Colla:J コラージ 時空に描く美意識

2022年3月4日〜12日ギャラリーときの忘れもの(東京駒込)にて「コラージのフォトコラージュ展」を開催。

















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日本は島 大島、利島、式根島、三宅島、大三島、伯方島、端島、佐渡 今月はコラージがめぐった「島」の特集です。自然災害や環境変化の影響をいち早く受ける日本の島々は、これからの生き方を学ぶのに最適な場といえるでしょう。 東京都の島めぐり 竹芝桟橋から伊豆七島へ向かいました。時速約 80kmで疾走する東海汽船のジェットフォイルによって、ぐんと近くなった伊豆七島。大島、利島、式根島、三宅島をめぐります。 大島波浮港 大島の南側、多くの文人が訪れた「波浮港」。火口湖が大津波によって海とつながり、江戸時代に港に整備されました。 「風待ちの港」として栄えた波浮港には、大正期のなつかしい町並みが残ります。巌谷小波、幸田露伴、林芙美子などがこの地を訪れ、旅館に滞在しながら創作に励みました。 川端康成「伊豆の踊り子」たちは波浮を拠点として、伊豆の下田へ汽船でわたり温泉街を巡りました。踊子坂を上がった網元「甚の丸」邸の塀には、栃木産の大谷石が使われています。 江戸後期〜昭和初期まで、町の中心として栄えた甚の丸。外壁には「なまこ壁」が使われ下田の職人に作らせたと言われます。2階では養蚕、1階では椿油の搾油を行っていました。 建物も石づくりで、大谷石が使われています。 Colla.J 創刊 15年記念2022年3月4日(金).3月12日(土) 11:00-19:00※会期中無休ときの忘れもの 東京都文京区本駒込5-4-1 LAS CASASコラージのフォトコラージュ展TEL.03-6902-9530 http://www.tokinowasuremono.com/ ※ 時節がら会期変更の可能性があります。事前にご確認のうえご来場ください。 おかげさまで、Webマガジンコラージは創 N 刊から15年を迎えることができました。雑誌の編集は写真、文章、図版などのコラージュにより構成され、料理のレシピと同 本郷通り 至王子 東京メトロ南北線 駒込駅 至池袋北口至上野南口 様、素材の融合から様々な世界観が生ま エレベーター 不忍通り東洋 文庫ミュージアム 至本駒込 れます。その過程にある姿を会場でご覧頂 出口① ければと思います。「キキとココ」の連載で 六義園 おなじみ、タカハシヨウイチさんの原画も 朝日 信用金庫 展示する予定です。 至千石駅 至上野 JR 駒込駅 会期中は仮設のコラージ編集室を設け、スタッフの作業風景にも触れて頂けます。ギャラリーは建築家阿部勤さん設計の建物で、見ごたえがあります。どうぞ、この 機会にお気軽にお運びくださいませ。駒込富士神社 御神火の山 朝日に照らされる三原山。カルデラには一面の樹海が広がっています。三原山噴火の火は、御神火(ごじんか)とも呼ばれます。 大島温泉ホテルにて、朝日に照らされる三原山。カルデラには一面の樹海が広がっています。三原山噴火の火は、御神火(ごじんか)とも呼ばれます。 大島は、大規模な噴火のたびに姿を変えていきました。1700年程前の大噴火により外輪山に囲まれたカルデラ地形ができ、14世紀には大量の溶岩が平地をつくり、現在の大島町中心街を形づくりました。1777年、安政の噴火によって今の三原山が生まれ、1986年の噴火では全島民が島外へ避難しました。 1952年、もく星号墜落事故の現場から富士山がよく見えました。 東京都とは思えないダイナミックな自然にあふれる伊豆大島は、2010年「日本ジオパーク」に認定されました。 2013年台風26号 取材に訪れたのは 2014年1月末。土石流から3カ月ほどがたち、家屋の片付けや土砂の撤去が進んでいました。 外輪山に近い「ホテル椿園」は1階に土砂が流れ込んだものの、宿泊客には奇跡的に被害がありませんでした。女将の清水 勝子さんは災害の語り部としての活動を続けてきました。 献花台が設けられ、沢山の花が捧げられていました。2021年には、鎮魂と災害を伝え続ける場として土石流現場を整備した「大島町メモリアル公園」がオープンしました。西谷香奈さん(グローバルネイチャークラブ)が、大島の地層を解説してくれました。大島の地層は水はけのいい火山灰層や、透水性の低い不透水層(レス層)などが積み重なっています。台風 26号による土石流は表層の火山灰層に水が浸透し、レス層によって止められた水が「みずみち」をつくり、表土層とレス層の境界面がすべった「表層すべり型崩壊」と推察されています。 南西部の「地層大切断面」では、露出した約 2万年分の地層を間近に見られます。巨大バームクーヘンとも呼ばれる地層の横を、土砂を積んだダンプカーが続々と通って行きました。 今から百五十年ほど前のベル・エポック直前のパリ。サントノー レ通りとカンボン通りの交差するあたりにカフェがあった。おそらくここかと思われる場所には現在ディオールの店がある。斜向かいにはシャネルやジミー・チューやバーバリー、少し歩けばピエール・バルマンやアルマーニの店舗が連なるハイファッションの中心地だ。