時空を超える美意識
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愛逢月 2022
アートうごめく大阪
八ヶ岳山麓に佇む白井晟一 幻の処女作
歡歸荘
八ヶ岳の別荘地「八ヶ岳高原海の口自然郷」に、白井晟一の実質的な処女作といわれる「歡歸荘(かんきそう)」(1937)が現存し、オーナーの中森夫妻によって大切に守られています。
1928年、23歳で渡欧した白井晟一は、ハイデルベルク大学でカール・ヤスパースから哲学を学ぶかたわら美術史家アウグスト・グリーゼバッハ教授の影響でゴシックなど古典建築に興味をもちます。当時はバウハウスやル・コルビュジエなどモダニズムへの移行期でしたが、白井はフランスの城郭やドイツの古い木造建築を好み、ケルン大聖堂がお気に入りだったようです。歡歸荘も北ヨーロッパに見られるハーフティンバー様式で、ゲストの入り口はレンガを積んだバルコニーの階段です。2階のバルコニーに玄関扉があり、ここからサロン(応接間)に入る演出です。設計当時、白井はまだ30代はじめでしたが、独特な形の庇と急角度の切妻のバランス感覚や、棟の下に穿たれた6つの穴、玄関脇のペンダントなど、のちの白井建築に通じるモチーフがすでに現れています。白井家はもともと銅を扱う家系だったためか、白井は金属の照明器具を生涯デザインし続けました。28歳で帰国した白井は、自由学園の近く東久留米市南沢に、義兄近藤浩一路の自宅兼アトリエを建てる際、建築家 平尾敏也と協働して、民家の古材を利用したハーフティンバーの木造住宅を建てます。その雰囲気は歡歸荘によく似たものです。ちなみに平尾敏也は、銀座で美貌堂という英国骨董の店を開いていました。玄関の上の漆喰壁には「 ARCHITEKT S.SHIRAI 1938 」の文字が誇らしげに描かれています。白井晟一にとって、はじめて単独で、設計・監理を行った処女作でした。
ゲストは少し高い位置から2階サロンに入ります。
高い位置から入り、階段を下りる動線は、後年の代表作「渋谷区立松濤美術館」を思わせます。
左右の窓は異なるデザインをしています。紋章の入ったステンドグラスは、白井が参考にしたと言うフランスモンテーニュ城(思想家ミシェル・ド・モンテーニュの生家)をモチーフにしたのでしょうか。
オーナーの中森隆利さんが、伊豆石でつくられた煖炉に火をつけてくださいました。
煖炉の火がつくと、部屋の雰囲気が一変します。これとほぼ同じ煖炉が、近藤浩一路邸にもありました。煖炉にはラテン語で「天使は微笑む」と刻まれています。
ぼくたち海の音楽隊ふたごのみならい楽団員
ド ドドレミミィミィミファソ
ほらねじょうずに吹けたでしょ
Vol.37
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
最初に歡歸荘が建てられたのは、伊豆長岡温泉の旅館「白石館」でした。義兄近藤浩一路と共にたびたび白石館に逗留した白井晟一は、女将師岡和賀(もろおかわか)の依頼により歡歸荘を設計しました。白井は泊まり込みで設計監理を行い、龍澤寺(三島)の禅僧山本玄峰老師や、『縄文的なるもの』を書くきっかけのひとつ江川太郎左衛門邸など、重要な出会いを得ます。
その後、夫と分かれた和賀女将は白石館を離れ、歡歸荘は夫と親しい芸術家のサロンやゲストハウスに使われたようです。一方、和賀女将は、彼女をしたう中居達と共に西武の堤康次郎氏に招かれ、ホテルや水族館の運営をまかされます。やがて白石館に隣接する三養荘(旧岩崎家別邸)の女将となりました。1980年代、白石館の土地は三養荘に統合され、村野藤吾設計の本館建設によって歡歸荘は取り壊されそうになりますが、八王子の医師横山達雄氏により救われました。
白井晟一(右)と横山達雄医師(左)
横山医師は、彫刻家ジャコモ・マンズーなど美術蒐集の縁で白井と親交があり、白井から歡歸荘移築の了承を得ていました。白井没後の1986年に解体を行い、八王子に部材を保管して最適地を探し、1988年八ヶ岳に移築しました。白井を信奉する横山医師は、バルコニーのレンガ積みや2階の漆喰塗りの壁、貴重なステンドグラス、がっしりした天井の構造、柱・梁に刻まれたナグリ仕上げなど、白井の痕跡をそっとなぞるかのように、丁寧に復元しています。現オーナーの中森隆利さんは「生前の白井さんが横山さんに移築を託したことが、私は最も大切だと思っています」と語ります。横山医師の没後、歡歸荘を引き継いだ中森隆利さんは、群馬県高崎でスタンウェイはじめ輸入ピアノの販売やコンサート、ピアノ教室などを運営する、日本ピアノホールディングの代表です。中森さんは毎週、高崎から八ヶ岳に通い、庭や建物の手入れを10年以上続けてきました。「皆でこの建物の価値を共有し、活用しながら次世代につなげたい」といいます。
1階のバルコニー下には、建築家吉野弘さんによって現代的な茶室が設計されました。床の間には白井晟一の書「也無」が掛けられ、「也無庵(やむあん)」と名付けられています。
引き戸を開けると、眩しいほどの緑。中森さんはここで茶会を開いたり、八ヶ岳高原音楽堂(設計吉村順三)と連携しながらサロンコンサートを開催したり、別荘の住人や知り合いを招いた小規模なイベントを徐々にはじめています。イベントの際は白井晟一の説明をして、建物の価値を伝えているそうです。関連人口を増やし、建物を次代につなげることを実践されています。
