Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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時空を超える美意識 春分 2021 https://collaj.jp/ 今月は大館から鹿角へ。縄文時代の円環を訪ねました。 大館市街からの朝の山並み。 急速に発達した低気圧によって、十和田南駅は大雪に見舞われていました。 Vol.21 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ 満月の夜の恋が叶うおまじない    教えてあげる          縄文人の描いた円環大湯環状列石 大湯環状列石は、秋田県北東部、鹿角(かずの)盆地を北上し、十和田湖へと抜ける大湯温泉近くにあります。大湯川と豊真木沢川によって作られた標高約180mの舌状台地上に、緑色の石を並べた日本最大規模のストーンサークルが2カ所並んでいます。前号で紹介した伊勢堂岱遺跡から西へ40km離れ、共通点は多いものの、目的は大きく異なると考えられています。 十和田湖の山々を背景に、直径42mの野中堂環状列石、直径48mの万座環状列石が並んでいます。元々この土地は、広い耕作地として利用されていました。YouTube 「鹿角市の文化財を紹介します。大湯環状列石の冬景色をご覧ください。」鹿角市生涯学習課より 遺跡に隣接した「大湯ストーンサークル館」では、遺跡の解説や出土した土器、土偶などを見られます。環状列石の6割は緑味をおびた石英閃緑ひん岩で、遺跡から6kmほどの安久谷川上流、柱状節理の諸助山から崩れた石が川で丸みを帯びたものです。全体で8500個の石が確認され、1個100kg以上の石もありますが、どのように運んだかはよく分かっていません。 YouTube 「鹿角市の文化財を紹介します。大湯環状列石の冬景色をご覧ください。」鹿角市生涯学習課より 昭和のはじめ耕作地の水田化工事の際に発見され、4000〜3500年前、縄文後期の遺跡と分かりました。発見者浅井小魚氏の日記をみると「ストーンサークルと覚しきもの暴掘に遇ひ石柱散乱地底掘下げられしを廻り見て、唖然たるものあり」とあり、すでに「ストーンサークル」という言葉が使われていました。小魚氏を中心に大湯郷土研究会が結成され、戦争で発掘は中断されますが研究会により大切に保全されました。1942年神代文化研究所、1946年秋田県・朝日新聞社、1951年文化財保護委員会による調査で全容が明らかになってきました。 なかでも注目されるのが「日時計状組石」です。野中堂のものは時計の文字盤のように放射状に組石を並べ、中心に高さ1m、重さ200kgの巨石を立てています。石の影が1日の時間を示すとともに、万座と野中にある日時計を結んだ線が夏至の日没の線と一致することが分かっていて、イギリスのストーンヘンジのように夏至を知る役割があったと考えられます。 日時計状組石 大湯環状列石の周りからは、祭祀に使われたと思われる土偶が多数発掘されています。2つの大きな環状列石以外に、環状配石遺構12基、方形配石遺構5基、配石列9条、配石遺構99基、掘立柱建物跡91棟、竪穴住居跡7軒、フラスコ状土坑275基、土坑476基、T型ピット60基が確認され、その成立時期(約4000〜3500年前)は5期に分けられています。 遺跡の近くには、人工ピラミッドと言われる標高280mの黒又山(クロマンタ)。 環状列石が作られる前、第一期の遺跡周辺は縄文人が動物を狩ったり、木の実を採取する場所でした。シカなどを狩るためのT型ピットは動物が通る沢の近くに多く、上60cm、下30cm程度にした細長い穴で、シカが落ちると抜け出せなくなります。食料を保存するフラスコ状土坑(上)には、クリ、クルミ、トチノミなどが貯蔵されました。入り口が狭く奥が広いので、フタをすれば夏で17℃、冬で1℃前後を保てました。第二期は、一本木後口配石遺跡群や万座配石遺構群が作られ、12棟の掘立て柱建築も立てられますが、これらの配石はまだ環状を描いていません。第三期になると野中堂、万座の環状列石が作り始められ、列石のまわりに6本柱、4本柱の掘立て柱建築が立ちます。右の土偶は、中空のパーツで人体をかたどった珍しいタイプです。 ▼ 幻覚剤としても使われたキノコを形どった土器。 ▲ベンガラ(赤)を塗った土器も見つかっています。 ▼天然のアスファルトを土器や石器に利用していました。 特に人気なのは、顔のような点を打った土板です。1、2、3、4、5点が表され、裏には2カ所の3が打たれています。子供に数を教える玩具とか、呪術の道具とか様々な説がありますが、縄文人が数の概念をもち、記録していたことは確かです。 民芸を思わせる模様を描いた浅鉢、沖縄のカラカラのような酒器、タジン鍋のようなフタなど、洗練されたセンスを感じます。天文にも通じた縄文の人々は、東北地方の寒冷化にともない新天地をもとめ西へ移住したと考えられています。 フタを切って焼いた土器。収縮率が異なり、合わせるのが難しい技法です。 小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表 「CO 2(炭素)循環社会」から「H2(水素)循環社会」へ .1 -世界中で既に始まっている新産業革命、周回遅れの日本は . 人類は、大昔から薪を燃やしてきました。しかし1760年代からイギリスで始まった「産業革命」は石炭を大量に燃やし、1890年代アメリカでは T型フォードが量産され内燃機関(エンジン等)で石油を大量に燃やす本格的な石油時代に突入しました。