自衛隊は県立輪島高校を拠点として活動を続けています。
輪島市市ノ瀬町では大規模ながけ崩れに複数の家が飲み込まれ、捜索活動が続けられていました。
いつか見た能登 / 輪島
いまから17年前、2007年3月25日能登半島は、最大震度 6強の激震におそわれました。地震から 2カ月半後、2007年 6月に取材した輪島の街などをお届けまします。
https://collaj.jp/ 御陣乗 2024
2003年に開港した能登空港(のと里山空港)は羽田からわずか1時間。まだ真新しいロビーに降りたち、乗り合いタクシーで輪島に向かいます。
山間部にある空港から海へと続く道には、里山を背にして「九六間」と呼ばれる9間×6間を基準にした黒壁の民家が並びます。約16.4m×11mの空間を、襖や障子で仕切り、普段は個室として、冠婚葬祭の際は建具を外し大広間にしました。家の行事は全て自宅で行うため、60人前もの漆器のセットを揃えたといわれます。
日本海に突き出た能登半島は、古くから大陸との海上貿易が盛んな地でした。なかでも輪
2007年3月25日、能登半島は大地震に見舞われました。輪島でも多くの民家や寺社が
島は廻船問屋がたち並ぶ北前船の寄港地で、北海道、東北から京都や江戸へ向かう物資
被害にあったものの、わずか 3カ月足らずで外見からは分らないくらい復興が進んでいまし
の集散地として、独自の文化を育んできました。
た。被害の大きさを物語るのは、海岸付近に積まれた材木の山です。
artista
塗師屋 中室勝郎[輪島・塗師の家]
輪島を代表する伝統工芸「輪島塗」。それを支えてきたのが漆芸のプロデューサー
「塗ぬ師し屋や」です。漆芸はひとりの名工だけでは成立しません。漆の採取、木地の制作、下地、研物、中塗、上塗、加飾と、塗師屋がそれぞれの職人を束ねることで、はじめて名品が生まれます。彼らは江戸時代から全国を旅して、輪島塗の注文を受けるとともに、嗜好や流行の変化を伝え、江戸、京都にひけをとらない高度な文化を輪島に育んだのです。
輪島朝市に近い「塗師の家」があった場所。輪島市の「景観重要建造物」に指定されていましたが、輪島朝市の火災で焼失しました。ロングインタビュー 2007年6月
手のひらに宇宙を包む
日本人の魂をうつす輪島塗
伝統を今に伝える、文化年間創業輪島屋善仁ぜんにの中室勝郎さんにお話を伺いました。漆は多数の職人による産業システムがなければ成立たない工芸品です。それが高度に発展した産地が輪島です。しかしいま、漆の文化は滅びようとしています。これは人材の問題ではなく、産業として成立つかどうかです。魅力のある製品によって需要が生じれば、人は自然に集ってくるでしょう。日本人の生活環境は変化し、考え方も変わってきました。輪島塗は高価だから、皆が買える物をつくろうというのは間違いです。伝統産業には必ず頂点が必要です。富士山は頂きがあるから仰ぎ見られるので、頂点があるから裾野も広がります。誰でも使える日用品と、鑑賞用の高級品という分類はとても短絡的な分け方です。こうした考え方は、日本文化を理解していない、日本のかたちが分っていない証拠でしょう。「塗師の家」の木部は全て漆で仕上げられています。間口約5間の平屋で、石川県の県木であるアテの木を使っています。道路側に居住空間があり、職人は通り庭を歩いて奥の仕事場へ向かいました。
生活と美の融合こそが、日本人の暮らし
明治に来日した、英国人教師バジル・H・チェンバレンは、東大教授を30年つとめた言語学者で、古事記をはじめて英訳したことで知られます。彼が日本に来て驚いたことは「アート」に該当する言葉がないことでした。これは日本にアートがない訳ではなく「ありふれた日用品も、心の糧にしたり、目の保養にしなければ、気が済まない人生観をもっている」ことにチェンバレンは気づきます。あまりにも暮らしとアートが融合しているので、アートという言葉がないのです。そこでチェンバレ
・・
ンが創ったのが「美術」という言葉でした。米国の冒険家で天文学者として知られるパーシヴァル・ローエルも、明治期の日本に興味を持ち、能登半島を旅して「NOTO」という本を記しました。そこには「日本人は世界で最も幸せな人々」と書かれています。しかし当時の日本は、経済的にみればまだまだ貧しい国でした。能登の女性は働き者で、山からいっぱいの薪を背負ってきます。そんな時でも花を一輪、薪にさしている。あるいは海に行った帰りに野草を摘んでくる。囲炉裏に香木をくべる。字を読めなかった人達がです。これを見たローエルは世界で一番豊かだと感じたのです。貧しいけれど心が豊かであると。
日本人の器は土器から漆器へ
日本はなぜジャパンと呼ばれたのでしょう。ジャパンには漆の国という意味があります。最新の考古学によると、11世紀平安時代の末期から、日本人の使う器は大半が漆に移っていったことが分ってきました。朝廷の力が弱まり地方に権力が移っていくと、各地で漆器が作られるようになりました。縄文期から土器が発達してきた日本で、その時期になぜ漆器が繁栄したのでしょう。土器よりもはるかに手間の掛かる漆器を庶民が使い始めた訳を紐解くカギは、縄文時代にあります。現在見つかった最古の漆は、函館の遺跡から発掘された約9000年前の糸に塗られた漆で、色もはっきりと残っていました。
