被災された方の生活を支える
〈令和6年能登半島地震災害義援金〉
(日本赤十字社)にご協力お願い致します。
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https://collaj.jp/雨水 2025 能登路 恋しや LOVE NOTO 能登半島の先端 珠洲岬2024年元旦の能登半島地震以降、奥能登への交通は不便な状態が続いていましたが、現在は観光客も能登半島先端の震青い洞窟 / ランプの宿源に近い「珠洲岬」まで自動車で行くことができます。 『出雲国風土記』の国引き神話にも登場する珠洲岬は「聖域の岬」とも呼ばれ、古くから「万能の気力と願いが叶う場」とされてきました。富士山、分杭峠(長野)にならぶ日本三大パワースポットの一つとしても知られています。 ランプの宿の挑戦 400年の歴史を誇る「よしが浦温泉ランプの宿」。海沿いの湯治場を継いだ刀祢秀一さんは、木造の母屋を拡充しブランディングを図ることで、年間1万人が訪れる宿へと成長させました。 震源に近い珠洲市では、海岸が隆起しランプの宿も大きな被害をうけ、2025年 2月現在も再開されていません。刀祢秀一さんは数千年に一度といわれる海底隆起によって変化した海岸の地形を、観光資源として活かすことを試みています。 青の洞窟 かって仙人が暮らしたといわれる「青の洞窟」。産業技術総合研究所、富山大学の研究者による調査が行われ、活断層にヤッコカンザシ貝の痕跡が発見されました。何千年に何メートル程隆起しているのかを解明する貴重な資料になるそうです。 1975年、珠洲市で関西電力と中部電力による珠洲原発計画が持ち上がった際、ランプの宿は立ち退き対象となりました。刀祢秀一さんをはじめとする珠洲市民は、40日にわたり市役所で座り込みを行うなど反対運動を展開し、地元を二分するような闘争の末、2003年に計画は中止されました。原発予定地だった入江は今回の地震により約 1メートル隆起し、原発技術者も「ここに原発を建てるのはとんでもない話だ」と語ったそうです。もし珠洲原発が実現していたなら、福島のような事故が再び起こっていたかもしれません。 Vol.68 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ まるで宝石になった昆虫 甘い樹液に誘われて何千万年も閉じ込めたままのように 能登の復興を遅らせる 4つの理由 ■補正予算計上の遅れ被災した住宅の解体・撤去など、能登の復旧が遅れている要因として、国の財政支出があります。震災直後、国は能登地震に特化した補正予算を組まず、予備費を小出しにすることで対応してきました。国交省が補正予算 3704億円を計上したのは、2024年11月末になってからです。過去には、熊本地震(2016年 4月)で 7780億円、東日本大震災(2011年 3月)では 4兆円を超える補正予算が、約1ヶ月で組まれました。能登への支出が抑えられた理由として、財務省の提言「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、集約的な街づくりを進めるべき」があります。能登には山間部や沿岸に小さな集落が点在しており、独特の文化を育んできました。北前船の寄港地であった能登には、各地からさまざまな人々が上陸し、集落を形成してきた歴史背景があります。現在、国は小集落を廃村として集約的な町づくりを進めるよう、各自治体に呼びかけています。それに応じて、輪島市は復興まちづくり計画案で「輪島市街地を拠点とし、門前支所や町野支所のインフラ復旧や強靱化を最優先とする。それ以外の地域は、持続可能性、土砂災害や孤立リスク、行政コスト削減の観点から移転を支援する」という方針を示しました。 ■ 高騰する人件費に追いつかない予算国の補正予算の遅れにより、県や市も財源を確保できず、解体業者の人件費が低く抑えられたため、東北や九州など遠方の業者は採算が合わないため応援に行きたくても行けないのが現状です。また、宿泊施設の不足により、1日あたりの作業時間は短く抑えられています。その結果、町にはいまだに公費解体待ちの倒壊した家々が並んでいます。 ■ 住宅再建の難しさ公的な道路や上下水道、公共施設が復旧しても、個人宅や仕事場を再建しなければ町の維持は困難です。倒壊した住宅の再建は、依然として厳しい状況が続いています。全国的な資材高騰や職人不足が重なり、住宅の坪単価は150万円近くに上昇しています。今後、170万〜 200万円へと値上がりすると予測されています。公費解体が終わり更地になっても、標準的な住宅の建設費は 4000万円以上に達し、ローンを組めない年代の方々は再建を諦めざるを得ません。 ■ 能登の実情にフィットしにくい公的補助輪島塗の工房など、石川県の事業者に対しては、建物・設備の回復費用を 4分の 3補助(上限 15億円)する「なりわい再建支援事業」が打ち出されました。しかし、手続きが煩雑で、同じ場所での再開しか認められないこと、漆芸工房のような職住一体の再建が許されないことなど、規定が厳しく、能登半島での利用件数はまだ限られています。事業の再開が遅れることで、働き手の地元離れが進んでいます。 コラージ編集局は、2024年元旦に発生した能登半島地震の取材を同年1月20日に行いました。1年後の富山県氷見市から石川県輪島市に加え、能登島や珠洲市も取材しました。 全壊・半壊件数が 170棟以上となり、富山県で最大の被害を受けた氷見市ですが、中心街のアーケード「まりんろーど」は、ほぼ問題なく復旧が進んでいるように見えました。一方、最も被害が大きかった栄町新道では、液状化によって傾いた建物の解体・撤去が進んでいました。 長屋式に密集した住宅では、一体的な工事が進められていました。宅地液状化等復旧支援事業費の補助が始まり、北大町の比美乃江小学校と栄町の旧栄町医師住宅では、災害公営住宅 42戸の建設が予定されています。 能登島で生きる 能登島は、七尾湾に浮かぶ面積約 47キロ平米の美しい島で、能登島大橋と、ツインブリッジのと(当面の間通行止め)の 2つの橋で能登半島と結ばれています。 能登島は観光と漁業の島として栄えてきました。石川県能登島ガラス美術館(設計:毛綱毅曠)や能登島ガラス工房があり、ガラスの島としても知られています。のとじま水族館は日本海側唯一のジンベイザメを飼育し、イルカウォッチング、キャンプ、海釣りが楽しめ、石川、富山、岐阜などから訪れる家族連れで賑わいました。 