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時空を超える美意識 Click 尾張 1000年モノがたり Owari millennium Story https://collaj.jp/冬至梅 2024 和泉流野村派 野村又三郎家による「第 22回 狂言 三の会」が名古屋城近くの名 野村又三郎家の 古屋能楽堂で開催されました。野村又三郎家の初代は丹後で細川家に仕え、その 狂言 三の会後、京都御所の西に暮らし禁裏御用(宮中への奉仕)をつとめました。江戸時代 には徳川尾張藩のお抱えとなり名古屋や熊本に拠点を広げ、明治維新とともに一時 2024年 11月 23日名古屋能楽堂は東京に移りますが、戦後、13世野村又三郎信廣の代で名古屋に定着しました。 取材・撮影協力 Hiroki Mori 今回は野村又三郎家に師事している野間隆運さんにご案内 頂き、楽屋や申合せ(リハーサル)の様子も取材させて頂き ました。14時の公演にむけて、舞台では申合せが始まって います。名古屋能楽堂は1997年に開館した世界最大規模 の能楽堂です。設計は名古屋市建築局 +大江宏建築事務 所。舞台の寸法が他の能楽堂よりも少し大きく、申合せで舞 台に立ちながら感覚を掴んでいくそうです。本舞台の四隅に 立つ柱は、演者が位置や距離をはかる目印にもなっています。 舞台の裏側には畳敷きの広い楽屋が並び、演者が 装束や道具を整えたりお互いに装束付けなどの支度 をします。大きな鏡を備えた「鏡の間」は演者が出 番を待ちながら、鏡に向かい精神統一して役に没入 する部屋です。出番が来ると五色の揚幕をあげ、橋 掛りを通り舞台へ向かいます。鏡の間や楽屋には舞 台の状況が分かるモニターが設置されていました。 開場時間となり、沢山の観客が入場してきました。14時の 開演にあわせ、和泉流野村派十四世当主野村又三郎さん が舞台に登場し、今回の演目「萩大名」、「長光」、「釣針」 について解説されます。「萩大名」は狂言を代表する演目で、 昔は国語の教科書にも載っていたそうです。和歌をテーマ にしていて、地方の大名(室町時代の地主)が太郎冠者(従 者)と美しい庭を見物に出かけます。庭の持ち主は風流人 で即興の和歌を見物客に所望するのが常でした。和歌の素 養のない大名は太郎冠者の知恵をかりますが……。 ▲ 能・狂言の歴史を伝える「展示室」があります。 ▲野村又三郎さんの奥様はじめ一門の関係者が受付を担当。 「萩大名」 大名(シテ 藤波 徹さん)と太郎冠者(アド 野村信朗さん)が橋掛りから本舞台(庭)に向かいます、太郎冠者は庭の亭主に和歌を所望された時に備え、大名に「七重八重 九重 「萩大名」 大名(シテ 藤波 徹さん)と太郎冠者(アド 野村信朗さん)が橋掛りから本舞台(庭)に向かいます、太郎冠者は庭の亭主に和歌を所望された時に備え、大名に「七重八重 九重 とこそ 思いしに 十重咲き出づる 萩の花哉」という和歌を教えますが覚えられません。そこで太郎冠者は扇の骨の数を示したり脛を出したりジェスチャーでヒントをだしますが……。 要領を得ない大名にあきれた太郎冠者は、橋掛りから退場してしまいます。庭の亭主(アド松田髙義さん)は下の句を言うまで帰さないと大名に迫りますが、太郎冠者が居ないため 答えられません。亭主に追われた大名が橋掛りを逃げていき場内が笑いに包まれました。太郎冠者をつとめた野村信朗さんは野村又三郎さんの長男です。 尾張 名古屋城 野村又三郎家は江戸時代、徳川尾張藩の庇護を 受けていました。尾張藩主は代々、能・狂言を大 切にし、様々な流派をお抱えとしていました。 「長光」 「長光」は鎌倉の名刀長光を巡る話で、シテ(主役)の素破(スッパ)を野村又三郎さんがつとめました。素破は盗人ですが、狂言の素破は「どこか憎めない奴」であることが大切 とのこと。預り物の長光を携え坂東(関東)から京へ向かう奉公人(アド 奥津健一郎さん)が滋賀大津を見物していると、素破が近づいて長光に手をかけ自分の刀だと主張します。 それを見ていた目代(アド 伊藤泰さん)が仲裁にはいり、刀の作者や地肌などを 2人から聞きますが、2人とも同じ答えでした。そのわけは奉公人の答えが素破に筒抜けだったためで、 それに気づいた目代は奉公人に小声で刀の寸法を問います。次に目代が素破に寸法を尋ねると悪事がバレ、捕らえられた素破は上着をぬいでから、でんぐり返しをして逃げ出しました。 休憩時間には、狂言三の会会長・山口照雄さんから挨拶がありました。23年前、高校時代の友人の集まりで「名古屋で気軽に楽しめる狂言の会を能楽堂でやろう」といったのが 三の会発足のきっかけだったそうです。第一回には先代当主故野村又三郎信廣さんと当代の又三郎信行さんが素晴らしい狂言を演じてくれて、今も忘れられないと山口さん。以来、 20年以上にわたり名古屋能楽堂で年一回の公演を続けてきました。今後も名古屋を中心に活躍する野村又三郎家と狂言三の会を引き立てて欲しいとお話しされました。 「釣針」「釣針」 狂言「釣針」について野村又三郎さんは「女性を釣ったり容姿を問う内容は、現代のコンプライアンスに触れるかも……」とお話しされました。時代による価値感や風習の変化を感 じられるのも狂言の魅力です。太郎冠者(シテ 野口隆行さん)と主人(アド 奥津健太郎さん)がえびす神社に参詣し、美しい妻を得たいと祈願します。霊夢によって授かった釣り 針を太郎冠者にわたすと、冠者は「釣ろよ釣ろよ……」と謡いながら釣針を揚幕へ投げました。すると被衣をかぶった主人の妻が釣針にかかり、冠者は喜んで主人の元へ向かいます。 次に太郎冠者は主人の侍女を得ようと釣針を揚幕へ投げると、5人もの女性がかかりました。最初に美しい妻を得た主人は祝言のため退場し、残された冠者は恥ずかしくてなかなか 女性の被衣(かずき)をとれませんでしたが、いざとると顔の黒い醜女。驚いて逃げだす太郎冠者というお話です。この物語が作られた当時、女性の美しさは色白かどうかで決めら れたそうです。実際に狂言の舞台を観ると、役者の息遣い、間の取り方、互いの距離感、目線の動き、セリフの奥ゆかしさなど、日本人のもつ豊かな感性が伝わってきました。 Vol.66 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ 絵 : タカハシヨウイチ 空いっぱいに散らばった ネガイゴトを集めているのさ ドラゴンシリーズ 122 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 月と革命 昨日から朝夕の月がこれまでに見たことの無い色となり、そ の月明かりが地上を太陽と反対の角度から静かな青色の月光で 照らし、地球という兄弟に何か大事なことを語りかけるような 姿で浮かんでいる。 月を見ていると次第に騒ついていた心が静かになってゆく。 季節や時代という時間の変化だけでなく、人々の心の変化の中 にあるような騒ついた気持ちや浮き沈みのある心が次第に静か になってゆく。周りの様々な物事や出来事の中にある核心が自 分の心に冷静に寄り添い語りかけるように、心の景色が変わり 目に映るもの全ての色と景色を変えてゆく。 脳に記憶された古代人が見た景色が人間の中に埋め込まれて いるように、自分だけの経験だけでなく過去から蓄積されてき た私たちの記憶と無意識に内臓されている時間と経験の資産を 呼び戻し、そしてつなぎ合わせえることを意識する。どの作品 だったかは忘れてしま ったけれど小説の中の 月が照らす景色のよう な空想との間が現実と なっているような、そ んな大きな変化の時代 が到来している。 