磨き上げられた漆に映る景色は、鏡とは異
なり果てしなく遠くに感じられます。それを見た縄文人は、光を吸込んでいる、命を吸込んでいると考えたのでしょう。縄文人の世界観は、命に関することが中心でした。動物も植物も、命とは肉体と魂が合体している姿で、肉体から魂が離れていくことが死である。遊離した魂が帰る場所は「空」であると考えました。空は果てることがありません。それと共通する宇宙を漆に見たのです。手のひらにおさまった漆器の中には、ひとつの宇宙があります。漆は命の源であり故郷ともいえるでしょう。こうした縄文人の宇宙観は、日本人のDNAの中に脈々と受け継がれています。平安前期には朝廷に漆部(うるしべ)が設けられ、そこで作った漆器の仏具などが朝廷から地方の寺院に下げ渡されました。階級制によって使用が禁じられていた漆器は、庶民が憧れる道具だったのです。平安末期になると、朝廷の力が弱まり、地方の豪族や武士が台頭します。朝廷が握って
いた漆器製造のノウハウは全国に広まり、
各地に漆の木が植林され、漆器は庶民の生活へと浸透していきました。日本独特の「器を手に持って口につけて食べる」という食作法も、漆器によって進化したのです。
漆の木は人を恋しがる
漆の木は自然に生えるのではなく、1万年程前から人の手で育てられてきました。20年から 30年育てた木に傷をつけ、染みだした漆の液を採取します。1本からわずか200g程しかとれず、漆をとった後は伐り倒されます。樹液は木にとって傷薬のような役割を果たし、傷つけられることで光合成によって作りだされる命のしずくなのです。
「漆の木は人を恋しがる」と山の古老はいいます。漆の木は人によって肥沃な大地に植えてもらい、その代償として人のために樹液をだすのです。木に漆を塗ると、元の木に帰って行くように吸込まれていきます。さまよえる命を木に返すというのが漆の仕事なのです。こうした坪庭の土間は、白い漆喰で塗られています。ことを理解して作るかどうかで、おのずと仕事は変わってきます。厳しいけれどもロマンがある仕事です。
全国を歩いた能登の塗師屋
輪島ではなぜ漆芸が栄えたのでしょうか。輪島港は北前船の寄港地であり、日本海の海運の要所でした。しかしそれだけではなく、輪島には塗師文化といえるものがあったと思います。輪島の特徴のひとつは「自作自売」です。他の産地が江戸や京都の問屋に卸すのに比べ、輪島の塗師屋は自分で作った漆器を自分の脚で売り歩き、長いときは数カ月かけて旅に出ました。出掛けるときは死を覚悟した水盃を交したといわれています。北海道、東北を中心に九州へも行きました。
天保年間に択捉エトロフ島まで行った記録があります。自分自身は何カ月もかけて歩き、大切な商品は北前船で運びました。輪島の大発明は「椀講(わんこう)」という独自の販売システムでした。江戸期に流行朱の漆で塗られた神棚。した「頼母子講(たのもしこう)」という金融互助組織で行われていた積立金の仕組みを応用したのです。当時は結婚式や葬式などを自宅で行ったため、漆器のセット(椀、膳、皿、盃など)が最低でも 20人前必要でした。これを一人で揃えるのは大変です。そこで講員を10人程度集め、例えば一年に一回、一人あたり30匁を積みたてました。10人で 300匁になるので、年に一度塗師屋が漆器 20人前を届け講員の一人に渡します。次の年は別の講員に渡します。こうして10年かけて 200人前を売るわけです。すぐに剥げるような漆器では、長期間にわたり売り続ける事ができません。技術力を向上した結果、全国的な知名度を得たのです。天保年間、輪島には180軒の塗師屋があったそうです。旅から帰った塗師屋は、江戸、京都の時勢や、食べ物、着物の流行を人々に伝えました。それを聞いた職人達が、時代の変化にあわせた魅力的な漆器をつくるための研鑽を積んできました。こうして輪島は、高度な文化をもつ街になったのです。しかし度重なる大火と水害でその痕跡は失われていきます。
寂れた「塗師の家」との出逢い
20数年前、私は一軒の廃業した塗師屋を見に行き、入ったとたんに鳥肌がたちました。そこに明治まで続いた塗師文化の残光が見えたのです。いま私が目指すのは「歴史上もっともよい漆器を作ること」です。それが日本人のルーツを探る上で、後世に残るメッセージになると考えています。これを実現するためには、
「塗師の家を」を復元し、100年後の輪島に残さなければならないと決心しました。さまざまな職人の情熱がつぎ込まれた「塗師の家」は、平成 2年に完成しました。この家により、私自身が試されたと感じています。
上塗りの仕事場は、厚い扉で仕切られた土蔵の中にある。上塗りはホコリを嫌うため、職人ひとりしか入れませんでした。250年以上前の蔵ですが、補強工事を行っていたため2007年の能登半島地震を耐えました。
Vol.56
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
寒い夜、ハリリハリリと音がする。その鋭利な結晶は月から剥がれ落ちてきたのだ。
ドラゴンシリーズ 112
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ミラノ