カフェの名は「ヴォワザン」(「お隣さん」)。気軽な店名とは裏腹にカフェでありながらも、有名料理人アレッサンドル・エティエンヌ・ショロン(1837〜1924)が出す料理の水準と値段の高さで、パリのブルジョワや金持ちの外国人たちに人気のある高級店として広く知られていた。この店には当時ギャルソン(ウェイター)として若きセザール・リッツ(1850〜1918)が働いていたことが判明している。そう、やがて料理人エスコフィエと組んでロンドンのサヴォイ・ホテルを大成功に導き、その勢いを背にパリ・リッツを創始する、伝説の男だ。オーストリアの山奥から出てきたリッツ少年が如何にしてホテル王となっていくか。これについ ては本連載第 〜 回をお読み 頂きたい。 当時ヴォワザンを訪れたお客の中にはセザール・リッツ本人のサーブで飲食を楽しんだ人たちが沢山いたはずで、その姿と立ち居振る舞いを見てみたかったと思うのは私だけではないだろう。この「ヴォワザン」が1870年のクリスマス・ディナーとして用意したメニューが 残されている。1870年といえば、明治維新の2年後だ。このメニューに列挙される料理が驚くべき構成というか、突拍子もない素材の料理が並ぶ内容となっているのでご紹介してみたい。メニューには一部筆者の注釈的説明を入れた。 1870年●オードブル  ●スープ 赤豆のピュレ、     ●    ●主菜  12 月 25 日(封鎖 99 日目) バター、ラディッシュ、詰物をしたロバの頭部、イワシ クルトン(賽の目切りのパンを揚げたもの)散らし象肉のコンソメ(動物園にいる「象」) アントレ(主菜の前に出す料理) 子ナマズのフライ、ラクダ肉のロースト英国風、カンガルー肉のシチュー、熊の背肉のロースト胡椒ソース 狼の腰肉のロースト鹿肉ソース、 97 98 Caf. "Voisin" 1925年     (羚羊レイヨウ)の肉。一体全体、これは何なのか。まるで動物園みたいだ。ただ、このす を意味する。封鎖 ネズミに射すくめられた猫のリブロース、クレソンのサラダ、アンテロープ(羚羊=レイヨウ)のテリーヌ(トリュフ添え)、セープ茸のボルドー風、グリーンピースのバター炒め ●アントルメ(甘味菓子)  ●デセール(締め) グリュイエール・チーズ●ワイン(前半)    ●ワイン(後半)   ロマネ・コンティ( 再度肉の種類を書き上げてみる。ロバの頭、象の肉、ラクダ肉、カンガルー肉、熊の背肉、狼の腰肉、猫のリブ、アンテロープ ライスプディング(ジャム添え) シェリー酒、ラトゥールの白(シャトー・パルメール(マルゴー、 18 61年物)、 1864年物) ムートン・ロトシルト(ロスチャイルド)( 1846年物)、 185 8年物)、グラン・ポルト( 1827年物)、ほか。 99 べてが「文字通りの中身」というわけではなかったようだ。特にロバの頭と猫については、一部の研究者から疑問が呈されている。が、これを除いて大半は実際に書かれた内容の肉が使われていたとみていい。 なぜそう断言できるのか。店は実際に動物園で殺処分されて正規に売り出されたものを入手し、工夫に工夫を重ねてこれを料理して「特別メニュー」として提供したものだからだ。それにしてもなぜ、これだけの動物がパリの動物園で一気に殺処分となったのか。また、だからといってなぜ動物園はその肉を売りに出すことになったのか。さらに、なぜパリでも一流の料理人がこれを購入して自分の店でお客に提供するまでに至ったのか。こんな突拍子もないメニューをクリスマスに提供すれば、一気に店の評判が地に落ちる可能性だってあったはず。だが、そうはならなかった。なぜか。なぜ、こんな途方もないメニューが誕生したのか。 そのヒントは、メニューの日付に付された「封鎖日目」という注意書きに秘められている。残されたメニューの実物には、この注意書きが日付の文字の数倍の大きさで記されている。特別大書された「封鎖」とは一体何を意味しているのか。それは普仏戦争におけるプロイセン(と南ドイツ連合軍)によるパリの都市封鎖 99 日目にしてクリスマスを迎える中でなお降伏せずに籠城を続  以上。 パリの路上にて「ネズミを探す市民」の図 けるパリ市民。これに先立つ1870年9月初頭、フランス政府軍は皇帝ナポレオン3世が8万を超える兵士を率いながらセダンの戦いで大敗し、完全降伏。軍 10 司令官や兵士たちと共に皇帝自身も捕虜になるという屈辱的な状況に至っている。 25 これに激昂したパリの政治勢力は即座に帝政を廃して臨時政府の樹立を宣言し、プロイセン側からの降伏勧告に断固対抗して戦を続けることを決定した。その結果、プロイセン側はやむなく「首都封鎖」という作戦に出て、人の往来も物流も 12 完全遮断という厳しい都市封鎖が9月19日に開始される。 当時パリの人口は約200万人。封鎖の結果、西欧で最も先進的と考えられていた大都市が、あっという間に燃料不足・食料不足へと陥っていく。実質的に政府が崩壊した直後という状況の中で、市民平等に食料を配給制にする、という動きもまったくないままに事態は悪化していった。 食料価格は封鎖前に既に戦前よりも%高騰していたが、封鎖後はこれが異常な価格へと上昇していったことは言うまでもない。