人類はより豊かな暮らしを目指し必要なエネルギーを得るため、物質(炭素)を燃やし(酸化)、二酸化炭素(CO2)を排出してきました。ところがここ数十年、経済活動による CO2排出量の極大化によると思われる地球温暖化問題が浮上してきました。CO2を主とするグリーン・ハウス・ガス(GHG=温室効果ガス )の排出によるものです。ハワイ島にある「マウナロア観測所」は、大気中の CO2 マウナロア観測所の観測を基に、地球大気中の二酸化炭素の蓄積をグラフ化したキーリング曲線。 観測で有名で 1957年からデータを記録しています。海抜3397mの火山山腹にあり、太平洋の真ん中で局所的な大気変動の影響を受けにくく、記録されるデータは信頼出来ます。2013年に一時的ではありますが、大気中の CO2濃度がこの観測所で 400ppmを超えたとニュースになったことを覚えています。産業革命が始まったころ、大気中のCO2濃度は 280ppm位でした。ちなみに昨年 3月12日のCO2濃度は、414.14ppm(/daily-co2)で、今年の同日は 416.27ppm(/daily-co2)に増加しました。 炭素(薪、石炭、石油、天然ガス等の燃料)を燃やせば熱エネルギーを得られますが、CO2も一緒にでます。原始時代から産業革命前迄の CO2排出量が少ない時は、森林の植物や海洋植物・植物プランクトン等が CO2を吸収・固定し、それが再び燃料に使われても CO2自体は大きく増減しませんでした。CO2の循環が安定していたのです。産業革命以降は、各産業の急激な工業化、地球規模の自動車の普及、農業の機械化による食料増産、医学の発達による急激な人口増加などから、化石燃料(石炭、石油)の利用が急増しました。そのため固定される CO2の量よりも、大気中に放出される CO2の量が圧倒的に多くなってしまい、従来なら自然に行われていた CO2循環プロセスが限界を遥かに超えてしまったのです。1997年の COP3地球温暖化防止京都会議で締結された「京都議定書」は、温室効果ガスである CO2を含む6種類のガス類削減率を、1990年を基準に国別に定め、約束した期間内に達成することを定めたものです。当時 EU等が抱く地球温暖化への危機意識から生まれたものですが、日本は 6%の削減目標は達成したと宣言したものの、実際の CO2排出量は年々増えています。 さて石炭や石油に替わることが出来る、CO2を排出しないエネルギー原料として注目されているのが「H2(水素)」です。アメリカのアポロ計画で、ロケットの電源として使われたのが最初の燃料電池と聞いています。宇宙空間には酸素がありませんので、燃料として液体酸素と液体水素を搭載しています。これを利用した燃料電池が船内で働いてい 1997年COP3開催中の国立京都国際会館。設計は大谷幸夫さん。 Credit UN Photo Frank Leather 水の電気分解。金属板に電圧を掛けると、2H2O → 2H2 + O2に電気分解されます。 image by iStockphoto ました。今回調べて分かったことですが、宇宙に存在する物質のうち75%が水素なのだそうです。地球にエネルギーを与え続ける恒星「太陽」のエネルギー源は水素の核融合反応です。地球表面の 71%は海ですが、その水は 2つの水素原子と1つの酸素原子で出来ています。水素は我々にとって一番身近な物質ですよね。中学校時代、理科の授業で水の電気分解実験をしました。左右に分かれた電極から水素と酸素の泡ががそれぞれポコポコと出て来たのを覚えておられると思います。電気分解するのとは逆に「水素」と「酸素」を化学結合させると、電気と熱エネルギーを発生して水に戻ります。これが燃料電池の原理なのです。水素は物質あたりの発生熱量では、石油由来のガスに較べ3倍近くになり、エネルギー密度が高い物質です。その製造方法や原料は色々ありますが、製造時に排出する CO2の量によって主に 3種類に分けられます。 ■ グリーン水素 水を電気分解して水素と酸素に還元する方法で製造したものです。電気分解のための電力が欠かせませんが、風力発電や太陽光発電等の再生可能エネルギーで、CO2を排出 することなく製造した水素を指します。課題はコストです。 ■ ブルー水素 天然ガスや石炭等の化石燃料を様々な方法で分解して水素を取り出すもので、CO2は大気中に放出せずに回収します。改質水素ともいいます。 ■ グレー水素 ブルー水素と製造方法は同一ですが、CO2を回収しないで大気中に放出してしまう方法です。「H2(水素)循環社会」への転換で一番コアな技術は「燃料電池」でしょう。初めてこの言葉を聞くと、水素を燃や すと思う方も多いようです。燃料電池は英語「FuelCell」の直訳で意味が伝わりにくいと感じます。何故ならば、1)電気エネルギーの元となる水素は燃やさない。2)電気を溜める電池ではなく、これは発電装置である 「燃料電池」は新しい技術(原理の発見は約120年前)です。その原理はなかなか一般に理解されませんが、地球温暖化にブレーキをかけ、世界を救う技術革新としてグローバルに注目されています。しかも、その技術開発は日本が断然リードしているのです。燃料電池発電による電気自動車 Fuel Cell Vehicle(FCV)Hondaクラリティーは、納車から早 5年目を迎えましたが、快調に走りまわっています。水素ステーションもゆっくりですが地方でも増え始めました。3月11日、豊田章男社長が「車がすべて電気自動車(EV)になればいいという単純なものではない」と発言したトヨタは、FCVの心臓とも言える燃料電池技術の特許を期限付きですが公開しています。