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魅惑の宮殿エスターハージー
ウィーンから南に約 55km。ブルゲンラント州の州都アイゼンシュタットは、ハンガリーとの国境に近く、古くから自由都市国家としてワイン醸造などで栄えました(第一次世界大戦まではハンガリー領)。この静かな街を世界的に知らしめたのが「エスターハージー宮殿」です。
▼ 宮殿から近い通りの一画に、ハイドンの家が公開されています。
エスターハージー宮殿(地図左)と旧市街の地図。アイゼンシュタットの旧市街は宮殿とは別の人口数千人の自治区で、宮殿とは城壁で仕切られていたそうです。宮殿に仕えた音楽家ハイドンが暮らした街としても有名です。
宮殿の名所「ハイドンホール」。ウィーン楽友協会のグローサーザールと並ぶ華麗で音響の優れたホールとして知られ、秋のハイドンフェスティバルには世界から名演奏家が集まります。2015年 6月にはロシアの人気ソプラノ歌手アンナ・ネトレプコさん(ウィーン在住)の製作総指揮により子供向けオペラ「雪の女王」が上演されます。17世紀後半、ハイドンホールの壮大なフレスコ画を描いたのは、イタリア出身のフレスコ画画家・カルポフォーロ・テンカッラです。ウィーンの宮殿や教会の天井画、祭壇画を手掛け、大画面のバロック絵画を中央ヨーロッパに伝えた画家の1人といわれます。ギリシャ神話「プシュケーの物語」やハンガリーの風景、歴代当主の肖像などが天井や柱に描かれています。ハンガリー北部の地方貴族であったエスターハージーを名家に押し上げたのは、オスマン帝国との戦いで功績をあげ、ハプスブルグ家のフェルディナント2世からハンガリー副王に任命されたエスターハージー・ニコラウス伯爵(1583〜1645)といわれます。その息子エスターハージー・パール1世(1635〜1713)は大の音楽好きで知られ、イタリアの建築家・カルロ・マルティーノ・カルローネの設計によって城塞を華麗なバロック様式に作り変えるとともに、現在のハイドンホールを建築し楽団を組織しました。▼宮殿は代々の当主によって増改築を繰り返してきました。
ハイドンホールの前室。天井の漆喰の裏からは、パール1世の時代に描かれたハンガリーの英雄アッティラ王のフレスコ画が発見されました。パール1世は、オスマン帝国の侵攻による「第二次ウィーン包囲戦」(1683年)で指揮官として大きな役割を果たし、神聖ローマ皇帝レオポルト1世 から侯爵位を与えられます。以来エスターハージー家は、ハンガリーとオーストリーの橋渡し役として、また軍事面でもハプスブルグ家を支える重要な存在となりました。ハイドンを招聘したのは4代目侯爵パール2世アントン(1711〜1762)でした。ハイドンは1732年、車大工の父と宮廷料理人の母の元に生まれ、8歳の時にウィーン・シュテファン大聖堂の聖歌隊に入ります。退団後に独学で作曲を学び、29歳のとき副楽長として晩年のパール 2世に雇われます。パール2世はオーストリア継承戦争(マリア・テレジアの即位をめぐる争い)の活躍で元帥となり、ナポリ大使もつとめました。ナポリから持ち帰った華麗な鏡台はガラス職人グリアッテの作品です。パール2世の息子ニコラウス1世(1714-1790)も引き続きハイドンを支援し、ハイドンは楽長に昇格しました。ニコラウス1世は1764年ドイツ・フランクフルトで行われたヨーゼフ2世(マリア・テレジアの長男でマリー・アントワネットの兄)の戴冠式をプロデュースし、そこで使用されたフランケンタール窯のコレクションが展示されています。ちなみに少年の日にヨーゼフ 2世の戴冠式を見学したゲーテは、その様子を「詩と真実」に書き記しています。半世紀ほどしか続かなかったフランケンタール窯は幻の名窯といわれ、現存する141点のコレクションは世界最大です。ニコラウス1世はプロイセンと戦った軍人として評価される一方、オペラハウスを建設し毎晩のようにオペラを開催した粋人でした。
エスターハージー家最後の侯爵となったパール 5世(1901〜1989)とメリンダ夫人の部屋。メリンダ夫人はブタペストオペラハウスなどで活躍したトップバレリーナで、パール 5世の逝去した後にエスターハージー財団を設立しました。94歳の長寿をまっとし、昨年(2014年)8月に亡くなりました。
