時空を超える美意識
大寒 2020 https://collaj.jp/
京都 釜座町x
前号に続き、京の町をご案内します。釜座町界隈から南へ四条通りにかけては、東京・恵比寿のような地域ともいわれます。町家を利用した飲食店やショップが並び、歩いて楽しい街並みです。
大西清右衛門美術館
二条城にも近い三条釜座(中京区釜座町)は、平安時代からの伝統ある鋳物町。御釜師大西家は初代浄林から400年以上、16代にわたりこの地で茶の湯の釜を作り続けてきました。
平成5年に16代を襲名した現当主の大西清右衛門さんは、茶釜と大西家の歴史を伝えるため、作品づくりのかたわら大西清右衛門美術館を運営し歴代の作品を公開しています。大西家2代浄清(1594.1682)は、古田織部や織田有楽斎の釜師として大西家の作風を確立。6代浄元(1689.1762)は、千利休の侘び茶風の釜に取り組み、千家家元の出入りを許されました。大西家は今も千家十職の御釜師として、その伝統をつないでいます。
7階につくられたお茶室では、貴重な茶道具の取り合わせを見学できます。
歴史を物語る石灯籠を据えた空中庭園から、京都市街が望めます。
創業1915年の片山文三郎商店は、「京鹿の子絞り」の専門店。初代が開発した独特の絞り技術を活かし、「纏う芸術」=WearableArtをテーマに、スカーフ、バッグ、帽子、洋服から照明器具まで、今も手作りを守りながら様々な製品を制作。メゾン&オブジェやアンビエンテなど海外見本市にも出展しています。
コロナで明けた2021年、心晴れ晴れとはいかないが、手付かずのこの一年、健康で充実した一年にしたいと願う。
緊急事態宣言が出され、ステイホームと知事が何度も言うので、連休の3日間はどこにも行かず自宅で過ごした。4日目、地下鉄の階段でつま先が引っかかり、慌てて手すりにつかまった、いつも手すり側を開けていたのが幸いし事なきを得たが、歩かないと足が上がらなくなるというのは本当と、ゾッとした。
散歩は不要不急と出不精の私にとって、いい口実ができたと思っていたが、足腰弱って寝たきりになったら、それこそ目も当てられない。自宅生活では気にならなかったが、外に出るとあちこち段差が多く意識して足を上げる。なんでもなかった坂道が急にしんどくなって、スーパーの袋を持って途中で何度も息を整える。たった3日間の引きこもりでも、足腰が急激に衰えたように感じた。これはいかん、散歩は不要不急?うがい、手洗い、三密避ける以外に何をするの?何をしてはいけないの?連日ニュースで医療現場の逼迫度、医療崩壊を繰り返し報道される。何度も同じ映像を流すのは、高齢者といえども入院できませんと予防線を張っているようにも見える。
基礎疾患あり高齢者としては、より慎重に、こわごわの生活になっているが、蹴っつまづいて歩けなくなるのは困る。散歩は不要不急ではない。思い切って出かけることにした。もちろん完全防備、マスクを二重に。できるだけ人の少ないところを歩く。平日の昼間、それなりにちらほら行き交う人はいるが、みなマスクをしてお互いを避けて通る。緊急事態宣言下の外出は緊
張するが、慣れた散歩道、
分も歩いていると少し気
持ちも軽くなり、桜の蕾に目をやり、鳥のさえずりをきく。普段ならどこかで一服、コーヒーでも飲みたいところだが、回り道をしながら自宅へ戻ることとする。
30
散歩の収穫
和菓子屋さんの前を通ると「花びら餅あります」と張り紙がある。友人が今年頂き物で初めて食べて美味しかったと、わざわざ知らせてきたものだ。すぐに売れ切れてしまって送れない。ごめんと言いながら、その奥深い味わいを教えてくれた。花びら餅は食べたことがない。新年を祝う和菓子で昔は京都だけにあったものだという。お正月で甘いものを食べ過ぎていたので、目だけ追って通り過ぎたが、引き返して店に入った。綺麗な和菓子が並んでいる。グッとこらえて花びら餅を探すと、ガラスケースの箱の中に1つだけある。見本だろうと尋ねると、この1つが最後です。という。えっ?ではこれを1つ、と言って包んでもらった。和菓子屋さんで和菓子を1つ、普通ならちょっとはばかるが、1つしかないのだからここは堂々と。食べ過ぎないためにはちょっどいい。にんまりしながら、帰ってからのお茶を楽しむこととする。
