時空を超える美意識
初花月2021 https://collaj.jp/
秋から春まで、秋田の海岸線をシベリアからの季節風が吹き付けます。奥羽山脈から発し日本海にそそぐ「米代川」は、秋田北部を東西に横断し、秋田杉や鉱山資源(金銀銅)を運ぶ大動脈でした。今回のコラージは米代川にそって、能代、大館、大湯、鹿角をめぐりました。
標高45m、面積20ヘクタールの舌状台地に、約4000年前につくられた4つのストーンサークルが並んでいます。色とりどり20種類以上の石(安山岩、ひん岩、流紋岩、凝灰岩など)が4000個ほど、近くの小猿部川や米代川から運ばれ、10世代以上200年かけて少しずつ築かれたことが分かっています。
伊勢堂岱縄文館には、北秋田市内の遺跡もあわせ、様々な遺物を展示しています。有名な板状土偶(上)は環状列石Cの土坑墓から発見されました。大半の板状土偶はバラバラに壊されているため、これが唯一、完全な形に復元されました。三角形の本体に幾何学的なグリッドが刻まれ、縄文人の科学的思考を感じさせます。
環状列石はA、B、C、Dの4つがあり、台地の北側に集中しています。列石の作り方がそれぞれ違うため、別々の集落によって築かれたと考えられています。立柱建物跡、溝状遺構、道路状遺構、土坑墓などが発見され、土を掘ったり、盛ったりして土木工事により台地をならし、道路や穴、溝をつくり、ソリを使って石を運んでいたことが分かってきました。道具のあまりない時代、縄文人は人力だけで大規模な工事を成し遂げたのです。
大型の遮光器土偶や仮面をかぶって踊る人を見ていると、方々の集落から沢山の人々があつまり、白神山地の東から西へ動く太陽を崇め、夜を徹して祈り、踊っていた光景が目に浮かぶようです。環状列石の石は毎年少しずつ並べられ、輪を閉じない未完の状態で保たれています。縄文人には環状列石を築く、完成させるという思いはなく、200年以上の祭祀を続けた結果として存在するのかもしれません。
環状列石の中央部からは、フラスコ状に掘られた墓や骨壷が発見されています。縄文人に先祖崇拝や神を崇める習慣があったかは分かっていません。最新の研究では、縄文人は現代人の価値観とは異なる感覚で生きていて、様々な道具の用途や祭祀のありかたは、現代社会の尺度では計れないことが議論されています。
伊勢堂岱遺跡に近い、縄文小ヶ田駅から秋田内陸縦貫鉄道の秋田内陸線に乗りました。もとは国鉄の阿仁合線で、日本三大銅山のひとつ阿仁鉱山の鉱石を運ぶ鉄道でした。鉄路は米代川を越えJR奥羽本線 鷹ノ巣駅へ向かいます。
BC工房リビングアートギャラリー再始動
神奈川・藤野のBC工房は、2019年10月の台風19号によって、リビングアートギャラリーの4分の3が崖崩れによって倒壊しました。再建を目指していたリビングアートギャラリーが2月に竣工し、新作家具の展示が始まりました。
▲扉の金物はアーティストのエロスさんが作りました。
円形にラウンドし、全面ガラス張りの外観はカフェかレストランのようです。基礎や鉄骨組立以外はDIYで建てられました。
▲ 崖崩れ工事も終わり、マークさんの土の家は無事でした。
注目の新作はキャスター付きの小ぶりなチェアシリーズ。「室内で移動できる椅子がほしい」というユーザーの声から生まれました。椅子に坐ったまま脚を使って移動したり、介助者に押してもらったりと、移動と快適を兼ね備えた椅子です。
▲「ここに居るのが一番気持ちいいね」と鈴木惠三さん。
床はカラマツフローリング、天井はヒノキを使い、窓はベアガラス。屋根には藤野電力のソーラーパネルを載せています。発電した電力は電力会社に売電せず、バッテリーに蓄電して照明などに直接使っていました。2021年3月28日まで、ふじのリビングアート、青山BC工房で、年に一度の「ゆったりセール」(通常展示品20〜50%OFFなど)を開催中です。
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歳で関東大震災を経験した父は、地震が起こると夜
中でも子供達を起こし身繕いをさせた。父から何度も関東大震災の話を聞かされ、子供心にその恐ろしさが染み込んでいたせいか、地震は大の苦手、長じても足がすくむばかりであった。社会人になって間なしの頃、会社にいて大きな地震があったことがある。うろたえるばかり
の私に当時
歳くらいの部長が顔色変えずに「大丈夫」
と言って、書類に目を通していたのを不思議と覚えている。大丈夫、ご自分に言い聞かせていたのか、経験から本当にそう思われていたのか定かではないが、以来地震のたびに私は「大丈夫、大丈夫」と呪文を唱えるが、効果がないままこの年となる。
2月
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日、寝支度をしていた時にユッサユッサときた。
窓の近くに置いてある背の高い観葉植物が今にも倒れそうに揺れているが、足が動かない。テレビも前に傾きそうだが手が出ない。とっさにテーブルの下に潜り込み揺れが収まるのを待ったが、何をどうしていいのか頭が働かない。なんと情けないことか。血圧がバーンと跳ね上がり、脈拍も
高いまま。何度測り直しても一向に下がらない。知り合いや妹から「大丈夫 ?」とメールが入り、「大丈夫 !」とだけ書いた。福島にいる友人にメールを書き、「大丈夫」という返事をもらって、「ホッ !」それだけ返した。熱いココアを飲みながらテレビを見た。暗い中、状況はわからない。
年前の東日本大震災の時、私は着陸寸んでの成田空
港上空の飛行機の中にいた。何があったか全くわからないまま旋回を続け、夕方横田基地に緊急着陸。迷彩服を着て機関銃を持った(そう見えたがはっきりとは覚えていない)米兵が何かを言いながら機内に入ってきた時には、命ここまで、と恐怖が走った。そのあとアナウスで大地震があったことを知り、成田空港は閉鎖、ようやく通じたメールに会社の私の部屋の写真が添付され、こと
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写真提供:福島県須賀川市在住の友人
10年目の恐怖体感
の重大さ、尋常ならざる事態になっていることを認識した。飛行機は伊丹空港に着いた。スタッフが必死で探したホテルに着いたのは夜中の時過ぎ、テレビをつけてその惨状に言葉を失ったことは、
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今でも鮮明に覚えている。
あれから 10年、コロナ禍ではあるが、来月には再び被災地を訪ねようと思っていた。
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年前の地上での揺れは経験していないが、幼い頃の父の話と、