あれからもう年も時間が経ってしまった、まだウィルスが世界中で変異を繰り返し、学校も会社も世の中がリモートで外出することも難しかった2020年、毎月のように誰もいない静まり返った横一列に航空会社の受付カウンターが並ぶ搭乗ロビーを大きなスーツケースを転がし、そのガラゴロと寂しい音が響く大きな出発ロビーを一人でパスポートコントロールを経て搭乗ゲートに向かっていた。
4
その感覚は何とも表現し難いのだけれど、真っ暗になった小学校の校舎に忘れ物を取りに行った時のような、喧騒の余韻が消え去った後に誰もいないはずの場所なのに誰かが存在するような、人々の動きが止まってしまった世界に波紋を起こさないように静かに密かに潜んで行く感じだったろうか。地上係員も搭乗客も誰もいない空港は戒厳令が出された土地のようで、静かな不気味さの中に向かってゆくような感覚でもあった。ウィルス感染が怖くなかったわけではないが、静まり返った世界の中で生命が一緒に止まってしまうような感覚のほうが恐ろしかった。静かすぎて立ち止まると呼吸できなくて死んでしまう魚のような。
それから自分の行動を肯定するように何度も閉鎖された国境を超えるために数日間の強制隔離を繰り返しながら、日本からイタリアやスイスへと出入国を毎月のように繰り返した。ウィルスが猛威を振るったイタリアへの入国条件が明確に定義されていない時期には、スイスのチューリッヒ空港から山越の氷河電車で国境警察にドキドキとしながら静かに国境を超えた。
辿り着いたミラノの街、ドゥオモ大聖堂の前の広場には人影もなく、普段は餌を求めて集まる鳩がたったの数羽だけ白い大理石の大聖堂の広場を寂しそうに餌を探して歩いていた。そんなミラノの街を朝から夜中まで歩き続けた。大きな通りから小さな通りまで一つの通りも見逃さないように、シャッターの降りた閉ざされた街を変に真剣な怖い目つきをした猫背の日本人が夜中の真っ暗な街を徘徊していた。
止まった世界の中で時間だけはたっぷりとあった。無意味に何度も同じ
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通りを行ったり来たりして、そんな行動を昼夜を問わず繰り返していた。そのようにして捉えた街には自分だけの中心が形成され、その中心から放射線状に方向性が施された。何度も迷った。そして何度も自問自答を繰り返す中で様々な不運と失敗と幸運との巡り合わせによってミラノの街で自分たちの場所に導かれたと感じた。
それは多分に偶然の賜物ではあるが絶対的な運命でもあるように、その偶然の必然が信じられるような出来事が重なり、神の存在のようなものを感じるくらい不思議な経験を繰り返した。2021年 8月にミラノに自分たちの空間を見つけることができた。大袈裟に聞こえるかもしれないが南青山もアムステルダムもミラノも同じように偶然と運命と必然によって引き寄せた空間だと信じている。
電気も照明も空調も何もないエンプティな空間の中にキャンドルを灯し、アムステルダムから急遽、製品を運び込み、コロナの中で開催されたミラノデザインウィークに初めて参加した。世紀に建てられた中世のアーチ型の連なる空間は、照明も電気も何の現代的な設備の無い静かな中世に作られた聖堂のように感じられた。朝は窓から差し込む柔らかな光の陰影が揺らぎ、夜はキャンドルがゆらゆらと揺れる灯りの陰影が静寂の空間に命の動きを宿らせた。
時が経過した石とレンガと石膏の空間は何もしなくても強くて深い優しい表情を持っていて、何もする必要はないと感じた。そのままの美しさを生かすことが最大の施しであると感じ、空間のそのほとんどは水回りや基本設備以外は何も触らなかった。触らないことは本当に大事なことで、触ることでそのものの良さを台無しにしている。昔、インドネシアの僻地を訪れた時に偶然に出会った小さな子供達の純粋な目の輝きを忘れることができない。
2021年月のデザインイベントが終わり、本格的に空間の窓枠を交換する工事や照明や電気、お手洗いの給排水など設備工事に入った。基本的な工事内容だけを記録した図面をもとに、壁面の仕上げや細かな仕様については施工の進捗に合わせ、現場でイタリアの施工監督ロレンッオと、マエストロの棟梁たちと話し合いながらその場で細かな仕様を決めていった。
昔からイタリア人の計画は予定通りに進まないと言われてきたが、まさにその通りだと感じた。実はその理由と結果は全く評判とは違ったものだった。日本の施工は図面を完成させて、ほとんどの内容はデザイナーや施工会社が引いた図面の内容通りに寸分の違いもなく完成させる。しかし、現代日本で施される施工空間はどこか軽く味気い空間が多い。
日本だけでなないがそれは施主が自己表現するために全ての空間に施しをするからだ。日本は元来、素材を活かすことで空間や道具の時の経過と耐久性を見越した施しが行われてきたのだが、近年はそのほとんどの躯体を被せるように皮膜を施して空間を新しく生成してきた。少なくともそのような場合にも素材を考慮した構成があれば良いのだけれども、新鮮さとスピード感と効率化が現代空間の軽さの因でもある。
