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3月号 鳳春 2015
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時空にえがく美意識
2015年2月13日(金)〜2月17日(火)の 5日間、毎年恒例のAmbiente(アンビエンテ)国際消費財見本市が、ドイツ・フランクフルトで開催されました。今月は見本市のレポートと、文豪ゲーテの生まれた街フランクフルト旧市街、ユーゲント・シュティール(青春様式)の街ダルムシュタットをご案内します。
ドイツ・フランクフルト国際見本市会場。屋内だけで 35万 5千㎡以上の展示面積を誇ります。
2月13日(金)朝9時、オープンと同時に会場には沢山のバイヤーが詰めかけました。オープニングレセプションでは、今年のパートナーカントリーであるアメリカの関係者やヘッセン州の通産大臣などがスピーチを行いました。パートナーカントリー・アメリカの特別展示。ビーチサイドをイメージした会場デザインは、ニューヨークのスコット・ヘンダーソンさんによるもの。展示されたアメリカ製品を解説していました。
アメリカを代表する陶磁器メーカー「レノックス」。1859年に米国初の本格的な陶磁器の制作を目指しWalter ScottLenoxによって設立されました。20世紀はじめにはホワイトハウス御用達の陶磁器メーカーとして認められ、レーガン氏やクリントン氏など歴代大統領の食器を提供しています。
ドイツを代表する1748年創業の陶磁器メーカー「ビレロイ&ボッホ」は、バーベキュー用の新作「UltimateBBQ collection」を発表しました。ペントハウスのテラスなど都会派BBQをイメージしたヨーロピアンな提案です。
米国陶磁器メーカー「GIBSON」。木と金属を組み合わせたシリーズや陶製のジャグなどアメリカンなエレガンス。
米国アトランタのアーティスト・レベッカ・ピュイグさんが主宰する「Sugarboo Designs」。レース柄を写しとった陶器やアート作品など、アメリカ南部のプリミティブな雰囲気が満載です。恒例のアンビエンテ・ガラ(出展者パーティ)も今年はアメリカン。ニューヨークポリスやモンロー風、オードリー風のアクターが人気でした。食事はスペアリブやホットドッグ、フライドポテトなど、ドイツで食べると不思議な気分です
ショウビズの国からやってきたゴスペル隊のパワフルなステージ。Jazzやラップなど盛り沢山のステージが深夜まで続きました。
アメリカの地方都市のモールにある巨大食品スーパーに行くと、その価格の安さに驚かされる。何と言っても小麦やトウモロコシ、牛肉や豚肉、さらにはオレンジやレモンを世界中に送り出している農畜産物の輸出大国だ。その大規模農業から生み出される豊富な食材は、自国民を養って余りある豊かさを誇っている、と誰しも思うはずだ。ところがそのアメリカで「食うや食わず」ギリギリの生
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活をせざるを得ない人々の割合が増え続けている。その窮乏ぶりを象徴する第 1のキーワードが、一般に「フードスタンプ」と呼ばれる食品購入補助金の支給制度だ。日々の暮らしに事欠く人々に対して連邦政府から各州政府を通じで毎月末に支給(電子カードに入金)されるもので、単身者なら月に約 123ドル、世帯平均では 257ドルが支給されている。問題はその受給者数だ。全米で約 2270万世帯、 4650万人 !アメリカの総人口 3億2千万人の %近い人々が、その日の食にもこと欠くような暮らしにあえいでいる計算になる。毎月月末に支給されるフードスタンプ。貧困層が集中する地域の食品店やスーパーでは、その翌日すなわち月初めからの数日間に売上のピークが集
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中するという。「入金したらすぐに食品を買いに走る」フードスタンプの利用者たちはそれくらい切迫した状況に置かれているのだ。
その受給資格は単身者なら年収 1万5千ドル以下、 4人家族なら 3万1千ドル以下の世帯に限定されている。が、その受給者数はこの数年で大幅に増加している。各州の総人口に占めるスタンプ受給
者率は、州によって大きな開きがある。「最も受給者率が高い」=「貧
困率が高い」のが南部ミシシッピ州だ。受給率 %弱で「住民の四
人に一人」という状況に至る日も間近だ。注目すべきは同州が、全
米でも最も肥満者の人口比率が高いという点。以下、首都ワシント
ンを擁するコロンビア特別区、ニューメキシコ、オレゴン、テネシー、
ウェストバージニアそしてルイジアナの各州が続く。これは先月号
でご紹介した、全米で肥満率の高い州とほぼ重なる。アメリカでは「貧
困」 ≒「肥満」なのだ。