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テレビで見た惨状が思い出され、今回の地震に手も足も、頭も動か
なかった。が、翌朝、家族や友人のメールでは、年前の半分くら
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いだったと、皆一様に言う。そうか、うろたえて何もできなかったが、
年前はこんなもんじゃなかったんだ、と自分の情けなさを思い知
った。いざという時の身繕い、手順、何をどうするか、決めておか
なければならない。
福島の友人宅はどうなっているか、気になっていたが、日経っ
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てようやく電話で話ができた。や
はり随分と被害があったようだ。
戸が外れ、ガラスが散乱、大きな
ものも倒れて、男手がないと片付
けもままならなかったとのこと。「新幹線が動いたら行くから。」と
いう私に、「後のことはボチボチ
やるから大丈夫、この際断捨離す
る」と言いながら、地震後初め
て上がったという階で絶句し
た。本棚が倒れ、本や荷物が散乱
しているとのこと。台所と寝室の片付けで精一杯だったのだろう。
日経って気がついたその惨状に、一気に気持ちが萎えたようだっ
た。「手をつけなくていい。そのまま置いといて。束ねて紐ぐらい
はくくれるから」と、手伝いに行く口実をつけた。
情けない自分もいるけど、少しづつ力を出し合って、励まし励
まされる自分もいる。コロナで一年以上親しい友人とも会えない、
家族といえどもゆっくり食事もできない、一人で右往左往するばか
りだが、こんな時だからこそ、仲間や家族を頼ればいい、寂しかっ
たら寂しいと言えばいい、甘えたかったら甘えたらいい。情けなか
った自分でもまだできることもある。そう思ったら、なんだか気持
ちが少し軽くなっていた。緊急事態宣言下、まだまだ油断はできないが、もう少しの辛抱、声かけ合って頑張っていこうと思う。
鷹ノ巣駅前商店街にある「HOLTO」は、家具職人布田信哉さんの工房兼カフェです。広葉樹の木の壁や家具に包まれた暖かなカフェでは、夕梨子夫人が作るサンドイッチやパンケーキ、コーヒーなどを楽しめます。
鷹巣町に生まれ、いつかは木の仕事がしたいと思っていた布田さんは、2 016年にオーダー家具の工房を立ち上げました。秋田というと杉が有名ですが、布田さんはケヤキ、イタヤカエデ、トチといった広葉樹を使い、木の個性を活かしながら、金属のビス類を一切つかわない家具づくりを追求しています。
ドラゴンシリーズ 77
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
万有の法則、時間が経つと退化する。
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が
正倉院は東大寺大仏開眼から
年後、756年に聖武天皇
歳で亡くなった際に、大切にしていた品々を大仏に献上
したのが始まりと言われます。正倉院は、創建当時の特徴的な倉庫建築「校倉造」で知られますが、毎年のように正倉院宝物展が開催され宝物900
0点の中から毎年
点が選ばれ展示されます。今から130
0年前の天皇が愛したものを、現在にタイムカプセルで運ばれたように見ることができ、そのままの姿をとどめる多くの品々は驚くほど高い技術で作られ、これらを知ることは本当に楽しくワクワクします。その多くは中国を中心とした大陸からの輸入品ですが、なかには同じ時代のインドなど中央アジア、中東のペルシャ、ビザンチン、イラン由来のものもあり、世界各地から集められた宝物の多様さに驚くのです。
これらの品々は日本に住む聖武天皇の手に届くまで、長い時間を掛けてきたことが想像できます。現代のような交通機関のない時代、島国の日本は中国や中央アジアとの交易に船を使ったのでしょう。60
0年から
年間続いた遣隋使、そして隋が滅びて唐に変わり、
遣唐使がシルクロードを行き来し、世界の品々を日本にもたらしていたと想像できます。日本から中国に向けて使者を送り、日本の歴史の礎となった多くの文化をもたらしたこの時代。どのように未知の大陸に渡り、多くの文化を日本に持ち帰ったのか、どんなに危険な出来事を乗り越えたのか、本当に興味深い時代だと思います。
1300年前は現代のような世界地図や航海の技術も無く、優秀な若者たちが長い年月を掛けた航海を経て、志を抱きながら大陸の文化を学び吸収し、時には病気に苦しみ、時には航海で波にのまれ、夢を砕かれた若者も多くいたと思います。
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正倉院の宝物の中に「紺瑠璃杯」と言うガラス杯があります。ワイングラスのように台脚が付いたこのガラス杯は、瑠璃色の本体部分に丸いガラスの玉が漆で後付けされています。そして、その台座には銀に繊細な文様を彫った台脚が取り付けられています。デザインにしても、素材の組み合わせ方にしても、現代のガラス製品よりもレベルの高い仕事をしています。
また淡い茶色の透明なカットグラスの「白瑠璃碗」も、亀甲形に表面がカットされたモダンデザインとして違和感の無い存在感を持っています。これと全く同じ時代と意匠のガラス器が、イランやペルシャから多く出土しているそうです。そう言う事実を見聞するだけで、その時代に多くの若者たちが未知の大陸に向け美しい宝物を探し、その大陸にある木造建築や思想を求めて大航海を繰り広げていた興奮を想像できます。
この時代に遣隋使、遣唐使がもたらしたものは宝物だけではありませんでした。現代につづく生きた歴史としての仏教は、この時代に中国から日本に伝えられたものです。古来、日本には教典や開祖を持たない自然信仰のアニミズム的な民族宗教である神道はありましたが、多くの使者が中国で仏教を学び、その思想教典と共に木造建築や手工芸など多くの宗教的、文化的遺産を日本にもたらしました。
日本全国に今も残る多くの歴史的寺院の多くは、
この時代に職人が中国から渡来し、中国の指導者と
日本人の手によって建てられたと言われています。
その多くが、今も地震や災害を乗り越え、その素晴
らしく高い美意識と技術を教えてくれます。同時に
その時に伝えられた精神性も、1300年の時間を経て日本に深く根を張り、日本古来の神道と長い時間の中で共生し、私たち日本人の日常生活の慣習として馴染み、死生観にもなっています。
その時代の人々に心を重ねることで、沢山の勇気や未知なる民族との交流に憧れます。命を掛けて海を渡り、言葉と知識を会得し、そして多くを学習し、日本にその思想技術を持ち帰り、国や人々を豊かにするために生きた多くの人々がいたのです。
