Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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時空を超える美意識 https://collaj.jp/ 夏至 2022 島根 水の都 松江 海のような宍道湖のほとりに水の都松江があります。1604年、関ヶ原の戦功から出雲・隠岐24万石を与えられた堀尾吉晴・忠氏親子により、城づくりの適地としてこの地が選ばれました。 となく LIFELIKE 松江はほとんど、海を除いて「あらゆる水」を持っている。椿が濃い紅の実をつづる下に暗くよどんでいる濠の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のように青い川の水になって、なめらかなガラス板のような光沢のある、どこ な湖水の水に変わるまで、水は松江を縦横に貫流して、その光 と影との限りない調和を示しながら、随所に空と家とその間に飛びかう燕の影とを映して、絶えずものういつぶやきをここに住む人間の耳に伝えつつあるのである。                     芥川龍之介『松江印象記』から 松平直政公 島根県庁 松江城に向かって立つ松平直政公像(台座の設計は伊東忠太)。松江藩の三の丸御殿跡に建つ島根県庁は、安田臣(かたし)氏の設計で国登録有形文化財です。城と県庁のある殿町を中心に、松江市街には城下町の構造がそのまま残されています。徳川家康の孫にあたる松平直政は、断絶した堀尾氏、京極氏につづき、1638年に信州松本から松江に入りました。以降、明治維新までの230年にわたり松江は松平氏によって治められます。 松江城 松江城 国宝・松江城は、1607年から堀田氏によって建造されました。6層の天守閣は、木造の鯱を掲げ、入母屋の破風には火除の蕪懸魚(かぶらげぎょ)が下がり、禅寺風の花頭窓が見えます。 白壁が少なく、下見板張の黒い外観は、豊臣秀吉時代の天守の姿を留めています。荒々しい天守台の石垣や、附櫓に設けられた石落としや鉄砲狭間は、乱世の空気の残る時代に建てられた城であることを示しています。 城の地下には塩蔵(右)や井戸があり、有事には食料や水を供給できました。松江城の柱の中には「包板」といわれる工法で、柱を板で挟み、カスガイと鉄輪で締めて補強したものが3分の1ほどあります。これは天守の補強時に行われたと思われ、現在の耐震補強とも共通する工法と感じました。現存天守で包板が見られるのは松江城だけです。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間3時間目 大吉朋子(写真・文)やさしさの練習 Tomoko Oyoshi Drive 今の愛車に乗って13年くらいになる。2人乗りの赤いTACOMA。まったく飽きることなく、サイズ感といい、ほどほどの乗り心地といい、私の大切な相棒となっている。 13年ほど前、ご縁あって知人の知人から譲っていただいた。その車は可愛がられ、オーナーが日本に戻るのに合わせて、わざわざハワイ・オアフ島から米国本土を経由して、大切に日本に運んでこられた。この車に出会うまでは車に愛着をもつ感覚はそれほどなかったけれど、この車を初めて見た時、脳内にビビビっと何かが反応して、購入するとすぐに決めた。 車に乗っているとき、いつも頭の中に浮かぶのはハワイで見た光景。ゆるーい空気感、さんさんと照りつける太陽、ドライバーは皆サングラスをかけている。車も人もなんだか大きく強面に見えて、小さな私はちょっとビビる。そんなハワイの人たちになんとなく怖そうなイメージを抱きながら、いつも感動するのは信号のない横断歩道でのシーン。99%くらいの確率で「人」を優先してくれ、焦らせることなく、渡り終わるまで待っていてくれる。その待ちかげんが絶妙で、強面とのギャップにも感動を覚えた。この「やさしさ」は何だ? 日頃、急いでいたり、疲れていたりで気持ちに余裕がないと、つい自分を優先したくなり、やさしくなれない。車の運転は、いつも以上にそんな自分の素が表れるような気がしている。車の運転のときだけ現れる人格なんていうのも、存在するのかなと思ってしまう。 私は 20代.30代中頃まで、車でもバイクでも、ずいぶん白バイやお巡りさんのお世話になった。スピードが出すぎたり、赤信号を突破したり、「止まれ」で止まらなかったり、そのほかいろいろ。幸いにも人を傷つけることはなかったが、自分勝手でやんちゃだった。やさしさを行動にうつせなかった。 ”善い行い“は頭でわかっていても、体や行動がそれに伴わないという現実。人はよほどのことがなければ変わることが難しく、よほどのことがあっても何かがブレーキとなり、本当に変わるまでにはそれなりに時間がかかる。わが身を通して実感としてよくわかる。ところが、そんな私もしだいに変化が表れて、TACOMAに乗るようになってからは、不思議と白バイにもお巡りさんにもお世話になることがなくなった。幻だと思っていたゴールドの免許証も手に入れた。 どんな時も同じくおおらかな気持ちであり続けることは難しいけれど、この車に乗る時間は、ハワイの優しい空気をまとった気になり、自然と心の持ちようが変わる。「止まれ」では止まり、「人」を優先し、相手を焦らせない。ほんの少しの待つ姿勢が、自分にも相手にも、小さな余裕ややさしい気持ちを生んでくれるような気がする。 こうして13年ほどかけながら、人に対する「やさしさ」をどんな時でも、できるかぎり引き出せるよう、ドライブのたびに練習を続けている。車でのふるまいは、ほかのシーンにも大いに影響していると思う。 この少し古びてきた私の愛車は、飽きることなく、いつも新鮮な気持ちを私に届けてくれる。 松江城の西側にある「月照寺」は、松江藩主をつとめた松平家初代から9代までの廟所が並ぶ松平家の菩提寺です。芥川龍之介は『松江印象記』で、「ことに月照寺における松平家の廟所と天倫寺の禅院とは最も自分の興味をひいたものであった」と書き残しています。 松江藩の松平家初代 松平直政公((1601〜1666)の廟所。石橋で蓮池を渡り、墓所に向かいます。左右には石灯籠が並びます。 