僕は安定して平穏な時代よりその時代の価値の概念が崩れ、 人々が何かに寄り添うことができなくなった崩壊して変革して ゆく時間の流れの方が、人々は自己を見つめ直すことができる のではないか。そんな時代の方が個々が自分自身として生き、 心の自由を得ることができるように感じる。そのような不毛な 中で騒ついた心は次第に人間本来の自然体の感受性を取り戻す ことができるはずだ。 全ての生命、人類は変革の時代を迎えている。それは政治や 社会の変化だけでなく私たちの心の核心にある生物としての魂 の変化と言うような、大きな存在価値、生命そのものの変化で もあるように感じる。もっと大袈裟に言えば地球の変化、大き な宇宙と言う存在の変化でもあるように。時間と言う概念で感 じ取るしか、その何か得体の知れない大きな変化を捉えること 89 ができない。人間の心の変化は取り巻く生命と地球や宇宙の変化と一体 と なって動き、それが私たち人類の様々な詳細な活動にも少なからず何ら か 68 の影響を与え、色々な社会現象となって表層化している。 そのような変化の時代の中で生きながら大切なことを感じ取り、そして 自分自身のこれからを見極めて選択する、もしくは前に進んでゆく、未来 を切り開いてゆくことが必要になっている。これまでのセオリーや選択 肢 40 だけでなく、また現在の常識や流れだけでなく、また先進性と時代性の波 に惑わされることなく、自分の触感を持って古い時代や過去の詳細に目を 向けることで時代と言う概念を大きく超えた自分にとって大切な本質的な ものを捉えることができるのではないか。 直感的なものには経験値と空想と意識が導く自分の価値観の概念の何か を示唆するものが含まれるように、内面に向き合うことで自分にしか見え ない、自分にとって大事な も 89 のを見出すことができるかも 知れない。 『異国の街角で』(五木寛之) という本を読んでいたら、脳 の裏側で焼け焦げたような 年前のプラハの街の石炭の匂 いと煤けた街並が蘇ってき た。年のプラハの春はドプチェクから始まり、そして年のビロード革 命はハベルと言う文学的な文脈から始まった革命への機運はロシアや中国 というような巨大な戦後の専制体制に対する文明と言う人間的社会の反抗 だった。 石炭の煤で覆い尽くされた中世の古い街並みは社会主義的な時間と言う 皮膜で覆い尽くされているものの、その皮膜の下に隠された人間の文化と 多様性を覆い隠すことができず、かえってその皮膜が醸し出すその芸術性 のフィルターを介して一つの統一した美しさの表現と化していた。そして 年のプラハには、表面には見えない自由と文明に対する欲求の萌芽が地 下のクラブや秘密裏に芸術家や市民たちによって作られた地下室で年代物 のワインのように醸成されていた。抑圧された社会の中で懸命に生きた意 思を持ち続けた人々の情熱が時間を掛けて熟成したものだったのではない だろうか。 昭和レトロ女子たちにも大人気日本には中世から現在まで続く6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前) 「六古窯」があります。その中で伊勢湾に面した常滑は、平安時代から壺や 甕など生活に欠かせない陶器を全国に供給してきました。 窯業都市 常滑の魅力 小高い丘の常滑旧市街「やきもの散歩道」を歩きます。日本最大の土管、火鉢、甕、植木鉢、衛生陶器の産地として、 かつては数千本の煉瓦製煙突が並び、街は黒煙で包まれてたそうです。石積には今でも黒煙の跡が残されています。 金毛窟明治になり江戸時代の規制がなくなると、各家が庭や畑に窯を設け、釜屋となって「土 管」の生産をはじめました。横浜など新しい街づくりや鉄道敷設、上水道の整備など、 常滑の近代土管の需要はうなぎのぼりで、街ぐるみで土管の生産にあたります。 写真集 なつかしき常滑Part2(常滑郷土文化会つちのこ刊)より 金毛窟明治になり江戸時代の規制がなくなると、各家が庭や畑に窯を設け、釜屋となって「土 管」の生産をはじめました。横浜など新しい街づくりや鉄道敷設、上水道の整備など、 常滑の近代土管の需要はうなぎのぼりで、街ぐるみで土管の生産にあたります。 写真集 なつかしき常滑Part2(常滑郷土文化会つちのこ刊)より 土管坂 壁面を「土管」と「焼酎瓶」で覆った土管坂。路面には土管の 焼成時に使われるケサワが埋め込まれ、滑りにくくなっています。 ▲ 常滑市登り窯広場 展示工房館の「両面焚倒炎式角窯」。 常滑の発展を支えたのが「両面焚倒炎式角窯」でした。常滑焼は傾斜地に築かれた 穴窯や登り窯で焼かれていましたが、平らな場所でも焼ける「角窯」がドイツ人科学者G・ ワグネルによって伝えられました。窯は耐火レンガで築かれ、両側の焚口から石炭を 投入して加熱します。炎はトンネル状の窯を対流し、地下の沿煙道を通って煙突へ抜 けていきます。窯入れに2日、焚き上げに3〜4日、冷却に7〜10日かかりました。 だんご茶屋の村田さんは何代もつづく釜屋に生まれ、長年にわたり土管工場を経営していました。 倒炎式角窯は土管の出し入れが大変で、風の通る高台の方がよく焼けるため土管の材料を荷車 で上にあげ、焼き上がると坂道を降りて港まで運んでいました。常滑は谷川徹三(谷川俊太郎 の父)、平岩外四(東京電力会長)、伊奈輝三( INAX社長)、ザ・ピーナッツなど有名人を沢 山輩出しているとのこと。世界的陶芸家となった鯉江良二さんとは同級生で、無名時代に下宿 させていた所、家具や建具まで薪にして燃やされてしまったそうです。 卓上のきら星たち食文化ヒストリアン 英国骨董おおはら大原千晴大原千晴★157裸足の農婦たち卓上のきら星たち食文化ヒストリアン 英国骨董おおはら大原千晴大原千晴★157裸足の農婦たち 70 まずは、絵を御覧ください。描かれた年代は1859年、明治維 新(1868年)の直前です。場所はパリからさほど遠くないフラ ンスの農村。麦の刈り入れ後の畑で「落穂拾い」を終えた農婦たち が家路につく様を描いています。「落穂拾い」とは、刈り入れ後の畑 に散らばっている麦の穂を拾い集める作業のことです。中世以来農 村で、一種の相互扶助的な慣習として、特に貧しい家の農婦たちに 認められてきた仕事(権利)です。 この時代フランスでは鉄道が発達し 始めます。これを利用して画家たち は、パリから近郊の農村に写生の旅 に出るようになる。それ以前の時代 に比べれば、はるかに容易に、農村 で実際に農作業を行う農民の姿を間 近にスケッチできるようになった。 なので、描かれた農民の姿にはリア リティがあると見ていいでしょう。 ここに掲載しているのは、絵画の一 部分です。鑑賞の対象としてではな く、歴史的な史料として見て頂くた めですので、ご容赦ください。 注目すべきは「農婦たちの足元」。靴を履いていません。裸足(は だし)です。この時期に描かれた「麦の刈り入れ」と「落穂拾い」 の様子を描いた絵に登場する農婦たちは、その大半が裸足です。「麦 の刈り入れ」をする農婦たちは、「落穂拾い」の女性たちとは違って、 特に貧しい農婦ではなく、真っ当な農婦たちです。彼女たちもまた 裸足で農道を行く姿で描かれています。要するに、農婦たちは一般 に、ふだんから裸足で過ごしていた。実際、様々な絵に「裸足の農 婦」の姿が描かれています。では、なぜ、裸足なのか。一言で言え ば「当時のフランス農民は貧しか った」からです。明治維新(1868 年)当時、フランスの全人口の約 %は農民です。