2020年のインテリア関連見本市は、コロナ禍により、中止や延期など大きな影響をうけま
2021年 インテリア見本市スケジュール
した。2021年2月現在の開催予定をまとめてみました。状況により変更の可能性もありますので、来場を計画される際は主催者のホームページなどを必ずご確認願います。
■インテリア ライフスタイル 主催:メッセフランクフルト ジャパン2021年5月19日(水)〜5月21日(金)開催決定東京ビッグサイトの青海展示棟で開催され、最寄り駅は、りんかい線の東京テレポート駅(徒歩約2分)、ゆりかもめの青海駅(徒歩約4分)、お台場海浜公園駅(徒歩約6分)になります。今回初めて「ETHICAL」ゾーンが新設され、持続可能な社会を目指す環境、人・社会、地域に配慮した製品が集まります。
■ Ambiente(アンビエンテ) 主催:メッセフランクフルトドイツ・フランクフルト国際見本市会場で開催されるアンビエンテ(国際消費財見本市)は、4月17日(土)〜20日(火)まで「ペーパーワールド」「クリスマスワールド」などとの合同開催「インターナショナルコンシューマーグッズショー」が予定されていましたが中止となりました。なお、2021年4月20日(火)にはオンラインイベント「Consumer Goods Digital Day」が開催されます。次回の開催は以下が予定されています。
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クリスマスワールド:2022年1月28日(金)〜2月1日(火)
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ペーパーワールド、クリエイティブワールド:2022年1月29日(土)〜2月1日(火)
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アンビエンテ:2022年2月11日(金)〜15日(火)
■ IFFT / インテリア ライフスタイル リビング 主催:一般社団法人 日本家具産業振興会、メッセフランクフルト ジャパン2021年10月18日(月)〜20日(水)開催日程が決まり、出展者募集が始まりました。今回からブースの新サイズ(6.3㎡)が新設され小規模の出展がしやすくなりました。会場は東京ビッグサイト「南展示棟」です。
■ BAMBOO EXPO 15 主催: BAMBOO MEDIA Co.Ltd. 2021年5月25日(火)〜26日(水)東京都立産業貿易センター浜松町館ゆりかもめ竹芝駅から徒歩約2分、 JR浜松町駅 ( 北口 ) から徒歩約5分
■Heimtextil(ハイムテキスタイル) 主催:メッセフランクフルトドイツ・フランクフルト国際見本市会場2021年5月4日(火)〜7日(金)の開催は中止されました。次回開催は2022年1月11日(火)〜14日(金)が予定されています。
■ Salone del Mobile.Milano 2021 第60回 ミラノサローネ国際家具見本市 2021年9月5日(日)〜10日(金)の開催予定となりました。エウロルーチェ(照明)、エウロクチーナ/ FTK(キッチン)、バスルーム見本市が同時開催されます。
秋田杉の殿堂 旧料亭 金勇
木都として繁栄した能代は、昭和24年、31年の能代大火によって多くの歴史的な建物を失いました。そのなかで天然秋田杉をふんだんに使った旧料亭「金勇(かねゆう)」は、木都の栄華を今に伝えています。
▲玄関から続く畳廊下。床下には隣接する八幡神社の土が入れられ、そのご利益で大火を免れたともいわれます。
初代金谷勇助氏が明治23年に創業して以来、金勇は秋田屈指の料亭として宴会や接待、婚礼などに使われました。現在の建物は2代目当主によって昭和12年に建てられ、平成20年の金勇閉店後に、能代市に寄贈されました。1階中広間の天井には長さ9.1m、1本の秋田杉からとった一枚板が5枚、耳付きの透かし張りではられています
金勇では到着した客に抹茶を立ててもてなす習慣があったようです。今も茶道教室や例会が開かれています。
金勇の各部屋は数寄屋造りで、東京から大工の棟梁と4人の弟子を呼び寄せ、弟子たちが異なったテーマの部屋をつくり腕を競いました。「川風の間」は庭に池があり、入り口に玉石を敷いて河原の雰囲気をだしています。天井には網代が使われ、欄間は氷の亀裂をモチーフにした「割氷の紋様」です。3代目当主がこれを気に入り、お銚子の柄にしました。
田子の間は勝手口からも出入りでき、秘匿性が高いため、地元の要人や木材会社幹部、政治家が利用しました。
「田毎(たごと)の間」に続く廊下は、蹲(つくばい)や躙口(にじりぐち)を備えた茶庭の露地のようなしつらえ。天井は船底天井で皮付きの桜材を使っています。以前は左側の廊下がなく、丸太を輪切りにした踏石を歩いていたようです。金勇の複雑な部屋の配置は、ここが秋田杉をめぐる様々な駆け引きの場として利用されてきたことを示しています。
各部屋に掛けられた掛け軸は、金勇の上客であった木材会社の元役員たちから寄贈されました。
「有明の間」は、長押や柱に「張り柾」を使っています。張り柾は柾目の突板を四方に張った材で、昭和12年当時、すでに天然杉の枯渇を見込んでいた昭和木材が開発し、張り柾技術を都市部からの客に見せるため採用されました。突板の剥がれはほぼ無く、どのように突板をスライスしたか、接着剤はなにか、基材に何を使ったかなど、今も分かっていません。
能代の繁栄を支えた米代川
米代川によって上流の金銀銅、木材、米、農作物などが集まり、能代は交易の場として栄えます。なかでも秋田杉は、豊臣秀吉の求めで伏見城にも使われ、その名は全国に知られていました。江戸時代になると河村瑞賢によって北前船航路が開発され、能代港から積み出された秋田杉は江戸、大坂、京都に流通し、秋田藩に莫大な利益をもたらします。
展示イベントスペース「上げ汐の間」には「能代春慶塗」の銘品や秋田杉の建材のほか、金勇の成り立ちや能代の歴史が紹介されています。明治中期、秋田杉の近代化に尽くした人物が井坂直幹(なおもと)で、地元では「ちょっかんさん」と呼ばれます。水戸出身で慶應義塾から大倉喜八郎の「日本土木会社」に入社。明治22年、能代に赴任します。当時の林業の経営体質は古く、山師や川の物流を仕切る沖仲仕が幅を利かせていました。井坂は近代経営を導入し、イギリスから製材機を導入し生産性をあげます。これが秋田木材株式会社へ発展し、通称秋木(あきもく)は、東洋一の木材会社になりました。井坂はオガクズ利用した電力を街に供給したり、労働環境の改善、貧しい若者への奨学金制度など街の発展に尽くし、大正10年、60歳で亡くなりました。金勇の建設には、濁川国有林(金山)の秋田杉が余すことなく使われ、エゾマツ・アカマツ・ベイマツ・ヒバ・ケヤキ・カエデ・サクラ・キハダなども使われています。建設当時の写真を見ると、構造は近代的なトラス工法であることが分かります。