イタリアでの施工で感心し納得できたのは、空間が持つ潜在的な力を見極めながら工事を進めることができたことだ。偶然かもしれないが、施工図通りに進まずに一つ一つの段階で工事がストップした。そのたびに空間のあり方を感じながら修正を加えたり、新しい発見があった。
そのようにしてミラノの空間が時間をかけて出来上がっていった。その空間は完成することなく、時の経過と共に、そこに存在する人間たちやそこに置かれる製品やそこを訪れる人々の姿といった積み重なる要素によって様々な表情に変わってゆく。空間に漂う空気はその様々なものを源として発生しているのだ。
輪島市の中心を流れる河原田川。輪島市は川を挟んで河井地区と鳳至町地区に分れます。輪島の朝市で有名な河井地区は明治の大火によって大半が消失しましたが、鳳至上町地区には築 100年以上の塗師屋や、漆職人の工房、漆材料店などが立ち並んでいます。
典型的な古い塗師の家。
輪島の街には「浜家造り」と呼ばれる民家が多く建ちます。屋根は切り妻で外壁は下見板張りに押し縁おしぶちをつけたもの。1階に竪繁格子たてしげごうしの入った窓があり、2階には窓がない平屋風。あるいは1階の開口を小さくして、2階の開口を大きくした家も見られます。冬は海からの風が強いため、海側の窓は少なくなっています。
いろは橋近くの鳳至町の町並み。
奥能登の白菊で知られる白藤酒造店。
若手の漆職人が集る「輪島工房長屋」。蒔絵師の大森修さんは、幕末の伝説的蒔絵師・柴田是真(しばた ぜしん)を目指しながら、独自の作品を模索しているそうです。
心・体・思考の健康をデザインする
とっておきの休み時間24時間目写真&文大吉朋子
グローバルイヤーナンバー「8」の 2024年、2月はスタートの月です。立春、春節といったエネルギーの切り替わり時期でもある 2月、ヨガ数秘学もこの時期から本格的に今年のエネルギーへと切り替わっていきます。そして、2024年はこの 2月がまさにスタートの時。
「スタート」というと勢いよく飛び出すイメージもあるかもしれませんが、ここからの 7.8カ
月で成していくこと、数年に渡り形にして実現していくものまで、事柄のサイズや必要な時間も
さまざま。まずはそれらの初めの一歩、「種をまく」ということがポイントです。
種をまき、芽を出し、伸びはじめて成長し、それなりに立派な姿となっていく。この一連の流れの初めがこの 2月。まずは小さなことでも始めてみる。日々の習慣をリセットしたり、まったく初めてのことをやってみるもよし、初めての場所に行ってみたり、腰が重かったことにチャレンジしてみるのも GOOD。良い種まきをしていくことで、少しずつ種が育っていきます。
今年は例年よりも1日長い2月、ちょっぴりうれしくなります。あらためて新しいスタートの時という新鮮な気持ちで、わくわくしながら過ごしてまいりましょう。
2月はスタートの時。小さくても OK、種まきを。
パーソナルイヤーナンバーの計算方法
今月は、個々人の今年のエネルギーについて。
頭の片隅にでも置いておくと、
時に道しるべにもなるポイントです。
2024年、世の中全体に流れるエネルギーである
″グローバルイヤーナンバー″は2+0+2+4=「8」。
一方で、私たち一人一人の今年のエネルギーは「パーソナルイヤーナンバー」といい、それぞれの誕生
日によって異なります。「パーソナルイヤーナンバー」とは、今年の数字に自分
の誕生日を足して、9以下の数字にするもの。
例えば2月14日生まれの場合には、
2+0+2+4(今年)+2 (誕生月)+14(誕生日)
=15→ 1+5=6となります。
9年をひとつのサイクルとして、エネルギーの流れを見るヨガ数秘学からのメッセージです。
パーソナルイヤーナンバー1
1
スタートの年。この1年でなにか新しい事を始めてみましょう。これから始まる8.9年を見据えて種をまく年です。昨年までのことは引きずらず、新しい思考や感覚で取り組むことが GOOD。スタートダッシュというよりも、徐々にエネルギーが上がっていくイメージで。多少の不安定さは気にしなくてOK。失敗しても焦らずに、少し先を見て、マイペースに新しい世界を楽しんでいきましょう。
パーソナルイヤーナンバー 2
2つながりの年。人、もの、場所など形あるものとつながりを感じていく1年。去年はじめたこととのつながりを深めていくことを意識してみると GOOD。多少、ネガティブな思いも起こるかもしれませんが、それも必要なこととしてあまり不安がらずに。そんな時には大いなる流れに身を委ね、目には見えないスピリチュアルなエネルギーとのつながりを感じてみることが助けになります。
パーソナルイヤーナンバー 3
3楽しむ年。細かいことにはこだわらず、ポジティブに色々と楽しんでみることが今年のテーマです。「遊ぶ感覚」がとっても大事。あちらこちらと様々なグループに参加してみるのもいいですし、一人であっても賑やかな楽しいな空気を感じられる場所などおすすめです。理屈で考えるよりも楽しむことを優先して、遊ぶようにたくさんの体験をしていくことが次につながる1年となります。
パーソナルイヤーナンバー 4
