囲炉裏 https://collaj.jp/
時空を超える美意識
ハウスオブトヤマ
HOUSE of TOYAMA
廻船問屋の街並み
岩瀬
JR富山駅からライトレール富山港線に乗り約20分。東岩瀬の駅を降りると、岩瀬大町通りを中心に古い街並みが続きます。江戸初期から北前船の寄港地として栄えた岩瀬には、廻船問屋や土蔵が建ち並び、神通川を背に明治期の家屋が多く残り、最近はそれらをリノベーションした工房やインテリアショップ、ビールパブ、日本酒バー、レストランなどが続々オープンしています。その火付け役と言われるのが満寿泉(マスイズミ)で世界的な評価を得ている「桝田酒造店」です。
桝田酒造店の初代兵三郎は、明治の頃、北前船で北海道・旭川に渡り酒造業を始めます。清酒「都松」の商標で、年間一升瓶15万本を生産する規模に成長しましたが、2代目亀次郎の妻フデが岩瀬への帰郷を熱望し、明治38年、岩瀬に戻りました。日本酒の海外輸出にも積極的で、ドン・ペリニヨンの元醸造責任者リシャール・ジョフロワ氏の日本酒づくりを手助けしたり、白ワイン樽で純米酒を熟成したり、奥能登の杜氏による伝統的な酒造りを重んじながら、新しい世界を開拓しています。
昭和2年建造の元材木問屋が、カルテルのオフィシャルショップ「KartellToyama」として活用されています。1階に出格子とスムシコ、2階にがっしりした窓枠をもうけ、外壁を白壁にした土蔵風の建物です。明治6年の大火で大半を消失した岩瀬では、明治〜昭和初期にかけて贅を凝らした伝統建築が建てられました。店内に入ると、カルテルの家具、照明と伝統建築が調和した不思議な空間。KartellToyamaを運営するピュア・ハウジングは、富山を拠点とした家づくりをする会社で、トーヨーキッチンスタイルのキッチンも置かれていました。江戸時代には、裏の庭先が船を着ける港になっていたそうです。
昭和初期の診療所を改装した「つりや東岩瀬」。釣屋は氷見に本社のある老舗の魚問屋で、富山の魚文化をひろめたいと「つりや」ブランドを立ち上げ、この施設をオープンしました。1階には名物のシロエビ、ホタルイカ、ブリ、ハタハタ、バイ貝などの干物、燻製を真空パックや瓶詰めにして持ち帰りやすく工夫した売店や、銘酒、ワインを頂けるカフェがあり、2階は1日1組のゲストハウスです。
岩瀬の五大家と呼ばれた、馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家は、北前船の廻船問屋として栄えました。
岩瀬の五大家 森家
岩瀬には元々加賀藩の米蔵があり、関西へ米を運んでいました。江戸後期になると大阪と北海道を結ぶ北前船が盛んになり、行きも帰りも荷を載せて「倍倍」に儲かることから、岩瀬ではバイ船と呼びました。西国から米や塩、酒、木綿、藁、古着を運び、北国からは鰊や昆布を持ち帰ります。廻船問屋として船主、荷主、問屋を兼ねた森家は代々、四十物屋仙右衛門と称し、この屋敷は明治11年に建てられました。玄関口に近い「オイ」には、商談の場となる囲炉裏が設けられ、吹き抜けの井形の梁組みが訪れる人を圧倒します。隣には紅色に壁を塗り込めた茶室がありました。
屋敷の構成は間口の広い3列型で、玄関から奥に続くトオリニワに面して広いオイ(応接間)をとり、その内側にザシキを並べた典型的な町家のつくり。茶室横に前庭をとり格を高めているのが特徴です。
玄関から神通川の船着き場まで、トオリニワ(土間廊下)を通しています。奥には漆器や日用品、骨董をしまう2棟の土蔵があり、トラと龍の「鏝絵(漆喰で描かれたレリーフ)が扉に施されています。
北前船の荷を保管した裏庭の土蔵にも鏝絵が見られます。
Vol.30
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
ベルの木のジングルベルにお星さまも笑うよ
JR富山駅近く、立山連峰をのぞむマンションをリノベーションした「明輪町マンションリノベーションモデル」。東京まで北陸新幹線で最短2時間8分となった富山駅前では、ホテルなどの建設ラッシュが進行中です。
駅から徒歩 3分ほど、築約 20年、面積約 90㎡のマンションリノベーションです。玄関には大型スイング式扉と引き戸のクローゼットが向かい合わせになっていて、外出着やトランク、リネン類をたっぷり収納できます。
元々のキッチンダイニングと和室をあわせ1室にした、寝室兼リビング。天井をふかして梁を隠し、天井面をスッキリさせました。シーリングライトは使わず、間接光、ダウンライト、フロアランプで照明をまとめています。黄色いソファはイタリア・ベンセン社製で、壁面収納、テレビボード、カーテンなどとカラーコーディネート。壁面収納は衣類をたっぷり収納でき、フローティングしたテレビボードは大型の引き出しを備えています。
アート壁紙を貼ったトイレは、明るく元気のでる雰囲気。モザイクタイル貼りの手洗いがアクセントになっています。
浴室・洗面は大理石風タイルを張って思いっきりリッチな空間に。ガラス張りのシャワールームも設けました。水まわりの配置変更を可能にするため、床の高さをあげて給排水管をとり直す工夫を行っています。