▲能代春慶は飛騨から伝わったといわれ、ヒバ材に20回以上漆を重ねます。江戸時代から一子相伝で継承されました。
2階大広間は110畳。天井には秋田杉の根を斜め切りした板を嵌めた「4畳半仕切り格天井」が見られます。床の間の幅は5間半あり、床柱は十和田湖の山奥で採れたイタヤカエデです。
杢目が複雑にうねる「4畳半仕切り格天井」には、従来、柾目が貴重といわれてきた杉の価値観に、板目の魅力も知ってほしいという願いが込められています。金勇は、遠方の客に秋田杉の魅力を伝える役割も担っていました。根上りの松が描かれた舞台では、華麗な芸姑の唄や踊りが披露されました。一時期は能代に40名以上の芸姑がいたそうです。
ドゥーマンズのホームページがリニューアルされ、同社の提供するクラウドシステム「
」がより分かりやすくなりました。オンラインで「
」を解説するサービスもはじまり、コラージ編集部が、体験取材を行いました。
今回は、ドゥーマンズの弓桁俊一郎さんが、ZOOMを使ってパソコン画面で解説してくれました。
「
」はクラウド型の家具設計・販売支援システムで、家具販売・製造に不可欠な図面、部品構成表、見積り、プレゼンシートなどを、設計ルールのデジタル化によって、家具のプランニングと同時に数秒で自動生成してくれます。右は生成される木取り図、設計BOM、見積もり書の例で、これによりプランニングと工場生産が直結されます。お客様と打ち合わせながらユニットの組み合わせやサイズ変更ができ、設計ルールにのっとった図面を自動生成してくれるので、従来のCADを使った作業などが不用になり、間接業務を9割以上削減できます。そのため既製品と同等価格で、オーダー家具が提供できるのです。現状のユーザーは、家具メーカー、住設メーカーが多いそうです。
世界初、工場直結の家具ECサイト誕生
「
」の世界をさらに広げると期待されているのが、
家具ECサイトのプラットホームとして開発された「mm/ style」(ミリスタイル)と「カグル」です。
「
」の自動生成システムを活用し、ECサイトで家具
のプランニング、注文をすると同時に、製造、販売に必要な
データが全て自動生成されるという、エンドユーザーとファ
クトリーをシームレスに繋ぐ世界初のECサイトが誕生しまし
た(右は「mm/style」の画面)。
AVボード、食器棚、玄関収納、カウンター、本棚、デスク、
クローゼットなどが揃っていて、サイズをミリ単位で調整した
り、扉・キャビネット・カウンターの色・柄をそれぞれ選べた
り、引き出しの個数を選択できたりと、自由にプランできま
す。システム利用者が工場を持たない場合は、ドゥーマンズ
で提携工場を紹介してくれるそうです。弓桁俊一郎さんに説明してもらいECサイト「mm/sty le」を操作してみました。「mm/style」は家具店のスタッフやデザイナー、コーディネーターが、エンドユーザーに説明しながらプランすることを想定しています。基本パッケージを選び、サイズをミリ単位で指定して、色柄、フィラーの有無などを指定すると、すぐに見積書、図面が自動生成されます。「mm/style」によって、家具工場や販売店を持たなくても、誰でも特注家具販売に参入できる可能性が広がりました。これからはデザイナーやコーディネーターが、オリジナル家具を企画、販売することが当たり前になるかもしれません。興味のある方は、「
」のホームページからリモート相談を申し込めます。また「建築・建材展2021」2021年3月9日〜12日(東京ビッグサイト西ホール)に出展するそうです。
大館
JR大館駅のホームには、ハチ公神社が鎮座しています。大館はかつて比内(火内)と呼ばれていましたが、9世紀に比内を治めた公家が大きな館を建てたので「大館」と呼ばれるようになったと言われます。秋田犬の忠犬ハチ公は大館の生まれで、大正13年にこの駅から渋谷駅に旅立ちました。神社の石には大館産の十和田石(緑色凝灰岩」)が使われています。
1階では、事務局スタッフが飼育する2頭の秋田犬が出迎えてくれました。秋田犬保存会は、血統書の発行や展覧会、繁殖、普及の推進、会報「秋田犬」の発行などを行っています。
秋田犬の先祖は、マタギの猟犬として飼われてきた秋田マタギ犬と考えられています。江戸時代には大館を治める佐竹氏によって闘犬が推奨され、明治まで洋犬や土佐犬との混血化が進みますが、大正時代に種族保護の機運が高まり、昭和2年保存会が設立されました。
マタギの里として知られる大阿仁をはじめ、秋田には多くのマタギ部落があり、独特の厳しいしきたりを守り、ツキノワグマやニホンカモシ追っていました。大切なパートナーであるマタギ犬は、家のなかで家族同様に暮らし、その絆の深さを物語る伝説が残っています。鹿角市大湯のマタギ定六は、先祖の功によって領主から天下御免の狩猟免状をもらっていました。ある日、マタギ犬シロと猟に出た定六はカモシカを追って領外で発砲してしまいます。役人に捉えられた定六は狩猟免状を見せようとしますが、あいにく家に忘れていました。シロは10里の道のりを走り免状をとってきますが、すでに定六は処刑されていました。後を追うように亡骸となったシロの祟をおそれ、その魂は大館市葛原の老犬神社に祀られています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
大津の名刹「三井寺(みいでら)」訪問記. その 2
書院造りのルーツ 国宝 光浄院客殿
国宝「光浄院客殿 」は、三井寺の総本堂である金堂右手奥、緑濃い木々に囲まれ静かに佇んでいます。現代にも通ずる日本の住宅建築の源泉「書院造り」で、それもかなり初期の代表的な遺構です。面取り角柱、書院、押し板(床の間以前の形式)、違い棚、納戸構(台帳構・武者隠し)、連なる各室を仕切る引き違い建具等で構成されています。
1595年、豊臣秀吉は突如、三井寺に闕所(けっしょ)の命を下し、財産は没収され堂塔が解体されます。秀吉が亡くなる直前に闕所は解かれ、光浄院の住持で戦国武将でもあった「山岡道阿弥」により1601年再興されました。光浄院客殿の規模は、庭に面する側の間口が桁行 7間 1
国宝 光浄院客殿。
