子ども達の創造力を羽ばたかせる
子ども本の森 中之島
大阪市北区中之島
建築家 安藤忠雄さんの呼びかけにより、民間の寄付で生まれた「子ども本の森 中之島」。約18000冊の本に囲まれた館内は、連日、親子連れで賑わいます(入場無料・事前予約制)。
マグリッドを思わせる青いリンゴ。スリット窓から堂島川の景色が見られます。
開館は2020年。木製の大階段を中心に、3階層の本棚が吹き抜けを通して俯瞰できます。バナナ型に曲がった平面にも、一覧性を高める効果があります、まさに本の森。本のジャンルは、自然とあそぼう、体を動かす、食べる、大阪→日本→世界、ものがたりと言葉、生きること/死ぬこと、といった、ゆるやかな12項目に分かれます、探したい本がある時は、スタッフに声を掛けると場所を教えてくれました。
階段の下やちょっとした隙間など、思い思いの場所を見つけて本を読む子どもたち。伸びやかな垂直性を強調した空間が、子ども達の素直な成長を願っているように感じました。
構想から40年、ついに開館した
大阪中之島美術館
1983年、佐伯祐三作品を中心とした山本發次郎コレクションの寄贈をきかっけにスタートした大阪市立美術館構想は、モディリアーニ「髪をほどいた横たわる裸婦」19億3000万円をはじめ、150億円に上る作品購入で話題を集めながら、建設費の不足などから計画を凍結されていました。2013年に建設計画が再スタートし、構想から40年たった2022年2月に開館しました。
2016年の建築設計競技で、遠藤克彦建築研究所が最優秀に選ばれました。中に入ると自由に通行できるパッサージュが広がり、市民の憩いの場になっています。2階から展示室のある4階へ上がる長いエレベーターが、作品世界へと来館者をいざなっていました。再整備が進む中之島で、集客のコアとして期待されます。
開館記念特別展として、2022年4月9日〜7月18日まで「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」がひらかれ、〈髪をほどいた横たわる裸婦〉が購入から33年の時をへて大阪に展示されました。この作品は山本發次郎氏の旧蔵品で、山本家から西武百貨店へわたり大阪市が購入しました。
Vol.39
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
あたしには「タマ」って名前がちゃんとある「ハカセの助手」って仕事まである
今だって
ハカセの仕事がはかどるように
しっかり見守ってるんだから
photo Jos. Luis Guti.rrez ©スペイン南部アンダルシア地方のリゾート地マラガは、パブロ・ピカソの生まれ故郷として知られるアートの街です。ここでアーティスト根岸文子さん、カルロス・ムニィスさん夫妻の企画した展覧会「TESOROS SOBRE SEDA,ENSONACIONES ORIENTALES/東洋の夢・絹の宝物」が開催されました(2022年7月5日〜9月4日)。
スペインマラガ市市立資料館ミンゴランセ展示室
「東洋の夢・絹の宝物」展
日本の着物を連想させる、T字形の黒い絹のキャンバスが用意され、30人のアーティストが思い思いの作品を描きました。上は根岸文子さんの作品。左からアントニオ・イェッサ、チャロ・カレラ、ノエリア・ロサダ、エルンスト・クラフト、カルロス・ムニィス、アントニオ・ラフエンテ、根岸文子(敬称略)
7月7日には、根岸文子さんとチャロ・カレラさんによるアクションペインティングが行われました。「かつてシルクロードによって、東洋と西洋の文化が出会ったとき、芸術に革命が起こりました。様々な文化背景をもつアーティストたちの出会いは、シルクロードの旅路を思わせます。東洋と西洋を結ぶ旅、芸術と絹。それがこの展覧会のテーマです」と根岸さんは語ります。
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ラファエル・カノガル作
photo Jos. Luis Guti.rrez ©
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カルロス・ムニィス作
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安藤輝弘作
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photo Jos. Luis Guti.rrez ©
Jos. Luis Guti.rrez ©
願はくは 花の下にて アントニオ・マチャードの春死なん その如月の 「四月のほほえみ」を描いた望月の頃作品。根岸文子作
photo Jos. Luis Guti.rrez ©
photo Jos. Luis Guti.rrez ©
西行の和歌を描いた作品根岸文子作
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スペインを代表する詩人
photo Jos. Luis Guti.rrez © photo Jos. Luis Guti.rrez ©
第2展示室には、詩人大河原淳行の短歌「指動かすただそれのみのことと言へ文字の向こうに生を知るべく」をテーマに、日本人女流作家とスペイン人女流作家がコラボレーションした作品や、カルロス・ムニィスさんによる「侘び寂び」をテーマにした作品も展示されました。
新大久保 大都会から日本文化を発信する
茶室「心ゝ庵」ものがたり
韓流ブームに沸く東京・新大久保駅から徒歩10分ほどの所に、武者小路千家教授佐藤ゆみさんの茶室「心ゝ庵(しんしんあん)」が完成しました。茶道や着付けなど、日本の文化を世界に発信する拠点として、様々な体験を提供しています。
5月末、宮大工の小松さんが「心ゝ庵」の施工を進めていました。場所は佐藤ゆみさんの自宅、新大久保・イケメン通りの路地を入った3階建ての1階です。小松さんは京都・南禅寺別荘群にある邸宅の茶室や社寺建築など、全国で様々な経験を積んできました。ヒノキ錆丸太や絞り丸太など伝統的な材料が持ち込まれ、茶室へのリノベーションが始まります。
玄関近くのこの部屋は、フローリングに白い壁紙を貼った普通の部屋でした。窓は掃き出し窓と腰高窓があり、奥行きのある押し入れが付いていました。設計を担当した椿建築デザイン研究所所長椿邦司さんは自らも茶道家であり「一想一碗」をテーマとして、伝統的な茶室、飲食店・ギャラリー内の茶室、マンション、住宅のリノベーション茶室をはじめ、組み立て式スーツケース茶室「ZEN.An禅庵」を開発し、海外で披露するなど茶の湯文化を世界に発信しています。
