GIFU-to PartⅡ Reversible Destiny
時空を超える美意識
死から生への反転地大垣〜養老
神帰月 2020 https://collaj.jp/
大垣市 /洪水で死なないための輪中と水屋
岐阜市の西南にあたる「西濃」の中心都市・大垣市。木曽三川(木曽・長良・揖斐)の豊かな水脈に恵まれる一方、たび重なる洪水から集落を守るための堤防(輪中)を築いてきました。
輪中生活館(旧名和家)
「輪中生活館」では洪水から身を守る水屋が見られます。
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▼大垣では集落を囲むように輪中(赤線)が築かれました。
大垣では洪水から命と財産を守るため、鎌倉時代から集落ごとの「輪中」が築かれ、水害にあうたび強化されてきました。現在の堤防と異なるのは、集落を囲むように築く点です。最初は川の上流(北側)に向けて堤防を築き、次に南側の堤防が築かれると輪状になることから「輪中」といわれました。江戸時代には輪中を輪中で囲う大規模な複合輪中へと発展しますが、昭和になると河川の改修が進み、交通の妨げになる輪中は急速に失われました。
▼母屋の玄関前には、舟を繋いだ柿の木が立っています。
江戸時代から続く旧家「名和家」(輪中生活感館)は、住居式水屋と土蔵式水屋を備え、輪中地域の典型的な農家の姿を伝えています。土間の梁に田舟を吊った「上げ舟」は、水害時は水防団の連絡、救助活動に使われました。
河川の水が地下水脈となり、水が自噴する場所も多く見られます。名和家にも掛け流しの水場がありました。
大垣は伊勢湾から40kmも内陸ですが、海抜はゼロ〜数メートルしかなく、河川は地面よりも水面が高い「天井川」になっています。増水によって川に滞留した水が溢れだす内水氾濫が起こり、数カ月にわたり水がひかないこともありました。庄屋など大きな家は、輪中の決壊に備え敷地自体を高くすると共に、母屋から2〜4mほど高い場所に「水屋」を設け、洪水時も生活を継続できるよう工夫していました。
▼屋敷の西側には防風林が立ち、堀の跡が見られます。堀は水路であると共に、川魚の漁場でした。
客間の卓上には、秋祭りのご馳走が再現されていました。屋敷のまわりの水路では鮒や鯉、鯰など川魚がよく捕れます。その煮付け、煮物、刺し身、汁物が祭りの食卓を飾りました。普段は酢の物、味噌汁、漬物、麦飯といった質素な食事です。
名和家は住居式の水屋と、土蔵式の水屋を備えています。母屋と水屋は階段式の渡り廊下(どんど橋)で結ばれ、日常的に行き来できるようになっていました。石を積み上げた中庭が設けられ、普段から客間や隠居部屋として使われたようです。
住居式水屋の座敷には茶道の炉が切られています。「おくの細道」むすびの地として知られる大垣は、蕉風(しょうふう)と呼ばれる俳諧が盛んで、ほうぼうの家で句会が頻繁に開かれていました。土蔵を載せた丸石の石垣は高さ約2mもあり、土蔵には漆器、書画など貴重な品々を保管し、穀物、味噌、醤油を貯蔵して洪水に備えました。
その昔、気軽にハワイに行くなんてできなかった頃。せめてカクテルで南の島の雰囲気を味わってみようと彼女と二人、マイタイとかブルー・ハワイアン・カクテル(以下、ブルハカ)なんてものを出す店に通っていた時期がある。このブルハカ、初めて出された時、驚いた。大きめのカクテルグラスに、青空をクリーミー16にした色の液体が満たされ、黄色いパイナップルの小片と真っ赤なマラスキーノチェリー、そして何か淡い紫と白が混ざる花びらが添えられていて、男が手にするのが恥ずかしくなるようなものだったからだ。だが、これを口にしてみれば、甘さと濃厚さが心地よく、チビリチビリがいつしかゴクリとなって、甘いカクテルも悪くない、と思い始めた自分が情けなくなったことを覚えている。
男が飲むべきカクテルはだたひとつ、マティーニのみ。それもシェイクせず、僅かにグラスを揺らす程度で。故ショーン・コネリーのような男であってこそ、様になる。一方で、マティーニを飲むべき場所は、パリ・リッツのバーしかない。なんて話をさもさも男らしさの象徴みたいに、ヘミングウェイ気取りで書いていた作家の文章をありがたがっていた自分の愚かさも、同じ頃だったと思い出されてくる。こうした甘さと苦さと愚かさを越えて、どうにか大人になったと感じ始めたのが、ほんの数年前のことだから、誠にもって人生、日暮れて道遠し、というほかはない。
そんな甘酸っぱい思い出を一旦凍結し、食文化ヒストリアンとして、ブルハカの構成要素を冷静に考えてみる。すると、南国の海をイメージして生まれた、このクリーミー・ブルーの液体、これが満たされたカクテルグラスの向こう側に、コロンブスの大航海、帆船や海賊、地図や海図、宣教師や園芸家、そして悲しき奴隷たちの姿が、浮かび上がってくる。なぜそうなるのか、お話してみたい。
