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下の写真をクリックすると、能登半島地震レポートの特設ページをご覧頂けます。 取材・撮影協力 森博樹
Winter Beauty in Karuizawa
住んでわかる冬の軽井沢
https://collaj.jp/ 雪解 2024
透きとおる冬の軽井沢
軽井沢といえば、140年近い歴史ある夏の避暑地ですが、いま冬の軽井沢が注目されています。
軽井沢駅から見る朝の軽井沢プリンスホテルスキー場。山一面を樹氷が覆っています。
早朝からにぎわう人気スポット「雲場池」ですが、冬の朝は人も少なく、やわらかな朝日に照らされる湖面を楽しめます。
▼ 数々の文豪に愛されたつるや旅館の向かいでは、ホテル建設が進んでいます。
冬季は大半が閉まっていた軽井沢銀座でしたが、近年は冬の観光客増加により、通年営業する店が多くなりました。雪の二手橋からの眺めも綺麗です。
二手橋に近いショー記念礼拝堂は、一年を通してひらかれています。
魔法の赤い靴をココにわたしておばあさんは言ったの。この靴をはけばたちまち心がウキウキしてしまうんだって!そうしたらいくら家が大好きなキキだって
Vol.57外に出かけたくてたまらなくなるって!
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
リノベーション前は、右写真のような古民家調の飲食店でした。土台はほぼ江戸時代(300年前)のままで、礎石の上に束を立て土台を支えています。床下に風が通り冷える一方で、室内を床暖房で暖めていたため温度差により床下結露が生じていました。柱や梁も痛みがひどく、オーナーの許可を得て構造用合板で補強し耐震性を高めました。玄関を入ったホールは天井を高くして広々した雰囲気に。天井の梁を滑車で持ち上げるなど、作業は人力で行われました。
キッチンは EKREAオーダーキッチン製で、実際に使い心地を確かめられます。薪ストーブの前には建築家・吉村順三さんがデザインした「たためる椅子」が置かれ、壁には大谷石が貼られています。暖房には軽井沢建築社独自の「パッシブ冷暖」を採用し、空間全体を温めています。軽井沢建築社の関泰良さんが、リノベーションの記録を見せてくださいました。床下にはコンクリートを流して地面を塞ぎ、断熱材を張って「パッシブ冷暖」を導入しました。パッシブ冷暖はエアコン1台で全館暖房を可能にしたシステムで、断熱した床下にエアコンの暖気を送り込みます。古民家では初めての試みです。サーモグラフィーで床・壁・天井・窓ガラスの温度を測ってみると、全て 20℃以上を保っていました。「室温を保つと同時に、床壁天井の温度を保つことがとても重要です」と関さんは言います。
室温25℃でも、肌寒さを感じる理由
冬場にエアコンの温度を 25℃に上げても、肌寒さを感じることはありませんか? その原因となっているのが、床・壁・天井の表面温度です。人が実際に感じる体感温度は「室温 +壁の表面温度÷2」といわれています。
体感温度 20℃体感温度 16.5℃
室温 20℃ +壁の表面温度 20℃÷2=体感温度 20℃室温 25℃ +壁の表面温度 8 ℃÷2=体感温度 16.5 ℃
室温が 20℃で壁の表面温度が 20℃なら、体感温度は 20℃になります。
外気温 0℃以下
築300年以上の古建築が、月11,000円台で暖房可能に
避暑地軽井沢の建物は夏向けに設計されているため断熱性が低く、冬場の暮らしは難しいのが現実です。別荘の通年利用や冬季の利用が増えるなか、断熱性の低い従来の別荘では、月に10万円以上の暖房費がかかるケースもあります。一方、適切な断熱を施したパッシブ冷暖の「離山オフィス」は、築 300年でありながら省エネルギーと快適な室内環境を実現しました。2024年1月24日〜26日のデータを見ると、日中の室温は快適ゾーンである20℃前後を保ち、夜間も15℃を下回ることはありませんでした。この時期の外気温は 0℃以下にも関わらず、エアコンの電気代は月11,340円におさまりました。
床・壁・天井の温度を一定に保つためには、断熱性能が大切になります。離山オフィスは築 300年以上の建
物に適切な断熱を施し、冬場でも快適な室内環境を実現しました。「この建物を直すのは大変でしたが、古い
別荘を近代化したいという要望もあるため、そのノウハウ蓄積のためにチャレンジしました」と関さんはいいます。 玄関脇に置かれた家具工房「フォークロア工芸社」
軽井沢建築社はこうした技術を活用して「軽井沢を避寒地」をテーマにした家づくりをすすめています。 のキャビネット。
2月のある日、コラージ11月号で紹介したRichterRaum/リヒター・ラウムの庭も、一面の雪に覆われていました。ゲルハルト・リヒター初の屋外恒久設置作品《ストリップ・スカルプチャー・カルイザワ》(2023年)が、白い雪に映えます。リヒター・ラウムは冬季間も開館を続け、コアなファンが訪れました。
ドラゴンシリーズ 113
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
思い出は何処へ
