Colla:J コラージ 時空に描く美意識












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風花 https://collaj.jp/ 永遠のリフレイン 時空を超える美意識 カンボジア復興のゆくえ カンボジアを訪ねたのは、もう15年ほど前になります。1975年代から3年半にわたり、人口約600万人のうち170万人以上(諸説あり)が虐殺されたといわれるカンボジア。原始共産主義を標榜したポルポト政権下では、教師、学者、知識人だけでなく、都市に暮らし文字が読めるだけで強制移住や殺害の対象となり、政府機関、病院、学校、寺院、裁判所、図書館が廃止され、貨幣経済が崩壊しました。猜疑心に悩まされたポル・ポトは、まだ教育を受けていない少年少女を兵士に仕立て、思想教育を施しました。 ポル・ポト政権の崩壊後、1990年代からカンボジア復興へ向けた国際協力が活発化し、日本は主導的な立場となります。返還不要のODA(政府開発援助)を提供し、道路、橋梁、浄水場、病院、港湾施設の建設に協力してきました。一方民間では縫製工場の建設ラッシュが続き、人件費の上がった中国からカンボジアへのシフトが進められました。 そんななかシュムリアップに近いトンレサップ湖の湖畔では、今も100万人を超える人々が水上生活を営んでいます。大半はベトナムなどからの難民で、カンボジアの戸籍をもたないため市街地に暮らすことが難しいのです。トンレサップ湖は雨季と乾季で大きく面積を変えるため、住民たちは仮設的な水上住宅で不安定な生活を続けています。 ある意味難民キャンプともいえる水上の街を、沢山の観光船が往来します。観光客は大切な収入源である一方、観光船が大きな波をたてたり、ホテルの廃水が流れ込むなど水質悪化をもたらしています。また生活廃水や糞尿の垂れ流しによって、生活の糧となる魚の量も減っています。 カンボジア復興のネックとなったのが、教育の問題でした。教育者となる30代〜40代の人口が極端に少なくなり、強制労働に耐え抜いた若者や海外留学で命拾いした学生が帰国して、海外の援助を受けながら学校を再開しました。ポル・ポト政権崩壊から30年ほど経ってから、その責任を問う裁判も始められましたが、かつての中堅幹部には現政府を担う人物も多く、明確な結論がでないまま政権幹部の高齢化による記憶の風化がすすんでいます。 従来の教育や知識を否定したポル・ポトですが、本人は豊かな農家に生まれ高度な教育を受けています。奨学金を利用して宗主国フランス・パリに留学しエリート育成機関グランゼコールのひとつ国立通信工学校に入学。そこで後の政権幹部となるイエン・サリなどど出会い、1950年頃からフランス共産党クメールセクションで活動をはじめます。27歳で帰国したポル・ポトは一時、私立高校で歴史を教えながらパリで知り合ったキュー・ポナリーと結婚し、60年にはプノンペンでカンボジア共産党を結党。ジャングルに潜伏してゲリラ活動を続けながら中国を訪れ、毛沢東の文化大革命に触れて強い影響をうけたようです。 農村部に基盤を築きつつ親米派のロン=ノル政権と激しい戦闘を展開しながら、ポル・ポト派は重税から農民を解放し支持を集めるようになります。1975年、首都プノンペンに大攻勢をかけて政権をとりました。その背景にはベトナム戦争をめぐる大国間の思惑や支援があったといわれます。その後国際社会は、ポル・ポトによる大虐殺を見過ごしてきました。まだSNSもない時代とはいえ、100万人規模の虐殺に対して懐疑的な政治家やジャーナリストも多くいました。1984年の映画「キリング・フィールド」などによって、ようやくその実態が世界に知られるようになります。 現在、カンボジアでは中国資本のマンションやリゾートホテル、カジノ建設が相次いでいます。ODAの額は日本を抜いて1位となり、高速道路や2023東南アジア競技大会のための大規模スタジアムが建設されました。カンボジアのゆくえは中国の投資家や観光客が握っているともいわれます。 Vol.31 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ おはよう いちばんあたらしい今日と光を きみに Colla:J 創刊 15年記念 コラージのフォトコラージュ展 2022年3月4日(金).3月12日(土) 11:00-19:00※会期中無休ときの忘れもの 東京都文京区本駒込5-4-1 LAS CASASTEL.03-6902-9530 http://www.tokinowasuremono.com/ ※ 時節がら会期変更の可能性があります。事前にご確認のうえご来場ください。 おかげさまで、Webマガジンコラージは創刊から15年を迎えることができました。雑誌の編集は写真、文章、図版などのコラージュにより構成され、料理のレシピと同様、素材の融合から様々な世界観が生まれます。その過程にある姿を会場でご覧頂ければと思います。「キキとココ」の連載でおなじみ、タカハシヨウイチさんの原画も展示する予定です。会期中は仮設のコラージ編集室を設け、スタッフの作業風景にも触れて頂けます。ギャラリーは建築家阿部勤さん設計の建物で、見ごたえがあります。どうぞ、この機会にお気軽にお運びくださいませ。 第60回ミラノサローネ6月に開催延期 2022年4月開催予定だったミラノサローネ(会場ロー・フィエラミラノほか)は、2022年6月7日(火).12日(日)に延期されました。 アンコール遺跡は、トンレサップ湖北岸にあるクメール王朝時代の遺跡群です。そのひとつアンコールワット(王都寺院)はクメール建築の最高傑作といわれます。9世紀初頭に成立したアンコール朝は、権力誇示のため巨大寺院を建築し、王権継承の儀式を大々的に行いました。