能登島の男気にふれる 陶房 独歩炎 / 実家ふぇ 烏兎色 能登島曲町の高台に建つ「独歩炎(どっぽえん)」は、藤井博文さんによる陶房です。2024年元旦の能登半島地震では、窯場や製品に大きな被害を受けました。 ▲ 武者小路千家 正教授 渡辺守青さん。▼茶筅皿は太宰府の六弁の梅をモチーフにしています。 陶房で、独歩炎の藤井博文さん(右)とカフェオーナー兼漁師の秋元勇二さん(左)に、震災当時のお話を伺いました。藤井さんは震災前、古くからの知人 渡辺守青さんの依頼をうけ、武者小路千家正教授 拝受記念自祝茶会の記念品として青磁の「茶筅皿」を依頼されていました。2023年 12月に試作品をつくり、3月の記念茶会に向けて制作を進めようとした矢先、2024年元旦の地震に見舞われました。 藤井さんは1963年能登島に生まれ、愛知県瀬戸 で陶磁器のデザイナーとして活躍しました。1992年、ガス窯で焼き上げたばかりの器をはじ 瀬戸で陶房独歩炎をひらき独立。2002年能登島め、コンテナ 70個分の陶磁器が破損 に戻ります。デザイナー時代には様々な陶芸家やメーしました。幸い 23年ほど前に建てた陶 カーを訪ね、作陶法や陶土の調合、釉薬の配合な房は地盤が強かったためか、他の場所 どを独学し、自らも試作工房で作陶して技術を身にに比べ損傷は少なく済みました。ショー 着けました。「生活の道具として日々使える器を作りルームもようやく片付いてきたそうです。 続けたい」と語ります。 「色々なものに興味があるから、色々作りたい」と藤井さん。土鍋の取っ手には木の積層模様を土の色で表現。現代生活に合わせた IH対応の土鍋も手掛けています。難しい青磁にも挑戦し、作家からアドバイスを受けながら技術を磨きました。.島屋はじめ都心のデパート、ギャラリーの展覧会に参加し、陶磁器の通販ショップで取り扱ってもらうなど、首都圏のショップやユーザーとのつながりを大切にしてきました。陶房の建物はほぼ無事だったものの、築 100年を超える自邸は大きな被害を受けました。現在、藤井さんは新しい家を建設中で、玄関先を飾る大きな陶壁や手洗鉢を制作しています。 陶房から 500mほど離れた建設中の自邸にお連れいただきました。今はガラスが割れ、戸が閉まら ない家でなんとか暮らしているそうです。震災直後は断水や停電が続き、高岡の銭湯やコインランドリーに1カ月ほど通いました。能登島では、水道が「自己水」(地下水や河川を利用)と「県水」(県の水道網から給水)に分かれていて、自己水は約 1ヶ月、県水は数カ月かかって復旧したそうです。幸い浄化槽を使用していたため、トイレは水を運ぶことで使用できました。停電は1週間ほどで復旧しましたが、これも地域によって大きく異なりました。1月2日には首都圏の友人が支援に駆けつけ、企業からの支援物資も届き始めました。藤井さんは 4WDハイラックス(ピックアップトラック)を支援物資輸送車として、ガタガタの道を島中走りながら避難所や炊き出しに支援物資を届けました。藤井さんの幼馴染秋元勇二さんは、1本釣りの漁師をするかたわら、藤井さんの新居の向かいでカフェを運営しています。能登島では見事なマダイやタチウオなど豊富な魚が獲れますが、今は地元の需要が少ないため、市場の競りにかけても安価にしか売れないそうです。 秋元勇二さんは数年前、不治といわれた癌治療を乗り越えました。それを機に 20年勤めたキャンプ場(家族旅行村 Weランド)から漁師に転身し、後輩から譲り受けた船(第三 新丸)をあやつり大物のマダイを何枚も釣り上げています。2023年 9月には、釣りたての魚を提供する「実家ふぇ 烏兎色(うといろ)」をオープン。鮮魚のフライ定食や手作りスイーツを提供し店が軌道にのりはじめた矢先、2024年元旦の震災に見舞われます。 ▲コーヒーカップやランチの大皿などには藤井さんの作品を使っています。 地震によって築 250年の自宅の古民家は大規模半壊し、能登島生涯学習センターに避難したもののトイレが使えず大変な状態でした。結局カフェで寝泊まりすることになりましたが、震災直後は調理器具や食器が散乱していたそうです。その後仮設住宅に移り、4月半ばから週末限定で営業を再開。現在は自宅の解体・復旧のためカフェは休業中です。囲炉裏のある古民家部分は解体し、比較的被害の少ない部分の復旧が進められています。 秋元さんがカフェを開いたのは、自分が釣った魚を能登島を訪れた人に直接提供したいという思いからでした。「魚が獲れた海を見て、それを釣った人、調理した人と出会うことで、能登島全体を感じてほしい」と秋元さん。お刺身にできるほど新鮮な魚をあえてフライにし、奥様手作りの惣菜や能登島米と一緒にワンプレートで提供しています。紅茶やコーヒー、シフォンケーキにも能登島の素材を使い「能登のものを食べてもらうことが復興の証。そのためには観光の復活が大きな課題です」と秋元さん。紅茶は近くの茶畑で採れた茶葉を金沢で紅茶にした「いやひめ」を使用。コーヒーは珠洲市で焙煎された二三味(にざみ)珈琲、シフォンケーキの米粉にも能登島米を使っています。藤井さんがカフェのために焼いた特製カップは、磁器の原料を釉薬に混ぜることで独特の風合いを生み出していました。 復興のカギを握る 和倉温泉の復活 能登島の漁業や経済に大きな影響を与えているのが「和倉温泉」です。老舗の加賀屋をはじめ、大半の旅館やホテルが休業中で、復興には数年を要すると言われています。能登島の漁師にとって、和倉温泉の需要は大きなものでした。しかし現在は、消費地である富山や金沢へ魚を運ぶ経費がかかり、仕入れ値を安く抑えるためのしわ寄せが漁師に及んでいます。大きな被害を受けた加賀屋は、別の場所に隈研吾さん設計の新旅館を建設する予定で、2026年冬の開業を目指しています。客室を 50室に絞り全室露天風呂付きにすることで、高価格層をターゲットにするようです。曲町の鎮守・大宮神社。2024年 9月の能登半島豪雨で大きな被害を受けましたが、石の鳥居は七尾湾に向かってしっかりと立っていました。信仰心の篤い能登島では、各町ごとにお社があり、10月になると連日にわたってどこかの町で秋祭りが催されます。 能登島向田港。震災時は津波の被害があり漁船が道路に打ち上げられました。 向田町の市民センター駐車場には、七尾市の応急仮設住宅約 50戸が 2024年 3月に完成しました。細長いコンテナ型の1〜2人用タイプ(面積約 20平米)が中心で、ひとり暮らしの高齢者も多いようです。今後は単身世帯のケアが大きな課題になると思われます。 