いくら古いマンションとはいえこちら側は、 150軒もが入居する老舗の集合住宅である。
少しあとになって分かったことだが、さすがにウチの管理組合は頼もしかった。お隣との工事対策として、事前に協定書を取り交わしていたのだ。やがて春もすぎ、着手されたのは地下駐車場の掘削からだった。
実はこの土地、傾斜気味で地下に水脈が走る軟
K
弱な地層とのこと。工事をする側にとっては手強
M
い土地であり、近隣住民にとっても騒音反響めまぐるしい厳しい条件付きであることを互いに覚悟
K
せねばならなかったのである。
30
コンクリート打ちなど恐れていた騒音問題は、早ばや現実のものとなる。我慢できずに意を決したケン太。現場主任の 氏に何度か苦情を申し出
M
てはみたものの、相変わらずのままだ。
区の騒音対策係協働推進課へ問い合わせ相談してみたところ、現場調査へ出向きその結果も報告してくれるという。何度か指導し関わって頂けたことは、その後のかすみとケン太にとって大きな意味をもってゆく。区の担当者さんに話を聞いてもらうだけでも気持ちがまぎれ、少し冷静になって対処法を模索できた。
だがこの 氏、まだ 2、3カ月しかたっていな
いというのに身体を壊しやめてしまったらしく、
不安はつのるばかり ……。しばらくして掲示板に
新たな工程表が張られているのを確認したかすみ。
足場作りで一段と騒々しくなっていた状況もある。
電話で新任の 氏にその旨伝えてみたそうな。
忘れがたい苦情体験だった。驚いたことに 氏はすぐ詫びにやってきた。 代半ばくらいかなぁ。優等生によくありがちな甘えん坊さんタイプ、イケメンさんである。そんな思いがけないかたちでコージ君との出会いは、やってきた。
エスターハージー家の長子継承の証として代々受け継がれてきた銀器。ウィーンのイグナツ・セバスティアン・ヴュルト工房などで1750年代〜1800年代を中心に作られたものです。
伝説の生き物や植物、紋章でうめつくされた精緻な彫金。ウィーン銀器工房のレベルの高さが伝わってきます。侯爵夫人たちの応接間「The Red Salon」。壁装には18世紀フランス・リオンで織られた布が使われています。9代目侯爵ニコラウス3世(1817〜1894)は、オーストリア帝国最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830〜1916)のお供として、ハンガリー来訪の際は必ず同行したといわれます。その縁でフランツ・ヨーゼフと、その夫人であるエリザベート(シシィ)の肖像画が飾られています。中国風の壁紙と陶磁器で装飾された「The Great Chinese Salon」。中国文化が貴族のステイタスシンボルだったことがわかります。彫金をあしらった中国製陶磁器も残されています。
Chinese Salonは夫人の寝室としても使われたようです。ここにはエスターハージー家の侯爵夫人を代表して、7代目侯爵夫人 マリア・ヨゼフ(リヒテンシュタイン出身)、8代目侯爵夫人 マリア・テレジア(ドイツ出身)、9代目侯爵夫人 レディー・サラ(イギリス出身)の肖像画が飾られています。
手描きの壁紙にシンプルな家具を置いた侯爵夫人の書斎。日々の手紙を書くことは重要な仕事で、外交に大きな役割を果たしました。特にイギリス・チャイルドヴィリアーズ家出身のレディー・サラは数カ国語に堪能な才女として知られます。ヨーロッパ各国の名家から嫁いだ夫人たちは、その才覚でエスターハージー家の危機をたびたび救ってきたのです。侯爵夫人に仕えた女官には一人部屋が与えられ、呼ばれたらすぐに行ける仕組みでした。質素な雰囲気のモダンな家具が使われ、トイレの天井には中国風の絵が描かれていました。
パール1世によって作られた宮殿のチャペル。オルガンは1664年製のものです。ハイドンのミサ曲もここで発表されました。
フォワグラやウサギ肉など、宮廷料理から野性味あるパンノニア料理まで、ウィーンとは一味違う一皿を楽しめます。
!!