日本以外のメーカーでは 2019年のモーターショーでメルセデスベンツが FCVを展示公開しました。次回は「水素循環社会」へ向けた広がり等について述べたいと思います。 国際的な水素エネルギーの需要予測。2050年には2020年の約8倍になると予測されています。(水素協議会)FCVホンダ「クラリティー」。イワタニ水素ステーション芝公園にて。2019年モーターショーで発表されたメルセデスベンツのFCV。 名湯 大湯温泉大湯川に沿ってひらけた大湯温泉は、江戸時代の1665年、南部藩の湯治場としてひらかれ、金・銅の道として知られる来満街道の宿場町として栄えました。明治の頃は、不老倉鉱山など炭鉱町の人々で賑わいました。 大湯温泉の岡部荘は大正時代に建てられた別荘を旅館にしたもので、低温35℃と高温60℃の湯を混合させて湯温を調整した100%源泉が人気です。大湯はかつてこけしの里と呼ばれ「こけし館」では全国の作品を見られます。 道の駅「おおゆ」 「縁が輪になる、大湯のえんがわ」をコンセプトにした道の駅「おおゆ」。設計は隈研吾さん(隈研吾建築都市設計事務所)で、三角屋根が約75mつづくシンプルな外観が特徴。場所は大湯温泉「ホテル鹿角」の向かいです。 鹿角短角牛バーガーが目玉のカフェ、地元の産品を集めたショップ、BBQ、大湯温泉を気楽に楽しめる足湯、えんがわ市、屋外ステージ、キッチン付きの研修室を備えています。 鹿角市花輪「 旧関善酒店 」 北は十和田湖、大湯環状列石、南は八幡平「伝説の郷」といわれる鹿角の中心市街が花輪です。南部藩の金山尾去沢鉱山で栄えた町には日本最大規模の造り酒屋建築があります。 店の前には、雪や雨を防ぐ庇が伸びています。新潟で「雁木」、青森で「こみせ」と呼ばれますが、鹿角では「こもせ(小店)」と言われていました。かつては通りに1kmも続いたそうです。 旧関善酒店の間口は15間もあり、かつては花輪の税金の4分の1を納めるほど栄えたそうです。 現在、関善は酒づくりは行っていませんが、隣接する土蔵で酒店を続けています。 今はNPO法人「関善賑わい屋敷」の所有となり、一般公開されています。常駐するスタッフの方が、江戸時代、1856年から続く関善の歴史や建物の概要を案内してくれました。関善賑わい屋敷では、建物の保存・活用のほか、鹿角に伝わる草木染めの伝統織物「紫紺染」、「茜染」の復興を目指した活動も行っています。 見上げると吸い込まれそうな高さ10m以上の梁構造は、日本最大規模といわれます。丸太から良材を厳選したケヤキをクサビだけで組み上げています。 ▲神棚の前の社長席。足元には一人用のコタツがあります。 ▼ 板の間の下は、酒を絞る地下作業場になっていました。 鉱山からの帰り道、鉱員たちは土間でコップ酒「もっきり」を楽しみ5軒あった酒屋で味比べしました。高い天井は米麹を作る際の蒸気を逃がすもので、いつも麹の甘い匂いが漂うなか、オーナー(関家)や番頭もこの空間で過ごしていました。 2004年には道路拡張工事のため曳家が行われ、大規模木造建築の曳家としてテレビに取り上げられました。江戸時代の建物は明治の花輪大火で全焼し、明治38年、以前とそっくりに建て直されています。ケヤキの木は関家の山から伐りだしたそうです。  ▲2階はテラスのようになっていて1階を見下ろせます。 ▼良材を使いながら、豪奢な雰囲気を感じさせない作り。 1階の奥座敷は計40畳ほどあり、来客のもてなしや茶会、婚礼の儀式などに使われました。欄間は縦繁格子で、桂離宮古書院にも見られる意匠。畳は京間サイズです。関家や番頭一家は、吹き抜けに設けられた2階で暮らしていました。 ▲番頭の子供たちが遊ぶための屋根裏部屋。▼ 2階には、関家と番頭家族の部屋がありました。 2階の居室からは1階が見渡せます。仕込みの時期は、中二階の2段ベッドに従業員が泊まり込み、昼夜を問わず仕事を続けました。関家は代々議員をつとめ、4代目善次郎氏(1893〜1987年)は大阪帝国大学で醸造学を学び、竹鶴政孝(マッサン)と同級生でした。婦人は大阪出身で社交家として知られ、衣服は三越の通販で揃えていたそうです。 昼すぎに、花輪線が動き始めました。鹿角花輪駅から盛岡駅までは2時間ほどです。 車窓から見える姫神山。 立て続けに電化製品がおかしくなった。まずはテレビ、 リモコンでスイッチを入れても反応が鈍くなかなか映ら ない。電池を交換したが変化なし。ちょっと叩くとつい たりつかなかったり、調子の悪い時は何をやってもウン もスンもない。諦めてラジオをつけると、テレビの方か ら音が聞こえてくる。なんなんだ …… オリンピックはともかく、買換えの時期がきているの は間違いない。家電屋さんに見に行くと、大画面に有機 EL、液晶もたくさんあって迷うばかり。とりあえずパンフレットをもらってきたが、3回に1回は映るので決心が鈍る。ダメ元でサポートセンターに電話してみたが「この電話は使われていません。」と音声が流れてぷつり。問い合わせできる電話番号を探す気にはなれず、このメ ーカーのものは次は選ばない。 2つ目はプリンター、突然「廃インクがいっぱいです」と表記されて全く動かない。インクは入れ替えたばかり、コールセンターに電話をすると、 WEBサポートのアナウスが流れる。それでダメだから電話をしているのに、「コールセンターは順番におつなぎします。しばらくお待ちください」と、繰り返し何度も WEBサポートのアナウスが繰り返される。それが4〜5回、沸点に近づいた時「お待たせしました」と女性の声がした。怒鳴りそうになるのをぐっとこらえて状況を話す。