中でも食肉については月には牛・豚・羊は肉屋の店頭から姿を消し、馬肉が登場し始める。パリ市内に新たに馬肉専門店が数多く誕生し人々は争って馬肉を買い求めるに至っている。約5ヶ月間続いた封鎖の期間中におよそ7万頭もの馬が処分されたという。なぜそれほどの数の馬の供給が可能だったのか。当時は主要な輸送交通機関が馬車だったからだ。また軍隊でも多くの馬を飼育していたこともある。牛や豚は農村部からの輸送が絶えれば供給が途絶えるが、馬については、多数の馬がパリ市内で飼育されていたのだ。これに与える餌もなくなり、泣く泣く「愛馬」を処分するに至ったという悲しい状況だった。さらに競馬用のサラブレッドそれもロシア皇帝アレクサンドル2世からフランスに送られた競走馬2頭までもが処分されたというから、食糧不足の厳しさが極限状況であったことがわかる。 このような状況下で月にはついに動物園の動物も殺処分にという究極の事態に至る。今読んでも心動かされるのは、処分された2頭の象はギリシア神話に登場する双子神にちなんで、カストールとポルックスと名付けられて多くの市民に親しまれてきたものだったということ。そのためだろう、象を射殺する場面を描いたイラストが多数残されている。            以下、次号へと続く。 イルカのいる利島 伊豆七島でもっとも観光化の進んでいない島といわれる利島(としま)。「椿の島」として知られ人口約 300人。中央に宮塚山(海抜 508m)がそびえます。伊豆七島のイルカというと御蔵島が有名ですが、利島沿岸にも 20頭ほどのイルカが生息し、ドルフィンスイムが人気です。イルカの生活を邪魔しないように「イルカへの無理矢理な接近や、しつこく追いかけることはしない」など独自のルールを設けています。人口 300人の利島には、阿豆佐和気命神社や堂山神社など 7カ所の神社があり、堂山神社からは祭事に使われた銅製和鏡や銅銭などが発掘されています。 島の面積の 80%が日本古来のヤブツバキにおおわれた利島は、江戸時代から 300年以上に渡って椿油を生産してきました。利島の土壌は二酸化ケイ素を豊富に含み、その地で大切に育てられた椿の実からは、オレイン酸を約 86%含む高品質な椿油が採れます。 きょうの3時のおやつはなあに?出来てからのおたのしみ Vol.32 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ 式根島のサバイバル温泉 式根島は伊豆七島の中でも沢山の観光客が訪れる島のひとつです。周囲12kmのコンパクトな島に大自然がぎゅっと詰まっています。式根島には縄文時代から人が暮らしていましたが、江戸時代は一時期は無人島となり、明治 20年代から本格的な開発がはじまりました。古くから天然の良港として、流人船や廻船が避難港として利用した泊海岸。今は島を代表する波静かな海水浴場となっています。 島民 600人ほどの式根島には、約 40軒の民宿や旅館があり、観光は島のメイン産業となっています。昭和30年代後半から始まった「離島ブーム」により多くの若者が押し寄せ、海岸で勝手にキャンプを張るようになりました。食事など一般の民家に助けを求める若者も多く、自然発生的に民宿が生まれたそうです。 「松が下雅湯」は水着着用の混浴露天風呂で、 空や海、港を見ながら湯につかれます。湯は 地鉈(じなた)温泉からひいています。「地鉈温泉」は、鉈で割ったような渓谷の先にあります。強い日射しのなか、つづらおりの山道をひたすら下っていくと、まるで修験者になった気分です。 内田 和子 つれづれなるままに 第回   お汁粉、ゆずジャム、黒豆、そして…… 1月半ばから寒さが厳しくなり、加えてオミクロン株のコロナ感染が急増、とりわけ高齢者の重症化ニュースで引きこも 86 り状態が続いていた。床暖、エアコンに加え、ガスストーブも出して、寒さをしのいだ。お正月を過ぎた寒い日はなぜかお汁粉が食べたくなる。小豆を2袋、下ゆでをしてあとはストーブに乗せるだけ。ふっくらと美味しいお汁粉が出来た。 石油ストーブで暖をとる友人から、ストーブで作ったというゆずジャムが届いた。パンにつけてよし、紅茶に入れてよし、言うことなしの美味しさだった。秘訣を聞くと、とにかくコトコト気長に見守るだけと、レシピをメールで送ってくれた。ゆずの皮を刻むのは時間がかかったが、タネは浮いてくるのを掬えばいいと、彼女のアドバイス通り、コトコトとストーブの上でゆずジャムは仕上がった。近くに住む妹に3瓶届けると、「上出来!あっという間に食べ終わった」と空瓶が戻ってきた。 気を良くして、次は黒豆に挑戦。料理本には重曹やクギが必要とあり、3日間くらいかけて作るというので、お正月はいつも市販のもので済ませていた。友人にメールすると、お正月を過ぎてゆっくり作ったという黒豆の写真とレシピが返ってきた。釘はなくても大丈夫、重曹は薬局で売っている、分量通りの豆に砂糖と醤油、重曹を入れるタイミング、豆にシワができないようにひたひたの水を加えてコトコトと ……これも思った以上に美味しく出来上がった。柔らかくシワもなく甘さを控えた黒豆は毎朝食べても飽きない。 と、ここまでは言うことなしのガスストーブ生活だった。