キッチンを奥の部屋に移設してワンルーム化。明るく広々したキッチン・ダイニングになりました。上吊り棚の扉には地元・高岡の伝統的な金属箔を使用。きらびやかでありながら、渋みも感じさせます。カウンターの収納にはオーバーハング式スライドドアなどを使い、奥行きを一部狭くすることで無垢板ダイニングテーブルの設置スペースを確保しています。
キッチンとつながったパーソナルルーム。アート壁紙を効果的に使い、独特の雰囲気を醸し出しています。家具、壁紙、ラグ、アート、照明器具、植物をトータルに設計することで、より豊かな空間の創造が可能になります。
「明輪町マンションリノベーション」を手掛けた SUKENOは、高岡・富山を拠点にする老舗家具店です。高岡本店は北陸でいち早くイタリアの輸入家具を扱い、インテリアシーンを牽引してきました。15年ほど前から参入したハウジング事業では、新築・リノベーションを問わず、家具やキッチンを一緒にプランすることで豊かな生活空間を生み出しています。サンカル社、ベンセン社など、独自のルートで発掘した家具が並びます。SUKENOハウジングが支持される理由のひとつが、住宅のビルダーとは一味違うライフスタイル提案です。家は建てたものの予算不足で家具、ラグ、照明などを揃えられないケースも多いなか、家具店のノウハウを活かしそれら全てを予算枠に入れることで質の高い空間を実現しています。
道正屋 馬場家
廻船問屋五大家の筆頭といわれた馬場家。復元改修工事がおわり、令和3年1月から一般公開がはじまりました。
玄関から長さ30mの直線的なトオリニワが裏の船着き場まで伸びてしました。高い位置に天窓があり、白壁に反射した光が土間廊下を明るく照らします。右手には前蔵や台所、左手に広間(オイ)、座敷、茶の間がならびます。馬場家は明治6年の大火のあと、部材の一部を利用して建て替えられたといわれています。
▼座敷に直接あがれる「切り抜き門」が設けられています。
馬場家のオイは33畳あり、井桁に組んだ松材の梁組には、江戸時代の手斧跡を残したものが見られます。畳敷きは川の流れを模した独特の敷き方をしています。オイの奥には格の高い応接間(前座敷、仏間、座敷)が並びます。
トオリニワに面した茶の間の囲炉裏端には、馬場家代々の女主人が座りました。なかでも有名なのが、9代当主道久の妻馬場はるです。15歳で馬場家に嫁いだはるは、大正8年、33歳のときに夫を亡くし、実質的な当主として馬場家を支えます。明治の中頃、北前船が衰退するなか、馬場家は汽船事業に成功し、近代的な海運業者に成長していました。はるは大変な重圧に耐えながら、夫の願いであった教育事業への寄付活動に乗り出します。親族や銀行とも相談して、皇太子殿下ご成婚奉祝記念事業として7年制高等学校設立を願い150万円(現在の20億円程度)を寄付し、富山大学の前身となる旧制富山高校が開校しました。
富山高校の開校祝いとして馬場はるが寄付したラフカディオ・ハーンの蔵書「ヘルン文庫」(原稿1200枚、洋書2071冊、和漢書364冊)は、現在も富山大附属中央図書館に収蔵されています。奥の「シンザキシ」は昭和10年、10代当主となる正治の婚姻にあわせて建てられました。正治は慶應義塾大学に学びますが、母はるは富山での受験勉強の大変さを見て、7年制高等学校設立の必要性を強く感じたといわれます。正治は新婚旅行で1年間欧州を視察し、馬場海運を設立して造船や海運業を発展させます。戦後の事業再構築の疲れもあり52歳で亡くなりますが、その後も母はるは慈善活動に貢献し、女性としてはじめて富山名誉市民となり85歳の生涯をとじました。
2階への階段をあがると、富山港に向いた大きな窓から米蔵が見えます。座敷の欄間には「富山木象嵌」の祖といわれる中島杢堂の作品「鳳凰」が嵌められていました。
昭和初期まで旧神通川に面していた裏庭は、北前船の玄関口として表側以上に立派なつくりです。八間×七間の米蔵は2カ所の扉に下屋を設けた大きな建物で、一番蔵、二番蔵、味噌蔵とつながっています。
米蔵はいま2020年3月にオープンした「KOBO BreweryPub」として活用されています。チェコのビール醸造所で25年のキャリアをもつコティネック・ジリさんと、スロバキアのブリエル・ボリスさんが立ち上げた、クラフトビールのパブで、中央にはビール醸造機が設置されています。氷見のワイナリーセイズファームのブドウ果汁を使った「セイズラガー」、呉羽の梨を使用した「馬場ヴァイツェン」、満寿泉の酒粕を使った「ドラゴンエール」など、富山の名産品を採り入れたビールを全国に提供しています。迫力あるスギのテーブルと、米蔵特有の格子で強化された壁面がマッチしていました。
子供の頃、はじめて生食用の「生牡蠣」が東京でも手に入るようになった。半世紀以上昔の話だ。確か「的矢(まとや)がき」だったと記憶する。ごく一部のホテルやレストランで、「パリ」を真似て、氷の上に的矢の生牡蠣を並べて出す。それも数まで真似て半ダース6個。これをキリリと冷えたシャブリかシャンパンで。「パリ」という言葉が、いまだ特別な響きを持っていた時代だったのだ。この流行り始めの生牡蠣、子供ながらも何度かお相伴にあずかる機会があった。だが、これを「おいしい」と感じたことは、一度もない。正直、カキフライのほうが、ずっといいのに、と思った。
