被災された方の生活を支える
〈令和6年能登半島地震災害義援金〉
(日本赤十字社)にご協力お願い致します。
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時空を超える美意識 不思議の国の三渓 Artists who portray new sense. https://collaj.jp/紅葉 2024 横浜の立役者 原三渓の築いた「三渓園」 二人の父をもつ原三溪原善三郎と青木久衛 レンガ造の山荘は伊藤博文によって「松風閣」と名付けられました。かつて高台からは富士山の手前に広がる磯子の浜が見渡せ、潮干狩りや海水浴場としても人気でした。松風閣は関東大震災によって倒壊し、今は展望台が設けられています。大正 5年には来日したインドの詩人ダゴール一行が横山大観のすすめで三渓園を訪れ、3カ月にわたり滞在しました。善三郎は庭造りを趣味として、横浜市野毛山の広大な自邸や故郷 渡瀬の神流川沿いに「天神山庭園」を遺しています。また実家の古建築(日本マイカ製作所)も現存します。 Vol.65 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ ひとりぼっちの帰り道暮れかかる空の上で月が歌っていた 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間33時間目写真&文 大吉朋子 2024年12月、世の中は「11(2)」のエネルギーが流れます。 「11」はスピリチュアルナンバーといいます。“スピリチュアル ”は言葉にするのが難しいですが、あえて言うならば「空」「宇宙」「大いなる世界」「自然」などの物質的な世界の外側にある世界。永遠に広がるスペースと、そのスペース全体を支配する力のある世界。それらの目には見えない世界とのつながりが色濃くなる時です。ヨガ数秘学では「11」を「2」と表すこともあり、「2」は物質的なつながりを表すのに対し、「11」は目に見えないものとのつながりを表します。 12月は、11月に始めたことが次へつながるタイミングで、それらのこととの “結びつき ”を深めていく時期となります。知るほどにネガティブなことが見えてきたり、疑う視点も出てきたり、多少の不安もあるかもしれません。ただ、それはとても自然なこと。無理やりなんとかしようとせず、大きな力に委ね、導かれることを感じて、流れに乗るようにしていきましょう。 「つながり」は強すぎても弱すぎてもバランスを崩します。適切なつながりを成立させるためには、自分という存在をしっかり地に根付かせ自律した存在であることが大切です。その上で、つながりを育み深めていくことで良いつながりとなって、次の世界へと進んでいきます。 忙しい、せわしない、と自分のことを二の次に、あれこれと慌ただしく過ごすのは年末恒例行事という方も多いかもしれません。どうやっても上手くいかないことや息詰まることがある時には、目の前のことから少し距離をとって、大いなる流れに委ねる感覚を思い出してみてください。また自然な流れとなっていきますから。 12月は「つながり」を意識する1ヶ月。 10歳の私が発見したこと。 私が小学生の頃、母は心理学の専門学校で非常勤講師をしていた。時々、学生のレポートを大量に持ちかえって自宅でそれらの採点をしていた。母は仕事中に話しかけると不機嫌になり怒るため、私は怒られないようにそぉっとその様子を眺めていた。何時間もの間、一人一人のレポートを読み、赤ペンでチェックを入れ点数を書き込んでいる。赤ペン先生が流行っていた(?)時でもあり、母のその姿は本物の赤ペン先生が目の前にいるみたいで、妙なワクワク感があり、私はそれらのレポートに何が書かれているのかを見たくて仕方がなかった。 ある日、採点が終わったレポートの束がテーブルに置かれていた。赤ペンの文字と点数の数字。私は無性にそのレポートを見たくなり、恐る恐る母に見てもいいかを聞いてみた。すると、あっさり「いいわよ」と返事がかえってきた。 小学生の私にはすべてのレポートを読むことはできなかったし、書かれている内容を理解するのも難しかった。ただ、子どもでは知る由もない大人の世界を垣間見たようで、なんだかうれしかった。そして、それらの内容は、よくわからないなりにも何か特定のことが書かれているとだんだんわかってきた。それは、人と人との関係について書かれていた。人が関わる時、ある状況によって、その人たちには問題が起きているということ。その問題を解決するには何が必要で、どうするとよいのかなど、学生それぞれの考えが作文となっていた。さまざまな表現で解説されていたけれど、それらの現象がぼんやりとした景色として頭に浮かんできた。ただ、私にはその見えてきた景色を表現する言葉が見つからず、しばらくモヤモヤしていた。そして、母に聞いてみた。「人が人に寄りかかっていて、その寄りかかっているのが寄りかかりすぎていて、それでその人達には何か問題が起こ っているんだよね? これは大人の言葉で何て言うの?」と。母は、「いぞん、っていうのよね」と短い返事をしてく れた。 10歳の私にとって初めて聞く言葉だった。モヤモヤしていた事がそんなに短い言葉で表現されるのかと、大人の言葉を知った感動があった。そして、大人の世界では短い言葉に多くの意味が含まれていて、子どもの私の思考の中に広がっていた景色をさらっと諭してもらったような、なんだかひとつオトナになった気分。頭のどこかがパッと開いたような感覚があった。そして 「いぞん」というのは大きくなると、人に問題を起こすものなのだということを、小学生なりではあったけれどなんとなく理解し腹落ちした。 ある辞書には「依存=ある人や物と他の人の間柄で互いに頼り合う関係」とある。そして、「ある物事に依存し、それがなければ身体的・精神的な平常を保てなくなる状態」と書かれている。この言葉との出逢いは、私が「人」について興味を持つきっかけだったと思う。自分の外側の世界では想像もしないような事柄がたくさんあり、問題が起こるのにはそれ相応の “理由 ”があるのだと、子どもながらにとてつもなく大きな謎を知った感覚だった。 互いに頼り合う関係はごく自然なことのように思う。ただ良好な関係のためには「いぞん」が大きくなってしまうと難しくなる。そのためには…と、10歳の私にとって大きな発見をしたものだと、年齢を重ねるごとにそのときの体験がおもしろい記憶となって時々思い出される。レポートを読んでしまったのは良くなかったと思うけれど、35年以上前の出来事で時効になっているかしら、と。 高橋杏村「花卉図」 横浜一の富と社会的地位を築いた原善三郎は、明治 32年71歳で亡くなります。その跡を継いだのが、原富太郎でした。後に原三溪として益田鈍翁、松永安左エ門と並ぶ「近代三茶人」のひとりにあげられる富太郎ですが、益田と松永が明治の躍動期に自らの才覚で富を得たのに対し、富太郎は原家の婿になることで、その継承者となったのです。富太郎は明治元年となる1868年、岐阜の佐波村(現岐阜市柳津町)で庄屋をつとめる青木家に産まれました。遅く出来た長男の誕生に、父 青木久衛は大喜びします。神戸( ごうど)にある妻の実家は、南画家 高橋杏村で知られました。京都で中村竹洞の教えをうけた杏村は漢詩や書にも秀でて、晩年は門人 200人の私塾をひらていました。 月華殿は 1603年、徳川家康が京都伏見城内に建てた控えの間と伝わります。1918年に京都・宇治の三室戸寺金蔵院から茶室(現在の春草廬)とともに移築されました。崖に飛び出した懸け造りで、谷間の景色を美しく眺められます。 富太郎が産まれる直前に高橋杏村は亡くなりますが、祖父の血はしっかり受け継がれました。父久衛は新しい時代を生きぬく力を付けさせようと、後の衆議院議員山田省三郎や関西詩壇の重鎮 小川僧泰、師範学校の首席教師 安藤環といった一流の教師を村に呼び寄せます。日置江の漢学者 青木俊之助(東山)の私塾「三餘私塾」では漢詩を、大垣の元彦根藩藩校の侍講職 野村藤蔭の「.