Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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Click 東海道のパワスポ豊橋 いくたびぞ かきにごしても すみかへる 水や豊橋の姿なるらん 時空を超える美意識 水見舞 2021 https://collaj.jp/ 豊かさを生む中央構造線 カニの姿にも例えられる、渥美半島(左)と知多半島(右)。海の向こうには伊勢の神宮が鎮座します。三河湾に面し、渥美半島の付け根にあたる豊橋市は、本州のほぼ中央に位置し、日本最大の断層「中央構造線」によって地質が2分された街です。北側(内帯)の領家変成帯、南側(外帯)の三波川変成帯が接し川、山、谷に富んだ地形から、古くは金や水銀がよく採れ、修験道者の道ともなっていました。 渥美半島知多半島 貝塚の断面(豊橋市美術博物館) かつては東海道34番目の宿場・吉田宿として栄え、東海道新幹線の停車駅でもある豊橋。太古の三河湾は遠浅で、外海と切り離されたラグーンが形成されていました。今も貝類の宝庫として知られ、大西貝塚には130×40mにわたりハマグリだけの地層が発掘され、干し貝の加工場があったようです。貝塚が内陸にあることから、1万2千年前から6千前の「縄文海進」によって3mほど海面が上昇し、かつての海岸線は豊橋駅周辺にあったと推察されます。縄文海進は氷河期の終わりに北米やヨーロッパの大氷床が溶けて海面が上昇した現象で、平均気温1〜2℃の温暖化が原因と考えられています。中央構造線にそって豊橋と長野を結ぶ、飯田線の車窓風景。断層の活動によって生じる貴金属を求め、修験道者が行き交いました。 1925年に誕生した豊橋の市電は、朝夕最短5分間隔で運行され、通勤、通学の足として活躍を続けています。T1000形「ほっトラム」は、日本初の純国産全面低床車(LRV)です。 豊橋市公会堂 左右のドームが特徴的な豊橋市公会堂。スパニッシュコロニアルを基調としながら、色とりどりな様式を交えています。正面の広い外階段を上がり2階ホールへと向かうドラマチックな仕掛けや、四角いコリント様式の柱。ドームに添えられた4頭のワシなど、ヨーロッパの影響を強く感じます。 公会堂を設計した浜松出身の建築家・中村與資平(よしへい)は、東大工学部から辰野金吾の事務所に入所し、韓国ソウルの第一銀行韓国総支店(現存)の現場責任者に抜擢されました。その後、ソウルに設計事務所を開設し、銀行、教会、個人邸を精力的に手掛け、中国大連にも出張所を設けます。與資平はドイツ人技師アントン・フェラーの案内で欧米17カ国を一年掛けてめぐり、特にドイツの工業技術、教育システムに感銘をうけます。帰国後東京で関東大震災を経験した後は、火災や地震に強い鉄筋コンクリート造の小学校建築で評価されました。太平洋戦争で建築を学んでいた次男、兼二を亡くし(「ビルマの竪琴」の著者・竹山道雄の従兄弟)、戦後浜松に戻ると静岡銀行、県庁、市役所などを設計しました。 この雲をつっきるぞ上空には満天の星がある Vol.24 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ 吉田城 豊川を見張るように立つ吉田城は、戦国時代に築城されました。豊川と東海道の物流が交差する、三河支配の拠点として重要な城でした。 豊川の対岸から、昭和29年に模擬再現された隅櫓(鉄櫓)が見えます。吉田城は豊川を行き来する船舶を見守り、湊の治安を保ってきました。 「東海道五十三次」の吉田宿には、改修中の吉田城と豊橋が描かれています。豊橋は東海道では珍しい大きな橋として有名でした。戦国時代、東三河を支配下にした徳川家康は、信長の死後、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五国に150万石を五か国を領有する大大名となりますが、豊臣秀吉の命で江戸に転封されました。徳川を関東に封じ込めるため東海地方には秀吉の重臣たちが配置されます。東海道の要衝、吉田城には池田輝政が入り、城と城下町の大改造を行い吉田大橋(豊橋)の架け替えました。整備は11年間にわたって行われたましたが、関ヶ原の戦いの翌年(1601)に輝政は吉田を離れ、50万石の姫路城主となります。江戸時代、吉田城は出世城と呼ばれるようになりました。