佐藤ゆみさんは、茶室工事の進捗をInstagramにアップ。床をあげた所や天井の一部を下げた所、水屋の流しが作られる所など、工事のポイントが日々更新されました。
完成した「心ゝ庵」は、以前からは想像できない茶室に生まれ変わりました。四畳半の京間は広く感じます。客の出入り口は半間幅で、左右になぐり加工の面皮柱と錆丸太を立て、框はヒノキです。茶室の出入り口には亭主が使う茶道口・給仕口と、客が使うにじり口・貴人口があり、心ゝ庵は茶道口と立ったまま出入りできる貴人口で構成されています。
奥行きのあった押入れは「水屋」にリノベーションされました。水屋は、茶碗や茶杓、茶筅、建水、お菓子などを整えるための準備室ともいえる場所です。茶碗などを洗う水栓や流し(水皿)が必要で、流しには竹の簀子を敷き、道具の水が素早く切れるようにします。水屋の幅は一間(約180cm)以上が理想ですが、建物の都合で半間幅(約90cm)となったため、上棚の上部に3段の通し棚を造りつけ、狭い空間をカバーしています。
亭主がお点前をする点前座の上は天井を一段低くし、客の座る上座と差をつけます。段差部分には竹をあしらい、照明を内蔵していました。点前座の畳の目はお点前の大切な基準になるので、部屋の内側に向いている畳の端が半目にならないよう、畳店に畳表の位置を調整してもらいます。
「心ゝ庵」の完成にあわせ、椿邦司さんや所員の方を招いた茶室披(びらき)が行われました。佐藤ゆみさんが薄茶を立て、もてなします。椿さんはこの茶室の設計について「元の間取りに従い、これしか無いという位置関係で設計を行いました。元々の構造や下地をできるだけ活かしながらコストを削減し、取ってつけたようなデザインにならないよう心がけました」と言います。施工は、オアシス巧房が担当しています。
▼襖の裏にコンセントを隠しています。限られたスペースに、色々な工夫が込められました。床の間は奥行きが浅いものの、幅を一間とることで掛け軸をかけたり、茶花を飾ったりの稽古が可能となりました。脇の襖を開けると姿見が表れます。壁は本聚楽(藁すさ入)の左官仕上げで、窓からの光をやわらかく拡散します。壁の曲面は元々の形を活かし、天井には布壁紙を貼っています。風炉の電熱器に使うコンセントは襖の裏に隠れるようにしています。
佐藤ゆみさんはご主人と子育てを続けながら、茶道教室や着付け教室をひらいています。(株)まるやまが運営する典雅きもの学院のサポートを受けることで、1回あたりワンコイン(500円)という気軽な価格で稽古を受けられるそうです。茶道体験は、浴衣などを着て茶道を楽しむことができ、Instagramなどによる情報発信で、新大久保を訪れる観光客にも認知されるようになってきました。佐藤さんは茶室工事中に茶道体験のスタッフを募集し、体験希望者を柔軟に受け入れる体制を整え、活動の幅をひろげています。
9月のある日、佐藤ゆみさんの師である武者小路千家正教授の有吉守聖宗匠が、出稽古のため「心ゝ庵」を訪れました。有吉宗匠は、肥後細川藩の上卿三家老の一家である有吉家の第22代当主で、幼い頃から茶道に親しみ2014年「両忘会」を設立。佐藤さんは有吉宗匠から10年以上にわたる指導を受けてきました。玄関脇の廊下を「待合」(客の待機場所)として、そこに莨盆(たばこぼん)が出されました。ここで記帳を行ってから白湯を頂き「迎え付け」(亭主が腰掛けの客を迎えること)を受け、茶室に入ります。床の間に立て掛けられた軸は、お祝として佐藤さんが有吉宗匠から拝受したものです。この日は「軸飾」(軸物を巻いたまま床の間に飾る)をして、宗匠への敬意を表しました。
床の間を拝見してから正客の席についた有吉守聖宗匠が声をかけると、佐藤さんが茶道口から入ります。今回の出稽古は、新しい茶室でどのように茶事を行うか、そのシミュレーションも兼ねていました。亭主の挨拶の後で、佐藤さんは有吉宗匠の軸を床の間に掛けます。掛け軸は大徳寺510世上田義山老師筆「笑而不答心自閑」で、「市中の閑居であるこの茶室でゆったり楽しみましょう」という意味を込められたそうです。都会の中の心ゝ庵にふさわしいお軸です。
次に「懐石」が供されます。はじめに折敷に載せた飯椀と汁椀、向付が差し出されました。懐石は禅宗の僧侶の食事をルーツにもち、濃茶を頂く前にお腹を整えるため一汁三菜の食事をとりながらお酒を交わします。今回の懐石は佐藤さんが師のために作った手料理で、夏と冬で汁の赤味噌、白味噌の配分を変えることや、口直しとなる「小吸物」の味付け、酒の肴「八寸」には海のもの、山のものを盛り付けることなど、師から弟子へ様々なことが伝えられていきます。
次に風炉の「炭点前」が指導されました。炭手前は炭を継ぐ所作を客の前で行う点前で、本物の炭を使い火を起こします。有吉宗匠は「佐藤さんは短期間の間によく道具を揃え、一通りの茶事を実行できるようになっていました。弟子が着実に成長していることをを実感し嬉しく思いました」と語ります。新大久保の「心ゝ庵」を起点として、伝統を引き継ぐ新しい世代の茶道が世界に発信されていきそうです。
心・体・思考の健康をデザインする
写真&文 大吉朋子6時間目
とっておきの休み時間
Summer Trip夏の旅
この夏は、数年ぶりに熊本に住む友人の山の家に滞在した。
アーティストであるご主人のアトリエであり、夏には素敵なイベントが行われる特別な場所でもある。
一般道から山の中へ細い車道を入り、約 1km上っていく。途中、野生のイノシシ親子もいるという、自然がそのまま残る場所。いくつもカーブする山道を上り、だんだん空が近づいてくると、地上から切り離されたように緑あふれる平な地面が広がる。そして、建物があるものの、外と中の仕切りがあるようなないような、不思議なアトリエと住まい、素敵すぎるプールが現れる。見渡す限り緑に囲まれ、独特な湿気を帯びた空気が満ちていて呼吸が楽に感じる。
この地域の水は水道ではなく地下水をくみ上げるそうで、蛇口をひねると山の地下からくみ上げる天然水をいただける。夏でもひんやりとしたお水を安心してごくごく飲める。ほんとうに最高の贅沢である。
山の家に滞在中は、仕事をしたり、ランニングをしたり、イベントの手伝いをしたり、日常と非日常が混在していた。山の上でもWi-Fiがあり、しばらくは人懐っこい猫に邪魔されていたけれど、パソコンがあればかわらず仕事ができる。ランニングは山を下るところからスタートし、帰路は最後の1kmとして山道を上る。初日は凹凸道にクタクタになったものの、だんだん体が慣れてきて、数日したらとても爽快だった。そして、イベントの手伝いでは、そこで広がる「もてなし」のきめ細やかさに発見がとても多かった。