生牡蠣の美味しさを知るようになったのは、冷えたシャブリやシャンパンの味を知ってからだ。はじめてパリに行った時、十月半ばの肌寒い季節、モンマルトル周辺をほっつき歩いていたら店の前で大きなカゴに山積みのカキを次々と殻から外す様を見せている、ブラッスリーのような店に出くわした。そこで、思い切って店に入り、生牡蠣6個と、白葡萄酒をカラフで頼んで味わった。周りの人を真似て、殻に直接口を付けて汁ごと、ひと口で。これは、すごく、おいしかった。牡蠣そのものの味が、子供の頃日本で知っていたものとは違っていた。鮮度が違う、とも感じた。それに加えて、「初めて来たパリ、それもモンマルトルで、俺は生牡蠣を白ワインで味わっているのだ」という、一種の自己陶酔感に浸っていたことも大きい。もし今、同じ店で、「生牡蠣とカラフの白ワイン」を味わったとしても、あのときの感激はないだろう。人は、何をもって、おいしいと感じるか。話は単純ではない。
では、このパリの生牡蠣、いつ頃から広まり始めたのか。これは鉄道の発達と、氷を冷却源とする冷蔵庫の普及と密接不可分の関係にある。フランス人の好みとして、「カキは生で食べるのが当たり前」なわけで、これは鉄道輸送と冷蔵庫が組み合わさっ
て初めて可能になる話だ。日本の年号で言えば、明治直前。
紀半ば以降、印象派の画家たちが、盛んに夜のモンマルトルの酒場と女達を描いていた、あのパリの黄金期。その頃から徐々に、生牡蠣がパリに生食可能な鮮度を保って届けられるようになっ
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世では、ルイ
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ていく。当然ながら、その頃はまだ、お金に余裕のあるブルジョワジーの贅沢とされていて、「パリの庶民」が気軽にこれを楽しむことができるようになるのは、1950年代以降のことであったようだ。
では、鉄道以前はどうだったのか。パリのブルジョワ市民が楽しみ始める前に、まずは、王様が最初にパリというか、その郊外ヴェルサイユの宮殿で、生牡蠣を楽しんでいる。太陽王ルイ14世(1638-1715)だ。この王様は大食漢で知られていて、一度に少なくとも2ダースの生牡蠣を食べたと言われている。これを継いだルイ 15世(1710-1774)の時代ともなれば、若き王様が、狩りの後ヴェルサイユ宮殿の一隅で、狩りを共にした男たちと共に、生牡蠣とシャンパンを楽しむ一瞬を見事に捉えた絵(1735)が残されている。「冷えたシャンパンで生牡蠣を楽しむ」というグルメは、この頃ヴェルサイユ宮殿で始まったと見てよさそうだ。パリのブルジョワ市民がこれを楽しみ始める150年も前の話だ。
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世そして
世が楽しんだという生牡蠣、いったい何処からどうや
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って、ヴェルサイユ宮殿に届けられたのか。しかも、今から300年も昔に、生食可能な鮮度を保ったままで。その牡蠣の産地は、英仏海峡に面したブルターニュ半島の付け根にある、カンカルという漁村であったと言われている。
今も半島一帯の牡蠣の産地を代表する存在で、フランスでも有名な牡蠣の都だ。ここからヴェルサイユまで、陸路約400キロ弱。ほぼ東京 ⇔名古屋間の距離に匹敵する長距離だ。この間を、牡蠣の鮮度を失うことなく、王様の許に届けるには、どうすればいいのか。ルイ世そして世の時代、フランスではパリと各地の主要都市を結ぶ道路網の整備が進む。戦争のための軍隊移動、民間の物流整備、その中に「魚介類を鮮度を保ったままパリに運び込むため」という目的もあった。この時代、沿岸部の漁村から魚介類を氷詰めにしてパリに届ける、魚介類氷温輸送馬車とでも呼ぶべき輸送方法が考案される。その中に牡蠣も含まれていて、と
王様を囲んで牡蠣とシャンパンを愉しむ図。牡蠣を運ぶカゴ、殻をむく様子、シャンパンの栓が飛ぶさまを描いている。
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具合に応じて新たなものに詰め替えていた。何から何まで、「牡蠣のために、そこまでやるか」という他はない。
単純計算で、400キロの道中回ほどの休憩で、休憩時間の総計は130分、約2時間少々。これを含めて、この距離を〜時間でブルターニュのカンカルからヴェルサイユまで、超特急で生牡蠣を運んでいた。ある意味、現代のクール宅急便と同様の原理だから、生牡蠣の鮮度は、間違いなく保たれたはずだ。現代だって、伊勢の的矢から出荷して東京の消費者の許に届くまで時間は掛かるのではないだろうか。
それを手にした私達は、「ほんと、すごい時代になったもんだね。24時間で伊勢から生牡蠣が冷えたまま届くなんて!」と喜ぶ人が大半だろう。ヴェルサイユ宮殿の王様は、今から300年も前に、これを実現していたのだ。ところで、現在フランスは牡蠣の産出量ならびに消費量共に欧州で最大だ。消費のピークはクリスマスシーズン。で、その牡蠣だが、大半がかつて宮城県から送られた牡蠣の子孫たちである。なぜそうなったのか。これはまた話が長くなるので、いつかまた。