戦国時代の吉田城は土盛と素掘りの堀による簡素な構造でしたが、池田家によって高さ14mの石垣が築かれました。野面積みの石垣は、川沿いの軟弱地盤を克服するため独特な積み方で、川を背にした本丸を囲むように二の丸、三の丸、侍屋敷を配置していました。長雨のためか、石垣の一部が崩れていました。 豊橋が掛かる舟町一帯には、4kmほど離れた河口から大型の帆船が川をさかのぼり、湊として賑わいました。吉田はお伊勢参りの中継点としても知られ、帆船に乗り換えて三河湾を海路で伊勢まで行くルートが人気となりました。 明治まで吉田城本丸は残りましたが、明治6年に焼失します。満州事変が始まり城址に歩兵第18連隊の本営がおかれると、豊橋は軍都の色を濃くしていきました。 Takenoko chair exhibition My smallest architecture Hiroshi Nakamura & NAP Time & Style Atmosphere 11 . 25 June 2021 筍の子 ▲ 6月25日(金)までTime & Style Atmosphere(東京南青山)にて、建築家 中村拓志さんとNAPが手掛けた「Takenoko chair」の展覧会が開かれています。タケノコとは、和室の床柱を筍の子状に削る仕上げです。上は、吉田幸男さん(旭川)の手による椿小丸太を使ったプロトタイプ。オープニングの6月11日には中村拓志さんの座談会が開かれました((聞き手:白井良邦さん)。中村さんは「常に自然を生かす建築を心がけてきた」といいます。茶室にはゆるやかな茶人の工夫が込められ、千利休のはじめた「下地窓」は、本来は隠すべき自然のアシや竹を表しています。大切な床柱にあえて筍の子状の意匠を取り入れ、自然のなかで筍の子が部屋の中に生えてしまうリスクさえ受け入れる感性が、日本の素敵さと中村さん。「Takenokochair」は、床柱の筍の子を脚部に表現しています。最初のイメージは、椿の小丸太を組み合わせたものだったそうです。村野藤吾設計「佳水園」(ウェスティン都ホテル京都)の内装リノベーションを手掛けた中村さんは、そこに Takenokochairを用いました。ホテルでも使いやすいよう、清掃の際にはテーブルに肘掛けをひっかけられるようにしています。構造や重量バランスを計算した「自分の手掛けた小さな建築」と中村さん。掃除は禅の思想にもつながっています。 ▼ 肘をテーブルに引っ掛け、床面を空けられます。▲ 『東海道五十三次 二川 猿が馬場之圖』行書版 豊橋市の「二川宿」は江戸日本橋から33番目、三河に入って一番目の宿場でした。歌川広重『東海道五十三次(保永堂版)』には、二川の名物として猿ヶ馬場の茶店とかしわ餅が描かれています。実際、猿が馬場の茶店は隣の白須賀宿にありましたが、後の行書版でも描き続けられ、絵によって名物かしわ餅が定着してしまいました。 東海道は、徳川幕府の五街道整備計画(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)により、江戸日本橋から京都三条大橋にいたる街道として整備されました。宿駅は53カ所設けられ、各宿場には大名の泊まる本陣、旅人の泊まる旅籠、荷物を取り次ぐ問屋場などが置かれました。街道の両脇には松が植えられ、旅人を日差しや風から守りました。 JR東海道線二川駅を降り、東海道を歩きます。街道脇には宿場町を思わせる建物が大切に守られていました。二川宿は1601年、東海道設置当初からの宿場で、天保14年(1843)の記録では、東西12町6間、宿高約678石、人口1468名、家数328軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒、問屋場2カ所がありました。 街道沿いは二川宿景観形成地区に指定され、江戸〜明治期の建物が残っています。比較的新しい建物も、リノベーションによって瓦葺きにして外壁を黒く塗ったり、屋根勾配を隣家にあわせ軒裏を木で仕上げたり、外壁に付け柱や付け梁を施しファザードの印象を和風にしたりと、街並みとの連続性を大切にしていました。新築住宅も古い建物に合わせて設計し、できるだけ空き地を埋めることで、間口の狭い建物が密集した宿場町特有の家並みが守られます。 街の中心部、中町には、本陣、脇本陣、旅籠、問屋が集中していました。二川宿には全国でもここだけに、本陣、旅籠、商家の3つが現存しています。