4計画の年。去年たくさん遊んで体験したことを、いったん整理して、今後4.5年くらいの流れを計画していく一年です。去年の楽しい雰囲気とは一変、落ち着いたやや地味にも感じる時間となるかもしれませんし、結果や動きが鈍く感じることもあるかもしれません。今年はそれで OK。焦らず計画を立てていくことで、翌年の動きが流れに乗っていきます。困ったときにはジャッジせずに俯瞰して、落ち着いて眺めてみます。
パーソナルイヤーナンバー 5
5行動の年。昨年とは打って変わって今年は動きましょう。昨年計画したことを一気に行動していく1年。ただし、計画通りにすることにこだわる必要はなく、考えすぎずに「行動してみる」ことがポイントです。内にこもるよりも外に出る。やってみて上手くいかなくてもそれはそれで OK。何事も経験ですから。多様な経験していくことで、感じ取り、学び、次の行動へと進化します。アクティブに動くことで色々活性化します。
パーソナルイヤーナンバー 6
6心の年。家、家族、心の落ち着きを大事にしたい1年です。また心を決める年でもあります。昨年たくさん動いて心身ともに少し疲れが出る頃でもあるため、自分自身をケアして癒すことも大切。たくさんの経験から多くの思いも湧き上がってきたはず。自分の心に沸き上がった思いや感情を丁寧に感じることを優先して。世の中がパワフルに動く一方、自分の心は優しい安らぎのエネルギーで満たすことがポイントです。
パーソナルイヤーナンバー 7
7
心の声を伝える年。「6」の年で満たされた心の時間から湧き出てきた思いや感情を、今年は外の世界へと発信していきます。「心の声」ということが大切で、自分の内側にあるメッセージをはっきりと伝えます。もしもそれらが明確になっていないとしたら、内省が必要かもしれません。一人の時間を作ることをおすすめします。コミュニケーションを活性化する年でもあるため、だからこそ、外の世界と自分の世界との境界線、距離感も大切に。
パーソナルイヤーナンバー 8
実り、収穫の年。ここまでの8年間にやってきたことが形となり実る、集大成の一年。パワー全開、とてもエネルギーに溢れた時間ですから、多少疲れを感じても最後まで走りきるつもりで。途中エネルギーが空回りするようだったら適宜休息を。小休憩したらエネルギーが充電されて、また走れます。仕事で結果を出すこともできる年、どんどん動いて形にしていきましょう。忙しい!と感じたら、それは今年のエネルギーに乗っているということ。
8
パーソナルイヤーナンバー 9
手放しの年。9年周期最後の年。ひとつのサイクルが終わります。「8」で収穫した後の不要となったものを手放します。必要なものと不要なもの、それらを見極めて潔く手放す。翌年から新しいサイクルが始まりますから、そのためのスペースを空けていきます。モノや思い、人間関係、習慣など、長年蓄えてきたものを一旦サヨナラすることで身軽になり、本当に大切なものだけが残り、来年からの新しいエネルギーを迎えいれることができます。
9
平日の朝九時。多くの観光客で賑わう輪島の朝市。日本海で捕れたカニ、エビ、鮮魚、貝などの海産物だけでなく、野菜や生花、民芸品の露店も魅力的です。
輪島の朝市は1200年以上前から続くといわれます。出店場所は決まっていて、母から娘へと受け継がれてきました。
商売繁盛の神「市姫神社」。
朝市駐車場前の喫茶店「しおん」。
白米の千枚田。
高さ
35
イタリアの首都ローマ。観光名所であるコロセウム(円形闘技
場)から南に2
km
ほどの場所に、モンテ・テスッチオと呼ばれる、
mほどの小さな丘がある。テベレ川の沿岸から東に100
mほどに位置していて、丘の周囲の大部分には、落書きが目立つ少し荒れた感じの建物が立ち並んでいる。こうした低層の建物で囲まれた小さな丘の総面積は約2万2千㎡(7千坪弱)。今は丘の大半は緑で覆われていて一部には林のような木立も見られる。だが、この丘は自然の丘ではない。不要となったある品物の瓦礫が長年捨てられ続けたことで出来上がったもので、産炭地のぼた山と同じようなものだ。
では、その不要となった品物とは何か。陶製のアンフォラ (Amphora)すなわち、古代ローマ時代の陶器の壺だ。主に遠方からワインや油などの液体や穀物を運ぶために使われたもので、古代ローマ帝国の領域の至る所でアンフォラは出土する。また、これを満載した輸送船が海の底から見つかることも珍しくない。モンテ・ステッチオは、運搬の役目を終えて捨てられたアンフォラの瓦礫の山なのだ。研究者の推定によれば、ここに捨てられたアンフォラの総数は、驚くなかれ、約5千3百万個!その大半はイベリア半島(スペイン)からオリーブオイルを運ぶために使われたものであることが判明している。600年ほどの間に、膨大な数のアンフォラの瓦礫が堆積された結果、この小山が築き上げられたのだ。
アンフォラは、運び出す時に、主に取っ手と壺の最上部に、産地・内容物・運搬先・所有者等々を表示する文字が書き込まれるのが通例であるため、これを調べることで、古代ローマ時代の食材の交易ネットワークを知る重要な手がかりとなる。オリーブオイルの他には、ワインそして穀物の運搬のためにも広く使われていた。モンテ・ステッチオのアンフォラは、その大部分が、一つのアン
フォラで
リットルのオイルを満たすことができる巨大なものが