7代藩主松平治郷は、不昧(ふまい)の名で知られます。いまも松江では不昧公、不昧さまと親しみを込めて呼ばれ、全国でも珍しい、日常に茶の湯が浸透した城下町の礎を築きました。 不昧公は1751年、6代藩主・松平宗衍の次男として江戸赤坂の松平家上屋敷で誕生し、1767年、父の隠居によりわずか17歳で藩主となります。その頃の藩は深刻な財政難にありました。 廟門は、西の左甚五郎といわれる小林如泥と言われます。不昧公の好きだったブドウの透かし彫りが見事です。 不昧公は家老朝日茂保と共に藩政改革「御立派の改革」を進めます。日照時間が少なく収穫量の少ない農業のてこ入れのため治水工事を行い、木綿、雲州人参(朝鮮人参)、コウゾ、ハゼなどの栽培を奨励し、和紙やロウソクなど特産品を開発し、古来から続くたたら製鉄を強化して鍋釜の製造もはじめます。特に雲州人参の中国への輸出は莫大な利益をもたらし、1785年には宍道湖の洪水を防ぐ清原太兵衛の佐陀川治水事業が完了します。50万両の借金を74年かけて完済した松江藩の金蔵には、明治維新の際に11万両(110億円)が蓄えられていました。 年少より石州流、三斎流など茶道を学んだ不昧公は、『贅言』『古今名物類聚』『瀬戸陶器濫觴』といった茶の湯論や茶道具の著書を残し、茶道界に大きな影響を与え続けています。 若き日の著書『贅言』で形式や道具にこだわる茶の湯を批判した不昧公でしたが、藩の財政立て直しに成功した後は、大名家から借金のかたとして豪商などに散逸した茶道具の収集に力を注ぎます。これら「雲州名物」は今も高く評価され、めったに市場に出ない名品といわれます。次に不昧公は、800点以上の蒐集品を「宝物」「大名物」「中興名物」などにランク分けし、リスト化した『雲州蔵帳』や18巻にも及ぶ研究書『古今名物類聚』にまとめました。当時、名品は秘蔵され世間にでませんでしたが、不昧公は名品の知識や情報をひろめ、後世に伝えることを目指していたと思われます。 月照寺の書院で、お抹茶とお菓子を頂けます。不昧公は陶芸(楽山焼、布志名焼)、漆芸、木工など手工芸を奨励し、茶道具を作らせて名工を育成しました。また今も松江に伝わる和菓子(山川、若草、菜種の里、姫小袖、路芝など)を生み出し、松江に和菓子文化を根付かせました。不昧公お好みの菓子は一見派手さはないものの、抹茶との美しいハーモニーを奏でます。 茶道具の蒐集によって財政に負担をかけたとも言われた不昧公ですが、最近の研究ではわずか8%の「お手許金」で購入していたことが分かりました。一番の宝物とした「油屋肩衝」は1500両(1億円以上)で購入していますが、多くの道具は前の所有者の購入金額よりも安値で手に入れていて、したたかなコレクターでもあった不昧公の一面がうかがえます。 不昧公が茶の湯に使った湧き水。 不昧公は莫大な費用のかかる参勤交代を計21回も行い、松江と江戸を行き来しました。参勤交代の途上、各地の茶室を訪ね、特に姫路藩主酒井忠以(ただざね)とは師弟関係を結び、姫路で度々茶会を開いています。不昧公は参勤交代や茶道具に散財することで、経済成長著しい松江藩に対する幕府からの疑念を晴らしていたという説もあります。 オープンと同時に、建築家ピーター・ズントーの家具「Peter Zumthorcollection」が発表されました。ショールームのあるブレラ地区はミラノの中心部にありながら、ブレラ美術館をはじめギャラリーやブティックが点在し、古い建物が残る街として知られます。この建物は1800年代に建てられたネオクラシック様式で、リズミカルに連続するアーチが特徴です。 ▼ Boffi 社のキッチンやバスも展示されています。 天井にはオリジナルの梁や板が残され、アパルトマンのような雰囲気です。約500㎡のスペースに、リビング、ダイニング、ベッドルームをシーン展示するほかギャラリースペースを備え、日本の工芸品、彫刻、盆栽なども紹介しています。 ドーム天井には、建設当時の装飾画が残されていました。ミラノ・サローネはじめ、インテリアの一大発信地であるミラノにて、Time & StyleMilanは世界に求められる日本のデザイン、技術、文化、生活観を提供する貴重な場として、地元のミラノっ子たちにも長く愛される店になりそうです。 Time & Style Milan Via Eugenio Balzan, 4, Largo Claudio Treves, 2, Via San Marco, 13, 20121 Milan, Italy 前回に引き続いて、オリア・ハーキュリーズの著書『Summer Kitchens』(『夏のキッチン』2020年刊、未邦訳)から、本文のさわり、最終回。 私が生まれ育ったカホーフカ(Kakhovka)の町からほど遠くないアゾフ海に面したクリミア半島一帯には、タタール系の人々 (Crimean Tatars)が多く住んでいます。その多くは、ソヴィエト崩壊後に中央アジアから帰還した人たちで(注1)、彼らは今もその民族的な食の伝統を保ち続けています。例えば、カティク(katyk)と呼ばれるサワークリームや、濃い羊の出汁で作るひよこ豆の煮物など。ウクライナ北西部カルパチア高原地帯に行くと、フツェル(Hutsul)系の人々(注2)が多く居住していて、山岳地帯の労働 と生活を支えるために必要な、濃厚なポレンタや様々なジャガイモ を素材とする料理が見られます。 このようにウクライナの景観は、各地に住む人々の違いに合わせるかのように、土地から土地へと移り変わっていきます。北部ポレシア (Polesia)の深く暗い森 と沼沢地帯。深い黄土色の干し草の山があちこちに積まれている、柔らかな緑の草が広がるカルパチア高原。高原の斜面を貫いて勢いよく流れゆく 小川。そのきれいな渓谷沿いに山を下っていけば、いつしか、まっ平らな平地へとたどり着きます。そこに果てしなく広がる圧倒的に広大な草原地帯(ステップ)。その広大な大地を前にした時の空間感覚。それこそが、深い悲しみをたたえながら、無窮の大空を追うように、どこまでも響き渡る、ウクライナの多声合唱的な個性を生み出す源なのです。 ヴルダ(Vurda)やブリンザ(Brynza)といった、カルパチア産の羊やヤギのチーズは、ウクライナでも最高の味わいです。