それは部品交換になるが、その機種の部品は1年前に終了した。交換不可です。このやろう!とは言わないが、あのねえ〜と一言いいたくなる。が、その時、声がした。『我慢我慢。血圧上がるよ!!』サポートに怒鳴っても仕方ない。全てマニュアル通り。今はテレワークで自宅で受け応えしているのかもしれない。そう思ったら、なんだか気の毒になって、「そう、やっぱり買い替えしかないのね。ありがとう。」と電話を切った。 ここしばらく WEB通販で注文することはあっても、直接電話で何かを注文するとか問い合わせするとかはなくなっていたが、なんだか世の中が随分変わったようなような気がした。これってコロナのせい?それとも自分が時代遅れ?こちらがおかしなことを言っているのだろうか?何かがおかしくない?まともな会話が成り立たなくなっていない? もの言えば唇寒し…… 随分前のことだが、マグドナルドで注文しようとしたら、矢継ぎ早に聞いてくる。「え〜と」と返事の前に次の質問をしてくる。後ろをふり変えると列ができている。「あっ、いいです。お先に」と列から離れてしばらく見ていると、店内か持ち帰りか、注文は?、飲み物は?サイズは?とほとんど同じフレーズで注文をさばいて 20 いく。いやいやついていくのは大変と、以来マクドナルドに入るときは、あらかじめ注文内容を頭に入れて並ぶようにした。 マニュアル以外の言葉は彼らにはないのかもしれない。少し年配の店員さんがいると、幾分ゆっくり注文ができるのはありがたかった。しかしもうファストフードに並ぶようなことはなくなった。 極め付きは、某銀行。銀行から怪しげなメールが来るのは無視しているが、通帳記帳は月に一度はするようにしている。身に覚えのない引き落としがないか、公共料金の引き落としはちゃんとできているか、入金欄はほとんどないが、給付金の他に少額の入金 !! がある。気持ちが悪い。どこから振り込まれたものか、電話をした。プッシュボタンで問い合わせの番号を押すようになっているが、アナウスが何度も繰り返されるばかりでなかなかオペレータにはつながらない。ようやくオペレータが出ると、本人確認の質問が続き、やっと本題と思ったら「担当部署に回します」と、マニュアルに書いてあること以外は言わない、聞かないというスタンス。さらに取り次いだ人は、今度はマニュアルなし、のらりくらり、ささっと調べろと声を落としてお願いするが、「わからないので折り返し電話する」とのこと。いい加減にしなさい。早くに調べて必ず電話をするようにと語気を強めて電話を切った。 待つこと分。別の人から「大変お待たせしました。以前お申込みいただいたキャンペーンプレゼントです」「あら、忘れていた。じゃ、使っていいのね。」「はい。ご安心ください。たらい回しになって申し訳ありませんでした。」「いやいやこちらこそ、ご面倒かけてすみません。」「ありがとうございました。」まともな会話が成り立ってホッとした。待っている間、口座全部解約!と思ったが、穏やかにことが済んでやれやれ …… コロナ騒動で、働き方が随分と変わり、顔を見ないことにも慣れてきたが、どこかイライラ、ギクシャクした感じもする。こういう時だからこそ、想像力たくましく、人との繋がりを大事にしなければと改めて思う。クチビルサムシ、なんて言わずに、呵々大笑できる日まで、血圧あげない努力をしましょう ▲ システムソファのルーツB&B ITALIA「SITY」。 ▼台湾の超高層ビル「台北スカイタワー」。 1950年イタリア北部の家具産地メーダに生まれ、1972年のスタジオ設立以来、半世紀にわたり建築、家具、インテリアなどモダンデザインをリードし続けるアントニオ・チッテリオ氏。作品の展覧会が東京・九段下のイタリア文化会館で開催され、3月19日にはチッテリオ氏と喜多俊之氏によるトークショーが開かれました(モデレーター桐山登士樹氏)。ミラノ、大阪、東京をつなぎ、伝説のソファ「SITY」や最新の建築プロジェクトなどをチッテリオ氏自らが解説しました。 1階のエキジビションホールには、ソファ MAGISTER(フレックスフォルム)、キャスター付きワゴン MOBIL WAGON (カルテル)、フォールディングチェア 14(B&Bイタリア)、ランニングマシーン ' Beverly RunPersona(テクノジム)、ソフ l ァCh arles(B&Bイタリア)など、日本でも販売されているチッテリオ氏の代表作が並びました。 智仁親王夢の円環「桂離宮」 『源氏物語(松風の巻)』には、桂の地に遊んだ光源氏が描かれています。「今日はもう一日桂の院で遊ぶことにしようと源氏は言って、車をその方へやった。(中略)月がはなやかに上って来たころから音楽の合奏がはじまった。(中略)感じのよいこの小合奏に川風が吹き混じっておもしろかった。月が高く上ったころ、清澄な世界がここに現出した……」(与謝野晶子訳) 【桂離宮 庭の円環】 桂川の水を通した池のまわりに苑路をめぐらせ、月波楼、外腰掛、卍亭、松琴亭、賞花亭、園林堂、笑意軒など茶室や御堂を配し、築山 十数年に一度、池の水をすべて抜き、砂利を清掃する作業が行われていました。石や石橋はひとつひとつ丁寧にや野筋、入江、州浜など変化にとむ自然景観を取り入れ、敷石道、畳加工され、微妙な位置や高さを合わせ設置されていることが分かります。石、飛石、延段などに沿った石橋、灯籠、手水鉢が彩りを添えます。 【御幸門】 智仁親王は幼少期、豊臣秀吉の猶子(養子)として関白になるべく育てられましたが、秀吉に実子が生まれたため秀吉のもとを離れ、八条宮家(桂宮)が創設されます。御所の北側にあった本邸は、二条城に移築され現在の本丸御殿となりました。