ら 158 食文化ヒストリアン英国骨董おおはら 卓上のき星たち★塩と砂糖とスパイスの帝国ヴェネツィア その1大原千晴 水の都ヴェネツィア(イタリア)は西暦1500年頃その最盛期を迎える。広大なラグーン(潟=浅瀬)に浮かぶ島々を隅々までつなぐ大小の運河。人や荷を載せたゴンドラがひっきりなしに往来し、リアルト橋周辺では、遠来の品々を取引する商人の叫び声が絶えまなく聞こえている。ここでは船が馬車や荷車の役割を果たしている。この水上都市の動脈である船(ゴンドラ)を漕ぐ若い男たちの中には、左右の足が別々の色、例えば朱と緑の布地で仕立てられたピッタリとしたタイツに、上はカラフルなシャツや上着で、今見てもカッコいい奴らがいる。こうしたおしゃれなゴンドリエ(漕おしゃれなゴンドリエたちぎ手)が乗る船は多くの場合、貴族や有力貿易商のもので、今ならさしずめ「派手目の制服を着た運転手付きの高級車」といったところか。座席が幌で覆われた贅沢なゴンドラには、豪華な衣装を身につけた男と、東方からもたらされた見事な布地で作られたドレスをまとった女の姿が見える。絹ずれの音の合間に麝香の香りが漂う。そのゴンドラから見える小さな広場の奥には、堂々たる男たちの姿が。その衣装が凄い。頭に大きなターバンを巻き、ずっしりと重みのありそうな贅沢な布地の、くるぶしまである長いコートを羽織っている。まるでアレキサンターバンを巻いた長老たちドリア(エジプト、カイロ近郊の国際港湾都市)の長老たちのようだ。さらに視点を移すとヴェネツィア名物リアルト市場が見えてくる。 ヴェネツィアはスパイスをはじめとする東方からの物産の欧州最大の集散地だった。その交易の中心がリアルト市場周辺で、ここはヴェネツィアで最も重要な取引の場であると同時に、贅沢品から食品・日用品まで様々な店が軒を連ねていリアルト魚市場た。中でも有名な魚市場では、イカ・タコ・エビ・カニ・シャコ・イワシ・アンコウに様々な貝類まで、ラグーンの豊かな海の幸が所狭しに並ぶ。他にも、野菜、果物、肉、香辛料などの業者の店が軒を連ねる。サラミやソーセージを売る店も目立つ。しばらく前からヴェネツィアでは「肉食」(牛・豚・羊)が盛んになってきていて、豚肉の加工品を製造販売する業者のギルド(同業者組合)が成立したのもこの頃だ。では、その「肉」は リア本土とダルマチア どこからヴェネツィアに運ばれてきたのか?ラグーンに浮かぶ群島の狭い土地では畜産に限りがある。この頃ヴェネツィアの市場に並ぶ食肉の供給源は、主にイタ 地方だった。ダルマチアとは、現在のクロアチ アをはじめとして当時ヴェネツィアが支配していたアドリア海沿岸の諸地域のこと。この地域はヴェネツィアとは歴史的に密接不可分の関係にあり、様々な食の供給源として、また、商船団の停泊地として、重要な役割を果たしてきた。そのため、この地域とヴェネツィアの間では、興味深い食文化のやりとりが見られる。では、再び、運河に戻ろう。 ゴンドラの行き交う運河沿いに立ち並ぶ壮麗な建物は、様々な建築様式が混在し、そこに中東や東方の雰囲気も感じられて、運河を進む船から眺めていると、その移り行く様は見飽きることがない。これらの建物を建てるためには、ラグーンの砂地を貫いて数百本から数千本の杭を打ち込む必要があり、これを覆うように分厚い板とイストリア産の石材で基礎(土台)を築き上げた上に建てられている。莫大な資金と労力と建築技術があって初めて可能となった建築群であって、まさに東方交易で繁栄するベネチアの富と力を象徴している。多くの建物は幾度となく起きた大火災で改築や補修を繰り返しながらも、中には500年前の様子を留める建物も 15 ある。それだけでも凄いと思わざるを得ない。 ■繁栄の源泉 こうしたヴェネツィアの繁栄はいったい何によってもたらされたのだろうか。中世から世紀末頃まで、ヴェネツィアの富の源泉の土台は、塩と砂糖とスパイスによってもたらされたものだった。そんなもので大儲けができる? それが当時はできたのだ、それも驚くほどの大儲けが。まずは、史上有名な胡椒を筆頭とするスパイス交易から。ヴェネツィアは中世末期から1500年頃まで、欧州スパイス交易の中心地 11 だった。宿敵ジェノヴァやピサの商人たちと競い合いながらも、強力な海軍力と数千隻の商船の活躍によって、アドリア海からエーゲ海、さらには黒海にまで至る沿岸や島々に拠点を築き、海洋交易網を築き上げていった。この交易網を通じて、胡椒をはじめとする膨大な量のスパイスが東方からヴェネツィアに運び込まれていく。ヴェネツィア人たちは自分たちの儲けを守るために、知恵を絞り、競合する他の地域の商人たちがスパイス交易に参入することを防いでいた。その執念は大変なもので、ある意味「商売の利益のためなら何でもありで、手段の清濁は問わない」という感じがある。世紀から数次にわたって繰り返された、キリスト教徒によるイスラーム圏攻撃である十字軍。この十字軍の戦でのヴェネツィア人の行動は、まさに「商売の利益のためなら事の清濁を問わない」そのものだ。だが、それほどの凄まじい執念があったからこそ、もともと何も無いラグーン(潟地)に浮かぶ小島が、東方からの物産とスパイスの香りが満ち溢れる、全欧州でも突出して豊かな都市国家となり得たのだ。同じ資源なき島国日本の前途を思う時、ヴェネツィアの歴史から得られる教訓は限りない。 ■薬種商 そのヴェネツィアの富の象徴であるスパイスを取り扱っていたのが、リアルト橋の周辺で活発な商売を繰り広げていた「薬種商」たちだった。この薬種商、現代の (Dalmatia) 我々が想像する「薬屋」というものとは、かなりイメージが異なる。というのも、この「スパイス」という言葉の持つイメージ(指し示すもの)が、当時と現在では大きく異なっているからだ。その一方で、現代の薬局的な店、化粧品に力を入れる店、食関連のスパイスに力を入れる店など、現代のドラッグストアに通じる基本的な要素は、すでにここで出来上がっている、という感じもする。面白いのは、化粧品の店以外は、基本、お客は男性中心で、アッパーミドル以上の余裕のある層の男たちだったという点だ。衛生用品的なものから風邪や下痢止めまで扱っていて、医師の処方に基づき、お客が待つ目の前でスパイスを砕き、調合し、計量した上で販売していた。医師と薬種商の役割分担と医薬品の素材公開など、様々な細目がヴェネツィア政府によって厳しく規定されていたことは注目に値する。一方、薬種商の店内には常連客が集まり、薬の出来上がりを待つ間、店の主人と客の間で、また客同士で世間話に花が咲くという感 2 じで、最新ニュースを知ることのできる社交の場ともなっ 17 ていた。