その時代、その場所、その時間には、ふとした瞬間に蘇る遠い記憶の奥底にある匂いが存在します。それは、日々の疲れと寒さの中に現れる束の間の暖かな日差しと共にやってくる風のように、脳を越えて直接心に刺さり、記憶の風景が蘇り広がっていくのです。ふとした時に、風に乗って流れてくるわずかな記憶の匂いを感じます。その匂いから引き戻される残像は、どうしても切なさ、悲しさ、愛しさが混じり合ったもののようです。そんなわずかな瞬間の記憶の断片と共に、その周辺の景色が徐々に鮮明になっていきます。
どこかから風に乗って届いた金木犀の香りは、若い頃の父のにこやかで優しい笑顔に変わり、土を掘り起こし、そこに丁寧に山桃の木を植え、たっぷりと水を与える大きな背中の姿、庭で笑顔で美味しそうにハイライトを吸っていた父の姿、そして家の縁側に上がり、ビール瓶からコップに注ぎ、一気に飲み干す父の姿は、僕の記憶の中にしか残っていません。
北海道を車で移動していた時にどこからか流れてきた干し草の匂いを嗅いだ時、シュヴァルツヴァルトでの仕事の休憩時間に牧草地に横たわり流れる雲を見つめながら、周りを囲むドイツトウヒの木々の中で、不安と共に天上の夢の中にいるようだったその瞬間の気持ちが蘇りました。全ての記憶は、それぞれの人の奥深くに存在し、その人がこの世から去ると共に消え去っていきます。僕の様々な幼少期から青年期に至る多くの記憶も、僕自身がこの世から消え去るときに完全に消失します。それが僕の記憶の最も深い階層にあり、自分自身でも届かないかもしれない記憶も、死と共に誰にも知られることなく消えていきます。
そのように、人々の人生の思い出や記憶は、その人自身が思い出すこともなく、誰にも知られることなく、この世界から完全に忘れ去られます。人がどんなに記録として書籍や映像として記憶の断片をこの世に残したとしても、本当の感情や、その記憶の悲しさや虚しさや美しさを、同じように記憶として残すことはできません。
本当の人間の生というものは、今を生きている瞬間にしか、そしてその記憶を思い出す瞬間にしか残せないのです。生きている瞬間は、苦しくなったり、悔しくなったり、その時間の意味や経験の価値を知り、その瞬間を味わうことはなかなか難しいです。しかし、私たちは何かを目指して生きる以外に選択肢がありません。そして、少しの時間と経験を経た後、ふとした瞬間に蘇る記憶から、その過去の自分にとっての意味と価値、後悔や無念といった感情を伴った記憶、その時代の自分の感情や空気が、記憶と共に懐かしく愛おしく思えるようになります。
記憶と意識にはいくつかの階層があり、日常生活の中ではなぜか表層からある一定の深さにしか達しません。この日常の意識の流れは緩やかではあるものの、一定の流れを持っており、その意識と記憶の階層は常に過去から未来、過去から未来へと流れ続けています。私たちの日常生活や仕事の時間は、そういった過去から未来へ向けて、個人差はあるものの、一定の深さの階層を流れ続けています。そして、記憶の匂いは、その階層よりもさらに深い場所へと私たちを導いてくれます。
しかし、その日常よりも深い意識へ進むには、日常の世界とのつながりを切断する必要があります。人の意識の階層は非常に深く、その全ての階層を日常から意識して生きることは難しい。
人間には、その階層によって異なる人格が存在しています。私たちの意識は、通常、日常生活を送るために「常識」というルールの範囲内にチューニングされています。自由になること、遠くに行くことは、実際にはいつでも可能です。それは、自分の心を自由にして、自分の深い意識の階層に潜ることができるからです。人間は、外から見える姿と一つの意識だけではありません。どのような人間にも、日常を生きる表の顔と、誰にも見せたことのない裏の顔が存在します。それは、聖人と言えるような人間であっても、一人の人格の中に多くの人間性、感情の動きや自我が存在します。それが、人間という面白い存在です。だからこそ、人々はルールや目的を作り、集団で生きています。
しかし私たちの記憶は自分だけの記憶だけでは無い、知らない誰かの記憶が自分の中に埋め込まれていることを知る機会がありました。何度かの自分の瀬戸際の経験の中で、病院のベットに横たわる最中に、自分の意識の中に存在した鮮明な記憶の断片が長い時間現れました。それは日本の景色では無く、自分がこれまで生きてきた場所では無い、行ったことも、見たことも無い風景でした。そして僕のベットの前には何日間もずっと長い髪の髭を生やした男性が立っていました。人間の中には過去に存在した人の記憶が細胞の奥深くに埋め込まれているのでは無いだろうかと感じるようになったきっかけでした。人間の生命は遠大な過去から意思を持って受け継がれてきたものであり、私たち一人一人は必然として存在している。そんな安心感を持ったのです。
全ては過去となり、消滅します。時間は確実に過ぎ去り、今の時間も未来も確実に過去となり、そして全てのものは必ず消滅します。自分の記憶も、懐かしい存在も、愛しい存在も、全ては自分の中からも、記憶の中からも、この世界からも消滅します。しかし、私はこのように信じています。私たちの存在の記憶はどこかの誰かの中に記憶されるのかもしれないと・・・・
はい、私は幸せ者です。
軽井沢のものづくり工房
フォークロア工芸社