イベントの楽しみのひとつに美味しい食事がある。手作り感あふれる素朴なものだけど、気の利いたセンスを感じる品々。そこにほんのひと手間をかけることで、とても心地良い気分を味わうことができる。私はそれらの準備のために、カトラリーのための葉、お水のボトルに巻くツタの葉、食事を彩る飾りの葉、テーブルに添えるグリーンとしての葉、など、さまざまに登場する「葉っぱ」を庭のあちこちから切り取ってくる。これが意外と簡単なようでいて、どきっとしたひと仕事だった。
「葉っぱ」といっても程よい大きさ、かたち、美しさ、それぞれの用途に応じて違う葉がいる。器との相性だったり、盛り付けとのバランスだったり。この葉っぱと向き合う時間がとても印象深く記憶に残っている。それは、思っている以上に自分の感覚が大雑把であることを感じた時間でもあり、その場にふさわしいものを丁寧に吟味しながらも大胆に自由に選んでいく潔さと柔軟さを知る、というのか。
人の目は見ているようで見ていない、と言うけれど本当だと実感した。自然とともにいるのならば、いつもの自分のレンズを変えないといけないんだ、と。あふれる緑の中にある美しい小さな葉っぱの姿は簡単に見過ごせてしまう。きっとこれはいつもの日常でも同じこと。それなりに意識しているつもりでも、自分の感覚は一定の何かに習慣化されているのだとあらためて気づかされた。
素敵と感じるものや美しいと感じるもの、人が気持ち良いと無意識に感じる部分には、想像以上に繊細なセンスが惜しみなく活かされているということに、作る側の人間として忘れてはいけないと、しみじみ思った。
自分のレンズのサイズを柔軟に変えること。現状に甘んじることなく、つねに新しい目をもって、精進せねばと思う夏の時間をいただいた。
2022年 9月は 6のエネルギーが流れます。
「6」は心の数字。自分の心を大切にしていますか?心はとても繊細なエネルギー。日々過ごしていたら色々な出来事がありますが、一番大切なのは自分の心。心の状態が健やかであること。少し疲れていると感じたら、心を癒す時間にしてください。心が健やかであれば、思考も体も、それなりに元気ですから。ぜひぜひ。
2022年10月は7のエネルギーが流れます。
「7」はオーラの数字。オーラは心臓から3 mほど発されるエネルギー。外界との境界線、コミュニケーションを表します。心に沸き上がった思いを言葉や音にして伝えていく時、同時に自分自身の内省を深める時間も大切にしたい時です。心に渦巻く様々なエネルギーを整理整頓するように、クローゼットの整理整頓もおすすめです。
【 9月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】
聡明で賢く、「一を聞いて十を知る」という言葉がぴったりな方たちだからこそ、徹底的に学び、その道を習得し、学び続けることが大切。学びをおろそかにすると、賢いが故の ”知ったかぶり ”となることを忘れずに。何事も執着せず、潔く手放す気持ちも大切です。
19 6 0年代を代表する芸術運動
「塩見允枝子 + フルクサス」展
塩見允枝子連作〈星座を観るための窓〉 201910点セット
1960年代、リトアニア系アメリカ人ジョージ・マチューナスが主導した世界的芸術運動「Fluxus(フルクサス)」。そのメンバーとして現在も活動を続ける塩見允枝子(しおみみえこ)さんの展覧会が、ギャラリーときの忘れもの(文京区・駒込)で開催されました(2022年9月2日〜17日)。東京藝術大学楽理科在学中から、即興演奏やテープ音楽の制作を行っていた塩見允枝子さんは、ナム・ジュン・パイクとの出会いをきっかけに、1964年マチューナスの招きをうけフルクサスの活動拠点であるニューヨーク・カナルストリートのロフトを訪ねました。
の間の幻影=プロコフィエフなど)と本物のスパイス20種(アニスシード、バジル、中国山椒、フェンネル、ホースラディッシュ、ラヴェンダー、月桂樹、ローズマリー、セージ、タピオカ、ナツメッグ、ターメリックなど)がそれぞれ2個ずつ、計70のカプセルに詰められています。
を演奏するよ」と言って、水を一気に飲み干した .ゃあ僕は2
塩見さんはマチューナスへのお土産として、日本の水道水を小瓶に詰めた作品〈 Water Music 〉を、その説明書き「1.水に静止した形を与える。2.水にその静止した形を失わせる。」とともに渡しました。するとマチューナスは「じ
そうです。フルクサスには美術、音楽、詩、舞踏などのジャンルを超えた、ナム・ジュン・パイク、ヨーゼフ・ボイス、オノ・ヨーコ、久保田成子、靉嘔、一柳慧、ジョナス・メカスなど様々な国のメンバーが参加し、はっきりとした主義主張にしばられない、ゆるやかな連携で結ばれていました。
塩見允枝子〈Water Music 水の音楽〉(白ラベル)1964/2019これは近年に制作されたもの。
会場にはマチューナスがフルクサスをPRするため、自費で発行した貴重なフルクサス新聞も展示されました(下写真)。フルクサス新聞の「デザインの独特の魅力が、フルクサスを今日まで生き残らせた要因の一つにもなっているのではないか」と塩見さん。マチューナスは「彼が信奉していた境界のないアート、ジャンルの壁もなく、専門家と素人の区別もなく、皆が日常の中で楽しめるアートを普及させたいという夢のために、生涯を捧げたのです。」と言います。塩見さんはニューヨークで作品制作を手伝いながら、様々な作家と交流します。1965年からは自分自身の活動として「スペイシャル・ポエム」を開始しました。
▲塩見允枝子〈エンドレス・ボックス〉1963/2011木箱サイズ:16.0×16.0×9.0cm 塩見さんを代表する作品で、視覚的なディミヌエンド(音の減衰)をテーマに制作されました。1963年、マチューナスへ送られて以来、30個余りが作られています。
塩見允枝子〈グラッパ・フルクサスTwelve Embryos of 塩見允枝子〈グラッパ・フルクサス A Musical EmbryoMusic 12の音楽の胎児〉 1995音楽的な胎児〉1995
「塩見允枝子+フルクサス」図録特装版。
展覧会に合わせて「塩見允枝子+フルクサス」図録(限定365部)が刊行されました。特装版(限定35部)は、「塩見允枝子+フルクサス」図録と、1990年作曲の「マチューナスへの鎮魂曲」オリジナル・カセットテープ、塩見さんの同曲自筆譜コピー、サイン入りはがきが金属製アタッシェケースに収納されたデラックスな内容です(税込 27,500円)。
PL
サンフランシスコの隣町オークランドにある、カリフォルニア大
学バークレー校のキャンパス。そこから十数キロ南に下ったところに、1万平米弱の菜園がある。そこには、希少種を含めて様々な植物の種苗を収集して栽培する施設と、再生維持可能なエコロジカルな農法での園芸を目指す菜園とが併設されている。その運営主体は、プランティング・ジャスティス(Planting Justice)(以下、 PL)という名称の N P O法人で、日本語なら『 N P O正義平等植栽』とでも言う感じだろうか。この P Lの活動が大変に興味深いものなのでご紹介してみたい。