私はオクラホマで実際にフードスタンプを使って食品を購入している人々の姿を何度か目撃している。ミルク、フレッシュジュース、シリアル、ハム・ソーセージ、チーズ、ピーナッツバターの大瓶、トースト用パン一斤の大パッケージ、キャンベルの缶詰各種、パスタ、パスタソース、冷凍のおかずあれこれ等々、基本的な食材をカートに山積みしている。一見、量は十分に見える。だが、一家四〜五人で食品の購入は毎週末の一回だけという家が多い。一週間分の食料の大半がそのカートひとつで賄われるかと思うと、さして余裕たっぷりとも思えなくなる。こうした一家の小さな子どもたちが食品を見る目は真剣そのものだ。子供たちが勝手に好きな食品をカートに入れようとして母親に叱られている様子を何度目にしたことか。ちょっと痛々しいほどだ。これは決して貧しい地方都市だけの光景ではない。世界的な富豪が集中する超高級住宅街 NYCマンハッタンのアッパー・イースト。その目と鼻の先に位置する食品スーパー入り口に「フードスタンプ利用可」と書かれたシールを目にして驚いたことがある。その時私は感じた。 NYC名物の半地下のゴミ置き場から目前にそびえ立つ百階建てアパートのペントハウスを見上げるような、気が遠くなるほどの落差が、そこにはあると。
このフードスタンプと並んで、アメリカの貧困を象徴する第 のキーワードそれが、最近全米で急速に広がり始めている「フードバンク」すなわち「食品の無料配布システム」だ。主に民間のボランティア団体や労働組合が主体となって運営しているもので、各団体は地域の食品関連の製造や小売の業界から「余った食材」を寄付の形で貰い受ける。これを小分けにして組み合わせてレジ袋に入れたりして、スープキッチン(無料の食事提供所)やフードパントリー(食材無料配布所)に送り、そこで人々に配
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布するという形が主流だ。運営団体の個性に応じてそのやり方は多様で、集めた寄付
金で食材を購入して配布する所もある。その主流は「余った食材」をかき集めてくるスタイルなので、どのような食品が入手できるかは、日々予測がつかない。保存の効く乾燥豆や小麦粉またニンジン・玉ネギ・芋類はまだ扱いが楽だ。だが腐敗が心配される生鮮食品や野菜果物類は扱わない所も多い。となると配布される食品は缶詰やレトルトそれに菓子類が主流とならざるを得ない。これが肥満に結びつきやすいこと、いうまでもない。無料食品の配布日には、百メートルを越える長い列ができることも珍しくない。列に並ぶ人々へのインタビューを見ると、一様に「こんなに恥ずかしいことはしたくない」「子供が家で待っている」「失業中で食べるためには仕方がない」「ついこの間まで自分がこんな列に並ぶなんて思っても見なかった」等々、辛い心情の吐露が続く。
我が農水省の発表するカロリーベースで見た 2011年段階の食料自給率は、アメリカが 127%で、日本は 41%。比較にならない。にもかかわらず自給率十二分なアメリカで、食料の無料配布に群がる人々の存在が一大社会問題となっている。一方、日本でそんな話は聞いたことがない。問題は一国の食料の自給率の高低ではなさそうだ。むしろその配分の適正さこそが問われるべきではないのか。
フードスタンプの受給者数(赤線)と経費(青棒)。リーマン・ショック以降に倍増している。
食品無料配布所。缶詰やレトルトなど品種は限られるが、スーパーのように充実した配布所もある。
次回につづく
出展メーカーから注目製品をチョイスし、インテリアトレンドを占う「TRENDS 2015」。自然光のそそぐガラリアで開かれています。
4つに分かれたコーナーのひとつ「clarity+lightness」淡いブルーや萌黄、白、白木などトーンを抑えた色合いの小物や照明でコーディネートしています。過剰な装飾とは無縁の「神道」をすら感じさせる構成。
「TRENDS 2015」では、各国の製品が色やテイストに合わせコーディネイトされています。異なる文化から生まれたモノ達の出会いも、国際見本市ならではの光景です。
「craft+culture」のコーナーは、手仕事の風合いをもった製品を集めていました。木や草、ガラス、石、土など、地域性のある素材の組み合わせから力強さを感じました。
黒いマテリアルを中心に、ゴージャス感を演出した「history+elegance」。重厚な取り合わせのなかに東洋の品々を入れ込み、高貴な雰囲気を出しています。
オレンジやミントなどカラフルな色とプラスチック、シリコン、コットンなどの素材で構成した「humour+curiosity」
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今年の3月日で東日本大震災から4年の月日が経過する。
あの日の午後のことは、つい昨日の出来事の様に今でも心に焼き付いて、忘れることが出来ない。多くの人々の命を失い、住む家を失い、住むべき場所を失い、善悪を問わず有無を言わせず、あの日の午後、一瞬にして家族や子供、親、兄弟、友人、それまでの日常を失った。
それから4年が経過したが、僕の中ではこの4年の時間の中で多くのことが変わり、自分の身にも沢山のことが起こってきた。僕の身の周りでも震災直後の混乱の中で、様々な人間模様と人間の本音と真実と現実を目の当たりにした。
そして、僕自身もその本音と現実と向き合わなければならなかった。人々は平静を装いながらも、自分の身を守る為にその場所から静かに気付かれぬように遠ざかり、逃げ去った人々も大勢いた。
また、自分のことや家族のことだ
けでなく、遠くで被害に遭った人々
の場所を訪れ、身の危険を厭わず献
身的な援助へと向き合った多くの人々も存在した。被害者の援助の為にと様々
な方法で、何かしら自分ができることに奔走した時期もあった。できるだけ
それまでの生活を取り戻す為に、多くの人々が自分自身と向き合い、心の中