小諸市で木のものづくりを続ける南沢征志さんの工房「フォークロア工芸社」を訪ねました。浅間山のよく見える丘の上に、小諸出身の南沢征志さんがひらいた木工房「フォークロア工芸社」が建っています。子供のころからものづくりが好きだった南沢さんは、上京後、長野県 奈良井宿の木曽アルテック社(代表 齊藤寛親さん)で無垢の木の家具づくりを学び、佐久の家具メーカーで現代的な家具づくりを経験したあと、15年ほど前に独立しました。軽井沢の別荘、住宅、飲食店、商業施設などのオーダー家具・什器を幅広く手掛け、デザイナーや建築会社が設計した家具の製作も行っています。▼ 様々な木の見本をカセットテープ型にデザイン。
小諸の自然あふれる場所で、フォークロア工芸社の家具は作られています。ナラ、サクラ、ホワイトアッシュ、キハダなどの木の器は、クライアントの庭に生えていた思い出の木から作ることもあるそうです。▲ 軽井沢建築社の依頼で製作中のキャビネット。 ▼ミュージシャンから頼まれたカセットテープ専用収納ケース。
軽井沢建築社の関さんいわく、南沢さんの工房はどんな注文も「できない」とは言わないそうです。イタリア製 5軸ルーターなど最新機器を活用して、オーダー家具のデザイン・製作をすすめています。
イタリア製 5軸ルーターはプログラミングしやすく立体的な造形が得意とのこと。南沢さんはドイツの国際木工機械見本市ハノーバーメッセにも出掛ています。左上は、3Dスキャンで金属製の鳥からデータを取りルーターで削ったもの。上は南沢さんがデザインした神棚。右上の「オートマタ」
(自動機械)は文字やマークが電動で動きます。左下は、国土地理院の浅間山の 3Dデータをもとに NCルーターで削った模型。
軽井沢建築社の依頼で製作された別荘の家具。ファミリーレストランのような家族の集うコーナーを軽井沢らしい天然木で表現しました。
▲フラッシュ構造で製作された珍しい椅子。無垢の木だけでなく、フラッシュなど様々な作り方を探求しています。
▲ 木の枠に接着剤を塗布してフラッシュのパネルを作っています。
無垢の木を使う一方で、フラッシュ構造の家具も製作されています。フラッシュとは木の枠の両面に薄い合板を張ってパネルを作る方法で、家具のキャビネットなどに使われます。南沢さんは多様なデザインのオーダー家具・什器の注文を受けるため、フラッシュを導入したそうです。軽井沢には昔から別荘やホテル、店舗からの家具需要があるため、何代か続く家具工房もあります。
クリ、ナラ、オニグルミ、ホワイトアッシュなど様々な木が並んでいます。中には地元の大工から託された床柱もあるそうです。「同じものを作っていると飽きてしまいます」という南沢さん。子供の頃からの工作好きを活かした南沢さんの仕事は、多様な家具を求められる軽井沢にフィットしていると感じました。
南沢征志さん(フォークロア工芸社)がドアやカウンターを手掛けた Andar(御代田町)。ヘアサロン、美容サロン、スパのほか、フォトスタジオを備えた綜合サロンです。
やさしいアールを描く受付カウンター。左官仕上げにしたいと考えた南沢さんは、自分の求めるテクスチャを実現するためベルギー製の左官材(モールテックス)を自ら塗って仕上げたそうです。
曲面が心地良い木製ドアも南沢さんによるもの。Andarでは軽井沢のアーティストとのコラボイベントも開かれ、窓からは石尊山を源泉とする神秘的な濁川が見えます。
心・体・思考の健康をデザインする
とっておきの休み時間25時間目写真&文大吉朋子
2024年4月は数秘学では「3」の月、「自由な思考で楽しんでみる」がテーマの1カ月です。
大人になると知恵がつき、知識が増え、守ることや形式、スタイルなどなど、色々なルールや制限を設けるようになります。もちろん、それらの秩序だった世界があるからこそ社会が成り立つことは事実ですが、無意識に「○○すべき」のように、自ら必要以上に制限をかけて、大人ぶることもわりとあるように思います。
そこで、この4月に少し思い出してみたいのは、こどもの(頃の)自由さや柔軟性。こどもたちの先入観なしの言葉や発想、行動は、善悪なんて二の次三の次、勝手気ままなクリエイティブがいっぱいで、楽しさが溢れています。失敗してもへっちゃら、超ポジティブエネルギーで軽やかに前へ進んでいく感じ、です。
考え事、悩み事、複雑な事など、大人はなぜか難しくすることが好きなもので、エネルギーも重くなりがちです。たまにはこどものように、背負っている荷物を横に置いて、自由に軽やかにやってみる。それくらいで大人はやっとほんの少し軽くなる、くらいかと思います。新年度スタートの4月は、意識して軽やかに前向きなエネルギーで過ごしてまいりましょう。
新年度のはじまりは、自由な思考で楽しむ1ヶ月。
2024年2月・京都市京セラ美術館にて
人生の豊かさとは
私は「人生の豊かさ」や「豊かな人生」という言葉をわりと身近においています。「豊か」という言葉には、豊作、豊穣など、大地の空気を感じますし、大きなエネルギーでなにか
を包むような優しさも感じます。私の祖父の名前でもあったからか、大きな存在をイメージするとき
の象徴的な言葉として持っている感じもあるように思います。
友人でもあり一緒にお仕事をするある方々がいます。今でこそ夫婦別姓や事実婚など、パートナーシップの多様なあり方が言われていますが、相当早い頃からリベラルなスタイルで人生を歩んでいるお二人で、お会いするたびに何とはなしに、これまでの人生物語をお聞きすることになります。