鳴塾」で歴史を学び、杏村の子、鎌吉(抗水)や兎吉(鉄嶺)から絵を習うと富太郎の作品は旧藩主に気に入られ献上するほどになりました。大正 3年、佐佐木信綱のすすめもあり、三渓園の高台に京. 燈明寺の三重塔が移築されました。1457年(室町時代)のもので、関東で最も古い三重塔になります。母の故郷 神戸の日吉神社には三重塔があり、富太郎はそれを見るのを楽しみにしていました。廃仏毀釈により解体を命じられますが、神戸の人々は塔にやぐらを組んで取り壊し中に見せかけ役人の目を誤魔化しました。そのとき富太郎にも、古建築を守りたいという思いが産まれたのでしょう。三渓園の建物は、三重塔が美しく見えるように計算されています。 Event Information 没後100年 中村 彝(つね)展-アトリエから世界へ . 2024年11月10日.2025年1月13日 茨城県近代美術館(水戸市) 茨城県近代美術館で水戸出身の洋画家 中村彝(1887〜1924)の没後100年展が開かれています。全国の美術館に収蔵される中村作品 120点を一堂に見られる貴重な機会です。中村彝は 37歳という短い生涯の間に、日本の近代美術史に欠かせない作品を遺しました。1909 年、第 3回文展に《巌》が初入選すると新進画家として注目され、多くの画友やパトロンを得ます。1911年には新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻のすすめで中村屋裏の画室に暮らし、まだ女学生だった相馬俊子の肖像を描きました。中村と俊子は特別な感情を抱くようになりますが、俊子はインドの革命家ボース(中村屋にカレーを伝授)と婚姻することとなり中村は悲観にくれます。1916年東京・下落合にパトロンたちの支援によりアトリエを新築し、1日中眺め続けたと伝わるルノワール《泉による女》など様々な画家のエッセンスを吸収した中村は、海外渡航経験がないとは信じられないほどエル・グレコ、セザンヌ、シスレー等の画法を自らのものにします。日本に入る情報が少ない当時、近代洋画がいかに発展したかを知るうえで、中村の作品は貴重なものなのです。 富太郎と屋寿子の結婚 明治 32年偉大な父が死去すると、原家の重みが富太郎にのしかかります。富太郎は原商店を合名会社に改組し、社員の成果に対して報奨金を与えるなどやるきを引き出す方策をすすめる一方、古い番頭には破格の退職金や年金、土地家屋を与え、勇退させることに成功しました。それに代わり横浜生糸検査所の高橋信貞検査部長を引き抜いて、善三郎にかわる生糸を見極める「目」としたり、東大、一橋、外語大、慶應、早稲田ほか、各地の蚕糸専門校の学生を積極的に採用し、外国語の得意な若者を欧米に派遣し、直接的な輸出の道をさぐります。 その昔六本木の交差点すぐの場所にあった「コーシャのデリカテ ッセン」と母が呼んでいた店。子供心にミステリアスな雰囲気に包まれていると感じていた「コーシャ」という言葉の読み解きから始まった今回のミニ特集では、これまで4回にわたって、イベリア半島を拠点とするセファルディ系ユダヤ人の食文化を追いかけてきました。では「デリカテッセン」という言葉は、一体何を意味しているのか。欧米系の言語に少し通じている人なら、直感的に「なんかドイツ語もしくは東欧の言葉の響きだな」と思うはず。正解です。元々はラテン語で、やがてフランス語圏に入って、そこからドイツへ、これが最終的にアメリカ合衆国に至って「デリカテッセン」は大輪の花を開かせることになります。 ■デリカテッセン登場 フランス特にドイツ国境地帯のアルザス地方からシャルキュトリー(食肉加工惣菜店)の文化がドイツに入ります。フランスでは、冷製肉、チーズ、その他の厳選された調理済み食品を包括する形容詞として、d.licatesse(デリカテッス、おいしいもの)という語が使われていました。それがドイツ語圏に入って、デリカテッセンになったわけです。要するに「デリカテッセン」=「食肉加工品とチーズその他を並べているお惣菜屋さん」という感じです。ドイツで 最も古く、この名称が使われた店は、美食の都ミュンヘンで今も大繁盛し、長らく王宮御用達であった高級食料品店「ダルマイヤー」(Dallmayr、創業1700年頃)だったと言われています。 ■なぜ、ドイツが発信源だったのか ダルマイヤーは別格として、このデリカ テッセンと呼ばれる業態の店がドイツで流 行し始めるのは、 世紀の始め以降のことです。ドイツで当時この 業態の小店を続々と開き始めたのが、アシュケナージ」(Ashkenazi)と呼ばれる東欧系のユダヤ人たちでした。その少し前からロシア及び東欧圏で彼らに対する迫害が厳しくなり、これを逃れて多数のアシュケナージが現在のドイツ領域内に逃げ込んできていました。イベリア半島のセファルディとは全く異なる歴史文化背景で育まれたアシュケナージではありますが、彼らもまた、ユダヤ教の食の戒律カシュルートに従う人々であることに違いはありません。従って、大量に難民としてドイツ領内にやってきた同胞のためにも、彼らの食の戒律に従って処理されたコーシャの食肉と食材さらには伝統料 理を提供する店が必要とされたわけです。 にアシュケナージ系のデリカテッセンが急増するのは、そのためです。 ■移民の大波 迫害を恐れるアシュケナージたちの中には、当時欧州からの移民を広く受け入れていた新興国アメリカ合衆国をめざして海を渡る人々が出始めます。「アメリカでは庶民でも好きなだけ毎日のように肉を食べることができる!」北欧、イタリア、アイルランド、ドイツ各地の貧しき農民たちが、そこにアシュケナージたちも加わっ 19 19 世紀初め頃からドイツ て、続々とアメリカを目指して海を渡っていく。世紀半ばから世紀初頭にかけての数十年間の間に、文字通り「民族の大移動」と呼ぶにふさわしい数千万人に及ぶ人々が欧州を後にしています。 ■アメリカ特に N Y Cで花開いた経緯 ドイツで始まったアシュケナージ系のデリカテッセンという業態は、こうして欧州からの移民満載の船と共に米国に持ち込まれます。当時欧州各地からの移民たちは、ニューヨークという限られた地域内でも、その出身地別に言語や宗教を共にする者同士が集まって暮らし始め、ごく自然に「イタリア人街」や「ユダヤ人街」や「アイルランド人街」が形成されていきます。言葉を飾らずに言えば、いずれも食うや食わずの徒手空拳、手提げカバン一つでやってきた人々が大半です。そのため、これらの街は「貧しい人々が厳しい環境の中で明日を夢見て必死に暮らす街」そのものでした。彼らの住居はといえば、キッチンとトイレは共同が当たり前。シャワーなんて共同でもあるだけマシ。場所によっては部屋の暖房用の石炭ストーブの上で代わる代わる湯を沸かし簡単な料 19 理をしながら、大部屋をベッドごとにカーテンで仕切っただけの「貸し部屋」でのぎゅう詰め暮らしも珍しくなかったようです。その貧しさは現在のニューヨークのイメージからは想像もできない劣悪なものであった様子は、残された無数のモノクロ写真で見ることができます。 20 この厳しさの中から、アシュケナージのデリカテッセンは徐々に立ち上がっていきます。長時間の仕事を終えて家に戻るアシュケナージの労働者にとって、食の戒律カシュルートに従った形で調理済みの惣菜や食肉加工品は、異国での救いの神でした。誰もが日常的に通うデリカテッセンは、同胞と出会い、気軽に言葉を交わせる「心の拠り所」でした。週一のユダヤ教会シナゴーグよりも、むしろデリ(デリカテッセンの略語)において「俺たちはユダヤ人」という自身のルーツへの思いを強めていく場にもなっていきます。1880年には150万人に達した東欧からのアシュケナージ移民の爆発的な増大。これに比例して、デリの数もうなぎ登り。いつしかユダヤ系のデリはニューヨークでも目立った存在となっていき、ユダヤ系ではない様々な人種の移民たちも、その惣菜を買い求めるようになっていきます。 ■ NYCでの変容 元々は東欧からの貧しいアシュケナージ移民のための惣菜食料品店だったため、当初は N YCでも「デリは東欧系の貧しい惣菜を並べている店」というイメージでした。前回まで述べてきたように、ユダヤ人には「故国の料理」というものがありません。居着いた土地でカシュルートの戒律に合う形で、自分たちなりの料理を作り出していく。居着いた土地が食材豊富であれば、デリの惣菜も豊かなものになる。アメリカは当時、欧州よりも圧倒的に食の環境が豊かでした。それに加えて多くのアシュケナージが集中したニューヨークには、欧州各地からの移民たちが多様な食文化を持ち込み始めていました。デリの店主たちは競うようにして、その豊富な食材と多様な食文化を取り入れながら、コーシャのお惣菜をより豊かなものとしていきます。こうして「デリカテッセン」=「アシュケナージ」=「ニューヨークのグルメ惣菜屋」というイメージが誕生します。 ■パストラミ・サンド (Pastrami Sandwich) その最も代表的な料理が「パストラミ・サンド」です。元々ルーマニアが発祥の地と言われていて、牛肩肉の燻製ハムの薄切りを数センチの厚さになるまで積み重ねたものをライ麦パンに挟んだサンドイッチです。その定番中の定番を出す N YCで最も有名な店が創業1888年の「カッツ・デリカテッセン」(Katz's Delicatessen)です。大きく口を開いても口に入れることができないほどの厚みにまでパストラミを積み重ねるのは、なぜか。それこそが「豊かさの象徴」と捉えられてきたからです。東欧ではめったに肉にありつけなかったアシュケナージたちにとって、パストラミ・サンドこそは「夢の国アメリカの豊かさ」を、自分自身で手に取って実感できる食べ物だったのです。第二次世界大戦後長らく、日本でも、分厚い牛肉のステーキを食べることが贅沢の象徴とされていた時代がありました。それと同じ感覚です。いわば貧しさの裏返し。 今、ニューヨークでも東京でも、牛肉を山ほど食べることが「豊かさや贅沢の象徴」などと考える人は、まずいないでしょう。なので、カッツ・デリカテッセンのパストラミ・サンドも、一種懐古的な思いを込めて「アシュケナージ系デリの象徴」と呼ばれる存在になっている、という感じです。実際この店を訪れてみればわかりますが、お客の半分近くは世界中からの観光客です。もはや「地元のアシュケナージたちが同胞と出会い、厳しい移民生活ながらも、 NYCで得られた豊かさを互いに実感し合う場」という雰囲気ではありません。創業以来136年。時代も人も大きく変化しています。 1931年の統計によれば、ニューヨーク市には当時、ユダヤ系のデリカテッセンが1550店、コーシャの精肉店が6500店、アシュケナージ系の肉料理店が575店も営業していました。そのほとんどが現在では姿を消していて、残っているのはこの十〜二十分の一程度かと思われます。アシュケナージ社会の変容、外食産業の多様化、スーパーマーケットの台頭がもたらした結果です。こうした巨大な変化が起きる過程には興味深い出来事が山ほどあるのですが、それはまたいつか別の機会に。 ■注目すべき最新の流れ 最後に、最新の動きについて。現在ではデリカテッセンという看板は掲げていませんが、元々デリから出発した素晴らしい高級食材店が N YCには幾つかあります。加えて最も注目すべきは、特にロワ・イーストやアッパー・ウェスト、さらに一部ブルックリンなどの最高級住宅地に住むユダヤ人社会の最富裕層に見られる変化です。以前よりも戒律を重視し、できるだけクリーンな生活を送ろう、という動きが見られることです。その食生活は当然、食の戒律カシュルートを厳しく遵守。この新しい世代の富裕層の動きを反映する形で登場し始めたのが、同じコーシャの料理店であっても、カッツ・デリカテッセン的世界とは対極的な別世界。最高の食材を使って、フレンチや和食や北アフリカなど様々なエスニック料理の要素を、極めて洗練された形で取り入れたお料理を提供する高級店です。身をより厳しく律して目立たず地道に暮らしながら、デリ由来の高級食材店で日々の食材を買い求め、時にコーシャの洗練された高級レストランで食事を楽しむ。これが N YCのユダヤ人最富裕層のトレンドと言ってよさそうです。 本牧に生きる原三溪の誕生 臨春閣 臨春閣は紀州徳川家の別邸巖手御殿だったと推定されています。1649年、和歌山の紀ノ川沿いに建てられ、紀州侯が参勤交代の際に宿泊しました。原三溪、千利休が設計した豊臣秀吉の聚楽第北殿だったと考え「桃山御殿」と呼んでいました。雁行型に 3棟の建屋が並んでいて、紀ノ川に見立てた池が設けられています。 当時、日本の輸出額の 8割は生糸でしたが、外国商社に多額のマージンをとられていました。富太郎は直輸出こそが日本の国力増強に欠かせないと考え、モスクワ、リヨン、ミラノ、ニューヨークに社員を派遣して直輸出業務をはじめます。しかし自身は一度も日本を出たことはなく、仕事が終わると東京行きの汽車に乗り古美術品を見るのが唯一の楽しみでした。西洋至上主義のなかで日本の書画骨董、仏像などは安値で売られましたが、入婿の富太郎が購入することは憚られ屋寿子夫人がこっそりと買い、黙って蔵に入れておくこともありました。その最たるものが名物「畠山茶入」で、10万円という破格から入手をあきらめたものの、かわりに夫人が購入しまし、いまは荏原畠山美術館の所蔵となっています。 第二屋の襖には狩野探幽「琴棋書画図」が描かれ、欄間には浪華を詠った和歌を書いた色紙がはめられています。また伝狩野永徳の「芦雁図」の襖があります。 第一屋「瀟湘の間」の障壁画は狩野常信筆「瀟湘八景図」です。欄間にはダイナミックな波をかたどった彫刻がはめられています。 Event REPORT 今もつづく「水俣病」を伝える 2024年10月19日 江良潤 一人芝居「天の魚 」@藤野倶楽部 10月19日、神奈川県相模原市緑区の藤野倶楽部「結びの家」にて、 俳優 江良潤さんによる一人芝居「天の魚(てんのいお)」が上演され、多くの観客が集いました。 「天の魚」は水俣病を社会に知らしめた、石牟礼道子さんの代表作『苦海浄土』の一節を原作にした芝居で、1979年から 556回にわたり舞台俳優砂田明さんが仮面劇として演じてこられました。1993年砂田さんの没後は、弟子の川島宏知さんにひきつがれ、いまは江良潤さんが、毎年定期的に全国をめぐり公演をつづけています。今年は山梨県、神奈川県の 3カ所で開催されました。 100年前から続いた不知火海の海洋汚染 全日本民医連のホームページから被害の実態図。 水俣病は、水俣市だけでなく八代市や対岸の天 九州熊本・鹿児島にまたがる不知火海(八代海)。海洋汚染が始まったのは 100年前の 1923年、チッソの工場汚 草市まで広がっています。長年にわたり御用学者 水により漁獲高が激減し、漁民たちが声をあげたことでした。チッソはわずかな見舞金によるごまかしを続け漁民か により有機水銀原因説が否定されたことが、被害 ら漁業権を買い上げると、水俣湾を埋め立て工場を拡大。塩化ビニルの製造に成功し、製造工程で生じた有機水銀 を広げたと考えられています。 を海へ垂れ流します。それは不知火海全域にひろがり、魚介類を食べた住民の多くがメチル水銀中毒性を発症します。 1956年に水俣病が公式に確認されたあともチッソは非を認めず、 1968年まで 12年も排水を流し続けました。 公演前「百笑の台所」にて、会場を提供した藤野倶楽部 桑原勝敏さんとしばし談笑。江良潤さんは1950年北海道岩見沢生まれ、俳優を目指して1969年俳優小劇場付属養成所に入所したのち、井上ひさしさんの脚本に魅了されテアトルエコーに入団。1974年渋谷パルコ劇場「天保十二年のシェイクスピア」で、念願の井上ひさし作品出演を果たしました。1976年から別役実作品を上演した「劇団ナック」に参加。1990年「劇団風の街」を設立すると1992年からはテレビ出演をはじめ、NHK大河ドラマ「篤姫」の鷹司輔煕役や朝ドラ「すずらん」、「ウェルかめ」などに出演。