本陣(上)は本来、戦場の本陣を示しましたが、江戸時代には大名や公家、上級役人の宿の呼称となりました。宿場の有力者が代々運営し、二川宿では後藤家が運営してきましたが、度重なる火災により紅林家に本陣職を譲りました。紅林家も1806年の火災で没落し、跡を継いだ馬場家が明治になるまで本陣を守りました。 二川宿本陣資料館では、江戸時代の本陣と旅籠を見学できます。玄関棟には式台や玄関、台所などがあり、大名は籠に乗ったまま街道から玄関まで行き、式台に籠を置いて室内に直接降りました。 街道に面した広い板の間には荷物置き場で、蔀戸(しどみど)を開けて直接荷物を運び込むことができました。大名の乗る籠や長持、両掛などが置かれました。 通り庭は荷物や馬の通路で、裏庭には厩や蔵があります。馬場家は伊勢から二川に移り住み酒造、米屋、金融などで財をなし間口12間の大きな屋敷を構えていました。火災で本陣を焼失した紅林家から継承を依頼されたものの、運営の難しさを知る馬場家は断っていましたが、代官の命により引き受けました。馬場家には、文化4年(1804)からの宿帳33冊が残され、宿場の変遷を知る貴重な資料となっています。二川宿本陣の利用は小休、昼休が多く宿泊は25%ほどでした。休息では尾張・紀伊徳川家、宿泊では福岡藩黒田家が定宿としていました。また宿帳には鹿児島の島津家、萩の毛利家の名も見られます。他に公家や僧侶も利用しました。 本陣は間口17間(約32m)、敷地525坪、建坪181.5坪と宿場で一番広い建物でした。明治までの60年間に何度も改築を行い233坪に増床しました。幕末になるにつれ東海道の往来が増加し利用者もふえましたが、明治3年には本陣が廃止され、明治20年代に東海道本線が開業すると江戸時代の宿場機能は終焉を迎えます。馬場家は味噌・醤油の醸造業へと業態を変え、昭和60年には建物が豊橋市へ寄贈され、3年をかけて復元工事が行われました。 街道から離れ、奥の部屋になるほど格があがります。上段の間は大名が泊まる部屋で、まわりの部屋より一段高く、床の間・付書院・御簾が付けられていました。 ▲ 大名など上客が利用した浴室。 通り庭の西側は「勝手」と呼ばれ、馬場家の家族や使用人が居住しました。大名一行の宿泊や休憩は「先触れ」により知らされ、宿場や近隣の村に手伝いを頼み、大人数の宿泊をこなしました。土間の大きなクドが往時を物語ります。 三河國一之宮砥鹿(とが)神社。東三河の孤峰、本宮山をご神体としています。 「牛肉を素材とする料理については、本誌は今後一切、これを掲載致しません!」 本年4月末に発表された、アメリカのグルメ・ウェブ雑誌「エピキュリアス」(Epicurious)編集部によるこの「爆弾宣言」。これが全米で大きな反響を巻き起こしている。その影響は、同誌の読者を超えて、食に興味と関心のある多くの人々へ、更に他のネットメディアから、T V&ラジオのニュース番組や新聞・雑誌へと、幾重にもひだを重ねながら、今も大きく波紋を広げつつある。 なぜ、ヴェジタリアン雑誌でもないグルメ雑誌が「今後、牛肉の料理は一切掲載しない」と宣言することになったのか。今回の宣言発表は、この四半世紀ほどの間静かに進行してきた、アメリカでの食をめぐる大きな流れの変化を象徴する出来事なのだ。これまで地下で沸々と脈動してきたマグマが、ついに小爆発の形で、多くの人の目に触れる形で地表に姿を表し始めた。その象徴的な一例だと見ていい。なぜ、そう言えるのか。ここに至る歴史的な背景をご紹介してみたい。ただそれは、食の世界を遥かに越えて、現代社会の様々な脈絡へと通ずる、まだ地図がない迷路を行くがごとき旅路となりそうな予感がする。更に言えば、これは単なる「対岸の小さな火事」ではなく、まもなく我が日本列島、そこに暮らす私たちの日常にも大きな影響を及ぼす可能性が高い、新たな大きな波の到来を予告する出来事だと見て間違いなさそうだ。 ウェブマガジンとはいえ、グルメ雑誌「エピキュリアス」は、決してマイナーな存在ではない。その発行元が「ヴォーグ」「ニューヨーカー」「ヴァニティ・フェア」「G Q」「Wired」「ボナペティ」等々を発行している、アメリカを代表する高級雑誌出版社コンデ・ナスト社だからだ。アメリカ上流都市文化の潮流を、英語圏はもちろん、欧州や日本にも大きな影響を及ぼしながら、百年を越えてこれをリードし続けてきた出版社だ。