お二人のこれまでの人生はかなりの波乱万丈物語で、毎回返す言葉に戸惑うような壮絶なエピソードを聞くことになるのですが、内容にはもちろん驚きしかないものの、実にあっけらかんと軽やかに凄いエピソードを話されることが毎回とても印象的です。実際に自分はその体験をしたらどうなるのだろうかと、思ってみても想像が追い付かない。死ぬか生きるかみたいな瞬間を「こんなこともあったなぁ」と、さらりと話され、一瞬フィクションなのでは?と思ってしまうくらいなのです。もちろんすべて現実の世界の話であるのですが・・・・
その当時はおそらく、人生のどん底とも言える、生きているという感覚すら味わうことなく、モーレツに 「ただ生きる」感じなのだろうか、などとあれこれ想像するわけですが、そんな人生の物語を耳にするたびに、「若いときの苦労は買ってでも」という言葉が自然と頭をよぎってきます。
昨今、さまざまな角度から事象や物ごとを捉える良い側面がある一方で、言葉が意図しない
方向に捉えられることもままあることで、「苦労は買ってでも」という言葉も、一歩間違えれ
ばただの押し付けにもなりかねない、デリケートな表現かもしれません。
それでも、それらの壮絶な人生物語は平たくいえば人生の「苦労」の塊のように見え、その時にはきっとお金を積んでも買いたいとは思わない、はず。ただ、私よりうんと先輩である彼らの人生を少し感じてみると、その苦労があるからこそ今がある、という以外の何ものでもなく、買ってしまった苦労が今の人生を豊かにし財産となっている、と、ただ伝わってくるわけです。そして、同時に「前向きさ」ということの大切さも、滲むように心に沸き上がります。
「若いときの苦労は買ってでも」の苦労について、人生100年時代の半分にも満たない私が言葉にするのは早いものだと思いつつ、では「若いとき」って一体いつまでなんだ?とも思いつつ、″苦労″が″財産″へと変化していく時間もそれなりにかかるわけで、しかもその変化は何層にも薄く重ねられていくから、よほど意識してみないと日々の中には感じにくいよね、とか。
時々変化の進化を見返して、棚卸して、それらを前向きに思考の種にしていくことで、より心身健康で豊かな人生になるのかなぁ、などと考える最近です。
一方で、「苦労は買ってでも」なんてすでに時代遅れなことかもしれないけれど、「そんなこと
もないんだよっ」と、若い方へ伝える言葉選びにすごーく気をつかっている自分がいます。
伝わっているのかどうかはわかりませんが、私の妙な熱量は少しは伝わっているのかな。
かつての宿場町追分には『風立ちぬ』などで知られる作家・堀辰雄が晩年に暮らした家が残されています。その近くの古書店「追分コロニー」は、出し梁づくりの宿場をイメージしたつくり。店内には堀辰雄はじめ立原道造、室生犀星、中村真一郎、遠藤周作など軽井沢ゆかりの著作が並びます。
冬の軽井沢を愛した堀辰雄は『風立ちぬ死のかげの谷』のなかに、その情景を描いています。
この数日、云いようもないほどよい天気だ。朝のうちはヴェランダ一ぱいに日が射し込んでいて、風もなく、とても温かだ。けさなどはとうとうそのヴェランダに小さな卓や椅子を持ち出して、まだ一面に雪に埋もれた谷を前にしながら、朝食をはじめた位だ。本当にこうして一人っきりでいるのはなんだか勿体ないようだ、と思いながら朝食に向っているうち、ひょいとすぐ目の前の枯れた灌木の根もとへ目をやると、いつのまにか雉子が来ている。それも二羽、雪の中に餌をあさりながら、ごそごそと歩きまわっている……「おい、来て御覧、雉子が来ているぞ」私はあたかもお前が小屋の中に居でもするかのように想像して、声を低めてそう一人ごちながら、じっと息をつめてその雉子を見守っていた。お前がうっかり足音でも立てはしまいかと、それまで気づかいながら…… 堀辰雄『風立ちぬ死のかげの谷』
軽井沢ロータリー。
2024年 3月 24日まで、サントリー美術館(東京・六本木ミッドタウン)にて「大名茶人 織田有楽斎」が開催されました。有楽斎は本名を織田長益といい、織田信長と13歳年の離れた弟です。本能寺の変の際は、信長の長男・信忠と共に二条新御所にいて「信忠に切腹を促しておいて、自分は安土城に逃亡した卑怯者」と江戸時代の世間話集で書かれ不名誉なイメージを受けましたが、戦国乱世のなか織田家の血筋を活用し戦国大名たちの調停に尽力したことが近年の研究でわかっています。本能寺の変後は豊臣秀吉のそばで、御伽衆(主君の話し相手や茶の相手となる役職)をつとめます。秀吉没後は徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは家康の東軍について武勲をあげました。その後はなぜか大坂城にはいり、淀殿(織田信長の妹・市の娘)の叔父として豊臣秀頼を補佐しながら、豊臣・徳川の間に入り和睦を画策。しかし大阪夏の陣を前に大坂城をでて、京都建仁寺塔頭・正伝院を再興すると、有楽斎と名乗り茶道に生きました。有楽斎は千利休から手ほどきをうけ、利休十哲に
今月の茶道具 12
有楽井戸
重要美術品 大井戸茶碗 有楽井戸 朝鮮王朝時代16世紀東京国立博物館 Image: TNM Image Archives