「天の魚」の公演は古くからの仲間である出版社 時来社の石田弘見さんや数名の協力者たちと共に各地を回っています。「天の魚」は原作者 石牟礼道子さんが水俣に暮らす漁師 江津野老を訪ね、一家に伝わる九竜権現さまを拝ませて欲しいという所から始まります。江津野老は祭壇を一通り説明したあと、胎児性水俣病の孫 杢太郎少年をかたわらに置き、水俣病によって失われた豊かな海のこと、狂わされた一家の運命を天草弁で語りだします。 17時の開演を前にリハーサルが始まりました。江良さんが「天の魚」を知ったのは、水俣の写真を撮り続ける宮本成美さんの紹介でした。東日本大震災以降「世の中のために何が出来るかを考え続けてきた」という江良さんは「天の魚」の公演をライフワークにすることを決意したそうです。天草から対岸の水俣に渡ってきた若き江津野老は、チッソの排水が流されることになる百間港の護岸工事に従事していました。まだチッソの工場は大きくなく貧しい漁村だった水俣では、若い娘が遠くへ売られることもありましたが、工場の拡大とともに街はうるおいます。その一方、江津野老は舟に鍋釜を積み込み夫婦で漁に出ていました。魚がとれると舟上で夫婦だけの宴が始まります。天のくれる魚をとってその日をくらす。これほどの栄華はどこにあるか、と老は訴えました。 天の恵みであった魚は有機水銀に汚染され、それを食べた自慢の息子は病に蝕まれ、その妻は胎児性水俣病の子どもを残して他の男の元に去ります。それでも江津野老は家族を支えるため自らも水銀に侵された身体で漁に出続け、世間にすまないと水俣病認定の申請も行いませんでした。たとえ医師に水俣病と診断され申請を行っても認定委員会によって却下されることが大半で、3万2千件以上の申請のうち行政の認定患者は 2300人程度にすぎませんでした。多くの患者が救済されず苦しみ続け、認定をめぐる裁判も継続されています。今年 5月には被害者団体と環境大臣との懇談会中に職員によりマイクが切られ話題になりました。1932年から 34年間にわたり不知火海に排出された150トン以上ともいわれる水銀は、ヘドロとなって海底に沈殿しました。1956年には魚介類が水俣病の原因と認められながら、環境省は不知火海全ての魚が汚染されているとは確認できないとして、漁獲の停止は漁業組合の自主規制にとどまります。漁業再開のため水俣湾ではヘドロの浚渫が行われ、埋立地を鋼矢板で仕切り汚染された魚と共に埋め立てる作業が続けられました。いま埋立地一帯には土が被せられ公園になっていますが、熊本地震の影響や鋼矢板の腐食により水銀が漏れ出す可能性が指摘され、県や市も注意深く監視を続けています。 9月末に大阪高裁の水俣病訴訟が報道されたこともあり、集まった観客の関心は非常に高いものでした。「観客の集中が伝わり手応えを感じました。舞台は俳優と観客が共に作るものです」と江良さん。発生から70年近くたった今も被害が続く水俣病は、東日本大震災による原発事故等の今後を占うためにも風化させてはいけない事実であることを改めて感じました。藤野倶楽部に新しく、ペットと一緒に泊まれるバンガローが誕生。安心して犬と遊べる、芝生のドッグランも整備されました。 60 こは 色鉛筆の講座を目にし、認知症予防のための「塗り絵」と思って参加申し込みをした。絵は全く苦手だけれど、塗り絵なら小さい頃を思い出してやってみるのも楽しいかもしれない。子ども相手のボランティアで電車の塗り絵を一緒にしたが、子供達の方がずっと上手に色を使う。大人のための塗り絵はどんなものか、興味もあった。はなから今日は塗り絵と思っていたので、入り口で男性の姿を見つけ、思わず、「え、珍しいですね。男性の方の参加は」と声をかけた。どう見ても私よりずっと若い。不躾にも「こ 歳以上の教室ですが…」というと、「僕はもう 定年しました」とニコニコ笑顔で返す。「まだまだ若いからボランティアもやってくださいよ。」と、話しながら一番前のテーブルに一緒に座る。なんで塗り絵に?とは口に出さなかったが、スタッフから配られた、色鉛筆と A 4の画用紙3枚を見て、自分の勘違いに初めて気がついた。色鉛筆イコール塗り絵と思い込んでいた。今の今まで……。正直、認知症予防のための「塗り絵」はもう少し先でもいいかなぁ、無理して行くこともないなぁとも思っていた。初回に参加費の支払いがあるので、とりあえずと出席したが、塗り絵ではなかったのだ。配られた袋の中に、講師の先生の作品展の案内が入っていた。となりの男性は「これ色鉛筆で描いたものですよね」と、声をかけてきた。描かれているのは雪景色の中の木々、初めてみる色鉛筆の絵である。え〜 これをやるの?? 絵を描くのは何十年ぶりだろうと、同じテーブルに座る方々も口々に、そして少し興奮気味に袋の中を確認している。先生の説明があるまで袋から出さないよう何度もスタッフがいう。講師の登壇があり、自己紹介と袋の中身の説明をした。画用紙は3枚。裏表、質の違いを指で確かめる。開けないようにとのことはそのためだった、色鉛筆の種類や鉛筆削りの重要性、色の三原色と光の三原色の違いなど、学校では教わ 60 歳です。 らなかった美術の基本の基を分りやすく話してくださった。 青、赤、黄、黒、白の5色の色鉛筆、その削り方から始まった。先生の手元をスクリーンに映し出して、それを見ながら真似るものの、左右上下反転するので戸惑った。スタッフが途中で気付きソフトを修正して、見ている方向で先生の手元が映し出される。スクリーンを見ながら、自分の画用紙の上で色鉛筆を動かす。鉛筆はよく削るように、ケチると画用紙に傷がついて、修復できないと注意される。画題は「新緑の木」、自分の知っている新緑の木を思い浮かべて描くというもの。庭のハナミズキを頭に浮かべるが、幹から枝がどう伸びていたか思い出せない。子供のような幼稚な絵になっているがよしとした。黄色で下絵を描いたところでクロスハッチングという技法で色の濃淡をつける。スクリーンに映る先生の絵は、グラデーションがかかり陽の光具合や影の落とし込みがされて、見事に新緑の葉が生い茂った木を描いている。 K自分の画用紙の木に色を重ね、濃淡をつけていく。それらしい雰囲気の出たところで、1本の亀裂が入ってしまった。ケチったわけではない (^-^けれど、鉛筆の押し付け方が悪かったのだろう、画用紙に色の入らない線ができてしまった。色鉛筆はこれがミソという意味がよくわかった。絵の具は上から色を重ねられるが、色鉛筆はそうはいかない。先生の口酸っぱくいう、鉛筆はよく削ること、鉛筆削りもよく取り替える。という意味を初回で体得した。最後に、日付とサインを書き込む。ハナミズキには程遠いが、色の濃淡や重ね具合は、新緑の木に見えなくもない。先生の名前は「カズノリ」。サインをするときに、最初に「」とくる。そこから流れるようにかっこいいサインである。私も最初が「 K」、それだけでもなんとか真似たいと思ったが……難しい。 講座が終わってから、先生の作品を展示してくださった。2時間たっぷりの講座でかなり疲れていたが、それぞれがそれなりに仕上がった高揚感もあったのだろう、みんな声を出して、その素晴らしさに魅入った。あと2回講座は続く。3枚の画用紙にどんな色鉛筆の世界を描くことができるのか、そして仕舞い込んだままのスケッチブックと色鉛筆を出して、旅のお供にできたらいいと、楽しみも増えた。勘違いもたまにはいい。 天井が高くボイラーなどの設備は近代的で、ユニークな形の浴室や屋敷につながった大きな蔵があります。 三之谷に移った三渓は、蓮池の近くに一家の住処となる「鶴翔閣」を建てました。三渓は特に入口から茅葺き屋根が印象的に見えるよう心を配ったそうで、庄屋だった渡瀬の実家をほうふつとさせます。三渓 34歳、長男善一郎は10歳、長女春子8歳、次男良三郎 6歳、次女照子は 2歳の時でした。三渓は子供のために和食、洋食の料理人を住まわせ、国語教師として鉄道唱歌を作詞した歌人 大和田健樹を招きつぎに佐佐木信綱が短歌や古典を教え、善一郎や春子は歌集を出すほどになります。 「鶴翔閣」では10月 24日〜 26日まで、「手仕事に遊ぶ錦秋 Vol.8」が開催され、全国から25の工房・アーティストが集い、作品を展示販売しました。