の恐怖心と善意の狭間で格闘した。
それは、東北の被災地だけでなく、東北を中心とした東日本全域に住む人々の心に同じように今でも存在するあの日のトラウマであり、また現実に進ま
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
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今日、生きていること。
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ない復興に対しての絶望感である。
あの日から4年が経過した今日、淡々と日々が続いているように見えるが、僕自身の中ではこの4年間で僕自身の命に対する感じ方や想いは大きく変容した。震災から1〜2年間の間は大きな被害に対して如何に向き合い、如何にこれからに対処してゆくべきかと言う現実の中で、大きな恐怖感や喪失感と有無を言わせずに正面から向き合うことができた。
しかし、社会の復興に対しての動きや意識の低下と共に、世の中は震災前のような平穏な日々に戻っているように見えている。しかし、僕自身の中では何かが、突然、自分自身を支えていた何かが崩壊した。生まれ、自分を意識して以来ずっと保ち続けてきた精神の糸が突然、プツリと音を立てるように切れてしまった。僕は、その場に立っていることもできず混乱し、突然、
何の前触れも無く、目の前に死が迫ってきていることを感じた。それは、外界から迫り来るようなものではなく、僕自身の中から迫り来る、生命と精神に関わる何かが崩壊した瞬間だった。
それから今日までの2年間に数度の手術を受けるような身体的な疾患にも直面することになったのだけれど、自分の中では、身体的疾患が原因で自分の何かが崩壊したのではなく、僕自身の人生のそれまでの矛盾の蓄積と、あの日、3月
に積もった恐怖が崩壊した瞬間であったのだと認識することができるのに、長い時間を必要とした。
何度かの手術を繰り返す中で、その都度に大きな不安感と恐怖を抱きながら手術台に上がることの中で、死に対する恐怖と向き合うことが、今の自分の生きていることに対する支えとなっているように感じている。
矛盾することだが、3月
日に多くの人々の命が失われ、未だにその悲し
みと恐怖は続いている。そして延々と進まない政府の復興策や、復興を支援してきたボランティアも減少して行く中で、被災地で生きてゆく人々はまたその大地に立ち、失った人々の無念と悲しみを心の中に抱きながら、そして強く生きて行こうとしているように感じる。それは僕たちも同じように、傷を負い、悲しみを背負ったからこそ、一度限りの命、生きている意味と価値を理屈抜きに感じ取ることができるのではないだろうか。
東北の人々は無念にも多くのものを失ってしまったが、また矛盾するようだが、これからを強く生きて行く何かを得たのではないだろうかと思う。
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日から日々心の中
「TRENDS 2015」と同じガレリアで開催された「German Design Award 2015」。コンピュータ部門で金賞を受賞したコンピュータキット「KANO」は、低価格な組み立て式コンピュータで、世界中の子どもたちにコンピュータの仕組みを理解し、プログラミングに興味をもってもらう試み。プロジェクトはロンドンのMAP Project Officeによって進められています。 German Design AwardのNewcomer FinalistとなったKatharina Jebsenさんのファブリックス。自然の繊維を使ったサスティナブルなフェルト生地や、毛糸をメッシュ状の布で挟んだやわらかな生地など、コンセプチュアルなファブリックスが注目されていました。
「Basket Case workshop II」は、デザイナーMatali Crassetさん(フランス)とSebastian Herknerさん(ドイツ)が、アフリカ・ジンバブエ各地で女性の働くハンドクラフト工房を訪ね、製品開発を行ったプロジェクト。ユニークで素朴な風合いのバスケットが人気でした。
2015年の出展者数は4,811社(94カ国・地域)、日本からは92社。来場者は約135,000人(152カ国・地域)。半数以上は海外からで、中東や中国・インドからのバイヤーも増えています。
今年で7回目となる「JAPAN STYLE」には、TIME & STYLE やYOnoBI をはじめ、前年と同じ11号館に15社が出展しました。昨年パートナーカントリーとして日本がフィーチャーされた影響もあってか、巨大な会場のなかでおなじみの存在として認知されています。手仕事を感じさせながらも、色や形にアピール力のある製品が注目されているようです。
播州は古くは刀の産地で、鎌は奈良時代からの歴史があり、ハサミ類が得意だそうです。
デザインスタジオ「シーラカンス食堂」の小林新也さんは「播州刃物」をプロデュース。小林さんの実家兵庫県小野市は播州刃物の産地で、向いには家族経営の鍛冶屋があったそうです。高い技術力を持ちながら OEM生産が中心で、工房の名前が表に出ないことを残念に思い、ブランドの確立と海外出展を積極的に進めています。
大手キッチン用品、機器メーカーが出展する3号館。モニターを下向きに使ったり、回転寿司のように回る什器に製品を並べたりと、大規模な展示方法が参考になります。人気はやはり調理の実演コーナー。
