奈良文化財研究所による歴史的価値の本格的調査が行われ、その成果が『木曽奈良井 : 町並調査報告』(1976年)にまとめられると、1978年重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 没の 15 ■金曜日の日中は料理に忙しいユダヤ人家庭 ユダヤ教徒にとって金曜日の日没から土曜日の日没までの1日間は「安息日」です。「一切の労働を行わず、神への祈りを捧げる日」を意味します。一週間を7日間として、そのうちの1日を「祈りと安息の日」とする。キリスト教の日曜日と同じです。もともとは旧約聖書(創世記)の教えから出ている考え方で、歴史上時に激しく対立してきた両宗教は、実は同じ根っ子から株分かれしたもの、ということになります。ただユダヤ教徒の場合、「安息日には一切の労働を行わない」という「労働」の中に「料理(調理)をすること」が含まれます。金曜日の日没から土曜日の日没までの1日間は、「火を使って料理をしてはいけない」決まりです。「えっ!金曜日の夜から土曜日の日没まで、料理ができない?」「じゃ金曜日の夕食、そして土曜日の朝食と昼食はどうするの?」 答えは簡単、金曜日の日没前までに、この3食分をすべて準備します。そのためユダヤ人の家庭では、金曜日は大忙しです。金曜日の夕食と土曜日の朝食&昼食を、日没前までに準備するのですから。「安息日のシチュー」はセファルディ系のユダヤ人家庭の、土曜日の昼食の代表的なメニューです。加えて、日没までに家の掃除もしなければなりません。多くの家庭では安息日のための特別なテーブルクロスで食卓を覆い、そこに2つの燭台を置いて2本のロウソクを立てておきます。日 ら、よそ行きの服に着替えて、日没後に礼拝が行われるシナゴーグ(ユダヤ教会)へと出向きます。教会では同朋と挨拶を交わし、礼拝し、ラビの説話を聞く。一連の儀式を終えた後、家に戻って日没前に準備しておいた料理を食べます。 ■金曜日の夕食と燭台 「金曜日の夕食」は、現在に至るも多くのユダヤ人家庭で、家族が揃って食卓を囲む大切な機会となっています。その献立はセファルディ系(イベリア半島由来)とアシュケナージ系(東欧圏由来)では大きく異なります。が、いずれにしても一週間で一番のごちそうが用意される、という点については同じです。教会から戻った家族は揃って食卓を囲む。そして食事の開始前に、2つの燭台のロウソクに火を灯す。「安息日には火を使ってはならない」という戒律の特別な例外として認められています。ユダヤ教徒にとって食卓で燭台のロウソクに火を灯すという行為は、安息日の他に特別な祭の儀礼でも重要な意味があります。そのため、欧米でそれなりの店構えの骨董銀器商であれば、まず確実に純銀製の燭台が商品棚に置かれています。というのも、一流骨董銀器商は、そのほとんどがユダヤ 分ほど前までにこれらの準備を終えた 人だからです。こうしてロウソクに点火の後、一家の主婦が祈りの言葉を捧げます。次いで一家の主人がワインへの祝福の言葉を述べる。その後、戒律にうるさい家では、家族が順に儀礼的に手を洗います。まず右手で水差しを持ち、大きな水盤の上で、左手に水を流して洗い、次いで右手も同様に洗う。多くの場合水盤は食卓脇のサイドテーブルに置かれています。こうした「一連の簡単な儀式」を行った後に、いよいよ食事が始まります。誰もが皆ここまできちんとしきたりを遵守しているわけではないでしょう。しかし、少なくとも金曜日の夜のディナーが、ユダヤ人にとって大切な会食の場であることだけは間違いありません。 それにしても、この忙しい現代社会で「安息日には火を使ってはならない」などという戒律を、今もユダヤ教徒は本当に守り続けているのでしょうか。宗教と日常生活がほぼ無関係な場合が多い我々は、そう思いがちです。大半のユダヤ教徒はそんな戒律とは無関係に暮らしているはずだと。ところが、そうでもないのです。大多数のユダヤ教徒は、程度の差はあれ、この戒律に従って暮らしている と思って間違いありません。正統派ユダヤ教徒( Orthodoxy 合はこれが極端で、二千五百年以上昔に成立した戒律をほぼ そのまま遵守し続けています。では、そこまで極端ではない、 ごく普通にニューヨークやロンドンやパリで暮らしているユ ダヤ人たちの場合はどうなのか。もちろん、人それぞれに戒 律遵守の程度に差はあります。でも、僕が仕事で出会ったユ ダヤ人から聞いた話からの印象では、大部分のユダヤ教徒は、「安息日には料理をしてはならない」という戒律を、可能な範 囲で遵守しているようです。 これはもともと電気もガスもない時代の「火の使用」に関して生まれた戒律です。より正確には「安息日には新たに火を起こしてはならない」という意味です。そのため正統派ユダヤ教徒の場合、喫煙者であっても安息日は禁煙絶対です。火を使う料理ができない上に、タバコも吸えない。更に言えば、安息日には新たに火をつけてお湯を沸かして風呂に入ることも許されません。