Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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黄金に輝く Latvia伝承の都 時空を超える美意識 https://collaj.jp/ 聖夜 2023 下してイタリアに向かう道は古代ローマ人から「琥珀の道」と呼ばれました。 バルト三国と呼ばれるエストニア、ラトビア、リトアニアのうち真ん中に位置するラトビアは、ドイツ、ロシア、スウェーデンなど様々な国の支配を受けてきました。自由通りに立つ高さ51mの記念碑は、国民の寄付によって1935年に除幕され、台座中央に立つ女神の下には「祖国と自由のために」と刻まれています。ラトビア人のアイデンティティを表した聖地です。 リヴォニア騎士団の砦だったリーガ城は、ラトビア大統領官邸となっています。大統領が官邸にいる際は国旗があがります。 ラトビアの首都リーガは人口約60万人。総人口約187万人の3分の1ほどが集中する大都市で、ソ連支配下の時代はモスクワ、サンクトペテルブルクにつぐソ連邦第3の都市でした。今から800年ほどまえ、街の基礎を築いたのはドイツからやってきた人々で、キリスト教会、騎士団、商人たちによりハンザ同盟の国際都市として発展しました。今もラトビアは、ラトビア系約62%、ロシア系約24%、ほかウクライナ、ベラルーシ、ポーランドなど多くの国の人々が共に暮らしています。 ワーグナー通り4番地には、ワーグナーが暮らしたアパートが残されています。夜逃げしたワーグナーはバルト海の船上で暴風雨にあい遭難しました。 古い城壁の残る「ヤーニスの中庭」。リーガの街は2重、3重の城壁で囲まれていました。旧市街を流れていたリーヅェネ川は「リーガちゃん」という語感の言葉で、リーガの語源になったといわれます。川が埋め立てられた通りは「ワーグナー通り」と呼ばれ、かつてリヒャルト・ワーグナーが暮らしていました。1837〜39年にかけてオペラ座の芸術監督を務めましたが、借金がもとで夜逃げします。その時の船の難破体験から、幽霊船をテーマにしたオペラ「さまよえるオランダ人」が生まれました。 リーヴ人広場のレストラン「 Zil. Govs」は、バルト海沿岸部で飼育されるラトビア固有の青い牛をモチーフにしています。 リーヅェネ川の埋立地は「リーヴ人広場」になっています。ここには元々リーヴ人の村があり、ゴットランド島を拠点とするザクセン商人と交易を始めていました。12世紀になると、キリスト教布教を名目にしたドイツ教会と十字軍によるバルト諸国への侵攻がはじまります。ドイツのブレーメン司教アルベルトは、ダウガワ川河口に500人の十字軍ともに上陸し一帯を「リヴォニア」と名付けました。1201年にはダウガワ川とリーヅェネ川が合流するこの場所を居留地に決め、リーヴ人の長老を拘束して土地を手に入れます。リヴォニア帯剣騎士団が設立されると、騎士団関係者や商人が移住し城塞都市を築いていきました。 ▲黒いドンキーが目印。広場から少し下がった所にあります。▼ ナメイ指輪と7つの三角形をつけた花嫁のリング。 聖ペテロ教会向かいの「BaltuRotas(バルトゥ・ルアタス)」は、伝統的な装飾品を研究するイニタ&ヴィタウツ・ストラウペさんによるアクセサリーブランドです。代表作は3本の銀線を捻ってつくる「ナメイ指輪」。ゼムガレ族の王が3つの国を統一した記念に作られ、皇太子即位の際に贈られました。花嫁のリングには、神々を表す7つの三角形がついています。 アクセサリーの多くは、ラトビア各地で発掘された出土品をモチーフに、現代的な解釈を加えたものです。文様には太陽神や豊穣神、神話などの意味が込められ、自分の守護神にちなんだ文様を身につける習慣があります。 ショップの一画には、出土品と復刻品を展示したミュージアムが設けられています。腕輪には護身の効き目があるといわれ、生涯外さず身につけていたそうです。 ラトビア各地の集落や墓地の遺跡から発掘された500年、1000年前の装飾品のほか、バルト海を支配したバイキングの交易品や銀製アクセサリー、琥珀などの財宝がヨーロッパ各地で見つかっています。バルトの人々のアイデンティティを伝える貴重な遺物です。 飛び立つ時もとどまる時も空とおくかがやく星に願いをかける時も Vol.54 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ ハンザ同盟の商船「コッグ船」が行き交ったダウガワ川。東側がロシア、西側がバルト海に流れています。 市庁舎広場に建つ「黒頭館」は、リーガ市政800周年を記念して2001年に再建されました。ダウガワ川に沿った広場には市場がたち、祭りや処刑場としても機能していました。1334年、ドイツルネッサンス風の建物が建てられ独身商人の団体ブラックヘッドが利用するようになります。ナチスドイツの攻撃で1941年に破壊されますが、国民の寄付により再建されました。寄付をするとレンガを好きな所に積む権利が与えられたそうです。隣のラトビア占領博物館は、4年のナチス支配を挟み50年に及ぶソ連支配の実態を展示した博物館です。リーヴ人広場に近い小ギルド会館と大ギルト会館は、ハンザ同盟都市として発展したリーガの栄華をいまに伝えます。武力弾圧によって力をもったリヴォニア騎士団でしたが、13世紀末になるとリーガ司教や商人との主導権争いが激しくなります。1254年リーガは大司教座都市に昇格し、1282年には自由商人の連合体ハンザ同盟に加盟します。リーガはバルト海有数の貿易都市に発展し、西ヨーロッパとロシアを結ぶ拠点として穀物、毛皮、蜂蜜などの交易で繁栄する一方、司教や騎士団は徐々に活力を失います。 今月の茶道具 11 舟橋蒔絵硯箱 2024年1月から東京国立博物館(上野)で「本阿弥光悦の大宇宙」展がはじまり、2月には MOA美術館(熱海)で国宝「紅白梅図屏風」(尾形光琳作)が展示されるなど、新年は「琳派」の年になりそうです。