■食の正義平等運動
は2009年の創立からわずか
年で、サンフランシスコ
を中心とするベイ・エリア(湾岸地域)を中心に、食用植物を育てる菜園を550カ所も運営するに至っている。一方、同地域の高等
学校5校と共同で「食の正義平等」(Food Justice)に関する授業カリキュラムを作り上げ、様々な講座を実施している。ではこの背景にある「食の正義平等運動」とは一体、何か。それは一言で言えば、「農業と農産物加工にまつわる様々な現場労働における、人種差別と低賃金と劣悪な生活環境に代表される社会的な不平等。これにより生じる食の不平等を解消しようという運動」ということになる。この運動がカリフォルニアで大きな盛り上がりを見せているのには、歴史的な背景がある、と考えてよさそうだ。
カリフォルニアの大規模農園は、すでに百年以上前から、特に収穫時に必要とされる多数の季節労働者たちによって支えられてきた。古くは欧州諸地域からの移民、中国や日本からの移民労働者、中南部の綿花農園やサトウキビ農園等から移ってきた黒人労働者、そして1930年代には、乾燥化と砂嵐で壊滅的な打撃を受けたオクラホマに代表される中西部から逃れてきた困窮化した人々。彼ら
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PLのコミュニティ農園。多品種の野菜を育てている。
コミュニティ農園の参加者たち。高等学校の菜園。
PL
の窮状はジョン・スタインベックの不朽の作品『怒りの葡萄』に鮮明に描かれている。さらに近年大問題となっている、メキシコをはじめとする中南米からの不法移民たち。いずれも、大規模農園で劣悪な施設内に滞在しながら、収穫作業を行なってきた。
やがてこれら貧しき労働者たちの中から、地域に定住し、そこでなんとか生活を確立していく人々が出始める。こうした地域は、なし崩し的に街が形成されていくため、また、不法移民も少なくないため、地域自治体の公共サービスや地域整備が行き届かない場所がほとんどとなっている。もちろん現在は、農業だけではなく、工場や倉庫、サービス産業の下働きや、家事労働などの現場労働者として働く人々がこうした街の住人の中心となっている。しかし、いずれも賃金の安さから、圧倒的に価格の安いファストフードで3食済ませる家庭も多いとのことで、当然これは、肥満とこれを原因とする疾病の原因となっている。こうした地域には、満足なスーパーひとつなく、新鮮な野菜や生鮮食品を入手が難しいところが大半であることも、不健康な食生活を生み出す一因となっている。
本部の1万平米弱の菜園は、
オークランド市内でも、こうした貧しき人々(主体は黒人とメキシカンなど中南米系)が住む街のはずれに位置している。そしてこの場所が重要な意味を持っている。というのも、 PLの菜園では育てた収穫物を施設内で販売しているからだ。満足なスーパーひとつなかった荒れた街に、産地直送どころか農家の直売所が誕生したわけで、地域住民に
第1回華 第2回欧州食文化に影響を及ぼしたオランダの役割早稲田大学エクステンションセンター中野校 第3回 19世紀パリの混沌と創造力溢れ 第4回「食の禁忌」の背後に秘められた歴史 第5回古代ギリシア壺に描かれた食文化古代ギリシアからレストラン誕生までの道すじ麗なるイタリア・ルネサンスの宮廷宴席と役者たちる食世界
水曜日 10:10月19日〜11月16日詳しくは左下のリンクへ 30〜12:00計5回
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とっては、干からびた大地に生まれた井戸のような存在となっている。 PLは、農作物の販売だけではなく、地域の住民向けに、食生活の向上に向けた様々な啓蒙活動も行なっている。 P Lの活動は、一定の政治性を持つ「農業と食に基盤を置いた社会改革運動」だと考えて間違いないだろう。隣にサンフランシスコ、また一方にシリコンヴァレー。世界でも有数の資本と頭脳の集積する地域の隣に、まるでエアポケットのように、 P Lの菜園と、貧しき人々が住む地域が存在している。徹底した自由競争が生み出す、世界有数の豊かさと、その影。その光と影。その天地ほどもある暮らしの差を何とかしたい。そう考えた人々が立ち上がって、この P Lという団体が誕生したに違いない。
■刑務所出所者の救済
そしてこの「弱者救済」という流れから生まれたのが、「服役後の出所者たちの
救済」だ。刑期を終えて刑務所から出所してきた人々を、これまでに人、菜園で
働く労働者として雇い入れるに至っている。その中に、歳で刑務所に入り、年
間の刑期を終えて出所し、出所後すぐに P Lの菜園で受け入れてもらったという
女性がいる。今では結婚して子供も産まれ、菜園で働きながら暮らしている。米国
だろうと日本だろうと、出所した人々の社会復帰には困難が多い。それが P Lの
菜園では、出所後、菜園で作物を育てることで社会復帰を果たしていくことを可能
にしている。農作物の生育を見守りながら、その世話をして育てる。日々、地味で
地道な仕事の連続。しかし、これが、人生再生の気持ちを育むことに直結している。「自分自身の中にある悪いものを捨て去って、新たな自分を育てる。作物を育てるのは、新しい自分自身を育てることだと思っています」と、この女性は語っている。
ところで冒頭触れたように、この P Lには「希少種を含めて様々な植物の種苗を収集して栽培する施設」が置かれている。この施設は基本的に「種苗の自由を農民の手に」という考え方のもとに運営されている。種籾や苗を大種苗会社から購入しなくてもいいようにすることを最終目的とする施設だと言っていい。話が長くなるので説明は省かせて頂くが、その背景には、我が国を含めて今後の農業のあり方の根本に触れる重要な問題点が横たわっている。
■先住民の土地
この P L本部菜園のある場所(土地)には、もうひとつ、重要な歴史が秘められている。それは、この地域一帯がサンフランシスコを含めて、先住民族であるオーローン( Ohlone)族の支配する土地であったということ。そのため、土地の管理
権だけでもオーローン族の子孫の手に取り戻そうという社会運動があり、 PL本部菜園のある土地一帯が、カリフォルニア州で最初に「土地の管理権」が移管されることがほぼ確実になりつつある地域であるという。この先住民オーローン族もまた、米国社会の周縁に生きる「弱者」の一員であることに違いはない。 PLはこのオーローンたちの運動とも協働している。