通りを挟んでもう1軒、以前通った時には行列ができていて買えなかったパン屋さん、今日は大丈夫。棚には美味しそうなパンが並んでいる。フランスパンとオレンジの入った大きなふあふあパンを買う。気分はルンルン。財布の紐は緩んでいる。
人通りの少ない道をフランスパンを小脇に抱え、ちょっと気取って歩いていると花屋さんがある。大きな白と赤のシクラメンの隣に小さなバラの鉢植えがいくつか並んでいる。
綺麗だなぁと眺めていると、店先から人が出てきた。両手はふさがっていたが、小さな黄色のバラ鉢を買った。お金を払いながら、シクラメンの水やりのタイミングを聞いた。先月届いたシクラメン、最近元気がない。タイミングは環境にもよるがと言いながら、実際に指先に土をつけて湿り具合を見せ親切に教えてくださった。話していると奥からその方のお父さんらしき方が出てきて、さらに詳しく水やりの方法、陽の当て方を教えてくださった。黄色のバラ鉢300円、親子2代のすごい講義を受けた。これから花を買うときは「ここ!」と決めた。
不要不急の散歩ではあったが、花びら餅ゲットとバラ鉢で得た収穫は大きかった。身体も心も自分のもの。蟄居、隠居、引きこもりで気持ちが萎えては元も子もない。基本を守って、人混み避けて、水筒持って、ゆっくり散歩、大いにやるべし。
「今年こそ、会いましょう!!」が実現できるように ……
二条城、意外と軍事拠点京都市街の中心にあたり、多くの観光客で賑わう「二条城」。唐門や二の丸御殿など、華麗な建造物で知られますが、本来は上洛した徳川家康を守る城郭として設計されました。
外堀は二条城のまわりを方形に囲み、東南には隅櫓が建っています。白い多聞塀(瓦屋根の塀)は全長1.8kmにおよび、銃で外を狙うための狭間や石落としが設けられた実用的な設備です。二条城の存在は、御所や京都の町衆に無言のプレッシャーを与えていました。
京都洛中の城としては、織田信長の旧二条城(御所の西側)、豊臣秀吉の聚楽第(御所の西、二条城の北側)、徳川家康の二条城が有名です。二条城は、関ケ原の闘い(1600年)の翌年から建設を開始。1603年に家康が入城し、御所で将軍拝賀の礼、城で宴を開催。徳川の全国支配を世に知らしめました。観光客が出入りする堀川通りの「東大手門」は、石垣と一体化し無数の鋲を打った厚い鉄扉で、建設当時の新兵器大砲にも耐えるわれます。
華麗な二の丸御殿。創建時の建物は、1624年、後水尾天皇行幸のために全面改装されました。遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行条に並び、将軍拝賀から大政奉還まで、260年にわたる徳川将軍家盛衰の舞台となりました。
▲天皇を迎えるため改修された唐門には、鶴や亀、虎、唐獅子、龍、牡丹などが華麗にあしらわれています。
▲庭園から見た御殿。右は諸大名の控室となった「遠侍」、中央が「式台」、左は大政奉還が行われた「大広間」になります。
▲菰(こも)に巻かれているのは、南国の木であるソテツ。150年以上前から大切に守られてきました。
二条城は、外堀と内堀の2重の堀で守られています。内堀のなかの本丸御殿は、二の丸御殿の後に拡張されました。内堀に掛かった2本の橋を落とすことで二の丸と遮断でき、敵から身を守る籠城戦に備えたつくりです。橋に設けられた本丸櫓門にはかつて2階建ての廊下があり、二の丸御殿と空中回廊でつながっていました。
大坂夏の陣(1615年)のとき、豊臣氏に内通した木村宗喜によって二条城の放火計画(家康暗殺計画)が発覚し、それに連座して茶人大名として知られる古田織部も切腹を命じられました。織部は無念の自死を遂げますが、革新的な美意識は今に受け継がれています。織田信長によって足利義昭を京に迎えるため築かれた「旧二条城」。その石垣の一部が二条城に移築されています。旧二条城は御所の西南にあり、信長の手で解体されたため全容は不明ですが、発掘調査によって石垣が発見され、宣教師ルイス・フロストが記録した「石材が不足していたので、石仏などを粉砕したものが利用された」ことが確認されています。
二条城の土蔵は目立たない建物ですが、現存する貴重な米蔵として重要文化財に指定されています。兵粮米が保管されていたことから、家康は万一の際、本丸に立て籠もり援軍を待つ方策を考えていたといわれます。徳川幕府の西国支配がまだ盤石とはいえない時代、二条城は武家としての戦略性と貴族社会の儀礼の両面をもった城だったのです。
は