その大半はお世 辞にも豊かとは言い難い暮らしぶ りでした。この時代、「フランス人 の7割すなわち国民の大多数は貧 しかった」ということです。 「まさか 」と思われるでしょうね。パリでは印象派の画家達が 活躍し始め、黄金のベル・エポック時代の直前という時期なのに? そうです。ただ印象派にしてもベル・エポックとして語られる世界 にしても、その大半は「花のパリ中心の世界」です。そこで語られ る「花の都パリ」というイメージが強すぎるのです。一方、フラン スと言えば昔から「農業大国」と言われます。なんたってフランス 料理の本家だし、各地方の豊かな農産物があってこそパリの美食も 成り立つ、そんなイメージがあります。当然地方の農家も、日本に 比べれば、さぞ豊かな暮らしを営んできたに違いない。多くの人が !? そういう印象を抱いていると思います。私自身初めてフランスの田舎の光景を見 た時、大地の地味の豊かさを感じさせる風景の美しさに感動しました。イギリス からドーバー海峡をフェリーで渡り、カレーからパリまでの急行列車。イギリス の田舎の光景とはまるで雰囲気が異なる景色に驚き、車窓にへばりついて、美し いフランスの田舎の景色に見とれていたことが思い出されます。 しかし、です。1850年頃に至るも、フランスの農村は貧しかった。これは 否定することができない歴史的な事実です。では、どれくらいの貧しさだったの か。具体例を挙げながらお話してみましょう。地方によって大きな差がありますが、 次のような話がいろいろあった、という例としてお読み下さい。 中世以来、農家では少なくとも豚と鶏を飼うのが当たり前でした。しかし、 世紀後半には、半数近くの農家が豚を飼う余裕がなかった。なぜか。人が食べる ものを確保するのがやっとで、豚に食べさせる飼料を用意できない農家が多くあ ったからです。豚を飼っている農家では、冬に処理解体して保存の効くハムやソ ーセージ作りに励みます。しかし、その大半は現金収入確保のため、市が立つ 近 19 郊の町で売るために大切に保存され、自らの食卓にこれが登ることは稀でした。 鶏の卵もまた貴重な現金収入源でした。従って、大部分の農家の食事は、基本「ベ ジタリアン」といっていいほど穀物と野菜中心。日々の料理は、野菜を大鍋で煮 る「ごった煮」が日常食でした。そこに僅かに ベ 20 ーコンの脂身を入れる。多くの農家では、豚の脂 身を袋に入れて、野菜のごった煮の鍋に吊るし入 れておきました。なぜ「袋に入れて吊るし入れる 」 19 のか。袋の中の脂身が僅かでも残っていれば、次 の日のごった煮にも、同じ袋を吊るし入れていた からです。袋の脂身が完全に溶けて無くなるまで、 何日でも同じ脂身の袋を使いました。ごくごくま れに牛肉が出されました。しかしこれは、年老い て農作業の役に立たなくなった老牛を処理解体し た肉です。干からびたように固く、味わいに欠け たため、歓迎されませんでした。 パン焼きには大量の薪を必要とするため、村の共同窯で、その地域の豊かさ(貧 しさ)に応じた頻度で焼かれました。それぞれの家でパン生地を作り、これを共 同窯に持ち込む、という形です。そのパンも大麦とライ麦のものが大半で、灰色 のボソボソとしたものです。しかも、製粉の水準がよろしくなかったので、麦の ふすまやモミが混ざっていることも珍しくなく、食べやすいとは言い難い代物が 多かったようです。そのようなパンでさえ、一部の地域では「パンは祝祭日の贅沢」 と言われていたほどです。様々な麦は茹でて麦粥として食べるのが日常で、それ が主食といえば主食ということになりそうです。場所によっては蕎麦粉のクレー プ。間違っても「おしゃれな素朴な味わい」などではなく、貧しさの象徴であっ たことをお忘れなく。小麦の白いパンは、農村部では世紀末から世紀初頭に 至って、ようやく日常化し始めます。野菜は家の周りに植えたキャベツなどの基 本的な葉野菜やニンジンやジャガイモが中心です。それも質の良いものは近郊の 市で売り、自分たちはキズ物を食べるのが一般的でした。また、都市で人気が出 始めたカタツムリを庭で育て、食用ガエルを養殖する農家が登場するのもこの頃 です。どちらも専業農家が出始めます。 意外なのは、農家の食卓での飲み物。大半の地域はワイン産地ではなかったので、 フランスの農家と言っても、農家の食卓の飲み物は水が基本でした。鉄道の発展 と共に徐々に産地からのワインが届き始めるようになると、これを水で薄めて飲 むようになっていきます。乳牛を飼う余裕がある家であればミルクやチーズと な 70 りそうですが、これまた現金収入のために近郊の村や町に売りに行く大切な商品 だったので、バターでさえ食卓では大切に消費されました。力のある農婦は重 い 15 ミルクを担いで、近郊の街まで歩いて売りに行きます。ミルクを撹拌してバタ ー 16 19 を作るのも農婦の仕事でした。地域によってはエール(ビール)作りも農婦の仕事。 こうした農家では、たくましき「肝っ玉母さん」の発言権が強くなったこと、言 うまでもありません。 この時代フランスでは急速に産業革命が進展し始めていました。イギリスに遅 れること約年。ようやく農村も本格的な貨幣経済圏に突入し始めます。それま で自給自足的な環境で、貧しいながらも飢饉でもなければそれなりに安定してい た農村の暮らし。産業革命の進展で、それまでの基盤が失われ始めた結果、農 民 19 がむしろ以前よりも貧しくなり始めた。そのため、以前ならば自分たちで食べて いた豚肉のベーコンやハム、家の周りで栽培していた季節の野菜を、現金を得る ために売るようになっていきます。自分が育てたものを自らの食卓ではなく、商 品として売る。その結果、当時の農家の食卓、すなわち、フランス国民の大多数 の食卓は、ある意味「中世の農民と大差ない 状態」でした。すなわち「貧しさゆえのベジ タリアン」です。これは決して大げさな表現 ではありません。〜世紀の農村を描いた 絵画を見れば一目瞭然。世紀中頃に畑仕事 で使われていた農具は中世の農具と大差あり ません。種まきのやり方も畑の鋤入れも、最 も大切な麦の収穫の仕方も刈り入れに使う道 具も、中世とほぼ同じです。現実の農作業と農民の暮らしを基準に考えれば、明 治維新当時のフランスは「豊かなる農業大国」などとは到底言えない状況でした。 これまで述べてきたことが、当時「欧州の中でも豊か」と言われていたフラン ス農民の食生活の実情です。フランス以外の欧州諸地域の農民は、更に貧しい生 活状況でした。だからこそ、この時代、驚くべき数の欧州諸国の農民が南北アメ リカをめざして移民していくことになったのです。世紀中頃からパリのグルメ 文化は「世界に冠たるフランス料理」へと大きく羽ばたき始めます。しかし、こ れも、大地を耕して穀物や野菜や果実を実らせ、一方で豚や鶏やカタツムリを育 てる農民がいたからこそ達成できたもの。それなのに当の農民たちは、「麦のお粥」 に「野菜のごった煮」や「大麦&ライ麦パン」で日々を送りながら、農婦の多く は裸足で農作業に励んでいたのです。この落差こそが、移民先で、可能な限り肉 を多く素材とする新たな食文化を産み出すことにつながっていきます。 フランスの農民は、北米カナダ(ケベックやオンタリオ西部)、アメリカ合衆国 (ニューイングランド地方、ニューヨーク、ルイジアナ州など)に多く移住し、そ の移住先で、今に伝わる興味深い食文化の足跡を残しています。それにしても、「フ ランス料理」という言葉が使われる時、国の総人口の圧倒的大多数を占めていた 農民の食生活については「ほぼ無視」というのも、いくらなんでも、ではないで しょうか。