Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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時空を超える美意識 盛夏 2021 https://collaj.jp/ 浪江町/双葉町/大熊町は今 連載「Kenostein'sRelativity」でおなじみの小林清泰さん(KENOS)とFCV(燃料電池自動車)クラリティで向かいました。ステーションを運営する地元企業の根本通商は、積極的に水素の活用に取り組んでいます。 東京・渋谷を出発して常磐道で約200km。今年3月にオープンした「いわき鹿島水素ステーション」で水素を補給しました。営業は月〜金曜日9:00〜19:00、土祝日14:00〜18:00(2021年7月現在)。東北には、仙台、福島(移動式)、いわきの3カ所しかなく予約が必要な移動式ステーションもあるため、営業時間などを確認する必要があります。 ▲ 水素圧縮機ユニット ▼ 高圧水素ガス容器運搬トレーラー。ガスボンベを積んでいます。 トレーラーで運んだ水素を加圧してFCVに充填します。クラリティFUELCELLの最大航続距離は約750kmで、充電に時間のかかるEVと異なり、水素の充填は数分で済むのがいいところです。ステーションの一画には水素を運ぶ「高圧水素ガス容器運搬トレーラー」が置かれ、水素圧縮機ユニットでさらに高圧にした水素をFCVのタンクに充填します。水素の価格は1kgあたり1300円ほどで、コストはガソリンとほぼ一緒とのことでした。 ▼いわき市のバス会社、新常磐交通は、東北地方ではじめてFCVバス「SORA」を導入しました。 常磐道を北上し福島県内に入ると、放射性物質の除染作業ででた土壌を積んだ10トントラック「中間貯蔵輸送車両」が目立ち始めます。これらは数台の集団になって、双葉町と大熊町にまたがる中間貯蔵施設に向かっています。極低温の液化水素を運ぶ液化水素ローリーもいました。液化水素はロケット燃料としても使われています。常磐道から大熊町の復興拠点が見えました。町役場を核に災害公営住宅などが整備され、町民の帰還が徐々に進んでいます。 Vol.25 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ 夕日色のシャンデリアおどる海の中およぐワルツ 2020年10月(ピンクが帰還困難区域、ミドリ斜線が避難指示の解除区域) 東日本大震災から10年。徐々に解除されてきた避難指示区域。 2011年3月、福島第一原発の原子力災害により、半径20km圏内は「警戒区域」、20km以遠の放射線量の高い場所は「計画的避難区域」とされ10万人以上の住民が避難しました。その後、放射線量に応じて避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域に再編され、2014年4月以降は徐々に避難指示が解除されますが、今も多くの地域で立ち入りや居住の制限が続いています。 2011年4月2014年4月2016年6月 浪江町北西部の帰還困難区域では、除染作業が続いています。 浪江町で一般社団法人AFW代表理事 吉川彰浩さんと合流し、浪江町〜双葉町〜大熊町を案内して頂きました。吉川さんは、東京・日野市にあった東電学園高等部を卒業後、東京電力に入社。福島第一原発への配属をきっかけに双葉町、浪江町、南相馬市で20年以上暮らしています。震災後、廃炉作業に従事する方々の現状を伝え、環境改善を求める活動をはじめたのが、AFW設立のきっかけとなりました。 震災前の人口は約21,000人でしたが、2017年の避難指示解除後、2,000人ほどの町民が暮らしているといわれます。町を歩いていると、新築の家や公営住宅、アパートなどがあちこちに見られました。避難先からふるさとに帰還した浪江町民のほか、除染作業やボランティアをきっかけに定住した方や、浪江の魅力にひかれ「食」や農業にたずさわる若い移住者もいます。 ▼ 昨年オープンしたホテル「双葉の杜」。道の駅の近くにあります。 浪江町復興のシンボルとして昨夏オープンした「道の駅なみえ」。浪江の旬を味わえるレストランや、浪江はちみち、請戸漁港のしらす、えごま、なみえ焼きそばなど特産品の直売所が揃っています。木造平屋建てで、構造にはCLR(Cross Laminated Timber)が使われています。 ▲「この先、帰還困難区域」の看板。114号線の一部は2018年まで通行止めで、今も歩行や自転車は制限されています。▲帰還困難区域の入り口にゲートを設け、住民や許可を受けた人以外の通行を制限している場所もあります。 帰還困難区域を走っていると、除染中の家や除染・解体を終えた空き地、立入禁止のゲートなどが見えてきました。環境省主導による除染作業は2013年からはじまり、住宅を解体せず除染して残した家と、解体と除染をして砂利をひいた空き地が混在しています。解体を依頼するかどうかは、住民の判断により選ぶことになっています。 農業の再生は「浪江町農業再生プログラム」を軸に行われています。帰還開始に備え復興組合が設立され、農地の集約・保全、水路の再生などが進められました。除染作業の終了後、2014年から米、麦、野菜、花卉などが実証栽培され、翌年から米の一般販売が始まります。稲作の本格化に向けてカントリーエレベーター(丸ビン式乾燥調製貯蔵施設)を建設中でした。 3月15日、大半の住民は数日で家に帰れると考えていました。それから10年過ぎた今も、多くの家が当時のままです。 福島第一原発では、3月12日15時に1号機が爆発、14日11時には3号機が爆発し、15日早朝、町災害対策本部は二本松市方面への避難を決定します。