実際当時の薬種商の店づくりは、そのことを意識して、内装の見事さを競い合っていたという感がある。 少し後の時代のヴェネツィアの薬種商の店内を修復復元した建物の写真を見れば、その雰囲気がおわかりいただけるはず。特別なツボに入れられた各種スパイスがずらりと並び、内装もかなり贅を凝らした趣向となっている。薬種商のお客たちは、このような贅沢な空間で、会話を交わしながら薬を調合してもらっていたわけで、現代日本の調剤薬局の殺風景で寒々しい空間とは天と地ほどの差がある。中には待合でテレビが付けっぱなしという所もあり、とても薬を貰いに来た人(=その多くは病院帰りの患者)への配慮があるとは思えない。そう思いたくなるほど、当時のヴェネツィア(及びイタリア諸都市)の薬種商の店構えは立派なものだった。 こうした中で一部の薬種商は、料理用のスパイス・ミックスを調合して販売していた。ここで重要なのは、この当時のスパイス・ミックスは「調味や風味」のために使われたものではない、という点だ。ではなぜ高価なスパイスを料理に使ったかといえば、それを用いるような階層にとって「料理」は、基本的には健康促進のための「薬膳的料理」が主体だったからだ。「人間の体の構造と医療の関係」および「医療と食の関係」、そのつの関係に対する考え方が、現代とは全く異なる原理原則で考えられていて、スパイスはその原理原則の中で使用されていた。話が長くなるのでこれ以上の説明はここではしない。しかし当時スパイスが料理に使用されたのは、基本的に「その薬効が期待されたから」なのであって、「料理に味わいや風味が加わる」というのは、あくまでもその副次的な効果に過ぎない。「スパイスの使用は長寿健康に役立つ!」その強い思いがあったからこそ、当時の王侯貴族たちは、目が飛び出るほど高価なスパイスを料理に多用したのだ。従って当時は、それが料理に使われた場合も含めて、「スパイス=医薬品」だったということに尽きる。この「スパイス=医薬品」という考え方は、西欧社会では世紀後半に至るまで、ほぼ1500年を超える長期間、常識とされてきた。それだけに、この点の理解なくしては、西欧食文化の歴史を語ることはできない。 次回へと続く 七尾湾に面した田鶴浜の街。2024年1月20日に訪れた際は、倒壊した住宅のガレキが道に散乱していました。1年経った今、道はきれいになり、公費解体された住宅の敷地は更地になっています。2025年 2月 8日、大雪に見舞われた七尾市や珠洲市では、公費解体待ちの住宅が雪の重みで倒壊する事故が起き、田鶴浜でも駅に近い家屋が倒壊しました。田鶴浜の名刹東嶺寺は、昨年1月とほぼ変わらない姿のままでした。見事な山門は一部損壊で済みましたが、本堂や庫裏、土蔵が半壊し、納屋は全壊しました。田鶴浜は「建具の街」として知られますが、建具の技術は東嶺寺建設に関わった指物師から伝わったといわれます。 「NOTO水ようかん」は中島町の湧き水や北海道小豆十勝野を使い、寒天の配合や製造法を徹底的に追求した逸品。若緑色の「えがらまんじゅう」は地元の方に人気です。 能登情熱和菓子店「すぎもり」は、田鶴浜で100年近く続く老舗菓子店です。家屋倒壊が多い田鶴浜で、2024年 2月から営業を再開し話題となりました。店主の杉森さんは、ボランティアの方や知人が自分のお菓子で喜んでくれる顔を見て嬉しかったと語ります。やがてテレビや婦人誌で紹介されると全国からインターネット通販でお中元などの注文が殺到し、OMOTENASHI Selectionにも選定され、首都圏のバイヤーとの取引も進んでいます。いま不安なのは地域の方が約 3分の1に減っていることや、和倉温泉など観光客が戻らないことだそうです。やはり、田鶴浜で愛されてきた和菓子屋として、地元の方に早く戻ってきてほしいという思いは消えないようです。 「能越自動車道」や「のと里山海道」は応急復旧工事により対面通行が可能となり、奥能登へのアクセスが向上しました。 復興関係者の宿泊を優先する施設が多い中、体験交流施設「ラブロ恋路」では、2024年 9月より一般観光客の宿泊を受け入れ、朝・夕食の提供も再開しました。また、能登半島地震や奥能登豪雨の影響で入浴が困難な方々への無料入浴支援も継続しています。客室のバルコニーからは、美しい能登の海を一望できます。 恋路海岸 700年ほど前の悲恋伝説に由来し「恋人たちの聖地」として知られる恋路海岸。美しい海岸線は約 1.5メートルの津波に襲われ、岩場の崩落などの被害を受けました。 輪島市 天領黒島地区 復興の道筋を模索する重伝建の街 輪島市黒島地区は、昨年 1月 20日の取材時とほぼ変わらない姿を留めていました。 国の重要文化財「旧角海家住宅」はじめ、約600棟のうち約4割が全半壊した輪島市門前町黒島町(天領黒島)。伝統的な街並みを復興できるかどうかの判断を迫られています。 重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)である黒島町では 228棟が全半壊し、被害をうけた多くの家々にブルーシートが掛けられていました。町の復興を目指す地元有志によって「黒島支援隊」が結成され、全国から集ったボランティアと協働して道路からはみ出たガレキの撤去や家の片付け、災害ゴミ回収、ブルーシートの敷設などが行われています。 重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の黒島町では、建物の解体をするためには市の審議会による審議が必要です。全半壊した 228棟のうち 2割弱の所有者が公費解体の申請をして、土蔵など数件が「解体やむなし」との答申をうけたようです。このままでは 2次被害を及ぼす可能性もあり、町並み保全との難しいバランスが問われています。かつて北前船で栄えた黒島の海は、海底の隆起により200mほど海岸線が後退しました。奥には 4mも海底が隆起した鹿磯漁港が見えます。貴重な家財道具や古い日用品が捨てられていくのを見て、文化財として保存しようという活動も生まれています。2007年能登半島地震の被害を受けたあとも、古い町並みを守りぬいた「天領黒島」。その伝統は様々な世代の人達に受け継がれているようです。輪島市では重伝建地区の建物修理の補助率を現行の最大8割から9割に引き上げるための補正予算案が提出され、坂口茂市長は「支援を手厚くし、昔ながらの景観を守っていけるようにしたい」と述べています。 