神奈川県相模原市(藤野)の磁器工房静風舎副島(そばじま)泰嗣さん、微美子さんは、美しい白磁の品々を出品。自ら茶道をされる副島さんは、三渓園にちなんで茶碗や香合、棗、茶入れ、水差し、蓋置などを白磁や青磁で制作したそうです。透かし彫りが柔らかな光にはえていました。「鶴翔閣」内は天井が高く、住宅とは思えないほどしっかりした造りです。床は畳敷きに椅子・テーブルを置き、襖・障子を取ると大広間になります。内装は簡素で、数々の書画骨董で飾られました。それを眺めながら文人画家達は泊りがけで議論を交わしていました。木工家の田澤祐介さん(森想木工舎・横浜)は、コーヒーキャニスターやカップなど生活のなかで気軽に使える作品のほか、銅の緑青を活かした茶入れや蓮弁皿、パリサンダを削った茶杓などを出展しました。漆、オイル、金属などを組み合わせた独自の仕上げが魅力的です。 初出展の宮國浩未さん(andekunde)は、川崎市を拠点に活動されています。オニクルミ、アケビ、ヤマブドウ、皮籐、シラカバなど素材調達、ヒゴ作り、カゴ編みまで全て手作りするそうです。カゴ編み教室で十数年間に渡り様々な編み方を習ったという宮國さんは、フランスの伝統的なカゴバッグ「サック・ド・フィヨンセ」をはじめ、都会で日常的に使えるデザインを心がけているそうです。高度な鉄線編みや希少なヤマブドウツルのバッグなど、見ごたえのある展示でした。 扉の彫刻は上半身が女性・下半身が鳥の天女「迦陵頻伽」や蓮の花、霊芝が彫られ、かつては色鮮やかに彩色されていました。 「天端寺寿塔覆堂」は豊臣秀吉によって建てられた貴重な建物です。天下統一を果たした秀吉は母・大政所の病気回復を祝って京都大徳寺内に天瑞寺を建立し、寿塔とそれを覆うお堂を建てました。その後豊臣家が滅びると、寿塔は瑞光院に移され明治になって大徳寺黄梅院に戻されます。この寿塔に心を奪われた三渓は覆堂を明治 35年三渓園に移築しました。秀吉の貴重な建物を自分の手で守る喜びを知った三渓は、維持が難しくなった歴史建築の移築に、情熱を注いでいくこととなります。 江戸組紐中村正(千葉)の4代目中村航太さんは、色鮮やかな帯留を出展。年々組紐の職人は少なくなっていて、先日は棋士藤井聡太さんの羽織紐を制作したそうです。高度で手間の掛かる技法を用いながらも、あくまで着物のコーディネートをひきたてるサラッとした組紐づくりが信条とのことでした。座繰り染色家の中野紘子さん(Canoan)は、蚕の繭から糸をとる「上州座繰り」を実演されていました。上州座繰りは昭和 40年代まで群馬の農家では一般的な内職でした。その歴史や繭から糸を生み出す仕事に魅了された中野さんは、安中の碓氷製糸で製糸技術を学んだのち、2003年高崎市に工房を開設。自ら吟味した群馬県産繭からとった糸を使い草木染めのストールや帯、反物を手織りするほか、技術伝承のため教室もひらき昨年は「NHK 趣味どきっ! 染めものがたり」に出演されました。座繰り糸の手織り物はふっくらしていて、肌に心地良いボリューム感があります。金沢の金工家長井未来さんは、銀(南鐐)製の菓子切や茶杓などの茶道具を出展されていました。長井さんは東京の出身で、金沢美術工芸大学で彫鍛金を学んだのち、研修施設金沢卯辰山工芸工房で研鑽を積みました。菓子切の模様を彫った彫り留め技法は金属に宝石を留めるための技法ですが、あえて装飾に活かすことでその魅力をひきだしてみたそうです。菓子切の袋も手作りで、模様にあわせた布が選ばれています。金沢市の漆工房「うるしとき定池」は、代々、金沢仏壇の蒔絵師でした。定池 隆志さん、夏子さんは先代 正文さんの跡をつぎ、蒔絵、螺鈿、金属箔、乾漆といった高度な技術を活かし、アクセサリーブランド「kasaneru」を開発したり、器の木地を作る工房を作ったり、金継ぎ教室をはじめたりと新たな試みを続けています。金沢仏壇で培われた技術は、さすがに精度が高いと感じました。 ドラゴンシリーズ 121 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) スイスの山村 どこまで行っても物事は変わらないということを思い知らさ れている。そして自分自身もどこまで行っても中身は変わらないということを思い知らされている。そして自分はどこまで行っても成長しないものだということも思い知らされている。 変化するためには何か大事なことを克服すること、困難を迎えてそれを乗り越えることが必要だ。僕自身、苦手なことを避けてきたし、都合の良い言い訳をして嫌なことを遠ざけてきた。人生も終盤の今になって、積極的に問題に関わってこなかったそのツケが自分に回ってきたようだ。自分の苦手意識は薄れるどころか増すばかりで、さまざまな経験と時間を重ねることが僕自身の課題に対する耐性を高めていくと信じてきたが、不得意なことはそのまま不得意なこととして何も変化のないまま今も自分の中に残っているようだ。いや、もしかすると不得意なことは年齢とともにますます増えてきているような気がしている。どうにかなるものだろうか。いや、どうにもならないのだろうということが明白になってきたが、どうにかしたいと思いながらも未だ成す術は見えてこない。 先日、 歳になった尊敬する友人の誕生日にスイスの高地に ある山村を訪ねた。彼はスイスを訪れるたびに親しい友人たちと高地にある古い歴史のある山村で過ごしてきた。彼とは昨年の春、一緒に二週間車を走らせて日本地方の山村を訪ねる旅を した。彼は今、 冊の分厚い本を書いている最中で、その書籍 をまとめるために原稿と写真を自分でコピーして手作りした200ページ以上もありそうなコピー用紙で作った分厚いサンプル本を見せてくれた。そのサンプル本の白いコピー用紙に、自分でタイトルを手描きした表紙を見せてくれて、彼から僕はそ 80 2 のタイトルに対する意見を求められた。 彼は 20代の若い頃からこれまでに多くの本を書いてきた。その本は、彼の独自の視点から丹念に研究された資料により緻密に構成され、斬新で新しい視点を読む人々や世界に与えてきた。ビートルズがそれまでの音楽の価値観とその時代を変えたように、彼は若い時代から独自の視点と理論整然とした新しい価値観で世界の物事を捉え、物理的と論理的の両面から表現してきた。僕は身近には 70代前半から歳になるまでのわずかな時間しか知らないけれど、彼の人生の晩年の年弱の時間の中に、同じ人間として彼のどんなに年齢を重ねても失われない純粋な探究心と精力的に行動するエネルギーに驚き、また、 10 80 彼が年齢を重ねるにつれてますます心が澄んでいくように感じ、彼の人間としての存在が輝いている。 ミラノのお店の一番奥の本棚の前のテーブル席に座っていたら、僕と同じくらいの年齢のアジア人の女性と西洋人の男性のご夫婦が声をかけてくれた。彼らはウィーンに住んでおり、女性はピアニスト、男性は現代舞踏のダンサーで、昨日偶然お店を見て感動して来てくれた。今日は僕がお店にいることを昨日知って、わざわざ彼女がピアノ演奏するサティの C Dと彼の父の彫刻の書籍、そして彼の主催する現代舞踏の資料を持参してくれた。 僕はこんな素敵な人たちとの偶然の出会いができる場所をミラノやアムステルダムに持てたことを本当に嬉しく思い、その時だけは自分の仕事に少しだけ満足する一瞬なのだ。すべては偶然の産物であり、そしてその偶然に出来上がった偶像にも時間と共に生命が宿り始める。命も同じように、そのように図って生まれたものではなく、瞬間の積み重ねによる思いが偶発的に形を成し、そのきっかけに何かが集約されて出来上がったものではないだろうか。 Event REPORT ジョン・ラスキンから未来をひもとく 2024年10月 26日 ヴィクトリア朝英国のユートピア/ディストピア ラスキン文庫創立 40周年記念シンポジウム「ヴィクトリア朝英国のユートピア/ディストピア」が 10月 26日慶應義塾大学三田キャンパス東館ホールで開催されました。