というのも、カルパチア草原が夏、一面深くタイムで覆われるからで、タイムの香りがチーズの風味になる。もし生い茂るタイムがなければ、あの味わいは生まれないはず。そのカルパチア高原地帯を広く見られる蜂蜜。この地方特有の小型のミツバチが、高原一帯に繁茂する野草の濃厚な蜜を吸って生まれる蜂蜜です。またこの高原地帯は、土壌がトウモロコシの栽培に適しています。これが、この地域の人々がポレンタ的な料理を好む背景です。 右:クリミア半島タタール系の人々。左:ウクライナ北西部 フツェル系の人々。 ウクライナ中央部は、様々な要素が少しずつ混ざり合う形で併存する地域です。マッシュルームやカブといった北部の恵み。桃や洋梨やアプリコットといった、温暖な陽光の中で育つ果物類。ポルタヴァ( Poltava)とその周辺地域は、ウクライナでも指折りの、様々な果実のプリザーブの産地となっています。 そして南部は、私の生まれ故郷。どうしても身びいきになってしまいますが、太陽焼け付く夏と温暖な冬が特徴で、大地は豊かな土壌に恵まれています。国中で一 20 番多種類の果物と野菜が生み出されだけではなく、アゾフの海さらには黒海という 2 大洋への出口に面しています。その海は、カレイ・ヒラメ類、大きなバイ貝の一種、そして可愛らしくもおいしい小魚に恵まれています。大河ドニエプルでは、ザリガニ、カワマス、鯉、そしてナマズが獲れます。一方、キズがいっぱいの巨大なピンク色のトマトは捨てるほど実ります。当然庶民の家庭菜園だって豊かです。大きなナス、ピーマン、唐辛子、ルバーブ、キュウリ、様々なハーブ類。そしてなんと言っても、とても甘みのあるサツマイモ。その味わいが濃厚なため、これはもう調味料要らず。田舎の村と村を結ぶ、ひと気のない長い道路の両側には、赤や黄の果実が実る様々な果樹園が広がります。赤紫色のサクランボ、マルメロ、リンゴ、桃、洋ナシ、アプリコット、そしてプラム。街には街路樹として巨大なクワの木が立ち並び、晩夏を迎える頃には、熟した黒もしくは淡いピンクの実が、街路に散らばります。道沿いに並ぶハーブを売る店先には、ディル、コリアンダー、紫バジル、カタバミ、春玉ネギ、そして、 モルドバ(旧ベッサラビア)の人々。 パセリなどが山積みです。その様はまさに画家が描き出す「大地の実りの豊穣」そのものです。 ウクライナ西部ドニエプル河畔で、時に「ウクライナのべニス?」とも称される水の都ヴィルコーヴェ(Vylkove)は、ドニエプルの水に棲息するドゥナイカ( dunayka)というニシン科の魚で知られます。また近年減少が続いているようですが、チョウザメも獲れます。ウクライナの代表的なお料理には、パンで挟んだり、餃子状の皮で包んだり、さらには、ボルシチまで、お魚を素材とする料理がたくさんあります。ソヴィエト政権下では何事もソヴィエト的規格主義が徹底され、カフェテリアから家庭の料理まで、ヴァラエティのない限られた料理ばかりを目にする時代が続きました。この時代特にウクライナ東部と南部の一部地域では、諸地域の民族的伝統はもちろん、ウクライナ語の使用さえ、「存続の危機」と言っていい状況でした。 これに比べてウクライナ西部は、ロシアとの国境からはるか遠く離れているおかげで、各地域の民族の言語、伝統行事、刺繍など諸族の伝統工芸とならんで、各地域の伝統的な食の世界が保持されやすい環境にあった、ということができます。こうした背景から、世紀初頭に出版された「ウクライナ料理」の書籍は、その多くがウクライナ西部の著者たちで占められ、西部地域の特色から、オーストリア・ハンガリー帝国文化の影響を色濃く受けた料理が多く紹介される内容となっています。あとひとつ、アスパラガスとアーティチョークについて。両親が新家庭をスタートした頃には、このつの野菜は長らく忘れされた存在となっていました。両者共にソヴィエト時代の集団農場では高い収穫が見込めない野菜だったからです。その後、人々の間で、「古き良き時代」を懐かしむ風潮が生まれ、ありがたいことに両者は完全復活。その復活は、南西部の都市オデーサや首都キーウで、ベッサラビア(注3)料理やタタール料理を専門とするレストランが勢いを得、ポーランド国境に近い州都リビウでハールィチ (Halychyna)料理が人気を得るなど、 「ウクライナ諸地域・諸民族の伝統の復活」という大きな流れの中で生じている出来事だと感じます。 ウクライナは過去千年近くに渡って、たいへんに過酷な運命に翻弄さ ではないでしょうか。 - としてその一人が著者だったのかもしれないと思うと、親しみを感じる。 っている。れ続けてきたように思われます。しかし、これから先の将来には、その豊かな食の伝統を土台とした明るい未来が待ち構えているに違いありません。私達はもっともっとその世界を探検し、これを味わい、新たに自身のものとしていく必要があるの 本書の出版は、言うまでもなく、今回のロシアによるウクライナ侵攻以前である。 著者のハーキュリーズは、ロンドンでも有名な近東&中東系のエスニック・レストランでの勤務経験がある。その店の支店が、かつて私が暮らしていたケンジントンの一隅に店を出し、物珍しさからよくその店で、お惣菜やデザートを購入して楽しんでいた。店のカウンターの奥には常に2〜3人の女性従業員の姿があり、ひょっ それにしても、料理の本のまえがきとして、このような国と民族の歴史を語ると ころから始めることになる必然があることに驚かされる。この長い「まえがき」に続いて、たいへんに興味深い料理の数々が紹介されていく。料理そして食文化が、民族の根源にあるものであることを教えてくれる、中身の濃い魅力一杯の一冊とな (注1 )第 2次世界大戦中、クリミア半島に住んでいた15万人を超すタタール系の人々(Crimean Tatars)が、「対独協力の恐れあり」とのスターリンの判断により、その大半がウズベキスタンに強制移住させられた。その多くが劣悪な条件の収容所に入れられ、種々の労働を強制された。その過程で非常に多くの人々が亡くなっている。ウクライナは 2015年この歴史的な出来事を、国家としてこれを「ジェノサイド」(大虐殺)であったと認定している。