ただし今では「お湯」については「抜け道」があり、金曜日の日没までに沸かして給湯器やサーモスに貯めたお湯は使ってよろしい、という解釈になっているようです。この戒律の成立は、二千五百年ほど昔のことです。我が国で言えば弥生時代です。そんな大昔に成立した戒律ですから、その誕生時には考えられなかった新たな事態や技術が )と呼ばれる人々の場 次々と出てきます。そのたびにラビ(ユダヤ教の教師・律法学者)を中心に議論し熟考して、時代に沿った適応の仕方を編み出して、新しい事態と折り合いをつける。多くのユダヤ教徒は、その都度これに従いながら生活を送ってきた、ということです。その数が決して一部ではないということを裏付ける、驚くべき証拠があります。 ■安息日は電子レンジのサバスモードで G E、ボッシュ、ワールプール、 L Gなどの家電部門から、「サバスモード機能」付きの電子レンジ、オーブン、そして冷蔵庫が販売されています。「サバスモード」とはいったい何か。これは、上述の「安息日には新たに火を起こしてはならない」というユダヤ教古来の戒律を、現代の最新機器でタイマーや熱源の電子制御により「ぎりぎり戒律違反を回避できるように作動させるモード」のことです。その具体的な機能の詳細は瑣末なので省略しますが、「安息日モード機能」が組み込まれた現代の調理器具が広く販売されているわけです。これは何を意味しているのか。これらの機器を多くのユダヤ人が購入しているということです。世界のユダヤ人口は、大雑把に言って、イスラエルに700万人、アメリカに600万人、西欧諸国に150万人という感じです。それ以外の地域を含めても、「市場」としては限られた小さなものです。にもかかわらず、世界の名だたるメーカーから「サバスモード機能」付の家電調理製品が販売されている。ということは、ほとんどのユダヤ人家庭がこの機能付きの製品を購入している何よりの証拠、と考えていいのではないでしょうか。これは驚くべきことです。 なぜ、そこまでして、古来の戒律にこだわり続けるのか。私 には大きな謎です。ただ、こうして古来の戒律を継承し続ける こと。このことなくしては、ユダヤ人はユダヤ人たり得ません。 前回お話したように、ユダヤ教の食の戒律カシュルートでは、 肉なら豚肉、魚介類ではエビ・イカ・タコ・ウナギ・穴子などと並んで、アサリ やシジミや牡蠣などすべての貝類も禁忌です。食べることが許されていません。 これに加えて、金曜日の日没から土曜日の日没までの間は、風呂を沸かしての入 浴も許されない。こうした戒律を知った上でもユダヤ教徒になろうという日本人 は極めて稀なはず。もちろん、大半のユダヤ人は、戒律絶対遵守の正統派ユダヤ 教徒ではありません。実際、知人のユダヤ人の中には、豚肉を食べ、エビやタコ を食べる人もいます。しかし、これはこれで多数派とは言い難く、その大半は仕 事の付き合いや、自身が属する組織の多数派に合わせて、割り切ってそうしてい る人が多いようです。いずれにしても、様々な形で古来の戒律が生活の隅々にま で影響を及ぼしている。我々日本人一般とは対極的な暮らし方です。とはいうも のの、我々の社会は「空気」や「同調圧力」という「無言の規律」が世間の隅々 にまで及んでいる社会です。その意味ではどっちもどっち、なのかもしれません。 次回はいよいよセファルディの「安息日のシチュー」のお話です。※現在米国の大統領選挙戦で大旋風を巻き起こしているカマラ・ハリス候補に興味がある 方は、「コラージ」 2021年2月&3月号に掲載された本連載第 114回と 115回を ご一読下さい。いつかこの日が来ると思いながら書いたお話ですので。 実家の古民家をカフェに 中村邸向かいの「宿場カフェいずみや」は、奈良井に生まれたオーナー篠原将宏さんが築 180年の実家をリノベーシ コーヒーインストラクターの資格をもつ ョンして 2019年オープンしました。大学を出てサラリーマン生活を送っていた篠原さんでしたが、実家は奈良井駅か オーナー篠原さん。一杯ごとにハンド ら 800mほどの場所にあり、観光客が一休みする場所に活用してもらい奈良井を盛り上げたいと考えたそうです。 ドリップでコーヒーを淹れます。 贄川、輪島、若狭など様々な産地の漆器をコレクションしています。 カフェの名物「奈良井ブラウンパフェ」は、シーズンごとに内容を変えています。この時はピスタチオクッキー、ココアヌガティーヌ、かのこ豆、茎茶ジュレなど17種類のパーツで構成。地元でとれるナイヤガラぶどうやりんごジュースもおすすめです。もともとがオーナーの実家なだけに、センスの良さのなかに地元愛が感じられました。 ▼ 屏風に描かれた九曜紋は手塚家の家紋です。 手塚家住宅(上問屋史料館)は、1602年から奈良井宿の「問屋」(といや)をつとめてきた名家です。問屋は宿場間の荷物を運ぶ馬や歩行役を用意したり、大名行列受け入れの準備をするなど大切な役割を担い、庄屋も兼ねていました。