この会社が発行する雑誌は 「ヴォーグ」に代表されるように、一見浮ついた時々の流行を追いかける「ファッション誌的軽さ」を売りにしながらも、その主張には、常に一本ビシッとした芯が通っている、そんな感じがある。 「ヴォーグ」についていえば、これは何も、その著名な編集長アナ・ウィンタースの力だけで成し遂げられたことではなく、むしろ、ニューヨークとパリの贅沢な都市文化の中で育った「ヴォーグ」という長い歴史のある雑誌の編集長という立場が「プラダを着た悪魔」を誕生させた、と見るべきではないのか。雑誌が常に文化的な個性と方向性を明確に打ち出す。これは同じコンデ・ナスト社が発行する「ニューヨーカー」「ヴァニティ・フェア」「Wired」3誌の記事を見れば、明らかだ。この3誌が昨今揃って政治的な旗幟を鮮明にしていることは、注目に値する。こうした出版社の個性を知れば、今回の「牛肉料理非掲載宣言」が、決して唐突に発表されたものではなく、熟慮の上で為された「新しい暮らしの哲学の表明」だと見て間違いないだろう。もちろん、コンデ・ナスト風に「これが、これからのトレンド!」という軽やかさを含みつつ。 では、大きな反響を呼んでいる「宣言」とは具体的に、どのようなものなのか。英文で約 6 5 0ワード。私なりに訳すと、次のような感じになる。 61 20 牛肉を料理素材として今後は使用しないこと。これは、料理を通じて再生維持可能な世界構築へと踏み出す第一歩です。地球上の温室効果ガス全量の%が、畜産により放出されています。その内の%が、牛の飼育によるものです。牛肉は重量単位で、豆類栽培に要するエネルギー消費の倍、鶏や豚を育てる場合の3倍を必要とします。従って、牛肉というたった一つの料理素 15材の使用を止めるだけで、私たちは日々の料理を通じて、地球環境の向上に大きく貢献することができるのです。「エピキュリアス」は本日ここに、「今後料理素材として牛肉を一切使用しない」ことを宣言致します。料理レシピ(作り方紹介)、一般記事、また、短信記事においても、一切これを取り扱いません。ホームページ上でも、また、インスタグラムにおいても同様と致します。 本宣言は決して、牛肉を食べる人々や、牛という動物そのものへの憎しみから発したものではありません。私たちは決して「ハンバーガー嫌い」などではありません。今回の決断はひとえに、再生維持可能な地球環境の保全、温室効果ガス発生の大きな源となっているものに対する新たな対処法を求める姿勢の一環なのです。私達の今回の決断は「反牛肉」ではなく、「地球保全」であると考えます。(もちろん問題は牛肉だけではありません。)羊や山羊を含むすべての反芻動物の飼育は、地球環境保持にとっては大きな負担となっています。また、養鶏、海洋での魚や貝やエビの養殖、大豆栽培等々についても、様々な問題が秘められています。食をめぐる生態系がこれほどまでに壊れかかっている今、私たちが選択すべき道に、完全な正解などありません。 それでもなお私たちは、家庭料理の世界で、少しでもより良い道を選んでいきたい。すでに1年以上前から私たち(エピキュリアス)が、誌面で牛肉関連記事の取り扱いを大きく減らしてきたことを読者の皆様はご存知のはず。牛肉素材のバーガーの代わりに野菜料理のレシピを掲載し、牛の挽き肉の代わりに、植物素 30 材の「肉」製品を記事にしてきました。昨年はバーベキューの季節である夏休みシーズンを前にして、お決まりだったステーキとソーセージの代わりに、カリフラワーとマッシュルームを全面に押し出してみました。その結果は、誌面へのアクセスと閲覧回数の増加で、明らか。牛肉に代わる素材の提示に対して、皆様が記事に飛びついて下さったのですから。 ではなぜ「今」改めて、本宣言を発表する決断に至ったのか。米国では、この 年間、牛肉の消費量は減り続けています。特のこの数年、この傾向は勢いを増しつつあります。「再生維持可能な環境に資する料理」、このことに関する議論は、より声高に語られる必要があると私たちは考えるからです。気候変動への対処には、立法府の力、国際社会の協調、そして大企業の参加を必要とします。それに対して、私達個人が日々の料理素材の選択として、本物の肉の代わりに、植物素材の肉を選択し、マッシュルームやひよこ豆を使用する。その程度の行動は、あまりにも小さなことで、それで地球環境に資するなんて言えない、と思っていませんか。しかし、あなたが食品売り場で、そしてレストランで、「牛肉は選ばない」という姿勢を明確に示すことは、これを提供する側に対しては、ひとつのメッセージを伝えることになります。