10
史上まれに見る熾烈な大接戦で、未だその混乱が尾を引く米国
大統領選挙。これを戦い抜いた両陣営4人の候補者の食生活から何が見えてくるか、探ってみます。まずは、ドナルド・トランプ
前大統領(
74
歳)。とにもかくにも「トランプ」=「ファスト・フ
ード」で、現代の健康食志向の対極に位置する食生活。マクドナルドの大ファン特にフィレオフィッシュで、ビッグマックじゃないのが意外です。政治家としての配慮からか、時にはバーガーキングも。移動中の自家用機内、オバマ前大統領からの書簡とウォールストリート・ジャーナル紙を傍らに、ケンタッキー・フライド・チキンがてんこ盛りのバーレルを前にニッコリ。もちろんステーキも大好物。ただし、表面をカリカリに焼いて十分に火を通した超ウェルダンがお好み。すなわち「レアかミディアム・レアで肉の微妙な違いを味わう」なんてことには興味がない。忙しい身ですから、ピザで済ませる機会も多い。ああ見えて炭水化物節制志向があるようで、ピザの台を残してチーズとトッピングのみを食べることもあるといいます。本当に忙しいときには、これらファストフードの軽食を立ったまま食べる。これ、凄いなと感じます。
「戦う男」として根性がす
わっている、あの年齢で。
前大統領はニューヨークのブロンクス生まれ。祖父が南ドイツ出身の移民初代で、カリフォルニアのゴールドラッシュで、金掘りに集まった労働者向けの食堂を開いてひと儲け。その子供が、前大統領の父親フレッド(1905〜1999)です。フレッド
歳で肉屋の配達小僧として働き始める。当時一家が困窮して
いたためです。この少年が長じて不動産業で大成功、その息子ドナルドのトランプタワーへとつながります。母親(1912〜 2000)はスコットランド西北部ルイス島の寒村出身で、母語がゲール語で英語は学校で習ったという環境です。第一次世界大戦後、経済的困難から米国に移民。映画『タイタニック』の3等
船客の世界そのものです(コラージ 2016年
年の家事労働(召使い)を経てニューヨークでフレッドと出会い、3男2女5人の子供に恵まれます。前大統領ドナルドは上から3番目で次男。父親のフレッドは、不動産取引をめぐって何度も当
2
月号参照)。数局から不正を指摘され、また、商売相手から多数の民事裁判を起こされている。まさに泥水をかいくぐり地面を這いつくばりながら、ニューヨークの底辺からのし上がってきた男です。前大統領は、その息子であって、共に仕事を築き上げてきた父
10
親の人生観が、色濃く投影されていると言われます。
米国のお金持ち4代目というクラスだと「フランス語のメニューが読めて当たり前」なんてソサエティが、テキサスやオクラホマでさえ、存在します。暮らしぶりは極めてエレガントで、家・車・衣服・所属するカントリークラブ・買い物に出かける店・食事のマナーそして態度物腰まで、地方のそこらの人々とは決定的に異なります。親戚揃って地方の名士みたいな感じで、パーティーで集うのも同じクラスの人同士が中心。この階層は伝統的に共和党の岩盤で、近年この層の金持ち度がますます高まっている。こうした代々続く特権階層から見ると、トランプ氏は大金持ちでも「新参者」という扱いで、前大統領は社会的に上昇していく過程で、その屈辱をイヤというほど味わってきたはず。だから同じ共和党なのに、2人の大統領を出している「名門」ブッシュ家に代表される勢力とは非常に仲が悪い。「いつか「奴ら」を膝まづかせてやる」これが彼の政治的野心の原動力だと思われます。
父親が歳で肉屋の配達小僧として働き始めるという環境から這い上がってきたトランプ氏には、底辺の人々の悔しさと怒りが、身をもって判る。だから彼らの感情に火を付ける言葉を発することができる。実際にその言葉によって発火した右派過激派は、米国特権階級の総本山と言ってもいい議事堂を襲撃するという暴挙に出た。もしかすると、これは新たな右派革命の始まりとなる事件なのかもしれません。