シルバーウェアの「Robbe & Berking」(ロッベ&ベルキング)は、純銀のパーツを贅沢に使ったグランドピアノで会場をもりあげます(昨年はBMWでした)。創業約125年、5代に渡り家族経営を続けてきた同社は、戦乱などの危機を何度も乗り越え、ドイツ最大の銀器メーカーに成長しました。日本のレストランにも同社のカトラリーが使われています。 京都の「西川貞三郎商店」(1917年創業)は、勝ち虫(トンボ)や瓢箪をあしらった鉄瓶や京都清水焼の急須を出展。岩手県水沢の南部鉄瓶・及富の製品は、大胆な図柄や虹色の光彩を放つ仕上げが注目されました。同じく南部鉄瓶の及源は、内側をホーロー引きせずに鉄のままとして、鉄瓶本来のよさを出した製品を提案したそうです。ドイツやフランスを中心とした緑茶ブームはすっかり定着し、バイヤーがひっきりなしに訪れていました。
長崎県みかわち焼の平戸洸祥団右ヱ門窯(ひらどこうしょうだんうえもんかま)は、伝産協会のコーナーに出展。三川内(佐世保市)に平戸藩の御用窯が開かれたのは 400年程まえで、同窯は当時朝鮮から渡ってきた陶工の流れを組んでいるそうです。有田焼などと並び東インド会社によってヨーロッパにも輸出され、ルーヴル美術館にも収蔵されています。呉須で幾何学模様を描いた「祥瑞(しょんずい)」や職人の個性を感じる染付など。紋付きを羽織って会場に立つ18代目の中里太陽さんに、フランスのティーショップオーナーがさっそく興味を示していました。
1653年創業のオランダを代表する名窯「ロイヤル・デルフト」は、ジャポニズムを感じさせるシリーズ「BLUE D1653」を展示。錦鯉や唐草のモチーフについて、日本の影響ですか?と聞くと、伝統的なデルフト焼のモチーフです、とのことでした。
アメリカ・ニューヨーク「Q squared」の HERITAGEコレクション。インテリアデコレートショップを営んでいたNancy and Alaina母娘は、伝統的な高級陶磁器の良さをもちながら手軽に使えるテーブルウェアを開発するため同社を興したそうです。青海波や唐草などなど様々な柄の組み合わせと、軽い色調の青がニューヨークを感じさせました。
それでも地球は回ってる
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第二部「ジーノ編」 立花カイト野田豪(AREA)
浅黒く日に焼けた立花カイトはその場にすっかりとけ込んでいた。ビーチパークの野外に据えられたパークキッチン。そのカウンタースツールで彼はサンセットを見つめていた。カウンターのヒスパニアが白い液体の入ったグラスを彼に差し出した。「こりゃなんだ?」「あっしのおごりですよ、旦那」太った芋虫のような指をひらひらと振った。「そりゃどうも」愛想笑いを返すとヒスパニアンが調子づいて身を乗り出してきた。「あんた DT(デイトリッパー)じゃねぇよな」「まあ、そうだな」「J ?」カイトはその液体の匂いを嗅いだ。「POLICE?」「そう見えるか?」「いや、見えねえ」陽はすっかり落ちた。薄暗いビーチのあちこちに松明の火が燃え盛っている。「人を捜している」グラスを拭くヒスパニアンの手が止まる。「あんたとあんたの弟が大金を貸した男だ」「…………」「知ってる情報全部くれ」「あんた ……奴の仲間か?あの『気違い』の」いつの間にかヒスパニアンの顔が赤黒く染まっている。ふいに右肩に圧力を感じた。とっさに振り向くと、中肉中背のブロンドが背後に立っていた。
「やあ、カイト」大理石で出来た一級品の彫刻のような顔が優しく笑った。「あん
た……」「ちょっと向こうで話せないかな」ジーノはヒスパニアンに顔を向けた。
「やあ、アンジェロ、この前言ってた営業許可証の件だけど、スミスが取りに来い
ってさ」「ほ、ほんとかよ」「ああ。そんな訳だから、またな。この男は連れてくよ」
「ちょっと待ってくれジーノ ……そいつにはちょっとした用事がよ」「いや、僕の
用事が優先だ」ジーノが手を上げて振った「アンジェロ………僕が手を振ったら、
君も振らなきゃな、友達だろ?そのカウンターの下から右手を出しなよ」アンジ
ェロの肩がビリッと震えた。ゆっくりとハンドガンを握った手を上げた。その手
を振った。「そうそうそれでいい。またなアンジェロ」ジーノはカイトの背中を押した。
2人は無言で海岸線を歩いた。ジーノが大きな流木を指差した。カイトは黙っ
たままそこに座った。大きな太陽が水平線に溶けている。「その昔、君のクラス
メイトがクロの作ったドラッグの実験台にされて死んだ。長い月日が経ったのに
……君たちは、今になって思い出したように急に動き出した。こんな遠い所まで
来てかつての友達を殺したクロを許さないと言う。命を危険に晒してまで過去を
糾弾しようとしている」独り言のように話すジーノ。「筋が通らない」カイトは黙
って聞いている。「でも真実はどこにあるのかはだいたい分かる。僕だから分かる。
……君は朱鷺だろ?内調って言ったっけ?チヨダの人間は何人か知っているけ
ど、朱鷺は初めてだよ」カイトのこめかみが微かに動いた。あたりが暗くなりつ
つある。「白い館のマーガレット。君たちのルーツだ」長い沈黙が訪れた。
