時空を超える美意識
薫風 2021 https://collaj.jp/
新幹線のホームからも見える姫路城の勇姿。螺旋状の掘割で囲まれた姫山にたつ城は、何度かの改修工事をへて400年前とほぼ同じ姿で保たれています。駅から姫路城公園への道は、かつての城下町。三木美術館(右上)の建つ国道2号線(内堀)の内側には武家屋敷が並び、螺旋状の外堀、中堀、内堀の総延長は11.5kmもありました。
天守閣をのぞむ武家屋敷跡に建てられた「兵庫県立歴史博物館」。丹下都市建築設計(丹下健三)の設計で、ミラーガラスが城郭を映し出します。博物館の見どころは、姫路城と他の現存する天守を比較した50分の1モデル。姫路城は最も大きく、他の天守の壁が黒漆塗や木の素地であるのに対して、軒裏まで塗られた漆喰の白さが目だちます。漆喰は鉄砲や大砲による火災や損害を軽減するための工夫で、徳川家康が大阪城を大砲で攻撃した経験から編み出した防御策と考えられています。
向屋敷庭園復元CG 復元監修:日本庭園史家 西 桂、(株)藤原園代表 藤原正彦 復元スケッチ制作:対馬造園店三谷景一郎 CG制作:キャドセンター
現在は広場になっている三の丸には、本多忠政の時代に御居城、武蔵野御殿、向屋敷、大名庭園が築かれていました。その全容は謎でしたが、大分市で発見された「播州姫路城図」や藩主の日記から詳細が分かり、兵庫県立大学、福井工業大学、千葉大学大学院などが結成した「姫路城ガイドツール企画委員会によって復元CGが制作されています。
「好古園」には池泉回遊式庭園が再現されています。
江戸中期、第2代藩主となった酒井忠以(宗雅)は、絵画、茶道、能に才能を発揮しました。松平治郷(不昧公)と師弟関係を結び、不昧公の継承者ともいわれ、江戸琳派の絵師酒井抱一の兄でもありました。宗雅の残した『玄武日記』には参勤交代によって江戸から姫路に帰国した日々が詳細に記録され、池泉回遊式庭園でひらかれた初釜が描かれています。
初釜には、3人の老中が招かれました。宗雅は雨天のため蓑をつけて舟にのり「観風楼」の岸辺に舟をよせると、客たちは贈物を積んで舟の後方に乗り込み、木板を5つ打って御茶屋へ合図します。藤棚の船着場から待ち合いに上がると、宗雅は引き戸から茶室に入り脇路地から誘導して客を招き入れます。炭手前を行った後で懐石料理を楽しみ、一旦待ち合いに戻ってから、ドラの合図で客はふたたび茶室に入り、茶を点ててもてなします。その後、庭の花壇や滝などを案内しています。
Vol.23
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
バス停はなばたけ前 あっち発 ⇔どっち行
※やすみたくなったら運休します
「好古園」は姫路市政100周年を記念して造営されました。城の西側にひろがる武家屋敷あとの地割を塀で囲み、それぞれを異なるテーマの庭園に仕立てています。
茶室「双樹庵」は、裏千家千玄室大宗匠が設計した数奇屋建築です。江戸時代の武家屋敷の茶室を想定し、京都の数寄屋造りの匠が集結して作り上げられました。それぞれの茶室は姫路城天守閣に向かって配置されています。
酒井忠以は、参勤交代のルートや城下町視察の様子、鷹狩、花見、蹴鞠、管弦、武芸、能、茶事、歌、碁、将棋など、多趣味な忠以の生活を細かく『玄武日記』に記録しています。例えば天明元年(1781)の年末・年始は、能、薙刀の稽古、乗馬、鍛冶(刀づくり)、鷹狩、大般若経、雑煮祝、書初め、寺社参拝、歌会、鷹狩、居合、茶事、弓、鉄砲、柔術、兎狩りなど祭事が目白押しで、城主の多忙な日常をうかがえます。天明の大飢饉(1782〜)の頃、忠以は河合道臣(寸翁)を重用して財政立て直しと共に各地に固寧倉(義倉)を設けて米を備蓄し、農民救済にあたります。固寧倉は今も市内各所に残っています。
「好古園」の作られた西屋敷跡は、昭和60年から十数回の発掘が行われ、井戸の跡からは陶磁器や木簡が発見されました。屋敷の区割りに従って築地塀が設けられ、「松の庭」、「築山池泉の庭」、「夏木の庭」、「竹の庭」などテーマにそった作庭が京都大学の造園学者 中村一教授の監修で行われました。好古園の名は、敷地にあった藩校「好古堂」にちなんでいます。
U
緊急事態宣言下、外出自粛が続く中、2カ月に1度
の定期検査を受診した。外食をせず、野菜料理を意識していたので体重は維持できていたが、なんと、中性脂肪が前回より大幅に
Pしていた。運動は苦手で時々スクワットやかかと
落としをやっていたが、電車に乗らずにいたため階段の利用がない。血液検査ではあちこち連動するように数値が上がっている。医者は食べ過ぎないように、運動しなさいとは言うが、短い診察時間では、それ以上
のことはない。数値の横には標準以上の「
りと並んでいる。
気をつけているつもりの食事もきっと自分好みが染みついているかもしれない。
芸能人の健康診断をやる番組を見ていたら、診断前
の食生活を事前に撮影している。
診断結果はチャートで表示される。精密検査でポリープや危険箇所が発見される人もいるが、食生活を見ていると当然と思う節もある。しかし若い頃の自分の食事とさして変わらず、思わず苦笑する。仕事をしていれば食事は不規則、外食では高カロリーなものが多く、ビールには特にそういうものが合う。野菜が大事とわかっても、お酒に合うのは高カロリーなものばかり。和食とて、鰻や天ぷら、お寿司もウニやいくら、やっぱりお酒をのめばそういうものが欲しくなる。