このカクテル、次のような素材で作る。①ラム酒、②ブルー・キュラソー(リキュール)、③パイナップル・ジュース、④ココナッツ・ミルク、⑤パイナップル小片(たいていは缶詰)、 ⑥マラスキーノチェリー、⑦クラッシュドアイス。
まずは、①のラム酒。これ、もともと砂糖を精製する過程で出る絞りカス汁から生まれた、一種の廃物利用だ。やがてこの「カス酒」の方が、砂糖作りよりも重要な存在へと変化していく。言うまでもなく「ラム酒」=「カリブ海」というイメージが強い。
世紀後半から、スペイン・ポルトガルに遅れる形でオランダ、フランス、そしてイングランドが、この地域の島々を侵略し、ここで競って、サトウキビのプランテーション(単一作物の大規模農園)を開発してきたからだ。灼熱の熱帯で人の倍ほどの高さに大きく育つサトウキビ。炎天下これを刈り取る作業は過酷というほかなく、その労働のために生まれ故郷からさらわれて送り込ま
れたのが、主に西アフリカの黒人たちだった。奴隷たちには、その働きに応じて、ラム21酒が報奨として割り当てられた。こうしてカリブの島々で黒い人々が生み出す白い砂糖は、奴隷の悲しみを秘めて
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欧州に送られ始める。これにより欧州で初めて「スイーツの世界」と呼べるものが大きく育ち始めるが、これが更にカリブの島々の悲しみを深めていくことになる。意外と知られていないのが、カリブから「カス」を安価に輸入してラム酒をつくり、これを盛んにイングランドに輸出していたのが、北米ボストン周辺の地域だったということ。いわば「ボストン産ラム酒」これが大繁盛してボストンの発展を支えた。と同時に、これに目を付けた宗主国英国によるラム酒の素材たるモラセス液への新規課税が、米国独立戦争の大きな要因の一つとなっている。
世紀に入って新たにこの地域で「クラフト・ラム酒」のメーカーが勃興し始
めているのも、こうした過去があってのことなのだ。この砂糖生産とラム酒さらに
は綿花農園をめぐる歴史の負の暗流が、今回の米国大統領選で争点の一つである「Black Lives Matter!」という大きな奔流へと流れ込んでいくこ
とになる。
②ブルー・キュラソー。このリキュール、色でびっくりさせられるが、これは着
色料によるもので、オレンジ色もある。「キュラソー」はカリブ海の小さな島(現在
の人口約万人)の名前で、1634年にスペインからオランダ(西インド会社)
が支配権を奪い取り、以後つい最近(2010
年)まで海外自治領として支配を続けてきた。
キュラソー酒は、この島特産の柑橘ララハ(ス
ペイン人が 1527年、母国のセビリアから
島に持ち込んだビター・オレンジの一種)の皮
を乾燥加工してラム酒に漬けて作られる。島の
公用語は当然オランダ語で、首都ウィレムスタ
トには、アムステルダムを思わせるような建物群が立ち並び、これが国連の世界遺
産に指定されている。
我が国の先祖たちがしっかりしていなければ、今頃、出島の長崎はもちろん、福
岡だって、フクオカスタトとしてハウステンボス顔負けの古色蒼然たるオランダ植
民地都市になっていたかも知れないのだ。チューリップと風車と運河なんてイメー
ジに惑わされて、かつてのオランダが、勇猛果敢に世界中に進出して、植民地獲得
競争に励んでいた戦闘的な国だったという歴史を忘れてはいけない。このキュラソ
ー島の歴史もまた、砂糖プランテーションと奴隷貿易を抜きには語れない。
③パイナップル。1493年コロンブスが2度目の航海で遭遇してスペインに持ち帰っている。カリブの島々で広く栽培されていることが知られるようになり、その姿が松ぼっくりに似ているということから、パイン(松)アップルと呼ばれ始める。現在スペイン語圏中南米ではピニャ(pina)と呼ばれる地域が優勢だが、同じ南米でもポルトガル語圏で、パイナップルの原産地と推定されているブラジルでは、これをアナナス(ananas)と呼ぶ。紀元前千年以上の昔からこれを栽培してきたトゥピ族での呼称からと言われている。この果実、あの硬いイガイガの外皮にもかかわらず、思いの外長持ちしないため、当時そのおいさを保ったまま欧州に届けることは困難だった。そのため、カリブの島々で実際に新鮮なパイナップルのおいしさを知った、ごく限られた数の人々が語る「最高においしい!」という言葉に輪がかかって、「夢の果物」というイメージが拡散していく。こうして、その希少価値故に、欧州の貴族社会で「一大パイナップル・ブーム」と呼ぶべき事態が生まれ
ることになる。 次号に続く。
構堀の屋敷は、石垣と堀つぶれに囲まれています。