数えられる高弟です。今も正伝永源院には有楽斎の手紙や遺物が残り、展覧会では茶道具と共に展示されました。隠棲後は正伝院に茶室「如庵(じょあん)」を建て、古田織部、細川三斎、伊達政宗などの武将と茶会をひらき、交流のハブとなっていたことが資料からも伺えました。国宝「如庵」は現在、犬山市の有楽苑に移築されています。さて「有楽井戸」は、名碗が揃う大井戸茶碗なかでも五指に入るといわれ、16世紀朝鮮で焼かれました。ふくよかで柔軟な有楽斎の人柄を偲ばせるフォルムと枇杷色の肌の椀を、しっかりした梅花皮の高台が支えます。江戸時代は紀伊国屋文左衛門所有とつたわり、近年は小田原三茶人のひとり松永安左エ門氏から国立博物館に寄贈されました。ちなみに井上靖氏原作の映画『千利休本覺坊遺文』では、萬屋錦之介氏が織田有楽斎役となり、75歳まで乱世を生きぬいた有楽斎の最後を演じきりました(錦之助氏最後の映画出演作)。井上靖氏は『本覺坊遺文』のため10年以上お茶の稽古をつづけ、羽根木公園(東京世田谷)には、井上氏ゆかりの茶室「日月庵」がのこされています。
軽井沢建築社の最新モデルハウス「VILLA THERMAL 塩壺Ⅲ」が完成しました。同社が提唱する「軽井沢を避寒地に」を実践すべく、定住できる暮らしやすさとリゾート感の両立を目指しています。玄関を入った縦繁格子の先に、森の雪景色が広がります。地元の方が言う「軽井沢は冬がいい」を実感する瞬間です。玄関の左側に配置されたキッチンからも景色がよく見えます。
階段の吹き抜けの上にも窓があり、解放感にあふれた景色を楽しめます。ヴィラサーマルシリーズは全てパッシブ冷暖を採用し、等級 6以上の断熱性を確保しているので、エアコン1台で部屋の隅々まで温まります。
2階にはワークスペースを備えたベッドルームが 2部屋あります。横長、縦長の窓が木々の景観にあわせて配置され、空間に変化を与えます。吉村障子(建築家吉村順三さんデザインの障子)に木々のシルエットが映えます。
洗面・バスルームは 2階に配置されています。
ソファでくつろいで薪ストーブの火をながめながら、ゆったりとした夜のひとときを過ごせます。
(像
は
(
ー王子(
17
弱冠
35
婚して
歴代のイングランド王の中で「イメージとして最も王様らしい
王様」は誰か。その答えは決まっています。これはもう、なんたって「ヘンリー8世」です。というのも、この王様こそはその外見からして、童話の絵本に出てくる「王様」という雰囲気そのままなのですから。画像1を御覧ください。文字通り絵に書いたような「王様」がそこにいるではありませんか。ヘンリー8世(
15 47)は、チューダー王朝の初代イングランド王ヘンリー7世
1457〜
15 0 9)の次男として誕生します。兄であるアーサ
1486〜
1502)
2スペイン王家の末娘
1485〜
15 3 6)を新たに妻(妃)
として、
15 0 9年に父から王位を継いで即位しています。時に
歳。要するに、 17歳の弟王子が
22
歳の兄嫁を新たに妃とし
て迎え入れて国王になった、ということ。これが長く続く厄介の始まりとなります。
人生百年時代の現代だって、
17
歳高校2年生の男子にとって
歳の女性は、恋愛や将来結婚したいと思う相手にはなりにくい。当
時のイングランドでは貴族階級男性の平均寿命が
歳前後!)であったよ
うなので、若き
17
歳の王子
にとって「
22
歳の兄嫁」は
率直なところ「異国からやってきた聡明な年上のおばさん」というイメージだったはず。それでも結婚7年
目(キャサリン妃
30
歳)に
至って、女の子(後の女王
メアリー1世、 1558)が誕生しています。この当時は「
1516〜
16
歳で結
20
歳頃までに第一子
を生む」というのが貴族の子女では一般的だったので、メアリーは「非常に遅い第一子」ということになります。ふたりはその後も何とか男子の誕生を求めて努力しますが、結局その希望は消えて、若き王の心と体は、キャサリン妃の侍女であったアン・ブーリン
1507頃〜
15 3 6)に惹かれていきます。その結果アンとの
間に女子が誕生。これが後に、メアリー1世に次いでイングランドの大女王(即位 1558)となるエリザベス1世( 1533〜 16 0 3)です。
これ以降もヘンリー8世は世継ぎたる男子の誕生を求めて、次々と王妃を替えていくことになることは皆様も御存知の通り。そんなこともあってか、イングランド史上数ある王朝の中でもチューダー朝は、最も名の知られた王朝のひとつとなっています。家や家具の意匠としてもこの王朝の名は広く使われているので、本誌の読者にとっても馴染みが深いはず。それほど名の通った王朝であるにも関わらずチューダー朝は、思いのほか短命でした。その存続は僅か
120年弱(1485〜16 0 3)に過ぎません。に
1492〜
の早世により、その妃キャサリン(画
60
22
歳前後(農民
画像2 キャサリン妃画像1 ヘンリー 8世
もかかわらず歴史上大きな存在感があるのは、何といってもヘンリー8世とエリザベス1世という傑出した二人の王の存在があったからです。
では、この「最も王様らしい王様」を生み出した、世紀チューダー朝イングラ
3
ンド宮廷の食文化は、いったいどのようなものであったのでしょうか。ヘンリー8世の居城のひとつとして現代にその姿を保つ、ロンドン郊外ハンプトン・コートの大ホールで催された宴席の様子からご紹介してみましょう。これまで本連載で何度か取り上げていますが、今回は寄り道をしながら少し異なる視点から見てみたいと思います。
まず画像を御覧下さい。大ホールの一番奥、壁面を背に、あたかも祭壇のように置かれているのがハイ・テーブルです。床面から一段高いひな壇の上に置かれているために「ハイ・テーブル」と呼ばれます。この写真では小さめのテーブルで椅
16
4