主屋の1階には役人との打ち合わせに使う会所を設け、上客のための玄関や座敷も備えられています。 ▲ 明治天皇が木曽巡幸の際の部屋。 明治13年、明治天皇巡幸の際の部屋が当時のまま残されています。現在の主屋は1840年に建てられたもので、切妻平入りの2階建、間口は約11mもあります。2階が突き出した出梁づくりで軒が深く、外壁を白漆喰で仕上げ。2階は格子戸にとなっています。2007年国の重要文化財に指定されました。 「お食事処・甘味処 こころ音」は、中町にある古民家を活かした蕎麦店です。地元開田高原産蕎麦をたっぷり頂ける野菜天ざるや、名物のとうじそば(なめこなどの鍋に蕎麦を入れ温めて頂く)があります。 齊藤寛親さんは、木々と共に生きてきた木曽の民の DNAを引き継いでいます。デザイナー橋本夕紀夫さんはじめ、様々な建築家、インテリアデザイナーとの仕事を通して全国の飲食店、ホテル、美術館などに、木曽ならではの木・漆の手仕事を提供してきました。齋藤さんは沈金・堆朱の名手として知られた漆芸家 巣山林山の子として生まれ、父のもとで修行ののち1990年に木曽アルテック社を創業しました。漆塗りの座卓や寿司を盛るヒノキの台、舟盛りの舟などのヒット作を生み出し、会社は順調に成長しましたが、齋藤さんには椀や盆、重箱、座卓といった漆芸品の世界を拡大し、建築に使われる新しい素材や椅子、テーブル、キッチンの開発を進めたいという思いがありました。それを叶えたのがレザンホール(塩尻市文化会館)に納めた100脚のスタッキングチェアです。そして1999年、橋本夕紀夫さんデザインの「うおがし銘茶築地本店」に関わったことをきっかけに、漆和紙や鉄板漆焼付、麻布漆塗り、柿渋和紙など今までにない材料が次々と生まれました。 本社ショールーム「感樹館」(設計=秋山東一)には、京都の名刹から預かった木や樹齢数百年の木が置かれ、その存在感に圧倒されます。漆の洗面ボールは、型の上に布を被せて漆を塗り重ねる乾漆の技法で作られ、10年以上使っても狂いや傷みはないそうです。橋本夕紀夫さんと齊藤寛親さんの協働を代表する仕事に、ザ・ペニンシュラ東京があります。300室以上ある客室には、無垢の木のような引き戸が使われ客室の特徴となっています。真ん中は中空のフラッシュで、両脇に無垢板をつなげた構造です。 ▲諏訪大社上社本宮の幣拝殿は 2代目立川和四郎富昌の作。 ▼ 堆朱塗りの作品。『沈金 巣山林山』(京都書院刊より)。 齊藤寛親さんの実父巣山林山さんは沈金や堆朱の名手として知られ、奈良井の隣町、平沢を中心に活動しました。林山さんは幼い頃から彫刻に興味をもち、木材を見つけては彫刻を楽しんでいたそうです。11歳の頃、家を新築した際は大工に聞きながら精密な住宅模型を作り驚かれました。家族に内緒で諏訪湖の湖上博覧会に歩いて出かけ、姉の働く岡谷の製糸工場で一泊し、博覧会の帰りに見た諏訪神社の彫刻に感動して彫刻師になることを誓ったそうです。輪島から来た沈金家 正村春吉師(梅翁)に 6年以上師事し、東京では堆朱の大家 堆朱楊成に学びました。漆和紙や彩色和紙には日本画用の大判和紙(楮紙)を使っています。彩色和紙は、日本画と同様にニカワと顔料を混ぜたものを塗ることで、紙の呼吸(保温性、保湿性)を止めることなく耐久性を増すことができます。漆和紙は時間が経つにつれ透明感が増していきます。自然の材料は時が経つごとに魅力を増していくのです。 ▲木をはぎ合わせて一枚の板にしていきます。 ▼ 木に漆などを塗った「木レンガ」は、床や壁面に利用。 木工房では椅子やテーブル、ドアなど様々な製品が作られています。2002年東京青山に「青山ショールーム漆見本店」(東京都港区南青山 4-1-5 要予約 TEL.03-5775-1513)、 2010年には「京都銀閣寺ショールーム銀意匠」(京都市左京区鹿ケ谷法然院町 43TEL075-751-7175)を開店し、木曽の木や漆、和紙の魅力を全国に発信し続けてきました。木曽アルテック社が担ってきた、森と都会のつなぎ手としての役割はますます大切になりそうです。 9月は今年のエネルギーが凝縮する1カ月 毎年9月は、その年のエネルギーがもっとも色濃く反映されます。2024 年、世の中全体に流れるエネルギーは「8」。 「8」は生命力、パワー、男性的エネルギー、怒り、ボス、社長、お金、実行力などを表す数字ですから、言葉の通り、パワフルなエネルギー溢れる1カ月となります。 では、「8」のエネルギーが強まる9 月、どのように過ごしたら良いのか? といいますと、「あきらめずにがんばる」「できるところまでやりきる」「有言実行」です。 世の中全体がパワフルな時は、周囲の流れに乗ってみると、思っている以上にがんばれる時でもあり、「私にはとてもできない」と思っても、世の中の空気に押されてできてしまう場合もあるかもしれません。 