前王よりも荘厳な寺院を建てることが、権力の維持に欠かせませんでした。アンコールワットは12世紀前半に即位したスーリヤヴァルマン2世により建造されヒンドゥー教のビシュヌ神を祀っています。30年以上の歳月をかけ、一部未完成のままスーリヤヴァルマン2世を埋葬しました。その中心は神々の住む須弥山を表し、貴重な水をたたえた広大な池が王権の富を象徴しています。 アンコールトムの真ん中に建てられたバイヨン(美しい塔)は、宇宙の中心にある寺院といわれます。バイヨンをはじめ沢山の寺院を建設したジャヤーヴァルマン7世は、チャンパ王国(ベトナム)の支配からアンコールを解放し、戦争で荒廃した首都の復興に尽力しました。外敵の侵攻から新首都を守るため、王はアンコールトムの城壁と外構を築く一方、バイヨンを戦争とは無縁の仏(観世音菩薩)の微笑みで満たしました。三島由紀夫は1965年にアンコールを訪れ、死の前年に最後の戯曲「癩王のテラス」を発表しました。落成したバイヨンを見渡すテラスで、病魔に侵され死を目前にした王の肉体がバイヨンとして蘇り、滅びゆく精神と対話し、黄金に輝く肉体が勝利して劇は終わります。三島由紀夫は1970年、市ヶ谷駐屯地のテラスで隊員にむけた演説を行った直後に自決しました。バイヨンのレリーフには、チャンパ王国との戦いが多く記録されています。スーリヤヴァルマン2世がヒンドゥー教を優遇したのに対し、ジャヤーヴァルマン7世は仏教を信仰しました。政治力をもったヒンドゥー教のバラモンたちを、内政から排除する目的もあったと考えられています。三島由紀夫はバイヨンの威容を「群れだつ観音のお顔は、日ざかりの影を刻みながら、妙なる微笑をうかべて、盛花のやうに重なり合ひ、思ひ思ひの向きへ御慈悲の光を放っています。五十基の塔のおのおのに、百七十二の巨きな観音のお顔が林立し、(中略)このふしぎな複雑な形は、信仰の火を放つために、いちばん巧みに組み立てられ、一度火がつけば決して消えないやうにできてゐるのです。」と語らせています。しかし荒廃した都から人々は去り、バイヨンを見つめるのは王と第二王妃だけなのでした。 広大なアンコールを巡るため、象に乗った観光ツアーが人気でしたが、熱中症で象が死んだことをきっかけに、2019年から禁止されました。 タ・プロームはジャヤーヴァルマン7世が母のために建立した仏教寺院です。完成後も増築が繰り返されヒンドゥー教寺院に改装されたと考えられています。密林で遺跡がどのように変容するかを示すため、遺跡を侵食するガジュマルなどがそのままにされています。諸行無常を感じさせる寺院の姿は日本人に人気です。 アンコールの遺跡内にも豊かな水田が広がります。稲の多毛作が可能でかつては穀物輸出も行なわれていましたが、ポル・ポト政権による農業改革は深刻な飢餓をもたらしました。 基壇の上に5つの塔が並んだ「プラサット・クラヴァン」。アンコールの遺跡にはラテライト(鉄・アルミを主成分とする紅土)から作られるレンガが多用されます。レンガで骨格を組み、その上を砂岩カバーしてレリーフを彫る寺院が多いなかプラサット・クラヴァンはレンガだけで作られています。 内部にはヴィシュヌ神の姿がレンガに直接彫られています。上に行くに従って壁が内部にせり出した「せり出し構造」が見られます。レンガの壁構造は屋根を掛けることが難しいため、壁をせり出すことで塔や回廊を形作りました。 TIME & STYLE OSAKA 大阪 南船場にオープン タイムアンドスタイル関西エリア初の直営店 TIME & STYLE OSAKAがオープンしました。場所は昭和レトロな雰囲気ののこる南船場。江戸時代は町人文化の中心であり、繊維問屋街として賑わった旦那衆の街です。大阪メトロ心斎橋駅から徒歩7分と便利で、近くにはガエターノ・ペッシェ設計のオーガニックビルがあります。 写真組合により1963年に建てられた「大阪写真会館」には、クラッシックカメラ店や写真ギャラリーなどがあり、TIME & STYLE OSAKAはその1階に出店しました。通りから店内が見える開放的なつくりで、高さ4mの天井に58年を経た味わい深い梁と壁面がつづくファクトリーのような空間です。鉄水黒のフローリングが家具と空間を調和させています。 全国の工芸産地で作られる陶磁器、ガラス器、漆器などオリジナルのテーブルウェアが揃っています。職人技を活かした照明器具や展示什器が織りなすリズミカルな空間構成も見どころです。2017年アムステルダムに海外初出店したタイムアンドスタイルは、今年春イタリア・ミラノのブレラ地区にTime & Style Milanをひらく予定です。 内田 和子 つれづれなるままに 第回   吉例顔見世興行大歌舞伎 12月下旬、三年ぶりとなる京都南座の歌舞伎顔見世興行を観に行った。 85 南座は河原町から四条大橋を渡り八坂神社を正面に鴨川の脇に建ち、招き看板を上げて京都風情を一層盛り立てる。ご贔屓の役者が出るからと言うばかりではない。なぜが暮れの京都には人を惹きつける魅力がある。歌舞伎帰りの先斗町や祇園、錦市場のぶらり歩きは、私の「年の瀬京歳時記」ともなっている。しかし、今回の顔見世興行はこれまでとは様相が異なり、随分おとなしく寂しいものであった。客席の 3分の 1はタスキがかけられ、桟敷席は全て使われていない。いつもは着物姿の芸妓さんらしき背筋のすっとしたお姉さんが何人もいるが、ほとんど見かけない。舞台は 2部から 3部と演目時間も短縮され、大勢の役者が次から次へとちょっとだけ「顔見せ」することはない。どこかの大旦那が掛ける大向こうの声もない。幕間の楽しみのお弁当は予約制で持ち帰りのみ。中では飲食が禁止されており、休憩時にどら焼きを口に入れたら、「禁止」ですと、係りの人が飛んできた。いやはやこれはきびしい。