表門をから50mほど入った【御幸門】は、後水尾上皇を迎えるため八条宮家第2代智忠(としただ)親王により建てられました。茅葺き切妻屋根の棟門形式で、屋根の下地に丸竹を巡らせ、コルクのような皮付きのアベマキを柱や梁に使っています。【衝立松】は池に突き出た岬の突端に、景色を隠すように立っています。元々は大きな松(住吉の松)が対岸の松(高砂の松)と対になり、古今集の序にある「あいおいの松」(夫婦のように寄り添う松)を表現していたと伝わります。 和歌や連歌に堪能だった智仁親王は、細川幽斎から『伊勢物語』『雨中吟』を学び、1600年には『古今和歌集』の伝授を受け古今伝授の継承者となります。秀吉の死とともに関白や天皇への道を絶たれた智仁親王は、池に舟を浮かべ和歌を詠 【衝立松】は池に突き出た岬の突端に、景色を隠すように立っています。元々は大きな松(住吉の松)が対岸の松(高砂の松)と対になり、古今集の序にある「あいおいの松」(夫婦のように寄り添う松)を表現していたと伝わります。【衝立松】 み、管弦の調べのなか月を愛でる、平安絵巻の世界を夢見て桂離宮の建造に力を注ぎました。 【御幸道】 八条宮家は明治までつづき、桂離宮は宮内庁の所管となりました。見学は予約制でグループ見学となります(一部当日受付あり)。今回は見学ルートと異なる順番で、貴人が離宮に招かれ、お茶や遊興を楽しんだ道筋をご案内したいと思います。御幸門を入り右を向くと、小石をぴっしりと並べた御幸道が伸びています。粘土で突き固めた「あられこぼし」が滑らかな表面を保ち、御輿の行進を助けます。アーチ状の土橋を斜めに配置して奥行き感をだし、書院の玄関口を隠しています。御輿は古書院の【中門】に至ります。ここまでの道程で書院や庭の全景はまだ見えません。中門は茅葺き切妻屋根で、外から玄関(御輿寄)は見えず、くの字に走る飛石と石柱のような手水鉢が、書院への期待を高めるプロローグとなっています。 中門をくぐると杉苔の絨毯を「真の飛石」がまっすぐ靴脱ぎ石へ伸びています。ここで貴人は御輿を降り、書院へ入ります。書院内部は昭和40年代から非公開となりました。 右から建設順に古書院、中書院、楽器の間、新御殿が雁行状に連なります。屋根は.葺入母屋造りで、御所特有のむくり破風をもちます。貴人たちは庭で、蹴鞠や駒競べを楽しみました。 前回に引き続いて、カマラ・ハリス米国副大統領のお話。大統領選の候補者となる直前のインタビューで、私生活の日常を率直に語っている。そこから食と健康に関連する部分を抜き出してみる。 「朝は時起床。分ほどマシーンで自転車こぎか、クロストレーナー(足踏み)で汗を流すのが日課。朝ごはんは、その日の予定を確認しながら、レーズン入りの全粒小麦のシリアルにアーモンドミルクを注いで食べてます。ほぼ毎日これ。もちろん、お砂糖は控え 6 目で。それに紅茶、レモンとハチミツを入れてね。」「外出時の靴は、いつもコンヴァースのスニーカー。棚に何種類も並んでいて、たぶん全種類揃っているんじゃないかな。」「責任ある立場だから、仕事 30 でヘトヘトになることもある。そんな日の夜は、熱い湯のお風呂に入るの。入浴後はカモミール系のハーブティーを一杯。これを飲みながら、心のストレスを解き放つために、本を読みます。どんな本かというと、旅先でなければ、お料理の本。特にマルチェラ・アザンやアリス・ウォータースの料理書ね。料理の本は山ほど持ってるわよ、コレクターだから。あとは、NYタイムズの料理アプリやボナペティのウェブを見たりね。」 「1週間で6回も飛行機で全米各地へ飛ぶ、なんて超過密日程で時が過ぎ去っていくこともあります。そんな週には、仕事を離れて家族揃っての日曜日のディナー、これがとても大切な時間になってくる。だから可能な限り、自分のこの手で料理を作るの。すると、私の人生ちゃんと自分が主体的に動かしているんだぞ、という実感を取り戻すことができるから。娘(義理)はお肉は食べないのね、お魚派だから。で、この前はカジキマグロ。マリネー液にちょっと凝って、カルダモン・クミンシード・ニンニク・玉ネギ、それにレモン汁を加えて。これがすごく美味しかった。他の皆のために、お肉料理も一品。ミント・パセリ・コリアンダー少々入りのラム肉のミートボール。キュウリを和えたヨーグルトソースとスーマック(ピリ味果実)を添えて。こうして家族でお料理を準備する間は、必ず音楽を流すの。これはもう絶対、古いジャズで……」 モダンで知的。そして並々ならぬ食への関心の深さ。ゴルフ以外はほとんど運動をせず、食事はファストフード中心という、トランプ前大統領とは対極的な暮らし方だ。カマラのコンヴァース好きは有名で、パンプスは特別な場合のみ。4千万の人口と全米でも有数の経済力を誇るカリフォルニア州の司法長官を経て上院議員になった人であることを思えば、これ「働く女はスニーカー!」という考え方の表明となっている。就寝前に頭と心を解放するために料理書を読む。現代絵画の巨匠フランシス・ベーコンもそうだった(本連載2014年8月号)。自分の手を動かして料理をすることは、自分自身を取り戻すことに通じる。確かに。その料理がスパイス&ハーブ一杯なのは、お母さんが作ってくれた南インドの料理で育ったからだ。 カマラの母シャマラ・ゴパラン(1938〜2009)は身長150 cmという小柄。「でも2以上あるかと思わせるくらい、すごい存在感がある人だった」とカマラは語る。1960年代初頭のカリフォルニア大学バークレー校。黒人中心の公民権運動の先端となる学生たちの集まりがあり、そこにカマラの母シャマラは、唯 m 一人の非黒人として参加。毎週日曜日に、代表的なクレオール料理「ガンボ」(ごった煮鍋)をつつきながら、議論に次ぐ議論を重ねた。