9月は「情熱と責任感」、そして「“ 目的とゴール” を明確に定める」が大切なポイントです。情熱や責任感なく、ただひたすら頑張るのは NG。これではやらされている感と空回りで疲れますし、目的やゴールのない道のりは体力を消耗するだけで達成感も生まれません。適切な目標設定と、そこに向ける情熱。これは他人と比較して生まれるものではなく、あくまでも自分の中で作り生み出すもの。いつも大切ではありますが、9月はより意識的に。エネルギーがうまく循環し、活性化していきます。 頑張れない時は休みましょう。くれぐれも、「ただやる」にならないようご注意を。目的や意味を見失って走り続けると、 疲弊し、怒りが募り、エネルギーが暴走してしまいます。特に8 月生まれの方はご注意くださいませ。 頑張りすぎて倒れる前に、意識的にがんばりのコントロールをすることもお忘れなく。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの 休み時間 30時間目写真&文大吉朋子 今夏といえば。 この時期は何といっても夏休み。朝から近所では楽しそうな子どもたちの声が聞こえ、学校の校庭は静まり返り、炎天下ではひたすら蝉が鳴き続け、蛇口から出るお水はお湯のようで、という暑いゆる.い空気を感じる日々。 そして、この夏はオリンピック。子どもの時は本当に楽しみにしていました。ふだんはテレビを見る時間制限が厳しかった大吉家も、オリンピックはうるさく言われずに見ることができました。時差で夜中の放送でも、あくびをしながら一生懸命見ていた気がします。今でも鮮明に覚えているのは、当時14歳の選手が競泳で金メダルを獲得した1992年のバルセロナ大会。ほぼ同い年の少女が金メダルを獲得して満面の笑み、名言も出て、なかなかインパクトがありました。オリンピックに興奮しながら夏休みの宿題と格闘しつつ、夜な夜なテレビ観戦。中学生ながら連日寝不足となったあげく、お風呂でのぼせて倒れるという痛い経験も夏の良い思い出です。 今ではテレビ観戦はしないまでも、気になる競技はスマホでチェックします。今回印象的だったのは、ブレイキンとスケートボード。TVerで何度も見てしまいました。ストリートカルチャーと言われる世界とは実に縁遠い私ですが、なぜか見るのは好きなのです。ダンスもスケボーもやらないのに、あの世界観にはちょっとした憧れがあったりして。そして、チーム競技よりも、単独でパフォーマンスが進む競技に惹かれるのですね。ブレイキンやスケートボードの技やルールはよくわからないものの、選手の“ 楽しんでいる” という空気感や、腹の底にある闘争心、そして彼らの若さはとても頼もしく、見ているとワクワクします。軽やかな雰囲気とともに映る勝負師の顔、若いエネルギー、パワー溢れる身体、自由自在な動き、などなど、実に感動的で涙腺がゆるんでしまいます。 選手たちは素人の想像などはるかに超えるトレーニングやプレッシャー、苦しみとともにその場に立つのでしょうが、実際の舞台で表現される世界ではギリギリした緊張感というより、スタイルであったり、洒落た雰囲気であったり、見る側をワクワクさせてくれるエネルギーに溢れている。さらには、とんでもない身体能力で凄い技を繰り出し続ける集中力とスタミナには、確実に何かを実現するという強いエネルギーが満ちていて、目が離せなくなるわけです。 つい、気になる選手の生年月日をチェックしてみますと、やはり数字は正確です (笑 )。特にメダリストは「8」のエネルギーを持っている。しかも才能として!それらは内在する、これからさらに開花していくエネルギーであるのも興味深いところで、画面の向こうの凄い人たちを数字で読み想像するのは、なかなかおもしろい時間です。 大人の夏は平常運転、さほどイベント感はありませんが、運動好きとしては一流のアスリートたちの高度な身体機能とパフォーマンスを一気に見ることが出来るこの夏は、ちょっとだけ特別感があります。8月末からはパラリンピック♪格好いいアスリートの姿を想像しながら、滝のような汗をかいて、元気に暑い日を過ごしています。 緑色のボンネットバスは、平沢と奈良井を無料で往復する 「重伝建周遊バス」です。奈良井宿の中間部に位置する「徳利屋」(原家住宅)は、間口 7間総 2階の大きな旅籠として栄え、脇本陣をつとめました。江戸中期には木曽代官の御用商人をつとめるなど、300年以上前から奈良井の有力者として栄えました。幸田露伴はこの宿に泊まった経験を「酔興記」に残しています。「本山、櫻澤、贄川にて一々丼酒を飲み、奈良井の徳利屋といふに宿りけるに、老實親切なる婆の談話いとをかしく、・」。現在は蕎麦処となり、店内では江戸時代そのままの空間を体験できます。主屋の一部は郷土館として公開されています。▲ 曹洞宗 長泉寺は本棟造り。1366年創建と伝わります。 ▼ マリア地蔵で知られる臨済宗妙心寺派 大宝寺。 奈良井には専念寺、法然寺、大宝寺、神明宮、長泉寺、浄龍寺、 若宮社など4社 5寺と人口に比べ多くの寺社があり、宗派もまちまちです。