が …… 1月下旬、夜中に突然グアングアンとめまいがした。何が起きたかわからないが、まともに歩けない。ソファにオーバコートを巻きつけてそのままじっとした。救急車を呼ぶ お汁粉、ゆずジャム、黒豆、そして …… ことも考えたが、思考回路がまともではない。携帯だけは手に届くところに置いて朝を待った。明け方めまいは幾分治っていたが、動こうとすると強い吐き気がして自分では歩けない。これはやっぱりあかんかも ……まともに喋れているうちにと、119番に電話した。 ニュースの報道通り、救急車は出払い受け入れ先の病院はないという。ようやく救急車が到着したものの、搬送先が見つからない。救急隊も懸命に探してくれるが、こちらも必死。かかりつけ病院の診察券を見せて、これでなんとか ……たまたま主治医が診察日だったため、地域外の病院だが運んでくれることとなった。意識は朦朧としていたが、丁寧で親切な声かけに感謝しかなかった。 病院に着くと若いドクターが触診と問診をし、すぐに点滴を打ち、一通りの検査と C Tスキャンを撮ったが異常はない。主治医も顔を出してくれて問題ないとのこと。ホッと安心したが、昨日の恐怖を思うと心細い。入院させて欲しいと言うと「1日でも2日でも病院にいたら弱るよ。帰りなさい。」と一喝。点滴が効いてきたのか吐き気はなくなったが、まだ歩けない。車椅子を押してもらい、薬をもらってタクシー乗り場へ。その日は妹の家で1泊。翌朝おかゆを半分、白湯を飲んで家に帰った。夕方には自分でおかゆを作りリンゴを剥いて食べることができた。ゆっくりゆっくりだったが、1週間くらいですっかり元の生活に戻った。 救急車経験は、これで2度目。決して褒められた話ではない。コロナニュースの毎日でオミクロン恐怖症にかかってしまった感もあるが、床暖、エアコン、ガスストーブの長時間使用で、身体の中の水分はカラカラだったのかもしれない。夏には熱中症対策で注意もするが、冬の水分補給は完全に忘れている。年寄りは喉の渇きが鈍いと言われるが全くその通り。お汁粉も、ゆずジャムも黒豆もみんな上手にできたけど、水分が不足しているなどとは、露ほども考えなかった。春の訪れを心待ちに、水分補給はしっかりと。経口補水液を冷蔵庫に常備した。 三宅島 噴火と生きる  早朝 5時。竹芝桟橋を夜出発した東海汽船「かめりあ丸」(現在は橘丸)は、朝焼けに照らされながら、三宅島・三池港に到着しました。夏休みを楽しむ沢山の若者達にまじり、火の山とともに暮らす島へと降りました。 2000年噴火 2000年に起こった三宅島噴火の際、土石流の被害にあった「椎取(しいとり)神社」。鳥居と本殿が土に埋まっています(右は再建された神社)。2000年 6月から火山性地震がはじまり、7月 8日山頂で小規模な噴火が発生。8月10日には噴煙の高さ 8000mに達する噴火が発生し、18日には噴煙の高さが 14000mにも達し、島は暗闇に包まれ火山灰の被害が大きくなります。29日の噴火では火砕流が山頂から北東側に 5km、南西側に 3km流れ、北東側は海にまで達しました。また雨による土石流も頻発したため、9月1日に全島避難が決定、4000人の島民は島外での避難生活を送ることになります。噴火は 2000年 9月まで続き、火口からの大量の火山ガスが放出されました。9月から10月には 2〜 5万トン/日もの二酸化硫黄放出が観測され、その後もガスの放出が続いたため、2005年2月1日、ようやく避難指示が解除されました。2000年三宅島噴火の特徴は噴火後に長く火山ガスの放出が続いたことで、それが 4年半にわたる全島避難を強いることになったのです。神社のまわりに茂る木々は、土砂と火山ガスの影響で白く立ち枯れていました。 白く枯れた木々もまだ生きていて、ガスの減少と共に「胴吹き」(幹や枝の途中から芽が出て葉をつける)が始まり、徐々に再生していきます。 三七山から見える「ひょうたん山」。昭和 15年の噴火により、スコリアという細かな火山噴出物から出来た山です。 樹齢 600年ともいわれる 「迷子椎」は、火の山をつかさどる神の木とされ、数々の噴火に耐えてきました。昭和 58年(1983)の噴火で壊滅的な被害をうけた阿古地区。溶岩流を堰き止めたといわれる旧阿古小中学校は、当時のままに残されています。 ドラゴンシリーズ 89 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 入管の闇、日本人の闇、 ベルリンに会社を設立した 1990 年は、壁が崩壊して に東西ドイツが統一されるまでの不安定な時期で、僕は頻繁にドイツの外国人局に滞在許可書の申請に通っていました。当時は東ヨーロッパから多くの難民や移民が一気に押し寄せ、ベルリンの外国人局は混乱し受付が始まる朝8時前には、クネクネと灰色の蛇のような長い列が毎日出来ていました。 真冬の朝5時くらいから外国人労働者たちが列び始めるのですが、早起きしてそこに着くとすでに1キロ以上の人々が待っているのでした。受付に近づく頃には午後2時の終了時間が迫って来ます。自分の番が回ってくる直前の数メートルで扉が無情にもバタンと閉められて、その日の受付は終了します。