(W ikipedia英語版) ( 注2 )第一次世界大戦後の政治的混乱の中で、1919年1月8日、実質的にハンガリー支配下にある中で、フツェル(Hutsu l)系の人々は、「フツェル共和国」の独立を宣言し、当時存在した「西ウクライナ共和国」との合併を目指す。しかし同年4月末には、カルパチア地域はルーマニア軍が、中央部はハンガリー軍が、そして西部「西ウクライナ共和国」地域はチェコスロヴァキア軍が支配するに至り、両共和国は消滅する。(Wik ipedia英語版) ( 注3 )ベッサラビアは、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロ シア側が指していった名称である。1991年モルドバ共和国となっ た。(Wikipedia 日本語版) Summer Kitchens Recipes and Reminiscences from Every Corner of Ukraine Olia Hercules 世界で初めての建築家ピーター・ズントーの家具コレクション。シェーズロングチェア「 Valserliege」は、スイス・ヴァルス渓谷の温泉施設「テルメ・ヴァルス」のためにデザインされました。製品化にあたっては、座面のやわらかな曲線をつくりだすため、昔ながらの技法による無垢材の曲木技術を採用しています。サイドテーブル「 Kolumba side table 」は、ドイツ ケルンの聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館のためにデザインされました。極限までシンプルな造形のため、餅つきに使うウスを作る工房で、太い欅の丸太から削り出しています。スツール「 Damenhocker」は、ズントーの自邸やアトリエに置かれている4本脚のスツールを製品化しました。張り地にはスイス・フィスバ社のベロア生地(5色)をつかっています。「 Serpentine table 」と「 Serpentine stool 」は、ロンドン・サーペンタイン・ギャラリーの期間限定パビリオンのためにデザインされました。スツールは折りたたみ式で、溶融亜鉛メッキ仕上の表情と精緻な作りが特徴。テーブルの天板端部は、手作業の絞り加工によって仕上げられています。ほかに、隈研吾さんがデザインしたベッド(プロトタイプ)やホームオフィス向けの家具(上)、ドリルデザインの屋外向けスチール製チェア、テーブル(右)などの新作も展示されました。ドリルデザインの屋外向け家具は天板や座面にホワイトアッシュ材が使われ、屋内・屋外のどちらでも使えそうなデザインです。 地階ではフランス人デザイナーJean -MarieMassaud(ジャン ‐マリー・マソー)さんのコレクションが展示されました。マソーさんは植栽と共生する集合住宅やクジラの姿をした旅する飛行船など、未来を先取りしたプロジェクト案を次々と発表し、トヨタのコンセプトモデルやメキシコのスタジアムを手掛けています。 窓ガラスのむこうに Vol.36 またたく星どうか 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 願いがかないますように 歴史館内では、武家屋敷跡を発掘した実物の断面が見られます。江戸の初期から湿地帯の埋め立てが始まり、地盤が沈下するたびに盛土を繰り返した跡がうかがえます。 松江城の東側、かつて家老たちの屋敷が並んだ一帯に「松江歴史館」があります。宍道湖ほとりの湿地帯を干拓し、城下町を築き、守り続けてきた400年の歴史が俯瞰できます。 松江城を中心に、東側に上級武士の屋敷、西・北側に中級・下級武士の屋敷があり、北側の赤山やお堀の土砂を使い湿地を埋め立てました。現在の県庁は三の丸御殿の跡で、京橋川を境に武家と町人の町が分かれました。茶町など町人の町は南北に長い区割りが特徴です。手前の宍道湖に面した大橋のたもとには、水運の拠点となる廻船問屋が並び賑わいました。 ▼京橋川に面した洋食店「西洋軒」。町割りに従い南北に長い店のつくりです。 京橋川の左右で、武士と町人の町が分かれていました。松江は今も城下町の町割りが色濃く残り、繁華街「茶町」には、間口が狭く奥行きの長い店舗がぎっしり並んでいます。茶町にはかつて石垣の石を陸揚げした湊があり、人夫に餅や湯をふるまったことから茶町と呼ばれるようになったと言われます。京屋小路や紺屋小路など古い通りの名がいまも残っています。 江戸時代と変わらない位置にかかる松江大橋。宍道湖と中海をつなぐ大橋川にかかり、現代の橋は17代目です。堀尾吉晴公による築城は、この橋の架替えから始まったと言われ、陸運の生命線となってきました。 真鶴駅には「グリーン車に乗って岩ガキを食べに行こう」という謎のポスターが沢山張られていました。 真鶴オリーブ園の新メンバー佐藤貴一さん。名古屋コーチンの若鶏たちは、虫対策の新戦力です。 オリーブたちは真鶴の日を浴びてすくすくと育ちます。道の両脇にオリーブを植えた「オリーブの小路」を通り、園主の牛山さんは岩牡蠣を販売する「岩ガキBASE」に保冷バッグを持って向かいます。昔フランスでは真牡蠣は「ERのつく月に食べよ」(11〜2月)といわれますが、岩牡蠣のシーズンは初夏になります。これは産卵期の違いによるようです。 ▼岩ガキBASEにて予約していた岩牡蠣を受け取りました。 夏場は海水浴場としてにぎわう岩海岸。大河ドラマ「「鎌倉殿の13人」」にも登場し、頼朝が舟で房総半島へ出帆した浜として知られます。岩漁港では沖合に固定した網で魚をとる「定置網漁」が行われています。真鶴の海は、半島を流れる激しい海流や森からの栄養素によって、数百種の魚が捕れる豊かな漁場です。未来を担う後継者たちのため、真鶴町と真鶴町岩沖岩牡蠣養殖事業推進協議会によって全国初となる外洋での岩牡蠣養殖の研究が2015年から始まりました。 養殖は真鶴の沖合で行われています。島根県隠岐諸島の海士町と提携し、2015年に稚貝6000個の養殖を開始。2018年には数を12万個に増やし、2019年に減菌施設を備えた集出荷施設「岩ガキBASE」を建設。