いささか話が食から脱線してしまいましたが、前大統領、意外にも、お酒は飲みません。もっぱらダイエット・コーク。果たして下戸なのか、それとも、自身を厳しく律してか。たぶん後者ではないかと。というのも前大統領、ビジネスの現場で泥水かいくぐってきた、父親譲りの叩き上げで豪放磊落、みたいに見えますけれど、学歴はペンシルベニア大学ウォートン校の MBA取得者です。現在スタンフォードと並んで全米 MBAランキング1位タイという名門中の名門。日本で有名なハーバードでさえ、同ランキングでは6位です。不動産取引とテレビで有名になって出てきたので、おチャラカしのイメージがありますが、頭の切れはダントツで、若い頃に凄い勉強をこなしていて、その先に今がある。ちなみに、テスラのイーロン・マスクも同窓の MBA取得者です。
トランプ前大統領は、グルメぶるなんて、絶対にしません。アメリカの田舎の暮らしを少しでも知っていると、これ、政治家として大切な要素だとわかります。
大きな格子柄のウォルマートのシャツを着て、野球帽をかぶり、車はボロのピック
アップ・トラックかミニヴァン。外食は、ファストフードか馴染みのダイナー。そん
な人々の中でフランス料理なんて言ったら、鼻つまみです。前大統領が事あるごとに「ファストフード好き」を全面に押し出すのは、こうした草の根の田舎の庶民層に向
けて「いつも君らと同じもの食べてるぞ!」とアッピールしているとも感じられます。
政治家ですから時には好みでない食べ物も大好きなふりをすることも平気。自慢の金
ピカ・トランプタワーで、グループが運営する
グリルで作らせた、メキシコ色の濃い料理タコ
を食べる姿を撮影させています。メキシコ系選
61
挙民向けのポーズです。しかし、彼のメキシコ人移民労働者に対する厳しい弾圧政策と、メキシコ国境沿いに壁を巡らせたことを思えば、メキシコ人なら「このタコ野郎!」と怒鳴りたくなるはず。そんな人々の思いを反映してか「トランプタワーのグリルのタコは美味しくない」と大新聞や食専門誌が批評しています。
一方トランプ氏は、大人になるまで生魚を食べたことがなかったようで、だから「お寿司なんて絶対ダメ」と公式訪日前に語っています。皮肉なことに、首都ワシントンのトランプ氏経営のホテルに高級寿司店「ナカザワ」(「すきやばし次郎」で修行した中澤大輔氏経営の2店舗目)が入っていて、これが一昨年ミシュランで ★獲得。この話が話題になった時、敵対する民主党の幹部は「いくら美味しかろうと、その店には絶対行かない」と言ったとか。食と政治は複雑に絡み合っているようです。
次に、マイケル・ペンス前副大統領(歳)。カナダ国境に近いインディアナ州の小都市の生まれで、父親は最盛期ガソリンスタンドを 200店舗展開していたという地元の有力実業家。トランプ氏とは違って富裕層出身です。父の死後マイケルの兄(現在下院議員)が家業を継ぎますが、徐々に衰退し、 2004年に会社は破産しています。ペンス家は米国では少数派のカトリック。小都市での強い教会つながりの中で育ったはず。この人の食に関する話で欠かせないエピソードが「妻同伴でなければ、私は他の女性とふたりだけで会食することは絶対にしない」という発言。一見妻思いの敬虔なカトリックの発言とも取れますが、働く女性からは「仕事に古いジェンダー観を持ち込むな!」と猛反発を食らっています。民主党のペロシ下院議長やハリス副大統領が相手でも、二人で会食できない? 相手が怖くてできないか。複数回の来日経験あり。 ……次号へと続く。
月夜の知恩院
浄土宗総本山の華頂山 知恩院(ちおんいん)。
国宝「御影堂」は1639年、3代将軍家光によって建てられ、浄土宗元祖法然上人を祀っています。法然上人800年大遠忌にちなんだ9年がかりの大改修をおえて、2020年4月落慶法要が営まれました。
知恩院の「三門」は、高さ24m、横幅50mと日本最大級の山門です。1621年、徳川2代将軍秀忠によって建立され、二条城とあわせ徳川の権威を世に示しました。軒を支える斗.を密に並べ、禅宗の雰囲気をだしています。
御影堂は間口45m、奥行き35m。破風は牡丹などの彫刻で埋められ、直径60cmのケヤキの丸柱は角材から削り出しています。軒を支える斗.は複雑な「三手先」。火災の延焼を防ぐため、渡り廊下は柱を倒すと崩れるようになっています。
境内の最上部には、法然上人のご遺骨を奉安した「御廟」があります。法然上人は1212年、この地の禅房で入滅され、門弟たちによって廟堂が建てられました。
ドラゴンシリーズ 76破壊と創造吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンへの道編