やがて、潮騒の合間を縫ってカイトがようやく口を開いた。「あそこの話は思い出したくもない」「まあいいさ、いずれにしても僕らは敵同士というわけだ。インビジブルのロックマン、ホクのクロ。そして HPDの三つ巴。ここまではいいさ。田舎のゴタゴタだ。今度はそこに日本の特別部署、朱鷺が関わってきたってわけだね。ということはステーツも絡んでいると見ていいね。日本の狙いなんて大体察しがつくけど。まあ、そもそも誰が味方で敵かなんて、今後どうにでもなる話だ。そんなことよりカイト……」そこでジーノはカイトに顔を寄せた。
「……さっきから僕らが腰掛けているこの流木だけど、この木 ……楠の木だよ?」その瞬間、カイトはその木から飛び退いた。鬼の形相で流木を睨んでいる。「やはり ……君は」吐息をもらすようにジーノが言った。「ちょっと僕には荷が重
いな」腰をあげてカイトに背を向けた。「じゃあねカイト。次に会うときは戦場だ」
振り返りもせずに手を振った。カイトはまるでホノルルの戦士の彫像のようにそ
こに立ち尽くして動かなかった。しかしその唇にはいつの間にか太く頑丈な笑み
がこぼれている。
ホノルルに長い夜が訪れた。
フランクフルト中央駅からダルムシュタット中央駅まで鉄道で約30分。見本市のあいだに、半日観光で充分楽しめます。
フランクフルトから南に 30kmほど離れた街「ダルムシュタット」。工科大学や研究所など 3万人以上の学生・研究者を抱える学術都市として知られます。駅の西側出口から F番のバスに乗り、ドイツ青春様式(ユーゲント・シュティール)の名所マチルダの丘を目指します。途中、市役所やショッピングモールの並ぶ街の中心「ルイーゼン広場」を通ります。
マチルダの丘(Mathildenhohe)でバスを降りると、アパートの並ぶ坂道の上に、結婚記念塔が見えます。
19世紀末、5代目ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒは、芸術家コロニーの建設を目指したプロジェクトを立案し、そのリーダーとしてウィーン分離派会館で有名になった若きオーストリア人建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒを招聘しました。ダルムシュタットのシンボル結婚記念塔(1908年完成)は、ルートヴィヒ大公と、2人目の妃となるエレオノーレの結婚を記念して市民から贈られ、オルブリッヒの遺作となりました。結婚記念塔の玄関ホールには、FriedrichWilhelm Kleukensによるモザイクタイル画が描かれています。ルートヴィヒ大公はイギリス女王ヴィクトリアの孫にあたり、母からイギリス式の教育を受けました。文学や芸術を愛しアーツ・アンド・クラフツ運動やウィーン分離派の活動にも強い関心を持っていました。結婚記念塔の展望室へ上がると、第二次世界大戦の空襲から立ち直った街並みや、遠くにはフンデルトヴァッサーの遺作となった集合住宅「ヴァルトシュピラーレ(森の渦巻き)」も見えます。階の途中には中世騎士物語を思わせる壁画や Fritz Hegenbartの天井画などがあります。
塔の日時計は12星座で囲まれています。
プラタナスの公園は、神話的な彫刻に彩られています。
結婚記念塔の背後には、マチルダの丘の中心となる展示場があります。大公が芸術家コロニーの建設を始めた背景には、1870年代からドイツで急速に進んだ工業化があるといわれます。ダルムシュタットの手工業者が衰退していく様を見るのは、大公には耐え難いことだったのでしょう。そこで手工業者の作業場や展示場を設け、各地の芸術家を呼ぶことで手工業の振興を図ったのです。
東屋のドームの裏側もモザイク画で装飾されています。手仕事の復権が大きなテーマになっていたことが分かります・展示場の向いに輝くロシア正教会は、ロシア皇帝ニコライ2世に嫁いだルートヴィヒ大公の妹アレクサンドラ(アリックス)を記念したもの。19世紀末に建てられ、設計はロシアの建築家レオン・ベノワです。ニコライ2世は皇太子時代に日本で暗殺未遂にあい(大津事件)、日露戦争では日本と戦いました。やがてロシア革命により皇后アレクサンドラや子どもたちと共に革命軍によって射殺され最後の皇帝となります。
『工房ごはん』
鈴木 惠三(BC工房 主人)
正面玄関は大公の名に恥じない彫刻と装飾で彩られています。
展示会場としてオルブリッヒが設計したエルンスト・ルートヴィヒ・ハウス。今は美術館として利用されています。
▲1901年の第1回展示会開会式。展示会は1908年まで続きます。
▼ルートヴィヒ・ハウスのアトリエで構想を練るオルブリッヒ。
美術館には、芸術家コロニーで制作された家具や工芸品が展示されています。芸術家コロニーで実践されたユーゲント・シュティール(青春様式)の名称は、ミュンヘンのデザイン雑誌「ユーゲント」から発祥しました。フランスのアール・ヌーヴォーやオーストリアのウィーン分離派(セセッション)などとも連動し、ドイツにおける建築・デザイン・絵画の一大潮流となりました。日本でも当時海軍の設計した建物や雑誌の挿絵にその影響が見られるように、雑誌の大衆化や交通の発展、展示会の開催、グローバルな人材交流などがデザインの伝搬を促進したのです。
ベーレンスによるガラス製ゴブレットやピューター製カフェサービス。彼は後に AEGの工業デザイナーとしても能力を発揮します。