琳派の特徴は1600年代から400年以上継承されながら、直接の師弟関係や流派の団体がないことで、「琳派」という名称も1970年代につけられたものです。代表作「風神雷神図」は、俵屋宗達の作品を尾形光琳が模写し、それをまた酒井抱一が模写するといった作品をつうじた継承によってつながっていきました。琳派のルーツといわれる本阿弥光悦は、1558年、刀剣の鑑定・研磨を行う家に生まれ、若い頃から能書家(書の達人)として知られました。陶芸、漆芸、 国宝「舟橋蒔絵硯箱」 本阿弥光悦作縦24.2×横22.9×高11.8江戸時代17世紀 東京国立博物館蔵 茶の湯にも通じた数寄者であり、利休七哲のひとり古田織部に茶の湯の指導を受けるなど、刀剣という仕事柄、武家との関係も深かったと思われます。また刀の柄やサヤは一級の工芸品であり、茶碗、陶芸、彫金、西陣織、蒔絵など一流の職工とのネットワークをもつ美の総合プロデューサーでした。そのマルチぶりを発揮したのが、国宝「舟橋蒔絵硯箱」です。蓋を高く盛り上げたデザインは光悦独特のもので、全体を金粉を蒔いた金蒔絵で覆って舟と水面を描き、中心に鉛の板を渡して橋に見立てています。そこに銀文字で『後撰和歌集』に収録された源等による恋の歌「東路の佐野の (舟橋 )かけてのみ 思ひ渡るを知る人ぞなき」をタイポグラフィ的に散らしています。舟橋というのは、川に舟を浮かべ、その上に板を渡した簡易的な橋で、橋をかけるのが厳しく制限されていた時代は、村人が日常的に使っていました。舟橋蒔絵硯箱の文字をよく見ると、和歌のなかの 「舟橋」が欠けているのが分かります。舟橋は鉛板で表現されているので文字をわざと無くしたのです。この和歌を知る人が見れば、なるほど〜と感心するでしょう。それに気づくかどうかを試されているともいえます。和歌の元となった逸話は、群馬県高崎が舞台といわれます。ふたつの村を隔てる川に舟橋がかかっていました。それぞれの村の男女が恋におち舟橋を渡って逢瀬を重ねていましたが、ある晩、真ん中の舟が外されていたため 2人は川に落ち、抱き合ったまま絶命しました。高崎にはその故事を伝える歌碑が立っています。さて、この硯箱は本阿弥光悦作といわれますが、実際に作ったのは光悦ではありません。光悦のアイデアや書の下書きをもとに、各職工がディテールを設計し、試作を重ねながら作られるものです。この行程は現代のデザインのプロセスに似ています。茶道具ではよく「〇〇宗匠のお好み」という作品が 特別展「本阿弥光悦の大宇宙」2024年1月16日〜 2024年3月10日東京国立博物館平成館特別展示室舟橋蒔絵硯箱が展示されます。 ありますが「好み」は「デザイン」に置き換えることができます。茶人や大名が絵や言葉で好みを伝え、職工はその望みをカタチにします。大半の「好み」はいにしえの道具を少し変化させたり、先代の模様を変えたりする程度ですが、本阿弥光悦など力量のある数寄者は、それまでにないデザインを編み出し世間をあっといわせるのです。本阿弥光悦は徳川家康から、金閣寺の北、鷹峯の地に広大な土地を与えられ「光悦村」と呼ばれる一種の芸術村を作ります。俵屋宗達はじめ光悦に近い画家、陶工、織元たちが京の街から光悦村に移住し、数々の名品がここで生まれました。なぜ家康が光悦に土地を与え芸術村を作らせたのかは、歴史の謎です。家康は大坂夏の陣の後、謀反の疑いで古田織部に切腹を命じています。その愛弟子である本阿弥光v悦を支援したのは、一説には孫娘・和子が天皇に嫁ぐための花嫁道具を準備するためともいわれます。NHK大河ドラマ「宮本武蔵」で光悦を演じた津川雅彦さんは「徳川家康公は美は分からないが、美を利用することには長けたお方だ」といったセリフを残しています。 市庁舎広場・黒頭館に近い「 SEN. KL.TS(セナ・クレーツ)」(いにしえの倉)は、民族衣装研究家マルタ・グラスマネさんがラトビア各地で蒐集・復元した民族衣装やミトンを展示したショップです。バルト・ドイツ人の支配を受けながらも、ラトビア人は文様や服飾のスタイルをとおして1000年以上にわたり民族のアイデンティティーを伝えてきました。 店内ではラトビア各地の民族衣装をみられます。中央の藍染は1000年ほど前の王国時代の正装で、海・湖の青と土・砂の茶色を組み合わせ、金属の装飾品で太陽のきらめきを表現しています。 マルタ・グラスマネさんの研究成果をまとめた『ラトビアのミトン』は、世界各国の言語に翻訳されています。 ミトンは防寒や農作業に欠かせないだけでなく、祭りや結婚式、葬儀の場でも身につけられました。デザインや色により出身地がわかり、名刺がわりになったそうです。個々の文様は太陽神、豊穣神、月、青蛇、井戸、厩、明星、花、十字、天地樹などの意味をもち、文様と色の組み合わせが各家庭に伝承されてきました。花嫁が他の地域に嫁いだ場合は、出身地の文様を継承しながら色を変えるなど、人々の交流とともにデザインのバリエーションも増えていきました。 ▲草原の広がるラトビアはハーブが多いことでも有名。▼ 24種のハーブを配合した秘伝酒「黒バルサム」。 聖ペテロ教会近くの雑貨店「Pienene(ピエネネ)」は、たんぽぽの意味。琥珀入りの石鹸・クリームや、キンセンカ、二ガヨモギ、カシスなど豊富なハーブティーの他、ラトビアのワイン、薬草酒などもあり手軽なお土産さがしにおすすめです。 1)中国に中南米原産のサツマイモが初めて伝わった経路 これについては、ベトナム経由説やビルマ経由説など諸説ありですが、次の説が定説となりつつあります。「福建出身の商人、Cheng Zhenlongが1593年に、一種の密貿易でよく訪れていたルソン島(フィリピン)からサツマイモを福建に持ち込んだのが始まりで、以後、福建を起点に中国の内陸部へと広まっていった」。なるほど。