中心となっている。一般的なワインのアンフォラは
り程度で、これを奴隷がひとりで運ぶ図柄の、当時のモザイクや
絵が残されている。だが、リットル入りともなると、ロバで引
70
70
25
リットル入く車でもなければ、人力での運搬は出来なかったと思われる。帝国の最盛期には、この丘のそばに、半ば公的なオリーブオイルの集積所が置かれていた。都市ロー
30
マの外港であるオスティアとテベレ川で直接結ばれていて、ステッチオそばの倉庫にイベリア半島南部の港から届けられたオリーブオイルがここで荷下ろしされていた。 13
古代ローマはその見事な建築技術で知られているが、その土木技術はこのアンフォラの瓦礫の山にも使われている。瓦礫の山が崩れることがないように、底面から徐々にピラミッド的な壇状に瓦礫を積み上げているのだ。一段ごとに周囲を固めて補強した後、その上に新たな壇を築く形で、砕いたアンフォラを積み重ね
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ていくことで安全を保っている。また、オリーブオイルの残滓が腐敗して悪臭を放つことのないように、多量の石灰が撒かれていたことも判っている。その意味では、この丘は炭鉱のぼた山とは違って、一種の「建造物」だといってよさそうだ。
イベリア半島から帝国の首都ローマへのオリーブオイル輸出は西暦150〜200年頃がピークで、この頃は毎年約万個ものアンフォラがこの場所に捨てられたという。まさに絶頂期のローマ帝国の活発な消費生活の水準を象徴している。当時オリーブオイルは、現在とは違って、必ずしも料理&食用とは限らない広範な用途に使用されていた。オイルランプ、皮のなめし、石鹸製造、医薬製造や化粧品など、実に様々な用途に使用される重要産品だったのだ。
ところで、現代でもスペインは、世界有数のオリーブオイル生産大国だ。全世界のオリーブオイル生産の約%強、欧州全域の生産量の%強が、イベリア半島で生産されている。では、一体いつ頃からスペインではオリーブが輸出を目的として栽培され始めたのだろうか。その歴史は古く、紀元前1100〜1200年頃、フェニキア人が現在のカディス(港町)等の植民都市を築いて、組織的なオリーブ栽培とオイルの生産が開始されている。フェニキア人は現在のレバノン一帯にティール、シドン、ビブロスなどの古代都市国家を築いた先進的で冒険精神溢れる海洋民族だ。地中海沿岸に次々と植民都市を築いて、現代のスペイン(アンダルシア)にまで到達している。イベリア半島のフェニキア植民都市で最も有名なのが今に続くカディス。フェニキア人は、その後背地にオリーブ畑を開発し、母国から持ち込んだ先進的な搾油技術でオリーブオイル生産を開始する。開発のはじめから母国や周辺国への輸出を目的とするオリーブ栽培であったわけで、これを起点と考えるなら、イベリア半島南部の組織的なオリーブ栽培は、3千年を越す伝統があることになる。
このフェニキア人の勢力が衰えた後、ローマ帝国がイベリア半島と地中海対岸の北アフリカ沿岸一帯を押さえることになり、それがそのまま、ローマのモンテ・
れ以降、
15
ステッチオのアンフォラの山へとつながっていく。しかし、さすがの繁栄を誇った古代ローマ帝国も、西暦400年代後半には徐々に力を失い、ローマに代わって新たにイベリア半島をおさえることになるのが、ゲルマン民族の一部族であるゴート人だ。このゴート人によるイベリア半島支配(西ゴート王国)は、5世紀半ば頃から西暦711年の王国滅亡まで約300年間続く。この支配者の交代が、イベリア半島の食文化に大きな影響を与えることになる。というのも、ゴート人はゲルマンであるため、食用の油脂はオリーブオイルではなく、豚の脂すなわちラードとバターが中心だった。また日常の飲料はワインではなくビール(エール)だ。地域の支配者の交代が、そのまま、地域の食文化の変化に直結していく。
古代ローマ帝国の食文化は、基本的には環地中海食文化だから、オリーブオイル・ワイン食文化圏だ。これに対してゴート人はゲルマンなので、豚の脂&バター・ビール(エール)食文化圏だ。古代ローマ帝国崩壊後の欧州では、各地でゲルマン民族が主体となっていく。これによって、環地中海沿岸地域を除けば、大半の地域はゲルマン系食文化が主体となっていく。
ところがイベリア半島では、他の欧州地域とは決定的に異なる重要な統治者の交代が、ゴート滅亡後に起きる。西暦711年にトレドを中心地とした西ゴート王国を滅ぼしたのが、北アフリカから海峡を渡って北上してきたイスラーム勢力だったのだ。こ
世紀半ばまでの約800年弱という長きに渡って、イベリア半島の大
部分はイスラーム諸王朝の支配下に置かれることになる。イベリア半島から最後のイスラーム王朝が消え去るのは1492年。コロンブスがスペインから船出してカリブ海に到達し、大航海時代の幕が切って落とされる、その年だ。
約800年間もの間スペインの大半の地域はイスラーム食文化圏だった。スペインの食を語る時、この重大な事実を決して見過ごすことはできない。実際、現代のスペイン料理の中に、その痕跡は至るところに残されている。その他にも見過ごせない幾つかの歴史的要素があって、だから、スペインの食文化は面白い!