21,000人を超える町民の多くは国道114号を通り二本松市に移動。体育館や学校などで数カ月過ごし、福島県内の仮設住宅、借上げ住宅に移りました。なお約3割の住民は県外へ避難しています。 前回の続き。 NYC のおしゃれなコンデ・ナスト社が発行す るグルメ雑誌「エピキュリアス」編集部による「牛肉拒否宣言」。この宣言が発表された背景に何があるのか。「アメリカの食」といえば、真っ先に頭に浮かぶのが、ステーキ・ハンバーガー・フライドチキン・ホットドッグそしてフライドポテトにピザ。にもかかわらず、というか、それ故にというべきか、近年アメリカでは「肉食拒否 → 菜食主義へ」という流れが急速に高まりつつあ ります。実際、広い意味でのベジタリアン(菜食主義)を自認する人々は、昨年の段階で米国の人口の9%(約3千万人)に達した、という調査結果があります。この流れを反映して近年、新刊の料理書や料理ウェブサイトでは、「ベジタリアン」「お肉は控え目に」というテーマを打ち出す傾向が明らかに目立っています。 ではなぜ今、突出して アメリカで、こうした流れが強まりつつあるのか。それには、次のような要因を挙げることがで きます。この 年ほどの 間に進行した「食肉生産の大規模な集約化と工業化」そしてその結果としての「流通する食肉量(特に鶏肉)の爆発的増大」。この2大要因がもたらす 様々な弊害。それに対する反感が徐々に高まってきたのです。大規模な場合には、数万.十万頭を超える牛を囲い込むために必要な場所の確保。また、その飼育に必要な膨大な飼料栽培用の畑の確保。そのために広大な自然林や草原が開発されることになり、これは当然、地下水の過度の汲み上げや、自然環境の大規模な破壊を伴います。また、牛に限らず飼育動物の排泄過程で発せられる地球温暖化ガスの問題。飼育施設の冷暖房や様々な処理に掛かる大きなエネルギーコスト。その経費削減のため「狭い畜舎にギュウ詰め」という、飼育環境の劣悪化。それを主因とする伝染病の発生頻度の増加。その反省としてアニマル・ウェルフェア(飼育動物の福祉)の立場から指摘される「倫理的な畜産環境構築」さらには「できるだけ動物に優しい解体を」という要求まで。その一方で、安価な動物脂質&蛋白の摂取過多からくる生活習慣病への懸念。こうした様々な要因が 「肉食拒否」の要因となっています。 30 ウィスコンシン州の乳牛搾乳場。 読者の多くは、「牛・豚・鶏」と聞けば その根本には「畜産の工業化の急速な進展」があります。そこから生じたこれ らの諸問題は、食肉の消費者である私たちに対して、重要な問いかけを提起しています。それは「果たして、このまま漫然と肉を食べ続けていいのだろうか?」という根源的なものです。我が国は、世界でも有数の食肉輸入大国のひとつです。1億3千万人弱という巨大な胃袋を抱える国家は、世界的には決して小さなものではありません。であるならば、私達が日々口にする食肉、その原産国における生産過程について何も知らずに「安く美味しく食べられればそれでいい」というわけには、いかないのではないでしょうか。例えば、世界の食肉の貿易に関しては近年、その飼育に費やされた「飼料」を育てる畑で必要とした「水量」に換算してグラフ化する、という傾向が目立ちます。これは「食肉の輸入国は、産出国の水を消費していることを忘れるな!」というメッセージです。これなどは、ほんの一例に過ぎません。私自身は決して菜食主義者ではありませんが、ここは一 度立ち止まって、何が問題とされているのか知る必要がある、 では、より詳しく、現在起きつつある状況を探ってみましょう。 「畜産」すなわち「農業の一分野」というイメージで捉えていらっしゃるはず。しかし、特に「鶏と豚」については、「大規模畜産工業」と呼ぶべき形で「生産」される肉が中心となって久しい状況です。この話はあまりしたくないのですが、我が国でも「豚コレラや鶏インフルエンザで、畜舎(鶏舎)で大量殺処分へ」というニュースが流れることがあります。そこで処分される数量として、「数千・数万」場合によっては「十万」という単位に及ぶことがあること、お気づきでしょうか。アメリカに比べれば「小規模」な我が国の場合でさえ、これくらいの単位数が基本となるところまで、「畜産の工業化」は達しているのです。昔はめったになかった「畜産における大規模伝染病」。これが日本に限らず世界各地で頻発するようになったのは、「畜舎(鶏舎)に大量の飼育動物がギュウ詰め」という「畜産の工業化」がもたらした弊害にほかなりません。今では発生がほぼ無くなりましたが、配合飼料を要因とする牛の B S Eらしたものです。 ト」という英語があります。「大地知らずの食肉」という意味で、誕生から食肉として加工されるまでの過程で、一度も大地を踏むことなく、徹底的に管理された工場ライン的環境の中で「生産」される食肉を意味します。現在我が国も含めて世界的に、「安価に流通する鶏肉と豚肉」の大半は「ランドレス・ミート」だと見 (牛海綿状脳症=狂牛病)も、畜産の工業化がもた この「畜産の工業化」という事態を端的に表す言葉として「ランドレス・ミー と思い始めています。 中国広西チワン族自治区の「豚ホテル」。約3万頭を飼育。 ていいでしょう。鶏肉や豚肉とは異なり、牛肉に関しては「大地知らずの牛肉」という段階には未だ達してはいません。が、事態は間違いなく、その方向に進みつつあります。すでに乳牛の飼育と牛乳の生産過程では、その傾向が見られます。こうした工場ライン的畜舎から生み出される牛乳や食肉は、「食材の安価安定供給」という視点からは、重要な意味があります。しかし、動物の自然な生態を重視する立場の人々や、自然環境保護を訴える人々からすれば、許しがたい事態、ということになります。