高さ4mを超える土蔵式水屋が、たび重なる洪水の被害を伝えているようです。右図のように明治時代まで、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)は分流されず、水郷に輪中が点在する状態でした。明治20〜44年、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導で木曽三川の分流工事が行われ、治水のコントロールによって水害は激減します。しかしその後も、住民
1897年頃1905年頃と警官隊が治水計画を巡って衝突した昭和初期の「犀川事件」など、水害は住民の生活に大きな影響を与え続けました。
制作・著作 玉川学園 多賀譲治氏
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大垣の毛織物三甲テキスタイル大垣工場
尾州は古くから織物の産地として知られていましたが、明治になると毛織物(ウール)の一大産地になりました。大垣の三甲テキスタイルは、大正3年、後藤怒作氏によって創業された後藤毛織がルーツです。その後、鐘紡大垣工場となり、2004年から現社名になりました。レンガ工場と本社ビルは創業当時から残る建物です。
水都ともいわれる大垣には、軟質の水が豊富に自噴します。毛糸の洗浄や染色に軟水が適していることも、大垣に繊維工場が集まった理由のようです。三甲テキスタイルは、国内では珍しい紡績→染色→織り→加工までの一貫生産を行っています。工場内のショップでは、職人が採寸するウール100%の本格的オーダースーツを手頃な価格で作れます。
天保8年(1837)創業の三輪酒造は、幕末の大垣藩を救い書家としても知られる小原鉄心が贔屓にした酒蔵です。土蔵造りの酒蔵(棟梁谷喜十郎)は、明治20年の上棟で、明治25年の濃尾地震、明治29年の大洪水、太平洋戦争の空襲をのりこえてきました。仕込みには酒蔵の自噴水が使われています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
秋の京都「楽美術館」を訪ねるには残念ながら会えませんでしたが、長次郎の「二彩獅子」楽焼きの「楽」は聚楽第からかは圧巻で、気迫と力量は見応え十二分でした。これを作っ
た人だからこそ「形」「質感」「色」によって、深く沈んだ器は磁器が好きです。日本酒も好きなので、自分専用に有静寂と、寡黙な中に哲学的な強い意思を秘める微妙な黒田の柿衛門窯で求めた「ぐい飲み」をしばらく試しました。肌をもつ、侘び茶茶碗の代表作「大黒」を生み出すこと濁し手と呼ばれる地肌の柔らかい白とワンポイントの赤絵ができたのだと、腑に落ちました。改めて早く本物に会いは美しいのですが、飲み口の形と切れが物足りなくて、同たいと思っています。私としては今回の楽歴代展示の中で、
じ磁器でも飲み口が極薄手のピンと張った赤絵清水焼を今
は愛用しています。そんなわけで厚手の「陶器」にはあまり
関心がなかったのですが、数年前にテレビで観た「楽焼」
のドキュメント番組を見て、楽焼の世界をもっと知りたいと
感じていました。
先日、デザインに携わるチェーンの関西初出店に立ち会っ
た後、夕方近くですが初めて京都の「楽美術館」を訪ねま
した。上京区油小路(あぶらのこうじ)通一条下るの西側
に在り、北行き一方通行の細い道に面し、周辺の町並みに
とけ込んでいます。やや間口の広い一般住宅のイメージで、
サインを注意深く見ないと通り過ぎてしまいそうです。「楽歴代展」というタイトルに強く惹かれ、出展品リストも
チェックしませんでした。初代長次郎の黒楽茶碗「大黒」
京都「楽美術館」。エントランスが周囲にとけ込んでいます。四代 一入作 黒楽茶碗「嘉辰」と五代 宗入作 黒楽茶碗「比良暮雪」が好みです。
楽焼茶碗は屋内の小さな窯で焼かれます。電気窯やガス窯、あるいは登窯のような屋外の窯しかしか知りませんでしたので、TV番組中一番印象に残ったのは、窯の造りと焼き方でした。楽焼きの窯は二重構造です。窯の中心部に刀でいえば鞘の役割を果たす内釜を内蔵しており、その内窯を炎が包みます。次に驚いたのは、内窯に収まるのはたった一椀なのです。ふいごを使い高温で真っ赤に焼けた固まりが一つだけ内釜から取り出されます。楽茶碗は徹底した一品制作です。桃山という時代は、すでにロクロ全盛だったそうですが、楽茶碗は両手に土を添
初代長次郎の「二彩獅子」は圧巻。
え、そっと抱え込むように立ち上げてゆく手捏
のではと想像されます。長次郎が侘び茶のた(てづく)ねという技法で作られます。手で捏
めの茶碗を焼いたのは1581年頃から1586ね上げた形を残す素朴な造形が基本です。生
年に亡くなるまでで、千利休が侘び茶を直接産性は追求せず、一つ一つ丁寧に、土との出
行ったのは、1582年から秀吉に命ぜられ切会いを大切にその時の気持を器に込めるので
腹した 1591年までです。聚楽第は 1586年しょう。ですから焼成も一品づつ行われます。
に完成しますが、後半の主、甥の関白秀次余談ですが赤楽茶碗は 3〜4腕づつ焼かれ