今は外食をする機会もなくなって、友人から送られる野菜レシピを参考にしたり、料理番組で見た簡単手間いらずの一品を作ってみるが、毎食になるとなかな
か難しく、冷凍物で済ますこともある。
H
」がずら
日に1度は
散歩のご褒美
近くのスーパーに行くが、最近は青々とした野菜がめっきり少なくなった。以前には季節ものの野菜が店先に並んでいたが、今はお届けで買う人が多いのか、目を楽しませ、選んで買う季節ものがなくなっている。デパートに行けば高くても豊富に揃っているのはわかっているが、それだけのために出かけるということはない。などと友人とよもやま話のついでに話すと、翌日箱いっぱいに野菜が届いた。
なんということでしょう。色とりどりの野菜にお米まで入っている。コロナで外出もままならず、重いものを下げて買い物も容易ではないだろうと、詰められるだけ詰めてくれたようだ。電話をすると、「いつでも疎開しておいで」と言う。そう今は戦時下のようなものかもしれない。なんともありがたく、冷蔵庫を整理して、野菜の下ごしらえをして収めた。
野菜は確保できた。あとは運動、しかしこればかりは自分で動くしかない。
一日6000歩を目標に1時間のウオーキングをやってみようと、近所を一周、あちこちコースを変えて歩いてみた。階段はないが坂道は結構ある。わずかな登り坂でも息が切れ、そこをあえて頑張る。近くでも知らない道がたくさんある。都会にも緑はあって、道端には綺麗な花も咲いている。時々携帯で写真を撮ったりしながらのんびり散策を楽しむ。これでは運動にならないと、しっかり支度を整えてウオーキングシューズを履いて出かけてみるときもある。
1万歩を歩けるとよくやったと、どこかでご褒美が欲しくなる。そんな時に見つけた都会のオアシス。昔ならビールを1杯と言うところだが、今はアルコールの提供はない。それでも私にとってはなんとも喉に染みわたる至福の一杯である。
歩けば楽しい発見もある。道に迷い、思いがけずに見つけた緑の空間、軽井沢か上高地のようだと一人ではしゃぎ、しばしコロナを忘れる時間となる。携帯ビデオで撮って野菜を送ってくれた友人に LINEで送る。都会のオアシスですと……。
健康のため、インターバル運動がいいと試してみるが、続けるのはやはり気分次第、自分のペースでゆっくり歩くのがいい。とにかく腐らず、愚痴を言わず、テレビもほどほどにを心がける毎日である。
穏やかに過ごす努力をしようと、そう自分に言い聞かせる緊急事態宣言下である。
姫路城を背にした「姫路市立博物館」は、明治38年(1905)に建てられた陸軍の兵器倉庫を活用しています。設計は陸軍省技官宮本平治氏、井田熊吉氏。戦後は、姫路市役所として利用され、1980年市立美術館に転用されました。
明治になり全国の天守が解体されるなか、姫路城天守はかろうじて残されましたが、三の丸の御殿は取り壊され陸軍第10師団の施設が建てられました。建物は煉瓦造2階建て切妻屋根で。構造は木造クインポストトラス、屋根裏はキャットウォークを設けた収納庫になっていて、梁間は8間あります。同じようなレンガ建築は金沢の兼六園に近い陸軍第9師団(現・石川県立歴史博物館)にも見られます。大量のレンガは主に大阪窯業で焼かれました。
本郷新の「花束」は札幌オリンピックの際に制作された作品で、札幌の五輪大橋に立っています。そのミニチュア版が美術館エントランスの左右で訪れる人を歓迎していました。
ドラゴンシリーズ 80
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
遠くに行きたければ遠回りしなさい
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年の社会の変化が良い方向に向かう転換点になるかと期その国は持ちえない』という言葉を残している。
政権が悪いわけでは無く、日本の政治は今の日本国民に相応と言うことだ。これまでも、多分これからも日本人はどこかで誰かが苦しんでいても穏和に自分さえ良ければ、われ関せずであり続けるのかも知れない。
『国民が政府を嘲笑っている間は、その国の政府は嘲笑う程度の政治しか行わない』と言う言葉もその通り。自分は無関心でありながら、真面目に向き合う人間を嘲笑する日本人の姿は、政治が悪いと言うだけで、自分はそこには関わらない今の日本人の姿を表している。
世界で美化されている日本人像をそのまま鵜呑みにしている日本人は、自身に目を向けて今の日本をしっかりと見つめることが大事ではなかろうか。もうそろそろ日本の状況を、政治や政治家の責任にするのではなく自分のこととして一人一人がしっかりと考え、自分の意見を持ち言葉にする必要がありそうだ。でも市民である前に、一人のものを作る人であり何かを生み出す為のクラフツマンである。
最近の日本の現状を見ると、何だか随分と薄っぺらい世の中になってしまったと言わずにはいられない。特にこの
世紀にイギリスの学者は『その国民の程度の政府しか
待していたが、穏和な性格の日本人の弱体化してしまった精神の根っこを露呈したような状況になっているように感じている。自粛生活が続き、実態のある社会活動が困難になり、多くの国民である個人が困窮してるが、デジタル産業や自動車など大手メーカーや上場企業は軒並みに最高益を出している。、これは本来の価値を伴った姿なのだろうか。