コロナ下の制限とはいえ、ここまで規制された歌舞伎観劇は役者だけではなく、観客者にとっても我慢のしどころ、ここでひとこと言ったら、歌舞伎贔屓が廃るとグッと堪えた。演目は「三人三吉巴白浪(さんにんさんきちともえのしらなみ)」と「身替座禅(みがわりざぜん)」、「三人三吉」は初めて観るもので、最初は筋がわからなかったが、有名な「月も朧に白魚の …」の名調子はこの芝居の聴かせどころでもある。 「身替座禅」は、以前も観たことがあるが、酔いつぶれた主 吉例顔見世興行大歌舞伎 人(仁左衛門)の艶やかな姿と、奥方(芝翫)の怒り心頭の所作に、可笑しさが止まらない。いつもながら、演目、出演者が載ったガイドは家に帰ってゆっくり楽しむ。踊りが上手くセリフのはっきりした役者の名前を知るには必須アイテムにもなっている。今回の一押しは「中村隼人」。以前、テレビの時代もので出ていたことがあったが、歌舞伎役者とは知らなかった。歌舞伎も好きな役者がいるか否かで随分と違う気もする。追っかけとまではいかないが、仁左衛門が出るとなれば、空席待ちをなんどもトライし、同じ演目を何度観てもいいとさえ思う。しか 1 し、歌舞伎そのものを楽しんでいくには、後に続く若手の役者にも頑張ってもらわないとと、いつしか応援団のような気持ちにもなっ 4 ている。この時期、どの世界の役者も大変のようだが、稽古の結果はみんな舞台にでる。特に歌舞伎は年寄りが多く観にきている。目の肥えた耳の肥えた高齢者を唸らせるのは、やはり地道な稽古と鍛錬しかないだろう。と、憚りながら思う。 4名門が幅を利かす世界であっても、それだからこそ、その名に恥じぬ稽古を重ね、芸を磨き、歌舞伎の魅力を伝承してほしい。 歌舞伎の面白さを教えてもらった琴平の金比羅歌舞伎は、コロナ騒動以来中止となっている。今年も月公演の中止が決まったそうだが、役者の顔がすぐそばに、ほつれた糸さえ目に入り、役者の息遣いを肌で感じながら観る歌舞伎、時々舟を漕ぎながらも幕間の幕の内弁当をビールと一緒に楽しむ。贅沢の極みと言いながらなんとも至福のひとときである。歌舞伎の醍醐味を知った、金比羅歌舞伎と京都南座の吉例顔見世興行、大向こうの掛け声とマスクなしのヤンヤヤンヤの手拍子、興奮と余韻がいつまでも続き、見えを切ったセリフが思わず口から出てくる。そんな懲りない歌舞伎の魅力が日も早く戻ってくるようにと願う。 トンボ帰りで観に行った南座、帰りに月の「都をどり」のちらしを手にした。祇園甲部歌舞練場が改修工事により南座で行うとある。桜の咲く祇園「春の都をどり」を南座で楽しむのもまたよきかな、よきかな …… フランスの商都リヨンは、パリから南東へ約380km(およそ東京〜大阪間)。周辺を含めた人口は230万人以上で、フランス第2の都市といわれます。北東から流れるローヌ川と、北から流れるソーヌ川が市内で合流し、古くから交易の街として栄えました。この街の基礎を作ったのは、ローマ人です。紀元前50年前後、ガリア人の地に植民都市ルグドゥヌムを築き、パリを含む北フランス一帯に広がるガリア地域を治めました。ローマ人はフルヴィエールの丘に街を築き、いまも遺るローマ劇場はオペラの上演などに利用されています。 ローマ人は川の流れる平地には降りず、生活用水も山の泉から水道で引いていました。街に大きな変化をもたらしたのは、ルグドゥヌムの戦いでした。五賢帝の時代が終わり192年、映画「グラディエーター」でも描かれた皇帝コンモドゥス暗殺によってローマは「五皇帝の年」と呼ばれる内戦状態に入ります。5人の帝位請求者(ペルティナクス、ディディウス・ユリアヌス、ペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌス、セプティミウス・セウェルス)が皇帝の座を争いました。 5人のうち、最初に皇帝となったペルティナクスは解放奴隷の子から教育者になり、ローマ軍にはいると百人隊長から軍司令官に上り詰めた叩き上げの軍人で、数々の軍功をあげてローマ知事のような立場になりました。当時66歳、元老院の支持をうけ皇帝に推されれると膨張したローマ財政の健全化など積極的に取り組みます。ペテティナルクスの失敗は、彼の後ろ盾となった近衛軍長官トレーの冷遇でした。見返りとしてエジプト長官の座を期待したトレーを冷遇したため軍部の不評をかい、3カ月もしないうちに内乱が起こり暗殺されます。 次に皇帝となったのが名家出身の上流貴族ユリアヌスです。ローマ人のエリートコース「名誉あるキャリア」を着実に登り、トレーの支持によって元老院に圧力をかけ帝位を奪いますが、現場を知らないエリートに対する反感から、地方軍団の忠誠を得られませんでした。この気を逃さずセプティミウス・セウェルス率いる大軍団がローマに向かって南下するとユニアヌスは孤立し、自分を守っていた近衛兵に暗殺されます。皇帝になってわずか2カ月後でした。ローマに無血入城したセウェルスは近衛兵を解散させると、自分の軍団を警護に当たらせます。市民に治安と食料(小麦)の供給を宣言し皇帝に任命されると、三番目の帝位請求者ペンケンニウス・ニゲルを討伐するためニゲル軍が駐屯する中東へ進軍します。 北アフリカ(現在のリビア)で生まれ育ち褐色の肌をもつセウェルスは、ローマ帝国で最初の非インド・ヨーロッパ系の皇帝となりました。建国時はローマ出身者しか皇帝になれませんしたが、やがてローマ属州からも有能な人材を登用するようになり、セヴェルスの時代は北アフリカ出身者が幅を効かせました。そうした人材を子供時代から育て登用したのはコンモドゥスの父、哲人皇帝として高く評価されるマルクス・アウレリウス・アントニヌスでした。建国から220年ほどでついにアフリカ出身者が皇帝となったローマ。建国約220年でバラク・オバマ氏が大統領となったアメリカを思わせる出来事でした。 セウェルスはブリタニア(英国)の司令官クロディウス・アルビヌスを副皇帝に任命し、共同してローマを治めました。