その立脚点の違いよって評価は二極化し、両者の論争は激し 50 さを増しつつある、というのが現状です。 米国を発信源として、ここ年ほどの間に世界的に進行してきた「食の工業化」。この大波に多少抵抗しながらも、いつしか完全に飲み込まれつつある日本。近年我が国における、牛肉や鶏肉を素材とする外食チェーン店舗数の増大は、目を見張るものがあります。そこで提供される食材の大半は、輸入肉です。牛肉や鶏肉 を売り物とする外食チェーンの隆盛は、「世界的な畜産の工業化」によってもたらされる大量の安価な牛肉・鶏肉の存在抜きには、考えられません。「畜産の工業化」=「食肉外食チェーンの増加」という、強い相関関係が成り立ちます。共に「食の工業化」の産物だからです。この「食の工業化」はアメリカを発信源として、今も全世界へと拡散中です。この大波は、様々な地域の食文化の違いを軽 く乗り越えて、世界を画一的な方向へと引きずり込みながら、地球規模で食に関連する体制の構造変化をもたらしています。この構造変化という点で現状最も注目すべきは「中国での爆発的な食肉消費の拡大」です。これが世界の食肉生産国に大きな影響を及ぼし始めています。 ところがここに来て、この「食の工業化」「畜産の工業化」の発信源たるアメリ カで、こうした食肉供給体制そのものに対して、消費者が反旗をひるがえし始めた。 これは、非常に重要な流れの変化です。これまで安価であれば文句を言わずに口を開き続けてきた消費者が、その口を閉じ、拳を振り上げて「食の工業化」を拒否し始めた。その拒否表明の代表例が、「エピキュリアス」編集部による「牛肉拒否宣言」にほかなりません。これは「新たな革命の始まり」を予告する宣言なではないのか、私はそう感じています。アメリカの食の歴史では、一端こうした流れが生じると、それが極端なところまで進行する可能性も考えられます。それは「禁酒法の施行」や「社会的禁煙モラルの達成」に至った経緯を見れば明らかです。 この新たな革命の火種は、今後日本にも、じわりじわりと影響を及ぼしてくるはず。 実際すでに、意外な形で、これが表面化し始めていますから。 フロリダ州の鶏舎。  以下次号へと続く。 今を生きるヒントがここにある 日本全国がコロナ禍や天災の脅威にさらされる今、こうした時代を豊かに生きるヒントがここにあるとAFW吉川さん。「浪江町の人たちは、生活していた場所を追われ、自分たちのアイデンティティ・存在意義を大きく揺るがされました。自分が一生懸命良い街にしようとしてきた努力がゼロになったような絶望を感じたり、地縁でつながった仲間とも離れ離れになり、孤立感を感じて苦しい思いをしてきた人たちもいます。一方で、この10年は、福島に関わる沢山の人たちが状況を変えようと行動してきた10年でもあります。私は、その活動に、豊かに暮らすための考え方やヒントがものすごく含まれているように感じます」といいます。 稲作、畑作を始めた農地がある一方で、農地を転用した太陽光発電施設を沢山見かけました。浪江町は「原子力に依存しない再生可能エネルギーを活用したスマートシティ」を復興の柱とする一方、「先端技術を活用した花卉栽培や施設園芸の導入。ロボットを活用した新しい農業スタイルの実証」を掲げています。 除染や廃炉に関わる作業員の増加や住民の帰還に伴い、新しい飲食店が増えています。 かつては多くの居酒屋やスナックが並んでいた浪江町の中心市街。解体・除染を行い、砂利を敷いた場所が目立ちます。浪江町は原発の所在地ではありませんが、原発で働く人をはじめ、様々な関連業種、病院、銀行、ホテル、商店、教育施設、公共施設、タクシー、飲食店などの雇用により人口2万人以上を保ってきました。 2018年なみえ創成小学校・中学校が開校し、コンビニ、スーパーマーケット、レストランが徐々に増え、生活の基盤が整い始めています。 ▼浪江町の海岸から見た福島第一原発。手前には津波で傷ついた海の家「ふたばマリンハウス」が見えます。海岸線には、切り立った崖が続きます。 浪江町の海岸から、中間貯蔵施設の建物や仮設焼却施設の煙突が見えました。 お盆の時期は実家の草むしりが年中行事になってい る。5月くらいから雑草があちこち伸びてくるので、時々は刈っているが、しばらくほっておいたら、凄まじいほどに根が張って、ちょっとやそっとでは抜けない。 下駄箱の隅に真新しいカマがあったので使ってみたが、うまく刈れず結局また仕舞い込んだ。おそらく雑草に手を焼いた母が買ったものだと思うが、こういう道具はコツを教わらないと怖くて使えない。 夏になると畑で野菜を育てている友人から、野菜料理のレシピと一緒に実ったキュウリやナスの写真が送られる。雑草を刈るくらいなら、キュウリの苗を育てる方がいいと、野菜作りの教えを請うたが、この年で始めるのは容易ではないと一蹴された。 しかし、彼女から「野菜を食べろ 言われたおかげで、中性脂肪の数値は標準値以内に、あと一品という時の野菜料理レシビは大いに役立っている。 梅雨が明けたと同時に、真っ青な空と白い雲、夏本番となったが、海や山に出かけるというわけにはいかない。ワクチンは2度目を打ち終わり心配は薄らいだが、変異株の猛威には、まだまだ油断はできない。うがい、マスク、手洗いの励行は続くが、友人とランチ会の約束はできない。 コロナ、オリンピックの政府対応にはほとほと呆れるが、熱海の土石流は人災も取りざたされ、現場の惨状をニュースで見るのは酷すぎる。熱海は東京からも近いということもあり、何回か行ったことがあり、伊豆山神社にも登ったことがある。はるか遠くに広がる海を眺めたが、土石流の起点はその西側、より高い位置だが、そこから海に到達するまで家々を飲み込んでいったというのだから、どれほど凄まじいことであったか。 熱海の名所をめぐる「湯.遊.バス」は、お宮の松、バラ園、熱海城、伊豆山も走る。