明日のことは誰にも分からない。そして昨日を誰も変えることはできない。時間は動いているし、そして過ぎ去った時間を取り戻すこともできない。先のことを考えても誰も予測することさえもできない。明日に対する何の保証も無い。自然の摂理としては当然のことであり、これまでもそしてこれからもこの真実は変わらない。
今、生きていること、時間の意味を感じることができる。いつどこで何が起こるか分からない時代だからこそ自然の摂理という真実が強さを持って生き生きと浮き上がってくる。考えているだけでは何も変わらない。考えていることを実感してそこから何かを生み出す為に必要なことは、動くことだ。
今、世界は物理的に動くことができない。多くの動くことができないものは動こうと言う意識を強く持っている。動くことは意識そのものなのだ。意識が動くことで私たちは進化することができる。感情の動き、思考の動き、そして身体の動き。全てが動きであり、私たちは空想の中でも動いてゆくことができる。
物理的、身体的なことだけが動きではない。感情と思考の動きが伴わない物理的な動きは方向を持たない。
全てのはじまりは想像や空想と言った思考の動きであり、そこから心が動き始め、その空想は次第に膨張し始めてそれぞれの表現の形として暴発する。時には音楽として、時には文字として、それがどんな表現であれ、心の動きは全ての動きの源であることに変わりはない。時間が止まっていても心を動かせばいいのだ。
時が止まっているように見える現在の社会の根底でも、時間だけは確実に前に進んでいる。それが真実であり、止まっているように見える人間も刻々とその様相を変えて時を刻んでいる。それがどのような変化であれ、それを司るのは一人一人の心の中にあり、そして時代という時間も変わり続けている。動いていないと思える時にも確実に時は動き、そして人間も社会も刻々と時を刻み、過去と現在から未来へと進む。
全てに時間は平等に与えられたように見える。しかし紛れも無い真実は、時
は永遠に終わらないが、私たちそれぞれの時間には限りがあり、誰にも確実に終わりが訪れる。私たちの命はいつか終わるのだ。それは明日かもしれないし、ずっと先かもしれないし、誰にも分からない。明日の時間が保証されていないことを認識することで、私たちは今日の時を精一杯に刻むことができるのかもしれない。終わりがいつ来るか分からないからこそ今の時を刻むしかない。
過去の出来事や経験は真実ではあり現在にひと続きではあるが、過去を変えることも戻ることもできない。
先に進むためには壊すことだ。過去に決別して現在を生きることだ。そんなこと当たり前だが、そんな単純なことが僕らには分からない。明日を想うことはできても明日できることの真実は誰にも分からない。今の時間が真実であり、現実私たちが生きているのは今なのだ。今がこれからを創るのだ。
過去を破壊してそして未来を創る為に今を生きるしかない。それが人間の時間の真実なのだ。そして自分の中に新しい何かを生み出すには今の自分の中にあるものを壊して場所を作り、自分の空いた場所の中に新しい何かを作り出すしかない。
時間は止まっているように見える時こそが、人間の思考や感情が最も強く動いている時。時代は変わるのではない。過去を破壊するのだ。時は自分の心が創るものなのだ。命を動かすのだ。そして時代を動かすのだ。そして時代を創るのだ。
白沙村荘 橋本関雪記念館
哲学の道沿いの数百本の桜は、橋本関雪の夫人よねによって植えられ「関雪桜」と呼ばれました。庭園からは「大文字焼き」で知られる如意ヶ嶽(大文字山)を望みます。
銀閣寺に近い「哲学の道」に、日本画家橋本関雪のアトリエ兼自邸が「白沙村荘(はくさそんそう)」として公開されています(2021年2月26日まで冬期休館)。1883年、漢学者橋本海関の長男として神戸に生まれた橋本関雪は父より漢詩・書画の手ほどきをうけ、20歳になると竹内栖鳳の「竹杖会」に入会。30代で中国を旅したあと京都に拠点を移し、大正期の京都画壇で活躍します。独自の画風を確立すると画壇とは距離をとり、当第一の人気画家となりました。白沙村荘は1914年(大正3年)頃から建設をはじめ、大正5年に完成。その後も茶室やアトリエを増築し、土地を買い増して30年かけ庭園を整えました。関雪自身が建物の設計や造園を行い、他にもいくつかの別荘を建てていました。