吉村順三設計の「八ヶ岳高原音楽堂」。世界的なアーティストのコンサートが開かれてきました。「海の口自然郷」を管理する、八ヶ岳高原ロッジによって運営されています。
ドラゴンシリーズ 93
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
インプロビゼーション
ライブハウスでピアニストが『ゼロ ( 無 ) で行こう』、とピアノの鍵盤をたたき始めた。初めの鍵盤の音からそのインプロビゼーションはスタートしたが、旋律の行方は誰にも分からない。たぶん演奏している本人たちにも分からないだろう。僕は音楽家では無いので、インプロビゼーションの感覚を体験したことも、想像すらできないが、幾人かの感覚をかけ合わせながら、ピアノとベースとドラムの生み出すインプロビゼーションの無限に見える広がりは、人により深さの限界を持ち合わせているように感じる。
時に自分の感覚の中で偶発的に生まれてくる音や旋律に本人が驚き、気持ちが高揚することもあれば、見えない先の音を少しだけ呼吸を置きながら必死に探し求めている苦しみも伝わってくる。そして『ゼロ』が生み出す魔の領域は、突然、偶然のように必然として訪れる。これまで演奏家が出会ったことの無い新しい境地。そこは目的を持って生み出される音楽には無いアクシデントのような自然創造物のような美しさを持つ。
自然界で生み出された景色や生き物が持っている美しさを超えるものを人間の意図によって創造することなどもはや無理であることはもちろんのこと、作為的な目的と意図で作られた芸術家の作品などは当然に自然物の足元にも及ばない。インプロビゼーションにはそんな自然の中に在る偶然の美しさが潜んでいる。
しかし、インプロビゼーションは即興である為に同じものを繰り返すことはできない。即興性で生まれた美しい創造物を、同じ感動を経験したくて音源を再現して演奏したとしても、また、同じ絵画を描いたとしても、その作品の美しさを二度と奏でることはない。が故にインプロビゼーションはその運命のように二度と繰り返すことができないわけで、同じような感動を同じ場所で同じようなクリエーションを生み出すことはできない運命にあるからこそ、音楽家も芸術家も新しい未開の地に足を踏み入れ、そして迷い、密林の奥の魔物の餌食になってきたのであろう。
月から
月まで滞在許可無しで居られる最長
までミラノに滞在し、新しいお店の準備をした。昨年の
りた500平米の物件は、ミラノ・ブレラ地区ではなかなか出会えないような希少な場所。透明感がありながら、歴史と時間が折り重なり、そこにイタリアの切れるような強くて爽やかな太陽光
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カ月間の限界
月に借
が注ぎ込み様々な方向から心地よい風が抜けてゆくようなそんな匂いを持つ空間。このコロナの年間の中で考えたことの一つが、この土地で自分たちの空間
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を作ることだった。それを実現する為に必要な要素が、空間の質感と絶対的な
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ロケーションだと考えてきた。僕らの仕事での表現は、モノや空間だと思われ
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がちだが、選択するロケーションこそは意匠としては見えないけれど、大事な要素であり大切な表現の一つである。その空間を得るべくずっと前から何度も動き、諦めかけながらも最後まで粘った結果として最良の場所を獲得できたと思っている。ロケーションは生み出すことはできないし、その場所の時間の蓄積も創造することはできない。とすれば最良の場所を見い出すことなのだ。
製品や事業を訴求するにあたり、もちろん様々な選択肢が存在する。僕た
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はミラノ店を、イタリアのブランドのショールームとは違った在り方を初めから模索した。それは日本で培ってきた、その地域に住む人々と直接的につながることができる場所を作ることであり、世界に向けたウィンドウでありながらも、同時にミラノ市民に向けたローカルショップでもあると言う存在。日本が本来持っている包容力を示すことの試みをしたいと考えてきた。日本には多様な異文化を独自のものへと吸収し同化してゆく癖を持っていると感じてきた。日本文化の根本に多様性に対する深い許容が存在していることは、日本文化の特性ではないだろうか。そんなことを長年考えてきた。
昨年の月から当社のスペースとして借りた500平米のスペースに、半年後の月日再び訪れた。ほとんど手付かずで半年前と全く変わっていない空間に愕然とした。と同時に体が凍るような震えを感じた。あまりにも驚く時、人は非常に冷静になる。オープンまで残りカ月を切った店舗空間には、まだ電気配線も空調設備もトイレも基本的な設備も施工許可の申請もできておらず、名の職人が壁の補修の下地作業をのんびりと進めていた。これはやばいことになったと冷静に理解すると、同時に頭の中の電卓が無駄にした時間とコストを瞬時に計算し、その膨大な損失に思考が停止した。