金余りの社会の中で行き場の無くなった余剰資金が株価や土地、そしてデジタル新興に流れ込み一時期的な好況に見えているだけというのが真実である。何度も繰り返してきた金儲け至上主義の行く末は見えているから、そう長くは続かない状況であろう。いつの時代も経済的な視点だけが大きくクローズアップされた社会の在り方は、その歪みがいずれ必ず露呈する。日本からすっぽりとこれまで時間を掛けて受け継いできた大切な質が失われてしまい、同時にその失われたことさえも気づかな
い日本になってしまったのではないだろうか。昨今の働き方改革と言う名の場当たり的な政策は、日本人がこれまで大切にしてきた調和の精神や年長者を大切にする社会的精神の柱を失ってしまった。日本は果たして、これからの社会をどこに向かわせようとしているのだろう。本来の日本は小さな物事の中に、凝縮した質を大切にしてきた国だったように思う。
遠くに行きたければ、できるだけ遠回りをしなさいと言われてきた。社会の厳しさや、そこで生まれる葛藤や苦悩は決して悪いものではない。若い時代のそんな苦い経験があってこそ、そこから得られる大切なものがあるではないか。
妖魔 姫路城
標高約46メートルの姫山にそびえる天守は、泉鏡花『天守物語』の舞台にもなりました。天守に暮らす美しい妖魔富姫は、殿様の鷹狩を邪魔しようと大洪水を起こしますが、白い鷹を探しに登った鷹匠と恋に、おち苦難を超えて結ばれる、鏡花らしい物語です。明治時代、城主を失った天守は黒く荒んでいましたが、昭和、平成の改修を経てすっかり明るく白くなりました。
▲内船場蔵南石垣。黄色い凝灰岩は城から西へ3.5kmほどの鬢櫛山(びんぐしやま)から採られたと推測されています。
現存する姫路城は、関ケ原の翌年、慶長6年(1601)に建てられました。徳川家康から築城を命じられた池田輝政は、信長、秀吉、家康という3人の天下人と深くつながった人物でした。祖母は織田信長の乳母で、信長には甥同然に可愛がれ、本能寺の変のあと京都大徳寺の葬儀では棺を担いでいます。その縁で豊臣秀吉に重用され岐阜城主となると、紀州征伐、九州平定などに参加。一時は豊臣姓を名乗り後継者のひとりとなりました。秀吉の斡旋で家康の二女督姫を娶った輝政は、秀吉の死後、徳川側として関ケ原に参戦し、岐阜城攻略の功績から52万石の姫路城主となります。天守に続く道には、侵略者を殲滅する数々の工夫があります。「に」の門は天井が低く、槍を落とせるようになっています。
関ケ原の合戦に勝利したものの、家康は西国大名(福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正など)の進軍を恐れていました。そこで姫路に強固な城を築き、西国街道の分断を図ったのです。52万石という破格の石高を与えられた輝政は、普請奉行に伊木忠繁、棟梁に桜井源兵衛、石寄せ指揮に榎村長之、金物鋳造に芥田五郎右衛門充商を起用し、1601年から8年をかけて築城をすすめました。しかし輝政の心中は複雑で、豊臣家への思いと家康への忠義のはざまで揺れ動きます。築城から4年後に輝政は没し、大阪城もその2年後に焼け落ち豊臣家は滅びました。
▲ 黒田官兵衛が築城した豊臣秀吉の三層天守閣。
鎌倉時代、姫山に最初の砦を築いたのは、播磨の雄と呼ばれた赤松則村でした。後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府打倒のため京都六波羅探題を攻めた赤松氏が、戦いの拠点としたのです。則村の次男、貞範が城を建て、播磨一帯は赤松一門により支配されますが、織田信長の時代に内紛が起こり黒田氏が城主になると、黒田官兵衛(孝高)が家督を継ぎます。官兵衛は豊臣秀吉に加担し、秀吉に姫路城を譲ると、三層の天守閣をもつ本格的な城を築城しました。
豊臣秀吉は築城と共に、城下町の開発も手掛けました。西国街道沿いに市を開き、商人の公役(税)を免じて街を発展させました。江戸時代には内堀、中堀、外堀に囲まれた江戸城に匹敵する規模の「総構え」の城が完成します。秀吉は姫路を拠点に、中国地方の鳥取城や高松城を攻撃しました。その途中、京都で本能寺の変が起こり信長が討たれると、秀吉は高松城の毛利家と和解し猛スピードで姫路に戻ります。城に蓄えた金銀、米を配下に与えて士気を高めると尼崎に進軍し、山崎の合戦で明智光秀軍に勝利します。これが秀吉を天下人に押し上げるきっかけとなりました。左は「総構え」の模型。手前側の外堀付近が姫路駅になります。外堀〜中堀に町人、中堀〜内堀に武家が暮らしました。城の西側が手薄なのが分かります。
天守最上階には、刑部(おさかべ)神社が祀られています。
姫路城の天守は地上から92メートル。周辺では現在も城より高い建物は規制されています。現存する天守の完成後、池田輝政は不思議な幻覚にとらわれ、真っ暗な最上階を見上げ、火が灯っているから消してこいと家来に命じたこともあったそうです。輝政にとって家康のプレッシャーは相当な輝政は多くの城攻めの経験から、堅固な城を作ったとしても、籠城戦には限界があると考えていたようです。戦国時代が終わり兵農分離の完成した近世城郭の役割は、城主の威厳を城下や旅人、参勤交代の大名一行に誇示する役割が大きくなっていったのです。
天守は東大柱、西大柱という、地下から6階まで長さ約25mの心柱で支えられています。東大柱は1本のモミの丸太です。1801年、大田南畝が江戸から大坂に赴任した紀行文には、「姫路の城の天守遠くにみゆるも嬉しく、土橋を渡りて、天守いよいよみゆ」と、城が見えてきた時の高揚感が書かれています。長い廊下に並んだ部屋には奥女中たちが暮らし、外界とは厚い扉で仕切られていました。無骨に見える内装ですが、白粉の跡も残っているそうです。