これについては、また、回を改めてお話してみたい。
講師:大原千晴さん
毛綱毅曠もづなきこう氏が手掛けた能登島ガラス美術館は1991年、能登島という独特の場所に誕生した美術館です。まるで UFO基地のようなデザインで話題となりました。海に面して湾曲した建物は、海からやってくる何かを一身に受止めているようです。
建物の配置は北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎という「四神相応」がテーマです。実際は配置が反転していて「ガラスの美術館だからさかさまにした」と毛綱さんは語っていました。
能登島は能登半島の付け根にあたる七尾湾に浮かびます。2本の橋で半島とつながっていますが、天候の荒れた日は孤立することもあります。1980年代、反住器、釧路市立博物館など出身地釧路の建築を多く手掛けてきた毛綱さんですが、この建物以降、全国へと活躍の場をひろげていきます。展示室中央のガラス製エレベーターのまわりには、2重螺旋状のスロープが伸びていて、毛綱さん独自の、母の胎内に帰って行くような巡礼の旅をほうふつとさせます。
毛綱毅曠さんはこの建築が完成した10年後、2001年に 59歳で亡くなりました。能登にはもうひとつ毛綱さんが設計した「能登・門前ファミリーインビューサンセット」(1991年完成の温泉宿泊施設)がありますが、2024年元旦の能登半島地震により閉鎖が決まりました。能登島ガラス美術館は臨時休館中です。
その44
青山かすみ
昨年末から鼻風邪が抜けないまま辰年の元旦を迎えていた午後4時過ぎのこと。なんとはなしに付けてたTVから地震警報が鳴り響き出した。えっなに?、どこで地震?輪島?元旦早々にまた能登半島沖で?大きいやつ?そんな心のつぶやきとともにいつまでも続く警報音の長さとその音量が、ことの重大さをものがたっているようだった。最大震度がとてつもなさそうである。とっさに12年前の東北沖地震の記憶が蘇ったみたいに各局のアナウンサーが必死になって「津波がやってきます。早く逃げてください」と叫んだり呼びかけたり・・・・
東日本大震災から一巡りしたんだなぁと、去年感慨深く思った矢先の能登半島沖だなんて。嘘でしょ?いやホントの話だ!そう、天災は忘れた頃にやってくるというけれど、昨年は特に能登の珠洲市や輪島で頻繁に起きていたことは間違いのないリアルだったと思う。なぜ日本は先手を打てないのか。今となってはそこの部分が悔やまれます。能登や輪島周辺の地震というものに、私たちはなにか慣れっこになっていたのかも知れません。
ここ数年の特徴として日本海側での雨量や積雪の多さには目を見張るものがあったし、いまだかつてない異常気象を感じたり、新潟県に見る液状化も見逃すことはできなかったはず。気象庁、環境省、国土交通省、防衛省など主だった各省庁がダッグを組み、このような危機的状況下に即時対応できる天災対策、地震対策、防災対策、人命救助に向けたもっと真剣な姿勢を見せてもらいたい、と痛感したしだいです。
今回は正月休み、またその夕刻時ということも重なり、スピーディなヘリコプター等上空からの出動や艦船による救助も叶わぬまま、初期対応の遅れが私達をイラつかせることに。後悔先に立たずを繰り返してはなりません。この元旦の経験を決して無駄にしないでいただきたく、切に願うばかりです。正月だろうとクリスマスだろうと人命救助や医療体制には、お休みタイムは許されません。官房長官が交代したばかりなどという言い訳はできないのと同じ。各官庁の指揮官的立場にいらっしゃる人たちの会見を見せられたところで、この国は大丈夫なの?の言葉しかございませんでしたわ。危機感のかけらも伝わってきませんでした。残念無念、これを機に私
共の今年のテーマは、念には念をと相成りました。
spazio
奥能登上時国家
屋根の最頂部は高さ18m。4階建てのビルに相当する藁葺き民家の最高峰「上時国家」には、奥能登を代表する施設として、多くの人が訪れていました。コロナ禍の影響で一般公開を停止し、2024年元旦の地震により倒壊しました。
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉で知られる平大納言時忠はときただ、壇ノ浦の合戦で
生きたまま捕らえられ、奥能登の大谷に流されました。時忠の子である時ときくに国は近隣の村々
を統治する豪族となり、時国という名を姓として用いました。以来時国家は 300石を統
治する大庄屋に発展し、廻船業も手掛けました。この屋敷は京都で修行した宮大工 安幸が、江戸後期に20年以上かけて建てたと言われます。鎌倉風の庭園は、それよりも古い時代に作庭されたようです。
囲炉裏のある茶の間には、神仏を祀った大きな棚がかかげられています。
金縁をあしらった格天井など、時国家には民家とは思えない仕様が各所に見られます。
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今年の干支は「申辰(きのえ・
たつ)」、成長、変革の年といわれている。