海沿いの景色もいいが、木々の生い茂る山から見る海の色も格別、初島を !! 」をやかましく 五輪を前に想う 望む相模湾はいつも青く穏やかだ。山肌にはびっしり建物が建っているが、それも熱海の景色である。通ったことのある場所、見覚えのある建物が、土砂に埋もれ、その中で懸命に作業をする人たちの姿は、なんとも切ない。まだ行方不明の方もいる中、 29 本当にご苦労なことと思う。東日本大震災の復興はまだ道半ば、世界が日本を注目してい 12 る最中の災害、経験したことのない疫病が猛威を振るう中でのオリンピック、すでにテレビ各局は盛り上がりの流れを作ろう B 16 としている。オリンピックにかける選手たちに応援を惜しむということはないが、 しかし…… 実家の草刈りの合間に父の本の断捨離を始めた。「明治維新百 43 人」という雑誌が出てきた。黒船が浦賀にやってきて以来の歴史の登場人物、一度は聞いたことのある名前が続々、写真も掲載されていて、結構面白い。ホコリを払って断捨離は中断。続いて昭和年出版の、「明治100年100大事件」という本も出てきた。こちらは、災害、疑獄、騒乱、暗殺、自殺をテーマに事件の詳細が書かれている。驚いたのは明治年6月に起きた三陸沖津波。未だ復興に至らない東日本大震災と重なる部分が多い。政治の疑獄、繰り返される金と権力、いつの時代も権力と金は使い方で人をダメにする。今年は明治維新から153年、大正、昭和と時が経っても人はなかなか学習できないものだとつくづく思う。 半藤一利さんの「面昭和史」を読むと、戦争にひたひたと進む、昭和年から年、民草が何を知りどう生活していたか、半藤さんの目を通して教えてくれる。 小さな組織であれ大きな組織であれ、権力を持った人が人を統制したがるのはいつの時代も同じだが、大抵は誰かが「それ変」とブレーキをかけるものだ。一方通行で議論が生まれない中では、発言力の強い人に引っ張られるのは当然だが「それ変、おかしい」と言える立場の人が何人揃っていても、機能不全ではどうしようもない。どんなに体裁を整えても、そのつけは、最後には民草に降りかかる。 コロナもオリンピックもどうすることもできない。過ぎ去るまでじっと耐えるしかない。夏バテしないよう、野菜をしっかり食べて乗り切っていこう。 未来のエネルギーは福島から 福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)訪問 東日本大震災から10年。地震や原子力により被災した福島県・浜通り地域では、産業復興をめざした国家プロジェクト「福島イノベーション・コースト構想」が進められています。そのひとつ浪江町「棚塩産業団地」には、福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)が建設されました。 福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)は、福島第一原発から北に約10キロ、浪江町の海岸沿いに2020年3月開所しました。敷地は東京ドーム約5個分の22万平米。その8割をソーラーパネル(20メガワット)が占めますが、FH2Rの目玉は中心にある世界最大級の水素製造装置です。再生可能エネルギー(太陽光発電)を水素に転換して保管、輸送する最大級の「Power-to -Gas」システムとして世界にさきがけて稼働しました。 FH2Rの開発を主導した国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の、大平英二さん(燃料電池・水素室長/ストラジーアーキテクト)が施設を案内してくださいました。 FH2Rは、NEDO「水素社会構築技術開発事業/水素エネルギーシステム技術開発」の一環として実施され、事業実施者として東芝エネルギーシステムズ(株)、東北電力(株)、東北電力ネットワーク(株)、岩谷産業(株)、旭化成(株)が参加しています。 FH2Rは、なにを実験・実証しているのか? FH2Rでどのようなことが実験・実証されているのか大平英二さんに伺いました。最も大切なのは、従来にない大型の水素製造装置が性能を発揮するかどうかの検証だそうです。水電解水素製造装置はこれまでは一定量の電気により水素生産する運転が中心でした。再生可能エネルギーが大量に導入された場合、需要と供給のバランスをとることが重要になってきますが、水素製造装置の電力消費量を変動させることによって、このバランスに貢献しようというのが一つの狙いです。このため、15%〜100%まで能力を変化させるような運転条件に耐えられるか検証を行っています。またプラントの運用に必要なソフトウェアやノウハウの開発も重要で、電力や水素の需要の変動に対応した運転技術の開発も行われています。 いまなぜ水素が必要なのか? 再生可能エネルギーとして、太陽光、水力、風力などが利用されるなか、水素エネルギーが求められる主な理由はどこにあるのでしょう。 水素製造装置で作られた水素は、キャンドルフィルターなどで水分、一酸化炭素、アルカリ分などを取り除かれ、純度99.97まで精製されます。圧力を0.8メガパスカルまで加圧して、ラック上のパイプを通り水素ガスタンクへと運ばれます。 8本ならんだタンクは、水素ガスをためるバッファフォルダーの働きをします。ここに一定量の水素をためてから、一気に高圧にするのです。8本で0.8メガパスカルの水素ガスを5400立方メートル入れられますが、水素製造 間弱でいっぱいになってしまう計算です。 Nm3/hで水素を製造した場合、5時 200,装置が定格1 水素ガスは0.8メガパスカルから20メガパスカルに加圧され、トレーラーに充填されます。