ランスは寒気が厳しい。それを考えると、疾走する馬車の上で、吹きさらしの状態に置かれていた御者は、どうなるのか。めちゃくちゃ寒かったはずだ。おそらく、御者もまた、休憩所で交代させたのではないだろうか。肝心の牡蠣は、藤で編んだカゴに殻付きのまま、氷で挟むようにして詰めて運んだ。当然のことながら、氷は途中で溶けていく。そのため、「休憩所」には所々で氷室が設置されていて、氷もまた溶け
いうよりも、牡蠣はその重要な輸送対象だった。絶対王制下のフランスで、ルイ世が「朕は生牡蠣が食べたい」といえば、何とかしたのだ。
まず、この400キロの道路を、早馬ならぬ4頭立て2輪の早馬車が猛スピー
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ドで駆け抜けることが可能なように、整備する。馬は疾走させると、長距離を走り抜くことはできない。その道筋約キロごとに休憩所を設けて、馬車をキロ
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少々走らせる毎に、分間の「休憩」を入れた。この「休憩」というのは、馬の休憩ではない。というのも、 30キロごとにこの休憩所で、馬を替えたからだ。ここでは、替えの馬を常に最低でも4頭待機させていたのだ。馬車はそのために特別な軽量馬車が開発されたという。残された絵を見ると、荷台には屋根がなく、
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通常なら荷台の周囲は板で囲まれれているはずが、板の代わりにセンチほどの間隔で、高さメートルほどの棒が荷台の周囲三方を檻のように囲んで、牡蠣や魚介類を氷詰めした藤の編みカゴの落下を防いでいる。
要するに、荷も御者(2人)も吹きさらしの状態に置かれている。確かに牡蠣の鮮度を保つためには、これが一番だっただろう。だが、牡蠣の旬の季節、北フ
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カルカン〜パリの陸路約 400kmを1日で結んだ。
「大人を愉しむ家」をテーマに設計された布瀬モデルハウスは、JR富山駅から南へ 3kmほどの布瀬町にあります。スッキリとした外観に、曲面を描くガラスブロックが外観のアクセントになっています。
奥にはミニシンク付きのバーカウンターを備え、家族に気兼ねなく飲み物や軽食をカジュアルに楽しめます。1階バスルームにはイタリア・アガペ社の洗面カウンターを設置。バーカウンターの裏に 2階へあがる階段があります。
2階へ進むとキッチン、リビング、ベッドルームを一体化したワンルーム。視線の先にアウトドアリビングが広がるイン・アウトのつながりを大切にした空間です。ハイサイドライトから自然光を採り入れつつ周囲の視線を遮り、プライバシーと開放感を両立しています。
▲ベッド脇にはキャビネットとデスクを合わせたホームオフィス。
キッチンは壁面の調理部と大理石調のアイランド部を向かい合わせた効率的なⅡ型。1階ガレージの天井を低くした分、階高を高くしてベッドルームとの段差を作り出すことで、ワンルームでありながらメリハリのある空間づくりを行っています。2階デッキは広々としたアウトドアリビング。ソファ、露天風呂、ダイニングを備え、適度に空を遮ることで、安心して過ごせます。朝食を外でとったり、夕暮れのひとときを過ごしたり、露天風呂につかり火照った体を冷ましたりと、リゾートホテルに居るような贅沢な時を日常にとり込めます。
▲ 浴槽には温かみのある十和田石。縁には天然ヒノキを使用。
天然石・天然ヒノキの露天風呂から、川沿いの桜並木を眺められます。ソファの前には暖炉(エコスマート)を設置。2階には防音ドアを備えたオーディオルームもあり、ご近所や家族に気兼ねなく音楽・映画鑑賞、楽器演奏を楽しめます。
閘門体験できる水上クルーズ
富岩運河
クルーズ船は一度富山港にでてから、運河に入ります。港に並ぶのはロシア向けに輸出される中古です。
スタッフの方が運河の歴史などを詳しく解説してくれます。運河の入り口左手は海王丸改修を手掛けた新日本海重工業。富岩運河の特徴のひとつが、富山市の都市計画と連動して計画されたことです。明治から大正にかけて神通川を真っ直ぐにする馳越線工事によって洪水の被害はなくなったものの、元の河川は廃川地となり富山駅や県庁のある中心街を分断していました。そこで運河の土砂で廃川地を埋め立て、同時に市街地、公園整備をすすめるという案が、内務省から富山に派遣された技師赤司貫一氏によって立案されました。駅の南側に官庁街を中心とした新市街地を形成し、北側の運河沿いを工業地帯にした富山市の姿は、赤司氏の計画をもとに進められたのです。。陸上運送が発達すると、運河は利用されなくなり、工場の廃液によって汚れ、木材工場の貯木場代わりに利用され、舟の行き来は激減します。市民にとって負の遺産となった運河を埋め立てて道路にしようという意見もありましたが、富山市は「とやま都市M IRAI計画」を立て、富岩運河環水公園や遊歩道の建設に着手します。
▲閘門の操作は操作所のスタッフが手動で行います。