子が2脚となっていますが、通常は画像で描 4かれているように、壁面の幅一杯に広がる大きなハイ・テーブルの中心に王様が着座します。王に最も近いところからテーブルの端へと、身分の順に十人前後の人々が着座していきます。外部からのゲストや特別な使節の来訪があるときを除けば、このハイ・テーブルに着座できる人々こそが「王国の中枢」です。このように当時の宴席は、誰の目にもひと目で「人間の序列」が目に見える形で演出されていました。画像の描画では、ホールの中央で暖を取るためのオープンファイアーが焚かれて煙がもうもうと上がっている様が描かれています。王様と家臣と配下の者たちが一同に大ホールに揃って「同じ釜の飯を食う」。この時代までは、一団の結束を高める意味で、このことが大変に重視されていました。ただ、ヘンリー8世の時代の後半に至ると、王様は妃や家族と共に、家臣団とは別の場所で食事をする機会が増えていきます。中世的な宮廷から近世初期の宮廷への転換点です。
一方、こうした宴席でテーブルに料理を運ん
だり、食べやすいように肉をさばいたり、手を洗うための銀の水入れや水盤を運んだりするのは、態度と作法と容姿に優れた若き貴族の子弟(男子)たちでした。こうして宴席で王の近くでサーブをすることは、乗馬や狩りや剣や槍術の鍛錬などと並んで、大事な宮廷修行(=出世の階梯)のひとつと目されていました。その意味で当時の宮廷宴席でサーブを行う役割は、間違っても「平民から雇用された召使の仕事」などではありません。王の身近で着替えを手伝ったり日常の雑事をこなしたりするヴァレーと呼ばれる役割についても同様です。要するに「王の身近で仕えること」=「選ばれた者のみに許された仕事(特権)」と考えられていたのです。
こうして王様を中心(頂点)とするイングランド王国の秩序が基本的な形を整えていく時代、それがチューダー朝期だったといえるでしょう。ヘンリー8世は、自身の結婚と離婚と再婚をめぐってヴァチカン(教皇庁)と対立した挙げ句に、イングランドのカトリック教会からの離脱を宣言するに至ります。これによって、王の
画像4 キャサリン妃画像3 ヘンリー 8世
講師:大原千晴さん
頭上に抽象的な形で覆いかぶさっていたカトリックの宗教秩序という天井が消え去り、ヘンリー8世が真の意味で王国秩序の中心(頂点)に立つことになります。宴席が行われる大ホールに飾られた見事なタペストリー(画像3)の図柄は、そうした事態を反映するかのように、キリスト教登場以前のギリシア神話やアレキサンダー大王の偉業などを題材としたものが多く、そこに描かれた英雄の姿が国王につながるイメージとなるように演出されています。この時代以前のイングランドの宮廷宴席を描いた絵画には、カトリックの高僧の姿が含まれているものが珍しくないことを思えば、まさに時代が変わった、というほかありません。
このように壁面のタペストリーから食卓での席次まで「我こそは誰にはばかることなき王なり」と列席者一同に思わせる演出が一杯の宴席。これこそがチューダー朝期イングランドの宮廷宴席の最も重要な要素です。そしてその基本となる要素は、宴席で出される料理の素材選びから調理法そしてテーブルに料理を並べるスタイルに至るまで、通奏低音として貫徹しています。ヒゲづらのマッチョな貴族たちが王を囲んで、手づかみで骨付きのロースト肉をむしゃぶり尽くしながら、ワインやビールをがぶ飲みする。そんな情景は、できの悪い安手の映画や T Vが作り上げた絵空事です。戦闘や狩りでの血まみれの荒々しさこそが当時のイングランド貴族にとって誇りであったことは間違いありません。しかし、その同じ荒武者貴族たちも、一旦宮廷宴席に列席するとなれば、話は全く別。定められた席次の中で、王の前で如何に優雅に振る舞うことができるか。衣装から持ち物に至るまで気を配り、更には求められる礼儀作法に従った所作をこなしながら、互いにエレガントさを競い合っていた、と言っても決して過言ではありません。
こうして「個人が個人として自身を演出する」という要素が色濃く見られたのも、この時代の貴族社会の一大特徴です。その徹底ぶりは我々の想像を遥かに越えています。この点はイングランドに限らず、フランスでもスペインでもイタリアの諸侯でも同様です。だから、この時代の西欧貴族社会は探れば探るほど面白いのです。ある意味、日本の戦国武将たちの威の競い合い、安土桃山時代の華やかなる驕奢を生み出した社会背景に通じるものがあると感じます。宮廷宴席という場は、その時代の貴族社会の背景を映し出す鏡であると同時に、社会全体の秩序や外部勢力との関係が、驚くほど明瞭に映し出される場であった、ということができます。次回はより具体的に、宴席そのものと出された料理の特徴について、ご紹介します。
ツルヤ御代田店。
軽井沢のものづくり工房
工房 風緑木 出光 晋
軽井沢で暮らしながら、自分なりのものづくりをすすめる出光晋さんの工房を訪ねました。
軽井沢に暮らして18年の木工家出光晋さん。東急ハンズに就職後、家具デザインを学ぶため専門学校へ入学。さらに技術専門校で木工を学んでから、北海道旭川のインテリアセンター(現カンディハウス)に入社しました。7年後の 2006年御代田に移住し、2009年には軽井
沢追分エリアに現在の工房兼自宅を建て家族との生活をはじめます。東京出身の出光さんですが、軽井沢は子供の頃から身近な場所だったそうです。「親戚の別荘が星野温泉の近くにあり、子供の頃は祖父母に連れられ、学生になってからもよく来ました。原体験というか気心の知れた街ですし、新幹線で東京まで 1時間ちょっとで行けますから、子供たちを東京の両親に会わせたいという気持ちもあって軽井沢へ移住しました」と出光さん。