そこで出会ったドナルド・ハリス(1938年生)と結婚し、乳母車を押しながらデモに参加し続けていたというから、凄い。「私たち姉妹は、公民権運動のデモ隊の叫びと行進する足音を子守唄にして育ったみたいなものだから」というほどで、まさに、この母にしてこの姉妹あり。カマラが好きな料理書の著者としてアリス・ウォータース(1944生)の 75 名を挙げているのは非常に面白い。この女性シェフは、米国における地産地消と有 80 機自然食材重視運動の草分けで、1970年代半ばから本格化し始めるカリフォル ニア料理ルネッサンスの立役者だ。ミシェル・オバマ元大統領夫人が強力に進める 「米国人の食習慣改善運動」の顧問も務めている。ここでは日々の暮らしのスタイル、 とりわけ食生活が政治に直結している。いや、直結せざるを得ない状況になってし まった、というべきか。半世紀前には考えられなかったレベルで、国境を超える形 で進む「食の工業化&商業化」。あまり意識されていないようだが、間違いなく日本 でも、類似の状況が徐々に深刻化しつつあることを 強調しておきたい。 この「食と政治」の問題に関連して、昨年の米国大統領選挙期間中、興味深いニュースが流れた。「ヴィーガン(厳格な菜食主義者)の%が、バイデン候補に投票するつもり、と回答」昨年の大統領選投票日の数週間前に発表された、ある世論調査の結果だ。「日々何を食べるべきか」という「個人の食生活における選択の問題」が、アメリカでは大統領候補選択の判断基準となり始めている。なぜそうなのか。食肉の中でも牛肉に代表される赤身肉の摂取を減らそう、という主張が、その背景に広がる様々な社会問題への関心と共に、急速に勢いを得つつあるからだ。これについては、回を改めてお話してみたい。現在米国でヴィーガンを含む広い意味での菜食主義の人口は、約9%。ここ数年驚くべき勢いで増加し続けていて、もはや政治家も食の業界関係者も、無視できない勢力になり始めているのだ。 「日々の食生活と自身の健康を見直そう!」日本とは別次元の肥満に起因する様々 な疾病が大問題となっているアメリカでは、これが政治次元で語られる機会もます ます増えている。今回の大統領選では、カマラが全米各地の民主党支持者の家庭に 直接赴いて、その家の台所で、支持者と共に料理をしながら食を中心に暮らしを語 り合うという動画が何本かユーチューブにアップされた。それを見ればカマラの包 丁を握る手さばきの良さは一目瞭然。ガハハと大笑いしながら、ちょっと雑だけれど、 テキパキと調理する様子には、人柄が表れている。 副大統領の話だけではなんなので、最後におまけを。バイデン大統領はアイスク リームに目がなく、スパゲッティが大好き。2度目のトランプ弾劾裁判の仕掛け人 として女を上げたペロシ下院議長(歳)は、チョコレートに目がない。同じ民主 党でもヒラリー・クリントンとはまったく異なるタイプの、新しいライフスタイル を実践する女性副大統領の誕生は、アメリカで現在起きつつある巨大な変化を象徴 する出来事なのではないのか。カマラの動向から、目が離せない。 古書院に上がり【月見台】に立った時、はじめて庭の全容が見渡せます。1933年5月、桂離宮を訪れたブルーノ・タウトは「すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる。私たちはこの神秘にもたぐう謎のなかに、芸術の美は単なる形の美ではなくて、その背後に無限の思想と精神的連関との存することを看取せねばならない」と書きました(『永遠なるもの』)。 高い土台を白漆喰で塗り固めた高床式。美しく並んだ柱が書院を宙に浮いたように見せます。高床が庭の眺めを良くし、桂川の洪水を防いだといわれます。外に面した明かり採りの障子の内側はインナーテラスのような畳敷きの縁側で、この障子は後年になって設けられました。軒先の下には直線的な雨溝があり、内側のタタキと相まってシャープな輪郭を形作ります。ブルーノ・タウトは「青芝を区切る一直線の石敷き、家屋の輪郭と平行する縁石は、実に繊細な現代的感覚を示すものである。日本の芸術家がこういうものこそ規範にしてくれたらと思う。」と、述べています。古書院につづく中書院は第2代智忠親王によって建てられました。一の間の玉座には、狩野探幽の山水図が描かれています。突き当りの木戸を開くと御湯殿や厠につながる通路があり、続く3畳の「楽器の間」には琵琶などを置いた床と、庭を眺める広縁の腰掛けが設けられています。 【月破楼】 月破楼(げっぱろう)は、古書院と並んで池に面して建つ茶座敷です。月破楼の名は智仁親王が敬愛する中国・白楽天の詩「月は波心に點じて一粒の珠」からとったもので、秋の夜長、池に映る月を愛でました。正面の土間には長炉、竈、吊戸棚を備えたオープンキッチン「膳組所」が設けられ、ここで茶を用意したり酒の肴を調理する様子を楽しみました。 土間を囲むように座敷が配され、船底天井によしずを張り、竹小舞で押さえた天井が爽やかな初夏の雰囲気をだしています。「歌月」の扁額は後水尾天皇の筆ともいわれ、池の対岸には松琴亭が見え、月破楼と対になっていることが分かります。 ▼ 二重桝形手水鉢と石燈籠。 【外腰掛】は、池をめぐる苑路の入り口にある待合です。茶会の際は、ここで亭主の呼びかけを待ちます。茅葺きの寄せ棟で、壁は背面だけに立て、柱や梁に皮付きのクヌギを使っています。脇の砂雪隠(トイレ)は、実際は更衣室だったようです。▼外腰掛の向いの「蘇鉄山」。冬は藁で巻かれています。 外腰掛前の延段(敷石道)は特に有名です。