また、「牛肉は食べない」という決断を周りの人々に語ることで、私たちはより影響力を広げることができるはずです。 本日ここに発表する宣言は、読者である「家庭で料理をする皆様」に対して、本誌が踏み出した新たな方向への第一歩について、大きな声で誇りを持って、お知らせ申し上げるものです。(以下一部省略)。弊誌の基本姿勢は従前と変わるものではありませんが、ただひとつ今回変化したところがあるとすればそれは、次のことです。「より良き社会を目指すためには、ふだん料理をするに当たって今後は、地球環境保持ということを念頭に置く必要がある」と強く信じるに至った、という点です。万が一にも私たちが、このことを忘れるようなことがあるとするならば、もはやこの地球に、未来はありません。以上。 お読みになって、皆様はいかが思われたでしょうか。ハンバーガーとビーフステーキの国であるアメリカ。国立カウボーイ博物館がある国アメリカ。そこで人気グルメ雑誌誌上で発表されたこの宣言が、どれほどのインパクトを持って迎えられたか、想像してみて頂きたい。また、一部の読者層や広告主を失うことをも顧みず、この宣言発表に至った編集部の決断の重さ。「牛肉の忌避」は、昨年の米国大統領選で論争のタネにもなっていて、今では無視できない社会的な問題となり始めている。一体なぜ、そこまで深刻な問題になり始めているのか。しばらくこの問題を追いかけてみたいと思います。         以下、次号に続く。 展示室では、江戸時代の旅の様子を紹介しています。武士の旅の服装は、羽織、大小の刀をさし、野袴といった重々しい姿ですが、持ち物は最小限でした。宿場町の入り口には石垣や木戸があり、夜間は防犯のため閉じられました。 本陣の隣には、一般の旅籠「清明屋」が公開されています。1800年頃に開業し、代々八郎兵衛を名乗ってきました。本陣の隣だったことから、家老など上級武士も宿泊しました。明治になると薬屋に転業しましたが、平成12年に倉橋家から豊橋市に寄贈され、図面をもとに3年をかけて江戸末期の間取りが復元されました。 東海道の両脇に、旅籠や商店が並びました。間口が狭く、奥行きの長いのが特徴で、建物の後ろには田畑が広がっていました。 ▲ 旅籠では、朝夕の食事が出ました。魚と煮物の一汁二菜。 一般の旅籠は、大広間を6〜8畳に襖で仕切り、個室として使いました。混雑時は広間に雑魚寝ということもあったようです。米を持参して自炊する木賃宿が大半でしたが、江戸時代になると食事を提供する旅籠が人気となり、飯盛女(晩酌や夜の相手をする)を置く旅籠もありました。二川宿では最盛期に40軒、幕末には30軒ほどが営業しました。 ▲長旅に合わせて作られた、コンパクトな日用品。 東海道五十三次の「次」とは、問屋場で荷物が「継ぎ立て」られることから来ています。荷物は宿場ごとに新しい馬に載せ替えられ、リレー方式で迅速に運ばれました。幕府が街道を整備した目的は荷物の円滑な輸送にあり、伝馬朱印状を持った公用荷物や人の輸送は無料で行いました。各宿場には馬100頭、人足100人を用意することが義務付けられ、問屋にとっては大きな負担でしたが、土地の税金が免除されたり、公定料金「御定賃銭」で荷物や人を運ぶことが許されました。 問屋場には沢山の荷物が行き交い、馬が足りない場合は近隣から集めました。40貫(150kg)の荷物を馬に乗せる本馬(ほんば)、一人と20貫(75kg)を積む乗掛けなどの運び方があり、距離に応じた料金が細かく決まっていました。 本陣から少し離れた商家「駒屋」は、江戸時代に二川宿で米穀商、質屋、問屋、名主などを営んだ田村家の屋敷でした。母屋、離れ、脇門、茶室、蔵が細長い敷地にならび、往時の商家の様子を伝えています。 田村家初代は元禄4年(1691)に遠州から医師として二川に転居。明和5年(1768)に商家として創業し、荷物を扱う問屋場を3代にわたりつとめました。米穀の売買や質屋も営み、幕末には7000両の財を保有する商家に成長しました。 田村家 9代目当主の善蔵苗政(みつまさ)(1830年〜1891年)は、幹皋(かんこう)と号し、 家業や公務の傍ら、書、遠州流生け花、崋椿系南画、売茶流煎茶、俳諧など、多くの教養を身に付けた文化人としても活躍しました。明治期に建設されたと考えられます。4畳半の茶室に3畳の水屋2間が付いています。 豊橋臨海部 三河湾に面した豊橋の臨海部には、日本最大級の自動車積出港「三河港」があり、独特の技術をもつ企業の工場が集積されています。 ▲ 豊橋は外国車の輸入港としても日本一の規模があります。 大葉の産地としても知られます。 ▲ 豊橋総合スポーツ公園のアクアリーナ豊橋。夏はプール、冬はスケートリンクになります。 NHK夕方6時台のニュースの後半で「ストップ詐 欺被害、私は騙されない 」というコーナーがあり、 詐欺の実例が紹介される。詐欺被害が毎日のように取りざたされるが、ここで紹介される実例はあの手この 手で、 代以降の高齢者が狙われている。何回かに分 け高額が引き落とされはじめて詐欺と気づき、ようやく家族に話すという。騙されてから気付くまで随分と時間がかかっている。う〜ん、なんでだろう。不思議に思うことしばしばである。 自分だけは大丈夫と思うのが危ないというが、最近フィッシングの類に引っかかり、心臓が止まるかと思うほど慌てふためいた。銀行や通販会社の名前で登録情報が確認できない。いついつまでに登録を変更しないと無効になる。と、明らかにおかしいと思うのは無 視しているが、たまたま、利用しようとした通販会社から、「アカウントを更新できない。ここからログインして情報を更新してください」とあり、何の気なしにクリックをしてしまった。どこまで入力したか定かではないが、途中で、なんかおかしいと気づき、慌てて通販会社に電話をかけた。だいたい通販でものを頼むというのは、何とはなしにパソコンを開いている時、思いつきで注文をすることが多く、夜も遅い時間帯になる。直接オペレータと話しをするとなると長い時間待たなくてはならない。 ようやくオペレータと繋がりとりあえず注文をキャンセルし、事情を話し登録情報を抹消してもらった。おそらくフィッシングだろうとのこと、登録を抹消し !! 70 ストップ、私は騙されない!!! たので今後当社からはメールを送ることはない。念のためログアウトするのがいいと教えられた。とりあえず注文は止めたが、クレジット引き落とし口座をストップしなければ。 カード会社に電話するも、時間外で盗難、紛失係しか直接話のできる窓口はない。心臓の鼓動が早くなる中、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせ、電話が繋がるのを待った。ようやくオペレーターと話はできたが、声は上ずっている。話している間にも口座が使われるのではないかと気が気ではない。事情を説明し、カードを即止めてもらう。ここまでやってようやく一息ついた。 直後に通販会社からメールが送られ、アカウントを更新するようにとある。明らかな偽メールである。普段あまり利用しない通販会社だったので、画面に慣れていなかったこともあったが、たまたま注文しようとした時に、アドレス変更が必要だったので、疑うことなくログインしてしまった。途中で、なんか変と気がついたもののどうしていいか、金縛りにあったように頭もフリーズ。こんな風に自分も騙されるのかと、なんともやりきれない思いだった。 その他、長い期間、カードから引き落としされていたものがあった。少額だったせいもありそのままにしていたが、カード会社切り替えで調べたら全く身に覚えのないものだった。あちこち電話をかけてようやく内容がわかり、契約書類を確認したら上手に刷り込まれていた。なんとも情けない。が、これは勉強代と思って諦めるしかない。 友人たちも今はほとんどスマホだが、契約は家族と一緒のようで、実はよくわかっていない。時々メールが拒否されることもある。便利になっても、隙間にたくさんの危険があることを知っておかなくてはならない。 冷静な時にはなんともないことでも、パニクってしまうとログアウト一つできなくなる恐ろしさを体験し、詐欺にあった人の不思議な行動も少し理解できた気がする。騙されたことを恥ずかしいと思う気持ちもよくわかる。しかし、口を閉ざすよりは、助けを求めた方がはるかに楽だということも実感した。 持つべきものは家族と友人。便利だが難しい時代を生き抜くためにもお互い大事にしなければと改めて思う。 二川駅に近い「のんほいパーク」は、動物園、植物園、博物館、遊園地をまとめた約40ヘクタールの広大な施設。入場料600円(大人)で楽しめる市民の憩いの場です。そのルーツは約100年前、安藤政次郎の私設動物園にありました。動物好きの安藤は、養豚場を営むかたわら、明治32年、豊橋駅前に「安藤動物園」を開園し、ライオン、トラ、クマ、オオカミ、ラクダ、ペリカンといった当時珍しい動物を市民に公開し、評判となりました。 