尺6寸2分(柱幅を加えて約 13m)、唐風破風を持つ車寄せがある側の間口が梁行 6間(柱幅を加えて約 11mで中門部分 2間を除く)、総.(こけら)葺きの入母屋屋根です。この「光浄院客殿」は、平安時代の主流であった寝殿造りの名残を各所に残した初期書院造りです。書院造の「書院」とは、「書斎をかねた居間」空間を中国風に呼んだもので、書院を主室とする武家住宅形式のことを指します。時代とともに武家の力が増し、日常的な住まいの空間であった書院が、接客的な空間へと役割を変えていったのでしょう。武士の社会的な地位向上と共に、重要人物と対面する場所あるいは儀式の場として、大きな役割を果たす公的な機能を付加させていったと思われます。光浄院客殿は戦国時代末期の建立ですが、まだまだ武士の緊張状態は続いていて、交渉ごとや情報交換などのため、接客空間が求められていたのだと想像します。
光浄院客殿の建築形式は初期書院造りに該当しますが、空間の役割としては「客殿」そのものです。お客は車寄せから濡れ縁に相当する「落ち縁」にのぼり、敷居をまたいで建物に入ります。最初の空間は「公卿の間」と呼ばれ、奥行き1間の広縁
国宝 光浄院客殿。書院ごしに庭をみたところ。
の様な畳敷きの部屋で、正面に幅 3間のふすま障子(江戸時代の木割り本の記載、以後ふすま)があります。ここから中の書院は見えません。そのふすまが開きますと、そこはまだ次の間で、奥行き3間と深くて広い18畳です。正面のふすまいっぱいに、風景画が淡い色彩で描かれています。ここで主(あるじ)から招き入れる声がかかるのを待つのでしょう。部屋の天井は高く、太い竿縁が空間の割には狭い間隔で奥に向かって並び、主がいる上座の間への気持を誘います。声がかかってふすまが開きますと、その正面にはキラキラと光を反射する金箔をバックに、狩野山楽および狩野派門人の筆により、2間幅の壁面一杯に力強く、太い松が濃い緑で描かれています。右側には彼方の滝、左下には深く青い池を背景に、金箔が反射する後光に包まれて、主が鎮座する姿が目に飛び込んでくるということになります。また主が座る上座の間では、床の間の松図を中心にして、部屋を囲む各面のふすまに春夏秋冬が描かれています。その中でも感動したのは床の間に繋がる書院の壁にも正面の池が続けて描かれていることです。瞬間に画家の計算が理解出来ました。この池の絵は、一段高い書院の畳床や造り付け机前の窓越しに見える庭の池と、自然に一体感を感じるように描かれているのです。
ふすまの閉ざし方や開け方で空間の広がりの変化を感じさせ、建具によって採光量と反射の煌めきコントロールし、お客を取り囲むふすま絵のテーマや濃淡等を緻密に計算している。どれをとっても主の力を見せつけるための演出すべてが、ここにありました。客殿の持つ魅力や役割が分かってくると、出来れば日の落ちる夕方か夜、蝋燭や灯明の光によって、どのようにドラマチックな空間に変るのか確認したいものです。一つだけ違和感があったのは、先に述べた天井の力強い竿縁の方向が、現代の和風建築ではタブーとされる「床刺し」になっていることです(今は床の間と平行が正しいとされる)。僧侶の方の説明では、主へと気持を集中させるベクトルを上げる狙いがあるのではとのことでした。今回のこの空間を体験して、狩野派が重用された意味が分かりました。狩野派の絵の役割は、依頼主の人的パワーが増幅するよう、絵の力でサポートしていたのです。もちろん絵の力量が無ければ何にもなりませんが、その役割がかなりの部分を占めていたと思われます。ですから大大名や寺院は競って狩野派に描かせたのです。重要な交渉場面で主の力をより強くバックアップする「環境演出」の要素が非常に色濃くでています。
3つの客殿の役割
17世紀、この三井寺には 3カ所の客殿がありました。
「勧学院客殿」は、1600年に毛利輝元によって建立され、基本的な要素は光浄院客殿とほぼ同様ですが、内部は 3列 9室に分かれていて、光浄院客殿よりもやや広く,奥へ向かうほど見事さが増していきます。上座の間から次の間にかけて、狩野光信筆に拠る、力強さの中に華麗さが映える障壁画やふすま絵が、やはり4面に
展開されています。画力としては勧学院の方が力があります。「勧学院客殿」は僧侶を、「光浄院客殿 」は大名クラスの武士を、そしてもう一つの「日光院客殿」は皇族方を迎え
るために建てられましたが、今は東京の護国寺に移築され、
月光院と呼ばれてます(通常非公開)。
棟梁の残した記録『匠明』について
今回いろいろ調べているうちに貴重な本に出会いました。江戸初期、紀伊の国出身の大工棟梁で、江戸幕府に出仕、作業方大棟梁に就任した平内政信(へいのうちまさのぶ)の『匠明』です。彼が残した門記集、社記集、塔記集、堂記集、殿屋集の 5巻による木割り書で、殿屋集で中心的に描かれた平面図を睨むと、「光浄院客殿」のもののように思えます。
三井寺の正式名は「長等山 園城寺(ながらさんおんじょうじ)」といいます。大化の改新を中臣鎌足と共にすすめた天智天皇(中大兄皇子、626年〜 672年)が建立を許可し、園城寺という寺号を与え、大友氏の氏寺として始まりました。平城遷都が 710年、平安遷都が 794年ですから、その遥か前ということになりますので、素晴らしい歴史を背
国宝 勧学院客殿。
平打政信の『匠明』
負っています。中大兄皇子の時代、667年に近江大津京遷都が行われ、飛鳥から大津へ都が移されました。皇子は大津京で天皇に即位しています。近江大津京の遺構と園城寺はかなり近い位置関係で、深い関わりを感じられます。大津京はわずか5年で廃都しますが、遺構の場所は大津市皇子ヶ丘 2丁目で、この近辺の住所や施設には「皇子」の名が付きます。
園城寺は飛鳥時代(592〜710)の創建といわれますが、当時の遺構はほとんど残っていません。なぜなら園城寺を発展させた「円珍(814〜 891)」の没後、比叡山は円珍派と慈覚大師「円仁(794〜 864)」派に分裂し、ことごとく対立し始めます。両派の対立は延暦寺による山門派、園城寺による寺門派と呼ばれ「山門寺門の抗争」となりました。1081年には、山門派が園城寺を襲って伽藍の全てを焼き払ってしまうという大きな事件が起りました。その後約 80年間で 5回、その後の約 100年間で 4回焼き討ちにあっています。これでは飛鳥時代の遺構が残る筈もありません。しかし近年、国宝の金堂付近から飛鳥時代や奈良時代前期のものと思われる古瓦が出土しており、飛鳥創建伝承が史実であると認識され始めているようです。
JR大館駅に近い御成町に「わっぱビルヂング」という少し変わった名前のビルがあります。柴田慶信商店 代表の柴田昌正さんが空きビルをリノベーションして、「伝統」×「食」×「交流」の3つの機能を持つにぎわい創出の場として企画しました。同社ショップのほか、テナントとしてカフェ「S .witchcafe」やコワーキングスペース「MARUWWA」が入居しています。