列んだからたどり着ける保証は無く、その日の役人の処理の速さにかかっているのでした。自分の後方には悲しい顔をした諦めきれない様々な顔 の外国人(アラブ系、南米系、アフリカ系、東南アジア系、中国系)の列が数百メートル続いています。しかし受付の扉はもう二度と開きません。そして、また翌日の朝4時、時間を早めて列に並ぶのです。数時間かけてたどり着いた受付では冷淡で無表情なドイツの役人が僕の顔を見もしないで、書類を出せと家畜を扱うような身振りだけで指示をします。しかし書類にサッと目を通すと説明なしに書類を突き返し、受付出来ないと一言だけ発し、手の裏でシッシッと追い払います。 僕は遠くから時間を掛けて列に並んだ以上、このまま帰れない、何か書類に不備があるのかと聞いても答えてもくれません。ただ、シッシッと手で追い払われるだけでした。後方に並ぶ多くの人々は僕の粘りに痺れを切らし、シュネール、シュネール、シャイセ、ヤパーナー『急げ、急げ、糞日本人』と罵声を浴びせます。受付 年 の役人に怒ることは、書類を受け付けてもらえない状況を生み出すだけなので、我慢して何度もしつこく粘りましたがゴミを扱うように無表情な役人の心は変わりません。そして、何度も何度も長蛇の列に並びながら訂正を繰り返して滞在ビザを数カ月分だけ取得することができるのです。そのようなビザ取得の闘いがしばらく続きました。滞在ビザが切れると、更新することも、それ以上ドイツに滞在することもできなくなります。何時間並んでシッシッと突き返されても、滞在 1 ビザの取得は命をつなぐため重要なことなのです。 東西ドイツが統一すると少しづつ社会が落ち着き始め、ある日から長蛇の列が二つに分けられました。つは西ドイツにとって友好国であるアメリカ、カナダ、オーストラリア、日本、シンガポールなど特別扱いの西側の国、もう一つは、中東諸国、東ヨーロッパ諸国、南米諸国、中国など、それ以外の国という扱いに変わります。戦後、人種差別問題には敏感なドイツでさえも、数年前にはそ人種や国家に対する格差ある対応が行われていました。戦後のドイツは難民の受け入れに積極的で、多くの人権を保護してきた難民先進国といえる国です。近年も多くを受け入れ 30保護して来たドイツは、日本人とは比べられないような難民や弱者を保護する国であり国民なのです。 ドイツから帰国して数年後、日本に滞在する外国人のビザ申請をするため、大手町にある東京入国管理局に付き添いで行った時のことでした。窓口には数十人の外国人が列を作り、外国人の友人と僕は列んで順番を待ちました。受付にようやくたどり着く前に、一人の東南アジア系の男性が窓口に書類を提出しました。受付には日本人職員が座り、書類を受け取ると慣れた手つきでペラペラとめくり、全く顔も上げずに突き返しました。東南アジア系の男性は初めての申請だったらしく日本語は話せない様子です。困った悲しい顔で必死に何かを伝えようとしますが、職員は手の甲を相手に向けてシッシッと言う身振りで離れるように促しました。 少しだけ顔を上げ東南アジア系の男性を見たその目つきは、同じ人間に向けられた眼差しではありません。僕のドイツでの経験を思い起こすと同時に、日本の入管で起こっている真実を目の当たりにして、体の芯から煮えたぎる血が逆流するのを感じました。僕は条件反射のように受付の窓口に向かい、その職員に対して言葉にならない言葉を震えながらフロア全体に響くような大きな声で…… それから警備員が駆けつけ、入管職員の上長も登場しました。詳細は覚えていませんが、取り押さえられた僕に対し、外国の人々から静かな拍手が起こりました。それは僕に対しての拍手では無く、日本人の外国人に対する冷酷さや差別意識に対する反抗であり、また、入管に対する怒りの表現だったと記憶しています。 2021年3月にスリランカ人の女性、ウィシュマ・サンダマリさんが名古屋入管(名古屋入出国在留管理局)の中で半年でキロも痩せた状態で亡くなりました。その時に入管で行われていた日常的な差別的待遇や人権の冒涜が一人の外国人の犠牲によって露呈し、社会に周知されることになりました。日本人や日本社会がどれだけ酷い人間性を持っているのか、入管が外国人に対する根本的で潜在的な差別意識を持っているのか、日本人の深い闇を自覚するようでした。入管の外国人に対する差別も全ては日本人の深い人間性の闇に繋がっています。日本と言う国の闇を自覚して、少しづつでも偏見や差別意識の無い社会にしてゆくことは、私たち一人一人が学び、自覚することが大きいのだと感じています。 コロナ禍となり丸2年が経過しましたが、世界の中で日本だけが国境を閉鎖し、外国人の入国を禁止しています。 PCR検査を入国前と入国時すぐに行う前提で 20 日本人が入国出来て、外国人が入国できないことは全く医学的にも論理的でない日本の外国人締め出し政策です。 西欧諸国の大半は外国人に対しても門戸を解放して、できるだけ自由な入出国を許可し経済活動を維持しています。僕自身もこの 2年間のコロナ禍に何度も欧米を往復しては日本だけで 2週間の隔離措置を行い、日本のコロナ政策には大きな疑問を感じます。イタリア、スイス、オランダ、ドイツの国々に何度も入国しましたが、パスポートとワクチン接種の証明書があれば、隔離する必要は 1日も必要ありませんでした。