しかしセウェルスはニゲルとの戦闘に勝利するとアルピヌスとの同盟を破棄。アルビヌス軍はブリタニアを出て、ガリアの中心地であるルグドゥヌム(リヨン)に駐屯します。197年、両軍はリヨンで衝突し、街は焦土と化しました。ローマ軍同士の戦いとしては最大規模で軍勢は計15万〜30万人といわれ、2日に渡る戦いでセウェルス軍が勝利しました。セウェルスはアルピヌスの妻と息子の遺体をローヌ川に投げ込み、首をローマに送ったと言われます。アルピヌスを支持した29人の議員も処刑され、セウェルスは「セウェルス朝」と呼ばれる一時代を築きます。塩野七生さんは「五皇帝の年」を描いた『ローマ人の物語ⅩⅠ』のタイトルを「終わりの始まり」としています。「内線はやはり悲劇である。犠牲になった個人にとっても悲劇だが、「国家」にとっても悲劇である。これさえ起らなければ、ローマ帝国という「共同体」に貢献できた多くの有能な人材が、ただ単に敗者になったというだけで消されてしまう。」塩野さんは内戦の虚しさを、このように表現しました。セウェルス朝の後、ローマは「軍人皇帝時代」と呼ばれる混乱期に突入していきます。ローマ帝国が滅びると、リヨンにはカロリング朝のもとキリスト教の司教座が置かれ、大司教による支配が続きました。13世紀になると絹織物の街として栄え、1312年にフランス王領となると市場がひらかれ、ヨーロッパ各地から人が集まる国際的な産業・金融都市となります。明治10年代には早くも横浜正金銀行リヨン出張所がおかれ、京都・西陣の経営者たちがリヨンに渡り、ジャカード織り機を学びました。ヨーロッパで蚕の病が流行した際は、日本から蚕の卵や生糸が輸出され、リヨンと日本は繊維を通じて深い関係にありました。 すでにコロナも年目。その間に、私の仕事で、何がどう変化したか。 まず、講師としての仕事に、大きな影響があった。早稲田大学オープン カレッジで「西欧食文化ヒストリー」という講座を担当してきたが、こ れが一昨年の春、コロナのために中止となった。その年の秋はもちろん、 昨年の春も秋も、開講されないままに終わった。2年前に大学当局から「中止」の決定を知らされた時、いささか驚いた。というのも、その時 点では、世間ではまだコロナについて、それほど深刻に捉える雰囲気が ない段階だったからだ。実際、大学本体の講義を基本的にリモート中心 で行うという決定も、他大学と比べて、非常に早い段階での決定だった。 2 早稲田はずいぶんと慎重なんだな、と当初は思った。だが、その判断が 極めて正しいものであったことを、その数カ月後に知ることになる。 90 この「西欧食文化ヒストリー」の講座が、今年の春季から再開されることになった。その連絡を頂いたのが昨年の暮れ。私自身は「2022年の春も、講義再開はむずかしそうだな」と、その時点では思っていた頃だった。だから今回も再び、その決断に驚かされた。2年前の「中止」の判断が、コロナの動向を正確に予測して為されたものであったことを思うと、今回の「再開」の判断もまた、そうであることを願うばかりだ。 一方、石澤季里さんが主宰する小さなカルチャー・スクール「プティ・セナクル」。ここでは「グルメ・レクチャー」という講座を二十年ほど前から担当している。こちらは、いち早く「ズーム」利用でのリモート講義へと移行したため、「講義の中止」という事態には至らなかった。この3月に行われる講義も、一部ズームで行われる予定だ。このズームでの講義、何度か経験して、いろいろ思うところがある。まず、利点。遠方からの受講が可能となったこと。「講義会場」という場所の制約から解き放たれた、ということになる。また、会場への往復を必要としないので、講義直前まで準備に集中できることも、ありがたい。次に、ズーム講義の難点。私の講義は、基本としてパワーポイントを使用し、多数の画像を提示しながら話をする。分間の講義で百枚を越す画像を映し出すことも珍しくない。細かい話になるが、画像を提示する時、その画像の基本情報と共に、説明すべき項目など、それぞれの画像に自分にとって必要なメモ書きを入れている。パワポで「プレゼン」するとき、プレゼンターはふつう「開発者ツール」を利用する。このモードだと、プレゼンター(講師)の P C上には、提示画像と共に、そのメモ書きを入れた「ノート」が同時に表示される。そのおかげで講師は、自分のメモ書きを参照しながら話を進めていくことができる。 ところが、ズーム上では、パワポの開発者ツールの利用が難しい。面倒な手順を踏めば、その利用が可能であることは理解している。だが、ズームはその開発段階で、「パワポの開発者ツールの利用」を前提としていなかったことは明らかだ。なので、ズーム利用の講義では、受講者 art de la cuisine fran.aise au 「Googleの翻訳力=英訳力」は大きく向上していて、西欧系の主要言語さらには中国語でさえも、少なくとも「専門書として最低限の知識を得るに必要 L' なレベル」での「英訳水準」が達成されつつある。しかも、その水準は、日々向上を続けている。なので、私のような立場にある人間にとっては、参照可能な資料(史料)の幅と奥行きが、これまでとは比較にならないほど奥深いものになりつつある。革命的な変化だと言っていい。残念ながら、今は、同じ書籍を「 Google日本語訳」しても、3頁も読むと頭が痛くなるような水準の日本語訳にしかならない。だが、あと5年もすれば、事態は劇的に改善されている可能性が高い。いずれにしても、グーグルは、言語間の壁を壊しつつある、それも、急速な勢いで。 私自身は、自分が購入した書籍や雑誌を自分でスキャンしてデータ化するという作業を、十年ほど前から続けてきた。これに、 Googleを筆頭に、様々なサイトからダウンロードした書籍や研究論文等を加えると、現在その資料のデータ総量は1ギガ少々に達している。