2021年から出荷がはじまり、今年は町内各所のレストランや店舗での提供がはじまりました。岩牡蠣の養殖は真牡蠣に比べ歴史が浅く、生育期間も長いため、試行錯誤のすえ本格出荷までに6年もの歳月がかかったのです。 オリーブの樹々が花をつけました。これから小さな実になって、秋の収穫に向けて生長していきます。梅の木に沢山なった青梅は、脚立に登って収穫です。焼酎につけて梅酒にするそうです。 牡蠣ナイフを殻の隙間からこじ入れて、貝柱を切ると殻が外れます。身を傷つけないようにするには注意しながらナイフを動かします。 岩ガキBASEには、320m沖から海水がひかれていて、殻についた海藻やフジツボをグラインダーと洗浄機で丁寧に取り除き、紫外線滅菌海水で24時間かけて減菌されています。貝毒の個体検査は、岩牡蠣養殖に日本で初めて成功した島根県の環境保健公社(松江市)で行われていました。よくみる真牡蠣とはボリュームが全く違います。真鶴半島の魚つき保安林「お林」の栄養をたっぷり取り込んだ、芳醇な海の果実といえそうです。 岩牡蠣「鶴宝」にはS、M、Lサイズがあります(写真はSサイズ)。 お昼時となり、よく冷えたシャンパンと一緒に生岩牡蠣を頂きました。ボリューム満点な岩牡蠣は歯ごたえがあり、甘くブリブリで、海のミネラルが口いっぱいに広がり、レモンをかけずそのままで美味しいです。岩ガキBASEでは個人向け販売も行っていますが、予約して行った方がいいようです。初夏の愉しみがまたひとつ増えました。 茶室「明々庵」は松平不昧公の指図を受け、 有澤家6代弌善(かずよし)によって、松江城 に近い殿町の有澤家本邸に、1779年頃、不 昧公 30歳前後のとき建てられたと伝わります。 明々庵は明治維新後に、いくども移転を繰り返 しました。一時は東京の松平家に移され、昭和 3年には有澤山荘 菅田菴に移築。その後、昭 和 41年の不昧公 150年祭を機に、現在の赤山(あかやま)に再建されました。 明々庵の待合の掛板には「庵主 貧にして 茶飯の諸具不偶 美味も又なし 露地の樹石 天然の趣 其の心を得ざる輩は 是より速やかに帰去れ」という言葉が刻まれていました。待合は明々庵は厚い茅葺きの入母屋屋根が特徴で、にじり口は妻側にあります。.葺の土庇(どびさし)があり、にじり口で雨を避けられるようになっています。 2畳台目の茶室には亭主と客を隔てる中柱はなく、炉が台目畳に切られています。床の間の奥行きは浅く、点前座の横には水屋につながる引き戸があり、明快で使いやすい間取りです。 4畳半の茶室には貴人口があり、広々としています。性格の異なる2室の茶室によって、色々な茶会に対応できたと考えられます。明々庵は5回ほど移築を繰り返していますが、不昧公による精密な指図書によって、正確な再建が可能といわれます。1806年に隠居した不昧公は、約2万坪の大崎下屋敷(北品川5丁目)に、利休の作と伝わる「独楽庵」をはじめ、11棟もの茶室をたて茶の湯三昧の日々を送りました。幕末になると黒船来航の影響で海岸警護の基地となり、茶室はあとかたもなく壊されます。明々庵など松江に残る不昧公ゆかりの茶室は、その好みを伝える貴重なものです。 塩見縄手城の北側に、500石〜1000石取りの藩士の屋敷が並んだ「塩見縄手(しおみながて)」と呼ばれる通りがあります。縄手とは細くくねった道を言うようです。築城の際は、通りの背後にある赤山と堀を約90mに渡って切削し、その土砂で沼沢地帯を埋め立てたと考えられています。 ここには中老クラスの藩士が、入れ替わりで暮らしました。1733年の大火で建て替えられ、明治以降は瀧川家の住居でした。平成27年から3年がかりの復元工事が行われ、今は一般公開されています。 来客用玄関から入る接客空間(左)に比べ、主人の部屋(上)などプライベート空間は質素で飾り気のないものです。来客をもてなしたと思われる茶室も備えていました。 今月の茶道具 5 「油屋」 唐物肩衝茶入 中国・南宋時代(13世紀) 畠山記念館蔵 松平不昧公旧蔵 松平不昧公が宝物として片身離さず、参勤交代も共にしたと伝わる「油屋唐物肩衝」。柿金気釉に黒飴釉のなだれがかかり、小さな口が肩の張りを強調しています。油屋とはこれを所持した油屋常言にちなみ、唐物とは中国でつくられたもの、肩衝とは肩の部分が角ばっていることを示します。豊臣秀吉は北野大茶会の際、油屋常言にこの茶入を所望し「北野茄子」と交換。その後、福島正則.徳川秀忠.土井利勝.河村瑞軒.冬木小平次と受け継がれ、飢饉で没落した豪商冬木家から不昧公が 1500両で譲り受けました。不昧公は 3つあった仕覆に加え、太子広東、本能寺緞子、下妻緞子の 3つの名物裂の袋をつくり、千利休の文とゆかりの若狭盆を添え、圜悟克勤の墨蹟『流れ圜悟(ながれえんご)』 (国宝)とともに櫃に納めました。家族や家老にもめったに見せず、茶会に使われることも無く、当時の櫃に入ったまま現在まで伝わります。 宍道湖の夕焼け。 松江城の東に位置する天台宗の寺院 普門院に、三斎流宗主 荒井一掌の好みによる観月庵があります。三斎流は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と戦国時代の有力者に仕え、利休七哲の一人でもある武将細川忠興(三斎)を流祖とする武家茶道の一派です。江戸中期、荒井一掌は江戸麹町に閑市庵を営む大宗匠として知られ、白隠禅師に9年間参禅し「掌」の字を与えられと伝わります。荒井一掌に師事した医師の林久嘉は少年期の不昧公の侍医であり、その縁で荒井一掌の手ほどきを受けるようになったと考えられます。 不昧公は松江城から舟に乗って観月庵を訪れたと言われます。 観月庵は、1801年頃、荒井一掌により設計され、普門院のご住職恵海法印によって建立されました。腰掛待合から茶室に向かうと、約1間の深い庇をつけた内露地があります。三斎流は恵海法印によって松江に根付き、普門院では今も細川三斎流の茶道教室が開かれています。 内露地のにじり口を入ると、わずか 2畳の茶室があります。炉は部屋の隅に設置され、不昧公は円形の窓から、東の空に昇る月を眺めるのが好きだったと伝わります。庭の池には月の姿が映り、もうひとつの名月を眺めることもできます。 