▲材料を一晩水につけてから、約80℃の湯で煮沸します。 ▼型に押し当てながら材料を曲げて、木バサミで留めます。
ショップに隣接したスペースでは、丸弁当箱やパン皿など、曲げわっぱの製作体験ができます(予約制)。大館市では小学5、6年生全員が製作体験に参加し、自分で作った曲げわっぱの器を給食で使っています。「体験をきっかけに子供たちが、職人を目指してくれると嬉しい」と柴田さん。いま柴田慶信商店では、20代、30代の職人が増えているそうです。
8月下旬、山で採取した山桜の樹皮を削いで磨き、細い帯状にします。大小の縫い目が並んだ子持ち縫いが出来ました。
弁当箱の接合部分に、細い帯状にした山桜の木皮を通す「樺綴じ」の作業。細い穴に山桜の木皮が入りにくく難しかったです。曲げわっぱには樹齢約150年以上の、柾目が細かく、ゆっくり成長した杉が適しています。秋田県では樹齢150年以上の天然秋田杉の伐採が平成24年に中止となったため、隣県の天然杉も合わせて使っています。
ショップには様々な曲げわっぱ製品のほか、初代柴田慶信さんがコレクションした世界の曲げ物ミュージアムがあります。同社の創業は1966年。工業デザイナーでクラフト製品の開発・普及に尽力した秋岡芳夫氏の指導をうけ、用と美を備えた曲げわっぱを作り続けてきました。海外の展示会や文化調査に参加し、ヨーロッパ、アジアの曲げ物を見聞した柴田慶信さんは、様々な材料が使われていることに驚いたそうです。フィンランドで曲げ物は「ヴァッカ」と呼ばれ、フィンランドの職人を招き「日本のわっぱと北欧ヴァッカ」展を銀座で開いたこともありました。美しい「鱗」柄の樺綴じ(右)は、同社のシンボルマークになっています。
1丸弁当箱のフタを作ります。まずは枠の欠込みに接着剤を塗ります。以前はニカワや米糊などで接着しましたが、今は安全な2液性接着剤を使い、お湯に強くなりました。
フタの板にも接着剤を塗り、枠にはめ込みます。えんぴつの印を接合部分に合わせ、柾目の向きを揃えます。フタには特に目の細かい美しい材を選びます。
当て木をあててフタの板を木槌でたたき、ひっくり返して内側に隙間がないか確認して、また叩きます。 4布やヘラで余分な接着剤を綺麗に抜き取ります。次に本体の底板を取り付けてから、底が抜けないように「切り輪」と呼ばれるパーツを嵌め込んで接着します。
底に取り付けた「切り輪」の出っ張った部分をカンナで削ります。カンナを平にして、ゆっくり削るのがコツです。
底に取り付けるもうひとつの「切り輪」を、必要な長さにあわせノコギリで切り、取り付けます。
組み立て終わったら、80番、150番などのサンドペーパーを使いわけ、フタのまわりを滑らかに仕上げます。
接合部分の樺綴じを固定するため、水に濡らしてからアイロンで加熱し、木の性質を利用して山桜の木皮を通した穴を収縮させます。
丸弁当箱が完成しました。水に濡らしたあと布巾で拭いてからご飯、おかずを入れるといいそうです。使ったあとは40〜50℃のお湯を入れしばらく置いてから、タワシとクレンザーで洗います。
大館曲げわっぱは日常の道具だけでなく、茶道具としても使われてきました。上の「野点セット」は東京・浅草の印傳専門店「前川皮革工芸」とのコラボレーションで、胴体部分を曲げわっぱ、巾着部分を印傳で作っています。2代目柴田昌正さんは、浅草オレンジ通りの直営店や日本橋三越の常設コーナーなど販売網の開拓に力を入れ、独自の商品開発を進めてきました。「自力の販売網を築くことで、天災や経済状況の変化に強くなり、職人のモチベーションも高まります」と柴田さん。
わっぱビルヂングから歩いて3分ほどの場所に、柴田慶信商店の本社・工場があります。杉の香りに包まれた工場では、20代、30代の若い職人が中心になって活躍していました。天井には乾燥中のわっぱを吊るしています。
家業をついだ柴田昌正さんは、杉原木の買い付けも任されるようになりました。工場には初代から集めてきた良質な杉材が保管されています。「よい材料を手に入れることは、工場の仕事をスムーズに進め、品質も高くなります。原木が高価でも結局はすべてが上手くいくことを実地で学びました」と柴田さん。同社では塗装をしない素地のままの杉を味わってもらうため、仕上げや品質チェックに手間を掛けています。いま初代柴田慶信さんは、数十年使われた曲げわっぱに漆を施し、再生する仕事に取り組んでいるそうです。
年
25
前回の続き。なぜか話はスパイスたっぷりカレーの国から始ま
る。ベンガル湾に面するインド南東部の主要都市チェンナイ(旧マドラス、現在の人口約700万人)。そこから南に330キロほど下ったところに、トゥラセンドゥラプラムという人口350人ほ
どの村落がある。昨年
月初旬、この村のヒンズー寺院そばの広
場に多くの村人が集まって、おもちゃの花火を上げたりして、ささやかながらも熱気あふれる祝典が行われた。「祝カマラ・ハリス米国副大統誕生!」「カマラさんにはいつか、この地を訪ねてほしいと願っています」「何もないこの村の大きな誇りです」
この寒村はカマラ
・ハリス米国副大統領(1964年生)
父からは、様々な面で大きな影響を受けています」と何度も語っている。祖父ゴパランの出身カーストは知的選良たるバラモン(司祭階級)。若い時から英国統治下のインドで行政官僚として頭角を現し、インド政府の准閣僚クラスの役職を経て、同じ大英帝国圏内ザンビア(東アフリカ)政府の難民担当大臣補佐官を務めるに至っている。
その長女がカマラの母、シャマラ・ゴパラン(1938〜2009)だ。インド南部の伝統歌謡大会で優勝するほど歌がうまかったが、歌手
で行くには頭が良すぎた。
歳で
単身渡米し、カリフォルニア大学バークレー校に入学。1964
歳の若さで、栄養学と内分泌学にまたがる研究分野で博士号
を取得。その後、乳癌の研究者として、医学研究所の要職や米政府機関の委員などを歴任した。1963年に大学内で行われた公民権運動の政治集会で、カリブ海ジャマイカからの留学生であるドナルド・ハリス(1938年生)と出会い、翌年結婚。長女カマラと次女マヤ、2人の女子が誕生している。ただし、カップルは1971年末(カマラ7歳)に離婚している。そのため2人の娘は、社会運動の闘士でもあった母親の手で育てられた。シャマラの夫ドナルドは妻に劣らず俊才で、1966年経済学研究で博士号を取得し、イェール大学教授を経てスタンフォード大学教授を
最後に引退。現在
歳で存命している。カマラは「アフリカ系ア
メリカ人女性初の副大統領」と呼ばれる。それはこの父親がジャマイカ出身の黒人で、その先祖がサトウキビ農園労働者(本連載
11
19
82
の祖父
P・
2020年月号、月号参照)としてアフリカから連れてこられた奴隷であったこと
3
を意味する。
11 17
この優れた学者夫妻から生まれた2人姉妹の姉カマラは、首都ワシントン黒人中