なので、ひとこと言いたくなった、という次第です。 やきもの散歩道の路地の突き当り。 Cafeギャラリー nuu秘密の花園のようなcafeギャラリー nuu。 築 10 0年の古民家をセルフリノベーションした空間にカフェ、ギャラリー、和裁教室、和裁教室では、自分の好きな 着物ショップがあります。店主は長年和裁をしてきた方で、着物をふたたび身近なものに着物をつくることができます。 したいという思いから 2011年「 nuu」を開店したそうです。 カフェはいまシェアキッチンのスタイルで運営され、いろいろな料理人の方々が 入れ替わりで料理やおやつを提供しています。 カフェはいまシェアキッチンのスタイルで運営され、いろいろな料理人の方々が 入れ替わりで料理やおやつを提供しています。 2階のギャラリーでは、こぎん刺しハルコギの展示と ワークショップがひらかれていました。青森の刺し子 を用いた半襟、鼻緒、帯留、ピアスなどが並び、自 分なりの着物コーデを楽しむ方が集いました。 知多半島では平安時代からの窯跡が 1000カ所以上見つかっています。なだらかな丘陵と豊富 な陶土が窯場に適していたのです。室町時代になると大きな甕や壺が作られ窯場は海に近い常 滑に集約されていきました。甕や壺は水運で全国に運ばれ、東北は平泉、関東は鎌倉を中心 として東北各地や東京、千葉、埼玉、群馬、長野、山梨にまで古い常滑焼が出土します。 代忠窯では、大型の「両面焚倒炎式角窯」を店舗に利用しています。窯築職人平野昭二氏が昭和47年に築窯し10年ほ ど使われました。内壁には食塩釉によって深いツヤがでています(食塩釉は焼成時に塩化水素を発生するため、今はほぼ使 われません)。土管を焼成する際は、太さ一尺の土管の中に細い土管を何本も重ね、それを 3段に積んで一度に 200本以 上も焼いたそうです。近代的な土管は 「日本の灯台の父」といわれる英国人技師リチャード・ブラントンの要請で、明治の常 滑焼を大きく発展させた鯉江方寿により頑強な真焼(まやき)の土管が開発されたといわれます。 やきもの散歩道にある「石水窯」の稲葉安信さんは、鎌倉時代からつづく古常滑を再現するため、自作した穴窯 を使って陶器を焼いています。製材時にでる廃材を利用し、1回に 20トンもの薪を燃やし焼成するそうです。穴 窯は地面のゆるい傾斜を利用し、耐火煉瓦などでドーム状の屋根をつくり煙突につなげます。稲葉さんは古くから 続く急須の窯元に生まれ、急須づくりにも卓越した技能をもっています。 常滑の陶芸家の多くはガス窯や電気窯を利用していますが、穴窯は効率が悪くコントロールも難しい反面、薪の灰 がかかることで計算できない自然釉の美しさが現れ、800年以上の前の古窯を彷彿とさせます。 窯です。全長22m、最大幅9窯です。全長22m、最大幅9 石水窯の近くに巨大な登窯(陶栄窯)が残されています。 複数の窯元が共同で使ったもので、明治 20年頃の築 6m、8つの焼成室をもち、 . 各窯元が焼成室をローテンションしたそうです。最盛期 の常滑にはこの規模の登窯が 60基以上もありました。 常滑に登窯を導入したのは鯉江方救・方寿親子といわれ、 焼き締まった炻器質の「真焼け」の生産を可能にしました。 いちき橋から見た切通しの新道。昭和初期は海まで製陶工場が並 び、焼き上がった土管が積まれています。荷物を運ぶのは牛車です。 写真集 なつかしき常滑(常滑郷土文化会つちのこ刊)よりいちき橋から見た切通しの新道。昭和初期は海まで製陶工場が並 び、焼き上がった土管が積まれています。荷物を運ぶのは牛車です。 写真集 なつかしき常滑(常滑郷土文化会つちのこ刊)より いま考古学会では、大きな甕や壺が常滑からどのように運ばれたかが議論されています。 日本の全国的物流が盛んになったのは、江戸時代に千石船のルートが確立してからとい うのが定説でしたが、鎌倉時代からすでに海や川を利用した水運ルートによって、物や 人が大量に行き来していたということが常滑焼の出土から分かってきました。 MEISTERSTRASSESHOWCASE FOR CRAFTSMANSHIPAUSTRIA・JAPAN2024年11月6日 オーストリア大使館公邸 オーストリアと日本の優れた工芸品を紹介する展覧会が、オーストリア大使館公 邸で開かれました。インテリア素材、陶磁器、宝飾、香水などの伝統をふまえつつ、 新しい時代のクラフツマンシップによって創造されたコレクションです。 ロブマイヤーの照明器具「スパーク」。 セラミック工房Karakは、オース トリアの西端フォアールベルク州に あります。陶芸家マルタ・ラウシュ・ デベベックさんとマーティン・ラウシ ュさんが開発した「RakuTiles」は、 日本の楽焼に発想をえたインテリア タイルで、成形から柄のプリント、 焼成までを手作り。2回目の焼成 は耐火服を着たクラフトマンが楽焼 のように1枚ずつ焼いています。 MEISTERSTRASSESHOWCASE FOR CRAFTSMANSHIPAUSTRIA・JAPAN2024年11月6日 オーストリア大使館公邸 オーストリアと日本の優れた工芸品を紹介する展覧会が、オーストリア大使館公 邸で開かれました。インテリア素材、陶磁器、宝飾、香水などの伝統をふまえつつ、 新しい時代のクラフツマンシップによって創造されたコレクションです。 ロブマイヤーの照明器具「スパーク」。 セラミック工房Karakは、オース トリアの西端フォアールベルク州に あります。陶芸家マルタ・ラウシュ・ デベベックさんとマーティン・ラウシ ュさんが開発した「RakuTiles」は、 日本の楽焼に発想をえたインテリア タイルで、成形から柄のプリント、 焼成までを手作り。2回目の焼成 は耐火服を着たクラフトマンが楽焼 のように1枚ずつ焼いています。 木工家ステファン・ノップさんの作品は、 樹齢200年以上の木の塊を削り出し、 その表面を1000℃を超えるバーナーの 火で焼いてからブラッシングした日本の 焼き杉のような仕上げが特徴です。テ ーブルやオブジェなど世界中の建築家、 インテリアデザイナーから評価されてい るそうです。 ▲ 日吉屋(京都)の和傘やシェード。 ヨゲシュ・クマールさんの香水工房 YogeshParfumsは、個人特有の香りを分析してから、 その人の長所を引き出す香水をオーダーメイドするというユニークな工房です。企業や組織を 表現する香水の調合も行っていて、今回のために作ったオーストリー大使館はじめオーストリア 銀行、ウィーンアートギャラリーの香りなどが展示されました ▲ 装飾が見事な R. Kappellerのナイフ。 ▼金沢漆器の能作は加賀蒔絵の漆器を展示。 展覧会で驚いたのが、陶芸家ジョセフ・ヴィーザーさんの作品でした。ヴィーザーさんはわずか12歳で小型シャフトストーブによる焼成に挑戦し、以来、 陶芸家や技術学校で学びながら、様々な窯を自作してきました。日本古来の穴窯(登り窯の原型)を築窯すると、薪を使って備前や信楽など日本の古 窯からインスピレーションを得た作陶を続けています。まるで日本の陶芸家が作ったと思わせますが、ヴィーザーさんは今回初来日とのこと。オーストリア・ 日本の文化の架け橋といえる作品と感じました。 SPACEとこなべ 登窯の近くにある「SPACEとこなべ」は焼物工場をリノベーションした常滑焼のショップ。代表の杉江恵子さんがセレ クトした 25名以上の作家の作品がならびます。常滑名産の急須も多く扱っていて、著名な作家から若手まで価格帯 も様々な手作りの急須が見られます。