が同じく秀吉の命で切腹させられ、聚楽第はます。こちらはふいごを使わないそうで、焼成
1595年に徹底的に破壊されてしまいました。温度が黒楽茶碗よりも低いため、複数を焼く
今の楽窯は楽美術館に隣接しています。聚楽ことが可能なのでしょう。
第が在ったとされる東の方角、堀川通を渡った約 400メートルの位置しています。楽家三侘び茶の世界感を完成させてのは言うまでも
代目道入時代にはすでにこの場所に窯が在無く、千利休です。利休の凄いところは、自ったようです。現在の楽家当主は16代目吉
分の茶の湯の理想型を実現させる侘びた「環境」と、最重要な道具としての茶碗を構想通りに表現する、高い技術を持った人物を見出し育てあげたことにあると思います。その「侘びたお茶」に相応しい「環境」の一つが、大阪と京都の間、JR大山崎駅至近の僅か二坪の茶室、国宝の「待庵」です。幾つかの著名な茶室を見ましたが、ここは別格と感じます。例えば茶室の壁の色合い、質感、散らされた藁くずの美しさ、デリケートな採光の計算に「侘び感」表現の深さがあります。建築的なプロポーションやバランスにこだわった数寄屋茶室とは桁違いな表現です。お茶席で一番大切な道具は、茶をたて喫するための茶碗です。並はずれた造形力と高い技術を持つ「手足」の一人が、楽焼初代長次郎でした。彼は陶工あるいは装飾瓦の職人とも伝えられますが「二彩獅子」の完成度からみても、屋根装飾のように離れて見た際の効果的な造形を計算できる装飾瓦士でしょう。その技量を見いだし、利休自身が抱く侘びの世界のイメージを表現出来るよう、導き、育てた利休の眼力は唯唯慧眼の何者でもありません。
楽焼きの「楽」は豊臣秀吉が、1586年に「聚楽第」を築いたとき、掘り出された土を使って焼いた聚落焼きが語源ではといわれます。聚楽第の敷地内に千利休も屋敷を与えられていましたので、秀吉の御庭焼というよりは利休邸の御庭焼的存在として、初代長次郎が窯を構えた右衛門。400年の伝統の重みと自己表現の狭間で戦っています。
安土桃山時代は、信長が安土城を築いた1573年から江戸幕府が始まる1603年のわずか 40年間です。まさに武士中心の時代で仏教の影響が余り表面に出て来ません。堺を始めとする自由交易、南蛮、キリシタン、河原歌舞伎、楽市楽座等々、今までの中世的価値観が崩壊し、商業を中心に市民階級が個性を発揮し始めた豊かな時代でした。本来は派手好きと思われる日本人固有の文化と、禅のような抑えの効いた仏教的な侘び寂び文化の、双方がせめぎ合った特異な時代だったと感じます。
元禄2年(1689)3月、江戸深川を出立した松尾芭蕉、曾良は、東北、越後、北陸をへて8月に大垣に到着。芭蕉は「奥の細道」をここで終えたことから、奥の細道むすびの地と言われます。
▲ 市内の各所に、清水の自噴する泉があります。
▼江戸を旅立つときの句「行く春や 鳥啼なき魚の 目は泪」
大垣市街の「水門川」に沿って、奥の細道をイメージした遊歩道「四季の路」が整備されています。2.2kmにわたって各地で芭蕉が詠んだ句碑と解説板が置かれ、旅をミニ体験できます。芭蕉は大垣を何度も来訪していて、一度目は貞享元年(1684)「野ざらし紀行」の旅の途中で、谷木因を訪ねています。木因は廻船問屋を営むとともに、北村季吟に俳句を学んだ芭蕉の兄弟弟子であり、大垣俳壇の重鎮として芭蕉の俳句スタイル「蕉風」をひろめました。
▲大垣ではじめて掘られた掘抜井戸。
水門川は大垣城外堀の一部で、物流の中心でした。川湊からでる舟は桑名〜名古屋(熱田)を結び、昭和20年代まで蒸気船も運行されていました。芭蕉も大垣から舟に乗って伊勢神宮の参拝へ向かっています。大垣の伏流水は、市の東側を流れる木曽川、長良川の浸透水が、西側へ流れ、揖斐川との合流で水圧を高めて自噴すると考えられています。
築約70年の民家を改装した、美登鯉橋の「e nnoieミドリバシ」。カフェの他、交流拠点となるレンタルスペースを設け、ヨガ教室やワークショップが開かれています。古民家再生を手がける現代設計事務所の企画によって生まれました。
▼「夏草や兵どもが夢の跡」(平泉)
大垣は東海道と中山道を結ぶ脇街道「美濃路」の宿場町として繁栄しました。明治になり鉄道(東海道本線)が開通すると人の流れが変わり、また廃藩置県によって岐阜県の政治の中心は岐阜市に移ります。大垣は豊かな水を活かし、繊維、化学産業など水力発電の電力を利用した工業化に活路を見い出します。
新しい生活様式、今更カンニンと思いながら、コロナの終息はまだ見えない。感染の広がりは年齢の区別なく広がっているようだが、歳以上の高齢者は、高血圧、糖尿病、心疾患は大なり小なりみな持っていて重篤化するリスクは高い。つまり亡くなるケースも高いということになる。