でも、1593年という時点で、なぜルソン島に「中南米原産のサツマイモ」が存在していたのか。メキシコの太平洋沿岸からフィリピンまでは概算で、約1万3千キロメートルの距離があります。どこから誰がどうやって、これを中南米からルソン島に持ち込んだのか。 2)メキシコシティの中国人床屋 1635年メキシコシティのスペイン人床屋組合が、市当局に対して、興味深い要望書を提出しています。「床屋として働く 中国人が増えて困っているので、床屋を営む中国人の数を以内に厳しく限定した上で、我々との紛争勃発を防ぐ意味で、その開業場所は市域の外側でのみ認める、という規則にしてもらいたい」という身勝手な要望です。 当時メキシコシティには約2万人もの中国人が居住していたと言われます。これだけの人数ともなれば、格安の料金で手早く仕事をする中国人 の床屋や中華料理の店が凄い勢いで増え続けていたであろうことは容易に想像できます。でも、1635年といえば江戸幕府の誕生(1603年)間もない頃。パナマ運河など影も形もなく、太平洋航路なんて夢物語の世界であったはず。では一体、この2万人にも及ぶ中国人の先祖たちは、どこからどうやって、中国からメキシコに渡っていったのでしょうか。 3)ふたりのスペイン人がはじめて  マニラ近辺で中国商人が乗る船に出会ったときの出来事 バスク出身のスペイン人で、いとこ同士のレガスピとウルダネータのふたり。共にスペイン統治下で栄えていたメキシコシティーに渡って暮らしていましたが、人生一発大逆転の成功を 夢見て、すべてを賭して大博打に打って出ます。1564年 ふたりは当時ポルトガルが支配していたスパイスの島モルッカ 12 人 1620年頃のメキシコ・アカプルコ。スペイン船が来航。 月、をめざしてメキシコの太平洋岸から、5隻の船団で西に向けて出航します。船団は太平洋横断に成功して、現在のフィリピンのセブにたどり着き、ここに最初の拠点を設営します。 やがて1570年5月。レガスピは2隻の小さな船に100人の武器を持ったスペイン人を載せ、地元民を水先案内人として、セブから北に向けて探索を開始します。数日後、現在のマニラ市から200キロメートルほどのところにあるミンドロ島に到達。ここは昔も今も、独自の文化を持つマンギャン族が住む島です。スペイン人の探索隊は、ここで初めて、交易のためにこの島を訪れていた中国商人の船団に遭遇します。当時、中国からの商船は、年に何度か定期的に島を訪れて交易を行っていたのです。中国商人が持ち込んでいたのは、絹織物、陶磁器、金製品、香水、蜜蝋などの品々です。いずれもスペイン人にとっては喉から手が 出るほど欲しい品ばかりです。 中国商人は船で島に到着すると、山間部に住むマンギャン族に商船団の到来を知らせるために、銅鑼 (どら)を叩き、爆竹を鳴らして、大音量でその到来を告げるのが常でした。スペイン人たちは、そんな習慣があることは知りません。中国商人から品物を入手したいスペインの探索隊は、慎重に中国商船に対して接触を求めます。中国の商船側は「商売歓迎の意味で」大音量で銅鑼を叩き、爆竹を鳴らしました。スペイン側は、これを「戦の開始の合図だ」と勘違いして、一気に交戦状態となってしまいます。中国側の船1隻を破壊し、その乗組員を多数殺害。戦闘後、大誤解に気づいたスペイン側は謝罪し、破壊した船をなんとか修復して中国側に返還し、中国商人は破壊をまぬがれた船と修復された船とで福建に戻っていきました。 これが、メキシコから太平洋を初めて横断してきたスペイン人が、中国人と出会ったときに起きた最初の出来事です。それでも、この不幸な出来事を乗り越えて、あっという間にマニラは、スペイン人と中国商人が驚くべき規模で交易を行う場所となっていきます。 当時中国から見たヨーロッパは、中国側が買いたいと思うような品は何ひとつもたらさない、遅れた野蛮な地域だと考えられていました。そのため中国の皇帝は、欧州人の来訪を必ずしも歓迎していません。他方、ヨーロッパ人の側から見た中国は、見事な絹製品や陶磁器など、欧州に持ち帰れば高値で売ることができる工芸品が山積みの国。何としてでもこれを手に入れたい。でも、商売をするためには、お金を支払うか、ヨーロッパ側から何か商品を中国側に売る必要があります。では、スペイン人はマニラで、中国の品々を買う代金を、どうやって支払っていたのか。その答えが「銀塊」「銀塊」 です。中国側は喜んでを商品代金として受け取りました。 マニラ(フィリピン)〜アカプルコ(メキシコ)〜セルビア(スペイン)をむすぶ航海図。 4)スペイン人が開発した中南米の銀山 当時すでに中南米地域に広く展開していたスペインは、現在のボリビアにあるポトシ銀山をはじめ、大変な努力と先住民の犠牲の下に、各地で大規模な銀山開発を行っています。特に太平洋岸、標高4千メートル近辺に展開するポトシ銀山は、無尽蔵とも言える埋蔵量があり、ここで精錬された銀の延べ板(銀塊)は、現在のパナマ地峡に近い場所にある港町まで運ばれました。この港から、太平洋側のアカプルコ港向けと、地峡をロバで大西洋側に運び母国スペインを目指す、ふたつのルートで銀塊は送り出されました。この銀塊を載せた船団のうち、母国スペインに向かう銀を山積みした宝船は、最終的にセビリアに向かいました。「セビリアの理髪師」で有名な、あのセビリアです。 では、もう一つのルートで、太平洋側に運ばれた銀は、どうなったのか。これはアカプルコからマニラに向けて旅立つことになります。「3」で触れたマニラでのスペイン人と中国商人との交易。これが驚くべき規模に膨れるに従って、運ばれる銀塊の量もうなぎ登りとなっていきます。その結果、メキシコではスペイン産の産物よりも中国産の品々が喜ばれる状況が生まれ、中国産の産物で溢れか えることになります。こうしてマニラとアカプルコを往復するガレオン船の航路が定期航路化します。その乗組員の大半は、フィリピン人や中国人。