「常滑の特徴は特徴がないこと」と杉江さん。海に近く風通しのいい土地柄から か歴史ある窯業地としてはとても開放的で、他からやって来た若手作家も分け隔てなく迎える土壌があるそうです。 常滑の伝統的な急須は、胴体、蓋、注ぎ口、取っ手をロクロで作るもので、その技法を知らないと作れないそうです。 急須づくりは江戸後期から始まり、杉江壽門、片岡二光によって朱泥の赤い急須が作られ、明治 11年には鯉江方寿 が中国の陶芸家 金士恆(きんしこう)を招聘して、中国のタタラ技術を用いた急須づくり(パンパン製法)を伝えました。 その技法は山田常山、山田陶山などに伝わり、3代 山田陶山さんから若手陶芸家への伝承が試みられています。 鯉江 廣 あけぼの彩鯉江 廣 あけぼの彩 常滑駅の観光案内所に併設されたギャラリー ceraでは、鯉江廣さんの作陶展が開かれていました。常滑産の朱泥土を いぶし焼成した黒くしまった母体に、星屑のような「あけぼの彩」が施された茶注は、日本工芸会と飛鳥クルーズのコラボ レーションに選定され、豪華客船 飛鳥Ⅱの船内に展示されています。 あけぼの彩輪形文鉢 写真集 なつかしき常滑(常滑郷土文化会つちのこ刊)より 大正時代の常滑の港。うず高く積まれた土管や甕を、人力で団平船に 載せ出荷していました。常滑の焼物は平安時代から水運によって各地に 運ばれていました。 常滑旧市街の高台からは、伊勢湾がよく見渡せます。常滑焼を支えた海運 写真集 なつかしき常滑(常滑郷土文化会つちのこ刊)より 大正時代の常滑の港。うず高く積まれた土管や甕を、人力で団平船に 載せ出荷していました。常滑の焼物は平安時代から水運によって各地に 運ばれていました。 常滑旧市街の高台からは、伊勢湾がよく見渡せます。常滑焼を支えた海運 ▲江戸から昭和まで伊勢湾・大阪湾の物流をになっ た団平船。熊野から燃料の薪を運んでいる所。 廻船問屋瀧田家は、明治時代まで廻船業を営んでいた瀧田家の1850年頃に建てられた邸宅です。幕末には 4艘 の船を所有した常滑を代表する船持で、明治になると木綿問屋として成功しました。日本の映画女優第一号といわれ る花柳はるみの嫁ぎ先で、娘の瀧田あゆちは東京大学卒業後、日本航空広報課長となり日航初の女性部長に昇進。 時代をひらくキャリアウーマンとして注目されました。晩年は常滑沖の中部国際空港の招聘に尽力します。 常滑は尾州廻船の湊のひとつで、瀧田家が所有した 弁才船は 800石積クラスの大型船でした。常滑焼 の大瓶や壺のほか、知多晒、岐阜の傘、伊勢茶など を江戸へと運搬していました。瀧田家に残る古文書は、 伊勢湾の海運を知る貴重な資料として研究がすすめ られています。 健康をデザインする2025年はひとつのサイクルが終わる一年。 新年を迎えようという時に「終わる」だなんて…という感もございますが、2025年世の中に流れるエネルギーは「9」。 完結、習得、ひとつのサイクルが終わりを告げる数字です。 2025年、世界では不要なものは徐々に終結を迎える、というのが数字の教え。2024年に最高潮に達したエネルギーによっ て果実は熟し、収穫されました。残った果実や枯れ葉がいくらかあるものの、次のサイクルのために一旦すべてをそぎ落とし、 リセットして新しいエネルギーを迎える準備に入る。そんなイメージの1年です。 エネルギッシュだった 2024年から一転、2025年は表面的にはエネルギーが落ちついて地味な印象もありますが、曖昧なも のは淘汰され、本当に大切なものが残っていく、ある側面での厳しさがとても明確になるとも言えます。 世の中全体の空気とはいえ、個人レベルにもそのエネルギーは多かれ少なかれ関わります。終わらせるものは潔く完結し、終 わるに終われない、辞めるに辞められない、切るに切れないなどのものは 2025年のうちに終結するよう、徐々に手放していき ましょう。“潔さ ”は大切なポイントです。 34時間目また、ここまでの9年間で学び続けてきたことは、2025年でいったん一区切り。次のステージへ進むべく、学びをさらに深め、 写真&文その知識や知恵を研ぎ澄ます時期を迎えます。 大吉朋子 とっておきの休み時間 2025年のパーソナルイヤーナンバーは? この時期は、やはり新年のエネルギーに注目してしまいます。世の中の動き、自分 のテーマ、世の中と自分との兼ね合いなど。すでに年のエネルギーは移行し始めて、 だいたい2月頃にかけて切り替わっていきます。 数字はあくまでも参考といいながら、毎年の様子を眺めていると、それなりに年の エネルギーに添って世の中も動き、自分自身もそうであることに気がつきます。 数字占いではないため、あたるあたらないは別として、個々が持つその年のエネル ギーである「パーソナルイヤーナンバー」は、自分の今年のテーマを映し出しますから、 その視点で眺める新年は興味深いです。 「2025年のパーソナルイヤーナンバー」は、西暦の数字に誕生月と誕生日の数字を 足し、9以下の数字にすることでわかります。 例)2月14日生まれの場合/2025年 2+0+2+5+2+1+4=16→1+6=7 パーソナルイヤーナンバーは 「7 」 2025年「グローバルイヤーナンバー 9 」の、それぞれのパーソナルイヤーのテー マを簡単にまとめてみました。ご自身の誕生日から数字を計算してみてください。 2025年のパーソナルイヤーナンバー 「1」自己理解を深め、定めた方向へまっすぐ進み、学びを深め研鑽を積む。終わりと始まりが混在する1年。 「2」興味ある人、もの、事とのつながりが深まる年。一方で、それらに執着しすぎない意識を忘れずに。不調和を感じる関係は潔く手放すことがカギ。 「3」前向きな思考で、知りたい事はすべて知り、自由な発想で学びを深めることでクリエイティブも冴えわたります。 「4」計画的に学びマスターしていく年。考えすぎて頭でっかちにならないよう注意して。頭がいっぱいの時は瞑想や俯瞰して観察する意識に立ち戻りましょう。 「5」体の動きをマスターする年。意識的に行動を選び、無駄をなくします。ファスティングや断食で、体内の余分なものを手放しリセットするのもおすすめ。 「6」心の思いだけにとらわれず、直感も大事にしたい年。思いが強すぎる時は意識的にその思い(執着)を手放します。自分の心が平穏であることを優先して。 「7」独りよがりにならず、視座を高く持ち、発信をしていく年。世界に向けて自分の声を届ける、そのために必要なコミュニケーションを学ぶことも時には必要。 「8」パワフルな一年。多くのことが実現、達成され、エネルギーが満ち溢れる時。だからこそ、強欲にならず、賢い判断をしていくことが大切です。 「9」終わらせる年。2024年に多くの果実を収穫したことと思います。2025年は満タンになったエネルギーのリセット期間。不要なものは潔く終結、手放しを。 「5」体の動きをマスターする年。意識的に行動を選び、無駄をなくします。ファスティングや断食で、体内の余分なものを手放しリセットするのもおすすめ。 「6」心の思いだけにとらわれず、直感も大事にしたい年。思いが強すぎる時は意識的にその思い(執着)を手放します。自分の心が平穏であることを優先して。 「7」独りよがりにならず、視座を高く持ち、発信をしていく年。世界に向けて自分の声を届ける、そのために必要なコミュニケーションを学ぶことも時には必要。 「8」パワフルな一年。多くのことが実現、達成され、エネルギーが満ち溢れる時。だからこそ、強欲にならず、賢い判断をしていくことが大切です。 「9」終わらせる年。