そこからカ月間、現場での戦いが始まり、その無駄とも思えるプロセスの中に、時間と忍耐がもたらす奇跡的な結末を経験した。それはまさに目的地無しに心を空っぽにしたインプロビゼーションの如く、感覚的作業が積み重さなり、そこに生まれた偶然性。無謀とも言える試みの上に生まれた二度と繰り返すことのない景色のような気がした。新しい景色を見る為には過去を忘れるしかない。いつまでも挑戦するしかないことを再度、認識した。
20回目をむかえた
ART OSAKA 2022
大阪 中之島の「大阪市中央公会堂」にギャラリー54軒が集合し、現代美術の最前線を公開しました。
堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島は、江戸時代、全国の藩の蔵屋敷が立ち並び「天下の台所」と呼ばれました。今は美術館やホテルが並ぶ、文化の中心としての役割を果たしています。
大阪市中央公会堂の外装は、レンガタイルと岡山産の花崗岩で覆われています。バロックの壮大さと、新古典主義のスタイルを持ち合わせ、構造には約240万個のレンガが使われました。
明治の末、株式仲買人岩本栄之助は、中之島に100万円(現在の数十億円)をかけた公会堂を建て、大阪市に寄付することを計画します。当時中之島は、藩の蔵屋敷が荒廃し、再開発の方向性を模索していました。栄之助はその中心として公会堂が必要と考えたのです。そのきっかけを作ったのは渋沢栄一が主催した「渡米実業団」でした。3か月にわたりアメリカを視察した栄之助は、企業家が文化施設建設に多額の寄付を行う様子を見聞します。父から受け継いだ財産と株式売買で得た利益を社会に還元したいと考えた栄之助は、設計者探しのために辰野金吾博士を訪ねます。
辰野金吾は、広くアイデアを求める方法として、まだ珍しかった指名コンペを提案。13件の応募があり、当時29歳の岡田信一郎が1等当選し、岡田の出世作となりました。実施設計は辰野たちが担い、辰野式と呼ばれる赤レンガにボーダーをあしらった新古典主義の外観により東京駅との共通性も指摘されますが、バロック的な荘厳な外観、内装の細部に宿るセセッションな雰囲気、凝った階段のスタイルなどは、後年の鳩山会館、青山会館、明治生命館などに受け継がれているようです。内装デザインには松岡壽が参加し、3階特別室のアーチ天井や壁面には「天地開闢」(天地創造神話)が描かれています。松岡壽は明治11年、工部美術学校の仲間(浅井忠、小山正太郎、高橋由一)と十一時会を結成。ローマに渡ると歴史画家チェーザレ・マッカリに師事し王立ローマ美術学校を卒業して、明治21年に帰国して藤島武二たち後進を指導しました。
3階特別室。鳳凰をデザインした大きなステンドグラスが見事です。5000枚以上のガラスで構成されレンズ状の円形ガラスが200枚以上使われています。
岩本栄之助は、第一次世界大戦による株式市場の混乱により大損害をこうむり、大正5年、完成を見ずに39歳で自死しました。寄付した100万円を返還してもらえという声もありましたが、栄之助はそれを拒み「株式投機は自分一代限りとせよ」という戒めと辞世の句「その秋をまたでちりゆく紅葉哉」を残しました。2年後の落成式には、栄之助の4歳の長女から大阪市長に公会堂の鍵が渡されています。父から岩本商店を継ぎ、大阪株式取引所の仲買人として活躍した栄之助は、日露戦争による株の乱高下から他の仲買人たちを救い「北浜の恩人」とも呼ばれました。本来は学問好きで、温厚な性格だった栄之助は、公会堂の寄付によってその名を歴史に刻みましたが、本人は「名を建物に記さないで欲しい」と言っています。公会堂の3階特別室と中集会室を利用して、A RT OSAKA2022が開催されました。大阪をはじめ全国からギャラリー54軒が集い、様々な現代アートを展示し、沢山の来場者で会場は熱気に包まれました。東京から出展した「ときの忘れもの」は、倉俣史朗さんの作品「Cabinet de Curiosit.」、「Flower Vase #1303」をはじめ、スケッチをシルクスクリーン作品にした「Shiro Kuramata Cahier3」などを展示。倉俣史朗さんといえば、ニューヨーク、フィリップスのオークションで「ミス・ブランチ」が約7000万円で落札されたことが話題になり、アート作品として世界で高く評価されていることが分かります。モダンなデザインとクラシックな公会堂の対比がとてもユニークでした。話題のアーティスト横岑竜之(よこみねたつゆき)さんの「-HappyMonster-」を展示したのは、大阪のKAZE ARTPLANNING。代表の泉井千恵さんは、大阪中之島のギャラリーマップを作成したところ、43軒ものギャラリーが中之島周辺に集中していたそうです。今年2月には待望の大阪中之島美術館が開館し、これを起爆剤として大阪のアートシーンを盛り上げていきたいといいます。
YODGallery(大阪)は、信楽のシェアスタジオを拠点に活躍する村田彩さんの作品を展示。「練り込み」という伝統技法によって、色の異なる粘土を組み合わせ、薄く切って金太郎飴のような模様を作り出し、それをもとに複雑な形を作り出していく、超絶的ともいえる技法の陶磁です。
コウイチ・ファインアーツは、大西秀哉さんの「gemonepos」を展示。大西さんは京都市立芸術大学で彫刻を学ぶ学生で、大規模なアートフェアへの出展は初めてだそうです。配管パイプを組み合わせたキモかわいいフォルムが注目を集めました。コウイチ・ファインアーツのオーナー岡田光市さんは、若手の才能を紹介する場としてアート大阪を活用したいといいます。