年に一度か二度の限られた往復でしたが、この航路で運ばれた人と品物(奴隷や植物を含む)の往復は、世界の経済と農業両面で、極めて大きな影響を及ぼすことになります。 こうしてマニラには、中南米原産のトウモロコシやジャガイモやサツマイモなど様々な食用植物類が運び込まれ、その地の中国人商人との交易を 11 通じて、これが中国本土にもたらされていくことになります。様々な食用植物がインドに伝わっていったのも、このマニラ経由がメインルートでした。そして「2」で触れたメキシコシティの中国人たちは、この航路で、奴隷に近い年季奉公的な悪条件でメキシコに渡っていった人々の子孫たち、ということになります。 この太平洋を横断する交易路で運ばれた中国製の絹製品や陶磁器は、メキシコシティから更に、南米の各地へと運ばれていきます。中国側には、その対価としてスペインから入手した膨大な量の銀塊が滞留することになります。中国人の銀好きは半端なものではなく、世紀に黄金期を迎える開封の都では、極めて水準の高い銀器が宴席で使われていたことが知られています。 現在の中国は、おそらく、ヨーロッパからの「野蛮人たち」が世界を仕切り始める前の、「圧倒的な存在としての中国の尊厳」を取り戻したいという夢に取り憑かれているのではないでしょうか。そして当時のマニラは、めちゃくちゃ面白い街だったはずで、呂宋助左衛門はその面白さに取り憑かれた一人だったに違いありません。 1650年頃のマニラ。城壁と堀で守られていました。 ▲ 尖塔の先頭で回転する黄金色の風見鶏。 聖ペテロ教会、展望台からの眺め。 ▼現在はルター派の教会になっています。マルティン・ルター。 1629年からラトビアはスウェーデンの占領時代に入ります。リーガにはスウェーデン兵が駐留し、リーガ城が再建されたり、城壁が建設されたり、ポーランド統治下で疲弊した街の復興が始まりました。ドイツ商人は水産、穀物、麻、木材など30以上のギルドをつくり、ラトビア人も職人、船積み、縫製、鍛冶など10ほどのギルトを結成し、リーガはストックホルムを凌ぐほどの都市になります。経済力を背景に、商人ギルドは市民自治を認めるようスウェーデン軍に数々の要求を突きつけました。悲恋のスウェーデン門スウェーデン門を抜けると、長さ約230mの旧ヤコブ兵舎があります。スウェーデンの統治下、スウェーデン兵と現地女性の交際は禁じられていましたが、それを破った商人の娘が門の壁に生き埋めにされたという伝説が残っています。現代の調査では、実際に壁の空洞に女性の骨が確認されたそうです。兵舎の向かいにはレンガの城壁が再現されています。 朝のエスプラナーデ公園。ロシア正教会の大聖堂は、1991年まで続いたソ連支配を感じさせます。公園はもともと砂丘地帯で、1198年には2代目司教のベルトルドがリーブ人首長によってここで殺害されました。ロシア正教会はピョートル1世率いるロシア帝国支配下にあった1884年に建てられましたが、ドイツ・ルター派の信者が多いリーガでは布教に手こずり、教会を襲撃したり、牧師をシベリアに送ったり強引な手法で改宗をすすめたと伝わります。 1919年、画家ヴィルヘルムス・プルヴィーティスによって開校した「ラトビア芸術アカデミー」。絵画、彫刻のほかファッション、グラフィック、インテリア、プロダクトなど多彩なコースがあります。レンガ造りゴシック様式の建物は、ハンザ同盟都市時代の建築スタイルを彷彿とさせます。 聖ヤコブ教会近くの「ホビーウール」は、イエワ・ウアズアリニャさんがミトンの伝統技法を後世に伝えたい思いからひらいた毛糸や羊毛製品のショップです。毛糸と編み方の解説を箱につめたミトン編みキットは世界中で販売され、日本語版もあります。ラトビアでは学校で編み物を習うそうですが、伝統的な編み方を知る人は減っているそうです。ホビーウールはラトビア産の良質な毛糸を供給し、その品質や品揃えはプロのミトン作家からも支持されています。その一方、誰でも挑戦できるキットを開発したり、伝統柄のデザインを使った手軽な靴下を作ったり普及に尽力しています。自分でミトンを編んでみると、色数が多いミトンは裏面が厚くなり暖かいといった実用面にも気づくそうです。 蓋を開けてみれば、やはり波乱に富むウサギ年も残すところあと十日ばかり。長きに渡って誰もが口にチャックを閉めてきた秘密の花園の事実へようやくメスが入れられるまでになってきたことを実感する一年でした。 その一方、まだまだ納得がいかぬままフリーズされている出来事が多いように思えるのもまた事実。つい先月には屋久島沖で米軍の人員移動機オスプレイが海に落ち、痛ましいことに8名の命が失われたことからオスプレイを当面使わないという声明を出したのである。以前からあまり評価の良い機体ではなかったし、素人の私でさえ決してバランスの取れた乗 南風なれども その43 青山かすみ り物とは言えないと思っていたが、そういった不安 は無残な形で現実のものとなるんですね。大勢が良しとしないものをゴリ押ししてたら、いい結果なんてでるはずないんだからすぐやめて頭を切り替えなくちゃ。犠牲が出る前に犠牲を出してはならないと考えるのが当たり前でしょう?ふつうはそのはずですけれど。 日本の陸自ヘリが墜落した問題しかり。宮古島での捜索結果はその後どうなったのかしら。ずーっと気になってるのよね。そうこうする間のオスプレイでしょ?日本が得意なもみ消し作戦でしょうか?いけませんよ!国民に対し、一向に丁寧な事後報告がなされないのはなぜなんだろう。自衛隊全体として今後の運営姿勢を示すべき時と感じているのは私だけではないはず。国民の命を守るべき政治家と官僚とで成る政府の信頼が失われつつあるかも。ざくざくとだらしない姿をさらしてますけど、人々は苦境の中でも懸命に生き抜こうとしてますよ。 コロナ明け、骨董通り周辺のショップなどを見ても随分様変わりしました。名の知れた老舗店の閉店が相次ぎ、だんだんいいものが失われてゆく気分。