ここまで見てくると、この NPO法人の名称が「プランティング・ジャスティス」
(Planting Justice)すなわち『
N P O正義平等植栽』である
理由に納得がいく。米国の社会システムの中から弾き出されてしまった人々が、自分達自身の
力で、農と食を通じて自立し独立して社会参画できる手助けをしよう。そのタネを蒔いて苗を育てる植栽活動を続けて行こう、ということなのだ。最後に、この P Lのホームページに掲げられた、団体の基本的な行動宣言をご紹介しておきたい。大きく「食の主権」・
「地域コミュニティ再生」3つの項目が掲げられている。その中で最初に掲げられ
ている「食の主権」には、次のような細目が述べられている。
私たちは現代の高度に工業化された食のシステムの中に構造的に埋め込まれた不平等があることを訴えたい。例えば、食のシステムの現場労働者(特に農場と家事労働の場で働く正規登録なき労働者)が構造的に(低賃金で)搾取されていること。特に非白人の低所所得者層が多く住む地域には、栄養価のある生鮮食品が入手できる場所(店)が存在しないこと。私たちの社会は、パッケージ化された加工食品に過度に依存するに至ってしまったが、それが私たちの肉体と環境に悪影響を及ぼしていること。私たちは、こうした状況を打開するため、現在までにベイエリア全体で550箇所に至る自主運営菜園を作り上げ、これを通じて、自分の食を自分自身で賄うという力を多くの人々に与え続けている。こうした都市菜園と、その運営のための訓練センターを開設し続けていくことで、今後劇的に私たちのめざす地平を広げ、同時にその規模もより大きなものになるものと確信している。
世紀に誕生したこの N P O法人の活動が、今後どのような展開を見せるのか、注目していきたい。
PLのコミュニティ農園。
PL本部ガーデン。
・「経済的正義」
林愛作と遠藤新が描いた夢の迎賓館
甲子園ホテル(武庫川女子大学 甲子園会館)
かつて「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」といわれ、日本を代表する高級ホテルとして昭和5年(1930)に開業した「甲子園ホテル」。今は武庫川女子大学甲子園会館となり、建築を学ぶ学生のキャンパスとして活用されています。大阪と神戸の間、兵庫県南東部を流れる武庫川の河口域は、枝川、申川という支流に分かれ水害の多い場所でした。そこで兵庫県は2つの支流を埋め立てる河川改修工事をすすめ、埋め立て地を阪神電鉄に売却することで費用を賄いました。阪神電鉄はこの地域を、阪神間のリゾート・住宅地にしようと考えます。大正から昭和初期にかけて関西の鉄道各社は、レジャー施設と宅地による沿線開発を盛んに進めていました。大正13年(1924)、枝川と申川の分岐点に甲子園球場を開場。競馬場、テニスコート、ゴルフ場、海水浴場、動物園、水族館が続々と作られ、その一環としてホテルの建築が計画されます。
ホテルの企画には、帝国ホテルの元支配人林愛作が参加しました。林は帝国ホテル建て替えの際、設計をフランク・ロイド・ライトに依頼した人物で、ニューヨークの東洋美術店で働いた経験から西洋の社交界やホテルに精通していました。林は設計のパートナーとして、遠藤新を指名します。遠藤はライトの右腕として帝国ホテル建設の難工事を乗り越え、林も遠藤の才能に信頼を寄せていました。また大正13年には、ライトが設計した芦屋の旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)を完成させています。この時期、30歳過ぎの遠藤は「ライト式建築」と呼ばれる邸宅を次々と設計しました。甲子園ホテルにも帝国ホテルを思わせる神殿風のモチーフが随所に見られます。池の向こうに建物が見えるさまは、アンコールワットを思わせます。
建物は鉄筋コンクリート4階建てで、外装はタイルや日華石のレリーフで覆われています。中央の玄関を入ると廊下や広いロビーがあり、宴会場や食堂、客室は東西のウィングに集約されていました。シンボリックな左右の塔は煙突の役割を果たしました。
1階平面図
遠藤新は甲子園ホテルについて「私は林さんの甲子園ホテルを設計したというだけ」という言葉を残しています。その一方、複雑で多様な造形には、師であるライトへのメッセージを感じます。甲子園ホテルの建設期間はわずか11カ月で、遠藤は幾何学形のタイルや日華石を彫刻したレリーフなどをモデュール化して量産。それを組み合わせることで複雑な造形を短期間で作り上げることに成功しました。遠藤は甲子園ホテルの完成を感謝とともにライトに報告し、設計の労をねぎらい出来栄えを褒めるライトからの返事をもらっています。
林愛作が求めたのは「パーソナルタッチ」を大切にしたホテルでした。友人に招かれたようなもてなしは日本の旅館が得意とするところですが、設備や食事の多様性は近代ホテルが勝ります。そこで林は客室を70室ほどに抑え、旅館のもてなしとホテル的設備の融合をめざしました。画期的なのは、日本ではじめてホテルの客室に和室スペースを設けたことです。洗い場のある浴室も備え日本人の好みに合わせました。遠藤の発案で、東西の各ウイングは中央にエレベーター、階段、煙突を集中し、それを中心に「和室8畳+洋間10畳+浴室」の客室と、洋間タイプの客室を配置しました。このプランの長所として、客室の前を2室以上通らずに自分の部屋へ行けることがあります。長い廊下に部屋が並んだホテルでは、パーソナルタッチは得られないと考えたのです。各フロアの茶室のようなスペースにはスタッフが待機し、部屋から呼ぶとすぐに駆けつけました。帝国ホテルとの共通点が多い甲子園ホテルですが、プランの骨格は独自のものといえます。林愛作が雑誌に寄稿した理想の客室の条件には「間取りは8畳の洋間と8畳の和室、浴室は4畳。カウチ(ソファ)兼用ベッドを設け、引き出しに毛布を収納。水屋に電熱器、茶器具を備え客が自由に茶を入れる。和室の段差を利用して引き出しにする。ヒノキのバスタブに洗い場を設け、便器は水洗。和室の床の間は置床にして客の荷物入れにする。」などがあげられ、現在のリゾートホテルとも共通する、林の先見性が伺えます。1階ヴェランダには、日華石を彫った雨だれのモチーフが見えます。
敷地の傾斜に従って半地下になった小階段。水盤に水をたたえた噴水には打ち出の小槌を連ねたレリーフが入っています。ちなみに甲子園の「甲子」とは、十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年(きのえねとし)にちなんだものです。甲子園ホテルにも子(ねずみ)と縁の深い大黒天を象徴する「打ち出の小槌」が繰り返し使われ、ホテルのマークにもなっています。
ロビーからはヴェランダに出られます。