ファイル総数ではおそらく十万点を超える。すべて自分の興味と関心のある事柄だけで構成された、お手製データベースだ。これが、しばらく前から、物を調べるときに大きな力を発揮し始めている。検索次第では、思いもかけない資料が表示されることがあって、自分で集めた資料なのに驚ろかされるし面白い。 コロナは人を内向きにさせ、誰にとっても、自分自身の世界を見直す機会となっているはず。2年も考えれば、誰だって、あれこれ考えが変わる。2022年は、世界も日本も、そして私にとっても、大きな変化の年になると思う。 の皆様に画像を提示しながら、「メモ書き抜き」でお話をすることになる。私は子供の頃から、画像(イメージ)と音(音楽)で物事を記憶する傾向がある。なので、映し出す画像を見れば、「話すべき内容」が頭に浮かぶ。しかし、それも程度問題で、分間に提示する百枚を超える画像のすべてについて、自分が入れたメモのすべてについて、これを瞬時に思い出しながら話を進めていく、なんて芸当はとてもできない。私の実感では、メモ書きの 15〜20%くらいが抜け落ちてしまう。正直に告白すると、その中には、それなりに重要なポイントとなる箇所が含まれてしまうことがある。いま、その対策を考慮中で、私(講師)の側でサブ・ディスプレイを接続して、そちらに「メモ書き」を同時表示させるやりかたを検討中だ。もちろん、メモ書きを印刷して手元に用意することもできる。しかし、そんな「前時代的」なことは、したくない。なんとか、デジタルの力を最大限に利用して乗り越えたいと、意地を張っているところだ。 ところで、最近の講義で、こんな話をした。 17世紀中頃、優れた王宮付きの料理長が登場したことで、ヴェルサイユ宮殿で出される料理が、前の時代に比べて大きく変化した。その料理長が残した有名な料理書があり、これが Googleブックス上でダウンロード可能となっている。ただし、それは、今から5百年近い昔のフランス語で書かれている。以前ならば、これを辞書片手に十ページほど目を通して、おしまいだった。だが、しばらく前からは違う。 Google翻訳の力を借りて英訳してみる。すると結構、読めてしまう。専門外の方だと難しいかもしれないが、食文化をそれなりに研究している人で あれば、十分役に立つレベルの「英訳」で読むことができる。5百年前のフランス語の書籍を、である。ここ数年で dix-neuvi.me si.cle ウィーンを徘徊したヒトラーの青春時代 芸術家を目指したアドルフ・ヒトラーが、実家のあるリンツから約150kmのウィーンにやってきたのは1907年のことでした。ヒットラーが最初に暮らした下宿は、ウィーン西駅の近くシュトゥンペル通りにあります。『ヒトラーのウィーン』(新潮社)を書いた哲学者中島義道さんは、若いヒットラーが抱いたウィーンへの嫌悪感のなかに、当時の住宅事情があったと推測しています。ヒトラーは女性オーナーの家を間借りして、12畳程の部屋を音楽家を目指す友人アウグスト・クビツェクとシェアし、ピアノと2台のベッドをおいていました。ヒットラーはクビツェクに「ウィーンの住宅問題解決のための研究をしている」と語り、労働者のための住宅設計図を見せたそうです。 一方、エゴン・シーレやグフタフ・クリムトなど新しい美術活動を、ヒトラーは悪徳と退廃に支配された忌むべきものと捉えていました。分離派などが花開いたウィーンにいながら、彼らの活動と交わりをもつことはありませんでした。 ヒトラーは1907年9月に造形美術アカデミーの受験に失敗し、そのことを友人や家族に話せないでいました。同居するクビツェクが音楽学校に合格する一方、合格を偽って暮らしたヒトラーは、毎日のようにシェーンブルン宮殿に散歩にでかけていました。翌年の受験も失敗したヒトラーは友のもとを去り、その後、浮浪者収容所に入ります。数々の歴史の舞台となったシェーンブルン宮殿を寂しく歩いていた青年は、1938年、ウィーン市民に熱狂的に迎えられることとなります。 シェーンブルン宮殿の庭を寂しく歩いていた青年は、30年後の1938年、オーストリアを併合したドイツの国家元首としてウィーンに凱旋し、ホーフブルク王宮前の「英雄広場」で20万人以上の市民に迎えられることとなります。ちなみにホーフブルク王宮は、日本の迎賓館の手本になったといわれます。 ワグナーを信奉したヒトラーは、ウィーン国立歌劇場に足繁く通い「ローエングリン」だけでも10回以上観たそうです。最も安い立ち見席で数時間にわたり立ったまま鑑賞し、友人にその興奮を語り続けました。 ヒットラーに大きな影響を与えた人物として、当時のウィーン市長カール・エルガーが挙げられます。ウィーン市街の近代化を進め、都市ガスや電気、市電、ガス燈の導入、貧困層の支援策などを次々と実行し、皇帝フランツ・ヨーゼフよりも人気があったといわれます。エルガーは労働者階級の出身であり、禁欲的なカトリック教徒である一方、過激な反ユダヤ主義者でした。当時、ウィーンの発展を支えていたのは、金融業者や工場主、弁護士など裕福なユダヤ人による投資で、新進芸術家に肖像画や建築を依頼したパトロンでもありました。 皇帝フランツ・ヨーゼフは、市民選挙で選ばれたエルガー市長の承認を3度も拒否しています。ヒトラーはエルガーの人間的な魅力に心酔し、大衆への心理状況を見抜き、その心を掴む能力を彼から学んだという研究者もいます。「ウィーンは私にとって最も根本的ではあっったが、最も過酷な人生の学校であり続けた。(中略)私は、この都市で大きくは世界観の基礎を、小さくは政治的な見方を習得した。」と「我が闘争」に記しています。 ヒトラーはギリシャのパルテノンを模した国会議事堂を気に入っていました。議会を傍聴しては、混乱する議場を見て憤慨し、友人クビツェクに深夜まで政治批判を語りました。