心・体・思考の健康をデザインする
大吉朋子(写真・文) Tomoko Oyoshi
とっておきの休み時間4時間目 Yoga Numerology
ヨガ数秘学
5月から「ヨガ数秘学」をご紹介しています。 「ヨガ数秘学」はインド発祥のクンダリーニヨガという流派で、今も実践される数字の教えが元となって生まれました。もともとは、ヨガコミュニティの中だけで伝えられる教えでしたが、アメリカ出身のタイラー・モンガンが、ヨガのコミュニティ以外でも使えるようにと再構築したものが「ヨガ数秘学」です。生年月日から“その人を知る”ことができるというシステムです。
ヨガ数秘学は“すべての人は生年月日を選んで生まれてくる”という考えを前提に、生年月日の数字を使いチャートを作り、そのチャートを元に数字の要素を読み解いていきます。自分の持つ性質や課題、本来の自分や強み、人生の目的など、知っている自分もそうでない自分も、数字の要素によって現れてきます。
9個の数字で作られる自分のチャートは「My Book」と呼び、“自分の人生の物語”と捉え、数字を通して自分が活かすべきエネルギーを現実吟味していくような、日々の生活や仕事にもすぐに役立つツールです。
私とヨガ数秘学の出会いは5.6年ほど前。ヨガの勉強に一生懸命だった頃でもあり、さまざまな勉強会に参加する中、生年月日とヨガの結びつきで何かがわかる?(らしい)という話題を目にしました。当初はあやしいなと思いながら、タイラーの来日講座があることを知り、興味が勝り、まずは自分で確認してみようと講座を申し込みました。
賢さの光る青い目のタイラーが語る言葉はとてもおもしろかったけれど、初回はなんとなく腑に落ちない、半信半疑だったことを覚えています。
何においても、「こうだ」と決めつけるのは簡単で、違和感のあるものと向き合うにはそれなりにエネルギーが必要です。ヨガ数秘学も違和感が始まりだったのですが、しつこく向き合うことで、だんだんと私自身に、私の数字も数字の教えもフィットしてくるようになりました。
私たちは、何かの性質や出来事に良い悪いの判断や見立てをしてしまいがちですが、ヨガ数秘学ではそういったジャッジをしません。その人がよりハッピーに今生を生きるために、活かしたら良いその人の「性質」を数字の要素を通して伝えていきます。
ヨガ数秘学を学び、日々、数字と身近に接し過ごすようになると、物事の捉え方、考え方、人とのかかわり方、自分の軸の持ち方など、より軽やかなものを感じるようになりました。ヨガの教えがベースにあることで、私にはとても自然な考え方で、素直に受けとめているようにも思います。
信じる信じない、嘘か誠か、良いか悪いか、正解か不正解か。人の視点、思考は人の数だけあり、単純に二分できないことの方が圧倒的に多く、その中でも何か選択をしなければいけない。そんな時、頼りにするのは自分で、その「自分」をより深く洞察し、知るという機会のひとつに「ヨガ数秘学」があります。
私が初めて自分の数字のリーディングを受けた時は、晴天の霹靂というのか、新しい時間でした。すぐに腹落ちしないことも含め、新しい視点が生まれた瞬間でもありました。
「数字の要素をみる」という明快で論理的仕組みと、情緒的なことを排除はしない。そこから発せられる情報は押しつけではなく受け取る側しだい、というカラッとしたスタンスも気に入っています。
2022年 7月は4の月2022年8月は5の月
「4」は、ニュートラルマインドの数字。中「5」は、体を表す数字。行動、運動、変庸、秩序、ルール、計画、ジャッジをしな化、旅、作る、教える、などのエネルギーいエネルギー。7月は落ち着いた、整然とを表します。8月は、じっとしているよりも「動したエネルギーが流れる時ですから、混沌く」とき。まずは行動してみる!動いてからとしたものを整理する、ざわついた思考を落考える、くらいでOKです。暑くて運動なんて、ち着かせる、といった整理整頓がおすすめと思わずに、朝晩の涼しい時にしっかり体をです。変化の大きい季節だからこそ、ご自動かし、体を感じることも大切です。噴出す
身の内側を整え、動きだす前の準備として、ような汗をかくのも気持ちいいですよ。
穏やかに過ごしてまいりましょう。くれぐれも無理はされませんように。
【 7月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】
外側にある「気」への感受性があるからこそ、外側にあるエネルギーに影響されやすい側面も。意識的に一人になる時間を作ることがおすすめです。そうすることで、自分と外側とのちょうどいい距離感が保てます。
ART OSAKA 2022
造船所跡の Expanded Section
大阪市の臨海部、かつて造船業で栄えた北加賀屋は、いまアートによる町おこしを行っています。大阪市の臨海部、北加賀屋は、かつて造船の街として栄えました。造船業の衰退とともに工場は閉鎖され、街も活気を失いましたが、名村造船所の跡地が「大阪クリエイティブセンター」として再生され、それを中心として工場跡を利用したアーティストのスタジオやギャラリーがつくられ、アートを核とした町おこしがスタートしています。