昭和5年の開業後、甲子園ホテルは関西初の高級リゾートホテルとして話題になり、皇族や海外の王族をはじめ映画スター、文人、芸術家、スポーツ選手の社交場として賑わいました。また関西におけるホテルウェディングのさきがけとなっています。しかし徐々に戦況が悪化し、開業14年ほどで海軍病院に転用されます。戦後はホテル再開を目指したものの、進駐軍の将校宿舎として接収されました。返還後は大蔵省の管轄となり、昭和40年(1965)武庫川学院創始者・公江喜市郎氏の働きにより大蔵省から武庫川学院が払い下げを受け、現在の甲子園会館となりました。
「自妙庵」は茶室建築を学ぶ教材でもあります。
平成2年には、茶室「自妙庵(じみょうあん)」が建てられ、建物の改修・補強と共に池泉回遊式庭園が整備されました。平成18年(2006)には、甲子園会館を生きた教材とする建築学科(大学)、建築学専攻(大学院)が開設され、令和2年(2020)、建築学部(建築学科・景観建築学科)、大学院建築学研究科(建築学専攻・景観建築学専攻)に改編されました。甲子園会館で学んだ多くの卒業生が、大手設計会社やゼネコンに就職しているそうです。
東西のウィングをつなぐ長い廊下には、日華石の柱と照明が連なっています。日華石は石川県小松市の観音下(かながそ)から産出され、耐火性が高く加工しやすいのが特徴で国会議事堂にも使われています。また京都の「泰山タイル」が多用され、建物に彩りを与えています。
第
8月
回
31
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内田 和子
つれづれなるままに
年目の復興をみる
日から9月2日まで、日本建築家協会
日本大震災復興ツアー「繋ぐ」』に参加した。昨年
に計画されたものだが、コロナで延期となっていた。今年もまだ増加傾向にあり実施が危ぶまれたが、 PCR検査、バスの座席は1人がけ、検温を徹底するなどして決行された。
【1日目】
時仙台駅集合、受付で重たい袋を渡され、バス3台に分乗。
場違いのツアー参加の戸惑いもあったが、震災後何度か訪れた場所の復興状況を、どうしてもこの目で見ておきたかった。
袋の中身は、このていた。
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年の
J I Aの活動の報告書が何冊も入っ
震災の年の5月2日東北新幹線開通を待って仙台まで来た。ブルーシートに覆われた屋根を背に、確保した宿まで歩いた。何も計画はなかったが、東京でじっとしていることなどでき
なかった。あれから
年。仙台駅は何事もなかったように賑
わっていた。視察バスは、一路岩手県陸前高田へと向かい、徐々に南下して宮城県南三陸、石巻、そして福島県第一原子力発電所を視察するようになっている。陸前高田は、津波で壊滅となった場所。震災2年目に地元の方の案内でここを訪れた時は、ブルドーザーが行き交うだけ、どんなところだったかは全く想像できなかった。駄々広い土埃の中、遠くに 1本松を見つけた時は本当に奇跡の 1本松だと思った。車の中から何度も振り返り、また来ることを誓ったことを思い出す。今は、防潮堤の向こうに海が見え、土手には松の苗木が植え
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陸前高田の一本松と名前が刻まれた石碑。
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J I A主催の『東 ()
年目を機
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られている。年後には、大きくなった松林を通して海が見られるのだろう。一帯は、復興記念公園となって、震災伝承館が建つ。かさ上げされた高台には、みんなの家も移築され交流施設や商業施設がある。が、まだまだ日常のコミニュティは存在していないようにみえる。陸前高田で亡くなった犠牲者の名前が刻まれた石碑を見て、 1本松に続く海まで人々の生活があったこと、津波が全てを飲み込んでしまったことを初めて身で感じた。失われたコミニティは容易には復活しないが、一生懸命に日常を取り戻そうと多くの人が懸命に生きている姿をここで見た。山を切り崩して建てられた高台地区には、新しい家が建ち、小学校も建設されている。夕方近く
60
だったが、グランドには野球部員が練習をしていた。私たちがバスから降りると、大きな声で帽子を取って挨拶する。一学年1クラス、総勢名弱の少人数だが、職員室には扉がなくオープンになっている。木材がふんだんに使われ、音楽室や理科室なども充実していて、地域の伝統にもなっている太鼓の練習場も専用にある。羨ましいほどの学校だが、震災復興はこれから未来に向かう子供達が生き生きとしていくことでもある。日が落ちたグランドでは元気な声が飛んでいた。
この日はここまで。宿も分散だが、夕食は一箇所に集まり、初めて参加者一同が顔を合わせた。主催者から挨拶があった後、マイクは各テーブルにも回ってきた。全国から
JIAメンバーが参加していたのには驚
いた。沖縄、九州、静岡と東北からは遠いが、建築家として現地に入り、被災者の方々と接してきたとのこと。それぞれに思いはおありだろう、もっとお話をお聞きしたかった。
【 2日目】8時半出発。南三陸町へ。震災間もなく知り合いの方を訪ねて、志津川まで来たことがある。駅前でコインランドリー店を営んでいたが、小銭がここに散らばっていたと案内してくれた。まだビルの上に自動車が乗ったままだった。自宅は山の中腹にあったが、津波はここまできて、入り口が反転してしまったという家の中も見せてくれた。むき出しになった風呂場や台所、築300年という古民家の大きな柱がゆがんでいた。
一帯がかさ上げされた志津川地区。元々の地盤に建つ旧防災対策庁舎が低く見える。
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志津川は山々に囲まれ海が広がる美しい街だったそうだ。多くの方が亡くなった防災対策庁舎は、何度もニュースになった。震災後に慰霊に訪
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れる人も多く、私も何度か来た。その度にかさ上げが高くなり、この先どのようになっていくのか、想像できなかったが、年の月日は確かにここにある。広場からみる景色に志津川駅はなく、目を凝らしてようやく線路があったらしいことがわかる。防災対策庁舎はあと年、ここにあるという。それ以降、震災遺構として残すかは検討される。