20世紀のはじめウィーンには世界から様々な人々が集まり、芸術、政治、科学、医学について熱く語り合いました。ヒトラーも当時は、その一人にすぎなかったと思われます。 下宿を出たヒトラーは、20歳の頃からメルデマン通りにある「独身者施設」で暮らしたと考えられています。低所得者向けの寮で、清潔な部屋と食堂、読書室、シャワー、サロンが設けられていました。ヒトラーはユダヤ人画商ラインホルト・ハーニッシュと知り合い、絵葉書や風景画を描いて売りました。施設には身を持ち崩した知的エリートもいて、ヒトラーは政治的理由でアカデミーを中退した人物として振るまっていました。1913年24歳になったヒトラーはドイツ・ミュンヘンに移り、翌年には第一次世界大戦がはじまります。 ドラゴンシリーズ 88 ドラゴンへの道編真っ白な時間吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 26 歳の頃、フランクフルトに住んで現地の旅行会社で仕事をし ていた僕は、人生の岐路に立ちこれからどう生きようかと悩んでいた。ようやくドイツ語も上手く話せるようになり、ドイツで仕事して生活してゆくことに少しだけ自信が持てるようになった。 日本に戻る場所の無い自分は、これからずっとドイツで生きてゆくのなら新しいことを始めなければと考えていた。それまでの 経験を生かし、エアライン 社が日本人スタッフを募集している ことを知り応募した。面接では英語とドイツ語での面接が行われたが、運よく良い返事をもらうことができ、ドイツ本社の採用と言うことでルフトハンザに行くことに決めた。 ドイツに渡り 年の歳月が流れ、僕の仕事と人生も形を帯びて きたように感じられ、ドイツでの仕事も安定したものになることが決まり、親父にもその旨を報告した。当時は両親と兄弟は飛行 機の料金が定価の %で乗れるようになることもあって、特に 人の姉貴が喜んだ。 翌週から新人トレーニングセンターでの研修が始まることが決まった。しかし、何か心に棘が引っ掛かったような感覚が自分の中から消えない。この解せない感覚は何だろうかとトレーニングが始めるまでしばらく考えていた。日に日にその違和感は自分の中で大きくなっていった。そして、これからの一生をどのように生きてゆきたいかと言う根本を考えてみると、将来が安全で確実な人生を生きるより、何か未知なものに挑戦したい、奥底にある気持ちがあることに気付いた。そして、直ぐ翌朝にルフトハンザへ電話した。知人の配慮に迷惑を掛けたが、自分でも驚くくらいあっさりと潔く翌週からの研修を辞退することを伝えた。 それから僕の腹は決まった。何の根拠も無いのだが自分で仕事を見出し、人生を生きてゆくことを決めたのだ。それまでドイツで経験したことは酪農家での牛の世話と、日本人旅行者へのガイ 2 5 15 2 ドや通訳、そして、旅行手配のオペレーター、それが僕の経験の全てだ。本当に何のスキルも無い、ただ僅かに唯一ドイツ語が話せるだけだった。 20 フランクフルトに住んでいた僕は、ベルリンで自分の会社を作ることに決めた。ベルリンにはそれまでに、度しか行ったことがなくて何のツテもなかったが、何故だかベルリンで会社を始めることだけは自分の中で確信的なものだった。関 3 係ないが、当時スネークマンショーで坂本龍一が『やっぱ、ベルリンでしょ、ベ 2 ルリン。』と言っていた。僕は当時、フランクフルトでアバルト社のアウトビアン 3 キと言う小さな車に乗っていた。バランスの取れた小さなボディに、イタリアン 9 レッド、ブラックのアクセントの組み合わせは、サソリのロゴととても合っていた。僕の代の大切な記憶として、強く残っている景色がある。 フランクフルトを夜中に出て、アウトビアンキでベルリンまで600キロのアウトバーンを走り続けた。夜の時ごろにフランクフルトを出て、途中で一度の給油と食事をするだけで、冬のドイツに夜明けが来るころ、ぶ厚いダークグレー 7 の雲に覆われた西ベルリンの空が少しだけ明るくなる朝の時過ぎに東ドイツを抜けて西ベルリンの国境を越えることができる。 制限速度が無制限のアウトバーンは夜中には大型のトラックが唸りを上げながら、4車線ある最も遅い左側のレーンを平均時速160キロくらいで連なって走ってゆく。右側の車線はそれ以上のスピードで、乗用車がロケットのようなスピードで追い抜いてゆく。それは戦後ドイツの復興の速さを象徴するように、敗戦から立ち上がり経済大国に向かうドイツ国民の戦いを象徴するように思えた。 僕のイタリアンレッドのアウトビアンキが出せる最高速度は120キロ、後ろから来る大型トラックに大きな警笛を鳴らされながらもアクセルを思いっきり限界までずっと踏み込みっぱなしで片道600キロの道のりを夜中から朝が来るまで走り続けた。当時の西ドイツから東ドイツまでのアウトバーンのルートはフランクフルトを北上し、途中の緩やかな山々抜けて、カッセルを経由して、ウォルフスブルグやブラウンシュワイグを経由して東ドイツの国境にたどり着く。国境の検問所を通過するとそこから東ドイツの平坦な大地を抜けるアウトバーンはマークデブルグを通過し、そしてブランデンブルグを越え、検問所を通過して入るしかなかった。西ドイツから東ドイツを経由する道の両側には大きな柵が設けられ、一定間隔で監視塔から機関銃と東ドイツの兵隊が見える厳しい監視化にあった。絶対にアウトバーンに入ることも、出ることもできない一本道になっていた。 70 その片道600キロの道を抜けて、ベルリンの街に入るとそこは長い航海の先にある陸の孤島。西ドイツの他のどの街にも無い空気があり、パリやロンドンの 1 80 ような大都市とも違った。社会主義国東ベルリンの中に取り残されながら、独自の都市文化を育んだ資本主義のパラダイスのように感じた。 