暖冬気候も手伝ってか、旅客機の三時からの都心侵入飛行においてはお盛んそのもの。もうじき5年目突入ですからね〜ますますスピーディさは増しており、大型機に至っては低空飛行の度合いがキケン過ぎといえるでしょう。師走に入り、こちら港区上空を往く米軍ヘリの低空飛行頻度も高まりました。 今夏は超猛暑だったためなのか頻度が少なめかしら? と感じましたがね(笑)。 約 5年こんな状態を見て見ぬ振りをしながら許した日本の政治家さんや官僚の方たち、そして日本国民は 2024年を目前に揃いも揃って気持ちをひきしめ、反省すべき時が来ているのだと思います。 国会議事堂向かいの聖ヤコブ教会は、80mの尖塔の外側に鐘をもつ珍しい教会です。鐘は市役所広場で行われる罪人の処刑を告げるために使われたほか、不倫中の男女が通ると自然に鐘が鳴るといわれました。鐘はながく取り外されていましたが、2001年リーガ市政800年を機に復活しました。教会の隣には、1991年バリケード事件の際、市民とソ連特殊部隊による銃撃戦の犠牲者を弔う慰霊碑があります。 ラトビア共和国の国会議事堂(サエイマ)。元は騎士団の会議場で1863年に建てられました。ラトビア国会の議員数は100名。2023年5月にエドガルス・リンケービッチ大統領が選出されました。出入り口向かいの赤い建物は議員会館で、議員が通りを横切る際は警察官の警備がつき、ジャーナリストのインタビューを受ける光景もみられます。 弾痕 占領博物館前に立つラトビア人射手記念碑。リーヴ人広場「猫の家」向かいの国庫には、今も生々しい弾痕が残されています。ラトビアが国として独立を宣言したのは1918年のことでした。19世紀ロシア支配の時代にバルト・ドイツ人勢力は弱体化し、ラトビア人の民族意識が高まりを見せます。リーガは工業都市として発展しモスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐロシア第三の都市にまで成長しました。1914年第一次世界大戦が始まると、ラトビア人による「ラトビア人射手」の部隊がドイツ軍と戦います。一方ロシアでは1917年のロシア革命によって皇帝が退位し、軍の弱体化と共にドイツ軍がラトビアを占領。ロシア軍は退却とともに車両や工場設備、多くの芸術品を持ち去り、数十万人のラトビア人をロシア奥地に送ったと言われます。 1918年に独立を宣言したラトビアでしたが、戦乱により工業地帯は荒廃し人口も減少したため、復興には時間がかかりました。1935年、国民の寄付により完成した自由記念碑は、多くの犠牲をはらい獲得した自由の象徴です。50mの高さに立つ女性(ミルダ)が掲げる3つの星はクルゼメ州、ヴィゼメ地方、ラトガレ地方の融和を示し、中心の六角形は誰にも奪うことのできない天空の自由な赤子を表しています。記念碑が完成した5年後、ラトビアは再び自由を奪われます。第二次世界大戦中にナチスドイツとソ連の間で結ばれた秘密議定書によってソ連軍が侵攻し、1940年8月にエストニア、リトアニアとともにソ連に併合され、数万人が殺害されました。その1年後にはナチスドイツがソ連に攻め込み、ラトビアは独ソ戦の戦場となり工場や家屋、インフラを徹底的に破壊され終戦を迎えます。ソ連の勝利により、そこから約半世紀にわたるソ連の恐怖政治がはじまるのです。ソ連は自由記念碑を取り壊そうとしましたが、リーガに生まれモスクワで活躍した女流彫刻家ベラ・ムーヒナ(モフフィルムのオープニング映像に登場する男女の像で有名)が、「この記念碑は、祖国を解放したソ連を称える記念碑です」といって、師事していた名匠の傑作を守りました。 1991年のバリケード 1980年代になるとゴルバチョフのペレストロイカによりソ連の変化が始まり、バルト三国に独立回復の機運が高まります。1989年8月29日にはエストニアのタリンからリーガ、リトアニアのビルニュスへと600万人の「人間の鎖」がつながり、1990年春、ラトビアは独立を回復しました。しかしソ連は1991年1月、リトアニアのビルニュスを攻撃し市民を殺害。リーガ市民にもラジオで警戒が呼びかけられ、数千人の市民がトラクターやトラック、工事車両に乗って道路を閉鎖。リーガ大聖堂広場に集まり、議事堂やテレビ局、電話局にバリケードを築いて攻撃に備えます。1月16日ソ連特殊部隊がリーガに進軍し、銃撃により市民が死傷。20日にも内務省が襲撃され、警官やカメラマン、少年が殺されました。国庫に残る弾痕は、その時のものです。エンジ色に白い帯を描いたラトビアの国旗は、祖国のために血を流す覚悟を持つこと。そこから勝ち得た自由(高潔な白)を表現しています。 市民たちが特に守りを固めたのが、1989年に完成した高さ368mのテレビ塔や電話局、ラジオ局でした。リーガには300名以上の外国人プレスがいて、国際社会にソ連侵攻の情報を伝え続けました。いまウクライナやガザ地区で行われているメディアを巻き込んだ情報戦は、この時すでに始まっていたのです。 1991年12月ソ連は崩壊し、2004年ラトビアは欧州連合(EU)とNATOに加盟して西側諸国の一員となります。しかし隣国ロシアとの関係は続き、パイプラインでロシアからの天然ガスが供給され周辺諸国にも運ばれました(現在は停止中)。今も人口の約24%をロシア系が占めるなか、ロシア大使館前には世界中に報道されたプーチンの姿が掲げられ、街のあちこちにウクライナ国旗が掲揚されています。ラトビアはGDPの1%を超えるウクライナ支援を続けていて、ロシアによる支配を2度と繰り返さないことがラトビア国民の悲願であると感じました。 ロシア大使館から150mほどの所にウクライナ大使館があります。 毛糸でつながるラトビア民謡 ラトビア人は「歌の民族」といわれ、古代から伝わる民謡(ダイナ)は120万曲以上あります。ダウガワ川沿いの国立図書館にある世界遺産「民謡の戸棚」には、各地で発見された民謡のカードが収められ、今も調査が進められています。