海底が隆起して地面が見えていた漁港には、1年で草花が育ちました。通常、露出した海底は塩分が強いため植物は生えにくいとされてきましたが、山の地下水が湧き出すことで植物の生えやすい環境が整ったのではと考えられています。 かつてはここも海でした。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 36時間目 写真&文大吉朋子 創造力を働かせ、自由に楽しむ 3月。 前向きにポジティブに、創造力を活性化し、楽しむことこそ流れに乗っていけます。 2025年 3月のエネルギーは「3」。前向きで楽しいエネルギーをまとっています。世界全体に、「楽しもう」「自由に」「前向きに」というエネルギーが流れますから、個人レベルでも軽やかにその流れに乗ってしまいましょう。 変化の激しい昨今、時間の流れもモーレツに加速しているように感じます。いつもなら巻き込まれることには抵抗しがちでも、この 3月は速さも含めて「流れに乗る」を意識して、軽やかにいってみるのがポイントです。 また、クリエイティブな思考を爆発させるのにもいい時。子どものように自由気ままに発想するマインド設定で。寒い冬空のもと、身軽に風をきって走りまわる子どもたちのように、大人も肩をすくめず身軽にビュンビュン進んでいきたいです。 3月は、「考えてからやりなさい」といういつもの振る舞いよりも、楽しそうならまずはやってみたら?のスタンスで、考えすぎず、楽しんでやってみるのが良さそうです。 私のスピリチュアル体験。 12年前に訪れたセドナ。「パワースポット」として世界中から観光客が来る聖地とされながら、当時の私は “スピリチュアル “にほとんど興味がなく、それらしき体験もしたことがなく、セドナが特別な場所だといわれることにもあまりピンときていなかった。ただ、憧れのアンテロープキャニオンに行くためにセドナへ行くことになった。 初めてのアメリカ大陸。しかもひとり旅。出発まであまり時間のない中、無事に目的地に辿り着けるようにどこかのツアーに申し込んであの景色を見るんだ!という思いだけでネット検索して、それらしいツアーの申込みをした。 アメリカに入りセドナに到着したのはもう日付が変わるくらいの夜。ようやくホテルに到着し部屋に入った。ほっとするやいなや突然部屋の電話が鳴った。「こんな夜に、しかも着いたばかりなのになぜ電話??」と受話器を取ると年配の男性の声で日本語が聞こえてきた。申込みをしていたツアー会社の方だった。 すごいタイミングの電話にびっくりしながら話を聞くと、明後日に申し込んでいたツアーは私 1人しか参加者がおらず、1人ではツアーができないといい、途方に暮れそうだったが 2人分の費用を支払えばツアー可能とのこと。一瞬迷ったものの、ここまで来て目的地に行けないなどあり得ない。あれこれやっている時間もあまりない…ということで、2人分をお支払いしてツアーを催行してもらうことにした。私にしては思い切ったなと思うけれど、その時の体験と感動は値段をはるかに上回る素晴らしいもので、大満足だったことは今でも大切な思い出である。 ツアー当日の朝、8時にホテルのロビーで待ち合わせ。憧れの場所への期待と興奮、一日中ガイドさんと二人行動という不安と緊張感。ロビーで待っていると、まもなくして日本人男性がやってきた。60歳過ぎくらいの日本人らしい風貌だった。簡単な挨拶をして車に乗り出発。突き抜けるような青空で空気も透き通り、不思議なほど疑うものが何もないような清々しい感じ。そして車に乗った瞬間、においに敏感な私だが、車内の空気に何ひとつひっかかりがなくクリーンな状態であることに驚いた。なんだか「気」がいい感じだった。 そのガイドさんはアメリカに 35年以上住んでいるという。これまで様々な方たちのアメリカガイドをやってきた話など簡単な自己紹介も聞きながら、話はするすると進んでいく。話の詳細ははっきりとは覚えていないけれど、ふだん母と話すような「人間」についてや人生の話など、初対面で年代も違う二人の会話とは思えない、自然で深みのある話がスムーズに展開していった。違和感なく話してはいたものの、あまりにも急展開で思わず聞いてみた。「あのー、お会いしてから15分位しかたっていないですが、ずいぶん深い話をしていて、違和感もないです。これは一体何でしょうか?」と。するとガイドさんは「大吉さんがそういう方だからですよ」と言ってまた話を元にもどし、私も「そういう方なのかぁ」と思ったまま自然に会話を続けた。ずっと心や思考の奥深いところで話しているような、実に不思議な感覚だった。 アンテロープへの道中、ずっと話は切れることなく続いた。数時間の移動は瞬く間に過ぎた。途中、緑のない地域、民族の暮らし、土地のエネルギーの話など普段の生活では触れることのない世界の話もたくさん聞くことができた。あまりにも自分の日常とかけ離れた世界で、当時の私には言葉に尽くせない刺激が降り注いでいた。 アンテロープキャニオンは期待を裏切らない美しく神秘的な場所だった。現実と非現実の境目、静かな興奮が自分の中に吹き荒れて、感動を言葉にする難しさをこの時ばかりは本当に思った。 その後、ホースシューベンドともうひとつ名所を見てセドナへの帰路、予定よりも大幅に時間がかかっていた。あとから知ったが途中の道路で崩落があり道が封鎖され、かなり遠回りをしたということだった。私は興奮しすぎてまったく気が付きもせず、不思議な ”スピリチュアル ”な話に夢中になっていた。 翌日もセドナの名所へ案内していただき、絶景のサンセットと大きな月を拝むことができた。満月の夜だった。カセドラルロックという少しトレッキングする高所で、そこまでの登山中もまた意味深い話が続き、この日も不思議な時間を過ごした。ただ一番驚いたのは満月の大きさで、現実とは思えない度肝を抜くデカさに見えた。 セドナで過ごした数日は本当に不思議だった。言葉にするとかえって薄っぺらくなってしまうような感情が心の奥深いところで沸き上がる。ガイドさんとの不思議な話はまるで呼吸するかのようで、内容を思い出そうとしてもはっきりと思い出せない。けれど、私の今後の人生でやるべき仕事はどういうものか?みたいな話をした際、「らしい仕事をすることです」と言われたことはずっと頭にこびりついている。「らしい仕事」って?と尋ねても、「らしい仕事です」とだけ言われ、解けないナゾナゾみたいにずっと頭に置いてある言葉。 帰国後、あらためて申し込んだツアーの概要を見てみた。なんと、「おひとりでご参加の場合は道中チャネリング付き」と書いてあった。