7月6日〜7月11日まで、A RT OSA KA 2022 Expandedセクションが開催されました。造船所の巨大な建屋を活用した、日本初の大型作品、インスタレーションに特化したフェアという開催趣旨に賛同したギャラリーから、17人、14プランの作品が展示されました。
ART OSAKA 2022 にあわせ、公会堂のある中之島から名村造船所跡まで、アートクルーズ船が運行されました。堂島川 〜 木津川へ大阪市内の名所を川から眺める約70分間の特別な船旅を多くの人が楽しみました。
アートコートギャラリー(大阪)
大西康明さんの「Stone onboundary」(境の石)は、河原にひろがる小石を銅箔で型取りした無数のオブジェクトが天井から吊るされています。観客はそこを歩くことで、境界を感じます。
TEZUKAYAMA GALLERY(大阪)
赤井正人さんの「ふたみのほら」(上)。奈良県に生まれた赤井さんは、修験道の霊峰からインスピレーションを得て、炭化した木によって護摩焚きや燻された御堂、山中の自然造形を表現しています。加藤智大さんの「anonymous」は、人体の影の反復を抽出し、複雑な鉄線の羅列に置き換えた彫刻です。モアレ効果によって漂う亡霊のように映ります。瀧健太郎さんは「見ることの闘議」と題して、映像作品「ダークツーリズム」、「リヴィング・イン・ザ・ボックス」をはじめオブジェクト「監視の詩学」、「アイ・オン・トライアングル」など、過去作品から最新作までを一堂に並べ、観客のなかに様々な闘議を呼び起こす試みを行いました。
横溝美由紀さんの「wrapped」。4階の元現図場(船の原寸図を描く部屋)いっぱいにプラスチックの箱を並べました。床には造船所時代に描かれた原図の跡が残されていました。
ニューヨーク、マンハッタンの西方約130の場所に、人口7万5千人ほどのベツレヘムという町がある。ここはかつてアメリカを代表する製鋼&造船会社ベツレヘム・スチールの巨大な設備が立ち並ぶ「鉄の町」だった。その原点は1857年創業のソーコナ製鉄所という町工場。米国経済の成長とともに製鉄所は発展していく。初期の鉄道レール生産、第一次世界大戦での戦艦造船、1930年代にマンハッタンの光景を塗り替える、クライスラー・ビルやエンパイヤステート・ビル、さらにはサンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジ等々の建設素材を送り出している。第二次世界大戦中は、軍需産業の根幹として、多数の戦艦建造を初め、米軍装備品の膨大な鉄鋼需要の中心を担った。「ベツレヘム・スチールなくして第二次世界大戦における米国の勝利なし!」と言われたほどで、1960年代の後半に至るまで、世界の鉄鋼業界の中で冠たる存在として君臨した。
しかし、黄金時代は、そこまで。戦後新たな製鋼技術を手に立ち上がってきた日本の製鉄産業との競争に打ち勝つことができず、徐々に衰退していく。それはアメ kmリカの巨大製造業全般の衰退と軌を一にする。1970年代からの会社の衰退過程を見ていくと、我が国の一部巨大会社の明日を見るような気がしてくる。2001年に会社は破産申請。その大きな背景の一つが、かつての従業員たちへの年金支払負担の急速な増大だった。我が国の現状を思うと、この点も見逃せない。やがて最終的な会社資産の分割売却が始まり、2003年に主要な残存資産をインドのミッタル・スチール社が買取ることで、会社の整理は完了した。「製造業」における世界覇権の主役の交代を象徴する出来事と言っていいのではないか。と、ここまでは、話の前置きだ。
このベツレヘム・スチール社の広大な跡地の一部に今年
(2022 )、最新の技術と設備を誇る、全米でも最大規模の「立
体野菜工場」が完成した。運営会社はバワリー・ファーミング社(Bowery Farming)。現在ここから送り出されている野菜は、葉野
菜が中心で、次の通り。ロメーン・レタス、バターレタス、ルッコラ、
バジル、パセリ、ケール、そして、注目のイチゴ。イチゴは一般
に農薬の使用量が多いことで知られるが、野菜工場では農薬の使用を大幅に削減した生育が可能だと言われる。このように今はまだ、作物の種類は限られている。だが、技術発展のスピードを見ていると、この現状が打破されるのも時間の問題かと思われる。
では「立体野菜工場」とは、いったい何か。日本でも実験プラントは各社競って開発中で、そのひとつ「カネコ種苗」ではその設備を「多段微噴霧式完全制御型、閉鎖型人工光植物工場」(長い!)と呼んでいる。そしてこれを次のように説明する。「閉鎖された室内で、植物の生育に必要な、光・水・栄養素・温度等の条件を人為的に制御し、自然に頼った農業では実現できない、高い収量と、高度に衛生的な野菜を生産することができるのが植物工場です。」また「通常の農業では実現できない生産効率や低細菌・低硝酸など高付加価値野菜の生産
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が考えられています。特定の栄養素を多く含む機能性野菜生産を目指しています。
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場所を選ばない植物工場は空いた工場やビルのスペース利用も可能です。適温に保たれた室内の軽作業で、高齢者や障害者にも働く場を提供し、地域振興の一助にもなります。」と訴える。私として特に異論を唱える部分は、ない。