司会の富士川義之さん(ラスキン文庫理事英文学)は開会にあたり、ラスキンは富裕層と貧困層の 2極化や環境問題など、現代が抱える問題に 2世紀も前に警鐘を鳴らしている。それが当時の社会にどのような影響を与えユートピア/ディストピアが思い描かれてきたのか、各講師からのお話がラスキンへの関心を一層高めることを期待している、と述べました。 武藤浩史 -バトラーの『エレホン』が描くユートピア 武藤浩史さん(慶應義塾大学名誉教授英文学・文化研究)は「ラスキン・プラトン・グレーバーから サミュエル・バトラー『エレホン』の遊戯的想像力 (特にアルピニズムへ)」と題した講演をされました。以下、その要約です。19世紀後半の英国はグローバルな自由経済社会であると同時に自己啓発の時代。経済格差がひろがるなか自己啓発によって明るくポジティブに生きることと、暗く終末論的な想像力が同居していました。これは自己啓発本が流行る一方で、漫画・アニメ・音楽で盛んに終末世界を描く現代と似ているのでは……。ラスキンの提唱した金儲け万能主義への違和感「命の他に富なし」という言葉は、プラントンのいう「真の意味の富者とは黄金に富む者のことではなく、思慮あるすぐれた生を豊かに所持する者のことだ」に共通します。21世紀に活躍したアメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーは、リーマン・ショック後のウォール街で抗議運動を展開したマルクスを彷彿とさせる学者です。ブッダや孔子、プラトン、キリストといった普遍思想が 2500〜 2000 『エレホン』 サミュエル・バトラー著武藤 浩史翻訳 新潮社刊 年程前に次々と産まれた理由としてグレーバーは貨幣社会への移行をあげ、貨幣の暴力性に反抗する社会運動だったといいます。これは19世紀末の英国とも似ていて、一見公平に見える自然淘汰による貨幣経済社会が格差の要因になり、その原因が見えにくい点が共通しています。 『エレホン』の著者サミュエル・バトラーは19世紀イギリスの小説家で、1859年に移民としてニュージーランドに渡り、今も存続する「メソポタミア」という開拓地の名付け親になり帰国後に『エレホン』を書きました。山脈を超えた先にある国エレホンでは、国民は皆美しく幸せな社会に見えるものの、病気になると罪を問われ、人を騙すことは容認されます。また機械の進化が人類を凌駕し滅ぼすという予言書によって、時計や蒸気機関などは廃絶されています。興味のある方はぜひ邦訳の本をご覧ください。他のユートピア小説とは異なる特徴としてアルピニズムをあげたいと思います。エレホン国の噂を聞いた主人公は、美しい山脈を超え命がけでエレホンにたどり着きます。その背景には19世紀後半の登山ブームが感じられ、ラスキンもアルプスの自然に夢中になったように、登山が世界観を変える。機械批判、文明批判だけでなく様々な引き出しから道具を取り出して、真面目すぎず有機的に表現した所にバトラーによる『エレホン』の核心があると感じます。 川端康雄 -『アフター・ロンドン』のディストピア 川端康雄さん(ラスキン文庫評議員、英文学・文化研究)は、「リチャード・ジェフリーズ『ロンドンが滅んだあとで』のカタストロフィと「途方もない希望の波」(モリス)」と題した講演をされました。以下その要約です。ウィリアム・モリスは社会主義運動を情熱的に進めていた1885年 51歳のとき、鉄道の移動中に 『アフター・ロンドン』を読み、友人の画家ジョージアナ・バーン =ジョーンズへ「かなり気に入った。数々の途方もない希望の波が 私の心中で渦巻いた」と評価する手紙を送っています。 『アフター・ロンドン』の作者リチャード・ジェフリーズは、1848年イングランド南西部の農家に産まれ、自然誌、博物誌や田舎生活をテーマとした小説・エッセイを書きました。10代の頃ロシア・アメリカへの渡航を目指して失敗し、その後新聞社につとめると地元の歴史を調べた記事を発表します。結婚後はロンドン郊外に移り、田園地帯を歩いて自然をテーマにした作品で評価されました。1883年に出版した自伝『わが心の記』は、ユートピアのようなイギリスの田園風景を描いています。そして1885年に発表した『アフター・ロンドン』は、ディストピア小説の先駆けとしてモリスの『ユートピアだより』にも影響を与えたといわれています。第一部は大地殻変動によってロンドンが大きな湖になり、科学技術は失われ自然が蘇り、中世的な封建領主が支配する世界を詳細な筆致で描きます。第二部では領主の長男サー・フィーリクスが水没地域を移動するためのカヌーを自作して冒険に旅立ちます。彼は有力な領主の娘オーロラと相思相愛でしたが、彼女の父親は別の裕福な男性と結婚させたいと考えていました。フィーリクスは各地で危険な目にあいながら旅を続け、水没したロンドン付近の島にたどり着きます。そこは「古代人」(19世紀英国人)によって汚染された水、空気にあふれ毒ガスや化学物質で瀕死の目にあいました。その後、南東部で外敵を破り英雄となったフィーリクスはオーロラのもとへ戻る決心をして終ります。ジェフリーズは自然誌、博物誌の著者だけあって、ディストピア小説でありながら大ブリテン島南部の透明感のある森林や動物たちの描き方が圧倒的で、廃都ロンドンの描写も見事です。ラスキンは1884年『十九世紀の嵐雲』という講演で「悪疫の風」という疫病をもたらす雲に気づいたと訴え、朝の光を遮る乾いた黒いヴェールのような雲、経験のない灰色の雲を各地で見るようになったと語っています。 『アフター・ロンドン』リチャード・ジェフリーズ著邦訳(カスガ訳)を、 Kindleで読むことができます。 横山千晶 -教育・環境・コミュニティ -セント・ジョージ・ギルドという「予言」でした。ラスキンはシェフィールド郊外のトットリーに土地 横山千晶さん(慶應義塾大学法学部教授東京ラスキン と訴えますが、経済至上主義の中でこの考えは批判され、 協会会員、英文学・文化研究)は、ジョン・ラスキンの 連載は 4回で打ち切られます。1 871年の『フォルス・ク 実践した「セント・ジョージ・ギルド」をテーマに講演さ ラヴィゲラ』(第 5書簡)では、生命にとって不可欠なも れました。以下その要約です。 のとして「清らかな空気、水、大地」をあげ、それらを実 1860年ラスキンは、コーンヒル・マガジンに『この最後 践するセント・ジョージ・ギルドの趣旨について声明をだし の者にも』の連載を開始しました。当時ラスキンの視点 ました。それは農業、教育、芸術、社会改革、地域経 は美術から社会課題へと向いていて、連載のなかで「労 済を志を同じくした仲間で運営するギルトで、1 9世紀の 働力を提供する人間は機械の一部ではあってはならない」 ユートピアであり、ディストピアに抵抗する実践的な方策 ウォークリーにあったセント・ジョージ・ミュージアム を購入し、セント・ジョージ農園を開きます。農地にはあえて荒れ地を選び、適切な労働によってどれほどの食料生産が可能かを実証しようとしました。一方、ウォークリーの高い丘の上にはセント・ジョージ・ミュージアムを建設し、鉄鋼業で生きる人々の教育を試みました。絵画を指導した若者たちをヨーロッパ各地に派遣し、巨匠の模写を描かせて展示します。ラスキンが尊重したのは、自分たちの力を使って働く人々でした。蒸気機関など機械の使用を禁止し、大気や水の汚染を防ぐため風力・水力の利用を訴え、テムズ川のもたらす自然エネルギーだけでイングランド全域の織機を動かせると主張しました。こうした社会を実現するためには教育が重要であり、農業、自然科学実験、大工、陶芸などに力点を置き才能に応じて読書、絵画、歴史を教えるといった個々に合わせたプログラムが計画されました。ラスキンのギルドは今も継続されていて、著作の読書会が世界各地で行われ、2000年にはラスキンの「見る力」に基づいた「描こう運動」が始まりました。2020年にはギルドで地球温暖化防止への取り組みが始まり、日本では大阪府能勢町の大阪ラスキン・モリスセンターにて、コミュニティラーニングセンターの建設が進んでいます。 