チャネリング…そのガイドさんはいわゆる「ヒーラー」という類の方だったのだ。 無知も良し悪し。今ならもっと違う話をしたのかなぁと思ったりもして、それでも当時の純粋だった私だからこそ自然に話せたことも多かっただろうと思う。とはいえ、高次元な話過ぎて、言葉としての理解までで精いっぱいだった内容も多かった気がしている。いずれにしても、私にとって人生初のスピリチュアル体験。なんとなく高次元な世界。それ以来、あの時の話が今につながっていると感じたりもして時々思い出す。現実では理解しえない人智を超えた世界はおもしろい。 2024年 9月21日〜23日にかけての能登半島豪雨によって、輪島市、珠洲市、能登町など奥能登(半島北部)を中心に河川の氾濫や土砂崩れが相次ぎ、16人の方が亡くなり、1600軒が被害を受けました。3時間で1カ月分の雨が降った輪島市街地付近では、久手川町塚田川の氾濫により家が丸ごと濁流に押し流され、行方不明となっていた中学3年生の女子が 9日後に福井沖で発見されました。宅田町では、河原田川沿いの応急仮設住宅団地に水が押し寄せ、140戸以上の仮設住宅が水没。住民はずぶ濡れで市立輪島病院に避難します。河原田川に沿った七尾輪島線からは、今も氾濫や土砂崩れの爪痕が見えました。 辛 綺 災害が度重なることで、能登半島の人口流出が進んでいます。輪島市の人口は 22,000人ほどでしたが、輪島市中心部で 28%、輪島東部で 37%の人口が減少したというデータがあります。これは携帯電話の位置情報から算出されたもので、公的なデータは住民票の移転に基づいていますが、住民票を残したまま能登半島以外で暮らす家族や、転校した子どもが多いと考えられています。 輪島市街地 祈りと再生の街 奥能登豪雨により、河原田川と鳳至川が合流する輪島の中心街、河井町、鳳至町も広範囲にわたって泥水に浸かります。水が引いた後、市民は泥の撤去に追われました。大規模火災によって焼け野原となった朝市通り周辺は、ガレキの撤去が終わり更地となっていました。2024年 12月に発表された輪島市復興まちづくり計画では、朝市の再生プロジェクトが復興に向けたシンボルに位置づけられています。計画は約 10年を目処にしており、令和 8年までの復旧期、令和 12年までの再生期、令和 16年までの創造期と段階的な復興を目指していますが、具体的なグランドプランはまだ描かれていません。実際には住民票の転出件数よりも、輪島市を出る人は多く、輪島の中心街は1年前よりも人が少ないようにさえ見えました。 輪島の塗師屋として江戸末期から続く「大崎漆器店(輪島塗塗師屋大崎庄右ェ門)」を訪ねました。4代目当主の大崎四郎さんに被災した建物を案内して頂きながら、2024年元旦からの日々を伺います。大崎漆器店の建物は 2つの通りにまたがる大きな塗師屋のつくりで、2014年国の有形文化財に登録されました。2024年元旦の能登半島地震では、3棟の土蔵が全壊しました。 震災前の工房の様子。 撮影 /森博樹 間口の狭いうなぎの寝床状の敷地に、住居兼ショールームの主屋、道具蔵、塗師蔵、奥蔵の 3棟の土蔵が立ちならび、漆器の職人たちは気温の変化やホコリの少ない土蔵で制作を行っていました。輪島ではこのような塗師屋の配置を「住前職後」と呼びます。朝出勤した職人たちは茶の間の主人に挨拶してから工房に入るのが古くからの習慣で、こうしたスタイルを残した塗師屋は輪島でも大崎漆器店だけでした。 震災後、全国からボランティアが訪れ土蔵の解体を進めながら、ガレキに埋まった漆器や刷毛など貴重な道具を掘り起こしました。私的な解体で出たガレキは集積場に引き取ってもらえないため、撤去は公費解体を待つ必要があります。2007年能登半島地震でも土蔵は壁の崩落など大きな被害をうけましたが、大崎さんは 3年をかけて土蔵を再生していました。大正期に建てられた主屋は能登の大工の技を結集した丈夫な建物で、柱に通貫を通した土蔵に似た構造になっています。2007年能登半島地震の際は建物全体が礎石からずれるように移動することで倒壊を免れました。それを機に道路に面した部屋はショールームに改装され、漆文化を伝えるもてなしの場となっていました。 柱、腰板、階段などの木部は、朱合漆で仕上げてから組み立てられています。柱が途中で折れた跡からは、地震の凄まじさが伝わります。家族揃って主屋で元旦のひとときを過ごしていた大崎家でしたが、地震で階段が壊れ 2階に取り残された奥様を孫と一緒に救出し、津波警報が出るなか自動車で高台に避難。元旦の夜は、そのまま車中で寒さに震えながら過ごしたそうです。 主屋を再生したいと考えた大崎さんは、応急の筋交いを入れて建物を守っています。▲ 歴代の漆器を収めた漆塗りのショーケース。 大崎さんは1kmほど離れた 3階建ての建物を借り、工房の仕事を再開しています。1階から3階までガレキから掘り出した漆器や道具が所狭しと置かれていますが、救い出されたのは全体の 40分の1ほどしかないそうです。主屋のショールームに置かれていた漆塗りのショーケースには江戸時代から続く漆器の見本が収めらており、訪れる人を魅了していました。 2階には仮の作業場がつくられました。輪島塗の特徴のひとつは、輪島でとれる珪藻土と漆、米糊などを混ぜた「のべ漆」を塗り重ね堅牢な下地を作ることにあります。これにより100年使い続けられる器が出来ます。大崎さんは貴重な岩手産の国産生漆を長期間寝かせて使っていましたが、震災で失われ数百万円をかけて岩手から取り寄せました。中国産に比べいやな匂いがなく、表面のふっくらとした輝きが保たれます。現在は乾燥に欠かせない回転風呂がないため他の塗師に乾燥を依頼しています。漆は酵素の働きによって乾燥するため、場所によっても仕上がり感が変わるそうです。大崎さんが懸念しているのは、職人が輪島を離れていくことです。復旧の遅れによって仕事場や住居がない状態が続き、多くの職人が富山、金沢といった避難先に生活拠点を移し始めています。大崎さんは「子どもを学校に通わせるともう輪島には帰ってこない」と心配します。輪島では分業が確立していて、製品の企画・デザイン・販売を担う塗師屋、木地をつくる木地屋、漆を塗る塗師、仕上げをする呂色屋、加飾する蒔絵師・沈金師などが高い技術力をもっています。また江戸時代には、塗師屋は北前船を利用して全国へでかけ注文をとり一貫した製造・販売体制を築いていました。能登半島の田鶴浜町三引遺跡からは縄文時代 6800年前の漆塗櫛が発掘されています。