芙蓉池に面した「存古楼(ぞんころう)」は、自然光を採り入れた天井の高い大広間のアトリエで、2階から大文字山を望みます。大文字焼きの日には池に「大」の字が映るよう設計されました。
庭園は、琵琶湖疏水を利用した芙蓉池、瑞月池、浄土池をめぐる池泉回遊式になっています。瑞月池のほとりの茶室「如舫亭(にょほうてい)」は、蓮池に張り出した形で建てられ、大陸風のダイナミズムを感じさせます。漢学に長け、30回以上も中国を訪れ上海に別荘まで建てた関雪は、作品や庭に中国の景観を取り込んでいるようです。
茶室「憩寂庵(けいじゃくあん)」と「倚翠亭(いすいてい)」。2009年に焼失しましたが、2012年に再建されました。関雪はよね夫人のために茶室や茶道具を揃えました。
明治から大正、昭和にかけて日本画家が活躍した京都では、その旧邸がレストランや施設として活用されています。八坂の塔近くの旧竹内栖鳳邸はレストラン「THESODOH」、竹内自身が設計した嵯峨嵐山の画室「霞中庵」は㈱ボークスの会員施設。絵描き村といわれた衣笠には「櫻谷文庫木島櫻谷旧邸」(期間限定公開)があります。山下竹斎邸は催事施設「平野の家 わざ 永々棟」として利用されています。
関雪の孫で谷崎潤一郎家に嫁いだ渡辺千萬子さんは「上海に旅行して、豫園や蘇州の寒山寺や拙政園などを観た時に、白沙村荘の庭園の至るところにその影響があるのがわかりました。」と著書『落花流水谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』に書いています。庭園には全国から集められた石仏や塔、石灯籠が佇み木々や苔と調和します。
よね夫人追悼のために築かれた「藪の羅漢」。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
大津の名刹「三井寺(みいでら)」訪問記.その1
2009年(平成 21)年春にサントリー美術館で「宗祖智証大師(円珍)入唐求法帰朝 1150年記念『国宝三井寺』展」が開かれました。それに遡ること 6年まえの 2003年
(平成 15年)春には、東京国立博物館で「弘法大師入唐1200年記念『空海と高野山』展」が開かれたのですが、何故か行かなかったのです。高校時代から大の仏像好きで、高野山には奈良や京都のような仏像はないはず!と思い込んでいたのでしょう。見に行った家族の評価が高かったせいもあって残念な気分でした。
『国宝 三井寺』展の開催を知った時は一瞬「紀三井寺」のことかと思った位で、三井寺がどのようなお寺なのか、どこに在るかも知らなかったという恥ずかしい話です。しかし前述の『空海と高野山』展を見逃した記憶も強く残っていた
三井寺(園城寺)の仁王門。
ので、後悔しないよう期待半分で出かけました。三井寺は通称で正式名は「園城寺(おんじょうじ)」。滋賀県大津市園城寺町 246にあります。比叡山の琵琶湖側麓で湖岸に近く、大津市役所や琵琶湖マラソンのスタート、ゴールでおなじみの皇子山陸上競技場の近くといえば大体はお分かりになるかもしれません。京阪電鉄石山坂本線に三井寺駅から徒歩 8分程で園城寺の正面、仁王門の前に出ます。
『国宝 三井寺』展」ではこの寺を再興した「円珍」の姿を現した「智証大師坐像」や不動明王像、十一面観音像、園城寺境内古図、両界(胎蔵界、金剛界)曼荼羅図、仏具等、また国宝「勧学院」障壁画等が公開され、非常に充実した展示でした。その中でも一番心に残ったのは国宝「絹本著色不動明王像」です。通称「黄不動」と呼ばれているものです。不動明王像は画でも像でも坐像が多いのですが、「黄不動」は立像です。剣を持つ右手、羂索(罪人でも引き上げて救うための投げ縄の様なもの)を握る左手も、動きが少なく静かです。しかしその静けさとカッと大きく見開いた白く鋭い両目の印象が、返って明王の深い愛情(明王は大日如来の化身ですから)を秘めた大きく強い怒りを表しているように感じました。「黄不動」は秘仏ですが、戦後から今迄で 7回程公開されています。この像画に出合ってから三井寺を訪ねたいと永く思っていましたが、昨年末に大阪で打ち合わせがあり想いが叶いました。