少し入った高台にあり街道からは見えづらいのが特徴。浄土真宗の浄龍寺(上)や長泉寺は信州に多い民家様式「本棟造り」で建てられています。大名行列や合戦の際は、宿 の役割も果たしていたようです。老舗蔵元「杉の森酒造」は約 200年前、専念寺と共に飛騨高山から移転したといわれます。そのためか格子が縦繁になっていて、他の家とは雰囲気が違います。一時は閉鎖されていましたが「suginomori brewery」として蘇り、高級日本酒ブランド「narai」を生産しています。 宿場町の終わりに鎮座するのが「鎮神社」です。1618年に起きた疫病を鎮めるため、千葉の香取神宮から御祭神を勧請したと伝わる古社で、社殿には漆が塗られています。泉鏡花は、鎮神社を舞台にした『眉かくしの霊』(1923年)を描いています。奈良井のひなびた宿に逗留した主人公が、女中や料理人と交わす会話が小気味よく、宿で不思議な体験をした主人公に対して、ある火事のあった日に鎮神社奥の桔梗ヶ原の池(実在はしません)で、美しい婦人が鏡台を置いて化粧をしている姿を見たと料理人は語ります。鎮神社を京都方面に進むと、中山道の難所、鳥居峠へつづく険しい山道が旅人を待ち受けています。 永青文庫で、九曜紋を探す Come on!九曜紋 .見つけて楽しむ細川家の家紋. 東京 目白台の永青文庫にて「Come on!九曜紋 .見つけて楽しむ細川家の家紋.」展が 9月 23日まで開催中です。永青文庫は熊本藩 54万石を治めた細川家の江戸下屋敷跡にあり、永青文庫を創設した16代細川護立公(細川護熙元首相の祖父)の蒐集品はじめ、伝来の美術品や資料約 94000点が収蔵されています。年に数回テーマを変えながら収蔵品の展覧会が、昭和 5年に建てられた細川家の元家政所(事務所)で開かれます。今回のテーマ「九曜紋」は、9つの星(太陽、月、火・水・木・金・土 +羅.星(らごせい)、計都星(けいとせい))を表し、陰陽道につうじた厄除けの文様として古くから牛車や衣服にあしらわれ、やがて100以上の武家が使う人気の家紋となりました。展示室に並んだ軍配、 軍扇、太刀の拵こしらええ、兜などにほどこした九曜紋を探し出そうという趣向です。 武家にとって家紋はとても大切で、戦国時代には戦場での存在を示す旗印となり、江戸時代になると登城の際に家紋入り衣服の着用が義務付けられました。廊下ですれ違う際には、家紋を見て人物を特定し家格の違いによって挨拶の儀礼を変えたり、同じ家紋を使う他家の人▲ 5代 綱利公の軍配には日輪や星、十二支により吉凶を占う図表が描かれています。 物と間違えられ切りつけられることがあるほど、家紋は武家の「顔」といえるものでした。細川家では 2代忠興(ただおき)が織田信長 から九曜紋を拝領し、以来、武器・武具、調度品、衣服など様々なところに九曜紋をあしらいました。細川家の九曜紋は中心とまわりの星が離れており、細川九曜と呼ばれます。豪華な貝合せを入れた貝桶や白象嵌で九曜紋と桜紋(替紋)があしらわれた八代焼の茶碗、色絵で九曜紋を散らした香炉、見事な螺鈿で彩られた料紙箱など、工芸のつくり手たちは様々な工夫を凝らし家紋を作品にとり込みました。 細川護立公がコレクションを来客に見せていたテーブルやソファ。文京区立肥後細川庭園として公開されている目白台の屋敷跡では、一時、細川護熙元首相と生活を共にしていました。 昭和 25年、永青文庫をひらいた細川護立公は、10代から白隠、仙.といった禅画や刀剣の蒐集をはじめ「美術の殿様」と呼ばれました。国宝や刀剣など文化財保護に取り組む一方、外車を乗りこなすハイカラな紳士で、目白台や軽井沢に洋館を建て白樺派の志賀直哉、武者小路実篤、画家の菱田春草、小林古径、横山大観、梅原龍三郎はじめ多くの若者を支援しました。フランスに滞在しマティス、セザンヌ、ルドンを蒐集するなどコレクションの範囲は広大で、多くの大名家が歴史的資産を手放すなか、その保全・研究に尽力しました。 ドラゴンシリーズ 118 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 森林の真実 15 自分たちで工場を始めてから 年以上が経った。僕も弟の 安志も木工について経験も知識もないところから工場を始めたので。どんな問題が待ち受けているかも分からなかった。 いま北海道の工場は、始めた頃からすると随分進化したと思うものの技術も生産効率も品質もまだまだ発展途上。これから変革と学習を続けながら前に歩み続けるしかない。 家具も小売店舗もそうだけれど、木材の仕入、製材、加工の工程など何も知らない全くのゼロから工場をスタートした。未経験の無知ではあったが、何か根拠の無い自信みたいな確信を持っていた。新しい製品や海外店舗も全ては何もないところから始まった。根拠はないけれどやる気と根性はある。