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心のハンター大学で政治経済を専攻し、在学中から上院議員の事務所でアルバイトをしながら優秀な成績で卒業。次いで奨学制度を利用してカリフォルニア大学のロースクールを卒業し、1990年 26歳で、カリフォルニア州アラミーダ郡担当検察官として働き始める。2011年に州司法長官、2017年に州代表上院議員(民主党)、そして2021年には晴れて、米国副大統領に就任している。
一方、3歳年下の妹のマヤ(1967年生)はブッ飛びな女性で、歳で一人娘を産んでいる。なんて聞けば、姉とは違って遊び人の不良少女かと思われるかもしれないが、とんでもない。出産後カリフォルニア大学バークレー校を卒業。スタンフォード大学のロースクールに進んで、法律雑誌の編集委員を務めた後卒業して弁護士に。姉よりも頭がいいと言われるほどの女性だ。この妹も姉と同じく 17政治志向が強く、ヒラリー・クリントンの大統領選挙運動に深く関わり、今回はバイデンと姉の大統領選挙戦を支え続けた。今後が期待される大注目株だ。マヤは1998年トニー・ウェスト(1965生)と結婚している。これまた注目すべき人物で、ジョージア出身の黒人で父親が一族で初めて大学に進学し IBMに。本人はハーバード卒業後マヤと同窓のスタンフォードのロースクールに進み、同校の法律雑誌の編集長を務めて卒業し、オバマ政権下での司法省№の役職を経て現在は、あのウーバー社の法務担当重役。今回のバイデン新政権移行チームの重要な一員であり、今後国政の場で活躍する可能性が高い。なお、名門ロースクールの法律雑誌編集長というのは、米法曹界では極めて輝かしい経歴で、オバマ元大統領がハーバードのロースクールで編集長を務めていたことが知られる。
このマヤが歳で産んだひとり娘ミーナ(1984生)は、スタンフォード卒業後、ごく当たり前のことのようにハーバード大ロースクールへと進んで弁護士になり、フェイスブック勤務を経て、様々な社会運動に取り組んでいる。ミーナのパートナー(婚約者、1984生)ニコラス・アジェイグはプリンストン大学出身。フェイスブック社幹部の一人で、現在は2人の間に生まれた子供の子育てのため休職中。カマラ副大統領の夫ダグ(1964年生、エリート弁護士)と同じく、「家庭の主夫」を務めている。ミーナは童話作家でもあり、また、その個性的なファッションは注目の的。その影響か、パートナーのアジェイグもおしゃれで、1月の大統領就任記念式典では、ナイキのエア・ジョーダン・ディオールというレア物スニーカーで登場して話題となった。ダントツかっこいいカップルだ。
それにしても驚くべき一族だ。南インドの寒村で蒔かれた優秀な DNAは、脈々と受け継がれて、自由の国アメリカで大輪の花々を咲かせつつある。3代揃って女子が超優秀という華やかさから、「ケネディ家(民主党)に匹敵する新時代の政治一族誕生」と言われ始めている。その先には、いつの日かカマラ・ハリスを合衆国初の女性大統領に、という夢がある。今回、米国大統領戦を戦い抜いた4人の候補者たちの食生活をテーマにしようと思いついたきっかけは、タマラが自宅の台所エプロン姿で手際よく料理をする動画を、ユーチューブで何本か目にしたからだ。「どんなに忙しくても日曜日や祝祭日にはできるだけ料理をして皆で楽しむように努めてきました。私の料理のコアには、母から習った南インドの料理の世界があります」その言葉に興味を惹かれたのだ。
で、調べ始めてみたら、すでに述べてきたような話に次々と遭遇して驚きの連続。タマラの一族とその周辺は、米国社会の頂点に位置する学歴&資格エリート揃いだ。社会の上層では日本よりもはるかに学歴社会である米国で、戦い抜くに十分な資格と能力を兼ね備えた人たちである。その一方で、肌の色やその出自 17から、エリート階層では間違いなくマイノリティなのであって、様々な形で差別を受けながら社会の荒波を乗り越えてきた根性ある人たちばかりだ。さらに注目すべきは、彼らの新しいライフスタイルだ。副大統領タマラは、子連れの夫と結婚し、その夫は自身がエリート弁護士であるにも関わらず、妻の仕事のためにこれを中断して「主夫」の道を選択している。さらに、その前妻とタマラは非常に仲が良く、一種の拡大家族のような関係を築き上げている。また、タマラの妹マヤが歳で出産した娘ミーナのパートナーも、フェイスブック社の幹部でありながら、休職して「主夫」を努めている。さらに、マヤの夫は、時代の先端を行くウーバー社の法務担当重役を務めている。
こうした現代社会の最先端を行く生き方を選択した優秀な人々が、米新政権の中枢の周囲を固めている。彼らはいずれも、それぞれが生きてきた道筋で体験した差別や社会的矛盾のない社会を作り上げることをめざして政治運動に突き進んでいる。その意味では「多様性を包含する新たな社会を」という言葉は、彼らにとっては「単なるスローガン」ではない。彼ら自身が日々実践している生活そのものだ。暮らしのスタイルが政治に直結している。同じように、タマラがその「食」について語る言葉の端々に、彼女が目指す政治の方向性を暗示する要素が含まれている。日常の食が政治に直結している。これについては、次回に ……
家を借りたかと思ったら
映画館だった
大館に行ったなら、ぜひ訪れたいのが、大館駅近くの映画館「御成座」です。
大館の市内循環バス「ハチ公号」。東京渋谷区は「ハチ公バス」があり、大館市と渋谷区は姉妹都市になっています。
明治32年、奥羽本線大館駅が開業し、明治41年小坂鉄道(廃線)が開通すると、秋田杉の集散地として大館は急速に発展します。小坂鉱山を視察した皇太子(のちの大正天皇)が大館を訪れたことから、駅前周辺は御成町(おなりちょう)と呼ばれ、映画館や飲食店が並ぶ繁華街として賑わいました。しかし中心部の移動により人出が減り、今は再開発の最中です。御成座は昭和27年にオープン。洋画専門館として人気を博しますが平成17年に閉館します。その9年後、東日本大震災の復興工事のため頻繁に東北を訪れていた電気工事会社「日本コンプリート」(千葉)の切替一家が賃貸住宅として入居。館内を修繕していたところ市民から再開を期待された切替さんは、数百万円かけて「御成座」を映画館として復活しました。
秋田出身、友川カズキさんのドキュメンタリー映画。上質な絵看板は御成座の名物です。上映は音響や映像のクオリティーが高く、快適に鑑賞できました。館内は無料で見学も可。