クルーズ最大のイベント「中島閘門(こうもん)」が近づいてきました。閘門は運河上流と下流の水位差を調整するためのもので、パナマ運河と同じ方式をとっています。まずは合掌式の扉を開けて閘室(幅約9m)に入ります。ちなみに現在水路を利用できるのは「富岩水上ライン」の船だけです
前後の扉を閉めてから通水口をあけて閘室に水を入れます。水は水位差によって自然に入ってくるそうです。河口から中島閘門までは海水の入り込む汽水域でスズキやボラ、コノシロなど海の魚が上がってきます。閘門上流から淡水域となり、メダカやフナが生息します。
上流の水位と同じ高さになると、上流側の扉を開き船が出発します。鉄の扉はリベット接合で組まれ、扉の召合せにはヒノキ材を使っています。船に乗った状態で閘門を体験できるのは、日本ではここだけとの事でした。
閘門の隣には、運河の水位を調整する放水路があります。中島閘門を境に、下流域は富山港と同じ水位、上流域は親水公園と同じ水位になっています。自然の川とは異なり、水位を一定に保つことで水流を抑え、運河の利便性、安全性を確保している事が分かりました。
▼運河の護岸は自然石を2つに割って積んだ珍しい構造。
水辺に佇むスターバックスコーヒー富山環水公園店(ストアデザインアワード最優秀賞受賞)は、世界一美しいスタバといわれています。
ドラゴンシリーズ 87
ドラゴンへの道編歩いたことのない未知の道に挑戦する。吉田龍太郎( TIME & STYLE )
せっかく歩くのであれば、誰も歩いたことのないような新しい道を歩きたい思ってきた。何かをして生きてゆくのであれば、心を豊かにすることに役に立てるような場所を作り、自分の人生を通して挑戦したいと考えてきた。自分の生活を豊かにしたいと思ったことはないが、何か人の役に立つことをして、気持ちに大きな空間と楽しみを持って生きてゆきたいと思ってきた。誰も歩いたことのない未知の道は険しいことも多いが、それ以上に新しい景色を想像するだけで楽しくて嬉しい気持ちになってくる。
何かを目指して未知なる道に挑むことは、その長い道のりそのものに意味があり価値があるように感じてきた。その道が先に続いているからこそ魅力があり、その道の終わりはない、いつまでも続く道は険しければ険しいほど、美しい景色があると感じてきた。その感覚は昔から変わっていない。
一人だけでは何もできないし、一人だけでは楽しめない。今、私たちが歩いている道も誰かが歩いて来た道の延長線上にあるのだ。先人たちがこれまで長い時間をかけてたどり着くことができた今の場所から、これから進むべき道をどのように見つけるのか。これまで生きてきた人々の後ろ姿を見て、その足跡を辿ることでこれから進むべき何かを得ることができるのではないだろうか。
私たちは幸いにも長く深い歴史や伝統を振り返ることができるし、そのような生活文化に実際に触れることができる。何も無いところから何かを始めるのではなく、見つけるのではなく、過去の延長線上に繋がる未来に私たちは生きることができる。未知の道を歩くこと、それは長く続いてきた過去にこれからの未来をつなぐことだ。
小さな頃からいつも目立たないように控え目にするように心掛けてきた。それは僕がまだ小さな時に親父が突然町の政治家にな
ってしまった、まだ小学校年の頃に突然政治家に立候補したそ
の時から僕の引っ込み思案は始まった。小学校の授業の最中に校
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舎の前の道路に選挙カーが突然現れ、軽トラックの荷台に仁王立ちしたタスキに鉢巻姿の筋肉質の親父が大声で、『吉田、吉田でございますっ。子供が世界に羽ばたく街づくり、老人が幸せに暮らせる街づくりぃー。』と何度も何度も僕の教室を目掛けて繰り返した。
まだ選挙の意味が分からない僕も嫌な予感を感じ取り、同じ教室にいる近所の友だちがわざわざ『あれ、龍太郎のオヤジじゃないとぉー』と授業の時には全く気配を感じさせない友だちもこんな時だけは気が利いたように『先生(しぇんしぇい)、龍太郎のオヤジ、何しょっとーですかぁ』と余計な存在感を発揮するのでした。そんなことから僕の成長と共に小学校の文化祭や運動会、中学校の入学式から卒業式までの長い間、必ず町の式典での親父の大きな挨拶とバンザイ三唱の登場に悩まされた。そんな時は決まって自分の存在を消す技を磨き、時にはトイレや物置や部室の裏に隠れ場所を見つけては、一人になることを好んだのだ。
しかし、困ったことに学校では目立たないように静かに存在を消す反面、いつもルールを破ることばかりに楽しみを見出しては、その無謀とも言えるような山や海の探検などの危険なことばかりを追い求めては先生に怒られてはまた、近所のガキどもを集合させては未知なる冒険に繰り出してばかりいた。学校の大問題になるような悪さばかりしていたので、政治家の親父も困ったことだったろう。そんな幼少期に身についた癖はなかなか治らないものだ。それからの僕の人生は誰もまだ歩いたことがないような場所ばかりを探してきたように思う。せっかく冒険するのであれば、まだ誰も行ったことがない未知の場所を目指して、険しそうだけど大きなクワガタや沢山のアケビがぶら下がっている森の誰も行かないような場所ばかりを探していた。