それさえあればもしかすると 1000000分の 1の可能性はあるかもしれない。それが僕ら兄弟の、何か訳の分からない目的に向かう上での根拠のようなものだ。 だから今、自分たちのいる場所がどこだろうが関係無く、昔も今も同じように何も持ち合わせていない学ぶための初心者だと自覚している。何か自分ができると錯覚した時に、僕たちの成長は終わると思っている。 2007年の 2月、気温マイナス 10 ℃の北海道東川町の工 場倉庫の何も無いコンクリート床に座り、木工機械と塗装ブースを配置する工場のレイアウトを決めた。僕は凍てつく寒さに夜高熱を出した。 年前の工場立ち上げと同時に、床に北海道産楢材のフロ ーリングを全面張りし、ヨーロッパ製横挽き製材機とバイオマス乾燥ブースを備えた。それと冬のストーブ用に、集塵した木屑を固めビスケット状の固形燃料にする機械を導入した。 木材は直接市場から丸太で仕入れ、任意の厚みに横挽き製材機で丸太を積み上げるように製材し、屋外の土場に積み上げ天然乾燥してからバイオマス乾燥機で理想の含水率までゆっくりと乾燥する。通常の家具工場は製材所から十分に乾燥 15 させた木材を仕入れ、そこからが家具工場のスタートラインとなる。 地場産業の家具製造は、製材と家具加工は分業制で効率的に営まれてきた。僕らのように丸太から製材し乾燥、木取りを行う一連の流れを自社の工場で実践することは不効率であり、必要な材種を必要な量だけ仕入れ加工する方 75 が効率的に生産できる。しかし丸太の仕入れから製材、乾燥させることで木を扱う難しさを知ると同時に、木を学ぶ機会をより多く持つことができる。 15 まだまだ浅い経験で木を語ることなどできないが、僕らが本当の意味で良い 40 木工製品を作るためには必要なプロセスと思っている。 北海道の森林組合や地方自治体、東北の森林組合、岐阜の木材市場から丸太を仕入れることをこの年間継続し行ってきた。森林組合が開催する毎月の木材市場へ行くと、製材業のプロに混じって札を置いて競りに加わる。林業や製材業に長年関わるプロ達からすると、違った匂いのする人種なのだろうか。冷ややかな視線を感じつつ、自分たちの感覚を信じて札に値を付ける。木材の価値を決めるのは市場の 6原理だが、木材を加工して製品にすることで、それが生み出す価値は全く違ったものとなる。高級といわれる木材も良材と言われて等級を付けられるような檜や杉なども、結局のところは建築物になったり家具となった時にどのような価値の製品や建物にできるかという価値創造に大きく左右される。新鮮な高級魚も料理人がどんな調理をするかによって味も値段も変わるように、どんな木材の価値創造も同じこと。いつ、どこの海で獲れた魚なのか、市場で自分の目で鮮度を見て仕入れ、包丁で丁寧に捌き、料理することと木材を扱うことは全く同じだ。どんな魚を仕入れて料理を作るかは料理人の情熱次第だ。 日本の国土は%が森林だと言われる。その森林全体の割は杉や檜のような針葉樹の植林された森林である。今ではその多くの木々は建築用材としての伐期齢を迎えているが、そのような森林は手入れをしないまま放置され続けている。そして残りの%の森林が広葉樹の森であり、多くは植林を行わない天然更新林と言われる。日本の国土は、北海道から九州まで様々な樹種の植生の広葉樹の木々が育つ豊かな森林が今でも多く残され、自然豊かな国土を形成している。 しかし今、森林をめぐる恐怖の景色が、北海道から東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州までどの地域にも広がっている。どこの森林を訪れても、目を疑うような恐ろしい森林の実態を目の当たりにする。日本が古くから先祖代々に渡り数百年掛けて大切に育ててきた豊かな広葉樹の森林が、 10 0年を超える大径木から数十年の小径木まで根こそぎ丸裸にされる皆伐が行われるのだ。丸裸になった山の風景が、日本全国の山々どこに行っても広がっている。そしてさらに恐ろしいことに、その木材が山のように積み上げられた土場には、大きな楢や欅、栗などの広葉樹が、死体のように幾重にも積み上げられている。その皆伐された木材が全国各地で今、どのように使われているかを日本国民は知らない。 もう数十年も前から毎日のように、全国で数百トンに上る貴重な広葉樹、針葉樹の木が採取され、チップ材に粉々に砕かれた木材を燃やし僅かな電気が作り出されている。それこそ日本政府が再生可能エネルギーの一環と言ってきた、バイオマス発電である。全国 1 0 0 0カ所以上に建設が進められ、バイオマス発電所と言う響きの良いネーミングで日本の森林を大量に燃やす施設である。立米単価 4 0 0 0〜 6 0 0 0円という価格で取引される木材チップは、日本人が数百年にわたり大切に守り続けてきた天然更新した広葉樹林の木々を見境なく粉々に砕いたものなのだ。 そして日本の大手製紙会社は今でも、そうした森林から運ばれるチップ材を安値で買取りトイレットペーパーを作り続けている。