古稀仲間で顔をあわせる機会は今年は1度もない。もっぱらメールと電話のみ。今までしたことのない長電話も新しい生活様式の1つなのかもしれない。が、やはり会えないのは辛い。旅行や美味しいものを食べに行く楽しみを先に延ばして、なんとか年を越えられるようお互いを元気付けている。
Go Toキャンペーン、高齢者には随分と酷な話しと思う。よくよく考えれば、なんともおか
65しなキャンペーンではないだろうか。行きたいところを旅行し、食べたいものを美味しくいただく。ささやかな幸せを味わうひとときを目の色変えてキャンペーン価格の割のいいのを探し、躍起になって出かける。得した気分になるかもしれないけれど、キャンペーンがなくなると、なんだか損した気分にならないだろうか。旅行で損得はないだろう、とも思う。
GoToで遠出した友人は、家族から「年寄りは出かけるのを控えろ」と言われ、友人に土産も買えず写真も送れず、そおろっと2週間経って、実はね……と Lineで知らせてくる。
「GoToの見直しは考えていません。判断は国民が……」その通りなんでしょうね。オリンピックも GoToも自分たちのあずかり知らない所ですすめられて行くが、コロナにかかればひとたまりもない。自分の身は自分で守るしかない。その方法はなんとも心もとない。夏には暑さで出か
晩秋に想う
ける機会もめっきり減り「コロナ鬱?」かと心配した。やがて心地よい秋風も吹き、今は紅葉が目を楽しませてくれている。その間、日本もアメリカも大転換となったが、コロナ騒動はまだまだ続く。
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新しい生活様式、堪忍してと思っていたものの、1年近く我慢した生活もだんだんと慣れてきた。いつのまにか今までやったことのない生活を受け入れている。これが新しい生活様式だ
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ろうか。心身のバランスがうまく取れないのは当然かもしれない。年寄りにはきついが、メールと電話で励まし合う友がいることはありがたい。
このコロナ禍で生活が大きく変わったのは、通販で買い物する機会が増えたこと。通信販売を利用するのは年に1〜度、あるかないか。 web決済は怖くて着払いかコンビニ支払いだった。デパートが営業を停止し、スーパーの買い物も容易でなくなった頃から、食料品を通
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販で買うようになった。地方に住む友人はもう年以上前からあれこれ取り寄せているとのことで、美味しいものを教えてくれる。テレビの専門チャンネルを見ているとみんな美味しそうだが、度に届く量は多いので捌ききるのは容易ではない。冷凍庫を買うか冷蔵庫を買い換えるか迷うところでもある。外食をほとんどしなくなったので、それらを使った自宅料理は増えている。上手に料理を捌く調理器具も紹介されるのでついつい買ってしまうが、材料を揃えて切るのは省略できず、道具を使い切るのは難しい。これも新しい生活様式、失敗しながら楽しく挑戦するのもいい。古稀の手習いである。
なんとか、夏の暑さにも、コロナ騒動にも耐え、ここまできた。
晩秋の季節となり、木々は色付き、木の葉は落ちているが、小さな芽は中にある。
マサカという坂があることを知り、理不尽や耐え難きを耐えるということはどういうことか、自分に問いながらあと少しの今年を無事に過ごしたいと願う。
天下分け目の
大垣城
市街地の中心にある大垣城。水門川を城郭の外堀として、水路で一体となった城下町を形成していました。関ケ原の合戦時には、西上する徳川軍を迎え撃つ石田三成の本営となり、合戦直前まで籠城戦が繰り広げられました。当初は東西両軍とも大垣を合戦の舞台にすると考えていたようです。天守閣のそばに、戦国時代の回想記『おあむ物語』にちなんだ松が立っています。関ケ原の合戦の際、石田三成の家臣、山田去暦の娘たちは大垣城に籠もり鉄砲の玉を作ったり、敵将の首を天守に並べたりと命がけで戦っていました。山田去暦は徳川家康の手習いの師だっため逃亡が許され、一家は松を伝って水路に降りタライに乗って逃げたと伝わります。
明治29年夏の水害は特に甚大で、木曽三川で洪水が起き西濃一帯が巨大な湖のようになりました。市街地も住宅の約8割が屋根まで浸水。その痕跡が天守の石垣に残っています。輪中の水はなかなかひかず、北海道、名古屋へ移住した集落もありました。石垣は大垣北部、赤坂金生山の石灰岩で積まれています。金生山は化石の発掘場所としても知られます。
雪野原にあしあとを残して今年も待ちあわせの場所はいっぽん杉の下白いお髭のおじさんはもうきてるかな
そうしてトナカイさんは前足をひょいと振りあげて軽くジャンプしました
Vol.17
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