普門院では、お抹茶と松江のお菓子(清松庵たちばな)を頂きました。 内田 和子 つれづれなるままに 第回 ウオーキング講座 浅草水上バス乗り場〜浅草寺〜かっぱ橋〜上野駅 3年ぶりに再開された高齢者向けウォーキング講座。コースは3つ、2時間半の緩やかコースだが、申し込みは抽選となる人気講座である。私も久しぶりのウォーキングとあって、2つ申し込みしたが予約ができたのは1つ。浅草から河童橋を抜けて上野が終点となるコースである。この地域を歩いたことはない。当日を楽しみに、必須条件となっている基礎講座を受講した。 「ウォーキングはスポーツです。」と始まる座学だが、3年前に習ったことは全部忘れている。講師は同じ、始まる前は久しぶりに顔を合わせた参加者達と談笑しているが、講義が始まると容赦ない。ウォーキングと歩くことの違いを、高齢者には耳が痛いこともズバズバ言う。歩けばいいと言うことはないと、その姿勢をやかましく言う。楽しい気分でちょっと歩ければと申し込んだが甘かった。一通りの基本姿勢を教わった後、横一列になって歩くがなんともぎこちない。講師が典型的な年寄り歩きを真似て見せるが、確かに膝を落とし、かかとを引きずる姿はそこかしこで見かける。これが膝を痛める原因にもなるとのこと。これを改めて、ウォーキング歩きをしようとするが容易ではない。人前で歩き方を披露するなんてことは、高校時代のダンス授業以来である。人の振り見て我が振り直せとはなかなかいかず、何度も講師から指摘を受け、しまいには、足と手の動きもわからなくなるという有様だが、何度か横一列の歩きを続けていくと、姿勢もまっすぐに、足が上がって、みんなカッコいい歩き方となって、笑顔が出てくる。人に見られて歩くと言うことが、意識を変えるのかもしれない。ウォーキングの基本は、 ①背筋を伸ばし ②腕を後ろに ③つま先上げて ④かかとをける。これを忘れないように、スーパー (^-^;; がする。 の買い物も近所の散歩も意識してやってみる。ウォーキング当日は、9時半に浅草水上バス入り口に集合。通勤時間帯に家を出るなんてことは何年かぶり。人混みを避け遠回りをしたが、案外電車は空いていた。ぎゅうぎゅう詰めを覚悟していたので、座れたのはありがたかったが、リモートワークで最近の通勤電車は変わったのか、ご時世に疎くなっている。年を取るとはこういうことなのかもしれない。集合場所にはすでに多くの参加者が集まっている。お天気は良く風も吹 30 いている。絶好のウォーキング日和りである。水筒持って、帽子かぶって、キャラメルポッケに、遠足気分でスタートする。が、習った基本は何処かに忘れている。講師は時々注意をしたり、声をかけるが、元気で連れ添って外を歩けることが何よりと、いつの間にか下町の観光案内人になっている。2020年6月に設置された「すみだリバーウォーク」では、橋に隠された「ソラカラちゃん」をみんなで探し、隅田公園を抜けた牛嶋神社では、祭りの日に本物の牛が引かれると聞き、浅草寺は裏手から入る。ここで15分の自由行動。参道を逆コースで雷門で再集合。平日だが、結構な人出だ。修学旅行生が楽しそうに土産店を覗いている。外国人はほとんどいないが、活気を取り戻しつつあるのは嬉しい気もする。人形焼の香りに誘われて店先に近づけば、こちらの財布の紐もゆるくなる。こんなにのんびりと買い物を楽しめるのは今のうちかもしれないと、懐かしいお菓子をいくつも買う。しかし、ルンルン気分もここまで。美味しそうな食事処を横目に、ウォーキングは続く。中村座のあった浅草公園を抜け、ホッピー通り、演芸の六区で六芸神を見、河童橋通りを突っ切り、ゴールの上野駅まで後分。水分補給をしながら、黙々とついていくが、ウォーキング姿勢どころではない。足は上がらず顎が上がる。目の先に上野駅が見えた時はホッとしたが、ゴールのパンダ口広場の階段は壁のように高く、絶句した。 久しぶりのウォーキング、出発時には和気あいあいだったが、気温上昇と街中の混雑に歩調が合わせられなかった人も多かった。なんとか途中ギブアップはなかったものの、3年間のプランクは大きい。確実に体力は衰えている。無理せず、時々ウォーキングを楽しめればよしとしよう。そんな話を友人にしたら、夏野菜をしっかり摂るのが一番と、献立写真を送ってくれた。とにかく電力不足に負けない丈夫な体を作ること。この夏の課題かもし れない。ウォーキングはそこそこに …… どうもこれが肝心なような気 旧日本銀行松江支店をリノベーションしたカラコロ工房。山陰のクラフト作家の作品を扱うショップやレストラン、カフェがあり「松江の和菓子作り体験」も行われています。地下一階には日本銀行時代の金庫が残されています。 カラコロ工房に近い「ごうぎんカラコロ美術館(旧山陰合同銀行北支店)」。1926年の建物で、オーダーの柱が6本並び、図案化されたメダリオンや外壁の装飾が、大正時代のユーゲントシュティール様式を感じさせます。中は2階建ての吹き抜けになっていて、松江市出身の版画家平塚運一をはじめ活動を共にした山本鼎、倉田白羊などの版画を展示しています。 松江名物のひとつ「鯛めし」で知られ、芥川龍之介、川端康成、岡本太郎、小泉八雲、里見.、志賀直哉、武者小路実篤など多くの文人が逗留した「皆美館」。鯛めしは、鯛のそぼろ、卵の白身、黄身をご飯にのせ、ワサビや海苔を添えてだし汁をかけたもので、元は茶席で出された料理といわれます。大橋川を望む庭園には樹齢300年の松が立ちます。 南へ進み、天神川を渡ると、堅町(たてまち)に入ります。かつて宍道湖と日本海を結ぶ水運で栄えた町で、街道の交流点でもありました。昭和レトロな店が並びます。 雑賀町(さいかまち)は、和歌山県雑賀町を拠点とした鉄砲兵集団「雑賀衆」が移住した町です。1585年、豊臣秀吉による紀州征伐によって雑賀衆は全国へ散りますが、松江城を築いた堀尾吉晴によって、この地に招かれました。堀尾吉晴は、織田氏や豊臣氏に仕えた経験から、雑賀衆鉄砲隊の威力を知り、足軽として防御を担当させました。算術などの科学技術をもつ雑賀衆によって、多くの寺子屋ができたといわれます。 