トレーラー1台にはタンク4本分の水素ガスが充填でき、FH2Rには最大12台のトレーラーが待機できます。トレーラーはFCV(燃料電池自動車)の水素ステーションや、燃料電池で発電を行う施設などに送られます。またFH2Rにはありませんが、水素を運ぶ手段には、都市ガスのようなパイプライン方式もあります。 水素の作り方はいろいろ。無尽蔵なエネルギー源です 石油、石炭など限りある資源とは異なり、水素は様々なものから生み出せる、持続可能性の高いエネルギー源です。 FH2Rで生産された水素はトレーラーで運ばれ、福島市あづま総合運動公園、Jヴィレッジ、道の駅なみえなどに設置された燃料電池で使われています。そのほか富士スピードウェイでの自動車レースや、ロックバンドのコンサート、オリンピックトーチの燃料としても浪江産の水素が採用されました。水素利用が、自動車、船、ドローン、飛行機、工場、一般家庭などに広がり、2050年には当たり前に使われる世の中になっていてほしいと大平英二さんは言います。将来、石油や石炭が使えなくなる時代への備えとして、水素利用のインフラを構築することは、持続可能な社会づくりに不可欠なことと感じました。 「道の駅なみえ」には、FH2Rで作られた水素をカードル(水素ボンベを集合したケース)で提供し、純水素型燃料電池発電のエネルギー源にしています。 ▲「棚塩産業団地」を一望できる丘が設けられています。 没後30年倉俣史朗展今尚色褪せないデザインの革命児 Bunkamura Gallery (東京渋谷 東急 Bunkamura 1階) 2021 8/12(木) -8/22(日) 10:00-19:00 没後30年をむかえた今なお、はるか彼方の灯火として人々を導きつづける、倉俣史朗さんの作品。家具、オブジェ、香水瓶などの展覧会が、東京渋谷 Bunkamura Galleryで開かれます。 Perfume Bottle No.3 Sealing of rose(薔薇の封印) This is the material for "Miss Blanche" Cabinet de Curiosit.1989年デザイン Revolving Cabinet 1970年 デザイン 《倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier1 MISSBLANCHE》2020年制作Cahier1、Cahier2があり、各10点組の作品集になっています。 あわせて展示される「 Cahier」は、倉俣史朗さんの遺したスケッチを美恵子夫人監修のもと、石田了一さんがシルクスクリーンとして蘇らせました。倉俣さんの手先から紡ぎ出された、生まれたての作品の息吹を感じられます。 小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表 昔見た風景が蘇る時 エネルギーの量の確保や、『エネルギー供給インフラの充実』、『エネルギーの需要抑制』が大きな要素となります。第 2次世界大戦から復興した我が国は、1955年頃から高度経済成長期に突入し、車も増え始め、石油の需要が高まり出しました。1963年には総合エネルギー政策が打ち出されて、石炭から石油への転換が推し進められ、1969年には LNG (Liquefied Natural Gas液化天然ガス)の輸入が始まり、化石燃料への依存度が拡大します。そして日本のエネルギー政策に決定的な影響を及ぼす事件が起ります。1973年 10月〜の第一次オイルショックと1978年 10月〜の第二次オイルショックです。中東産油国の政情不安(第 4次中東戦争)をきっかけに、世界中が必要としていた石油を、産油国が政治戦略の武器として利用し、原油価格の大幅な引き上げや、敵対国いうまでもなく日本は石油、石炭、天然ガスといった化石燃料資源の埋蔵量がほとんどなく、その大半を海外からの輸入に頼っています。日本のエネルギー自給率は11.8%前後しかなく、OECD(経済協力開発機構)加盟国 35カ国をみると、ノルウェー700.3%で第 1位、アメリカ97.7%で第5位、ドイツ 37.4%で第 22位、11.8%の日本は加盟 35カ国中なんと第 34位です。国内経済活動で消費するエネルギーの 88.2%を輸入に頼っていることになります。 経済産業省資源エネルギー庁によれば「エネルギー安全保障(エネルギーセキュリティ)」とは「国民生活、社会経済活動等に必要な量のエネルギーを合理的な価格で確保すること」とあります。これを実現するためには『エネルギー自給率の向上』、『輸入のリスク低減』といった 1973年第一次オイルショックのトイレットペーパー買い占め。 主要国の一次エネルギー自給率比較(2018年)資源エネルギー庁。 への輸出を禁止したことが要因でした。日本は石油の 80%近くを中東産油国に頼っていた為、そのリスクの大きさに日本中が大混乱に陥りました。この出来事を通じて、日本のエネルギー安全保障がいかに脆弱かを国民が強く知るきっかけとなりました。 風力を軸に再エネ率 100%を目指すデンマーク いまや風力発電大国といっても良いデンマークですが、オイルショック直前の1972年頃は、日本と同じく石油輸入に頼らざるを得ないのが実情で、エネルギー自給率はわずか 2%だったそうです。オイルショックを国と国民が重大危機と受け止め、大半を海に囲まれた平らな地勢を活かし、地上・洋上での風力発電機(以下ウインドタービン)を国土全体に配し、再生可能エネルギー大国になっています。20年程前、首都「コペンハーゲン」から、童話作家アンデルセンの生家がある都市「オーデンセ」まで高速道を1時間半程走りましたが、途中、車窓にウインドタービンが見えないところは在りませんでした。