オンラインとリアルを融合した新しい見本市の姿
BAMBOO EXPO14
2020年10月29〜30日開催 リアル会場:EBiS303 3Fイベントホール 東京都渋谷区恵比寿1-20-8 エビススバルビル
2011年にスタートし、14回目を迎えたBAMBOO EXPO(主催:バンブー・メディア)が、10月29日(木)、30日(金)の2日間開催されました。コロナ禍のなか、今回はオンラインとリアルを組み合わせた試みが行われました。オンラインでは参加メーカー50社以上が製品をZOOMでプレゼンテーション。オンライントークセッション第一部は「世界の商空間デザインの今」をテーマに、AkiMiyazonoさん、盛世匡さん、山倉礼士さんが参加。第二部は「新しい創造力を探して」佐藤航さん、井上愛之さん、藤本泰士さんが参加しました。一方リアル会場は、10月29日13:00〜19:00、EBiS303(エビススバルビル)で開催されました。会場風景をオンラインでライブ中継するほか「コロナ禍が空間デザインにもたらしたもの」をテーマに、小坂竜さん、寶田陵さん、數坂幸生さんが集まりトークライブを開催。YouTubeで生配信も行われました。リアル会場への入場は事前登録制として受付をスムーズにしたり、検温・消毒・マスク着用など様々な対策がとられ、沢山の来場者で賑わいました。
恵比寿のエビススバルビル「EBiS303」。1階にはスバルのショールームがあります。リアル会場の様子はオンライン生中継され、自宅にいながら会場の様子が分かります。ザ・ヴィンテージハウスは、「抗菌・抗ウイルスコーティング D-REX溶液」を出展。
初出展した京都表具協同組合の「折灯華」。デザイナーの平瀬尋士さんが案内。
会場を彩った「青龍」。小坂 竜さんの原画をもとに白石普さんがタイルアートを制作。購入決定権者が多く来場し、出展効果が高いと評判です。次回は2021年5月の予定。
高龍寺恒例の「山寺でジャズ武川のジャズ」は今年で7回目。コロナ禍ということもあり、屋外で約100名の開催となりました。入場料は事前支払い制として、車の中からスタッフにチケットを見せて接触をさける、トイレの数を増やし男女別にして消毒液を設けるなど、出来る限りの対策を行ったと主催者「峡北の自然と文化を楽しむ会」の山崎秀夫さん。
アーティストは、E mik o Miz oguchi Group+O ne溝口恵美子(ボーカル)、吉本章紘(テナーサックス)、田中信正(ピアノ)、萬恭隆(ベース)、橋本学(ドラムス)の皆さん。車や電車で遠方から来た観客も多く、普段は静かな山寺に熱気があふれます。
400年以上の歴史ある高龍寺。武田家の家臣として川中島合戦でも活躍した山高氏の菩提寺であり、本堂まで200m以上ある参道がつづきます。ホタルの舞う池や、地域の川魚の保護、無農薬米の栽培など、住職の清水泰倫さんは住民と協力しながら、山里の自然を守る活動を続けています。大きな石を積んだデッキは、清水住職自らが築きました。
今回はコロナ対策を徹底し、「安心して楽しむ」ことを第一として、開催を未来に「繋ぐ」ためのコンサートになりました。運営費の不足を地元企業のスポンサードや住民の寄付によって補填するなど、地域一体となって運営をサポートしています。Emiko Mizoguchi Groupにとっても、これが10カ月ぶりのセッションになったそうです。次回は12月4日(金)「山寺でJazz〜しわすのJazz」。いま注目の若手奏者「中島朱葉カルテット」中島朱葉(as)、田中菜緒子(p)、高橋陸(b)、濱田省吾(ds)が高龍寺本堂で演奏します。左下のリンクからご確認ください。
空局の人と会い、話し、理解できたことといえば、航空局とは飛行する側の人を守るための役所なんだという事実であり、見ずに済んだはずの真の姿を見てしまった気もしているのだが ……。
まぁそれでもいつものように変わりなく、諸々のストレスを夫婦喧嘩なるぶつかり合いの中で、発散、消化させながらまた一年が過ぎていきそうである。どんな人も時々刻々、無限大のエネルギーに助けられてるんですもんね。
羽田新航路問題に関しては、港区の方でもやっと今年中頃から重い腰を動かすようになってきた模様。独自に騒音計の設置を増やすとか、飛行経路の固定化を防ぐ様々な運用、騒音、安全対策に積極的に取り組むよう、国交省へ要請するなど、アクションを起こし始めています。にも関わらず、直上を飛行する側の行為は、決して住民に配慮したものとは程遠く、ますます苦悩を増殖させる横暴ぶりなのであります。
A
ましてや港区は、ルートと
C
ルートの並列により飛行距離が
一番長いんですからね〜。ちゃ〜んと納得のいく説明をしてもらい
神谷町の再開発計画。高さ 300mのビルは新航路の邪魔になり航空法違反ですが、いつの間にか許可された???