大人になってからも人が当たり前にやれることは何一つとして人並みにできることが無くて、自分が何のために生まれて来たのかと言うような根本的なことを常に考えて悩んでいた。自分が社会のどの場所に自分の居場所があるのだろうかと考える度に途方に暮れるしかなかった。自分のことで悩み、そのために多くの周りの人々に迷惑を掛けて生きてきた。今、振り返ると自分のことしか考えられなかった時に求めていたことよりも、周りの人々や社会のことを考えるようになってからの方が、自分の好きなことを見つけて実現できることが多くなってきた。そこにも人間としての自然の摂理が働いているように思う。人生は諦めないこと、続けることでその先に道が続いていることをはじめて知ることができる。これからもまだまだ続いている未知の道を、行けるところまで歩いてゆきたい。
能作2017年、高岡市オフィスパークに本社・工場を移転した創業100年の鋳物メーカー「能作」。
大正 5年、高岡市京町で青銅鋳物の仏具・茶道具の鋳物屋としてスタートした能作(のうさく)は、2003年、錫(純度 100%)の鋳物開発に成功。ヒット作「KAGO」をはじめテーブルウェアや風鈴が国際的に評価され、今は日本全国14カ所に直営店を持つほか、海外にも進出しています。
社屋には工場のほかカフェやショップ、体験工房があり、ものづくりの現場を楽しむ「産業観光」がテーマです。ホールでは約 2500枚の木型を「見せる倉庫」が訪れた人を出迎えます。
平日(工場稼働日)にはガイド付き工場見学(予約制)が開催されています。人気なのが錫の鋳物を体験できる「NOUSAKU LAB」で、木型から砂型をとる本格的な生型鋳造法をつかい、ぐい呑やトレー、箸置きなどを作れます。計画・デザインには立川裕大さん、小泉誠さん、水野佳史さんがチームとなり、建築設計は広谷純弘さん(アーキヴィジョン広谷スタジオ)が手掛けました。工場、カフェ、ショップなどを一体にした大屋根構造で、天井高約 7mの広大な土間空間に小泉誠さんデザインの可動式什器が置かれ、状況にあわせレストラン、ショップのレイアウトを変えられます。カフェ「IMONO KITCHEN」のメニューには錫鋳物の皿やコップが使われ、使い心地を確認できます。
高岡オフィスパーク「能作前」で世界遺産バスに乗り、世界遺産となった相倉集落に向かいました。高岡市南部の企業団地高岡オフィスパークには、情報、エネルギー、ハイテク機械メーカーのほか、富山県総合デザインセンター、高岡市デザイン・工芸センターがあります。
井波彫刻で知られる南砺市。庄川と小矢部川によって形成された砺波平野では、広大な水田のなかに農家が点在する日本最大級の
「散居村」が見られます。冬の季節風や春の強風から家を守るためスギ、ケヤキ、アテなどを植えた屋敷林で囲まれています。薪は囲炉裏の燃料となり、生長すると家の材料にも使われました。
福島の友人から干し柿、横須賀の友人からゆずジャムが
送られてきた。福島の友人の干し柿はほっぺが落ちるほど甘い。数年前、大勢の友人が押しかけ、柿もぎから水洗い、焼酎漬け、皮むき、吊るしと一連の作業を楽しそうにやっている写真を送ってきた。参加できなかったが、干し柿が好きなことを知って贈ってくれた。その甘さに驚き、次回は手伝うとメールするも未だに実現できないままである。
庭には大きな柿の木が何本もあり、たわわに実がなる。毎年、張り切って柿をもいでくれたおじさんが亡くなり、今年は華奢な彼女が一人で300個の柿を落としたとのこと。紐でくくるためにいい塩梅にヘタを残し、一つ一つ結んで吊るすまで、聞くだけで卒倒しそうな重労働である。最近は農家の方も干し柿を作る家は少なく、彼女の干し柿は野菜を届けにきてくれた農家さんに大層喜ばれているという。その顔を見るのが楽しみで、あと一個あと一個と背伸びをしながら欲張ってしまうとのこと。
高い枝の先に、見事に大きな実がなっていても手が届かない。鳥のご馳走と諦めるがなんとか取れないものかと、竿の先を伸ばしてみるものの取れない。私が行ったところでなんともならないけれど、その悔しさや光景が伝わってくる。来年は段取りよく計画を立てて、男手を引き連れて行くしかないとあれこれ算段、電話の長話しは止まらない。しかし、それから数日後、ひょんなことから友人がご主人と一緒に遊びきて、そ
の高い木の枝から大きな柿を
個ほどもいでもらったそう
だ。まぁなんとラッキーな、想いは通じるものである。今はその柿を大事に吊るしているとのこと。私のところには、最初に吊るした柿を紐をつけたまま送ってくれたが、見れば、一つひとつ丁寧に間隔を開けて結わいてある。これを300個一人でやったのかとおもったら、なんとも ……
硬いのが好きならそのまま吊るせばいいとのこと。物干し竿に吊るしてみたら、ボタッ、ボタッと2つ落ちた。縁側の上に落ちたのを急いで拾い口に入れた。まぁ、その甘いこと、ほっぺが落ちるとはこのことか、2つの柿のヘタはそのままにして軒先に吊るした。毎日様子を見ながら、雨の日は取り込み、粉が吹くのを待つがなかなか吹かない。
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ほっこりまったりの贈り物