更にこの説明に加えるならば、他にも利点がある。野菜工場は外部と遮断されているため、植物の生育が天候に左右されない。豪雨も日照りも、また台風にも影響されない。また土地の使用効率も凄い。例えば1000平米の土地に平面積600平米で、高さのある立体野菜工場を建築するとする。大地の畑であれば、1000平米の畑ということになる。これが、立体野菜工場であれば、600平米分のパレットを仮に層積み重ねたとしよう。とすると、600 ×15=9000平米。1千平米の土地で9千平米の畑が運営可能となる。その維持に必要な水の量も少量で済む。大地の畑に比して面積あたり、約分の1の水でこれを維持することが可能と言われている。バワリー・ファーミング社では、使用する水のほぼ全量のリサイクルが可能と謳っている。そしてもう一つの利点。それが、「畑の場所」の問題だ。ある意味、土地を選ばない。古くなった大きな工場や倉庫の跡地で十分可能だ。昨今「廃墟」と呼ばれる場所が活用できる。これらは普通、都市の周縁部に位置する。そのため、野菜工場でできた野菜を出荷するに当たって、消費地に運ぶ輸送コストを削減できる。
ただ、そうそう良いことばかり、ではない。この「立体野菜工場」、収益を上げることを前提とするには一定以上の規模が必要となる。建物そのものは、高さのある巨大な空間を建築すればいい。問題は、その中に収める設備一式の価格だ。生産されるモノ(園芸植物)の販売価格を考えると、設備費用が高い。十数層にも重ね置かれる植物を植えたパレット。これを適宜自動で移動させる事が可能な構造物。これは最新の高度な自動倉庫の管理技術と類似する。また植物の成長を見守り、温度と湿度を管理するための各種カメラやセンサー類と制御装置。自動冷暖房設備。太陽光に代わる無数の L E D、その光量と明滅を制御する設備。雨に代わる霧噴射装置。植物に応じては自動収穫装置から、さらには、自動包装まで。これらを統合的に、かつ、パレット単位の細かさで管理するコンピューターのプログラム。野菜工場は時間稼働を前提とするので、基本的に、大きな電力を必要とする。より難しいのは人材だ。園芸農作物に関する高度に植物科学的な知識を持つ専門家、その求めに応じて柔軟な環境制御を可能とする装置を開発するエンジニア、作物毎に最適な成長が可能となるように装置を稼働させるプログラミング能力のある人材。これを統合する形での先進的な研究開発組織の管理運営者。考えただけでも大変そうだ。だが後述するように、日本はこの分野の研究者に関しては、人的資源に恵まれている。それだけに、間違っても彼らが頭脳流出などしないように、研究者たちを大切にしなければいけない。
こうした本格的な「立体野菜工場」の登場は、何を意味するのか。これは「農業の工業化」が本格化し始めた証、と見ていいのではないか。歴史的な転換点だと思う。かつて世界に冠たる存在だった製鉄所の跡地に「立体野菜工場」。産業構造の革新と言い換えてもいい。エネルギー資源の開発と並んで、新たな食資源の確保は、世界でも喫緊の課題だ。当然「立体野菜工場」をめぐっては、先進国の企業間で熾烈な研究開発競争がヒートアップしている。その中でうれしいことが、ひとつある。それは、様々な関連研究分野の中で、日本人研究者の活躍が目立つ、という点だ。ここでの核心的技術の一つが、太陽光に代わる人工光としての L E Dの存在だ。2014年のノーベル物理学賞が「青色 L E D」開発に功績のあった3人の日本人研究者に贈られているのが、その代表例だ。
日本では今後も都市の周縁部、かつての工業地帯で不要となる工場や倉庫の跡地が続出してくることは必至だ。その跡地が園芸作物の立体生産工場となり得る。これが実現すれば、食に関する都市の自立性を高め、他国からの農作物輸入削減
にもつながる。私自身は、養殖漁業と大地知らずの肉を産み出す畜産の工業化に対しては、懸念を抱いている。まだ一度も立体野菜工場で生産された野菜を手にしたこともなく、当然、食べたこともない。しかし、立体野菜工場に対しては、大いに期待している。無論、これが市場に多く出回るようになれば、いろいろな問題点が指摘される可能性も考えられる。だが、それでも、現在スーパーの棚を埋め尽くす膨大な量の加工食品の数々や氾濫するファストフードに比べれば、どう考えても、問題は少ないだろうと思われるのだ。
最後に蛇足と承知で付け加えるならば、「立体野菜工場」、これを「農業の発展形」としてではなく、「新しい高度なものづくり」という視点で取り組む方が成功の確率が高いのではないだろうか。発想の転換が必要だと感じる。自動車産業出身でないイーロン・マスクがテスラ自動車で大成功を収めた例に見られるように。なぜなら、「立体野菜工場」は、高度に先端的な素材と部品、 A Iを含む設備管理統御技術、園芸作物成長に関する科学的な深い分析力等の集合体であるからだ。その技術力を集約した力で、大地で育つものに勝るとも劣らない品質の園芸作物を生産する。激しい競争の中から、高品質の野菜を産み出し、世界で戦える「日本の立体野菜工場会社」が登場する日を待ち望んでいる。
メイン会場の「 kagoo 」は、元家具店をリノベーションしたギャラリーで千島土地のコレクションを展示しています。
名村造船所跡周辺では、ART OSAKA 2022の関連イベントとして、千島土地設立110 周年を記念した「千島土地コレクション TIDE -潮流が形になるとき- 」が7月6日〜11日まで開催されました。同社は北加賀屋に数十万坪を所有する会社で、2009年から「北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ(KCV)構想」を掲げ、創造性あふれる街づくりを進めています。