その8青山かすみ
本日、南風なれども
イチョウ並木の運命は? 今後、街の上を低空飛行し続けたら、土地や不動産価値が下がるのは分かりきったことのはず。神谷
m
町の高さ 250〜 300に及ぶ超高層ビル(
事の進行も滞っているようですし、新型コロナ感染& GoTo関連を含め、どこを見回してもバランスのとれないことだらけ。鶴田浩二「傷だらけの人生」のたとえじゃないけれど。
政治を司る側だけに都合のいい強引な行為を押し付けていたら、その皺寄せ(結果)は必ずどこかに出てくるんだな、これが。せめてちゃ〜んと掃除や片づけの出来る人間でありたい、と思えるようになれたかも。南風さんのおかげですかね。
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棟)建設工
大垣と養老、揖斐、桑名をむすぶ養老鉄道は大正2年、大垣出身の立川勇次郎によって設立されました。自転車と一緒に乗れる、地元の足として愛されています。
Wikipediaより
▲イビデンの水力発電所(東横山発電所)は、現在も工場に電力を供給しています。
養老線の西大垣駅、美濃青柳駅前には、イビデンの事業所が並んでいます。同社のルーツは大正元年創業の揖斐川電力で、初代社長は立川勇次郎がつとめました。立川は揖斐川に発電所を設け、電力の供給によって故郷大垣の近代化をすすめます。大正6年からカーバイドの生産をはじめ、現在は電子部品、セラミックの分野で世界企業に成長しました。
▼ 東京の高樹町(現南青山6丁目)長谷寺前にあった立川邸にて、立川勇次郎と貞子夫人 写真提供:立川元彦氏
養老伝説で有名な「養老の滝」。最寄りの養老駅は大正2年の開業。駅が出来ると全国から観光客がおしよせ、駅前には旅館や料理屋、土産物屋が出店し、新しい町ができました。仙台から運ばれた立川勇次郎の巨大な顕彰碑が駅近くに立っています。大垣藩第11代藩主戸田氏共による碑文には、立川勇次郎が関東における電気鉄道(京急)の先駆けであり、東京電力や東芝の設立に関わり、渡米して日米の電気企業(GEなど)の提携を促進し、鉄道・電気業界の発展に尽力したことが記されています。いまも毎年8月16日には、地元の方々によって立川勇次郎顕彰祭がひらかれています。
▼ ヒョウタンで描かれた養老駅の駅名板。
駅の近くで100年以上続く柿園を営む安田正直さん。養老名物のヒョウタンも制作しています。安田さんの富有柿は糖度が高い事で知られ、有名デパートから特別な贈答品として扱わせて欲しいとオファーされたものの、先代からのお客様を大切にしたいと断ったそうです。柿園は養老山断層崖が崩壊した扇状地にあり、水はけがよく果樹栽培に適しています。
若返りの霊滝
養老の滝
霊亀3年(717)、元正天皇(女帝)は、滝の水が若返りの酒に変わるという孝行息子の話(養老孝子伝説)を聞き、養老に行幸されます。泉のもつ若返りの力を実感した天皇は「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし」と言われ、元号を養老と改めました。
滝は古くから修験道の霊場であり、江戸時代には全国的に知られる名所になっていました。葛飾北斎の「諸国滝廻り美濃国養老の滝」には、滝を見物に来た旅人の姿が描かれています。滝のスケールは現在よりも大きかったようです。
ドラゴンシリーズ 74
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
黒川勉さんの椅子
目黒通りの古家具屋を見ていたら店頭に黒川勉さんの椅子が置
いてあった。思わず大声で『おーっ、黒川さんだ。』と声を上げ
てしまった。久しぶりにばったりと友達に再会した気持ち。
何だかとても嬉しい気持ちになった。
値札を見てみると 6 8 0 0円と書かれていた。椅子をひっくり返してアクリルで出来た脚を見て、間違いなく黒川さんの椅子だと言う確信はあったのものの、店員さんに『これ黒川勉さんの椅子ですよね。』と尋ねてみたが、若い女性のスタッフはよくわらかないようだった。もちろん購入することにした。
1997年の
月に僕らは自由が丘にタイムアンドスタイルホ
ームと言う初めてのお店を作ったのだが、そのオープンと同時に発表したのが黒川勉さん、片山正通さんによる H Designの家具コレクションだった。1996年の後半だったと思うが、僕は参宮橋にあった H Designのオフィスに電話して、二人に会いに行
ったことを何となく覚えている。それから半年くらいの時間を掛けて家具の試作を作りお店に展示した。
自由が丘に作る初めてのお店は、天井高が
もとはタイヤ会社の倉庫として使われていた
空間だった。
メートル間隔で
センチ角のコンクリート柱が規
則的に並び、大きなコンクリートの梁が等間隔の柱を繋いでいた。そこにはいつも静かで新鮮な空気が流れ、目黒通りの車の喧騒に近いとは思えない、石柱の並ぶ宮殿のような荘厳な空間と時間があった(人は失った過去を常に美化するものだ)。初めてのお店のオープンに合わせ、 H Designの家具を並べるべく製作を進めながら、黒川勉さんがファサードとエントランス、店内の照明計画、そして H Designの家具を展示する専用のスペース『Favorite H』のインテリアデザインをしてくれた。5メートル近くあるフ
7
70
10
メートルくらいの、
200
5
坪の大きなァサードは、スチールフレームにメートルセンチ以上ある大きな両開きの重いドアを取り付け、そこから気持ちの良い朝の光が窓いっぱいに注ぎ込んでいた。窓辺の大きなテラスには「デサフィナード」という、木漏れ日の心地よいカフェを作った。