論理的でない外国人の入国禁止措置は、その家族を含め、ビジネスマン、留学生、観光客など多くの親日的な外国人の心に痕跡を残すことになります。 コロナ禍から既に脱した諸外国の活動状況を日本人は知ることも無く、国内に閉じ込められて嘘の情報の中で飼い慣らされていることに気づかなくては手遅れになります。現在の諸外国の活動状況を見ることが出来ない日本人は確実に世界に見放され、遅れを取ることになるでしょう。海外からの入国を認めない閉鎖性は、自分だけが良ければ良いと言う気質に帰結していきます。それは入管の事件と、同じ根をもつように感じるのです。 今日もウクライナに対しロシアが侵攻の準備を進めていますし、多くの欧米の国々がその周辺に軍を配置しています。中国とアメリカ、日本と東南アジア、韓国との亀裂は深まり続けています。 時が経っても私たち人間は何も変わっていないことを自覚することが大切です。入管の闇、日本人の闇、権力の闇は深いです。 瀬戸内海2018年7月 西日本豪雨 平成 30年7月の西日本豪雨は、2018年(平成 30年)6月28日から7月8日にかけて、西日本を中心に北海道、中部地方など広い範囲に豪雨を降らせ、大三島、伯方島など、瀬戸内の島々にも大きな被害をもたらしました。豪雨の原因となったのは 6月 29日に発生した台風7号で、7月 3日から九州地方に雨を降らせ、その影響によって梅雨前線が北海道に停滞します。その後梅雨前線は南下して西日本付近に停滞し、台風 8号から湿った空気が西日本から東海に流れ込むことによって、連日の豪雨が続きました。 国宝の島 大三島 古くから山の神・海の神・戦いの神として、朝廷や武将から信奉されてきた大山祇(おおやまづみ)神社は。源頼朝、源義経、護良親王をはじめ名将、皇族が、戦勝祈願として甲冑や武具を奉納してきました。国宝、重要文化財の甲冑の約8割が大山祇神社の宝物館に収蔵され、大三島は国宝の島とも呼ばれます。 愛媛県今治市「大三島」から、多々羅大橋をながめます。2018年7月に発生した「平成30年7月豪雨(西日本豪雨)」は甚大な被害をもたらし、各地で全壊した家は計5,443棟。半壊6,597棟、床上浸水11,544棟、床下浸水20,646棟、死者・行方不明者220人、行方不明者10人(内閣府2018年8月7日現在)と、平成最大の豪雨災害をもたらしました。 多々羅大橋に近い「多々羅温泉」周辺(上浦町井口地区)では、大規模な土石流が発生。家屋や温泉に土砂が流れ込み、ミカン、八朔、ネーブルなど柑橘類の畑が流されました。 古くから水不足に悩まされてきた大三島の集落は、共同井戸を確保するため川の流れる谷沿いに形成されることが多く、土砂災害の起こりやすい環境にありました。上方にあった溜池が埋まり、新たな水溜りが出来ていました。海の見える温泉として人気だった「多々羅温泉しまなみの湯」は、設備の被害が大きく閉館しました。 土砂によって広大な砂漠のようになった柑橘類の畑。大三島の土壌は花崗岩が風化した「真砂土(まさど)」。「特殊土壌地帯災害防除及び振興臨時措置法」において災害の発生しやすい特殊土壌とされています。 海に近い宅地は土砂で埋まり、町民は避難所に避難していました。2018年 8月10日に応急対策工事が終了し避難指示は解除されます。搬出された土砂は1万㎥以上といわれます。住宅に流れ込んだ土は固く締まり、復旧を阻みました。多々羅大橋をのぞむ港には、ガレキの集積所が設けられていました。かつて大三島には広島方面へのフェリーが就航し、大山祇神社の玄関口として賑わいましたが、しまなみ海道の開通とともに、人の流れと島の暮らしは大きく変わりました。 今治市伊東豊雄建築ミュージアム TIMA 今治市伊東豊雄建築ミュージアムは「スティールハット」と「シルバーハット」の 2棟で構成されています。「スティールハット」は基本的に八面体と四面体、立方八面体の 3種類を組み合わせ、外壁を全て船のように溶接した鉄板でできています。伊東豊雄さんが初めて大三島を訪ねたのは 2007年のこと。「ところミュージアム」の所敦夫さんに、その別館となる新しいミュージアム計画を相談されたのがきっかけでした。伊東さんは所さんに、若い建築家を育てたいという夢を語ったところ「それならこの新しいミュージアムを使ってやったらどうか」という提案があり「今治市伊東豊雄建築ミュージアム (TIMA)」の開館につながりました。「シルバーハット」は1984年、東京中野に伊東さんの自邸と建てられた名作で、若い人のワークショップの場としてここに移築されました。 伯方島の土石流 伯方島の有津地区では、2018年7月7日朝7時頃裏山で大規模な土石流が発生。住宅の1階で女性(49)が亡くなり、2階にいた子供2人が救出されました。 10 2 ちらまで身体がホンワカが熱くなり、冬の競技ってホントありがたいものですね。若きスペシャリストが世界からリスペクトされる姿を見るにつけ、日本の未来も捨てたもんじゃないなぁ〜そんなふうに気持ちを上げてもらった方々すごく多いんじゃないかしら。 白いリンク、雪反射まばゆい山々の風にさらされながらスキーやボードで滑ったり飛んだりのウインタースポーツはスリリングだからこその光と影、美しさを教えてくれます。 