写真左側、鷺山に建つ「西の丸」は、池田輝政から城を継いだ本多忠政により建てられました。豊臣家が滅び戦略的な役割を終えた姫路藩は15万石へと禄高を減らされましたが、本多忠政の子忠刻と、その妻となった千姫のため、武蔵野御殿と西の丸が造営され、西の丸は奥女中たちの生活の場であるとともに城壁の役割も果たしていました。祖母お市の方をしのばせる美貌の姫、千姫は二代将軍徳川秀忠の娘として豊臣秀頼に嫁ぎますが、大阪夏の陣の際、家康の命により大坂城から救出されます。その後、本多忠刻と結ばれ姫路に暮らしますが、忠刻は30歳の若さで亡くなり、幼い娘をつれて江戸に戻ります。出家して天樹院となった後、江戸城大奥にも力をもつ存在になったといわれます。
前回に続いて、米国で売れている書籍、脳神経外科医サンジェイ・グプタ著『シャープな頭脳を保つ秘訣』(未邦訳)について。
大多数の読者が本書に求めているのは「脳の老化」にどう対処すべきか、その具体的なアドバイスだろう。メディアで売れっ子のドクターだけあって、そのあたりは心得たもの。第9章で「週間でよりシャープな頭脳に」と題して、そのための具体的な生活指針を細かく挙げている。その要点をご紹介してみよう。
脳の働きは、努力(働きかけ)次第でいくらでも変化する。筋ト
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レと同様、日々新たな経験や習慣を積み重ねることで、脳の働き方を変えることができる。週間プログラムの最終目標は、次の5つ。1)一日を通して体を動かすことを習慣化する。
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2)より学びを深め精神に刺激となるような新たな知的挑戦を始める。
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3)日々のストレスを解き放つ方法を身につけ、夜はしっかり熟睡して心と体を休めることができるようにする。4)体(脳)に必要な栄養分を摂取する新しいスタイルの食生活を試みる。
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5)心を打ち明けられるような人間関係を築き、できるだけ活発に社会との関係性を保つ。 以上の5大目標達成のため、第 &1週目は毎日5つの新たな行動習 12慣を取り入れる。2週目は、これ 15を欠かさず実行する。3週目以降 20は、これに更に新たな行動習慣を加えながら、週間かけて5大目標達成に適した生活スタイルを確立する。5つの目標達成のための細目は以下の通り。
1)運動。最低でも週5日、1日分間の運動(分×3回でもいい)を。うち週2.3日は筋力トレーニングで。それ以外の日はウォーキングやヨガで。座りっぱなしの日常を見直して、少しでも立って体を動かすことを心掛ける。例えば週に5日は昼食後必ず分間歩くとか。2)学び。仕事以外の知的な挑戦となるような読書学習を。大学の生涯教育講座、市区町村の教養講座、オンライン講座を探してみる。3)健康。睡眠は極めて重要。6時間睡眠の人は、最低でも7時間できれば8時間にする努力を。ストレス解放のため、日々分間の深呼吸や瞑想、日記書きで一日を振り返る心がけを。4)食事(著者グプタ流)。日々何を食べるべきか食生活は計画的に考える。食事は体内時計のリズムを重視して、日照時間内に取る。朝食はたっぷり。夕食は粗食で。砂糖は避ける。水分補給に気をつける。オメガ3を多く含む天然物の魚(鮭・イワシ・サバ・タラ等々)を意識して食べる。食事の量は腹八分目で控えめに。食事の際は飲み物は基本的に水もしくは、赤ワイングラス1杯。甘味清涼飲料水は避ける。朝食の飲み物としては、水、砂糖抜きのコーヒーもしくは紅茶を。果汁ジュースやスムージーは避ける。昼食後の甘みとして、生のフルーツ少々もしくは、カカオ分の高いダークチョコレートを2片程度。
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夕食後のデザートは避ける。医師に相談の上でならば、週に2度の簡易時間断食(夜8時.翌朝9時の間の断食)を。5)社交。なるべく孤独を避け、昔の友や知人に連絡をして、久しぶりの会食に誘う努力を。
4)の食事(グプタ流)については、私からも少々補足したい。「体内時計」は、一部の自然食志向の人々の間で重視されてきた考え方で、 2017年のノーベル医学賞が生物の体内時計の研究者たちに与えられたことで、新たな形で「生物時間学」
(Biochronology)への注目が高まりつつある。脳の視床下部にある米
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粒大の視交叉上核と呼ばれる器官。これが統御する体内時計が狂うと、睡眠障害・
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時差ボケ・摂食障害等々、人間の基本的活動に重大な影響を及ぼすことが明らかになりつつある。近年、早朝の日光を浴びることの重要性が説かれるのも、この関連からで、「生物時間学」要注目なのであります。 OK