庭木を利用してスプーンなどを作る子供向けワークショップ「グリーンウッドワーク」を開いたこともあるそうです。伐ったばかりの生木はしなやかで柔らかく加工しやすいのが特徴です。
軽井沢の木工家との接点ができたきっかけは、2008年「暮らしの中の木の椅子展」の入賞だったそうです。入賞を知った日本を代表する木工家・谷進一郎さん(小諸)から連絡があり、ウィンザーチェアで知られる村上富朗さんはじめ木工家とのつながりができました。2012年には地元の若手木工家たちによるグループ「種」を結成し、東京や軽井沢でグループ展を開催。2012年「君の椅子」プロジェクトの椅子デザイン。2013年中村彝(つね)アトリエ記念館(東京・下落合)の家具複製など精力的に活動してきました。
椅子研究家織田憲嗣さんの著書『デンマークの椅子』(光琳社出版)は、椅子づくりの教科書。特にオーレ・ヴァンシャーの椅子に強くひかれるそうです。
出光さんは朝早くからネコの世話をしたり、家族の食事を作ったりしながら、ゆったりしたペースで自分なりの家具を模索しています。子供たちに椅子を贈るプロジェクト「君の椅子」などの活動をとおして「椅子づくりは、使い手の思いをかたちにすることと思うようになりました。今は、横浜のフォトグラファーのためにロッキングチェアのデザインを数年かけて練り上げています。要望を伺うと椅子の定番化は難しく、常に新しい試みが必要です。椅子の世界の奥深さを実感します」と出光さん。
オーレ・ヴァンシャーのような肘のフォルムを探求したいと出光さん。人と椅子の接点である肘の形を探す旅は、軽井沢の地でこれからも続きそうです。
南風なれども
コロナの時代と歩調をあわせてしまった羽田新航日本の空域とはなんぞや? 南風時の午後3時路による低空飛行。4年目の年明けを経たにもか〜6時過ぎまで、いまや世界各国の旅客機&日米かわらず強烈な春の陽差しにあわせ、その低空飛のヘリが入り乱れ、飛び交い、危険このうえないご行ぶりはますます激しさを増してゆく。時世へ。
その46
青山かすみ
昨年は米軍のオスプレイと日本の防衛省幹部が乗りあわせたヘリコプター事故が共に南の海上で発生したけれど、一年が過ぎいつのまにか元の木阿弥という感じよね。
軽井沢を「避寒地」にする CASE STUDY3
文化村の家
昨年6月号で建設現場をご紹介していた追分「文化村の家」が昨年秋に完成しました。
玄関から部屋に入ると、眼の前に森の景色が広がります。南に向けて大きな窓を斜めにあけ、室内の床とウッドデッキに連続性をもたせることで、まるで窓がないようなドラマチックな景観が得られました。
玄関とリビングの間にガラス引き戸を設け、冷気を防ぐことができます。
WD 16
WD10
AC
WD
トイレ
クローゼット
スタディルーム
冷蔵庫 W800
キッチン
WD
1
WD 9
8
WD 7
WD
シングル
玄関 2
WD
寝室
WD
シングル
3
洗面室 11
浴室
物置
リビング
ACスリーブ φ80 FL+100
ダイニング
ACスリーブ φ80
WD
デッキ
4
FL+1850
AC
和室
WD
5
WD 6
窓を斜めに配置し隣地との距離感をとっています。
変形したリビングダイニングはキッチンまで一室でつながり、南側の大きな窓から自然光が降り注ぎます。窓を斜めにしたのは、隣地への距離が一番長く、庭の奥行きを感じられるからです。基礎が最大 1.5mと高く、庭がわずかに傾斜しているため、パノラマのような感覚でデッキからの景色を眺められます。
キッチンには ekreaPartsのフレームキッチンを採用。キャビネットがスチールフレームとパンチングメタルで構成されています。キッチンから見えるダイニングテーブルやエアコン木製カバー、テレビ台などはフォークロア工芸社のオーダー品。キッチンの天井高を低くすることで、空間にメリハリを与えています。
キッチンの裏には奥様のワークスペースと子供スペースがあり、ハッチからキッチンが見えます。散らかりやすい手元を隠し、オープンでありながらちょうどいい距離感があります。木々に囲まれた「文化村の家」。北面、西面は窓が少なく、南面とメリハリを付けていることが分かります。保育園から帰ると庭でそり遊び。奥様は「家事の負担が軽くなった分、子供たちと過ごす時間が増えたのが嬉しい」といいます。パッシブ冷暖によって家の中は常に20℃前後に保たれ、寒くなったら家に戻って温まることができます。家の外観は軽井沢ルールである屋根勾配 2/10以上、高さ10m以下、軒出し50cm以上、塀は設けないなどを守っています。落ち葉が多い軽井沢では、落ち葉の詰まりやすい雨樋や雪止めを付けないのが一般的です。家の周囲に落雪が生じるので、隣家との距離をとる必要があります。▲2階の部屋にも1階の暖気があがり20℃前後を保ちます。窓には3重構造のトリプルガラスを使っています。
オリジナルで製作された洗面台のとなりには、冬場も安心して洗濯・乾燥できるドラム式洗濯機と室内物干が備えられています。室内の洗濯場は軽井沢の冬を過ごすため必須のスペースです。パッシブ冷暖によって、洗面所、風呂、トイレ、寝室なども 20℃前後に保たれ、廊下やトイレが寒いといったストレスがありません。暖炉の奥の和室は客間を兼ねています。基礎が高く立ち上がっているため、畳に座った姿勢でも景色がよく見え圧迫感を感じません。