講演後に開かれたディスカッサントでは草光俊雄さん(ラスキン文庫理事、イギリス社会経済学・文化史)が司会をつとめ登壇者と参加者の活発な質疑応答が行われました。草光さんはディスカッサントに先立ち「今回の講師の方々は、19世紀のイギリスがどういう時代だったかを明らかにしてくれました。経済優先で非人間的な社会への異議申し立てがバトラーやジェフリーズ、モリスなどのユートピア/ディストピア小説だったのではないでしょうか。イギリスが産業革命で豊かになった 19世紀の、人類の進歩によって社会が良くなるというのは今でも主流の考え方と思います。それへのアンチテーゼとして、ラスキンをはじめとする思想が産まれたのだと感じます」と語りました。 聴秋閣 秋の紅葉にあわせ 11月 22日〜 12月 15日まで、聴秋閣の奥にある遊歩道が開放されます。 「旧東慶寺仏殿」は、鎌倉の駆け込み寺として知られた東慶寺の本堂で明治 40年三渓園に移築されました。当時の住職釈宗演は臨済宗の高僧で「ZEN」を欧米に伝え、鈴木大拙や夏目漱石の師としても知られます。三渓に対して「あなたはもう禅などやる必要がない。それでいいのだ。それが禅なのだ」と言ったそうです。茅葺寄棟造の本体にこけら葺きの庇がついた禅宗様の仏殿です。 三渓は井上馨から「孔雀明王像」を一万円という破格の金額でもらい受けると、藤原中期の室生寺に伝わる「閻魔天像」などと共に、若い芸術家たちに惜しみなく公開し朝まで芸術談義に講じました。長男善一郎の友人芥川龍之介もたびたび訪れ「この頃、原の所で絵をみて以来大いに日本人を尊敬しだした。昔の日本人は大分えらい。天平期の奴はその中でも殊にえらい」。「昨日は原のうちへ行って琳派の画を見た。宗達、光悦、乾山など皆立派なものだ」と手紙に書いています。 旧東慶寺仏殿 下村観山『弱法師(よろぼし)』重要文化財 大正 4年 (1915)東京国立博物館蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp) 三渓は自分が書画骨董を選ぶ基準は「気韻」を持つかどうかと言っています。「美術品は共有性の物なるを以て、自他の別あるを許さず、極めて率直に各自の意見を披瀝して毫も忌憚する処なきは、美術界の信条にして自由の別天地たり」と、公平な意見を交わすことを喜びとしました。旧知の仲だった岡倉天心から現代の芸術家のパトロンになるようすすめられ、天心の立ち上げた日本美術院に参加した横山大観、下村観山、菱田春草たち新日本画のパトロンとなりました。経済的に逼迫する若い画家たちに生活費を支給し、特に観山には本牧の新居を与え、三渓園の臥龍梅に発想をえた『弱法師』(重要文化財)など数々の傑作が生まれました。鶴翔閣には画家の制作室があり、前田青邨、横山大観、小林古径、速水御舟などが逗留しながら美術談義を交わし制作にはげみました。明治 37年から始まった日露戦争によって、三渓の会社はロシア方面の輸出がストップし大きな損害を被りました。明治 39年に日露戦争が終結すると三渓園入口に「三渓園遊覧随意」の看板をかかげ、現在の外苑部分を無料で一般に公開します。それは横浜市民に大きな衝撃を与えました。園芸家前田曙山は三渓園を評して「自分は三渓に会ったことはないが、三渓園を見ただけで原氏が非常に崇高な人格であることが分かった」と書いています。三渓はこれを見て喜び「三渓園の土地はもちろん余の所有たるに相違なきもその明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し余の所有にあらざるなり」と返しました。園内の初音茶屋では屋寿子夫人のアイデアで無料で茶が振る舞われました。「この美しい自然のなかに古建築を配し、大きな庭という絵を描く。石の置き方が何よりも重要である。石は自然に水に洗われたように置かなくてはならない」と三渓はいい、古建築 17棟のうち10棟が重要文化財、3棟が横浜市指定有形文化財に指定されました。明治政府から三井に払い下げられた富岡製糸場を、明治 35年、他の製糸場と共に原合名会社が買い入れます。三渓は富岡、大.、名古屋、四日市という4製糸場の経営を一新し、工女たちの負担を軽くして生産性を向上するための自動繰糸機を開発します。この時、茶人として知られた三井の高橋箒庵や益田鈍翁との縁ができ、三渓は茶道の世界にひかれていくのです。 Event REPORT 柿右衛門の誕生まで日本の陶磁史をふり返って 2024年 10月 22日 八波 浩一 さん(出光美術館学芸部専門監)講演会 @ AREA TOKYO 12月15日までAREA Tokyoで開催中の「日常のなかの柿右衛門」にあわせ、八波 浩一さん(出光美術館学芸部専門監)による特別講演会がひらかれました。1992年出光美術館に入った八波さんは、同館のコレクションに関わる中国・日本の古美術、仙.の禅画、仏教美術などの専門家として各地で講演されています。この日は柿右衛門に焦点をあて、陶磁器史のなかでどのような役割を果たしたか、その革新性や見どころとあわせ、ヨーロッパの王侯貴族をとりこにした魅力などをお話されました。八波さんのお話をコラージ編集部で要約しました(参考写真も編集部で集めたもの)。中国や朝鮮では西暦 1000年前後から磁器が作られ始めますが、日本では信楽など焼締めによる硬い陶器が発展します。17世紀初頭、九州有田で磁石が発見されると日本でも磁器を作るようになりました。この頃、中国景徳鎮窯などの青い染付の磁器がヨーロッパへ輸出されていました。明から清へと移る混乱のなかで生産量が減ると、東インド会社(オランダ)は日本の磁器に目をつけます。有田では中国景徳鎮を模した芙蓉手などの磁器が焼かれ、九谷のような色鮮やかな磁器も作られるようになりました。磁器に日本画のような絵付けをする際、足りなかった「赤色」の釉薬を開発したのが、柿右衛門様式の創始者 酒井田柿右衛門(1596〜1666)です。尋常小学校の教科書に柿を見て赤色を生み出したエピソードが載るほど、柿右衛門の名は知られていました。江戸初期に磁器の技法は飛躍的に躍進し、柿右衛門はじめ絵画的な磁器が輸出され、王侯貴族にジャポニズムブームが起こりました。中国の情勢が落ち着き景徳鎮窯の輸出が再開されると、有田などの産地はそれに対抗するため古伊万里の金襴手といったより装飾性の高い作品を生み出しました。一方国内向けとしては鍋島藩の御用窯鍋島焼が作られ、献上品として非常に精巧で質の高い絵付けの磁器が作られました。中国や日本の磁器は「白い黄金」と呼ばれ、非常に高価なものでしたが、有力な王侯貴族はそれを大量に購入し、権力・財力を示すため宮殿に陶磁器で壁一面を装飾した部屋を作りました。立体的な壺が人気で、壁面には皿をびっしりと並べました。ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿には、プロイセンのフリードリヒ1世が妃ゾフィーに贈った陶磁の間が再現されています。やがてマイセンやチェルシー、アウガルテンといったヨーロッパの工房によって景徳鎮や有田、柿右衛門様式そっくりの磁器が焼かれるようになります。それらは最初、目につきにくい場所に飾られましたが徐々に質を上げ今に至ります。ヨーロッパでは絵付けの陶磁器は装飾品でしたが、日本では懐石などの食事に使われてきました。柿右衛門の皿の中央に白地が残されているのは、余白の美であると共に食材を載せるためです。陶磁器に描かれた絵柄によって季節感や主人のメッセージを表すのが日本流のもてなしでした。明治になると日本でも陶磁器を室内に置いて鑑賞するようになります。AREAのモノトーンを中心とした空間には柿右衛門の絵柄がよく映え、新しい楽しみ方を提案しています。柿右衛門がふたたびヨーロッパやアメリカへ送られ、現代の人々にどのように迎えられるでしょうか。 Event Information 世田谷文学館コレクション展寺山修司展 2024年10月5日.2025年3月30日 世田谷文学館(東京都・世田谷区) 世田谷文学館で開催中の寺山修司展。