松江の郷土料理右上)あご野焼き、炙りわかめ、赤テン上)宍道湖のシラウオのかき揚げ(鮭の幼魚)左上)ドロエビ刺身(甘エビより甘い)左)ヤマトシジミの酒蒸し(普通のシジミより大粒)大衆割烹なわのれん(松江市東本町2-16)にて シジミ漁 宍道湖では毎朝7時ころから、名物のシジミ漁が行われます。中海、大橋川をへて日本海とつながる汽水湖には、川魚、海魚、汽水特有の魚が100種類以上混在しています。ヤマトシジミをはじめ、シラウオ、コイ、スズキ、ウナギ、モロゲエビ、ケガニなどが、延縄漁、だば漬漁、投網漁、ます網など様々な漁法を使って採捕しています。シジミ漁には、手掻き操業、入り掻き操業、機械掻き操業があり、それぞれ1日の操業時間や採取量が決まっています。ヤマトシジミは水深4m以下では育たないため、シジミが採れるのは湖面の30%程度とのことです。戦前、戦後を通じて、宍道湖の淡水化事業が計画されますが、漁師や住民の粘り強い反対運動によって工事は延期され、平成14年、淡水化計画の中止が決まり、宍道湖のシジミ漁は守られました。 昭和の初め、国学者の菟道春千代は「 松江八景」 を選んで詩に詠んでいます。その中には、宍道湖の夕照、嫁ヶ島の白鴎、 袖師ヶ浦の暮雪、大橋の帰帆をあげています。 アトリウム特別企画 「Blooming」は、ディレクターに SUPPOSE DESIGN OFFICE 谷尻誠さん吉田愛さんを迎え、審査をクリアした28社が出展しました。 FE」は、オ IL.ベルギーの「SEMPRE ークやチークの古材を用いた室内外の家具や、伝統的な手吹きガラスのフラワーベース、カゴ編みの照明器具などを出展。リゾートのバーコーナーを思わせるブースデザインが、来場者の注目を集めていました。日本ではカネジンが扱っています。 アトリウムで開催されたLIFESTYLESALONには、沢山の来場者が集まりました。写真は南村弾さんと善明剛史さんによる「ハイムテキスタイルのトレンドアーカイブ」。 今回2回目となる「アップサイクルって何?02」では、カリモク家具とケイミューの協力によって、市場にはでない規格外の家具部材や外装パネル材を活用した、6名の建築家による作品が並びました。TORAFU ARCHITECTS(右上)は、運搬に使われる盤木(ばんぎ)やパレットを使ったスツールや家具脚の端材と外装パネル材を合わせたプランタースタンドを考案。展示のディレクターを務める芦沢啓治さん(右)は、テーブル天板やコースター、お香立て、ドア引き手など様々な活用例を示しました。山梨県は面積の約8割を占める森林資源をPR。山梨の県有林は日本で一番大きなFSC森林管理認証を取得した森で、面積は14万3千ヘクタール。なんと国内認証面積の3分の1を占めるそうです。その資源を活かすため、県産材の紙「やまなし森の紙」やカーボン・オフセット制度の利用促進などを進めています。会場にはコピー用紙、紙ストロー、紙ハンガーのほか、就労継続支援B型事業所ジョブスペースかけはしで制作された木のグッズが展示されました。県産材を利用し森を守ることを、地球温暖化防止や障がい者の雇用確保などSDGsにもつなげていきたいそうです。 左)東京吉岡は、わずか10mからオリジナルのジャガード生地を織れるサービスを展示。自分でデザインしたパターンのデータをもとに、裏表リバーシブルの生地を作れ、色は400色以上の再生PET糸から選べます。服飾のタグを織る設備を活用したそうです。左下)MeetDesignに出展した静岡のゼロミッションは、アクリル加工技術を活用した祈りのアイテム「KUU」を出展。透明感のある神棚は、どんな空間にも似合いそうです。中央下)木製トイのメーカーKondo Co.,Ltd.(大阪)は、ケーキやキッチン、カセットテープ、DJブース、トランク、家などをモチーフにした木製玩具を展示。最近はインテリアに調和して、そのまま飾っておけるようなデザインのトイが好まれているそうです。右下)スポーツ用品のミズノは、座りながらスクワットできる「ル・プリエスクワット」を提案。 その27 青山かすみ 「Come rain or come shine 」とは、ジャズナンバーの名曲なのだそう。まさに、この季節にぴったりなタイトルなのだが。じつは究極のラブソングらしい。降っても晴れても、富めるときも病めるときも、山より高く、海より深く私はあなたを愛するという誓いをバラード調に謳い上げるわけね!そういえばジューンブライドって、言いますものね。 昔は梅雨あけまでの湿気続きが悩みの種だったけど、ここ十数年ジメジメムシムシ感が薄らいできたように思う。その代わり局部的集中豪雨、川の氾濫、海の増水、線状放水帯が広範囲に広がったと感じている。グレートーンの梅雨雲が低く厚く空を覆っている中を、おかまいなしに旅客機がそこのけそこのけ低空飛行機が通ると言わんばかりな勢いで以前よりスピーディーにうるさく、ジャンボ機はより低空に威圧感を放ちながら通り抜けてゆく …… 知床の観光船事故発生時の慎重さはいったいどこへやら?である。すぐに元の木阿弥だ。海ルートに戻せばいいものを、わざわざ遠回りなんかして貴重で高価な航空機ガソリンを無駄に2年以上使い放題じゃない?庶民はつつましく、なるべくエコロジカルに、せっせと節約生活に励んでるというのに……これこそ空と地上の二極化か、平行線を感 じちゃうのよね〜きっと、これからますますこの平行線は近づくことはないんでしょうね〜 まぁそれを言うなら長谷川きよしさんの「黒の舟唄」じゃないけれど、男と女の間にも深くて暗い川が存在するのだから……まぁ漕ぎ出した船は振り返らずに漕ぎ続けるしかないのだが。手を取り合えば尚のこと休み休みでなければ、向こう岸へ辿り着くことは到底できないんじゃないかしら……世の常か?いつもどこかで戦争が続いている。 コロナ感染者が減少したからって渡航や旅行、イベントなどへのリバウンド傾向も急速過ぎな気がしてならぬ。自分としてはほんとにマスクを外して良いと到底思えないからだ。都心の交通量はコロナ後に増えたし、都心再開発事業はあちらこちらで目白押し、そのうえ新航路低空飛行の粉塵公害とも相まって東京の大気汚染が進んでいると思えてならない。幸いなことに、天空の恵みの雨がそれらの汚れを落とし、浄化作用が働いてくれるから救われているに過ぎないのだ。農作物も然りである。