ペーター・ベーレンスによってデザインされたユーゲント・シュティールのインテリアが復元されていました。グラフィックデザイナーだったベーレンスは、ダルムシュタットで自邸を設計し建築家としての才能を開花させます。家具や食器、照明器具、壁紙、カーペットなどを丸ごとデザインし、グロピウスやミース、コルビュジエにも影響を与えました。美術館向かいには、芸術家コロニーの一環として建設された住宅群が残されています。ユーゲント・シュティールは活動期間が短く実作も少ないため、ダルムシュタットの遺産はデザイン史上貴重な存在です。▲ 当時の写真から、手仕事による装飾に力を入れていと分かります。
ペーター・ベーレンスの自邸(1901年)。外観は緑の光沢タイルを使ったウロコ模様のグラフィカルな表現です。その後ベーレンスのデザインはモダンへとシフトし、ドイツ工作連盟からバウハウスへの流れを確立しました。20世紀に入るとユーゲント・シュティールは装飾過多、貴族趣味と批判されたものの、近年は再評価が急速に進んでいます。▲ オルブリッヒ自邸の模型。▼ 銀を使ったカトラリーセット。
オルブリッヒの自邸に置かれた銀の燭台や宝石箱には、アメジストが仕込まれていました。オルブリッヒは1899年32歳の時にウィーンから招かれ、1908年 41歳で亡くなるまでのわずか9年間に、人生の大半の実作をダルムシュタットに残し、またルートヴィヒ大公の右腕として活躍しました。オットー・ワーグナーに師事し若くして分離派会館の設計を任されたオルブリッヒにとって、青春様式は文字どおり青春を燃やしつくす価値ある仕事だったのでしょう。オルブリッヒの代表作のひとつグリュッカート邸。芸術家コロニーの住宅は、一軒ごとに異なったデザインとプランを持っています。それは新しい住宅の姿を提案したモデルハウスの役割も果たしていました。
Die Darmstadter Mathildenhohe
Architektur im Aufbruch zur Moderneより
グリュッカート邸のファサードは、人の顔のようなデザイン。玄関の奥は煖炉のある吹き抜けのリビングになっているようです。 第一次世界大戦後の1918年、ドイツ帝国は崩壊しヘッセン大公国も消滅します。大公の地位を失ったエルンスト・ルートヴィヒは1937年に亡くなり、ヘッセン州による盛大な葬儀が開かれたそうです。
神々のデザイン
写真と文石井利雄( 旭川在住 )
挑 戦
2015障がい者クロスカントリースキーWorld Cup旭川大会より
両下肢障がい(シットスキー、座位)重心はどうする、前傾はどこまで可能か、下りのコントロール法は、上りの体の使い方は、……。すべてが想像を絶する世界である。
両上肢障がい (上り勾配 10%)
前へ前へ、気がはやる。もっと真下に踏まないとスキーが逃げる。腕を大きく振ってリズムをつくろう。と自分に言い聞かせる。
両上肢障がい(ストック無し)上肢の使い方は、足の蹴る力と角度とタイミングは、上体の使い方は、からだ全体のリズムのとり方は、……。ストックの推進力に頼らない走法は異次元の世界だ。それらのすべての後に残るものは、自分への挑戦だけである。それはとても美しい。
Nextのエリアに出展した「mika barr textile design studio」。特殊なプリントを施すことで、三角形の折り目がつく布を使ったクッションや照明器具を提案しています。まるで刺子のような雰囲気で「TRENDS 2015」でも、この布を使ったペンダントライトが和の雰囲気をはなっていました。
「Friedemann B.hler Studio」の木製ボウル。ドイツ南部ランゲンブルクの B.hlerさんは、森林警備員を務めるなどドイツの森を知り尽くした人です。木の作品づくりを思い立ち、オークやトネリコの丸太から木のボウルをひたすら削りだす技法を確立しました。150kgの丸太を3kgまでの薄さに削るそうです。
台湾「Toast living」のMU Drinkware Collectionシリーズは、杢目を表現した陶磁器。素地の部分は一見、木のくりもののように見えます。
ベルギーの花器メーカー「D&M」。ヨーロッパのフローリストに人気のブランドで、様々なアレンジに対応するユニークな花器が揃っていました。日本にも少しずつ広まっているようです。 ジェトロ主催のグループ展示「JAPAN PAVILION」。ブースデザインは SOL styleの伊東 裕さん、劔持良美さんが担当しました。角材を組み合わせた構成で、ジョイントをシンプルなネジ留めにして短時間に施工できるようにしたそうです。各ブースを壁で囲わないことで全体の賑わい感を演出し、隣のブースへ目線を誘導させる効果も考えられています。
美しい音をテーマとした「Timbre」のガラス製風鈴 bellflowerや、大谷石製のストーンウェアを提案する「mirandastyle」の食器 Nomad、日本最初期の国産時計ブランド「KEYFORD」の真鍮時計など、個性的な製品が並びました。 在フランクフルト日本国総領事館公邸にて、日本からの出展者たちを招待した晩餐会が開かれました。EU圏の金融中心地であり、ドイツの玄関口といえるフランクフルトで、日本国総領事館は日独経済交流の橋渡し役として重要な働きをしています。総領事・坂本秀之さんのウィットに富んだお話と、ちらし寿司など久しぶりの日本食でもてなされ、出展者たちが交流を深めました。しばし見本市の緊張から開放され、夜遅くまで歓談は続きました。