ベルリンに到着すると市役所を訪れて会社設立の手続きを行い、すぐにまた滞在ビザの申請をしてその足で西ベルリンの街を徘徊する。しかし当時のベルリンは、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツの統一までの狭間で迷走しており、役所も街も人々も大混乱して、何度手続きしても前に進まない。電話取付けだけでも年半の時間を要した。そして僕の行き当たりばったりも相まって、会社設立の手続きも、事 1 務所兼アパートも中々見つからない。そして一日中ベルリンの街で様々な無駄な動きをした後、空が暗くなり始める頃にアウトビアンキの薄っぺらで頼りないドアを開けて、やたらと低く設計されたそのシートに座り、ラジオのスイッチを入れて車をアウトバーンの入り口に向かわせるのだ。それからまた行きと同じルートを使ってベルリンからフランクフルトまでの長い道のりを一人で車を走らせる。ラジオから流れる、年代の音楽を聴きながら深い闇に向かうアウトバーンと一体になり大型トラックが煽る強風に揺さぶられながら、それから真夜中の真っ白な頭の中で何時間も朝が来るまで車を走らせていた。 夜中のラジオから聞こえる音楽とその真っ白な時間が僕の一番大切で愛おしい時間。会社を作るまで年の間、週に何度も往復したフランクフルトとベルリンの道のりは僕の人生で最も暗く静かで孤独で苦しく寂しく迷い悩みと闘った、それでいて一番楽しかった時間だったなー。その時の真っ白な自分だけの時間を今も探し求めている。 迷宮の洞窟住居 マテーラ イタリア山岳部の町、マテーラを訪ねたのは 10月のころ。アドリア海の開放的な港湾都市バーリから内陸へ約50kmほど入った標高400mの岩山に、サッシと呼ばれる沢山の洞窟住居がへばりつくように立っています。旧市街はグラビーナ渓谷によって対岸と隔たれ、その斜面には7000年前、新石器時代の洞窟住居跡が今も残ります。羊たちが鳴らす鈴の音が、静かな渓谷に響き渡っていました。旧石器時代、数万年前の集落が発見されたムルジャ高原からは、石灰岩のブロックが切り出され、洞窟住居をカバーするように建物が築かれていきました。 山の斜面に家々が並ぶ光景は他にもあります が、マテーラの特徴は石灰岩の岩山を堀り抜いた洞窟住居である点です。外観からは四角い家に見えますが中は洞窟で、石灰岩がそのまま床壁天井になっています。比較的な柔らかな石灰岩(ライムストーン)は、サンゴや貝など生き物の殻が岩石化したもので炭酸カルシウムを多く含み、最近では二酸化炭素を固定化した物質としても注目されています。 紀元前6世紀頃、ギリシャの植民都市として聖堂を中心にしたチヴィタ(町)が築かれました。古代ローマ時代、チヴィタは城壁で囲まれ、その外に無数の洞窟住居が広がります。7世紀にはベネディクト派やビザンティン派の修道士がカッパドキア、アナトリア、アルメニアなどから渡ってきます。「祈り、働け」をモットーとしたベネディクト派の修道士は、清貧・純潔・服従を理想とした禁欲生活をおくりながら、農耕、園芸、建築、書写などを伝えます。高度な掘削技術により100カ所以上の礼拝堂、教会、修道院を建設し、マテーラは山岳宗教都市へと変貌しました。 中世になると南東部のサッソ・カヴェオーゾ地区と北西部のサッソ・バリサーノ地区が形成され、農業が盛んになります。洞窟を食物やワインの貯蔵庫、家畜小屋などに利用しながら町は徐々に拡大。17世紀にはバジリカータ州の州都となり豪華なバロック教会が建てられますが、19世紀には州都がポテンツァに移ります。20世紀になると人口が急速に増え、家畜と人が一緒に洞窟で暮らすようになり、一時は南イタリア経済の貧しさを象徴する街として扱われるようになりました 1950年代、イタリアの首相アルチデ・デ・ガスペリは、サッシ救済のための特別令をだし、ナポリなどの再開発で知られる建築家ルイジ・ピッチナートの計画によって新市街の集合住宅が建てられました。サッシで暮らす3万人の内、半数の約1万5千人が移住したといわれます。空き家となり光を失ったサッシは国家が管理し、現在も約7割が国家所有となっています。1993年、世界遺産の登録をきっかけにホテル、別荘、レストラン、土産物屋としてサッシがリノベーションされ、沢山の観光客で賑わうようになりました。 戦後 77 うほどの豪雪である。その寒さにプラスされた年末年始の混雑と止まらない人流が世界的なオミクロン株の拡大に拍車をかけたのだろう。あっという間に2万人以上の感染者数を示すとは。これいかに?である。日本における感染拡大の特徴をあげる中で注目すべきは、沖縄の米軍基地内で起こったクラスターからであったことだ。 年を経たコロナ禍なのに、変わることなく存在し続ける関 係性を見直すことはできないものかしら。赤坂プレスセンター(六本木基地)近隣の住民として、横田空域内といわれても過言ではないヘリ騒音に悩まされ続ける側の人間として、現に米軍が行っている違法な超低空飛行を許してはならないと強く思う。 横田基地からの人員輸送ルート上空は、いつの間にか飛行訓練場化してしまったかのよう。あちら側ばかり都合のいい地位協定というお約束事が改定なされぬまま、逆にその圧力が強化されてるんじゃない?と、マジでビシバシ感じます。どこの国の人だって、自国の空域を身勝手な飛行訓練に利用されてはたまらないでしょう?戦時中じゃあるまいに、である。 その22 青山かすみ だけれどだけど、悪いのはあちら様だけじゃないわけで。こちら様側の持って行き方次第なんじゃありませんか、と実はもっと強く言いたい部分です。だって、羽田空港機能強化なんていう名目でコロナ禍なのに東京都 11 心部を米軍に負けじと大型旅客機を低空飛行で平然と飛ばしてるんだから 21 …… 自国で空襲起こしてたらあちらに小言言えるわけないじゃないですか。あちらもあちらだけど、こちらもそれ以上なんて。