幅1m弱、長さ17m近くにおよぶ長い延段には、長さ2mもある切石がはめ込まれ、自然石との力強い組み合わせを見せています。南端に埋め込まれた石灯籠が、客を茶室へと誘います。 5月初旬に桂離宮を訪ねたブルーノ・タウトは、同行した大丸社長下村正太郎、建築家上野伊三郎と共に正門から桂離宮に入場。書院内から月見台に出て庭の景観に感動すると、下村の提案で庭を見ようということになり、庭にでて外腰掛で蘇鉄山を見ます。州浜の石灯籠の先に松琴亭が見え、右手には池の向こうに書院が見えました。この地点をタウトは桂離宮の転換点と位置づけます。扁平な加茂川石を並べた州浜の先端には灯台を模した石灯籠が設けられ、舟遊びの際の灯台になりました。天橋立を模した反橋は庭園の見せ場となっています。智仁親王の奥方常照院が、丹後国宮津藩の出身であったことにちなみ、天橋立を取り入れたといわれます茶室「松琴亭」が近づくにつれて客の集中は高まり、タウトが指摘した転換点で、和やかな田園風景は厳粛な侘び茶の姿に切り替わります。茶室の躙口に向かって伸びる5mの細い石橋は、渡ることを拒否するように見えます。石橋を渡り、にじり口から茶室に入ります。千宗旦と懇意だった智忠親王の好みが随所に散りばめられた三畳台目の茶室には、遠州好みの8つの窓があり、皮付きの中柱に仕覆掛けとなる小枝を残しています。壁の四分の一ほどの位置で色が変わるのは、洪水の浸水跡といわれます。床の間脇の給仕口の奥には、水屋があります。 茶室から二の間に出ると、鮮やかな藍色の襖や庭の景色に目を奪われます。閉鎖的な茶室から明るく広い空間への劇的な変化です。隣の一の間には有名な市松模様の床の間、襖があります。加賀奉書を藍で染めたもので、智忠親王の創意と伝わります。一の間と二の間を隔てる襖を外すと、違い棚と床の間が揃い、連続して楽しめるようになっています。 ▼ 池の向こうに見える月破楼。 松琴亭は屋根のボリュームに比べ、広間を極端に狭くして、庇を広くとった開放的なつくりです。夏は庇で日射を防ぎ、冬は暖かなひだまりになります。広間からは庭の全景が見渡せ、対岸の月破楼とは舟で行き来できます。 一の間は11畳の座敷で、床の間の右手には、一畳大の石炉の上に狩野探幽が墨絵を描いた天袋があります。石炉に火を焚き部屋を温めていました。庇の下には長炉や竈を備えた水屋があり、水屋越しに庭を眺める趣向です。本来は裏方の水屋を正面に配置したのは、中国で流行した煎茶の遊興を模したと考えられます。各茶室の水屋を酒舗や店に見立て、市中ではできない飲食や買い物を楽しむような趣向が貴人や武家の間ではやっていました。 3 4 昨年の 月頃から日本でも深刻になった新型コロナ。あっとい うまに一年がすぎ、ふたたび桜の季節がやってきました。 まあ一年後には何とかなるだろうとぼんやり思っていた東京オリンピック開催も目前にせまり、やりたい派とやめたい派の溝は深まるばかり。どちらを向いても前途多難、大量の外国人観光客を運ぶはずだった羽田新航路は、経済効果や旅客増といった大義名分を欠いたまま、運用が続いています。 実は先日、突如として面白い出来事が ……。 カルロス・ゴーン被告の国外逃亡を手伝った疑いで、元グリーンベレーのテイラー親子が成田空港に移送された3月2日のことだった。横田基地から飛び立ったハーキュリーズ(大型輸送機) 機編隊により、羽田新航路の運用が妨害されたのです。右往左 往する民間旅客機が可愛そう、というか危険極まりない状態に。飛行行動には、必ずと言っていいくらい沢山のメッセージが込められているのですね。 ハーキュリーズ4機が新航路に侵入。慌てて方向転換。 その12 青山かすみ 15 11 10 最近、やっと話題になりはじめたのが、米軍ヘリの都心低空飛行問題。月下旬から毎日新聞で特集記事が組まれ、その傍若無人ぶりが連日報道されています。菅首相も予算委員会でこの問題を突きつけられ「ルールを守り最大限の安全を求める」とはいうものの、国交省は相変わらずの知らぬ存ぜぬ 4 ぶり。羽田新航路便の目前をゆうゆうと飛ぶ米軍ヘリの動画を見ても「これでは事実を確認できません」「個別の事案には答えられません」を繰り返すだけ。結局は、米軍ヘリと飛行機がぶつかって墜落・炎上? 官僚にとって国民の犠牲は、賠償の金額でしかないのでしょう。 76 3月日、多くの国民が年前の東日本大震災を思いおこし、福島の原発 2が未だ危険な状態にあり、数十万の人が故郷を追われた事実を突きつけた。原発への津波被害は以前から警告されながら、コストカットのため改良工事は見送られ事故の要因となりました。それを「津波は想定外」だからと片付けた政府は、なんでも「知らなかった事」にすればいいで済ませてきた訳で。写真や動画を見ても「米軍ヘリは飛んでいない」と目をつむる。まるで江戸時代の「見ざる聞かざる言わざる」ですね。フタをされた臭いものの中では、危険がフツフツと煮えたぎっているのにですよ。 3月日には、バイデン政権の閣僚としてオースティン国防長官が初来日。さっそく横田基地からブラックホークに乗り都心上空を低空飛行。赤坂の米軍ヘリポートにさっそうと降り立ちました。それも午後時台という羽田新航路の運用時間を狙って ……。報道陣が注視するなか、これ見よがしのマウンティング行為なのよね。畳に土足で上がられても政府は大歓迎?戦後年たっても占領下のまま、首根っこを掴み、小遣いをせびる大国アメリカ。幕末に上陸したペリー提督の方が、よっぽど紳士的だったんじゃあないかしら。 本日、南風なれども ▲毎日新聞のスクープ映像。羽田新航路の着陸態勢に入った旅客機の目の前を、米軍ヘリ2機が飛んでいます。取材/大場弘行 松本惇 加藤隆寛 ▼ 賞花亭からは、愛宕山を望めます。 