吊るした柿は1つ、2つとなくなり、すでに半分になってしまったが、粉が吹くまでは我慢。「おいしくなぁれ」と寒い朝に声かける。やはり、美味しい干し柿は寒風と寒暖差が条件のようだが、軒下の柿は東京では珍しいだろうと自慢げに吊るしている。
ゆずジャムを送ってもらった友人は、本人曰く「ジャム作りの名人」だそうだ。青梅、マーマレード、イチジク、カシスと手に入った果実で、ジャム作りをしてきたとのこと。一度、友人仲間で梅が採れ過ぎたときに「梅ジャム」の話で盛り上がりレシピが送られた。まぁ手の込んだことをよくやると思ったが、本人が名人というくらいだから妥協はない。ジャムを作るお鍋や、詰める瓶の消毒のコツまで詳しく書いてきた。一度カシスのジャムをもらったら、確かに美味しかった。ジャムは一度に沢山できるので保存が大変とのこと。以前はご近所に配ったが、年をとるとその付き合いも煩わしく、捌くのも容易でないと言う。それでも「今年も沢山なったゆずでジャムを作った」と瓶詰めの
様子を写真で送ってきた。でき過ぎたというので、間髪入れず、着払いで送って
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と返事した。
写真にあった瓶詰めのゆずジャムと一
緒に、鮮やかな黄色のゆずも入っていた。
本物の手作りジャム。なんともいい。
他に小さな布に包まれた泥のついた生
姜のようなものは「キクイモ」とのこと。
初めて見るが、確かに柔らかい。血液サ
ラサラ効果があり、畑を持つ友人から私
のために沢山もらったという。鍋に入れ
たり、素揚げにするといいと、献立写真が添付された。ワォー、ゆずジャムのおまけにこんな健康野菜をつけてくれたなんて、言ってみるもんですね。欲しいものは欲しいと ……
朝礼で毎回貧血で倒れていた中学時代からは想像もできないほど丈夫になった友は、家の前に畑を作り、夏野菜はほとんど自前、苗を分けた人からは、大根やかぼちゃが届けられ、私には野菜を食べろとやかましく、レシピ付きで写真を送ってくる。
時には「物言えば唇寒し AI時代」ばあさんは黙るべし、と自戒するメールもあるが、障子の張替え、大掃除、蚊取り線香を焚きながら畑の草むしり、リュックを背負ってスーパーまで分、腐った気分の時は、「よいしょ」と自分に声をかけて歩き始めるという。虚弱な自分を知った健康法を実践している。
今年もあとわずか。逞しい友人の手作り干し柿とゆずジャムに元気をもらって、いい年を迎えよう。
五箇山 相倉合掌造り集落
昭和 59年開通の五箇山トンネル。下はトンネル開通前、荷物の配達を手伝う相倉の女性たち。
世界文化遺産に登録された「白川郷・五箇山の合掌造り集落」のひとつ相倉(あいのくら)。今は高岡駅から世界遺産バスで 1時間 20分ほどですが、五箇山トンネル開通以前は大雪でたびたび不通となり、「人喰谷」と呼ばれる雪崩地帯を越えたり、庄川の川舟に乗ったり、高岡や金沢まで1泊 2日かかるほどの隔絶された場所でした。
約20棟の合掌造りが並ぶ相倉集落。五箇山は 1500m級の山々に囲まれた豪雪地帯で、庄川 (しょうがわ )沿いの谷間(赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷)に約 40の集落が点在します。平家の落ち武者伝説が残される五箇山。室町時代には北陸一帯に進出した本願寺(浄土真宗)の影響を強く受けるようになり、本願寺第 9世実如の裏書に五箇山の文字が初めて登場します。五箇山から本願寺へは糸や真綿が納められ、織田信長と大阪の石上本願寺の戦いでは、五箇山名産の火薬原料、塩硝がひそかに大阪へ送られたと伝わります。今も住民の大半が浄土真宗の信徒として、報恩講などの風習を守り続けています。民宿を営む「勇助」では、明治元年に建てられた合掌造りを見学できます。広間(オエ)では季節を問わず囲炉裏に火が焚かれ、煮炊き、暖房、食事、団らん、接客の場になりました。梁には根曲がりの木を使った「チョンナ」が見られます。江戸時代、五箇山は加賀藩前田家の領地となり、養蚕、製紙、塩硝などで得た金銭を年貢として納め、米、食糧、生活物資を購入していました。合掌造りはこれら製品を作るための住居兼工場で、特に火薬の原料「塩硝(えんしょう)」づくりは加賀藩に保護されていました。暖かな囲炉裏そばの床下に 3mほどの穴を堀り、ヨモギ、ウド、蚕の糞、土、ヒエ殻、ソバ殻を段々に入れて 5年ほど発酵させます。水を加え塩硝成分を抽出し鉄鍋で煮ながら灰汁(アク)で不純物を取り除くと、灰汁塩硝ができました。灰汁塩硝は有力百姓(上煮屋 )が買い上げ、精製して金沢まで運びました。加賀藩は 200年にわたり毎年約 4トンの塩硝を買い上げ備蓄するとともに大阪方面に売りました。幕末にペリーが来航すると質の高い五箇山塩硝は増産を命じられますが、開国後は輸入品に市場を奪われます。毎年 11〜 2月にかけて親族が集まり浄土真宗の「報恩講」がひらかれます。おつけ(ずいきや豆腐、小豆の味噌汁)、中盛(干しゼンマイの辛子和え)、厚物(しいたけ、花麩、れんこん、こんにゃく、湯葉などの煮物)、おひら(すすたけ、里芋、昆布、ごぼうなどの煮しめ)、つぼ(大豆の甘辛煮)、お菓子(羊羹など)を銘々膳に載せて供します。
五箇山の中でも豪雪地として知られる相倉は、白川郷と比べて屋根の傾斜がきついそうです。