南三陸さんさん商店街で昼食をとったあと、高台移転して作られた北上町の住宅地域を見学、すでに地域の人々の暮らしがあるが、残念ながら人々に出会うことはなかった。このあと予定にはなかった大川小学校へと向う。ここも何度もきたが、その都度胸が締め付けられ、言葉がない。手向けられた花に手を合わせ、裏山を見上げることしかできない。
名中名の児童がなくなった。震災間なしは校舎の中へ入ることがで
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きなかったが、今は震災遺構として中を見ることができる。開放的ないい校舎である。ベランダから中庭がみえ、子供達は広々とした景色と美味しい空気をいっぱいに吸って元気に駆け回っていただろう。この大川小学校
震災遺構として公開されている大川小学校。
の震災遺構には今でも賛否はあるそうだが、この場所に立つと、ここで亡くなった子供達だけでなく、震災で亡くなった方々への鎮魂の想いも自然と湧いてくる。命の尊さ、震災の教訓を改めて考える場所にもなっているような気がする。
この後、門脇小学校を見学。海が目の前に広がり、「がんばろう!石巻」の看板が立てられた。ここ一帯も津波で壊滅、石巻駅に続く細い路地にはたくさんの漂流物が流れていた。日和山に登り眼下に街を見た。カーテンが揺れる家々は随分長いことそのままだった。門脇小学校は3日間燃え続けススで真っ黒になっていた。が、生徒は裏山の日和山に避難してここでの犠牲者は一人もいなかったとのこと。門脇小学校は展示施設としてリノベーションされ、焼け焦げた教室内部を見ることができる。ここ一帯の地域模型もあり、震災時、子供達が必死で日和山まで駆け上っただろう裏山の道を知ることができた。高層の復興支援住宅が海に向かって建っていた。
(つづく)
平成2年改修工事のおかげもあり、阪神・淡路大震災(平成7年)に耐えた甲子園会館でしたが、外装の大規模修繕が2030年の竣工100周年を目処にすすんでいます。雨漏りを防ぐため屋根瓦は初めての全面葺替が行われ、緑色の瓦を取り外して綺麗にし、オリジナルと新調した瓦を交互に並べて自然に見せています。「打ち出の小槌」を型どった隅棟瓦や軒瓦、棟飾りなどを組み合わせた複雑な構成のため、地上で一度仮組みをして確かめていました。ステンレス金物を瓦にとりつけ隣の瓦と連結することで、より地震や風害に強くしているそうです。この稀有な建物が美しい状態で保たれているのは、武庫川学院の継続的な活用とメンテナンスあってこそといえるでしょう。
西ウィングの大宴会場。デコラティブな装飾が施され、天井には和紙を貼った行灯照明が設けられています。帝国ホテルとも異なる、遠藤新の独創性を感じさせる内装デザインです。
ライトは甲子園ホテルを評価する一方、帝国ホテルにおける自らの「やりすぎ」が、甲子園ホテルにも見られると指摘したようです。遠藤はそれを重く受け止めたのか、甲子園ホテル以降の作品には、このような大規模な装飾は見られません。
林愛作は宴会や結婚式といったバンケットが、ホテル経営の主軸になると見込んでいました。東西ウィングをつなぐ広大な調理場を設け、経験豊富なフランス料理人鹿中英助を料理長にむかえ、帝国ホテルOBを東京から招聘します。神戸のロシア人パン職人を呼んでホテルベーカリーをひらいたり、チョコレートなど洋菓子にも力を入れて、ビーフシチューやスキヤキなどの名物料理を生み出しました。40〜50人が働いた調理場は地下にありながら、生け垣の裏に設けられた窓から光や風が入り、スタッフを大切にした姿勢を伺えます。現在は、陶芸・水彩画・デッサン・モザイク画・生け花・瓦製作・透視図など基礎造形を学ぶアトリエとして利用されています。
黒い階段を上がると、厨房から直接「宴会場」や「食堂」に出られます。地下にはセントラルボイラーがあり、客室に温風を送っていました。
屋上展望台(ルーフテラス)に出ると、その開放感に思わず声がでます。煙突や設備を上手に隠し、緻密な設計と現場の職人技で快適な屋上空間を作り上げています。名物の関西風スキヤキは、4階の和室や屋形船で楽しむことが多かったようです。
3階平面図屋上展望台から、庭園と武庫川の景色を望めます。庭園のマツやナナカマドは、ホテル開業当初からのものといわれます。
キャンパスの一画に建つ新校舎「景観建築スタジオ東館」(2020)。甲子園会館と呼応したデザインで、学生がタイルを作ったり、施工に参加したりと、実習を行いながら建設されました。
その30
青山かすみ
森英恵さんと三宅一生さん。盛夏も過ぎた頃、ファッション界の大御所お二人の訃報が続きました。青山という地域に縁のあるものにとって、このニュースはことのほか大きな喪失感と時代の節目の到来を自覚させられる出来事となりました。海外で活躍されたファッションデザイナーの草分け的存在です。日本人として誇ることのできるものづくりを研究しつづけた本物の仕事人、プロフェッショナルでした。
人間的にも別格と申しましょうか、あんな風になりたい、誰もが一度は憧れた人物ではなかったかと思います。登りつめ、テッペンのところにいらっしゃった分、ご苦労も生半可ではなかったはずですが。…… 後輩たちの未来を見守り、お導きいただければと願ってやみません。そして残された者たちは、素敵な先輩たちに少しでも近づけるよう頑張らなければと思うのでした。
また海外に目を向ければ、イギリスの首相が女性に返り咲いたと思った途端、世代交代は止むことなく、英国の君主・エリザベス女王にまで及び、英国民衆を筆頭に世界中がざわつき出したのです。コロナ禍をくぐり抜け、クィーンは在位 70年を無事迎えられ、見事な人生を全うされました。”国民の誇りとする”に値する生き様そのものといえるからでしょう。
目まぐるしく様々なニュースが錯綜する初秋ながら、鈴虫の合唱はいつになく心地よく響きわたり、中秋の名月も優美な微笑みをたたえてくれたかのように見えましたが、季節は急ぎ足で秋本番へ動き始めています。秋の夜長とはよく言ったもので、夕暮れの早まり感があっという間の出来事って感じで、夕刻6時頃にはもう暗い空。
上空を飛ぶパイロットたちにとっては、また危険この上ない季節に入ったと言えるかも …… いまだ国民やパイロットに苦悩を与え続けてるのはどこのどなた?
人間として最低レベルの人たちだよね。こういう人が戦争を引き起こす人たちなんでしょうね。地球の未来を担う若者と子どもたちには武器や兵器を作ったりせずに済む世界を築いていただきたいです。&つい最近のこと。二日間に渡り横田基地から六本木のヘリポート間を航空兵器が訓練してたと巷でウワサになっています。やってましたよ、すご〜い爆音でしたから !!!たまたま南風じゃなかったから旅客機は飛んでませんでしたけど …… こんなことしてたら、いつのまにやら戦場と化してしまいますよ〜まじで !!!