3Dプリンターを使った製品を開発する「PURMUNDUS」は、LEDを光源とした照明器具を発表。黒い鉄パイプの先端に LEDが一灯埋め込まれていて、3Dプリンター製のカバーを被せる仕組み。パイプを擦ると光源を ON・OFFできます。ニットと木の枝を組み合わせたユニークなスタンドは、オランダの「Dutch Dilight」。鳥かごのランプや花のランプなど、全てオランダで手作りされています。アンビエンテは家族経営の小さなメーカーにとっても、大切な商談の場所です。
ドイツ南部の街オッフィンゲンの照明器具メーカー「lebenswerte lighting」。蓮の葉やウニ、チョウセンアサガオ、貝殻など自然をモチーフにした不思議な雰囲気のライトが並びます。次回のAmbienteは2016年2月12日〜16日の開催で、パートナーカントリーはイタリアとなることが発表されました。デザインの国イタリアの活躍が今から楽しみです。
朝 8時、近所の小学生がウチのマンション前通学路を元気に通りすぎる頃、ちょうど隣の現場は朝礼の時刻だ。 分か 分後には、お決まりのコースのようにパイプ類を乱暴に扱う職方の奥で、金槌を打ち込んだり、電動ドリルも回り始める。大型クレーンが建築材料を吊り上げ、笛や人の掛け声まで相まった、悩ましき騒音を浴びなければならぬ。お隣からの被害は 2年強に及んだ。
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人が発する声も同じだろうと思う。その音を聞
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けばだいたいの人柄も伝わるし、リズムよく仕事
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をこなす人の音は不思議と気にならない。
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「音」ってイチバン早く伝わる表現手段だろうし、
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本質を表すんじゃないかしら。なんらかのダメー
ジを受けたら、受けた方も声を上げなければならぬ。
港区の騒音条例では最大 80デシベル、特定の
作業のみ 85デシベルまでが制限数値である。!!
こちらとしては、お隣の騒音計が搬入口にだけ取り付けられていたので、もっと現場よりに付けるべきと考えた。反対のゲート側にも設置するべく要望し、それは叶えられた。
この時期、さすがに主任の 氏では請負人たち
を束ねかねており、自然の成り行きで現業長と名
乗る人物 氏を含めた対応へと変わっていった。
朴訥ながら控えめな雰囲気。そんな人柄が職長・
職方の信頼を得ているように感じられたものの、
その先には甘くない現実が待っていた。竣工大詰
めの段階へ来てみると、てんやわんやの大騒ぎ。
頭数そろえての深夜作業が続いたそうな。
この物件は 社が手がけた億ションなのよ。
今さらだけど、まさか手抜き工事なんかしてな
いでしょうねえ。
次回より続編「お向いのコージ君〜誰も知らない現場〜」をお送りします。
inspireD
フランクフルトの警備本部だった「ハウプトヴァッヘ」の広場。地下鉄駅があります。
地下鉄のハウプトヴァッヘ駅から、ゲーテの生家「ゲーテハウス」に向かいます。ゲーテの生まれた18世紀のフランクフルトは、市壁に囲まれた自由帝国都市でした。少年時代のゲーテは友人たちと市壁や塔に潜り込んだり、年の市や路地の喧騒に紛れたり、後の仕事の基盤となる大切な時を過ごしました。
ゲーテの生家「ゲーテハウス」は人気の観光スポットです。横から見ると分かる通り、4階建の建物は上階に行くにつれて道にせり出しています。これは部屋を広くするための工夫ですが、道を暗くするためゲーテの時代に禁止されました。ゲーテの父が大改築を行った際は、1階から順々に解体・改築することで法令を逃れたそうです。祖父が大切に手入れした中庭は、幼少のゲーテにとって外界への入り口でした。いたずら盛りの頃、外出を禁じられたゲーテは隣家の庭や城壁外の森を眺め、外界への興味を募らせました。幼少から少年期の体験はゲーテ 61歳の時の自伝「詩と真実第一部」に描かれています。それは18世紀フランクフルトの市民生活を描いた史料でもあります。玄関ホール。玄関戸脇の格子窓から外を眺めるのが日課でした。
1階玄関脇の客間。ゲーテの父方の祖父は葡萄酒業などで成功した実業家でした。母方の祖父は代々の法律家として有名で、市民自治の進んだ自由帝国都市フランクフルトの市長もつとめました。1749年に長男として生まれたゲーテは妹と共に玄関ホールで遊ぶのが大好きで、市の役人やフランス兵、画家、間借り人など様々な人々に囲まれながら育ちました。広いキッチンには、当時の調理道具やかまど式のコンロ、流し台や水道ポンプなども再現されています。ゲーテハウスは第二次世界大戦の空襲で半壊しますが、家具や調度、絵画などは疎開により難を逃れ、戦後に復元されました。
家族の部屋となっていた玄関ホール脇のダイニングルーム。母と幼いゲーテ兄妹は、大半の時間をここで過ごしました。「母は精霊を思わせるような、美しい、やせた、いつも白いこざっぱりした服を着た人として思い出される。穏やかな、やさしい、親切な人であった」とゲーテは回想しています。