またコペンハーゲン空港への途上、洋上に立つ無数のウインドタービンの列が見えた時、国家としての自信に満ちたエネルギー政策を感 コペンハーゲンの洋上発電。1基2MW、全体で22000軒の電力をまかなう。 じ、今思い出してもその時の感動がよみがえります。ウインドタービンメーカーで世界トップ企業「ベスタス社」は、当然デンマークの会社です。 1973年のオイルショックに見舞われた島国日本と、ほんの一部がドイツと国境を接した準島国デンマークですが、デンマーク政府は 2020年までに風力発電の割合を 50%まで高め、2050年にはソーラー発電やバイオマス発電等を加え、全エネルギーの再エネ率 100%を目指しています。国土の条件は平地と山国で異なるものの、約 40年、国策企業と一体になった政治家、官僚の筋書きで原子力発電へ突き進んだ日本と、将来を見据えたエネルギー自給率の増加を再生可能エネルギーで実現したデンマーク。国をどこへ導くのか、国民の幸福を願う「志の深さ・広さ・慈愛の差」、この 2つの国の方向の違いを何と表現してよいか、言葉がありません。 脱炭素化社会の主役になるか 水素エネルギー 気を取り直して「水素」に話題を移します。 「水素」を「エネルギー安全保障」の観点から見ると、 ①水素は水の電気分解で作り出せます。極端にいえば、水さえ有れば,再生可能エネルギー(ソーラー発電など)を利用し CO2(炭酸ガス)を出すことなく作れます。そのほか石油、LNG、メタンガス、アンモニア、廃プラスチックからも作れますし、製鉄所や苛性ソーダなど化学工場は、大量の水素を発生しています。製造時に CO 2を排出しないことがベストですが。このように様々な資源から作り出せるのは、多元的にエネルギー資源を活用することが可能であるということです。 ②水素は酸素と結合することで電気を発生します。また燃焼させて熱エネルギーとしても使えます。5月に開催された富士 24時間レースでは、TOYOTAの豊田章男社長が、水素エンジンを搭載したカローラでレースに参加し、ニュースで取り上げられました。水素社会の先駆けをアピールしたかったのでしょう。将来は新設や既存のガス管を通じて、水素をビルや施設、各家庭に供給することも可能です。晴海のオリンピック選手村は終了後、住宅地「HARUMIFLAG」として利用されますが、水素パイプラインを地中配管した本格的水素インフラを備えた国内初の街をうたっています。水素を各施設の燃料電池や各戸の純水素型エネファームに供給する計画です。 ③ 水素に関して日本は高い技術を持っています。特に燃料電池(FuelSell)技術では世界をリードしています。FCV(燃料電池発電電気自動車)は、TOYOTAのMIRAI(ミライ)、HONDAの CLARITY(クラリティ)が世界に先駆け実用化されました。水素社会の到来を告げるもので、走行中は CO 2を排出しない、優秀で完成度の高い製品です。水素エネルギーを国の政策で広く活用することは、「エネルギー安全保障(エネルギーセキュリティ)」に大いに貢 水素エンジン車が富士 24時間レースを完走。 水素パイプラインが配管された「HARUMI FLAG」。 献します。CO 2を排出する化石燃料に頼らず、中東諸国 の政情不安、ホルムズ海峡等の輸送の安全性に影響され ることなく、国内で必要なエネルギーを計画的投資によっ て確保できるからです。 水素は脱炭素化のエースといえます。上記②の環境良化(地球温暖化低減)に貢献し、上記③の日本の高い技術力をバックボーンとした競争力で「水素社会の実現」に向 け世界をリード出来るはずです。 EUの猛追に圧倒されそうな日本 しかし今年の Colla:j 連載 3、4、5月号で述べたドイツをはじめ、EUが取り組む「脱炭素社会を実現する水素技術開発」への投資額の本気度は凄まじいものです。今の日本のペースでは、水素に関する技術力は欧米を上回っているにも関わらず、「脱炭素社会化しなければ、人類は危ない!」という EUの危機感から発する計画の規模と実行スピードに圧倒されそうです。オイルショック後、再生可能エネルギーの取り組みではデンマークに大きく遅れをとった日本ですが、水素もその二の舞になる予感があります。今回「福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)」を見てそう感じました。 避難指示の続く双葉町 福島第一原発5号機、6号機が設置された双葉町では、町の全域で避難が続いています。その中で最も早く避難指示が解除された中野地区には、2010年秋に東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンしました。 伝承館は2020年9月にオープン。1カ月で1万人が来場する人気の施設になりました。 吉川さんは地元に暮らしながら原発で働いた経験を活かし、震災以降に生まれた世代にも伝わるよう工夫しています。 伝承館に隣接した「双葉町産業交流センター」には、名産品の土産店、フードコート、レストランのほか、貸しオフィスが設けられ、東京電力や建設会社の事務所が入居して、住民帰還のさきがけとなっています。館内には、AFWの刊行した冊子「福島第一原発と地域の未来の先に・・・わたしたちが育てていく未来」が置かれていました。なぜ福島に原発が誘致されたか、原発の仕組み、町への恩恵から始まり、震災で何が起こったか、住民避難の様子、決死の冷却作業、汚染水問題、廃炉へのプロセス、廃炉後の未来までを分かりやすく絵解きしています。 土壌を30年間保管する「中間貯蔵施設」 交流センターの屋上から福島第一原発の方向を見ると、巨大なテントのような建物群が見えます。これは原発の敷地を囲むように設けられた16平方キロ(渋谷区より広い)の「中間貯蔵施設」です。