2024年に多くの果実を収穫したことと思います。2025年は満タンになったエネルギーのリセット期間。不要なものは潔く終結、手放しを。 数秘学を学び始めた頃は、数字と自分の人生はかみ合っていませんでした。あまり信用もしていませんでしたし。ただ、数年の経過を眺めていくと、だんだんと数字の教えに近 い歩みが目につくようになりました。そして意識しすぎることなく 「そんなものか」と、数字に抗うことなく生きてみると、あきらかに自然とそのサイクルに人生が進んでいると、 あとから気がつきます。数字が道しるべとなるまでにはしばらく疑って見ていたものですから、いまだに不思議だと思います。だれかの何かのヒントになればうれしいですが。 『ひろしま国際建築祭 2025』 記者発表会 2024年 11月 8日 国際文化会館(東京・六本木) 2025年にひらかれるひろしま国際建築祭の記 者発表会が、前川國男、坂倉準三、吉村順三、 3氏共同設計の国際文化会館で行われました。 「ひろしま国際建築祭」は建築で未来の街をつくり、こどもの感性を磨き、地域を活性化させ、地域の“名建築” を未来に残すことをミッションとした建築祭で、2025年から 3年に一度の開催を予定しています。 初回は2025年10月4日〜11月30日まで、尾道市と福山市を中心に「尾道市立美術館」、「ONOMICHI U2」、 「LOG」、「ふくやま美術館(市民ギャラリー)」、「iti SETOUCHI」、「神勝寺 禅と庭のミュージアム」など10以上 の会場でひらかれ、展覧会、見学会、トークイベント、映画上映会などを通して、建築文化の面白さや奥深さを伝 えます。シンボルマーク、ロゴタイプのデザインは、原研哉さんです。 尾道市立美術館 写真提供 / 尾道市立美術館 神勝寺 禅と庭のミュージアム(無明院) 写真提供 / 神原・ツネイシ文化財団 ふくやま美術館 ©福山観光コンベンション協会 記者発表では、総合ディレクター 白井良邦さん(神原・ツネイシ文化財団理事 /慶應義塾大学 SFC特別招聘教授) とチーフキュレーター 前田尚武さん(神原・ツネイシ文化財団主任研究員/ 京都美術工芸大学特任教授)が登壇し、 建築祭の概要や目的を説明しました。 『ひろしま国際建築祭』の目玉企画のひとつ「ナイン・ヴィジョンズ:日本から世界へ跳躍する 9人の建築家」(尾 道市立美術館)は、日本人建築家9名が受賞したプリツカー賞に焦点をあてた展覧会です。 受賞者のひとり伊東豊雄さんと、白井良邦さんによるトークセッションがひらかれました。 1964年東京オリンピックが開かれた時、東京大学工学部建築学科の学生だった伊東豊雄さんは瀬戸内周辺を一 人旅しながら丹下健三の広島平和記念資料館や今治市役所をはじめ前川國男などの建築をめぐり「戦後の現代建 築は瀬戸内から始まった」と感じたそうです。そして今もそのエネルギーは続いていて、尾道に復元される予定の丹 下健三邸についても、学生時代に外から見てプロポーションの本当に綺麗な木造住宅だったと印象を話されました。 その後伊東さんは菊竹清訓建築設計事務所の所員として大阪万博で丹下健三さんと関わっていくことになります。 ■日本はプリツカー賞受賞者最多の国 伊東さんは日本人建築家にプリツカー賞受賞者が多い理由として、建築家のつながりや師弟関係を家系図のように 辿れる日本独特の環境をあげ、ライバルであっても互いに認めあい人を育てたことがとても大きいと語りました。もう ひとつは日本の建設会社、職人、技術者が優秀であること。海外の建築家が日本に来ると、こんなに早く素晴ら しい建築ができるのかと感激するそうです。そのおかげで随分得をしていると伊東さんはいいます。 ■「みんなの家」みんなの力でひろがる 伊東豊雄さんといえば、東日本大震災をきっかけに東北各地に建てられた「みんなの家」が知られています。プリツ カー賞の審査委員会でも「建築家の社会的責任感の体現」と高く評価されました。伊東さんいわく、みんなの家は 東日本大震災のさいに土木関係者はすぐ呼ばれるのに建築家は何故か呼ばれないという疑問からスタートし、集ま ったり食事をするぐらいの小屋だったら僕らでお金を集めて建てられるのではという発想から産まれたそうです。 その後、熊本地震では県内に100棟以上建てられ、今は尾道「百島みんなの家」など被災地以外にも建てられる ようになりました。災害によってコミュニティーが分断されていくなか、人々が日常から顔を合わせたり、子供が集ま って勉強する場所がとても大切と伊東さん。能登半島地震で被災した珠洲市や輪島市でもクラインダイサムアーキ テクツ、o+h(大西麻貴・百田有希)、EIKA studio(榮家志保)などが参加したプロジェクトが進行中です。 世界最大の自動車会社として知られるトヨタグループの原点には、日本の発 展を支えた「織機」があります。名古屋市西区のトヨタ産業技術記念館は、 母の機織りから始まった車づくり トヨタ産業技術記念館(名古屋市西区) 創業者豊田佐吉が明治 44年に建設したノコギリ屋根煉瓦造りの工場を活 用した、トヨタグループの成り立ちを紹介する施設です。 取材・撮影協力 Hiroki Mori 豊田佐吉 (1867〜 1930) ▲ 観光名所をめぐるメーグルは、燃料電池バス トヨタ SORAを使用。 記念館ロビーで来場者を迎える巨大な「環状織機」は、明治 39年 豊田佐吉によって発明され「夢の織機」とい われました。数千年にわたり布は往復運動によって織られてきましたが、環状織機はシャットルの回転運動によっ て超幅広の布を少ないエネルギーで静かに織ることができ、世界各国で特許を取得しました。 ▲ 地面に座って織る「腰機」。 ▼ 腰帯でタテ糸を引っ張る「地機」。 記念館は繊維機械館と自動車館に分かれていて、繊維機械館入口には豊田佐吉が追い求めた織機の到達点ともいえる 「G型自動織機」が展示されています。タテ糸にヨコ糸を通す基本的な布の織り方は、5千年以上前から変わりません。 それをいかに早く、楽に、省力化するかを人類は追求し続けてきました。地面に座ったまま織る腰機(こしばた)から 木製の骨組みをもつ地機(じばた)、腰帯を使わない高機へと織機が発展する過程を見ることができます。 豊田佐吉の生家(静岡県湖西市)は、 豊田佐吉記念館として公開されています。 豊田佐吉は時代が江戸から明治に変わる1867年、山口村(現在の静岡県湖西市 )に産まれています。父・伊吉 は腕のいい大工で、母・ゑいは夜遅くまで機織りをして家計を支えました。佐吉は少年の頃から大工仕事を手伝い、 壊れた高機を直して母に感謝され喜びます。村の農家では機織りが盛んで、これを効率化すれば女性の負担を軽 減できると考えた青年期の佐吉は、織機の改善に熱中しました。明治には織機の発明に取り組む大工が沢山い て、明治 6年フランス・リヨンに渡った京都・西陣の伝習生によってジョン・ケイが発明した「フライシャットル機構」 が伝わると、たちまち高機に組み込まれ「バッタン高機」(右)と呼ばれます。 「バッタン高機」は紐を引っ張ることでヨコ糸を巻いた杼(シャットル) が左右に走る仕組みです。明治 23年、豊田佐吉はそれをさらに進 化させた「豊田式木製人力織機」を発明し初めての特許を取得しま した。これは片手で筬を前後させると同時にシャットルが走る仕組み で、未経験者も容易に扱え作業効率を 4〜 5割も向上させました。 船ガラ紡。船ガラ紡。 記念館には日本人が独自開発した唯一の紡績機といわれる「ガラ紡機」(複製)が動態展示されています。