職住一体の合掌造りは、1階を居住部として、2、3階以上を養蚕を中心とした工場にしていました。1階部分は寺社を手掛ける能登の大窪大工が請負い、土台石を配置して太い柱を立て、梁は「チョンナ」と呼ばれる根曲がりの木を使い頑丈な構造とします。一方、屋根部分はネソ(マンサクの若木)などを使った軽い造りで、三角形に組まれた合掌材は地上で予め組み立ててから村民が協力して持ち上げます。大窪大工は和紙を乾かす平坦な板の制作なども担っていました。合掌材の根本(合掌尻)は先を尖らせたピン構造になっていて、梁に乗せたウスバリのコマ尻(窪み)に差し込まれています。各部材も縄で結ばれているだけで、応力をしなやかに受け止め、エネルギーを摩擦熱や音に変換して部材の破壊を防いでいます。バツ形に嵌められた筋交い(ハネガイ)は、弓形にテンションを掛けることで風や雪の圧力を跳ね返します。「勇助」のご主人が作った精密な模型を見ると、合理的な合掌造りの構造がよく分かりました。
また
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層清らかさをますものと勝手に思い込んでる自分が居るのだが、今年の雪景色は如何なものだろう。
温暖化の影響とはいえ北日本ではここ数年雪の量が増加傾向のようだし、気温的には昔の寒さに近づいてきてるようにも思える。都心部はどうか。ムシムシ感が昔に比べ薄まったかわりの現象か、やけにカラ梅雨気味なのでは?と感じていたが、ゲリラ豪雨だの局所的水害、線状降水帯といった現象が同時多発的に起こりはじめて久しい。
年に及ぶコロナ時勢の中で、街の中がシーンと静まり返ったの
は第一波だけ。その後地上では人出も車も、上空では日本の偵察ヘリや米軍の赤坂ヘリポート便による低空飛行、 GoToトラベル便、そして都心上空を超低空飛行で飛び交う羽田新ルート等々が混然一体となり地
上と上空を乱舞するという異様な空間の中で私達はとになる。
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その21
青山かすみ
年を生き抜いたこ最近は着陸便だけでなく、羽田発の出発便が着陸便とクロスする飛び方で
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高度差こそあれ、時間帯に関係なく堂々と飛ぶサマが日常化しつつあり東京
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上空は、飛行場化しかねないかも ……。月日には釧路発の JAL542便に油圧オイル漏れがあり、着陸直後の羽田滑走路を緊急閉鎖。まさか都心上空にオイルを撒き散らした?役所や省庁の方へもまたあらためてご訪問すべきという想いは強まってきてる感じなのよね。
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変異株の拡大で、一時はウナギ登りの感染者数を記録したものの今春からはじまったワクチン接種効果も手伝い、日本の感染者数は急激に減少。
年延期となり悲喜こもごもありながらも一応のオリンピック開催を終え、世界的に見てまずまず日本国民はそれなりにちゃ〜んと努力したことが伺えるのではないでしょうか。考えてみれば平等に世界中の人々が、あれできな
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いコレ出来ないの年を過ごしたのである。地球という一個のまあるい星に
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生きる命同志。もっと助け合わなくちゃ。今年のノーベル平和賞、フィリピンの女性ジャーナリスト&ロシアの記者さんが受賞されたのだそう。そんな話を聞いただけでホロリときちゃったね。世界もそんなに捨てたもんじゃない。見てる人は見てるんだと。
寅年の年明けには冬季北京オリンピックが開催されますが、波風起こさぬよう各国関係者さん努力して欲しいです。戦う姿勢はスポーツ競技だけ、だよね。
新たな変異種オミクロン株による感染を警戒する動きも気になるところですが年目もかわることなく、ひとりひとりが注意深く周りの出来事をより注視しながら暮らさなければ、と思いを新たにする年の瀬です。
合掌造りのルーツといわれる「三郎」。江戸後期に建ち、昭和の初めまで岩本さんが暮らしていたと伝わります。合掌造り民家の原型と考えられていて、柱を立てた1階部分がなく、屋根だけのつくりでナンマイダブツ建てと呼ばれました。
秋篠宮殿下御歌 お題「町」
暮らし映す 合掌造りの町並みを 見つつ歩めり 妹と吾子らと
茅葺きの民家にとって、最も怖いのは火災です。貴重な家財道具は母屋から少し離れた蔵に保管されてきました。
茅葺き屋根に欠かせない茅は、集落の山の裏側で育てられています。集落の側では、ソバや養蚕に使うクワ、和紙の原料となるコウゾなどを優先して育てました。耕作地が少なく寒冷な相倉で、稲作を本格的に行えるようになったのは戦後になってからでした。
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