映画館再開までのユニークな顛末は、ザ・ノンフィクション「映画館に暮らす一家の物語〜廃墟に移住した切替家の6年〜」などTVやネットで話題となります。復活して5年後には取り壊しの危機を迎えますが、クラウドファウンディング「御成座を救おう!プロジェクト」や市民の支援により守られました。今は専任の映写技師が毎日上映を行うほか(水曜定休)、貸し切りイベント、アーティストのライブ、落語会、学生作品の上映会、映写体験会などが開かれ、大館の交流拠点になっています。
Vol.20原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
こうし のママさんのミルクはねあまくって
ちょっとだけ あったかいんだ
FURNITURE FOR HUMAN vol.1
TIME&STYLEが、新しい家具シリーズ「FURNITURE FORHUMAN」を発表。第一弾としてチェアやソファの展示が始まりました(六本木・東京ミッドタウンにて)。
フレームを極限まで削ぎ落とし、人体の延長にあるような緻密さを感じさせる「Straight back .chair」、「Twisted back .chair」。フレームはブナ材で、太い角材からジョイント部分を贅沢に削り出し、貫を入れない4本の脚をしっかりと支える構造になっています。合理性を超える家具づくりの真髄を秘めた、ディテールを愛でるのにふさわしい椅子といえるでしょう。
▲座面の裏も美しく仕上げられ、TIME&STYLEの刻印が入っています。
上はダイニングテーブルと合わせた「A chair on the vertical axis」。投入堂や清水の舞台に見られる伝統構造「懸造り」にヒントを得て、垂直と水平の交わりを示しています。一枚の厚い板から丸みをもった背板を削り出しました。
▲「The horizon of the floating layer」は、座面が浮いたように見えるシステムソファです。
▼「living environment forecosystem」は、掛け心地の良さを追求したスタンダードなデザインです。
合わせて3種類のソファが発表されました。「Concertosonata」(上)は、脚部に高岡の鋳物(ロストワックス製法)を利用し、4本の脚を繋ぐ真鍮製の貫は京都の押出成型工場、ソファ本体は宮城県の家具工場、サイドテーブルは北海道の自社工場など、全国の産地がそれぞれの音色を奏でるコンチェルト(協奏曲)から生まれたソファです。
佐竹氏の居城があった大館城跡から「大館樹海ドーム」(ニプロハチ公ドーム)が見えます。ドームの屋根は秋田杉集成材を25000本分以上使いアーチ状にしたもので、高さ50m、長径178m、国内最大の木造建築といわれます。設計は伊東豊雄さんです。ドームの白い膜はテフロンの二重膜構造で、内膜と外膜の間が約20cm空いているため、冬期は排熱で膜を暖め自然に雪を落とします。また夏はドーム横の池をわたる風が抜け自然換気します。透光率が高いテフロン膜は太陽光をよく通し、日中は照明なしでも利用可能で電気代が抑えられます。また音響効果もよく野球、サッカー、陸上、テニスのほか、有名アーティストのコンサートも開かれています。市役所に隣接した大館城跡は桜の名所「桂城公園」になっています。北関東、常陸水戸を支配した名門大名佐竹氏は、江戸時代のはじめ関ヶ原に参戦しなかった罪をとわれ、徳川家康の命により、水戸から秋田・仙北へと転封されます。
秋田の初代藩主となった佐竹義宣は、水戸時代の50万石から20万石以下に落ちた石高を補うため、新田や金銀鉱山の開発に力を注ぎます。特に米代川上流で伐採される秋田杉は、能代から海上ルートで運ばれ莫大な利益を生みましたが、数十年で資源は枯渇し、伐採を禁じる留山により厳しく管理されます。一方、大館城に入った佐竹西家の小場義成は、以前から作られていた「曲げわっぱ」を武家の副業として奨励し、下級武士の暮らす「お足軽町」は、曲げわっぱの手工業団地のようになりました。
市役所に隣接する「桜櫓館」は、大館町長を務めた桜場文蔵氏が昭和8年に杉の良材を使って建てた貴重な住宅です。現在は耐震工事のため休館中で2021年4月1日の開館予定です。
C
!!
10
C
59
年明けから続いた冬型台風。その影響は都心にもやってきて、南風が吹く日は稀だったけれど、畳の目を数えるように太平洋側の日射しは強まっています。
2月で新航路の試験飛行から丸一年、日々の風向きや天候に意
A
識を向けた暮らしぶりに慣れることはありません。ただ、新型コロナの感染拡大、オリンピック問題、それらをぜ〜んぶ含めて地球に住む生き物たちの不思議な因果関係を身を持って感じられたことは良かった点ではないかと思えたりもします。コロナの方はワクチン接種という対策が施されるから光も差してきそうですよね。一方、世界の航空業界が苦境に立たされ厳しい状況を目の当たりにしながら日本では羽田新航路による都心低空飛行は何ら改善されることなく継続され、都民の肉体的・精神的負担は増しているのですよ
時間を問わず動き回ってる自国・米国小型機にしても、去年と比べ大きな変化は見られない。つい最近目撃した事象をお知らせしておきましょう。2月日(水)午後4時分、減便しているはずが、あまりの騒音けたたましさにうちのマンションからルート・ルートを観察中のこと。直上ルートを黒い米軍ヘリが通過。はぁ?今の何?憤慨しつつも撮影できたかもなんて思っていたら全く同じ場所へジェット機も突入してきた。
その11
青山かすみ
更に
U
本日、南風なれども
その姿を捉えた記録は5時。一分間に起きた危険極まりない現実
っという間の出来事だったが、たまたま撮れただけで、今や日常茶飯になっちゃってる。東京上空はますます無礼講、無法地帯と化してますよ。国交省、
航空会社はこんな事態をどのように説明してくれるのかしら。
お返事はなし。またうにゃむにゃか。透明性が感じられるご説明を願うばかりだ。従来の海ルートこそ理にかなった航路です。飛行距離をわざわざ伸ばし、都心部のど真ん中へ入り込み、
ターンさせ、また海へ戻るなんて全く意味がないでしょ?
オリンピックにやってくる海外のお金持ちに見せたかったのかしら?日本
ってそんな情けない国だった?お国の側がしっかりしてくれないと。恥ずかしくて日本の未来も見えてきませんよ。兎にも角にも上空を飛ぶ側、飛ばれる側にとって都心部低空飛行は戦争以来の経験でしょう?
コロナ同様、命の尊厳に関わる最重要問題じゃない?よくもまあ軽視できること。新ルートで飛行ままならぬ冬場だったが、その代わりと言わんばかりに羽
田発渋谷方面へ向かう旅客便の頻度が高まったのも事実。さすがにこちらは低空とは言わぬが、ゴーゴー充分響き、耳障りである。こっちの方も飛行データをちゃ〜んと透明化させ公表してもらわなくちゃですよね。
……あ
日たっても
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