あまり記録には残されてないけれど、それから数年間、 H Designと一緒に沢山の素晴らしい家具を制作した。多分、日本の家具史の中でも特別な意味と存在感を持った家具であると思っている。黒川さんとは制作しながらいつも喧嘩が絶
4
えなかった。黒川さんのデザインはとても本質的な骨太さを持っていて、細かな
2
部分に対する独自のデザインを常に追求し続けていた。素材やその製造方法に対してのこだわりが強く、黒川さんの難しく感覚的なこだわりを充分に理解できなかった僕たちは、いつも闘っていた。振り返ればそのストレートで強い思いが、
50
そのまま彼のデザインする空間や家具に現れていた。黒川勉さんは本当に家具が大好きで、その純粋な家具への強い思いが、作るこ
とに対して少しの妥協も許さなかった。数年間の仕事を経て、彼は自分だけの事務所 OUT Designを立ち上げ、そこでも家具デザインを続けていた。古家具屋で見つけた椅子はそのとき作られていた「マペル」と言う名のアクリル脚の椅子だ。当時アクリル脚のパーツを本を組み合わせて椅子を作るという発想と、それを具現化するための様々な障壁は、とても高いものだったと思う。しかしその製品化の難しさを黒川さんは乗り越え、形にしたと感じていた。
2005年4月だったが、僕らはミラノの街中で再会した。家具を一緒に作ってから随分時間が経っていたが、僕らは何故だか時間を共にして闘った友のような感覚で再会することができ、とても嬉しかったことを覚えている。彼のデザインや製品に対する誠実さと純粋さ、そして想いの強さは全く変わっていなかった。そんな彼とは、僕達がお互いに経験してきた『何物か得体の知れないもの』に対する何かを自然に共有できていたように思う。僕らはそれから何度も会い、共に向かおうとしていた。僕はこれからも彼と一緒に『得体の知れない何か』と向き合っていたい。それは多分、彼と僕だけしか知らないものだと信じている。
死から生へ 運命を反転させる養老天命反転地荒川修作、マドリン・ギンズ
養老山のふもと「養老公園」の一画に、荒川修作、マドリン・ギンズによる「養老天命反転地」があります。開園から25年、いま若者たちのインスタ映えスポットとして再ブレイク中です。
俺は死にたくない。小さい頃に決めたの。俺は死なないよ。常識を変えることは大変。それを 荒川修作さんはまだ幼いころ、近所の病院の手伝いをす
変えないと生命は絶対に見つからない。どんな生物にも変化、進化がある。どこに向かうか るなかで、同年代の少女の死に寄り添います。その時「自
は明確なものはない。じゃあこの有機体が消えていく前に生命を作ろうと思った。 分は絶対に死なない」と決意したと語っています。
荒川修作 映画『死なない子供、荒川修作』(監督:山岡信貴)より
ReversibleDestiny(運命の反転)この言葉を受け入れた時に、もはや君たちは、宿命を反転しようとしているんだ。知性で、頭で、わかろうとするんじゃないんだよ。身体が知るんだよ。荒川修作 映画『死なない子供、荒川修作』(監督:山岡信貴)より
僕たちの感覚っていうのは、全部飛行機のように降りてゆくんだよ。名前はないんだよ、触ることもできないんだよ。だけどイベントは起こっていく。雰囲気っていうのは醸造しながら育つんだよ。ランディングサイト、感覚は降りていきながら育つんだよ。マッシュルームのように。
荒川修作 映画『死なない子供、荒川修作』(監督:山岡信貴)より
もし常識が変わらないなら、僕たち地球上の人間は早く消えた方がいい。少しでも疑問をもったらそちらに行くんだよ。ひとつの事件が君たちの身体のなかで毎秒起こっている。無限に近づくためには、君たちが学んだこと、知ったこと、やったこと全部変えることだ。なにひとつ有用なことはない。それくらい私達は惨めな部屋をもっている。ここに入ったら君たちの生活は一週間で変わる。その時にはじめて、その家の外のイチョウの木、空、私の身体の持っている素晴らしいものを使っていなかったことに気がつく。荒川修作 映画『死なない子供、荒川修作』(監督:山岡信貴)より「コーデノロジスト」芸術、科学、哲学を総合し実践するもの……。17世紀以降、すべて分かれちゃったでしょ。美術館、病院、学校って、あれがこう錯綜したミッションにならないと。それを一日も早く作りたいんだ。お前たちは歴史を持たないんだ。漢字見てみろよ、どっかから借りてきてるんだぞ。これくらい頭にくることはないんだ。全部借り物なんだ、言葉も文法も。だから、ひとつくらいオーセンティックなオリジナルなことをやろうと6歳くらいに思ったんだ。荒川修作 映画『死なない子供、荒川修作』(監督:山岡信貴)より科学するっているのは、あの現象とこの現象の間に起こるまったく感知できない、質量を持たないエネルギー、名前が与えられないもの、ポイントできないもの、つかめないもの、それをやることなんだぞ。この50億年、なんのために我々は労働してきたんだ。それが何であるか見つけるためだったんだ。科学も芸術も哲学も。それなのに我々はなんにもやってないんだぞ。
荒川修作 映画『死なない子供、荒川修作』(監督:山岡信貴)より
家具やインテリアは一度分解され、上下左右を反転し、再構成されていきます。人が新たな感覚を獲得することで、身体と心は目覚め運命が反転していきます。
荒川修作とマドリン・ギンズは「養老天命反転地」を皮切りに、植物園、療養所、茶室型コテージ、アパートメントなどを養老公園に建設する計画をもっていました。養老天命反転地は、荒川修作が提唱した「死なないための街」の実物大モデルといえるかもしれません。
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