それぞれの時代の統治者は民謡を歌うのを禁じ、ラトビア人はその記憶を命がけで伝承しました。その方法のひとつが、毛糸の結び目を使った「結縄文字」です。インカ帝国や沖縄でも使われた結縄文字は、糸の結び目や色によって言葉や音を表します。次の世代へ結び方を伝えることにより、民謡を継承したのです。複雑な結縄文字を解読するため、AIの利用も試みられているそうです。 自動運転バスの定期運航開始 GIFU HEART BUS 文・写真森博樹 岐阜市で2023年11月25日から、市街中心部の公道を使った自動運転バスの定期運航が始まりました。自動運転レベル2から開始し、技術の検証、社会受容性の向上を図りながら、2028年3月までの5年間で自動運転レベル4での運用を目指しています。 岐阜市の自動運転バス運行は、現市長・柴橋氏の公約から2018年にスタートし、年ごとに実証実験の運行日数、利用者数を延ばしながら、今回の定期運航こぎつけました。事業主体は岐阜市ですが、システム構築、運用は公募によって委託を受けた、株式会社BOLDLY(ボードリー)によって行われます。車両はNAVYA(ナビヤ)社のARMA(アルマ)で、自動運転レベル4に対応する能力を持っています。車両デザインは水戸岡鋭治氏によるもので、赤い車体がビルにも古い街並みにも映えます。岐阜市からBOLDLYへ「岐阜の風土にあったデザイン」の要望を盛り込み、BOLDLY側が水戸岡氏への依頼を提案したものです。バス運行の自動化は、公共交通の維持を目的としています。岐阜に限らずバス、タクシーなどの公共交通の運転手不足はますます深刻な問題になりつつあり、路線の維持が難しくなる段階にまで来ています。また高齢化が進むにつれ自力(自動車)での移動が難しくなる人も増加し、都市部でのきめの細かい公共移動手段が重要になります。小型の自動運転バスは、これらの問題への有力な回答となる可能性を持っています。今回の定期運航は、自動運転レベル2からスタートします。レベル2では運転手(オペレータ)の同乗が義務付けられており、岐阜では岐阜バスと日本タクシーの社員が乗務しています。バス・タクシーの自動運転化時代を見据えた人材育成の側面も持っています。車内には座席が10席あり、オペレーター1人と合わせて11人乗車です。立ち席は設定がありません。内装デザイン(シート生地)は1号車から3号車まで、それぞれ違います。 自動運転のレベルレベル1 一方向だけの運転支援(自動ブレーキ等)レベル2 縦・横方向の運転支援レベル3 特定条件下での自動運転レベル4 特定条件下での完全自動運転レベル5 完全自動運転 運行コースは二つで、岐阜駅から市役所を経由して、反時計回りに市街地をループする「中心部ルート」同じく岐阜駅から古い町並みが残る川原町、御鮨街道を経て岐阜駅に戻る「岐阜公園ルート」です。中心部ルートは毎日12便、岐阜公園ルートは土日3便運航されます。 窓の大きな室内は開放的で、電気自動車のため静かです。若干ブレーキと加速の際に衝撃を感じる他は乗り心地もまずまずで、短距離のトランスポーターとして優秀だと感じました。現状ではレベル2の自動運転で、オペレータの同乗を必要とします。自動で運行中でも、路上駐車などの障害物が経路上に存在すると、自動で停止します。障害物を回避するためには、進路(車線)変更が必要ですが、車線変更前には安全のために停止する(人間が安全を確認して再出発する)仕様になっており、障害物の手前で同乗のオペレータが随時手動運転に切り替えて回避操作を行います。市街中心部では交通量も多い上に、駐停車禁止エリアでも駐車が多く、かなり頻繁に手動で運行していました。前回の実証実験での自動/手動運転の比率は8:2程度で、手動操作が必要となる原因の多くは路上駐車でした。この問題を解決してレベル4を実現するには、車両やシステムの改良に加え、街づくりや人の意識なども変える必要がありそうです。 ラトビア民族野外博物館 リーガ郊外にひろがるユグラ湖畔の「ラトビア民族野外博物館」は、1924年に設立されたヨーロッパ最古の野外博物館です。湖の向こうには、リーガの街が見えます。 ドローン撮影 ©.SKYSCAPE 館長のザンダ・キェルガルヴェさんが案内してくださいました。約88ヘクタールという広大な敷地にラトビア各地の古建築が移築され、全部見るには2〜3日かかるそうです。 2024年に設立100年を迎える「ラトビア民族野外博物館」は、毎年6月、第一週の週末に開かれる「Gadatirgus(ガダティルグス)」(民芸市)で世界的に知られています。ミトン、バスケット、織物、陶芸、木工品などラトビア各地の工芸作家が集結し、古い建物の間を民族衣装をまとった人たちが行き交う会場は、中世の市場に迷い込んだような雰囲気になります。 最初に訪ねたのは、1841年に建てられた旅人の宿「旅籠」です。旅籠は荘園主によって50〜100kmおきに設けられ、市場に出掛けた農民は広間や屋根裏に泊まり、食事をしたり馬を休ませたりしました。地主階級の旅人は家具付きの個室に宿泊します。ここでベーコンパイとカシスのアップルティーを頂きました。 ラトビアの国木である冬菩提樹や柏をはじめ、白樺や赤松などの森が黄金色に染まる光景は「黄金の秋」といわれます。ラトビアには8つの季節(節分、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至)があり、季節ごとに異なった神によるご加護があるそうです。温故知新を表す翁の像が迎えてくれました。 ウスマ教会 18世紀はじめ、ラトビア西部ウスマ湖畔のルーテル派プロテスタント教会です。屋根にはリーガの教会に見られる風見鶏が立っています。十字架を恐れる村人のため、地元で魔物を追い払うといわれた雄鶏を立てたそうです。ラトビアでは13世紀からドイツ司教によるカトリックの布教が進められましたが、16世紀の宗教改革以降はプロテスタントへの改宗が盛んになりました。