その風景を見ると無差別に人々を殺戮した戦時中の人間の恐ろしさと同じ恐怖に怒りを感じる。 政治主導の補助金事業として全国で動き出している公共事業には、様々な利権と金が絡んでいる。森林の中にあるチップ工場に積み上げられた木材を見る度に、日本人と日本と言う国に対する怒りと危機感を感じる。 木々も森林も酸素を生み出し、山々の自然災害を防ぎ、森林の存在により海の自然が豊かになり、多くの動物、昆虫、植物が生きる場所を育み、地球の豊かさは木々と森林によってもたらされてきたのだ。人間がこんなことを続けていたら、日本も地球も滅びるしかない。有限な資源を使いたいだけ使い、無駄なエネルギーを毎日のように無限に使用して利便性だけを追いかけてきた人間社会は、何を目指しているのだろうか。 ▲ JR木曽平沢駅を降りるとすぐにある漆芸巣山元久。 奈良井宿のとなり木曽平沢は、漆工の町として栄えてきました。平沢の街は奈良井と異なり、奈良井川右岸の平地に恵まれた場所にあります。中山道が整備されてから漆工がはじまり、現在も日本有数の漆器生産量をほこります。漆工町として初めて重要伝統的建造物群保存地区に選定された木曽平沢。街の中心部、本通り(旧中山道)の上町〜中町には、約 100軒の漆器店が並んでいます。江戸時代の平沢漆器はメンパ、弁当箱などは実用本位の堅牢な春慶塗でしたが、明治になると輪島から塗師を招き、堅地技法を取り入れました。また新潟から導入した宗和膳(金森宗和が好んだ四脚の銘々膳)が評判となりました。毎年 6月には木曽漆器祭が開催され多くの人でにぎわいます。手塚家の別荘を宿泊施設にリノベーションした「日々別荘」。 昭和になると漆器生産のほとんどは平沢に移り、245軒のうち木地屋 25戸、漆器屋 17戸、その他漆関係が 200軒以上あり、住民の大半が漆器を生業としました。敷地は宿場町のような短冊状で、主屋は通り沿いの見世を店舗として、勝手、座敷を並べる一列三室が基本です。主屋の奥には中庭を介して土蔵(塗蔵)が建っています。2階建ての塗蔵の床は板の間で、1階は下地付けや研ぎ、2階では埃を嫌う中塗や上塗が行なわれます。 奈良井川の湾曲にあわせ、建物が雁行し側面が見える街並みが平沢下町の特徴です。1749年の大火後、防火策として尾張藩が 3尺ずつ家屋を通りからセットバックさせたため、今も「アガモチ」と呼ばれる空き地が住居と通りの間に残っています。建物の間にある狭い路地は、本通りに並行した金西町へと続いています。 大正時代に開発された金西町には塗師の家が並んでいます。通り沿いの店舗は少なく、職人町の風情を感じさせます。 った。 設置から 〜 年経ったガスコンロの火つきが悪い。電池 交換したが、3回に1回しかつかない。騙し騙し使っていたが、どうにも火がつかなくなり、しまいにガス臭くなる。3口のうち2口がそんな状態なり、交換せざるを得なくな 15〜 16 年になれば、水回りのあちこちにガタが来る のは当然だが、見渡すと、あれもこれもと気になる。 キッチンはもとより一層のことスケルトンにして間取り変更、家具も新調しようと、大掛かりな部屋全体の変更プランを考え、資料を集めた。見違えるようなったビフォア・アフターの事例を見ると、夢が膨らむ。業者を呼んで相談することにした。業務歴の長い女性で、テキパキしている。一通り話を聞いたあと、スケルトンにするのは「もったいない」と、意外な言葉が返ってくる。材料費の高騰で相当の費用がかかること、まだまだ充分に補修工事ができると、営業的には改修工事を勧めるのがいいのにと内心思ったが、率直に言い切る彼女の一言に、スケルトン計画はやめた。キッチン回り、不具合のガスコンロ、ガタついた水道の蛇口を交換して、塗装が剥げた流し台や洗面所など、細かい補修箇所を確認して、後日見積もりということになった。リフォームを考え、ガスコンロの不具合を先延ばししていたが、彼女の一言で、我に返った。まずは日常生活をまともに、安心して台所仕事をできるように。カーテンは取り替えて気分転換。 大掛かりのスケルトン計画から大幅変更となったが、それなりに選ぶ作業は結構時間がかかる。自宅で何度か打ち合わせをし、工事当日は現場監督として立ち合い、それぞれの職人さんと丁々発止やりとりしながら指示をする。なかなか大したもんだと感心した。交換工事は全て男性、最後に塗装の剥がれを補修する段に来たのは女性だった。大きな袋を担いで、中から道具を一式取り出す。塗装用の絵の具を調合しながら色を作り、剥 15 16 げた箇所にやすりをかけて塗っていく。まさに職人技。以前に一度、雨が吹きつけて塗装が剥がれた窓枠を直してもらおうと業者を呼んだが、窓枠を外さないとできない、と言われそのままにしておいた。今回、それを見事に直してくれた。女性なので隙間に手が届いたのかもしれないが、窓の開け閉めでずっと気になっていたので、この修復ができたのはすごく嬉しかった。