次に、「魚を食べよ」という部分を読めば我々は、「和食がいいのか、日本万歳!」となりがち。だが、今どき、年間を通じて「魚と米と野菜に、味噌と醤油と梅干しだけ」なんて人、超少数派なのでは?ハム・ベーコン・ソーセージに始まり、ハンバーガー、チキン唐揚げ、牛丼、ステーキ、ビーフ(ポーク)カレー、豚肉の生姜焼き、チャーシュー麺、酢豚等々、日常的に「お肉」食べていませんか? スーパーの食品売場はどこだって、魚売り場よりも食肉売り場のほうがずっと広い。幕末はもちろん、 1950年代前半の日本人の目から見ても、今の日本人の食生活は「まるで外国人」と映るはず。グプタ先生の説くように、「自身の食生活をきちんと把握すること」が肝要かと。
アルツハイマー病に関し、認知症の症状改善に明確な効果があると検証された医薬品は、現状では存在しない。従って認知症に関しては、その予防が重要な鍵となる。研究によれば、認知症はその発症の.年も前に、脳に僅かな徴候が見られ始める。また一定の遺伝性がある。しかし、上記のような暮らし方を取り入れれば、その発症を遅らせることができ、既に発症している人でも、その症状が改善されることが判明している。では、「アルツハイマー病の初期症状」とは具体的にどのようなものか。
1.ほんの少し前に起きた出来事を憶えていない。2.人として生まれ持っていた元々の性格が変化する。3.非社交的になる。4.大切なモノの置き場を間違えるようになる。5.家庭内の日常的な仕事の遂行が困難になる。6.時間と場所の把握に混乱が出始める。7.物事の判断能力と意思決定力が劣化する。8.他者との意思疎通に困難をきたし始める。9.視覚的に外界の見え方が変化する(夜間&動体視力の低下等)。
.物事の計画能力と問題解決力が劣化する。
少しでも上記の徴候ありと感じたら、すみやかに専門医による診断を受けるべき、と著者は勧める。その一方で、医師が処方する薬であっても、「治療薬の摂取はできる限り慎重に」と説く。なぜなら著者の立場では「認知症に効果ありと検証された薬は、いまだ存在しない」からだ。
薬よりもまず上記のような生活習慣を確立することで、認知症の予防とし、治療に代えるべし、と説く。「診断は医師に、治療は自身で」ということだ。本書のプログラムが目指す、運動・知的鍛錬・精神の安定と睡眠・適切な食事・人との交わり、という5つの基本目標。これ実は、本書に限らず、米国そして日本で出版される近
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年の類書に、ほぼ共通して語られるライフスタイルだ。特に「食と運動と人間関係
の重視」という方向性が顕著で、そこから先にある「地球上の生きとし生けるもの
全体の一部としての人間」的な発想への希求が感じられる。
本書は全章と結論という構成で、その大半は、ここ年間に長足の進歩を遂げた「脳の働きに関する様々な研究」の最前線の成果と限界を伝えることに費やされている。我々が5感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を通して外界から受け取る情報や、自身の体の内部で起きる変化は、どのような経路で、どのような方法で、脳のどの部分に伝達されるのか。その研究成果の最前線が紹介されている。では、こうして脳の様々な部分が受け止めた「情報」に対して、どのようにして統合的な判断が下され、いかなる形で対処が為されているのか。脳は、その情報に関係があ
AI
りそうなあらゆる部分に、電光石火の速度で情報を飛ばし、その各部分が互いに反
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応し合うことで、非常に複雑なネットワーク状の回路が形成され、それにより統合
的な判断が下されている「らしい」。そしてそのネットワークは脳だけはなく、体の
隅々にまで関係する形で処理されている「らしい」。という
ところまでは分かってきた。ということも説明されている。
で、問題はここからなのだ。では、その情報処理ネットワ
ークは、いかなる原理で形成されるのか。この肝心な点が、
未だよく解明されていない。という重大なことを知らされ
る。コンピューターで言えば、センサーとメモリと両者を
つなぐ回路については、かなりの細かさで判明してきたが、
肝心の CPU(中央演算装置)の働き方の原理が、未だき
ちんと解明されていない、ということになる。今その突破
口を求めて研究者たちが日々努力している。そう遠くない
将来、その突破口は開かれるだろう、と著者は読者に希望
を抱かせてくれる。それまでの間我々は、自身のセンサーとメモリが錆びつかない
ように磨きをかけ、両者をつなぐ回路が淀むことなく流れるように、意識的に、5
大目標を達成するための暮らしのスタイルを実践していくべし。これこそが認知症
の予防と治療になる。これが著者の結論だと言ってよさそうだ。
ところで、本書の著者の肩書は脳を専門とする「神経外科医」(Neurosurgeon)で
あって、間違っても「脳科学者」(Brain Scientist)ではない。今回、本書に類する「脳の働き」関連の売れ筋の書籍を十数冊確認してみた結果、意外な事実を知った。
英語圏では「脳科学」(Brain Science)という言葉は、めったに使われていないのだ。