「年賀状は今年限りに」というのも来るようになって、断捨離だの終活もそろそろと思うが、本屋に行けば、人生100年時代を象徴する、佐藤愛子、曽野綾子、養老孟司、樋口恵子、若宮正子等、ご高齢作家が笑顔満載を表紙に、同じようなタイトルで何冊も出版し山積みされている。それらを読めば、自ずと終活は後回しとなる。
「今日という日は、あなたの残り人生の最初の日」「三日坊主大い
に結構、一日坊主でもよし」と聞けば、勇気凛々、なんでもやってみようという気にもなる。そうは言っても悔しいかな、親しい友の訃報も届き、気持ちのバランスを保つのは容易ではない。
その1皇居ウォーキング
元旦早々の能登半島地震、
きた場所が無惨な姿になっているのはどうにもやりきれない。ニュースを見続けるのも辛く、思い切って皇居一周のウォーキングに出た。一般参賀は能登半島地震で中止となったが、広場には多くの外国人が二重橋を背に記念写真を撮っていた。三の丸尚蔵館見学のために列を作るグループもあり、お正月を日本で過ごす外国人が多いことに驚いた。普段閉められている門も開放されていて、皇居内をゆっくりと歩くことができる。いつもは桜田門を入ってお堀一周のウォーキングだが、東御苑、
天守台に上る。芝生の広場で足を伸ばしてリラックスしているのは外国人ばかり、中にはトランプをしているグループもあり、天守台をバックにした皇居のお正月、なんとも不思議な光景だった。帰りは北桔橋門を抜けて代官通りへ。皇居の中は思った以上に広く、道に迷って予定外歩きとなるが、無事、2024年事始めのウォーキングは、13000歩を刻むことができた。
その2鉄道博物館見学
4年ぶりのバスツアーがお正月明けに再開されると聞き、高齢者ご一行で参加した。申し込み条件は、事前に健康チェッ
ク。緊急連絡先の確認。お薬手帳の持参。当日は参加者
に看護婦が付き添い、職員が4名、
総勢
出発は9時、
分前に集合だが元気な高齢者は朝が早い。定
刻より早くに出発をして一路大宮へ。聞けば、コロナ禍でベテラン運転手やガイドさんがずいぶん辞めたそうで、バス会社の確保に一苦労したとのことだが、ガイドさん付きで首都
33
15
月に行って
二の丸庭園を見て、
名
名のツアーとなった。
10
28
高池袋から大宮までの街道筋と、博物館の概要を案内してくれた。鉄道模型が好きだった父が、まだ秋葉原にあった頃の博物館に行った話を思い出した。今回のツアー、最初はさして興味はなかったが、どこかで父と一緒に鉄道博物館を見たかったのかもしれない。1階には車両が展示されているが、階から4階まではそれぞれカテゴリー別になっていて中は広い。見学は自由。4階の歴史コーナーからスタート。明治維新後、外国に派遣された人たちの鉄道を走らせるための並々ならぬ覚悟、勤勉さ、賢さや技術力は相当レベルが高かったことが伺える。鉄道のための「時刻」もこの時代に示されたと知る。年代ごとの機関車模型も展示され、鉄道の発展も時代ごとにパネルで示され、それらをみるだ
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けでも楽しい。昔の改札や駅舎、切符売り場が再現されている。戦時下の
2
駅弁の包み紙に戦争高揚スローガンが入っているのを初めて見た。鉄道ジオラマは山並みや川を背景に鉄橋、ビル群が設置され、その中を、山手線や在来線、新幹線が、新橋駅の発車メロディとともに走り出す。景色は夜明けから終電車まで、1日の時の移ろいとともに変化する、楽しい鉄道旅をしたくなる。父の鉄道模型はほんの小さなものだったが、電車を走らせながら、旅気分を味わっていたのがよくわかる。
その3囲碁体験
いつかはやってみたかった「囲碁」。若い頃読んだ沢村貞子の本に囲碁の話が出てくる。歳を取ったら、碁を趣味にしたいと・・・・・歳はとったが、囲碁をする機会はなかなかおとずれない。代半ば、ひょんなことで囲碁をやってみたいと口に出したら、囲碁の好きな女性は結構いることがわかった。お話をした方は私よりだいぶ上の方だが、若い頃から囲碁をされていたとのことで、お仲間も多くいらしたそうだが、だんだんとご高齢が進んでしまって、もうされないとのこと。「是非おやりなさい」「一緒にやりましょう」と言ってくださった。それからすでに5年近くなるが、囲碁教室も何となく行きづらくそのままになっていたが、囲碁体験の機会があると聞き、申し込んだ。碁盤に碁石を並べる決まりごとから、碁石の持ち方、マンツーマンで先生の打った後を追うのだが、迷いに迷ってなかなか打つ場所が決められない。当てづっぽで打つと、それは「死に石」になると。何のことだか・・・・・まだまだ用語までいかないが、持ち方一つ覚えただけでも、囲碁に触れたことは間違いない。その日のうちに「初めての囲碁」を入手した。碁石を触るのもまだ2回だが、碁石を美しく持てるようになりたいと思う。
新しい年の幕開けが悲惨な能登地震で始まり、何をするのも気鬱になるが、
「成長、変革の年」となれば、自らを奮い立たせて、前を向いて行くしかない。
元気でいれば能登へもまた行ける。和倉温泉に入って美味しいものも食べ
に行ける。1日も早くその日が来ることを願う。