約1000坪の植物園の大温室は常に15℃以上に保たれています。サボテンのへやにはリュウケツジュやサバクオモトなどの多肉植物が展示され、ドーム状の吹抜け空間には、モダマやパンノキ、ヤシなどの林立する熱帯雨林が再現されています。 滝の裏側を通る道があります。 「安藤動物園」は、明治45年、花田町に移転し50種類、250頭に拡大され、東海地方全域から客が訪れました。安藤の没後、豊橋市に寄贈されますが、太平洋戦争が激化すると動物は処分され豊橋大空襲によって動物園は壊滅しました。 モネが憧れた熱帯性の青いスイレンも咲いていました。戦後、吉田城址の豊橋公園で開かれた「豊橋産業文化大博覧会」をきっかけに、豊橋動物園が復活しサル、ライオン、ペンギン、インドゾウなどがやってきました。その後、現在地に移転し、遊園地、自然史博物館、植物園が整備され「のんほいパーク」としてリニューアルオープンしました。 ▲ 園内には炭焼小屋もあります。 クロード・モネの庭園を再現した「すいれんの庭」。モネのスイレンの子孫が栽培され、フランスから移植されたシダレヤナギなどが、豊橋みどりの協会の方々によって丁寧に管理されています。 ▲ 豊橋市自然史博物館。 自然史博物館設立のきっかけとなったのは、昭和57年、アメリカ・デンバー自然史博物館から譲渡を提案されたエドモントサウルス・アネクテンスの化石でした。非常に高価だったため市議会でも議論を呼びましたが、購入するのであれば自然史博物館を設立して教育に役立てようということになり、昭和63年にオープンしました。 ▲ 中央構造線の通る豊橋の地質を解説したコーナー。 中生代の展示室には、骨格標本(レプリカ)を中心に展示。標本の下を通り抜けて、様々な方向から骨格を見られます。教育を重視しているため、展示は子どもの目線にあわせて低めに展示されています。 飛ばれる側は、ため息まみれ。愚痴りたくもなる。 !! 朝から米軍ヘリの低空飛行で目を覚まされ、カチンとくる。しかも、その頻度は増す一方なのよ。なにごと?オリンピックを開催しようなんて言い出してる割には決して平和的行為じゃないわよね。まさかオリンピックにまつわる人流増加?かしらと思ってみたり。基地経由でどのような人脈が入国していらっしゃるのか私達には知る由もないんですから。つら〜と人権を無視した行動をとる日本政府と米国。都心上空で航空法も守らず、平然と実行する非常識な行為は許されない。マジ、迷惑。どなた様が号令かけているのやら。限られた一部の人によって無言の合意がなされてるだけだろう。ディテールの部分はまったく話し合われてなさそうだし、一方的な合意はいつも突然やってきてそのお鉢をこおむるのはいつも懸命に生き、自国を支える国民たちなのよ。もういいかげん、そーゆーのやめよう。この後に及んで、ノーコメントが通じるとでも思っているのかね。何でも後の祭り政府の尻ぬぐいと化す、チャンチャン。悪巧みしたいならひとこといってよ〜である。コロナ戦争とか例えられるけど母がよく話してくれました。戦時中の苦い体験を。女学校へ行っても飛行機工場で労働させられバケツリレーや竹槍訓練に駆り出されたこと。そして誰もがリュックを背負い、遠くまで買い出しに行ったのだと。花火大会のドン・ドドーンを聞けば、爆弾を思い出すから嫌だと言ってはばからなかった。人間性を無視した行為は人の心に影を落とす。その傷は消されることはない。若者にとっては尚さらである。生涯ついてまわるものなのだ。人と街の風景こそ、汚さず、キレイにすべきでしょ。謙虚に、本当の意味で命の重さに気づくべきと思う。このままでは、いくらワクチンを打ったとしても、どどのつまり、日本人の魂が病んでしまうよ。 その15 青山かすみ 東海道五十三次吉田宿。宿の飯盛女が旅人を誘う図。 吉田宿 豊橋はかつて、吉田と呼ばれていました。1590年、吉田城の城主となった池田輝政は、街の整備をすすめ東海道の付け替え、吉田大橋の移設など大規模な整備を行います。やがて池田家は徳川家康の命で姫路城へ移りますが、その跡を継いだ小笠原家は、宿場町、湊町として吉田を発展させました。 江戸時代、本陣近くの札木町に創業した御菓子司若松園 吉田に宿場が置かれたのは、1601年頃と考えられています。東海道は吉田城下を東西に走り、豊橋により豊川を渡ります。幕府は軍事上の理由から東海道の川に橋を掛けませんでしたが、豊橋は徳川の威厳を示す風景になります。