恥の上塗りでしかないよね。 オリンピック開催をきっかけに、ドル箱狙いを目論んだ政府でしたが、コロナがそうはさせてくれませんでした。世の中はプラスとマイナスのバランスで成り立っていることをまざまざと人々は思い知らされたのです。近所付き合いや家族、友人との付き合い、人の生死も同じよね。 一人ひとりがコロナ禍のいまこそ反省しつつ未来を考え行動しなくちゃ。そう思うことしきりです。 昨年月日付け発行の「広報みなと」の裏面一面に〈羽田空港機能強化についてご意見を募集します〉という記事が掲載されました。この二年における区の取り組み、国の取り組み、第4回固定化回避検討会、今後の取組など形ばかりのね。現状と解離した、中身を伴わないお体裁文が載っています。ご意見はがきなるものも付いてましたわよ。やっと二年を経て、区民の声を拾おうという姿勢?今まで二年間、何も改善されてないのに何が改善するわけ?時間稼いでるだけなんじゃない?いつものポーズだけじゃん、って感じがしてならぬ。 一人ひとりがマスクをしたり、こまめに手洗いを心がけたりするように、政府や米軍側のなさることに目を光らせ、まわりで起こる出来事に時々刻々と声を上げてゆかなければ、すぐに地球は滅びてしまうよ。 権謀術数 うずまくフィレンツェ 1478年4月、フィレンツェの中心ヴェッキオ宮殿に、フィレンツェの銀行家フランチェスコ・デ・パッツィが宮殿の窓から絞首刑にされ吊るされました。いわゆる「パッツィ家の陰謀」事件です。 「パッツィ家の陰謀」事件が実行されたのは、フィレンツェのドゥオーモ・サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会でした。日曜日のミサの最中に、メディチ家のロレンツォとジュリアーノ兄弟が、フランチェスコ・デ・パッツィたちによって襲撃され、ロレンツォはからくも逃げ延びたものの、ジュリアーノは短剣で19カ所をさされ絶命しました。 豊かなルネッサンス芸術の庇護者として人気の高かったロレンツォ・メディチ。彼を聖なる場で襲撃した無法者として、パッツィ家と協力者たちの多くは、その日のうちに捉えられ処刑されました。 この事件の特徴は、教会+パッティ家vs.メディチ家という構図をもっていたことです。計画の首謀者ローマ教皇シクストゥス4世は、システィーナ礼拝堂の建設をはじめネッサンス芸術、思想、学問をローマに導入した事で知られます。1473年、イモラの地を購入したいと考えたシクストゥス4世はメディチ家に融資を頼みますが、それをロレンツォに拒否されます。そこでライバルであるパッツィ銀行から融資をうけ、教皇庁の取引銀行をメディチ銀行からパッツィ銀行へ乗り換えます。 シクストゥス4世との関係を深めていったパッティ家は、メディチ家よりも古い家柄の名家でした。1096年第一次十字軍では、パッツィーノ・デ・パッツィがエルサレムの城壁をよじ登り、イスラム教徒を倒しながら最初に聖地に入ったと伝わります。シクストゥス4世は融資の礼として、バッティ家と姻戚関係のあるフランチェスコ・デ・サルヴィアーティをピサ大司教に任命しますが、ロレンツォ・メディチはそれを拒否。パッティ家の人々をフィレンツェの公職から追放します。こうしてローマ教皇+パッツィ家vs.メディチ家という対立関係が生まれました。 反メディチ派は、ロレンツォの暗殺を実行するための計画を練ります。1478年、メディチ家別邸で開かれた枢機卿ラファエーレ・リアーリオ(シクストゥス4世の甥)の歓迎会の席上、毒殺が試みられますが、ロレンツォの弟ジュリアーノの欠席が告げられ中止されます。兄と弟を同時に暗殺しなければ、メディチ家の勢力は抑えられないと考えていました。そこで急遽、宴会の翌朝、ラファーレが主宰したサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会のミサで実行されることになりました。脚を痛め欠席を希望したジュリアーノでしたが、フランチェスコ・デ・パッツィがメディ家を訪ね、彼を誘い出します。友人のように親しげに抱きしめ、武器や鎖帷子を付けていないか確かめました。 ジュリアーノとパッツィが教会につくと、ミサはすでにはじまっていました。ジュリアーノが合唱隊の前に進んだ時、パッティは短剣をその背中に突き立てます。同時に兄ロレンツォを殺す手はずだった2人の修道士も短剣を抜きますが、ロレンツォの暗殺に失敗。同時にピサ司教サルヴィアーティは数十名の兵士をひきつれヴェッキオ宮殿を占拠ようとしますが失敗。ヤコポ・デ・パッツィが市民へ蜂起を促しますが、逆に捕らえられ、サルヴィアーティと共にヴェッキオ宮殿の窓に吊るされました。その後パッティ家の関係者100名近くが粛清され、教皇シクストゥス4世は関与を否定しながらも、その非道を糾弾しフィレンツェ全市を破門。ナポリ王フェランテ・ダラゴーナにフィレンツェ討伐を命じ、1年におよぶ戦闘が起こります。 ナポリとの戦争を直接交渉によっておさめたロレンツォ・メディチは、フィレンツェの君主的な存在となり教皇シクストゥス4世とも和解します。その一方、銀行経営は破綻直前でした。ボッティチェリの代表作「プリマヴェーラ」は、「パッツィ家の陰謀」と同時代の1482年頃に描かれました。中央に女神ヴィーナス(あるいは聖母マリア)が立つオレンジ園は、メディチ家を象徴するといわれます。また事件前に描かれた「マギの婚礼」には、ロレンツォ、ジュリアーノにくわえボッティチェリ自身の姿も描いています。dd強大な力をもつローマ教会に破門されてまで、フィレンツェ市民はルネッサンスの養護者であるメディチ家を選びました。暗殺されたジュリアーノ・メディチの遺児はのちにローマ教皇クレメンス7世となります。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】