松琴亭をでると、行程は海から山へ変化します。【賞花亭】は山の茶屋を模したつくりで、春は吉野家、秋は龍田屋の暖簾を掛けて茶屋を演出していました。池からの高さは5mほどしかありませんが、随分高い所に来た雰囲気があります。御所の本邸から智忠親王が移築したと伝わり、コの字型に畳4枚を巡らせ、竹の連子窓や下地窓をつけています。長炉や竈、水屋棚がある所から、茶席が設けられたと考えられます。連子窓からは背後の谷が見え、深山幽谷の雰囲気を醸し出します。 ▲八条宮家代々を祀った持仏堂【園林堂】(おんりんどう)。 南側に位置する【笑意軒】(しょういけん)は、藁葺き屋根の農家をイメージしています。建物は盛り土の上に建てられ、直線的に区切られた池の湊は、舟を係留できる舟溜まりになっています。端の小さな灯籠には灯台の役割があります。 左右に6個並べた円形の下地窓は、竹小舞の下地を揃えずランダムに見せた独特のデザインです。その上に掲げた「笑意軒」の扁額は、信長の焼き討ちにあった戦国時代の天台座主曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)の書と伝わります。 肘掛け窓の下の腰壁には、臙脂のビロードと金箔を斜めに貼り分けたモダンな意匠が見られます。窓の外には、敷地外の田んぼの風景が広がる趣向です。 苑路は笑意軒から新御所へ向かい書院へと戻ります。細川幽斎から智仁親王へと伝えられた「古今伝授」は桂離宮という形になり、日本人の創意の円環を今につなげているようです。 ドラゴンシリーズ 78 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 万有の法則、時間が経つと退化する。 56 が 正倉院は東大寺大仏開眼から 年後、756年に聖武天皇 歳で亡くなった際に、大切にしていた品々を大仏に献上 したのが始まりと言われます。正倉院は、創建当時の特徴的な倉庫建築「校倉造」で知られますが、毎年のように正倉院宝物展が開催され宝物900 0点の中から毎年 点が選ばれ展示されます。今から130 0年前の天皇が愛したものを、現在にタイムカプセルで運ばれたように見ることができ、そのままの姿をとどめる多くの品々は驚くほど高い技術で作られ、これらを知ることは本当に楽しくワクワクします。その多くは中国を中心とした大陸からの輸入品ですが、なかには同じ時代のインドなど中央アジア、中東のペルシャ、ビザンチン、イラン由来のものもあり、世界各地から集められた宝物の多様さに驚くのです。 これらの品々は日本に住む聖武天皇の手に届くまで、長い時間を掛けてきたことが想像できます。現代のような交通機関のない時代、島国の日本は中国や中央アジアとの交易に船を使ったのでしょう。60 0年から 年間続いた遣隋使、そして隋が滅びて唐に変わり、 遣唐使がシルクロードを行き来し、世界の品々を日本にもたらしていたと想像できます。日本から中国に向けて使者を送り、日本の歴史の礎となった多くの文化をもたらしたこの時代。どのように未知の大陸に渡り、多くの文化を日本に持ち帰ったのか、どんなに危険な出来事を乗り越えたのか、本当に興味深い時代だと思います。 1300年前は現代のような世界地図や航海の技術も無く、優秀な若者たちが長い年月を掛けた航海を経て、志を抱きながら大陸の文化を学び吸収し、時には病気に苦しみ、時には航海で波にのまれ、夢を砕かれた若者も多くいたと思います。 4 60 18 正倉院の宝物の中に「紺瑠璃杯」と言うガラス杯があります。ワイングラスのように台脚が付いたこのガラス杯は、瑠璃色の本体部分に丸いガラスの玉が漆で後付けされています。そして、その台座には銀に繊細な文様を彫った台脚が取り付けられています。デザインにしても、素材の組み合わせ方にしても、現代のガラス製品よりもレベルの高い仕事をしています。 また淡い茶色の透明なカットグラスの「白瑠璃碗」も、亀甲形に表面がカットされたモダンデザインとして違和感の無い存在感を持っています。これと全く同じ時代と意匠のガラス器が、イランやペルシャから多く出土しているそうです。そう言う事実を見聞するだけで、その時代に多くの若者たちが未知の大陸に向け美しい宝物を探し、その大陸にある木造建築や思想を求めて大航海を繰り広げていた興奮を想像できます。 この時代に遣隋使、遣唐使がもたらしたものは宝物だけではありませんでした。現代につづく生きた歴史としての仏教は、この時代に中国から日本に伝えられたものです。古来、日本には教典や開祖を持たない自然信仰のアニミズム的な民族宗教である神道はありましたが、多くの使者が中国で仏教を学び、その思想教典と共に木造建築や手工芸など多くの宗教的、文化的遺産を日本にもたらしました。 日本全国に今も残る多くの歴史的寺院の多くは、 この時代に職人が中国から渡来し、中国の指導者と 日本人の手によって建てられたと言われています。 その多くが、今も地震や災害を乗り越え、その素晴 らしく高い美意識と技術を教えてくれます。同時に その時に伝えられた精神性も、1300年の時間を経て日本に深く根を張り、日本古来の神道と長い時間の中で共生し、私たち日本人の日常生活の慣習として馴染み、死生観にもなっています。 その時代の人々に心を重ねることで、沢山の勇気や未知なる民族との交流に憧れます。命を掛けて海を渡り、言葉と知識を会得し、そして多くを学習し、日本にその思想技術を持ち帰り、国や人々を豊かにするために生きた多くの人々がいたのです。 【 Webマガジン 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