6月は水が豊富に貯まる月なのに水無月(みなづき)とはこれいかに? 通り道のツユクサが顔を出し、白いクチナシの花香り、紫アジサイとハナミズキの共演に心奪われる、そんな瑞々しい 6月に汚れちまった私も心洗われる想いがするのでした。 松江城の二の丸跡にたつ「興雲閣」は、島根県職員の設計、大工町の和泉利三郎(和泉組)の施工によって、明治36年に竣工したコロニアル風の擬洋風建築です。元々は明治天皇の巡幸を予定して計画されましたが、戦争の影響でかなわず、明治40年、嘉仁親王(大正天皇)の山陰道行啓の際に利用されました。その後は展覧会や工芸品陳列所として使用されましたが、平成23年〜平成27年にかけて明治期の姿に戻す修復工事が行われ、再オープンしました。 豪華な階段をあがった2階には、皇族を迎えるための貴顕室や大ホールがあります。1階の「亀田山喫茶室」では、コーヒーやタルト、ケーキ、フレンチトーストなどを頂けます。 松江城の北東約2kmの場所に、松平不昧公の好みによって1792年頃建てられた有澤山荘菅田菴(かんでんあん)があります。深い山中を思わせる苔むした山道が、訪れる人を茶室へといざないます。 菅田菴を築いたのは、松江藩の重臣有澤家でした。不昧公は鷹狩のあと菅田菴に立ち寄ったといわれます。御成門から楓の馬場をぬけ、山中を300mほど歩いて茶室へ向かいました。 現在の見学ルートは、御成門を西に進み、受付に至ります。 有澤山荘菅田菴の広大な敷地は、1638年、松平直政公が信州松本藩から出雲松江藩に移封された際、有澤家初代有澤直玄が拝領したといわれます。周辺の市街地化が進むなか、有澤家の地所として守られてきました。平成27年11月〜令和2年3月、13代有澤一男氏が事業主体となり国家補助事業として菅田菴改修工事が延べ4年半かけて行われ、約15年ぶりに一般公開が再開されました。かつて菅田菴を訪れた客たちが最初に招かれたのは、待合を兼ねた「御風呂屋」でした。山道を歩き疲れたころ敷石に続く門があり、鷹狩の汗を流す蒸し風呂が用意されています。ここで衣裳や気持ちを整えてから茶室に向かう趣向でした。御風呂屋は、茅葺き屋根の下に広い土庇をまわし、腰掛、袴直しの間、浴室(蒸し風呂)、脱衣の間、雪隠を備えます。こうした茶室建築は非常に珍しく、当時 42歳の円熟期を迎えた不昧公と、その要望に応えた有澤家6代 弌善(かずよし)の情熱が伝わってきます。穂垣に沿って石段を下ると茶室菅田菴が見えてきます。山の斜面を利用した変化に富んだ空間です。国の重要文化財であるとともに、一帯約17000㎡が国史跡・名勝に指定されています。 菅田菴は田舎家風の茅葺き入母屋づくりで、茶室は一畳台目中板入り。広大な山間を歩いたすえ一畳半の極小空間にたどり着きます。にじり口の上には、明かり採りの連子窓があります。 一畳台目中板隅炉の茶室。にじり口右手の洞床には、左手に墨跡窓があり、左手壁の丸窓からは月光が差し込みます。台目の中柱は面皮付きの赤松。一尺 4寸幅の中板は小林如泥の作で、板をつないで一枚板に見せています。中板は亭主と客の距離をとるこ とで空間にゆとりを与えます。客畳の天井は網代の落ち天井。土壁は明るい黄土色で仕上げられ、藁スサが散らされ松葉のように見えます。屋根に掲げられている菅田菴の額は、不昧公の字形を松江藩の御用窯である楽山焼で焼いたものです。柿葺の土間庇には刀掛けが備えられ、手水の先には織部燈籠があります。飛び石が高いのは、雪で履物を濡らさない工夫といわれます。各地の名茶室を訪ねた不昧公は、京都山崎の待庵(たいあん)、大徳寺王林院の蓑庵(さあん)、武者小路千家の官休庵などを設計の参考にしたと考える研究者もいます。 菅田菴の門をくぐると、松江城下を一望する景色がひらけるという、ドラマティックな演出がされています。 向月亭は不昧公の弟・雪川公の好みと伝わります。庭には玉砂利東京都が再開発計画の詳細を公表したのは を敷きつめ、太い青竹を添えた短冊形の延段を配しています。2021年12月。同日に住民説明会が開かれ、資 茶室は書院風で、土壁には古浦海岸の黒い砂利が使われてい料は2週間だけ公開されました。多くの周辺住民 ます。実は向月亭と菅田菴の建物は一体で、水屋を共有していまや利用者が計画の存在を知らないまま、2022 す。瓦屋根の部分は松江城に近い有澤家屋敷の一部を移築し年2月には異例のスピードで東京都都市計画審 たもので、明治維新後に有澤家が暮らしたこともあるようです。議会で承認され工事が始まろうとしています。4 月27日には、神宮外苑を歩きながら計画案を知 るためのフィールドワークが、風見利男港区議 員(共産党港区議団)の呼びかけで行われましくつろぎの間では、お抹茶と菓子(桂月堂・薄小倉)を頂きました。庭にはサツキの低い刈り込みがまわり、その先の斜面に立つカシなどを切りそろえることで、樹海のような見事な景色を作り出します。今回の改修工事を設計した文化財建造物保存技術協会は、オリジナルの部材を可能な限り残すため「半解体修理」という手法をとりました。雨風を避けるため全体を仮設屋根でおおい、各部材に番号をつけて取り外し技法や年代を調査した上で、柱梁や庇の補強・交換のほか最新技術を使った耐震工事も行っています。庇には 20種類以上の皮付き丸太が使われていて、周辺の山でも木が採取されました。屋根は金属板から創建当時の茅葺きや柿葺に替えられ、茅は約 14トンも使われたそうです。 松平家に代々仕えた有澤家は、松江城の東側に大きな屋敷を構えていました。明治維新の際は多くの士族が松江を離れるなか、有澤家はこの地に残り、不昧流の宗家として茶道を伝え続けてきました。13代の有澤一男氏は「菅田菴を松江の茶の湯文化を伝える拠点にしたい」といいます。移築される茶室が多いなか、菅田菴は江戸時代から変わらない自然にあるからこそ、不昧公の目指した茶道をもっとも色濃く感じられるのでしょう。 参考文献:『令和につなぐ不昧のこころ』山陰中央新報社刊菅田庵 -その成り立ちと歴史藤間寛菅田庵向月亭ほか1棟保存修理の概要布施直樹 松江城の東側 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】