実際、英語版 Wikiでは、この言葉は説明項目として立てられていない。日本ならば「脳科学関連」となりそうな書籍の著者たちの肩書は、その多くが「認知心理学者」(Cognitive Psychologist)次いで「神経科学者」(Neuroscientist)もしくは「神経外科医」となっている。なぜ、このことにわざわざ触れるのか。「脳科学」と聞けば、何やら
時代の最先端を切り開く新しくも難解な学問のように聞こえる。だが、この「脳科学」
が、「認知心理学」すなわち昔なつかし「心理学」の新たな発展形態と密接不可分の
研究領域なのだと知れば、どうか。「脳の働き関連書」の著者の多くは、実は、心理
学者の新たな末裔たちなのだ。そのことを知れば、「脳科学」が少しは身近な存在に
感じられないだろうか? 自分自身を知る上でも、や自動翻訳さらには病気の源
を知る上でも、極めて興味深い研究が続出している「認知心理学」から目が離せない。
短歌の街
城の西側、鷺山の脇を流れる船場川の市之橋は、掘割を行き交う舟の湊として賑わいました。本多忠政によって播磨港から城下へ水運が開発され、町の物流を支えました。川の中央には散策路「千姫の小径」が伸びています。周辺に残る古い商家は、西国街道の往来を忍ばせます。そのひとつ「初井家」は、姫路の孔雀と呼ばれた歌人初井しづ枝が暮らした家です。
鷺山のふもとに立つ鷺
渓流のたぎちに低く迫り咲く赤き椿は水に散るべし裏山の清水落ちきて門川に水車のめぐる冬の音あり氷塊の透きとほるなかに紫の翳としてわれ行きすぎゐたり 初井しづ枝
明治33年、姫路市大黒町の薬商に生まれた井上しづ江は、姫路高等女学校から大阪道修薬学校にすすみ薬剤師に合格。姫路に帰郷すると、女学校時代からの交際相手初井佐一と結婚します。初井家は姫路随一の大地主で、佐一のすすめでしづ江も短歌を始めます。戦後は農地解放により没落した婚家の生計を支えながら女流短歌の発展に貢献し、1971年『冬至梅』で読売文学賞を受賞しました。姫路の情景を透き通るような眼差しで詠んだ歌は、硬質でありながら雅な雰囲気をたたえています。
姫路文学館
安藤忠雄設計の「姫路文学館」。姫路の歴史と、播磨ゆかりの文学者を紹介しています。
姫路文学館のある「男山」からは、城の西側がよく見えます。男山には赤松貞範が創建した城の鎮守「男山八幡宮」や千姫が毎日拝んだといわれる「男山千姫天満宮」が鎮座し、数百年にわたり城の安寧を守ってきました。安藤忠雄さん設計の文学館北館は1991年、南館は1996年に開館し、改装工事をへて2016年リニューアルオープンしました。
▲北側1階は姫路城の歴史を紹介ています。坂の上の雲ミュージアム(松山市)と同様の螺旋状の展示です。
学生歌人岸上大作の没後60年記念展が開催されていました(終了)。岸上は1939年福崎町に生まれ。戦争末期に徴兵された父を失い、母子家庭で育ちながら小説や短歌を作ります。母や妹の期待を背負い上京して国学院大学に進むと、大学は安保闘争一色に染まっていました。家族への後ろめたい思いと時代の興奮のなかで、岸上大作はデモに参加しながら短歌をつくり、若者たちの等身大の思いをつづった『意志表示』を発表。短歌界から注目されるようになります。
文学館は岸上大作の資料1000点ほどを収蔵しています。
岸上大作の死は突然訪れました。『意思表示』が短歌研究新人賞に推薦され、安保世代を象徴する学生歌人として認められる一方、生活は貧困のどん底にあり、片思いの女性にふられ、岸上は死を夢想するようになります。それを実行したのは1960年、久我山の下宿で6時間に渡って書いた53枚の「ぼくのためのノート」が遺作となりました。わずか21歳。没後、友人たちによって歌集『意思表示』が編纂され、岸上大作は昭和の短歌史に名を残す存在となります。
文学館北館の奥に、望景亭(旧濱本家住宅)があります。実業家 濱本八治郎の別邸として大正5年から13年の歳月をかけて男山に建築されました。入り口に立つ間口1.5mの腕木門は銅板葺をむくり屋根にした雅な作りです。
濱本八治郎は、姫路商業銀行頭取、姫路瓦斯社長、山陽窯業社長などを努めた姫路屈指の実業家で、迎賓施設としてこの屋敷をたてました。一時は、第10師団騎兵連隊長として皇族賀陽宮恒憲王が暮らしたこともありました。賀陽宮恒憲王は「平民的な宮様」として親しまれ、師団長でありながら太平洋戦争の終結を昭和天皇に求め、戦後は自ら皇籍を離脱して市民となりました。昭和33年からは姫路市の「男山市民寮」となり結婚式場として利用された時期もありました。
茶室「雄徳庵」は、網代天井、トコ脇の船底天井、桂離宮「笑意軒」を模した下地窓の丸窓、琵琶を模した障子の引手など手の込んだつくりで、京都裏千家「今日庵」にのこる千宗旦好み「寒雲亭」を参考にしたといわれます。天井を貴人のための「真」、客のための「行」、 茶を点てるための「草」というように、真行草の三段に分けています。
茶室は池をはさんで母屋と対峙し。石垣を積んだ高い基礎の上に立っています。まわりにガラス戸の下屋を設け、屋根のかかった石畳の露地に見立てています。庭の眺めをよくするとともに、寒さや雨も防げる工夫です。鯉の泳ぐ池があり、渡り廊下の下には、通路のトンネルが見えます。
華麗な色彩の板戸絵は計8面あります。姫路城の御殿も、多くの板戸絵に彩られていたと考えられています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
「CO2(炭素)循環社会」から「H2(水素)循環社会」へ .3
-世界中で既に始まっている新産業革命、周回遅れの日本は .