輪島塗の技術は北は津軽から南は沖縄まで全国に伝搬し、漆芸の技術向上に貢献してきました。輪島市の復興まちづくり計画の中でも輪島塗はじめ伝統文化の再興が重点プロジェクトのひとつとなり、輪島塗仮設工房の整備や国内外の販路開拓、若手への技能伝承などがあげられています。「輪島塗にとって今回の震災は、多品種少量生産の質の高い漆器を自ら客に届けるという、本来の輪島塗のあり方を取り戻すチャンスかもしれない」と大崎さん。日本の文化に根ざした生活の器を、ひとつでも暮らしの中で使っていきたいと感じました。輪島市復興まちづくり計画では、重点プロジェクトの一つとして「生活拠点の集約」が掲げられました。輪島市街地を中心拠点とし、門前支所や町野支所を地域拠点と位置づけ、インフラの復旧や強靭化を最優先に進める方針です。一方で、土砂災害の危険性が高いエリアや山間部では、孤立リスクや将来の行政コスト削減の観点から「希望者の移転を支援する」とされています。建築コストの高騰により住宅再建を諦める人も多く、今後、山間部や沿岸集落の集約化が進むとみられます。 ドラゴンシリーズ 124 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) AIのくれた静寂 サンフランシスコに降り立った。 iPhoneに自動運転タクシー 「WAY MO」のアプリをダウンロードし、カード決済を登録す る。初めての体験なので少しドキドキしながら、行き先の住所 を入力してタクシーを呼ぶ。 2分くらいでスルスルと誰も乗っていない無人タクシーがホ テルの俺の目の前でピタッと止まった。アプリの U n l c k のボタンを押すとドアの取手がボディの中から出てきたので、 俺は後部座席のドアを開けて乗り込み、後部座席のモニターの S t a r tボタンを押した。すると、誰も座っていない運転席 のハンドルがクルクルとひとりでに左回りに動き初めてスルス ルと何気なく車線に出て走り始める。運転手のいないタクシー。 行き先を告げる必要もなく、苦手な世間話の煩わしさもない。 気性の荒いドライバーの運転にハラハラすることもない。 静かな車内で俺はゆっ たりと流れるパット・メ セニーのギターを久しぶりにゆっくりとした気分 o で聴きながら流れるサン フランシスコの風景を楽 しんだ。なぜだか無人タ クシーには妙な安心感が あった。行き先までのル ートを心配する必要もな く、料金を気にすることもない。最新の A I技術によって事故 対策が施され、安全性への信頼感は人間のドライバーをはるか に超えている。 車内が完全に自分ひとりだけの静寂な空間なのだ。世界の中 に少なくなってしまった落ち着いた安心感と静寂な自分だけの 時間をまさか自動運転タクシーの中で味わうとは思っていなか った。もうサンフランシスコの街中には、無人の自動運転タク シーがそこら中に数多く走りまわっている。 数年前、 U b e r運転手の登場によってタクシードライバーの仕事が奪われたという声を世界中で聞いた。しかし今度は U b e rのドライバーが無人の自動運転タクシーに自分たちの仕事を奪われたと言う話をサンフランシスコでは聞くようになった。東京でも世界の主要都市ではまだ人間が運転するタクシーが中心で U b e r配車もまだまだのように見える。しかし数年でこの風景も劇的に変化してゆくだろう。年後くらいには確実に物流の世界も完全な自動運転に移行するのではないかと言う確信を得た。 A Iによる自動化、そして人間から A Iへの転換は、すでに俺たちの生活に深く浸透しつつある。普段の文章作成や翻訳はもう完全に A Iが人間から仕事を剥奪した。正直に言うと世知辛いこの人間社会の中で A Iや機械による利便性は、人間関係の煩わしさから解放されるだけ気楽で快適な面も多い。俺みたいなズボラで適当な人間は 10 A Iと付き合っている方が気楽だし、最近は A Iも何だか人間より人情味があったりするから恐ろしい。 ものづくりの世界でも機械化が進み、重要な製造工程は 3 Dプリンターや C N Cの自動切削機械によって行われるようになった。これらは人間の手作業よりも精度が高く、正確で、効率的かつ安全だ。どの分野を見ても、 A Iと自動化が進み。職人たちが担ってきたものづくりの現場から、人間が消えつつある。 それは俺たちの日常の仕事でも製造部分だけに及ばず、これまで人々が感覚的に判断してきた業務オペレーションまでも統計を駆使した AIによる業務が遂行できるようになり、そのスピードはますます加速してゆき、もう直ぐに、数年後には世界中の仕事のあり方までも大きく変貌しているだろう。それが現代の人間社会の自然な流れであり正当な進化のような気がする。 暖かなサンフランシスコから極寒のニューヨークに移動した。ニューヨーク、そしてアメリカはトランプの登場で以前のそれまでの空気感とは激変し、とても陽気でポジティブな空気感に溢れかえっている。ケネディの時代からこれまで背負ってきた世界各地や移民に対する善意と寛容さ、そして世界の正義に対する責任を放棄したアメリカはトランプの登場によって再び強さと自由を獲得したかのように見える。多くの人々が声高にこれからのアメリカの自由と繁栄を声にしているように感じた。 人間の存在と世界のこれからはどうなるのだろうか。と言うことを考えさせられた。 九十九湾 日本百景にも選ばれた九十九湾(能登町)も震災による津波の被害を受け、イカ釣り船が港に打ち上げられました。名物の「イカキング」には、遠方から見学に訪れる人の姿も見られます。リアス式海岸の九十九湾。かつては海底の砂地に藻場が広がり、ナマコやウニ、ウミウシが生息する豊かな海でした。今は津波によって運ばれた岩や河川の泥が堆積し、生態系に大きな影響を与えています。2020年、コロナ禍での観光誘致対策として企画された「イカキング」は、全長 13mの巨大遊具。SNSで話題となり、奥能登のシンボルとしての地位を確立しました。内部には子どもが入って遊べます。「イカの駅つくモール」では、イカを使った食品やイカ釣りの歴史を紹介しています。 能登町の Route35(能都内浦線)は、海の絶景を楽しめるツーリングルートとして地元ライダーに人気です。特に富山湾に面した内海は、冬場でも穏やかな日が多く、海岸にはアルベロベッロを思わせるトンガリ帽子の家が並んでいました。この「インスタントハウス」は、名古屋工業大学の北川啓介教授が開発したものです。空気でテントを膨らませ、内側に断熱材を吹き付けることで、約 20平米、8〜10人が入れる快適な空間を作ることができます。