キッチンと洗面所、そして窓枠の三箇所の剥がれ補修だったが、時間は3時間以上かかり、最後にニスを吹きかけ完成した。美大を出てこの仕事をしていると聞く。色の扱いはお手のものだと思うが、仕事ぶりはすこぶる丁寧で仕上がりはお見事。 20 二人の女性、それぞれの仕事は異なるが、逞しくカッコいい。久しぶりに気持ちのいい仕事のできる女性を見て、嬉しい気持ちになる。 ソファとダイニングテーブルはもう年も使っているので、椅子の座面は擦り切れている。デパートの家具売り場を何度も探すが、気に入ったものが見つからない。買い換えることしか考えていなかったが、ひょっとして直しがきくかもしれない。窓枠の補修の技が気持ちを変えた。ダメもとと思いながらメーカーに問い合わせてみる。ソファも椅子も、張り替え可能とのこと。ソファはヘタリを確認して見積もりをするとのことで、営業が見にくることに。椅子は廃盤になっているが、修復は可能。それぞれショールームを案内され出向いた。驚くほどの品数と、目が飛び出るほど高額の家具に圧倒され、修復依頼はいささか気後れしたが、「長く使っていただきありがとうございます」と、対応は丁寧だった。見積もりはどちらも安くなかったが、気に入ったものを使い続けられるのはありがたい。1カ月後、張り替えられたソファと椅子が届く。破れてちょっと惨めだった椅子も、少し褪せていたソファも見事に蘇って帰ってきた。処分というざんないことをしないで済んだ。なんだかすごくリッチな気分になっている。 二人のかっこいい女性の仕事ぶりのおかげて、今は、気持ちよく安心して料理を作り、模様替えしたリビングの新柄ソファーでオリンピックや録画映画を楽しんいる。超猛暑もあとひと月、なんとか乗り切って、元気で快適に日常を過ごしたいものである。 小坂公一さんは 4年前、73歳で亡くなりました。 工房小坂の小坂公一さんは、夏目有彦氏(1928〜 2000年)に師事し、根来(ねごろ)塗復興の第一人者として評価されていました。根来塗は和歌山県根来寺で作られていた朱色の漆器で、はじめは僧侶達の生活器として使われましたが、根来寺が豊臣秀吉によって滅ぼされると朱漆塗りの総称となっていきました。 漆器の木地は、通常は木地師によって作られますが、小坂さんは木地づくりから下地調整、下塗り、中塗り、上塗りまで、全てを自分でこなしたそうです。特に造形に熱心にとりくみ、古い根来塗の名品を観察しながら、自分なりの工夫を重ねていました。東京・大阪・名古屋のデパート、ギャラリーで定期的に個展を開催しファンに支持されていました。小坂しづゑ夫人。公一さんの仕事を伝えていきたいといいます。 小坂公一さんが気に入っていたという大ぶりの椀。根来塗らしいボリューム感と端正なフォルムを備えています。根来塗は数十年〜百年にわたり使われているうちに、下地の黒漆が出てくることで価値が上がっていきます。長年の日常使いに耐えるためには、堅牢な木地と下地が必要です。 螺鈿や堆朱の技法を使った茶入や棗、香合も作られていました。 ▼昭和 30年代には大谷石の蔵が建てられるようになりました。 ファサードが本棟造り風の「木曽漆器館」。 長野冬季オリンピック(1998年)のメダルにもなった木曽漆器の歴史や技法、人間国宝の名品を多数展示した「木曽漆器館」。木曽の漆器がはじめて文献に載ったのは奈良井の曲げ物で、17世紀の終わりにはメンパ、弁当箱、お盆などが盛んに作られ、お六櫛とともに中山道の土産物として全国に知られるようになりました。 漆産地として長年ライバル関係にあった奈良井と木曽平沢でしたが、18世紀なかばには生産体制が統合され、付加価値の高い蒔絵の塗櫛が「奈良井の塗櫛」として人気になります。小型軽量で女性に喜ばれる飾櫛は、旅人にとって重宝な土産物だったのです。生産の中心は平沢に移り、江戸後期には重箱や膳などが作られ中山道をつうじて全国に運ばれます。明治 10年、下地づくりに欠かせない良質な錆土が平沢で発見され、堅牢な大型漆器の生産が可能になると、輪島塗のような本堅地漆器への転換が図られました。時代にあわせ木曽漆器は七変化してきたのです。▼湯桶などの蕎麦道具やウナギビラとった色々な食器を、食生活の変化にあわせて開発してきました。昭和になると座卓やタンスなど家具も作られるようになります。 吉野富雄作「高台寺蒔絵丸重箱」。▲漆器の製造工程や道具を紹介したコーナーもあります。 ▼ 館内には漆芸教室があり、塗箸づくりを体験できます。 1907年、諏訪に生まれた小口正二は、山本鼎が主宰した大屋農民美術研究所の講師から木彫の指導をうけ、研究員となって研鑽を積みました。得意とした堆朱(ついしゅ)は、200〜 300回ほど様々な色の漆を塗り重ねから、表面を削っていくことで図案を生み出します。色の順番や厚みなどを計算しながら作業をすすめる必要があります。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】