三井寺という通称は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の3代が、境内から湧き出ている霊水で産湯を使われたことから「御井(みい)の寺」と呼ばれたものを、智証大師(円珍)がこの寺の厳儀である三部潅頂(密教の潅頂(かんじょう)=頭頂に水を注いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律、資格を授けて正当な後継者とする儀式)の法水に用いられたことに由来するとお寺の説明文に有ります。この霊水は国宝「金堂」の裏手にある重要文化財「閼伽井屋(あかいや)」と呼ばれる建物の中で湧き出ており、耳を澄ませるとボコッ、ボコボコッと比較的大きな音が聴こえ
『国宝三井寺』展のポスター。黄不動立像が立っている。
『近江八景之内 三井晩鐘』歌川広重。
ます(左下のリンクからVTRをご覧いただけます)。
仁王門から正面の急な石造りの階段を上りきりますと、正面金堂の手前左手に鐘楼が見えます。この鐘は音色の素晴らしい「三井の晩鐘」として非常に有名です。2代目のもので総高208.6cm、直径124.8cm、重量 2,250kg。梵鐘特有の荘厳な音色に加えて、多様且つ華やかな味わいの音色が加わり、飽きません。オーケストラのように復雑な音色なのです。重要文化財の鐘楼とともに県の文化財に指定されていて、今でも日々の入相(入りあい、夕暮れ時)の鐘として大津の町町に響き渡ります。この音色の良さで、形の平等院、銘の神護寺とともに日本三代銘鐘の一つに数えられていて、平成 8年には環境庁により「オホーツクの流氷」「山寺の蝉」「京の竹林」等とともに「残したい日本の音風景百選」にも選ばれています(左下リンクから音色をお聴きいただけます)。
また琵琶湖の湖南の八カ所が「近江八景」として、江戸時代の浮世絵師歌川広重により風景画(錦絵)の揃物として描かれています。構図が横位置のものと縦位置が有りますが、私見ですけれども横位置のものの方が遥かに完成度が高く美しい。瀬田の唐橋を描いた「勢多夕照」、石山寺方面から琵琶湖にかかる月を描いた「石山秋月」等、その中の一枚に「三井晩鐘」があります。比叡山をバックにした夕暮れの風景で、手前の長等山(ながらやま)中腹に三井寺の建物が点在して見えますが、晩鐘の音色?はいくら広重でも描けませんよね。もう一つ、この鐘の素晴らしいところは、何とわずかに寄進すると「自分で突く」ことが出来るのです。毎年大晦日、NHKによる全国各地の「ゆく年来る年」を観る度、自分でもどこかの大寺の鐘を突いてみたいと思っていましたが、今回の訪問で心躍る体験をさせてもらいました。
また広大な三井寺(園城寺)境内北端の高台に琵琶湖が一望出来る「法明院」があり、そこにはアーネスト・フェノロサの墓があります。いうまでもありませんが、明治時代に日本の美術研究、文化財保護など果たした彼の功績は多大で、日本の伝統美術保護の恩人です。縄文土器の記事でも書きましたが、「国宝=National Treasures」という概念はフェノロサが考えだしました。狩野派の画家に師事して「狩野永深理信」という雅号を許され、「法明院」で受戒して仏教に帰依しています。生前か
国宝の金堂。
国宝 光浄院客殿。
らどうしても琵琶湖が見えるこの土地で死にたいと遺言を残していたそうですが、大英博物館で調査中に心臓発作で亡くなりました。遺志により分骨され、今は「法明院」で静かに眠っています。境内には金堂以外にも 3棟の国宝建築が在ります。そのうちの 2棟が 1600年建立の勧学院客殿、1601年建立の光浄院客殿です。これらは普段は非公開ですが、事前に3名以上でネット申し込みし予約、時間指定で特別拝観が叶いました(拝観料はが掛かります)。僧侶の方か職員の方随行で説明が付きます。今回ご案内くださった僧侶の方のお話は、建築空間のご説明が建築史学科を出られたのではないかと思われる程、空間の持つ心理的な意味や、蝋燭や灯明以外の照明が無い時代の採光の計算、納まりに至るまで詳細に渡り、「初期書院造り」について十二分以上の勉強をさせていただきました。思い切って時間を作った訪問の成果が今も頭に渦巻きます。
三井寺は歴史も永く格段に奥深い文化が目白押しで、とても一回では語れません。次回にあらためて「初期書院造り」のお話をしたいと思っています。
京都市役所近くの喫茶店。
京町家を改装した西陣の旅館「東籬(とり)」。
錦小路。
Vol.19原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
通りぬけておいで!