北川教授は、東日本大震災の際に避難所の子どもたちから「建築家ならすぐに家を建ててよ」と言われたことに衝撃を受け、仮設住宅よりも早く簡単に建てられるインスタントハウスの開発に着手。5年の歳月をかけ、作業時間 1時間、コスト20万円台、耐久年数約 3年のシェルターを完成させました。能登半島地震後は、畑のビニールハウスで暮らす高齢者や宿泊・休憩場所を求めるボランティアのため、150棟を超えるインスタントハウスを建設。その費用は民間の寄付で賄われ、公的支援は受けられていません。能登町の長尾地区。750mほど離れた白丸地区は津波で大きな被害をうけました。 白丸地区の方の多くは、旧白丸小学校の応急仮設住宅で暮らしています。この日は天気が良く、港の近くに集まっていらっしゃいました。3カ月に及んだ避難所での暮らしは水やトイレがなく厳しいものでした。仮設住宅は狭くて息がつまるし、テレビも面白くないのでなるべく出かけるようにしているそうです。津波で自宅を失った方は、防波堤をもっと高くしてもらわないと、心配で家を建てる気持ちにはなれないといいます。 ▲白丸川を津波が遡上し内陸まで被害を拡大しました。 珠洲市の見附島は、度重なる震災や台風により崩落が進んでいます。1993年の能登半島地震、2019年の令和元年台風、2023年珠洲地震、2024年能登半島地震と、その姿を大きく変えてきました。 60 南風なれども 60 29 1月日、ワシントンのレーガン・ナショナル空港で、旅客機と米 軍ヘリコプターが空中衝突し、人もの方が犠牲となりました。 亡くなれた方に心より哀悼申し上げます。 事故の原因は米軍ヘリ(ブラックホーク)が、制限高度 200フィー ト(m)以下の空域を 300フィート以上(m)で飛行したことに 67 よると見られています。この悲劇の根元には、レーガン・ナショナル空港に近いペンタゴン(国防総省)の存在があります。周辺を多くの軍用ヘリが飛び交い、飛行ルートの一部は空港の離発着ルートと交差してい 90 たため、mという異様に低い制限高度が設けられていたのです。 近年の民間航空機には、自分の位置を知らせるトランスポンダーの設置が義務付けられています。この信号は衝突防止装置と連動しており、航空機が接近しすぎたら警報が鳴る仕組みです。軍用機にもトランスポンダーは設置されていますが、作戦行動中は切っているため接近しても警報は鳴りません。今回の事故でも警報は鳴らなかったと思われ、旅客機のパイロットは最後までヘリに衝突されたことを知らなかったとも考えられます。 ご存知のように同じ状況は、東京都港区の上空でも起こっています。羽田新航路の運用中、着陸態勢をとった旅客機が港区上空を飛んでいると、その下を赤坂米軍基地に向かうブラックホークが通り過ぎていきます。交差する地点は青山墓地から青南小学校周辺の一帯です。もちろん その 57 青山ナシヲ 昨年 12 トの周辺に高さ 45 ています。1月 29 羽田新航路の運用中は、飛行ルート周辺での民間ヘリ、小型機の飛行は危険を避けるため禁止されています。なぜ米軍機だけが許されるのか国交省に聞いたところ、最初は米軍ヘリと羽田の管制官は連絡をとりあっているので安全という答えだったはずが、やがて、国としてはこうした現象を認識していないに変わっていったのです。 月国土交通委員会では、津村啓介議員(立憲民主党)が赤坂米軍 基地のヘリポートについて国交省や防衛省に質問をしています。ヘリポー m 以上の建物が林立する状態は、航空法にてらして 違法なのではというものです。それに対し各省は米軍ヘリポートの運用については把握していないので答えられないと答弁。港区は再三にわたりヘリポートの危険性を国に訴えてきましたが、国は現実から目をそらし続け 日の事故は、逃げ口上では済まない段階にあることを、 日米双方に命をもって示してくださったのだと思います。 珠洲市 宝立町珠洲市宝立町の春日野地区や鵜飼漁港は津波の被害が最も大きな地域で、内陸500mまで達したと考えられています。住宅の建て込んだ沿津波と火災により多くの犠牲者岸地域では、津波と共に火災も発生し多くの方が被害にあわれました。内陸型地震であった能登半島地震で、なぜ津波が発生したかについて、各研究機関での検証が進んでいます。東京科学大学 環境・社会理工学院 融合理工学系 高木泰士教授たちのシミュレーションによると、震源の断層上で発生した津波が北西に向かう津波と南東に向かう津波に分かれ、南東側の津波は富山湾へと大きく回り込みながら飯田海脚(半島から伸びる海底の高まり)の浅い海でエネルギーを増幅し、約 20分後に鵜飼漁港や宝立町のある飯田湾に到達し、お椀型の湾によってさらに増幅されたと考えられています。住宅が建て込んだ沿岸部では、倒壊した住宅のガレキによって路地が塞がれ、津波から避難できない方も大勢いました。その後発生した津波火事の被害も大きく、住宅地は広大な更地になっていました。 (Googleマップ) 更地のなかで一軒だけ、喫茶スナック「かくれんぼ」が営業を続けています。オーナーの高枝さんは、震災時に自宅兼店舗にいて、激しい地震のあと周囲から助けを求める声が聞こえたそうです。しかし倒壊した家屋で道は塞がれ、外に出られる状態ではありませんでした。20分ほどで津波が到達し、高枝さんは愛犬と共に頭までの高さの水に飲まれ、引き波で海へ引っ張られそうになりながら柱につかまり耐えました。元旦の夜は、ずぶ濡れで寒さに震えながら過ごします。近所ではよく知った方々が亡くなっていて、そうした津波の現実をもっと知ってほしいと高枝さん。昨年秋に営業を再開。家庭的な店内でアジフライ定食など手作りの日替りランチを提供し、夜は解体の作業員の方たちも憩うスナックとして営業しています。この日は近所の方々が集い、コーヒーを片手に情報交換していました。仮設住宅は場所によって買い物が不便なことが悩み。これからは孤独死も問題になると心配されていました。この年齢ではローンも組めないので、家の再建は難しく公営住宅を建ててもらうしかないという方も。津波の来る土地を買う人はいないだろうから、海外の人に買い占められてしまうのではと、心配する声も聞かれました。 珠洲市には解体・撤去の進んでいない地域も沢山あります。降雪期となり、解体作業は危険なため一時中断されているとのことでした。 珠洲市の災害ごみ仮置場。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】