明治 6年、 僧侶だった臥雲辰致(がうんときむね)は、綿花のかたまりから直接糸をつくりだす臥雲式紡織機(ガラ紡機)を発明。 第1回内国勧業博覧会で G・ワグネル(ドイツ人化学者)に称賛され最高賞を受けると、臥雲は「連綿社」を設立して 全国に広めました。綿花をつめた筒を回転させて撚りをかけながら上部のローラーで糸を巻き取る仕組みで、糸が太くな ると筒が持ち上がって回転が自動に止まり、糸が伸びて細くなると筒が下がる機構によって糸の太さをほぼ均一にします。 動力には水車を利用し、矢作古川では船に紡績機と水車を積み川の流れを利用した「船ガラ紡」が盛んでした。 手織り織機に限界を感じた豊田佐吉は、明治 29年日本初の動力織機となる「豊田式汽力織機」(左) を発明します。1名で 3〜 4台の運転が可能で、豊田式木製人力織機に比べ約 20倍の生産力を もち、ヨコ糸が切れたら自動で停止する装置などを備えることで品質の高い綿布が織れました。また 小規模の工場でも導入しやすいよう、フレームの大半は木製です。これに注目した旧三井物産は佐 吉に支援を申し入れ、販売契約を結ぶと共に中国へ綿布を輸出する井桁商会を発足します。 記念館の動力の庭には、1898年スルザー社 製の蒸気機関発電機が動態展示されています。 大正 14年に建てられた豊田紡績本社事務所 (現トヨタグループ館)。 豊田佐吉はさらなる研究をすすめ、明治 36年ヨコ糸を自動 的に補充する自働杼換 (ひがえ )装置を発明します。従来は ヨコ糸が切れるたびに織機を止めて人力で杼(シャットル)を 交換していましたが、これを自動にすれば一人で数十台の織 機を管理できます。しかし自働杼換装置を採用した工場で故 障が多発し、評価は芳しくありませんでした。佐吉は「創造 的なものは、完全なる営業的試験を行うにあらざれば、発明 の真価を世に問うべからず」という信念を固め、数百台の織 機を実際に運用しながら改良するため、明治 44年、現在の 記念館となったこの地に独立自営の豊田自動織布工場を設 立。無停止式自動織機の完成を目指しました。 G型自動織機の自動杼換装置。ヨコ糸が無くなった杼は自動 で排出され、カセットの杼が自動で供給されます。ヨコ糸を セットした杼をカセットに追加するだけで連続運転できます。 豊田佐吉最後の発明品となったのが大正 13年の「G型自動織機」です。高速運転を続けながら杼(シャットル) を自動で交換する自働杼換装置はじめヨコ糸やタテ糸が切れると自動停止する装置を備え、一人で 30〜 50台を 管理できました。記念館では G型自動織機の集団運転が再現され、天井のシャフトからベルトで動力が伝わり複 数の織機が同時に動く姿を見られます。この織機を完成にまで仕上げたのは、佐吉の長男・豊田喜一郎でした。 ▲平成 15年まで現役で使われた重量物運搬トロッコ。 ▼正確な位置に軸受穴を開ける 3軸同時中ぐり加工機。 豊田喜一郎は G型自動織機を量産するため、月産 500台をめざし豊田自動織機製作所刈谷新工場を新設。チェ ーンコンベアを使った組立ラインを整備し、装置の組付け、シャフトの組付けなどを分業した流れ作業によって、高 品質と量産の両立を目指します。喜一郎はこのときすでにトヨタ生産方式の中核となる「ジャスト・イン・タイム」を 実現していました。必要なだけ作られた部品が、組立ラインにタイミング良く供給され、手際よく組み立てられます。 複雑な柄が織れるジャカード装置を付けた 豊田エアジェットルームJAT710-J型。 ▲ 豊田エアジェットルーム JAT810-E型。 ▼ 豊田ウォータージェット織機 LWT810型。 現在の自動織機は、杼(シャットル)を使わず、空気や水の力でヨコ糸を飛ばす方法が主流です。豊田エアジェッ トルーム JAT810-E型は空気の力でヨコ糸を飛ばし、ガーゼタオルからバスマットまで多彩なタオル地を織れます。 豊田ウォータージェット織機 LWT810型は高圧の水でヨコ糸を飛ばすためナイロン、ポリエステル生地に最適です。 これらの織機は豊田自動織機(本社・刈谷市)で製造されています。同社の主力製品は現在、フォークリフトや無 人搬送車、エンジンなどですが、トヨタグループのルーツである「織機」を社名に残し続けています。 Time & Style Exhibition Kyoto2024年11月29日〜12月2日 仁和寺(京都市右京区) Time & Style Exhibition Kyoto2024年11月29日〜12月2日 仁和寺(京都市右京区) 平安時代に創建された京都・仁和寺で、Time & Styleのエキシビションが 4日間にわたり開催されました。 会場には御所庭園を臨む「宸殿(しんでん)」と「黒書院」があてられました。仁和寺は仁和 4年(888)創建の 真言宗御室派総本山で、皇室出身者が代々の住職(門跡)をつとめ門跡寺院として最高の格式をほこりました。 宸殿は桁行 19.7mの大きな寝殿造で、明治末〜大正時代に数々の寺社を再建した建築家亀岡末吉の設計です。 Time & Styleの家具、照明と寝殿造りが調和して、幻影的な空間のなか現代に蘇る平安の御代を彷彿とさせました。 Time & Styleの新作をはじめ Claesson Koivisto Rune(スウェーデン)や Peter Zumthor(スイス)によるコ レクション、OEO Studio(デンマーク)がデザインした期間限定レストラン「Noma Kyoto」に提供した作品など が一堂に会しました。Time & Styleexhibitionは福岡、熊本、広島、名古屋、金沢、安曇野、仙台などその 地域の歴史や文化を感じられる会場でひらかれ、家具と空間の様々な出会いを創造しています。 ▲自動車の基礎となる材料開発のため材料試験室を建設。 ▼ エンジンの鋳造は特に難しく、500回以上失敗しました。 自動車館の入口には、豊田喜一郎が立っています。トヨタの自動車づくりは、喜一郎の秘密研究から始まりました。 昭和 4年、G型自動織機の先進性を認めた英国プラット社が特許権の譲渡を求めます。その契約のため渡英した 豊田喜一郎は、米国に立ち寄り自動車工場や工作機械を視察。これからは日本独自の自動車を作るべきと決意しま した。帰国した喜一郎は小型バイクモーター スミス・モーター・ホイールを密かに研究し、試作させます。 自動車の開発は社内外から反対されますが、喜一郎は重役を説得して昭和 8年、豊田織機製作 所内に自動車部を開設。翌年には A1型乗用車の試作に成功し、昭和11年 A型乗用車、GA 型トラックを組み立てるチェーンコンベア式組立ラインが完成します。その生産システムは「G型自 動織機」の発展型でした。母ゑいの機仕事を楽にしたいという佐吉少年の思いが喜一郎にひきつ がれ、日本の基幹産業となる国産自動車に結実したのです。 本日、南風なれども 深夜の霞が関を歩いていると、国交省はじめ霞ヶ関官庁街は煌々と灯 りをともしています。議員のために国会の答弁書を書いたり、委員会の 支度をしたり、予算案を策定したり……。今、官僚を志す若者は減って いて、ボロボロの庁舎で何十年もこき使われ、過酷な日々を支えるのは 国民の上に立つプライドだけというのは、いまどきでは無いですね。な ので大半は官僚一家の出身者で、国会議員同様に世襲化が進んでいます。 親世代が持つエリート意識を受け継ぎ、官僚に対する尊敬と特別待遇 を地方自治体や民間に求めるわけですが、自治省エリート出身の知事の ケースで明らかなように、県庁の職員にもそうした意識は薄らいでいて、 赤絨毯を敷いていない、車が玄関から遠い、更衣室が用意されていない、 といったどうでもいい事についつい怒鳴ってしまうわけです。 