雨上がりの空にかかる虹の門を
茶の湯の聖地臨済宗大徳寺
大徳寺の「三門」は1589年、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名づけられました。上層に千利休木像を安置したことが豊臣秀吉の怒りをかい、切腹の一因になったとも言われます。
1315年、大燈国師によって創建された洛北の「大徳寺」。織田信長、豊臣秀吉をはじめ戦国武将が創建した20を越える塔頭寺院が並び、千家とゆかりの深い茶道の聖地としても知られます。
塔頭のひとつ「真珠庵」(上)は、一休宗純ゆかりの寺院。大徳寺と茶の湯のつながりは、わび茶の祖といわれる村田珠光が、一休さんに参禅したことから始まったといわれます。一休は81歳の頃、応仁の乱で荒廃した大徳寺復興を後土御門天皇から命じられ、堺の貿易商 尾和宗臨たちの力を借り、仏殿や方丈を再建しました。
黄梅院は、織田信長が父を弔うため、豊臣秀吉に建立を命じた古寺。千利休の作庭と伝わる苔庭「直中庭」や武野紹鴎の茶室「昨夢軒」など見どころの多い寺院です(通常非公開)。
『総見院殿様(信長公)のご葬儀が柴野大徳寺で日本国中の諸大名方が御集りで御とり行われます際、キリシタンの高山右近様ばかりは、仏式の御葬儀には御参列になりませぬでした。』千利休の娘・お吟さまと、キリシタン大名高山右近の許されぬ恋を描いた今東光の直木賞受賞作『お吟さま』には、大徳寺の場面が頻繁に登場します。
最も古い塔頭のひとつ1509年創建の「大仙院」は、沢庵宗彭をはじめ名僧を輩出しました。左手の本堂(国宝)は、玄関や床間を備えた最古の方丈建築で、書院造りのルーツと考えられています。
興臨院(こうりんいん)は1520年代、能登国の戦国大名・畠山義総によって創建されました。その後、加賀百万石前田家の菩提寺となり、改築をかさねながら今に続いています。
方丈の前庭は、足立美術館の作庭で知られる中根金作。寒山・拾得が暮らした天台山の石橋を模しています。庭の貝多羅樹の葉は、古代インドで経典を写す紙の代わりに使われました。
「涵虚亭(かんきょてい)」は、小堀遠州好みの茶室。四畳台目に隅板を加え、床の間は洞床になっています。大徳寺には各年代の40以上の茶室があり、それぞれの個性を放っています。
那覇空港発羽田行き
JAL904便、ボーイング 777のエ
ンジンカバーが海に落ちる事故が発生したのは、昨年
ことである。人員整理による航空会社の人材不足は、メンテナン
ス系にまで及んでいることが伝わるニュースであったと思う。
台積んでいる
台のエンジンから発火。早めに空港に戻れたから
大事故に至らなかったものの、部品落下がもし地上で起こってたら、どうなっていたんだろうと、私達は、それでなくとも身に迫る危険を感じている。同機の原因解明もされぬまま、未だ都民の頭上を飛び交っているのだからなおさらである。
今後、都心の低空飛行ルートで事故が起きたら、どなたの責任になるんだろう。航空会社は国交省が決めたルートと言っているから、責任の行方は行ったり来たりの半々といった所だろうか?
1
その10
青山かすみ
月4日の
12
2
本日、南風なれども
頭上を飛ぶ低空飛行の騒音に慣れることなんて、全くもってありません。ドデカいジェット機騒音の空襲と米軍ヘリや自国ヘリのブンブン嗅ぎ回るみたいに不快な小型機騒音。こんなイヤーな音を少しでも防御しようと一年間、日々、苦心惨憺してきたわけで……。
コロナ対策の必須条件に換気が入っているけれど、ヒドイ騒音だらけで窓を開けていられるとでも?
大晦日には東京で 1000名をゆうに越えるコロナ感染者が出たと思ったとたん、年明け早々また倍増。 2000名を越える驚きの結果が ……。変異種の発生も重なり、再びの号令が発せられた。だが、しかし、時短になった反動か、世はいかさま?
一度目に比べ、どちらを見回してもかえって密状態になってしまったように思えてならぬ。
【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】