さて頂上決戦から、そろそろ身の回りの現実と日常へ話をもどします。万人に達した感染者数は少しづつ減少傾向へ転じてきたようですが。月を迎えたいま、本格的なパンデミックも早二年が過ぎ、三年目に橋がかかってしまい、いつまでこんな状態が続くんでしょう。 ワクチンだってほぼほぼ行き渡ったはず。今が正念場と自分に言い聞かせるにも限界ありますよ。世間はコロナ疲労とストレスで充満してるはず。ところが困り事とか、辛い話とかはあまりメディアはとりあげないのよね。ご自宅で人知れず新型コロナ感染で亡くなられた人がどれだけいるものか ……キレイ事ではすまされない。それこそ恐ろしい現実、事実はかき消されてるんじゃないのかしら ……メダル獲得に躍起になりすぎちゃ、一方方向ばかり見てちゃいけないよね。 弱き者にしわ寄せって行くでしょ ? 人間が行ってきた過去の行為や出来事を知れば知るほど相手への配慮を忘れないようにしなくちゃとつくづく思う。 時同じく三年目に入った梅見月。北風吹きすさぶ天候長引きました その23 青山かすみ から、旅客機による東京上空超低空飛行率はごくごく稀でありましたが、米軍ヘリの超低空飛行率はなぜか高まるばかり。ロシアとウクライナの関係に反応しての動きでしょうけれど。だからって飛行訓練するみたいな限度を超えたアクションはやめていただきたいです。なぜに高圧的な騒音被害を私達が受けなくちゃならないわけ ? これって外務省や防衛省が米軍に対してちゃんと物申してない証拠じゃない ? 都民を苦しめる超低空飛行に加え、夏のオリンピックを無観客で終えた新国立競技場周辺では、明治神宮外苑地区の再開発計画が進んでいる。 東京都は「神宮外苑地区計画」を 2月9日の都審議会で承認。神宮球場、秩父宮ラグビー場、伊藤忠商事など主だった施設建築物の老朽化による巨大再開発プロジェクトである。 2036年までに現在のラグビー場跡地にホテルを併設した新球場を作り、神宮第 2球場跡地(現・ゴルフ練習 70 場)には高層商業施設を併設した新ラグビー場を建設する予定とのことだが、この周辺ならではの緑地環境はどうなってしまうのか。近隣住民の注目点となっています。調査の結果、大きく生長したケヤキ、クスノキ、イチョウなど状態の良い木が千百本以上、悪化している木は 267本。うち 971本は伐採、 340本を残し、本を移植する予定らしい。かろうじて外苑名所「いちょう並木」は残されるそうなのだが ……予定地樹木の7割が伐採計画にあたるためユネスコ(国連教育科学文化機関)の諮問機関「イコモス」国内委員会が計画の見直しを求めていたという。 再開発プロジェクトは三井不動産、宗教法人明治神宮、独立法人日本スポーツ振興センター、伊藤忠商事の 4者になっているが、まさに羽田新ルート下に存在する場所なのも気になってしまいますわねぇ。青山や外苑ブランドの切り売りだけはしないでいただきたいですし、外苑の地に百年育った樹木を根こそぎ引き剥がし、土地を弱らせ、さもしい平地とせず、リフレッシュさせる方向でリニューアルするべきかと存じます。六本木ヒルズやすり鉢状の渋谷に構想した高層ビル郡の二番煎じだけは御免被りたく存じます。 端島近代建築の先駆け 長崎の島々に広がる西彼杵炭田(にしそのぎたんでん)は、良質な石炭によって日本の産業を支えてきました。最初に長崎の炭鉱開発を進めたトーマス・グラバーは、岩崎弥太郎の三菱財閥と共に、西洋の採炭技術を導入して石炭産業の礎を築きます。 軍艦島とも呼ばれる世界遺産「端島炭鉱」の開発は、明治の初めから始まりますが、台風の暴風や高波をかぶる厳しい自然環境にはばまれ、所有者の旧鍋島藩の鍋島孫太郎から三菱へ譲渡されました。三菱は炭鉱の「ズリ」を利用して島の面積を拡張し、明治 26年(1893)には尋常小学校が設立され、家族ぐるみで島に暮らす鉱員が増えました。 島民の増加にともない、大正 5年には日本初の鉄筋コンクリート集合住宅「30号棟」が建設されました。建物の内側に中庭や通路、階段を設けた口の字型のプランで、波を被っても内部を行き来できるよう工夫されています。大正7年建設の16〜20号棟(日給住宅)は、当時先端的なラーメン構造の鉄筋コンクリート造です。「グロピウスのシカゴ・トリビューン社コンペ案やル・コルビュジエのドミノ理論にさきがけ、屋上庭園やピロティ、カーテンウォール、フリーパティション、吹き抜け廊下、メゾネット形式などを大規模に実証した建物」と、端島の研究で知られる。阿久井喜孝教授は評価しています。 1950〜 60年代に建てられた 31号棟、48号棟、51号棟は、高波から島を守る防波堤の役割りを兼ねています。1階部分は高床式の広場になっていて、台風の際は海水をためる遊水地になりました。現在のレジリエンスの発想をがすでにありました。端島には幼稚園、役場、派出所、消防施設、神社、寺、老人クラブ、病院、映画館、パチンコ、麻雀店、テニスコート、照明付きグラウンド、撞球場、海水プール、商店、食堂、共同浴場などが次々と整備され、ひとつの街として完成します。電気、水道、ガスなどは定額制で家賃も必要なく、映画館では最新のロードショーが封切られていました。 