Super Studio Kitakagaya(SSK)は、千島土地によるシェアスタジオです。10組以上のアーティストが入居し、月に数万円で利用できます。この日はイベントのため内部を公開していました。元は名村造船所の倉庫で、建物をそのままにして千島土地が引き取り、活用する方法がとられました。工場などが撤退する際、通常は更地にして地主に返還されますが、既存の建物をアーティストに提供する試みが40軒以上で行われ、若きアーティストが北加賀屋に集まるようになりました。
MASK(MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)は、元工場を改修した現代アート作品の収蔵庫です。国際的に活躍するアーティスト7名の大型作品が保管されています。
どこにでもありそうな町工場に、持田敦子、宇治野宗輝、金氏徹平、久保田弘成、名和晃平、やなぎみわ、ヤノベケンジといったアーティストの作品が並んでいることに驚かされます。大型のインスタレーション作品は展覧会後の保管が難しく、それを解決するため無償で保管する倉庫を作ったそうです。MASKは一般財団法人おおさか創造千島財団により運営されています。
宇治野宗輝さんの「THEHOUSE」。2015年、作家が約1カ月滞在して作り上げた作品です。音や光でまるで生き物のように家が躍動します。MASKでは年に1回のペースで、展示作品の一般公開を行っています。
ヤノベケンジさんの「ラッキードラゴン」と「サン・チャイルド」。
大阪梅田の阪急うめだ本店9階祝祭広場では「日本財団DIVERSITY IN THE ARTS公募展」が開かれていました。世界中から障害のある方が生み出した作品を募集する公募展で、今回が4回目だそうです。81点の作品が展示され、ダイバーシティなアートの力強さを見せつけていました。5回目の応募は6月30日で締め切られ、いま審査が進められています。
南風なれども
その28
青山かすみ
6月末早々に梅雨明けと知らされながらも、「気象庁さん、その判断は少々はや過ぎじゃございません?」なんとも腑に落ちない気分を抱えつつ記録的な猛暑は続いている。
かつてないほどの人が熱中症を起こし、救急車のサイレンが忙しそうに鳴り響く中を、駅周辺では参院選挙の宣伝カーも懸
命に叫んでた。そんなすきを見逃すことなくじわじわ忍び寄ってきたのが、急速な変異株感染の拡大だ。と同時に天候は急激な線状降水帯を発生させ、二度目の梅雨前線をもたらせるに至った。日本全体が高い湿度に覆われ、特に東北方面・北海道への雨量は今までにない現象です。不安定な天候は、人の健康と精神へも大きく影響を及ぼします。お米や野菜など無事に育ってくれるといいのですが……ヨーロッパ諸国でも熱波に見舞われ、山火事まで起きてると聞く。そんな環境だというのにロシアとウクライナの戦争はいつまで引き伸ばすのか?いろんな心配が尽きない 2022年七夕月となりました。
昨年は自粛しながら「自宅でオリンピック観戦」的な夏休みだったように思います。すでに三回、四回とワクチンを打ってるわけですから「もうそろそろ飲み薬に切り替える時期になっていいんじゃない?」一般的な風邪と同様に扱うべき時と思えてなりません。マスク、消毒、換気をといわれても、都心上空では南風時の3時から6時過ぎまで飛行機やヘリコプターの低空飛行騒音が激し過ぎて窓も開けられないし、換気ができない状況でしょ?倒れる人が続出して当たり前なのよね。
人の命を助けるどころか、危ない目に合わせて平気なんですから驚きですよ。
国民を守るためワクチンを打つようにと言いながら、一方で空襲のごとく危険を与え続けるなんて。これこそが国民に対するアメとムチ政策?とでも?国の政策とはいえコロナ禍、羽田新ルート飛行という愚行を止めようとすら考えることもできない、政府と国土交通省にはゲンナリだし呆れるばかりだ。
奇遇にも、新型コロナ感染&都心新航路の時期は同時期発生のものとなって、地球上のうごめく欲望をまとい、人類は世界的危機に直面している。来月で戦後77年を迎える日本の夏。私達はなにを祈ればいいと思われますか。
かつては繊維会社や宝飾問屋の街として栄えた南船場。今は古いビルをリノベーションして、若いオーナーがカフェ、デザイン事務所、ヘアサロン、古書店などを次々と立ち上げる、新しい街として注目されています。その一画に建つ築約60年の「大阪写真会館」1階に、 Time & Style Osakaが出店しました。上階には老舗のクラシックカメラ店や写真ギャラリーがあり、昭和の匂いを感じさせます。
面積 313㎡、高さ 4m弱の天井に規則的な梁が連続します。オリジナルのサッシや正倉院棚厨子をモチーフにした「Tanazushi」などを通し、奥まで視線がつながる心地よい空間です。
2022年 7月 7日〜 8月 7日まで、ミラノ、東京、アムステルダムに続き、建築家ピーター・ズントーによる家具コレクション Peter Zumthor collection展が開催されています。人気の高いズントーの作品だけに、建築家や学生が多く訪れているそうです。