寺山生誕90年にあたり、文学館が収蔵するコレクション(原稿、台本、ポスター、写真など)約 150点が展示されています。1963年九條映子さんと結婚したばかりの寺山は、自宅向かいのマンションに有志の若者たちと共同生活を送りながら演劇実験室「天井桟敷」を立ち上げ、血族だけに頼らない新たな「家」の姿を模索しました。 ▲ ▲ 1954年早稲田大学に進学した寺山修司は、後に脚本家となる山田太一と出会い友情を結びます。大学の短歌会に入ると『短歌研究』に応募した「父還せ」が編集長中井英夫により特選に選ばれ、題名を「チェホフ祭」と変えて新人賞を受賞。中井の尽力で 1957年には第一歌集 『われに五月を』が出版されました。その当時、寺山はネフローゼにかかり長期入院中でしたが、谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始め劇団四季で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演されるなど、脚本家、詩人、演出家、映画監督、競馬評論、TVコメンテーターといったジャンルを超えた活躍で一躍メディアの寵児となるも、1983年 5月肝硬変により47歳の若さで死去します。時代を駆け抜けた寺山の「問い」は、人々の心を今も捉え続けています。 蓮花院での初茶会 三井の益田鈍翁と親しくなった三渓は鈍翁の主催する茶会にたびたび招かれ、鈍翁から茶会を開くよう催促されます。三渓は、屋寿子夫人の協力をあおぎ 49歳のとき、自ら設計した「蓮花院」が完成にあわせ、初めての茶会を開きました。蓮華院は土間の円柱と壁の格子に平等院鳳凰堂の古材を使い、小間の天井に蓮の茎を用いています。大正 6年 12月23日の初茶会では、床に足利二代将軍 義詮の達磨像をかけ、珍しいバビロン椀を使い益田鈍翁や高橋箒庵などを招 きました。これをきっかけに松永安左エ門、団琢磨など実業家茶人との結びつきを強めていきました。 「春草廬」は宇治の金蔵院にあった織田有楽斎の茶室で、三畳台目の小間に 9つの窓をあけた変化に富んだ空間です。大正 12年の春、三渓は 600人もの客を招いた第 2回大師会を成功させます。益田鈍翁、原三溪、根津青山(根津嘉一郎)が席主となり、三渓園完成のお披露目を兼ねました。臨春閣では秀吉、淀君の遺品や三十六歌仙絵巻の紀貫之が展示され、聴秋閣では根津青山の東山御物の徽宗皇帝 鷹図が掛けられました。 茶室研究で知られる建築家堀口捨己は茶会の思い出として「和辻哲郎が正客で本手斗々屋の茶碗を拝見していた際、金継ぎの継ぎ目がとれてしまいました。一堂が驚いたところ席主の三渓は悠然として、このまま廻してくださいといいました。」と書いています。屋寿子夫人の懐石料理は、三渓の実家で教わった田楽や本牧で採れた海老の天ぷら、錦糸卵やハムを飾った山吹そば、蓮の葉にハスの実と白飯を盛った浄土飯など独特で美味しさを第一に考えた料理で好評でした。大師会を成功させた大正12年の 9月、.相模湾沖を震源とした関東大震災は、横浜の街並みを焼き尽くし、家屋の倒壊消失 35,000棟、26,000人の死者をだしました。三溪が進めていた所蔵品図録の制作や美術館構想は震災で頓挫しますが、横浜市復興会、横浜貿易復興会の会長を務め私財を投じて復興に尽くします。政府から支援を取り付けると、いち早く生糸の輸出を再開して神戸に市場を奪われるのを防ぎ、三渓園では被災者を保護して炊き出しを行いました。震災後の横浜復興は三渓なしには成り立たなかったと言われます。 三溪記念館では12月 22日まで、古建築の修復を解説したパネル展 「三溪園の古建築修理月華殿と旧東慶寺仏殿」を開催中です。三渓園では古建築を守るため、臨春閣、月華殿、旧東慶寺仏殿などの修復・耐震工事を進めると同時に、調査研究も行っています。 原三溪は昭和 14年に亡くなり、第二次世界大戦の空襲で三渓園も被害をうけ荒廃します。次男良三郎の願いにより横浜市への寄贈が決まり、財団法人三渓園保勝会によって建物が修復されると昭和 29年に外苑が公開され、ついで昭和 33年には内苑も公開されました。三溪の遺した書画骨董は 8000点とも言われ、主要品の多くは東京国立博物館など公立の博物館に収蔵され、大和文華館、畠山記念館、出光美術館、MOA美術館、そして三渓園の三溪記念館(設計:大江宏)でもその一部を見ることができます。 日本の国土を守るため、鉄道新党の立ち上げを宣言します。石破首相はじめ鉄道オタクを自認する政治家は多いわけで、超党派で結束し世界に冠たる鉄道立国を目指します。民間企業となった JRを再国有化して、利益にたよらない国益第一で運用します。 北海道や日本海側で廃線があいつぐ地方路線についても、国防の一環として活性化します。採算のとれない路線の便数がどんどん減らされ、数時間に一本となると利用者が激減するという悪循環がおきています。例えばスイス山間部に鉄道網が張り巡らされているのは、自国の領域を示す国防の意味もあり有事には素早く軍隊を展開できます。北海道には鉄道しか通っていない場所があり、たとえ海外に占拠されても鉄道が無ければ人が入らず状況は分かりません。線路があることで人里離れた場所に保線員の方が入る効果は大きいのです。この辺は陸地に囲まれたスイスに比べ、まわりが海に囲まれた日本は意識低いですが、いまやドローンの時代ですから海の優位性は薄まっています。 新幹線網についてはトラックや航空便のかわりに、高速な貨物輸送として活用することで、トラックドライバーの就労時間問題の解決と航空便に使われる燃料の削減を実現します。太陽電池を線路に敷設し動力源として、温室効果ガスの「排出量取引」を売買することで赤字を補填できます。北海道から九州までの範囲の移動は新幹線の運賃を大幅に値下げして、なるべく旅客機や自動車を使わずに環境負荷の低減に貢献しま その54 青山ナシヲ す。これだけ新幹線網を整えたのですから、もっと利用すべきです。北海道まで新幹線が通ったにも関わらず、利用者が少ないのは旅客機よりも費用が高いせいです。地方から地方に人が動けば国の力は自然と強くなるでしょう。いま地方の街にいくと外国人観光客の姿ばかり見かけます。能登など天災を受けた場所にも沢山の外国人観光客風の人が入り、 写真を撮っています。 鉄道ファンは 150〜 200に数名の議員を送り込めるのではないでしょうか。 万人いると言われるので、まず衆議院 にお願いしたいですね。 日本の交通インフラを所管する国土交通省の大臣は、 2012年から公明党の方が務めていらっしゃいます。国土交通省が生まれた2001年、保守党党首だった扇千景さんが大臣になって以来、自民党と連立する政党にプレゼントされるポストとなったようです。羽田新航路の運用 はじめ建築、土木、交通を所管する国交省が、 年以上公明党の影響下 にあるんですね。地方からの陳情も多く、選挙対策や利権獲得のため国交大臣はもっとも旨味のあるポストといわれます。交通インフラは国の骨格ですからそろそろ将来を見据え、他国のいいなりにならず計画的に方策を進め、不合理な羽田新航路は一日も早くやめてください。 PR 担当は六角さん 10 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】 At the end of their lives, they reach something deeper, indeed. Perhaps it is infinite compassion for themselves and others. The souls of ordinary, nameless people die as the most tender things in the world. Copyrigt . 2024 Shiong All rights reserved 無断転載・複写を禁じます