新連載 今月の茶道具 黒織部筒茶碗(冬枯)くろおりべちゃわん(ふゆがれ)重要文化財 徳川美術館蔵 桃山時代に愛知県美濃で焼かれた黒織部を代表する筒茶碗の名品です。焼成が完了した時点で窯の外に引き出して急冷させ、鉄釉を漆黒色に発色させています。白黒の塗り分けは、桃山時代に流行した着物のスタイル「片身替り」をイメージしたと思われます。どっしりとしたボリューム感があり、口縁は厚く作られ少し歪んでいます。冬枯という銘は、文様が冬枯れした草木を思わせるところから。筒茶碗は冬場に使われることが多く、口が狭いため茶が冷めにくいのが特徴です。お点前の際は茶碗の持ち方や茶巾の使い方が他とは異なり、茶碗の底をわしづかみにするなど初心者には難しい形です。織部焼は戦国時代の茶人大名古田織部の指導によって創始されたといわれます。織田信長、豊臣秀吉につかえながら千利休に学び独自の「織部好み」を築きますが、大坂夏の陣の際に徳川家康に謀反を疑われ切腹を命じられます。黒織部筒茶碗は名古屋五財閥のひとつ岡谷家から徳川美術館に寄贈されました。 世界遺産なるか「佐渡島の金山」 2転、3転をへて、世界遺産への推薦が決定された「佐渡島の金山」。新潟の沖合にうかぶ佐渡は、東京 23区の1.4倍の面積に約 6万人が暮らします。佐渡といえば金山が有名ですが、大規模な工場に汚染されたことのない美しい土壌と水にあふれ、京都から流伝えられた独特の文化をもつ島です。 船大工の建てた町 宿根木 宿根木では、板張りの外壁や木羽葺き石置き屋根の復元が進められています。木羽葺はスギを薄く割った木羽を葺き、丸石を乗せて押さえる工法で、江戸時代は一般的な屋根材でした。 吉永小百合さんの CMで有名になった三角屋は、船大工の技量をよく表しています。中心に居間があり、そのまわりに納戸や仏間、浴室などを複雑に配置しています。宿根木は千石船の寄港地として栄えました。中心を流れる称光寺川は町の生命線ともいえる川で、洗い物や洗濯物で人が集まりました。御影石の橋は、重りとして千石船に積まれたものです。スギ板を縦に張った外壁は、相じゃくりによって縦向きに継がれ、継ぎ目をずらすことで雨水の侵入を防ぎます。こうした工夫は船大工によって行なわれました。 廻船業で財をなした高津清九郎家。北海道の松前からニシンや数の子、昆布などを仕入れ、秋田、新潟、敦賀、下関にまで船をまわして商いました。床や建具、柱などを全て溜め漆で仕上げた豪勢な仕上げで、高い位置に明り採りの窓と障子を開閉する紐があります。 港から町へと続く小道は、いつの頃からか 「世捨小路」と呼ばれ民家が密集し、古い酒屋や柴田収蔵(江戸末期に世界地図を作成)の生家があります。 「千石船 白山丸展示館」は、実物の千石船を展示しています。宿根木では18世紀後半から造船がはじまり、船大工の棟梁と大工たちが日本独自の技術で巨大船をつくりました。 金子家は船大工職人の家です。宿根木では標準的なつくりの総二階の民家で、居間には珍しいデザインの仏壇が置かれています。 町の最奥に佇む古刹「称光寺」。岩を刳り貫いて設けられた墓所には花が絶えません。海で命を落とす船乗りも多く、女性たちは毎朝花を供え航海の無事を祈ったそうです。 世界遺産への課題 佐渡金山の世界遺産推薦にあたり話題となったのが韓国からの抗議でした。佐渡には様々な鉱山施設がありますが、今回は構成資産を「相川鶴子金銀山」と「西三川砂金山」に集約し、時代を江戸時代に絞ったのが特徴です。佐渡の相川に金鉱が発見されたのは関ヶ原の合戦の翌年で、最盛期には金が年に440kg、銀が 40tも採れ江戸幕府の財政を支えました。新潟県や佐渡市の推薦書案には「江戸幕府の鎖国政策で海外との交流が限られる中、金の採掘から選鉱、製錬、貨幣鋳造にいたるプロセスに伝統的手工業を深化させた点」が世界遺産への推薦理由にあげられています。「史跡 佐渡金山」に展示された手回しポンプ「水上輪」には、アルキメデスのポンプと同じ原理のスクリューが使われ、採掘技術の先端性を物語っています。 佐渡金山に山師や鉱夫が押し寄せ、人口 5万人を超える超過密都市が生まれます。金脈を掘り当てた山師の生活は江戸にひけをとらず、鉱夫や船員相手の遊郭も栄えました。一方、坑道内の環境は苛烈で、手回しの唐箕(とうみ)によって風を送るものの、粉塵や酸欠に 代の若さで亡くなります。 03〜02で悩まされました。鉱夫の多くは石英粉塵による「珪肺」 鉱山の操業は幕府から明治政府、宮内庁御料局、三菱に引き継がれ平成元年まで続きます。広瀬貞三教授たちの調査によると、明治末から太平洋戦争終戦まで、朝鮮人労働者が佐渡金山に就労していました。大正期になっても坑夫の平均寿命は 33歳ほどで、人手不足を補うため朝鮮での労働者募集が始まり、太平洋戦争中は「徴用」へ変わります。運搬夫や支柱夫として過酷な労働に従事しながら、道具や食事は自分持ちで給金はほとんど残らず契約期間後も解放されないため、逃亡者も多く発生しました。こうした強制労働の史実を含めずに世界遺産推薦が行なわれたことに対して、韓国は抗議していると思われます。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】