曲げ木と籐の軽い椅子「The bentchair」に大きなペンダント「bisque」をあわせたダイニング。テーブルウェアのコーナーにはオープン棚「Tanazushi」に陶磁器、漆器、ガラス器が並べられ、日本各地の手仕事を伝えています。天井や梁の打ち放しコンクリートには、杉板の模様を綺麗に残し、壁や柱のモルタルにも時代を経た味わいを生かしています。
屋外のデッキにはPeter Zumthor collection「 ValserliegeChaise longue 」が置かれていました。優美な曲線を描く座面には日本の曲げ木技術が生かされています。その傍らにあるチェアやテーブルは、ドリルデザインによる「 Offset outdoor」。屋内外をつなげるアウトドア家具シリーズは、これから成長しそうなジャンルです。
ベッド「 in the forest」は、ヘッドボードやベースに柔らかなフォルムの天然木を使い、素肌で木の感触を楽しめます。ソファシステム「 The horizon of the floating layer 」は、薄い座面を床から浮かせたように見せながら、Sバネ構造によって優しい座り心地をもたせています。こうしたTIME&STYLEの提案が、大阪の人たちにどのように受け止められるでしょうか。
今月の茶道具 6
蘆屋楓流水鶏図真形釜「竜田川」
室町時代 15世紀 九州国立博物館蔵
茶の湯釜のなかで特に珍重される「芦屋釜」は、いまの福岡県芦屋町で、南北朝の時代から江戸初期にかけて生産されました。室町時代には「釜といえば芦屋」といわれ、いまも国指定重要文化財の茶の湯釜 9点の内、8点を芦屋釜が占めます。この釜の特徴は、口造りを繰口(くりくち)とした「真形(しんなり)」といわれる端正な姿にあります。また、なめらかな鯰肌(なまずはだ)の胴部には、鶏やカエデ、流水、州浜があらわされています。その意匠から紅葉の名所「竜田川」と呼ばれました。両肩には立派な鬼面の鐶付(かんつき)がつき、下部は「尾垂(おだれ)」という独特な形をしています。これは底が傷んだ古い釜の下部を交換したもので、羽のあった部分を打ち欠いた不揃いな部分が残り、景色になっています。後年になると最初からこの意匠を形作った釜も作られました。
「知られぬ日本の面影」を伝える
小泉八雲旧居(松江市)
ラフカディオ・ハーン
島根県松江市。お城の堀にそった「塩見縄手」には、小泉八雲が暮らした家と、小泉八雲記念館が隣接します。広い縁側の先には、かつて八雲が眺めた庭が、綺麗に手入れされています。作庭は屋敷の主であった根岸小石と伝わります。
ギリシャ・レフカダ島で生まれ、アイルランド・ダブリンに移住し、ロンドンの貧民窟からアメリカ・シンシナティへ渡り新聞記者となり、ニューオーリンズではクレオール文化やブードゥー教を取材し、西インド諸島マルティニーク島に2年間滞在し、小泉八雲の人生は旅の連続でした。1884年、ニューオーリンズ万博の日本館を取材した八雲は、日本への憧憬を深めていきます。
1890年、40歳で来日した小泉八雲は、1891年6月から11月の約半年を、この根岸家の武家屋敷で過ごしました。八雲は小さな池のことを「知られぬ日本の面影」に事細かく書いています。来日間もない八雲にとって、憧れの武家屋敷と庭園は、日本の印象を決定づけた場所のひとつでした。手伝いに入った松江藩士の娘・小泉セツは、生涯の伴侶ともなっています。
極度の近眼だった八雲は、背の高い机を愛用し、原稿用紙に顔をつけるように執筆をすすめました。セツ夫人が幼い頃から聞き馴染んだ昔話や怪談は、八雲の創造の源泉となります。セツ自身も話を聞きまわったり、古い本を読んだりして八雲に聞かせ二人三脚で創作を進めました。
かつて普門院の前に「小豆とぎ橋」という橋があり、謡曲「かきつばた」を歌いながら渡ると、恐ろし
小豆とぎ橋いことが起こると言われていました。ある日、怖いもの知らずの武士が「かきつばた」を歌いながら橋をわたり、何も起こらないと勇んで屋敷に帰ると、門の前に立つ女性からつづらを渡されます。そこには幼子の生首が入っていて、慌てて屋敷に戻った武士が見たのは、首のない我が子でした。
八雲は池で鳴くカエルを愛していました。ある日、土蔵から顔を出したヘビを見ると、肉を与えてカエルを食べないように頼みます。小さな庭園は八雲にとって、日本の自然環境を凝縮したミクロコスモスだったのでしょう。屋敷と庭は根岸家によって大切に守り継がれ、小泉八雲が作品に描いた光景を今に伝えています。
松山城内の「城山稲荷神社」は、八雲お気に入りの散歩コースでした。2千体の石狐が祀られていたといわれ、火伏せの神として信仰されています。ある日、藩主・松平直政公の枕元に美しい少年が立ち「城内に私の場所を作ってくださったら、火難からお守りいたしましょう」と約束したそうです。直政公は早々に稲荷神社を建て、城下の家々は稲荷神社の棟札を火難除けとして置くようになりました。八雲はそれを「松江の唯一の防火設備」と紹介しています。
小泉八雲が亡くなって約40年後、第二次世界大戦の戦後処理のため、GHQ副官として来日したボナ・フェラーズは、戦前から小泉家と交流をもち、八雲の著作から「日本人の祖先崇拝と天皇崇拝は不可分の関係にある」ことを理解していました。天皇家の存続に大きな役割を果たし、民主国家における象徴天皇というあり方を推し進めた人物の一人と言われます。
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