日本料理を進化させた 湯木貞一の美意識湯木美術館(大阪市中央区平野町)
「もてなしの極みが茶事、そしてもてなし料理の極みが懐石」という言葉を遺した湯木貞一(ゆきていいち)。「..兆」の創始者であり、暮しの手帖「 ..兆味ばなし」や、入江泰吉撮影「 ..兆」などで日本料理の姿をひろく伝え、東京サミットでは各国首脳に日本料理を振る舞い、世界にその存在を発信しました。湯木貞一の創造の背景には茶の湯があり、生涯にわたり数々の茶道具を蒐集し、茶事に用いていました。その貴重なコレクションは湯木美術館で公開されています。
湯木貞一は明治34年(1901)、神戸の料理店「中現長」に生まれました。少年の頃から後継ぎとして厳しい指導をうけ、父は貞一の腕を磨くため一流料理人を雇い入れます。20歳を過ぎた頃には早くも料理人として認められますが、貞一は店の料理に疑問をもっていました。当時の宴会は様々な料理を一度に並べ豪華さを誇るもので、焼き物や煮物、汁椀は冷めてしまいました。そんなおり小林一三(阪急の創業者)の著書に、松平不昧公の茶会記を発見した貞一は、その献立に感動します。熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに、料理を一皿ごとに運ぶもてなしの心に動かされ「茶席の料理(懐石)と日本料理を融合した品格のある料理を創造する」という一生の目標をもちました。30歳になった貞一は父のもとを離れ大阪新町に10人ほどで満席となる小さな店「 ..兆」を出しました。ここで山本爲三郎(朝日麦酒社長)、高畑誠一(日商岩井社長)など財界の支援者を得て、昭和12年に店を畳屋町に移します。表千家に入門し、古美術蒐集をはじめたのもこの時期です。戦争がはじまると「 ..兆」は特別に営業を許されますが、昭和20年大阪大空襲で店は焼け、蒐集した食器や掛け物、道具類をすべて失ってしまいました。戦後は芦屋の自邸で店をつづけます。近くには茶の湯を好む人が多く暮らし、表千家の丹羽陸夫宗匠をはじめ、武者小路千家の加藤春代などとの交遊から茶事や懐石の幅広い知識を深めていきました。令和4年春季展「金工の茶道具と釜の魅力」(写真)では、貴重な芦屋釜などが展示されました。令和4年秋季展「茶の湯の絵画と絵のある茶道具」(2022年9月1日〜12月11日)では、小堀遠州「紅葉鹿絵賛」(前期展示)や尾形光琳筆「鷺図」(後期展示)、祥瑞蜜柑水指(通期展示)などを展示中です。志野茶碗 銘 広沢(重要文化財) もとは赤星家の所蔵で、国宝 卯花墻とならび志野茶碗の代表作といわれます。 湯木貞一の足跡を辿ると、料理や茶会を通じ多くの実業家、茶道界の重鎮、古美術商といった人に恵まれ、その関係を大切にすることで、料理や茶道の道を切り拓いてきたことが分かります。実業家茶人としては、小林一三(阪急電鉄社長)、松永安左エ門(東邦電力社長)、畠山一清(荏原製作所社長)、藤原銀次郎(王子製紙社長)、五島慶太(東急電鉄社長)、服部正次(服部時計店社長)、塩原又策(三共社長)、村山龍平(朝日新聞社社主)などが店の常連として知られます。電力王といわれた小田原三茶人のひとり松永安左エ門(耳庵)とは、東京築地の旅館細川で知り合い、東京滞在中は耳庵が濃茶を立てて一刻を過ごしたそうです。昭和36年、貞一がきく夫人を失った際、耳庵は心温まる悔やみ状を送り、貞一はそれを心の支えとして掛物に表装しました。 ..兆の会計を預かったきく夫人は、高額な古美術品購入にも不服を言わず、夫人の協力なしにコレクションは成り立たなかったと貞一は回顧しています。嵐山店の茶室でひらかれた米寿の茶事では、寄付に耳庵の悔やみ状が飾られました。空襲で店を失った貞一は平野町に空店舗を見つけ「 ..兆」を再開します。近くには、大阪美術倶楽部社長をつとめた児島嘉助(米山居)がいました。児島は大阪の名門・湯浅家の売り立を任され、貞一は「春日宮曼荼羅図」などを入手しています。その後、児島が急逝したため、大阪高麗橋の邸宅兼店舗や京都嵐山の別荘が売りに出されます。山本爲三郎が提供した資金などにより貞一は両方を入手し、高麗橋本店、京都嵐山店となりました。高麗橋の児島邸は昭和12年、数奇屋棟梁平田雅哉の作です。貞一は平田棟梁と共に10年かけて改装し、昭和24年に高麗橋本店を開業。令和元年オープンの新店舗に建て替えられるまで「 ..兆」本店として長く愛されました。
本店の一画には「佐竹本三十六歌仙絵巻在原業平」(右)を飾るため平安風に誂えられた床の間がありました。佐竹本三十六歌仙絵巻といえば、益田鈍翁たちが作品を守るため絵巻を一歌仙ごとに切り離し、実業家茶人たちが分けたと伝わる歴史的作品です。在原業平を入手したのがビール王といわれた馬越恭平で、業平の詠んだ都鳥にちなみ水鳥の慶長裂を使うなど、豪華な表装を施しました。昭和25年のある日、古美術商古賀勝夫から打診があり、高額ではあるものの貞一は即座に購入を決めたそうです。他の歌仙絵をもつ藤木正一、小林一三、野村徳七(妻きくが代理で出席)を招き、お披露目の茶会がひらかれました。
佐竹本三十六歌仙絵巻在原業平(重要文化財)
「いかなる名器も使わなければ意味がない。楽しんでもらえば器も喜ぶ」といった貞一でしたが、実際に触れられる人は限られ、昭和57年頃から美術館が必要と考えるようになります。戦後、 ..兆を再興した平野町店の跡地を利用して、昭和62年「湯木美術館」が開館します。茶室をイメージした展示コーナー(右)は、1畳台目の寸法をしっかり守るよう貞一が指示したと伝わります。壁は聚楽壁で、茶室に招かれたような雰囲気があります。
貞一は開館時に作られた「湯木美術館蔵品選集」の中で、「茶の湯が日本文化のあらゆる面に影響を与え、また、日本料理の完成の上にも大きな力があったことを知り、私はその奥の深さに魅せられました。そこで、日本料理の風姿を通して茶の湯の心を賞翫し味わってもらうことを願って、その真髄を表すべく長年に亘って研鑽を重ねてまいりました」と書いています。開館後、展示品をながめながら学芸員に思い出話をすることが、貞一の恒例となりました。来館者とも気軽に会話や記念撮影をしていたと、長年主任学芸員をつとめた末廣幸代さんは著書「..兆 湯木貞一 料理の道」で回想しています。
湯木貞一は生涯、懐石、薄茶、濃茶まで「自分で点前をしなかったらお茶になりません」と言い、古くからの作法を大切にしました。茶の湯入門50年を記念した茶会が昭和62年10月末に開かれ、高麗橋 ..兆本店の小堀遠州筆「容膝軒」の扁額がかかる五畳台目の茶室に、表千家14代家元而妙斎、左海祥二郎、久田宗也、永楽善五郎、生形貴道が招かれます。道具には大燈国師の墨跡「古徳偈」(重要文化財)に「唐物茄子茶入銘紹鴎(みほつくし)茄子」(重要文化財)、「大井戸茶碗銘対馬」が選ばれ、茶会のあとは開館直前の美術館を案内し、貞一は日記に「真に一期一会の茶会なり。つつながく真に目出度い」と書いています。
大井戸茶碗 銘 対馬古美術の月刊誌「目の眼」令和4年3月号では湯木貞一が特集され、古美術商谷松屋戸田商店の戸田博さんは「信じられないほどレベルの高いコレクション」と湯木コレクションを評価しています。茶道具、懐石の器、掛け物それぞれにトップクラスの銘品が揃い、古美術商が見て「これは欲しい」と思わせると言います。実業家茶人の多くが大企業のトップであるのに対し、料理店のオーナーという立場で、彼らに匹敵するコレクションを形成できたのは、児島や古賀、戸田といった特定の古美術商と深い信頼関係で結ばれた、人間関係のたまものと戸田さんは分析しています。「先代は良いものが入ると一番先に湯木さんに見せていた」そうです。貞一が「大井戸茶碗銘対馬」を入手した際は、小型トラック一台分の道具を手放したといわれます。限られた資金のなかで、徐々にコレクションの質を高めたことが伺えます。いま世界的に評価される、美しい日本料理の礎を築いた料理人のひとり湯木貞一。温かいもの、冷たいものを楽しめる近年の日本料理は、茶の湯のもてなしの心から生まれました。その背景には、日本料理の発展を支えた様々な人々の思いがあると感じました。
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