福島県全域から除去土壌や焼却灰などがトラックで運ばれ、貯蔵されます。敷地はもともと田園や宅地で、双葉町、大熊町の住民から提供されました。大熊町小入野のように、全域が予定地とされた地区もあります。 福島県各地で、今も続けられている除染作業。仮り置されていた黒い土嚢袋(フレコンバッグ)が「中間貯蔵施設」に運ばれます。 ヴィヴィアン佐藤さん主催の福島第一原発視察ツアー「フクイチびびツアー」では、吉川さんが地域ツアーをコーディネートしました。 福島全域から10トントラックで運ばれたフレコンバッグ。タグを読み込んで、受け入れ予定のものかを照合します。 (環境省除染情報サイトVTRから、以下☆) 袋を破砕します。この段階で各地の土壌は混合されます。土壌の多くは発酵しているので臭気があります。(☆)一次分別で10cm程度のふるい機にかけ、袋や大きな石を分別します。二次分別では草木や可燃物を取り除きます。(☆) 分別した土壌は貯蔵施設に運ばれます。施設内は負圧に保たれ、扉を二重にするなど放射性物質が外部にもれないよう管理されています。 (☆) ベルトコンベアーなどで土壌貯蔵施設に搬入された土壌は、重機で敷き均しと締固めを行います。水が外部にもれないよう防水シートが貼られています。 (☆) 草木など可燃物は仮設焼却施設で焼却され、仮設灰処理施設の溶融炉で減量されます。煤塵は銅製容器に入れられ、廃棄物貯蔵施設に貯蔵されます。 (中間貯蔵工事情報センターHPから) 早朝から10トントラックが町を行き交います。原発の廃炉、中間貯蔵、除染といった作業に携わる人達は、常に過酷な労働条件にさらされて来ました。周辺の町に数千人単位の作業員が暮らし、その状況は今後数十年続くと思われます。 双葉地区土壌貯蔵施設の全景。(中間貯蔵工事情報センターHPから) ▼ 中間貯蔵工事情報センターでは、中間貯蔵についての展示が見られます。また定期的に施設の見学ツアーも開かれています。約1400万立法メートルの土壌が貯蔵され、30年以内に掘り返されて福島県外で最終処分される予定です。町は最終処分地の目処を示すよう国に求めてきましたが、その回答はいまのところないようです。 東日本大震災の津波によって、甚大な被害を受けた沿岸部には高さ7mを超える堤防が築かれています。原発災害によって一帯は立入禁止となり、津波による行方不明者の捜索にも大きな影響を与えました。沿岸部は防風林帯や復興祈念公園として整備され、居住できない地域になります。 伝承館の北側は、田園として再生される予定です。 ち込めた灰色の雲はどこに消えたのでしょうか。 TVはオリンピック開催モードへシフトしつつ、変異株による着実な感染拡大の様相をも伝えなければならない矛盾に包まれている。プラスとマイナスが拮抗する様が、こんな風に明快に浮き彫りになろうとは、それこそ誰も想定し得なかったはず。 過酷なリアルを目の当たりに、私達は得体の知れない不安を抱えながら、一人ひとりが自分の命と向き合う時間を与えられているように思う。そんな私達のかけがえのないパーソナルタイムに割り込み、邪魔をす るものたちが存在するのも、これまた深刻な現実といえましょう。オリンピックまで一週間を切った土曜日、晴天の都心上空に突如見え !! だしたというか、飛び出した大型旅客機。 AOビルのすぐ上を悠々我が物顔で通り過ぎてゆくではないか。立て続けにジャンボサイズが飛ぶ。オリンピックにまつわるピストン輸送? やけにはりきって、ますます低空飛行になっちゃってますよヤレ雷だの長雨だのと長引きましたからねぇ.飛べませんでしたからね.(笑)こちらといたしましても、ご同情申し上げておりました。ですが、ですがですわよ.。海外からのオリンピック人流が気になりますわ。デルタ株が今再び猛威をふるっておりますゆえ。水際対策、きっちり なさってくださいね。日本は昨年来、甘い傾向にございましたから。8月に入って感染者数が倍増なんてことになりませぬよう。ここでクギを刺しておきませんとね。 その16 青山かすみ 2020年3月、東日本大震災から9年ぶりにJR常磐線が全線開通し、リニューアルされた双葉駅に、誰でも降車できるようになりました。駅の再開にあわせ、駅前広場から「東日本大震災・原子力災害伝承館」までの道筋は特定復興再生拠 8km離れた伝承館まで徒歩や駅のレンタサイクルに乗って行くことも可能です。 .点として避難解除され(右図)、約1 消防団の時計は、14時46分付近で止まっていました。 双葉駅周辺を歩きました。2011年3月12日、福島第一原発1号機の水素爆発を契機に住民約2,200人が北西へ約40km離れた川俣町へ自家用車やバスを使い避難しました。19日には埼玉県「さいたまスーパーアリーナ」へ、住民約1,200人と町役場が共に集団避難。3月末には埼玉県加須市の旧騎西高校へ移転し、現在の仮町役場はいわき市にあります。原発災害から町民を守るため、福島県外へ集団的に避難したのが双葉町の特徴といえるかもしれません。 2020年3月12日、突然の避難から10年にわたり立ち入りが制限されたため、双葉駅周辺にも手つかずの家が多く残っています。震災はまだ進行中であることを改めて実感します。 創建180年の正福寺は、隣接する「まどか保育園」とともに町民に愛されてきました。佐野眞一著「津波と原発」によると、江戸時代に起きた天明大飢饉の際、相馬中村藩は飢餓で人口の半分を失い、北陸地方から浄土真宗信徒の移民を計画しました。多くの農民が北陸からの過酷な旅のすえ双葉町に農地を得て、正福寺は移民の拠り所となりました。現在避難中の双葉町民へのアンケートでは「先祖の墓の管理、お参りができないことの辛さ」を訴える方が多くいます。 ▲双葉町の特定復興再生拠点区域再生計画。 