先の知事選での勝利は、死者をだすようなパワハラをして も SNS 次第で再選できることを証明して、全国の官僚出身知事を安堵させたこ とでしょう。今後も無駄な税金をどんどん使われますが、それに口を出 さないのが日本国民のイキですね。国や自治体もそれは分かって搾取し 続けているのでしょう。 年末が近づくと元旦の能登半島地震と 、 1月2日に起きた羽田空港の 事故が思い出されます。2日の事故は、離陸のた め C滑走路に進入して いた海上保安庁機(みずなぎ1号)に、着陸し た JAL516便(A350 ー 900)が衝突した事故でした。能登半島地震の援助物資をピストン 輸送していた海上保安 官 5人が殉職されました 。 JAL機の乗員・乗客 その55 青山ナシヲ 30 20 47 には死者は出なかったものの 、 380名を超える人命が失われたかもし れない事故でした。調査は続行中ですが、中間報告は滑走路への誤進入 を防ぐための方策に重点を置いていました。実は誤進入は頻繁に起こっ ていて、その原因には羽田新航路があります。新航路によって年間発 着 3 枠が約万回から万回に増やされたものの管制官の数は一定に抑えら れ、オーバーワークが生じています。この事故の要因は誤進入した海上 保安庁機に目視や地上レーダーで気付けなかった管制官です。気が付い て JAL機に着陸のやり直しを指示すれば回避できました。 航空管制における管制官の指示は絶対で、ミスはありえない事が前提 です。今回も担当した管制官の実名は出ませんし、今のところ責任を追 求する気配もなく神域のように守られています。そもそも海上保安庁機 は緊急の災害対応をしていたのですから、その動きに注意するのが当然 ですが、指示通りに動く(動かない方が悪い)という管制官の思い込み と新航路の負担増が事故を招いたのでしょう。海上保安庁も航空管制官 も同じ国交省の所属ですから、責任は曖昧に済まされると思います。命 の危機にあっ た JAL機の乗客は置き去りにされた感があり 、 JALか ら一人一律万円 + αを補償されただけで、事故機の損 害 150億円は 保険が適用されたようです。 万一、羽田新航路の航空機が都心に墜落した場合、管制官のミスがあ ったとしても責任が問われることはないでしょう。その前提があるから こそ、管制官は旅客機に無理くりな指示を出せるのです。午後時ころ 羽田新航路への切り替え時間になると、もうすぐ着陸できる東京湾上空 の旅客機が、千葉・埼玉・東京都心を遠回りさせられています。管制官 は平気で不合理な決まりに従った指示を出せる人たちです。乗客や住民 はそうした人間に命を預けていることを自覚しないといけませんね。 東急 暮らしと街の文化-100年の時を拓く 2024年11月30日〜2025年2月2日 世田谷美術館 世田谷美術館は、桜台ビレジや宮崎台ビレジなど、東急の多 摩田園都市計画に参加した内井昭蔵氏の設計です。 世田谷術間では、2007年資生堂展をかわきりに、世田谷と縁の深い「企業と美術」を紹介する展覧会をつづけて います。今年は世田谷の路線・宅地開発を担ってきた東急が選ばれ「東急暮らしと街の文化―100年の時を拓く」 を開催中です。上は1923年、目蒲線の目黒〜丸子間開通時の丸子駅(現沼部駅)。左端が東急の五島慶太氏。 1932年の田園調布。1932年の田園調布。 1922年の田園調布駅。 1921年。宅地開発される前の田園調布。 東急といえば鉄道やバス会社のイメージが強く、展覧会場に も交通関連資料が沢山展示されていますが、大規模な都市 開発者としての東急をクローズアップした点がユニークでした。 東急の原点は渋沢栄一の「田園都市株式会社」にあり、田 園調布や洗足田園都市を開発するにあたり、その足となる鉄 道を計画しました。渋沢は関西で宝塚など鉄道による宅地開 発に成功した小林一三(阪急)に助言を求め、小林が推薦し たのが鉄道省出身の五島慶太氏でした。五島氏は小林の手 法に倣い、鉄道の敷設と宅地開発を連動し東京南西部の開 発を進めます。大正 12年関東大震災によって多くの人が家を 失うと、被害の少なかった南西部の開発が加速していきました。 住宅は外壁に石綿スレート板を使った木造 乾式工法によって建てられる計画でした。 吉仁所邸は傾斜地を巧みに利用した設計で 外壁はスレート板をそのまま使っています。 住宅は外壁に石綿スレート板を使った木造 乾式工法によって建てられる計画でした。 吉仁所邸は傾斜地を巧みに利用した設計で 外壁はスレート板をそのまま使っています。 幻の「等々力ジードルンク計画」が目をひきました。萩出身の建築家蔵田周忠(く らた ちかただ)は日本最初の建築運動「分離派建築会」に参加し、1930年には 建築雑誌『国際建築』の依頼でワイマール共和政権下のドイツに渡り、バウハウス やグロピウス、ジードルング(住宅団地)を取材します。ラスキンやモリスの生活改 善運動の影響を受けた蔵田は、帰国すると等々力ジードルング計画を構想し来日中 のブルーノ・タウトに支援を求めました。計画ではタウトはじめ山口文象、山脇巌、 久米権九郎、土浦亀城、山田守、谷口吉郎、堀口捨己、前川國男など錚々たる面々 の住宅が建つ予定でしたが、蔵田による吉仁所邸はじめ 4棟で終りました。 東京南西部の宅地開発が進むと、東急沿線に沢山の画家、 文学者、音楽家、演劇人が暮らすようになります。画家・竹久 夢二、向井潤吉、宮本三郎、駒井哲郎、岡本太郎、建築家・ 内井昭蔵、 蔵田周忠、彫刻家・舟越桂、澤田政廣、写真家・ 桑原甲子雄、安斎重男、漫画家・長谷川町子などゆかりの作 品が展示されました。また多摩川園にあった「多摩川能楽堂」 にも触れていました。多摩川園は阪急・宝塚のように沿線住 民への娯楽の場提供を目的にひらかれ、温泉や少女歌劇団、 遊戯施設を揃え、その一画に能楽堂が設けられました。戦災 で都内の能楽堂が焼失するなか、戦後能楽復興の起点となり、 現在は東京南青山「銕仙会能楽研修所」に移築されています。 五島慶太氏ゆかりの作品も展示されています。多摩川園にあった「多摩川能楽堂」。 世田谷にあった竹久夢二自邸「少年山荘」。舟越桂さんや澤田政廣さん。ペザントチェアで知られる林二郎さんの工房は用賀にありました。 東京南西部の宅地開発が進むと、東急沿線に沢山の画家、 文学者、音楽家、演劇人が暮らすようになります。画家・竹久 夢二、向井潤吉、宮本三郎、駒井哲郎、岡本太郎、建築家・ 内井昭蔵、 蔵田周忠、彫刻家・舟越桂、澤田政廣、写真家・ 桑原甲子雄、安斎重男、漫画家・長谷川町子などゆかりの作 品が展示されました。また多摩川園にあった「多摩川能楽堂」 にも触れていました。多摩川園は阪急・宝塚のように沿線住 民への娯楽の場提供を目的にひらかれ、温泉や少女歌劇団、 遊戯施設を揃え、その一画に能楽堂が設けられました。戦災 で都内の能楽堂が焼失するなか、戦後能楽復興の起点となり、 現在は東京南青山「銕仙会能楽研修所」に移築されています。 五島慶太氏ゆかりの作品も展示されています。多摩川園にあった「多摩川能楽堂」。 世田谷にあった竹久夢二自邸「少年山荘」。舟越桂さんや澤田政廣さん。ペザントチェアで知られる林二郎さんの工房は用賀にありました。 Copyrigtⓒ 2024 Shiong All rights reserved 無断転載・複写を禁じます 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】