2019年 12月スペインマドリードで開かれた COP25(国 ■汚染を削減し、人間の生活や動植物を守ります。
連気候変動枠組み条約第 25回締約国会議)の閉会声明 ■気候中立への移行が公正で包摂的あることを担保します。
で、欧州委員会は「EUグリーンディール」を宣言しました。 ■企業がクリーンな製品と技術の世界的なリーダーになる
気候変動や環境劣化など地球規模の問題に対し、EUは 目標のなかで挙げられた企業活動の対象7分野は、
全政策に関して気候改善行動を組み込み、高い目標や基 ◯クリーンエネルギーの普及
準を示すことで、世界のリーダー役を果たそうとしていま エネルギーの脱炭素化は気候目標達成のため非常に重要。
以下 (す。EUは非常に”したたか”です。地球温暖化ガス ◯ 汚染をなくす技術
GHG)、CO2削減、脱炭素化へ向けた大きな目標を掲げ EU市民と生態系を守るため、欧州委員会は大気、水、
ながら、得意なフィールドに世界を引っ張り込んで、政治と 土壌の汚染を防止する汚染ゼロ行動計画を採択する。
ビジネスの双方で世界への影響力を高めようとしています。 ◯ 建築の改修をすすめる
消費エネルギーの 40%を占める建築のエネルギー性能を
「EUグリーンディール」の掲げる主な目標 向上し「改修の波」を起こす
EUグリーンディールは主に以下の目標を立てています。 ◯ 持続可能な循環型経済への移行
■2050年までに気候中立を実現します。 繊維、建設、電子機器、プラスチック産業などで新しい
2019年マドリードで開かれたCOP25。
循環型経済へ移行し EUの現代化を図る。
◯ 持続可能なモビリティー輸送は GHGの 4分の1を排出している。2050年までに輸送からの GHG排出量を 90%削減する。
◯ 生物多様性を守る森林の質と量を向上する。海洋資源活用のための海洋経済(ブルーエコノミー)、そして生物多様性戦略をすすめる。
◯ 農場から食卓まで持続可能に手頃な価格で持続可能な食品供給の確保、有機農業拡
大、自然への影響を最小限化した生産をすすめる。となっています。このように具体的な目標を掲げることで、EUは地球温暖化防止と経済活動の両立をはかり、グリーンディールの世界的なリーダーになることを目指しています。
「グリーンエネルギー」で脱炭素社会を目指す
現在 EUの GHG排出量の 75%は、エネルギーの生産と消費が占めています。そのうち再生可能エネルギーの割合は18%前後(2017年)にとどまり、GHGの削減は温暖化防止のための重要課題です。EU加盟各国は 2050年までに GHG排出量ゼロを目指し、2023年までに各国のエネルギー・気候関連の国家計画の更新を行う予定です。脱炭素のキーワードとなるのが「エレクトリフィケーション=電化」です。EUのエネルギーの主力は北海油田でした。しかし老朽化や掘削費用の高騰、原油価格の下落等が重なり、将来の展望が暗くなってきました。一方、原子力発電所については、東日本大震災の原発事故を受け、新設や開発投資に対する世論が厳しくなり、ドイツは脱原子力発電を宣言しました。またロシア産の天然ガスについても、クリミア併合問題等などロシアからの輸入には不安要素が沢山あります。ギー源では、2050年の GHG排出量ゼロは達成出来ないと EUが決断したのでしょう。EUにとって気候変動への対応は一大政治テーマであると共に、一大事業でもあります。国際的な金融資本と機関投資家の投資市場になっているからです。「EUグリーンディール」は GHG削減が最も重要な最終目的ですが、もう一つ
『エネルギー転換の推進』という大きな目的と、ポストコロナの経済活性化をになう『新事業による雇用開発』といった狙いも見えます。
ポルシェの新型EV「タイカン」スポーツカーもEV化が進んでいる。
これらから、石油、原子力、ガスといった従来型のエネル
2018年に行われた先進 7カ国財務相会議からその機運は高まっていて、2019年の「COP25」では、欧米を中心とする世界 631の大手金融機関と投資家が、気候変動対策のための投資をすると正式に表明しました。脱炭素化の背中を押す大きな力ですね。また EUの得意技ですが、独自の投資基準(タクソノミー
(taxonomy)=投資分類法)を構築しています。いってみれば EUへの投資健全性を測る「物差し」といってもいいもので、環境債の基準、銀行の安全性基準等、機関投資家の資金運用や政府調達において、この基準が適用されるのでしょう。
「エレクトリフィケーション」のシンボルとなった EV
EUでは CO 2排出量の約 4分の1が、輸送分野で使われるガソリン等の化石燃料から発生します。実際は発電所や製鉄所からの CO 2排出量の方がはるかに大きいのですが,一般市民にとっては、乗用車の脱炭素化の方が効果を実感しやすいのです。そこで EUが最も力を入れているのが、EV
(エレクトリック・ヴィークル)で、各メーカーに一定以上の割合で EV製造を義務付けたり、エンジン車でも CO 2排出量の下限値(ほぼ達成は不可能な値)を定め、達成出来ない場合には、相当の罰金をとられます。上記の制度化を受け、EU向けに急遽 EVを投入した日本の自動車メーカーもあります。余談ですが、日本の車メーカーは世界最高のハイブリッド技術と低燃費エンジンの開発技術を有しています。しかし低燃費でも内燃機関である以上 CO 2はでます。一方 EVは走行時の CO 2を発生しませんが、大型の電池を搭載するため電池製造時に大量の CO 2がでます。製品のライフサイクル全体を見渡すと、ハイブリッド車とEVでは、製造時、走行時、廃棄時等を合計して、どちらの環境負荷が低いのか比較の結論は見えていません。
再生可能エネルギーを利用した水素の発展
今後 EU中を走り回るであろう EVですが、発電所が大量の CO 2を発生してしまっては意味がありません。EVの普及は、グリーンエネルギーとセットで進むべきです。有望なエネルギー源として注目されているのが、グリーン水素です。天然ガスなどから作るブルー水素やグレー水素は製造時に CO 2が出ますが、「水 =H2O」を電気分解したグリーン水素は CO 2を発生しません。その電気分解装置に供給する電力にはクリーンな「再生可能エネルギー」が必要で、
トヨタによるFCVミライの水素燃料電池を利用した発電装置。自動車と装置を共用することで、コストダウンを図っている。