吉川さんが暮らしたことのあるアパートも、震災当時のまま残っていました。部屋の中には生活用具一式がそろったままですが、双葉町全域にわたり宿泊は禁じられているため、夜の町は真っ暗になります。双葉町では、駅前の市街地や新市街地、一部の農地などを「特定復興再生拠点区域」に指定し、2022年の避難指示解除を予定しています。 国道6号線から見る、中間貯蔵施設と福島第一原発。施設の敷地内には民家が点在しています。 南相馬市小高区の「浦島鮨」。地元では知らない人のいない名店です。東日本大震災の日、店は津波の浸水被害をうけますが、片付ける間もなく原発事故で避難を強いられます。ご主人の山澤茂さんは避難先から店に通い、再開を信じて掃除を欠かさなかったそうです。店を修繕し2016年営業を再開。法事に戻る地元の方や全国から来るボランティアの方に、地元の鮨ねたを握り続けています。東京で修行した山澤さんは、昭和51年に開店。「地元で認められないと意味がない」といいます。 ドラゴンシリーズ 82 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 昔見た風景が蘇る時 30 ヨーロッパ出張から戻り、羽田空港に到着して飛行機のタラッ プを降りて、久々に帰国した日本の外気の少し湿った空気を通過し、エアコンの効いた空港施設の清涼感のある空間に入ると、日本に戻ってきたと言う安堵感が湧き上がってきます。 久しぶりに帰国する度に毎回同じような感覚になるのですが、その時に自分がやはり確固たる日本人であり、日本と言う土地と空気を吸って生きてきた動物なのだと実感するのです。海外に長く住んでいると日本人であってもその国の空気を我がものとして懐かしく感じるものですが、今でも時々ドイツに到着してベルリンの街を歩いていると 20代の自分が蘇り、遠くに離れていた場所に自分が溶け込んでいるように錯覚してしまうことがあります。 年以上前に歩いた街並みは、その時のままに自分が立ってい て、自分が歩いた景色の中に、暗くて心細くてやるせない、当時 の不安感がそのまま存在するのです。その感覚を研ぎ澄ますように自分の心の中に深く潜ってゆくことで、そこに在った若い時の景色と感情がそのままに甦ります。 暖炉の石炭が燃える街の匂い、煤のこびり付いた深い漆黒の壁の弾痕は、もっと前にその場所で繰り広げられた時間を刻み込んでいます。しかし、ふと我に還り、頭を振って目を覚まして景色を見ると、その弾痕はその場所にそのままにありながらも、街ゆく人は誰もその時代の痕跡に気が付かないのです。 街の時間とはそういうものでしょうが、私たちは時間と共に大切なものをその場所に残して、過去の自分と訣別し、自分の大切なものを忘れ去ってしまう。そして時々、その場所を通過する時にふとその痕跡が私たちの記憶の栓を外し、その時代に連れ戻してくれるのでしょう。 若い時代に経験したことはその当時は目の前にあるものを無駄に追いかけるだけの時間だったように感じますが、その無駄こそが、自分にとって何か大切なものを感じ取るための触媒であったように思います。計算出来ない感覚的な直感に頼った行動は、間違いなく根拠がないものの、その無根拠こそが自分の根本から発せられたものであるかのように感じるのです。誰しもそんな直感を持っているのだと思います。 若い時間だからこそ、失敗だけの時間だったと思います。そしてその当時、何でもないような経過しただけの時間がどんなにも情緒的な時間だったのか、自分の今の感覚を支える根源的な経験になっていることを今になってようやく気づくのです。 支離滅裂で行き当たりばったりの時間は、人生をただ浪費した無駄だと、当時いつも自己嫌悪の中で佇んでいるばかりでしたが、それこそが本当に還らない時 間なのです。そして現在の自分の行動や判断を考える時に足りないものこそが、若い時に出来た直感的な行動だと感じます。 今の自分は大したリスクのないことしか判断できなくなってしまっている。若い時の決断と行動を同じように出来たら、本当にスリリングで楽しい毎日が存在するはずだと感じるのです。 賢明で正しい判断とは弱気の判断であり、それ以上に環境を成長させることには繋がらないのです。自分のくだらない持ち物に固執して拘ってゆくことで、人はどんどん自由な発想や行動ができなくなるのです。捨身の覚悟が持てない時に歳は関係なく人間は老いてゆくのだと思います。 時々、また苦しくて厳しい何も無い時代に戻りたくなる時があります。部屋の中で.き苦しみながら何も出来ない自分さえも捨てることが出来ず、本当に自暴自棄になっていた時間。今でも時々夢で見るのは、そんな先の見えない自分が荒れ果てた生活をして苦しんでいる夢です。苦しい夢ですが、なんだかその夢は愛おしくもあるのです。 地震で傷んだまま、まだ手付かずの家が多く見られます。立ち入りを制限された区域では、修繕工事を行うのも難しいようです。 「ネクサスファームおおくま」は、土を使わない高設養液栽培により一年を通じて各種のいちごを栽培しています。 「大熊ふるさと再興メガソーラー発電所」は約3.2haの農地に太陽光パネル約7,700枚を並べ最大出力は約2MW。東北電力に売電し、その利益の一部は太陽光利用型植物工場「ネクサスファームおおくま」の建設に当てられました。20年後には、農地に戻れされる予定です。 大熊町大川原地区の新しい街は生まれたばかり。今後、どのように発展していくか、壮大な試みのスタートともいえます。浪江町、双葉町、大熊町の目指す復興の道はそれぞれ異なり、そこには日本がたどるであろう未来があると感じました。人としての豊かさを築くため、この地で学ぶことの大きさに気付かされる旅でした。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】