橋の整備は幕府が直轄で行い、架替、修理は30回以上も行われ、東海道五十三次にも繰り返し描かれています。 現在の東海道。創業120年のうなぎ料理「丸よ」は、べっぴん(別品)語源発祥の店といわれます。 東海道周辺にはレトロな建物が残っています。 豊橋市美術博物館 豊橋公園(吉田城址)の一角に、豊橋の歴史、美術を展示する豊橋市美術博物館があります。 銀象嵌装円頭大刀柄頭(上)は、豊橋の豪族に大和朝廷から贈られた大刀の柄頭です。かつて豊橋沿岸には広大な干潟が広がり、その産物は大和朝廷からも注目されました。沿岸の首長には朝廷から華美な金銅製品が贈られています。 ▲ 川崎市で発見された「秋草文壺」(国宝)。 豊橋周辺は窯業の盛んな地で、朝廷への献上品や日用品としての須恵器、灰釉器が焼かれていました。一里山古窯郡では奈良時代に須恵器が量産され、8世紀には奈良三彩も作られました。植物の灰を使った釉薬が開発されると、10世紀中頃には二川の丘陵地帯にアナ窯が築かれ、1000℃以上の高温で焼いた陶器を量産しました。アナ窯は5世紀ころに朝鮮半島の渡来人から伝えられたと言われ、斜面を利用して窯を築く、現在の登り窯に似たつくりです。この地で焼かれた「秋草文壺」は国宝に指定されています。 ▲豊橋のハリストス正教会は改修工事中でした。 ドラゴンシリーズ 80 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 遠くに行きたければ遠回りしなさい 19 年の社会の変化が良い方向に向かう転換点になるかと期その国は持ちえない』という言葉を残している。 政権が悪いわけでは無く、日本の政治は今の日本国民に相応と言うことだ。これまでも、多分これからも日本人はどこかで誰かが苦しんでいても穏和に自分さえ良ければ、われ関せずであり続けるのかも知れない。 『国民が政府を嘲笑っている間は、その国の政府は嘲笑う程度の政治しか行わない』と言う言葉もその通り。自分は無関心でありながら、真面目に向き合う人間を嘲笑する日本人の姿は、政治が悪いと言うだけで、自分はそこには関わらない今の日本人の姿を表している。 世界で美化されている日本人像をそのまま鵜呑みにしている日本人は、自身に目を向けて今の日本をしっかりと見つめることが大事ではなかろうか。もうそろそろ日本の状況を、政治や政治家の責任にするのではなく自分のこととして一人一人がしっかりと考え、自分の意見を持ち言葉にする必要がありそうだ。でも市民である前に、一人のものを作る人であり何かを生み出す為のクラフツマンである。 最近の日本の現状を見ると、何だか随分と薄っぺらい世の中になってしまったと言わずにはいられない。特にこの 世紀にイギリスの学者は『その国民の程度の政府しか 待していたが、穏和な性格の日本人の弱体化してしまった精神の根っこを露呈したような状況になっているように感じている。自粛生活が続き、実態のある社会活動が困難になり、多くの国民である個人が困窮してるが、デジタル産業や自動車など大手メーカーや上場企業は軒並みに最高益を出している。、これは本来の価値を伴った姿なのだろうか。 金余りの社会の中で行き場の無くなった余剰資金が株価や土地、そしてデジタル新興に流れ込み一時期的な好況に見えているだけというのが真実である。何度も繰り返してきた金儲け至上主義の行く末は見えているから、そう長くは続かない状況であろう。いつの時代も経済的な視点だけが大きくクローズアップされた社会の在り方は、その歪みがいずれ必ず露呈する。日本からすっぽりとこれまで時間を掛けて受け継いできた大切な質が失われてしまい、同時にその失われたことさえも気づかな い日本になってしまったのではないだろうか。昨今の働き方改革と言う名の場当たり的な政策は、日本人がこれまで大切にしてきた調和の精神や年長者を大切にする社会的精神の柱を失ってしまった。日本は果たして、これからの社会をどこに向かわせようとしているのだろう。本来の日本は小さな物事の中に、凝縮した質を大切にしてきた国だったように思う。 遠くに行きたければ、できるだけ遠回りをしなさいと言われてきた。社会の厳しさや、そこで生まれる葛藤や苦悩は決して悪いものではない。若い時代のそんな苦い経験があってこそ、そこから得られる大切なものがあるではないか。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】