経済的にも見合うよう大量に作り出さなければなりません。EUは 2040年までに1000万キロワットを供給する計画で、資金支援や環境整備に力を注いでいます。
実は、日本は水素関連技術で世界をリードしています。水素を使った燃料電池自動車(FCV)の量産化と販売など、日本が断然先行しているのです。開発は自動車メーカー、ガス・石油会社など民間企業の力で進められています。日本オリジナルの技術を国家レベルで活用し、生活を自由に安全に、そして豊かにするために、幅広く利用出来ないものでしょうか。FCVを愛用している身としては悔しくて仕方ないのですが。重厚長大な国策企業が幅を利かせ、二重三重の規制で新しいエネルギーの参入を拒み、民間の自由な発想と事業展開の機会をうばう時代は、とうの昔に終わっているのです。
EU市民の 93%は気候変動を深刻な問題と受け止め、同数の市民が少なくとも一つの気候変動対策を実行しています。また 79%の市民が気候変動への取り組みはイノベーションをもたらす、環境保護は経済成長を可能にすると認めています。実際に2018年の温室効果ガス排出量は1990年と比較して 23%減少しました。同時期の EUの GDPは 61%増加し、経済成長を持続させながら GHG排出量の削減が可能なことを示しました。今までの EUは水素に関心が高かったとはいえませんが、ここにきて水素の利用なしでは脱炭素の将来像は描けないと気づいたようです。政治レベルで掲げた理想に向かって動き始めました。元々水素に強かった日本ですが、政府の対応の遅さで水素市場を EUに奪われてしまうのではと危惧しています。
あぼし
網干の町
姫路城から西南へ約11km。姫路市網干地区。昭和レトロな街並みの残る町として注目されています。「旧網干銀行湊倶楽部」は大正12年に建築された網干銀行を再生したレストランです。
レトロな建物の残る橋本商店街。網干というかわった名の由来は721年(養老5年)、魚吹八幡神社で開かれた放生会の日に、氏子の漁師たちが殺生をやめ網を干して神社を参ったことからつけられたと言われます。網干はいま姫路市の一部になっています。江戸時代も姫路藩領でしたが、江戸時代のはじめ龍野藩領に移りました。1658年には龍野藩主京極高和が四国の丸亀藩に移封されますが、網干28カ村(一万石)は飛び地として明治まで丸亀領として残りました。丸亀藩は「鶴松亭」があった場所に網干陣屋を設け、揖保川河口の一画に代官や奉行の武家屋敷を置きました。そのため江戸時代の網干は、姫路藩、丸亀藩、幕府直轄領に分かれ、各地区には木戸が設けられていたようです。
貞門女流六歌仙のとして著名な田捨女(でんてじょ)は、1688年網干に「不徹庵」を構え後進を指導しました。
金刀比羅神社のとなりにある丸万料理鮮魚店。古い漁師町でもある網干では、いま牡蠣の養殖が盛んになっています。
▼ 旧水井家住宅。材木問屋を営んでいました。
毎年6月下旬には網干浴衣祭(荒神祭)で賑わいます。。
13世紀に開山した歴史ある大覚寺。黒田官兵衛や徳川家、京極家の庇護をうけ、寺子屋からは漢詩人として知られる河野鉄兜を輩出しました。寺宝には室町時代の十六羅漢像はじめ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3名の「禁制」が揃い、網干が複雑な力関係の中にあったことを伝えます。禁制とは、街に入った軍団が盗難、乱暴しないことを約束した書状です。
入り組んだ道に家々が並びます。タイルを張った腰壁、2階部分の銅板張り、外壁の黒漆喰と焼杉板、縦繁格子など、独特のファサードが街並みに彩りを与えています。
明治22年創業の「浪花堂」初代は、大阪からやってきたそうです。大福、桜餅、うぐいす餅、お手製のシュークリームも。
初代町長をつとめた加藤家。門の脇には勝海舟が揮毫した石碑が立っています。幕末から明治にかけて活躍した網干の医師 河野東馬は、儒者河野鉄兜の弟で、漢詩『吉野懐古』は、勤王の志士の精神的な支柱となりました。若い頃、兄と旅に出た東馬は、四国丸亀藩や九州各地をまわり勤王の志士たちと交友を結びます。そうこうするうちに天誅組に参加した東馬は京都蛤御門の戦いに参加し、銃弾で負傷して投獄されいました。網干に戻った東馬は私塾をひらき、明治政府から民部省判事として出仕を求められますが、これを辞退して「誠塾」を継続し地元の人材育成につくします。勝海舟に揮毫を求めたのは、河野東馬と言われます。「誠塾」の建物は今も保存・公開されています。
緑まばゆき季節なれども、東の果てへとコロナは巡る。変異株さん、どうしたものか …… Gotoトラベル、 Gotoイート、どこのどなたが仰った。今じゃ来るな来るなの大騒ぎ。
ワクチン接種の予約と行列、密になってはいませんか。どうなることやらオリンピック。
部屋の換気もままならぬ、ヘリとジェットの爆音で。これじゃぁまるで監獄ライフよね。
こんな日本にしちゃったのだ.れ?おかみに訊いても知らぬ存ぜぬアイドンノー。
便利な言葉じゃありませんか。
その14
青山かすみ
本日、南風なれども
そうこうするうち、コロナ禍のどさくさにまぎれ、米軍ヘリ低空飛行訓練の強化でしょうか?+アルファのおまけが自国ヘリと旅客機空襲ですものねぇ。トリプル低空飛行の嫌がらせ攻撃ときますからね.ホント、たちが悪いわ。日本に住む方々はこれでよしと思ってる?政府には命に関わる危険飛行を行使する理由をちゃーんとご説明いただき
たい。その上で、自らが航空法を守る姿勢を示して欲しいと切に願うけれどもまあルールを守れるようなジェントルさんならば、そもそも低空飛行しよ
うなどと考えるはずないわよね...(今も戦時中と気づけた二度目の五月に)
書写の里
圓教寺で知られる姫路市書写山(しょしゃざん)に、宮脇檀さん設計の「姫路市書写の里・美術工芸館」があります。
▲「姫路はりこ」の絵付け体験ができます。▼全国の土人形を収蔵。土人形のルーツは土偶といわれます。▲白なめし革を使った「姫路革細工」は名定一呂氏の作品。
▼ 白銅製の精巧な矢立(携帯筆記具)も名物でした。
「明珍火箸」は、平安時代から続く甲冑師の明珍家が手掛ける茶道用の火箸で、近年は風鈴や楽器も作られ、冨田勲さんも澄んだ音色を高く評価したそうです。今は53代目の明珍宗敬さんに伝統の技が引き継がれています。
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