四季を通じて光や風、音を楽しめる屋根のついたデッキ。
エアコン1台で家中温かに過ごせる「断熱等級7」の実力
「文化村の家」は外断熱の厚さを 90mm、柱間の断熱材を120mmとるなどの工夫により、現在最高の断熱等級「等級 7」を実現しました。パッシブ冷暖のエアコンを 24時間稼働することで、厳冬期でも室温を 20℃前後に保てます。1月 24日〜 26日の記録では、最低気温マイナス 9.6℃の深夜でもリビングの温度は 20℃以上に保たれています。リビングだけでなく洗面所や 2階の温度も 20℃前後であることがグラフから分かります。快適な室内環境を保ちながら、冬季の1カ月あたりの暖房費は 2万円前後におさえられています。
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20
70
たが、
毎年お正月から2週間、国立博物館で展示されるという、長
谷川等伯の国宝「松林図屏風」が、今年は1月
が延びたと友人が知らせてきた。昨年
の生涯を舞台で観ることができたが、訪れた七尾や珠洲、千枚田などの被害の様子が明らかなるにつれ、なんともやりきれない気持ちでいた。一緒に旅した友人たちもニュースを見て心を痛めていたが、言葉にはできず、それぞれ旅の思い出を重ねて、復興を祈るしかなかった。等伯が七尾出身ということもあり展示が延期されたようで、最終日、急ぎ用事を片付け、上野へ向かった。
国立博物館は、光悦と中尊寺金色堂の展示が始まったばかりで、チケット売り場は相当の列をなしている。覚悟をしてき
歳以上ならチケットは不
要。並ばずに証明できるものを提示して中に入れるとのこと。歳をとっていいこともあるんだと、初めて思った。とにかく松林図屏風だけを見ればいい。博物館の中は広い。すぐに辿り着けなかったが、奥の展示室に七尾の舞台で見た、六曲一双の屏風絵が圧倒的な存在感で迫ってきた。七尾出身の等伯を知ってか、最終日の人の波は途切れることはなく、全部を見渡すことは難しかった。がじっと待った。
分、一瞬人の流れが止まって、
枚全て目の中に収めるこ
とができた。波や風の音も聞こえてくるような、不思議な一瞬だった。もうそれだけで充分。また来年も来ようと、喧騒の上野公園を後にした。
能登地震から1カ月半、まだ避難所で暮らす方も多く、生活再建の目処が立たないとのニュース、ボランティアが現地で活動する姿も見るようになったが、朝市の元気なおばちゃんたちの声を聞くにはまだ相当の時間がかかるだろう。かつて金沢を旅した時に見た輪島塗や山中漆器、九谷焼、珠洲焼き、加賀友禅や和紙、竹細工などの工房の被害も大きいと報道される。加賀百万石で栄えた伝統工芸の再建、再興も容易ではないだろう。受け継いできた伝統文化を是非とも絶
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日まで展示
月、能登演劇堂でそ
やさないでほしいと願いながら、人々の暮らしが落ち着いたら、元気なおばちゃんたちの声が聞けるようになったら、昔買えなかった、金泊を纏ったお重や九谷焼の酒器を買いに行こう。そしてカニもたくさん食べに行こうと思った。
そんな中、能登応援ということで、国際フォーラムで展示会が開催されているというニュースを見た。コロナの感染が強くなったと聞き人混みは避けていたが、能登のニュースは毎日続き、寒い中での不自由な生活を見ると、できることはないかと思うものの、義援金と言っても大したことができるわけでもなし、現地に行っても何もできないし、工芸品を見にいって応援になるならと、マスクを2重にして出かけた。すごい人だった。というより、急遽開催したのか、狭い場所で通路幅も十分ではないため、人が店先で止まると、身動きができなくなる。店先には何百万という輪島塗りのお重や、高価な九谷焼の大皿、素晴らしい加賀友禅が飾られているが、手に取るのは憚れ、人が右往左往する中では、ゆっくりみることもできない。それでも少しづつ前に出て、買えそうなものを探したが、どれも0が1つ多い。
特別展示とあるので、ワケあり(箱がない。現品限り)商品とおもったら、材料が整わないので作れない。もちろん現品物も多いけど、倉庫にあるものを持ってきた、とのこと。これなら応援になるかもしれないと、輪島塗の「蝶々」の額と九谷焼の「福良雀」の額を買った。どちらも工房は大きな被害があったそうだが、職人さんは無事とのこと。お店の方も被害を受けながら、しんどい中での出展で相当疲れている感じだったが、「今度は金沢に伺います」というと、笑顔を返してくれた。蝶々は春らしい色合いで美しく、雀は雪の中で身を寄せ合って小枝に止まって愛らしい。こんな機会でもなければ買うことはなかったと思うが、工芸品で季節を楽しめるのもなかなかいい。開いた財布の口はそのままに、藍古九谷の小皿2枚も買うことができた。思い切って出かけたが、現地の人と触れることで、燻っていた思いもほんの少しだけ癒された。1日も早い復興を期待したいが、ものづくりの人たちの伝統技術をたやさぬよう願うばかりである。
月には石川県で伝統工芸展の全国大会が開かれるとのこと。合わせて加賀料理などの食文化のイベントも開催される。秋の金沢もまたいい。日本の工芸技術、伝統工芸の数々、ゆっくりと味わいに行きたいと思う。