木造の素朴な教会の天井には、一面に青空に舞う天使たちが描かれています。ベンチ席と通路を扉で仕切っているのがこの時期の教会の特徴で、蝋燭を立てています。プロテスタントの説教は誰にでも分かる現地語で、キリストの逸話や天国の姿を伝えました。この教会は今も礼拝や結婚式に活用されています。 教会の裏にはラトビア人の墓所が再現されています。墓標を木で作るのが特徴で、その家の形が代々継承されます。子孫が定期的に作り替えますが、家が絶えれば墓も自然に帰っていくという、ラトビア人の自然感を表しています。教会の前には鉄の首輪をつないだ柱が立っています。これは改宗しない村人を礼拝の際に見せしめにした柱だそうです。この農家の倉庫は最大級のもので、17世紀〜19世紀にかけて西部クルゼメ州で建てられました。四角く削った木材を積んだログハウスで、農機具をしまうほか厩や馬車のガレージとして利用され、柵に囲まれた中庭では牛を飼っていました。 クルゼメ州の農家 鏡のような池は防火用水に使われました。クルゼメの伝統菓子スクランドラウスィス(柵パイの意味)はジャガイモとニンジンの素朴な味。まわりを柵のようなパイで囲みます。 ラトビアの伝統楽器「クアクレ」の演奏で出迎えてくれました。 クアクレはチター属の弦楽器で、フィンランド、エストニア、リトアニアなどで同類の楽器が演奏されています。弦の本数や大きさは多様で、演奏スタイルも自由です。 暖かな暖炉に座りながら、ミトンを編んでいました。5本の細い編み棒を使い筒状にして編んでいきます。クルゼメ州のミトンには、星や十字、太陽の文様を幾何学的に連続させたものが多く見られます。 ラトビアで神のお使いといわれる鳥、ウソを毛糸で作るワークショップが開かれました。ウソといえば日本では菅原道真公の使いといわれ、幸運を招く太宰府天満宮のお守りが知られています。 ワークショップのあとは、旅籠に戻りランチをとりました。ラトビア名物の大麻入バター、黒パン、各種チーズ、ハム、肉団子、チキンロール、豚肉ベーコン巻、ポルチーニソース、キャベツ煮込み、ホイップクリーム入り黒パンのデザートなどラトビアで日常的に食べられるポピュラーな食事が並びました。 心・体・思考の健康をデザインする 2024年1月は 自分の中のスペースを空ける。 とっておきの休み時間 22時間目 写真&文 大吉朋子 もうじき2024年がやってきます。年始、スタート、という時期ではありますが、ヨガ数秘学では2024年1月は「9」の月となり、終わり、手放しのエネルギーが流れます。新しい一年が始まるとはいえ、気持ちも思考もエネルギーも、大晦日から元旦にガラッとかわることはありません。ヨガ数秘学では、年のエネルギーは10月頃から翌年2月頃にかけて切り替わっていくと考えます。 1月はひと月かけて、本気で新しいエネルギーに切り替えていく。新しいエネルギーを自分の中へ呼び込むために、自分の中に十分なスペースを作る。そんな時期となりそうです。 「新しい始まりは、何かが終わるとき」とは、アメリカの心理学者ブリッジスがいう3ステップモデル(終焉→中立圏→開始)にありますが、まさに2024年1月を表すように思います。(2024年 2月は始まりの月)何かを終えて、次の始まりに向かう時というのは、さまざまな気持ちや思いが沸きあがります。人生の中で大きな出来事であればあるほど、それらもより大きなものとなります。このなんともしがたい時間が実は大切で、サイクルの終わりをきちんと意識して、その経験を次の新しいサイクルへ意味づけていくことで、より豊かな新しい人生の時間がスタートしていく。 2024年1月は豊かな一年の始まりにふさわしい時間ではないでしょうか。 海へ 久しぶりに海へ行った。1ヶ月ちょっとぶり。太陽のぬくもりを感じてあたたかいと思っていても確実に季節が進んでいた。海水温度は2ケ月前の季節というものの、太陽が雲に隠れると体が冷えるのを感じ、海水も冷たく感じる。もうウェットスーツを冬用に切り替えないといけない時期になっていた。 先日、30年来の大切な友人が旅だった。悲しみの感情が溢れ、自分の今を言葉で表現することがほんとうに難しく思った。答えが出ないことに思考がぐるぐる音をたてるように渦巻いて、ひとつひとつの記憶のあれこれを引っ張り出しては涙が溢れ、もともとゆるい私の涙腺はコントロール不能という、どうにもできない状態だった。それでも日常は流れ、師走という風がビュービュー吹いて、日を追うごとに焦る気持ちも感じながら、悲しみという感情や思考が体の中から抜けない日々を過ごした。自分の体が妙に強張っていることも感じるし、なんだか重い。いつものようにヨガやピラティス、ランニングとやっていても、頭と体がバラバラしてぎこちなく、思うように動いていない。マッサージに行ってみたけれど、どこもかしこもガッチガチ。 悲しみという感情や思考が巡ると、こんなに体が変化するものなのだと、知っているようでいて、初めて味わう体験だった。しょうがないと融通の利かない自分を眺めながら、どこかクールに違う感情でその状況をみている自分もいる。ほんの数日でこの有り様なのだから、ずっと何かしらのしんどい思いが巡っていたら、体を壊すことになりかねないし、程度によっては深刻なことになりかねないものだということを、インクがにじむように実感がしみてきた。 どこかで区切りをつけようと思いつつ時間が過ぎ、なんとなく海に入るといいような気がして、思い切って海へ出かけた。 道中、まっすぐ走っていると無意識にもまた記憶を掘り起こしている自分がいて、しつこい自分にあきれた。 パドリングして沖へ。体が硬い。手足と胴体は動いてはいるものの、体の内側が錆びているような感じで、もちろん体は重い。「強張っている」ということが嫌でもわかる感覚だった。 そして1時間くらい、ダメなりにもパドリングして乗って、を繰り返していくと、ひと波乗るごとにだんだんと体の中から何かが抜けていくのを感じた。