2階の音楽室。ゲーテの父は本職につかず、書物を研究したりイタリア紀行を書くなどして過ごしていました。妻や子供どもに教育熱心で、ピアノや語学を習わせたり、ゲーテ達を学校には通わせず自邸で教育していました。ゲーテ兄妹を学校へ行かせるきっかけとなったのは、祖母の死後からはじめられた自邸の改築工事だったのです。2階のサロン室。中国風の壁紙を貼っていたため「北京の間」と呼ばれました。当時、東洋風の内装を施すのは、貴族や富裕層の流行でした。風景画を描いた陶製のストーブも素敵です。ゲーテの父は大学を卒業した後、当時としては珍しくイタリアを旅しています。玄関ホールにはローマの銅版画が並べられ、父から建築や鉱物標本の説明を受けたとゲーテは書いています。ゲーテを「イタリア紀行」に誘った出発点ともいえるでしょう。3階にはゲーテの父の蔵書を並べた書斎や収集した絵画を並べた部屋があります。父は古美術や法律学、詩の本を丁寧に装丁し屋根裏部屋の書架に整理することを楽しみにしていました。絵画は存命の画家に依頼して描かせたもので、ダルムシュタットの宮廷画家ゼーカッツがお気に入りでした。改築を機に、家中の絵画を一部屋にまとめて並べたそうです。父の書斎の反対側にある母の部屋。家庭的で子どもたちを愛した母の人柄が偲ばれます。この部屋でホットチョコレートを飲むのが楽しみだったそうです。天然痘などで子どもを失いながらも、常に明るく家族を支え続けました。
幼いゲーテに大きな影響を与えた祖母は、人形劇で子どもたちを楽しませました。3階には人形劇の舞台セットが展示されています。やがてゲーテは学友たちに自作の物語を読ませたり、自作自演の人形劇を観せるようになりました。また祖父からは劇場の無料パスを手に入れ、毎日のように劇場に通います。小説家、劇作家としての才能は、ここで芽吹いたのです。▼隣接するゲーテ博物館には、ゲーテにまつわる人々の肖像画やイタリアの風景画・史料などが展示されています。
ゲーテをヨーロッパ中の人気作家とした「若きウェルテルの悩み」は、この部屋で執筆されました。その後ゲーテは26歳の若さでワイマル公国に招聘され、地方の封建的な小国であったワイマルの都市計画や農林業政策、税制改革など政治の世界で活躍します。その多彩な才能は、ゲーテ家の血筋とフランクフルトの街によって育まれたのでしょう。
レーマー広場周辺では、戦後復興ために急造されたビルの建て替え工事が目立ちます。
ゲーテも春・秋の年の市の興奮を「詩と真実」に記しています。各地から軍隊に守られた商隊がフランクフルトを訪れました。
旧市庁舎レーマーの建つ広場は観光客で賑わいます。フランクフルトは1240年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(イタリア出身)から「年の市」開催の特権を得て、広場で季節ごとの見本市を開きます(現在メッセ会場で開かれる初秋のTendenceや初春のAmbienteのルーツ)。階段状の切妻屋根をもつ建物は、「ハウスツムレーマー」(ローマ人の館)と呼ばれたイタリア商館でしたが、1405年にフランクフルト市に買い取られ、市庁舎として利用されるようになりました。
旧市庁舎レーマーの正面左脇を入った所に「カイザーサール」に入る鉄格子があります。少年時代のゲーテは守衛にとりいって鉄格子を開けさせ(今は入場券を買う)、フレスコ画に彩られた階段を登ってカイザーサールに忍び込みました。
歴代神聖ローマ皇帝 52名の等身大肖像画を並べた「カイザーサール」。戴冠式の後、祝宴が開かれたホールです。1152年に戴冠したフリードリヒ1世(バルバロッサ)から最後の神聖ローマ皇帝となるフランツ2世(1792年戴冠)まで、神聖ローマ皇帝の選出と戴冠式は、中立性の高い自由帝国都市フランクフルトで行われていました。
各地方に諸侯が林立したドイツを、ゆるやかに束ねていたのが神聖ローマ帝国でした。その皇帝は 7名の選帝侯(大主教や有力諸侯)によって選ばれました。少年ゲーテは特に、1273年スイスのハプスブルグ家から皇帝に選ばれ、外交・軍事手腕で平和をもたらしたルドルフ1世に関心を寄せています。ルドルフ1世の戴冠によりハプスブルグ家はウィーンに拠点を移し、600年以上続く大帝国を築き上げることとなりました。仮設の壁には復元工事の概要や街の歴史が解説されています。
レーマー広場から見えるフランクフルト大聖堂(聖バルトロメウス大聖堂)は、神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われた場所です。大聖堂に向かう通りでは、空襲前の古い街並みを復元する工事が進められていました。
皇帝の選挙と戴冠式の際は、各地から華麗な装束に身を包んだ選帝侯の一行がフランクフルトを訪れ、市民たちは夢中になってパレードを見物しました。ゲーテ家をはじめ裕福な家は随行員などを宿泊させて、もてなしました。
ヨーゼフ2世の戴冠式。 The Coronation of Joseph II 1741-90 as Emperor of Germany in Frankfurt Cathedral 1764 by Martin II Mytens or Meytens
1765年15歳頃のゲーテは、ヨーゼフ2世(マリア・テレジアの息子)の戴冠式を見物しました。市庁舎からレーマー広場の観衆やパレードする諸侯を観察し、カイザーサールで開かれた皇帝の宴席にまで潜り込みました。61歳のゲーテは諸侯の衣装まで覚えている驚異的な観察力と記憶力で、45年前の戴冠式を活き活きと「詩と真実」に書き記しています。