ウソみたいな話だけれど、本当に重いものが海に流れていくような感覚を覚えて、驚いた。またいろいろな記憶が蘇ってきて泣けてきたけれど、そもそも水に濡れているから、涙なのか水なのか、わからない感じでぽろぽろと目からこぼれていった。 波も終わってきたようで、そろそろ上がるかなぁと思っていると不思議といい波が次々とやってきた。そして、無心で漕いで乗って、をしていたら、気持ちのモヤモヤがなくなっていた。それと同時に、体がとても冷えていて、足の薬指あたりの感覚がないことに気が付いた。体の芯が冷たい。 それでも、強張った体よりも楽に動けていることに、あらためて驚いた。海水に触れると何が良いのか。言葉ではうまく表現できないけれど、海に入ったあとは確実に何か変化がある。濁っていたものが透明感を取り戻すような感じというのか。 ひとつの大きな感情に区切りをつけて、そのことを忘れ去るのではなく、自然に持ち合わせながら、次の新しい感情や思考や道に進む。またひとつ、新しい経験と気づきをもらった12月。そして、友人の旅立ちは、今後の私の人生、ミッションに強力なものを残していったと感じる今日この頃です。 ヤルガワ旧市街の家とラトビア伝承館 ドローン撮影 ©.SKYSCAPE ヤルガワ市はゼムガレ州最大の都市で、首都リーガの南西約40kmにあります。観光名所としてはヤルガワ宮殿が知られていますが、今回訪ねたのは市内にわずかに残った旧市街です。第2次世界大戦時、街は独ソ戦によってほぼ完全に破壊されソ連支配時代に復興されますが、わずかに焼け残った旧市街「ヤルガワ市歴史地区」は市民の誇りとなっています。 ヤルガワ旧市街の家(ヤルガワ・オールド・タウンハウス)は、18世紀末に建てられた住宅兼店舗をリノベーションした施設です。特徴はインタラクティブな展示設備で、金色の箱がトランスフォームして、旧市街の歴史や木造建築の構造を、3DスキャンしたCGやイメージ動画、実物の資料、写真、音声ガイドなどでインタラクティブに伝えます。 ▲屋根裏部屋には懐かしい日用品が展示されています。 200年以上にわたり増改築を繰り返してきたオールド・タウンハウス。昔は外壁だったレンガ壁が内壁に取り込まれていたり、下地を作らずに木の壁に壁紙を釘で打ち付けるなど、リノベーションにより建物の変遷が明らかになりました。漆喰に直接描かれた絵も残されています。 ▲ゼムガレ模様の織り手、アニタさんが案内してくれました。 廃墟同然だった18世紀の職人の工房をリノベーションしています。大きな煙突やかまどの部分は19世紀のもので、3時間かけて薪をくべて温度をあげ、今日はパンケーキ焼いてくれました。ガラス窓は額縁式のもので、窓枠に窓のユニットを押し込んで固定する仕組みです。隙間風がひどいので、今は窓と枠を重ね合わせるようになっています。 リビングのテーブルで、かまどで焼いたパンケーキとハーブティー(りんごとハッカの薬草茶)をいただきました。鴨居の上の漆喰には1820年代に流行した花柄の絵が描かれています。扉は建設当時のオリジナルだそうです。 織工房では、無形文化遺産リストに登録されたプル装置を備えたゼムガレ模様の手織物が織られています。スカートや民族衣装に使われる幅の広い生地で、19世紀初期にデザインされた伝統柄だそうです。花、星などの細かな幾何学柄を沢山の色の糸を使い精密に織るのが特徴で、ゼムガレ州で使われてきた特別な手織り機でしか織れないそうです。 ゼムガレの手織り機の特徴はプル装置です。ヒモを引くとタテ糸を通した複数の綜絖が上下し、タテ糸の構成を切り替えます。またシャトルのヨコ糸も複数の色のボビンを取り替えながら織っていくことで、複雑な模様が描かれます。 プル装置の操作が牛の乳搾りに似ていることから「乳房織り機」とも呼ばれます。文様の図案にはプル装置のヒモの番号が書かれていて、それを見ながら装置を動かします。ジャカード織りのルーツのひとつといえるかもしれません。 古いキッチンの地下に大きなパンのかまどが見つかり、パン工房であった時期があると分かりました。歴代の壁紙をまとめた壁が、建物の歴史を語っています。織工房には、20世紀はじめに開発された足踏み式のジャカード織り機もあります。ゼムガレ州出身のヴィリュムソーンスが、海外でジャカード織り機の技術を身に着け開発したもので特許をとりました。足のレバーを踏むとパンチカードが回転する仕組みで、織り手の労力を減らしました。ヤルガワの民家で発見されましたが、操作方法を知る人が居なかったため、試行錯誤しながら使い方を身に着けていったそうです。 ラトビア神道スヴェーテ神社 ヤルガワ市には、ラトビア神道の聖地のひとつスヴェーテ神社があります。主祭神は女性や子供の守り神である地母神マーラです。自然の物質的な世界、死と再生を司り、パンの神でもあります。 神社は伝統的な円錐形をしていて、壁面には春のマーラと冬のマーラが描かれています。春のマーラは若い女性で、冬のマーラは黄金の穀物を手にして次の春をまっています。壁のスリットから入る光が、神聖な神の家に居ることを意識させます。神社の参集殿で、アウスマ・スパルヴィニャさんが伝統的なプズリの作り方を教えてくれました。プズリは12本の麦藁の中に糸を通し正八面体を作るオーナメントで、4つの面が東西南北や春夏秋冬を象徴し、下の三角形と上の三角形が、地下と天空を表わすと考えられています。 麦藁に糸を通して立体にしていくのは意外と難しく、なれるまで時間がかかりました。1個のプズリはひとつの細胞、もしくは一人の個体を示し、たくさんのプズリがつながって宇宙へ広がる様子を表したり、親戚関係が広がっていくことを表現しています。また邪気を閉じ込め、祓い清める家内安全の御守ともいわれます。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】