!!それでも地球は回ってる
5
第二部「ジーノ編」 キャサリン花蓮野田豪(AREA)
「ジーノ ニュース見たか?」トム・フォードが携帯の向こうでがなり立てる。今朝一番の一報だ。 HPD署長が企業との賄賂事件で更迭された。「知ってるよトム」分かっている。それによって人事の玉突きがおきて……。「なぜかわからんが俺が昇進したぞ」「組織犯罪対策室本部長か。ニックの後がまだな」トムが黙り込む。「分かるよトム」「そ、そうだ。お、お前は分かる。長い付き合いだ。お前がサタンみたいに頭が切れるってのは、この俺がよーくわかってる。こんなこと
!!
じゃ驚きゃしねえ。だから電話したんだ。なあ教えてくれ。これはどういうことだ?」トム、「だ
「なあ、悪いことは言わない。その人事は蹴った方がいい。受けるな」からよ、なぜだ?確かにちょっと薄気味悪い人事だ。クソ溜め見回り役の俺がいきなり部長様だってんだから !」そう言いながら声が嬉しそうだ。完全にウキウキしている。まずいな。明白に標的は僕だ。「で、だな、その部署のコンサルに特定指名の指示が出たんだ。誰だと思う?」そうだろう。間違いない。その絵を書いているのは、ホクのリオ(馬)だ。ホクは市長をコントロール下においている。雑作もないことだ。「それがお前だってんだからびっくりだぜ 」しかしすでにジーノは耳元のがなり声を聞いていなかった。視線は中庭に向けられている。「トム、あとでかけ直す。お客だ」
中庭の芝生にその女は立っていた。東洋的な顔立ちのブロンド女。ファットマムもナツキも不在だった。ジーノはなおも話し続けるトムのラインを切ると、彼女の表情をしばし観察し、アゴで中に入れと指示をした。女は無言で部屋に入り、ロッシュボボアのソファに腰をかけた。その様子を見守るジーノの背後に一本の木が沸き上がる。みるみるうちに枝葉を茂らせ大きくなって行く。ソーマの木は教えてくれる。ハーフジャパニーズ、事件にならなかった事件、マーガレット事件の背後にいた人物だ。そして今巷をにぎわせている Fox Faceの知り合いだろう。「君がこの一連のごたごたの keyだな?」女は美しい眉根を寄せてしばらく考えたが「そうかもしれないわ……。キャサリン花蓮です」と言って手を差し出した。ジーノはその手を握ると「少しお待ちください」と言ってキッチ
ンに消えた。やがてコーヒーとファットマムの隠しおやつ(ホノルルクッキーカンパニー)を持って戻ってきた。「どうぞ」「ありがとう」花蓮がコーヒーに口をつける。少し間を置いてジーノは言った。「どうぞ、お話ください」
15
長い話になった。それはとても興味深いものだった。ラフィンホクのクロとインビジブルウェポンのロックマンの最初の出会い。新型麻薬「 」の開発。その実験時に花蓮の友人が殺されたこと。新型麻薬「 」の開発を巡る、開発者クロ &ロックマンと日本警察とヤクザの三つ巴の抗争。直後のリオ(馬)の裏切り。ジーノは半分目を閉じながらじっとその話を聞いていた。誰が信じることができるだろう。 年以上前にアロハ・ステートを代表する黒組織の両翼の2人、ロッ
T
クマンとクロが日本のハイスクールで席を並べていたなんて。ジーノをしてもたちの悪いジョークにしか聞こえなかった。
やがてジーノが静かに口を開いた。「そして君たちは殺された友達の復讐のため
T
にここにいると」「そうです」ジーノの手元で冷えたコーヒーが黒い罠のような入り口を作っている。「言っちゃ何だがこの世にいない友達のために首を突っ込むレベルではないですよ」言ってから花蓮の表情を観察する。ソーマを使うまでもない。すぐに腑に落ちた。「そうか。君は……」その続きを遮るように花蓮が笑った。も
Mr
ちろん目はまったく笑っていなかった。ブラックダリアのような笑顔にジーノも話題を戻した。「で、僕にどうしろと?」「人探しを。 Fox Faceを探して欲しいの」「僕は彼の名前すら分からないよ」「ナツ。ここでは nutsと名乗っていると思うわ」「気違い?」「そうね」
ツインブリッジ事件以降、均衡を保っていたウェポンとホク。最近になってな
ぜか両者が HPD(州警察)を巻き込んで再抗争の種をせっせと撒いているのを
ジーノは肌で感じている。ジーノの周辺で不動産の地上げが激しくなっているの
はロックマン率いるウェポンが戦闘資金の調達を急いでいるからだし、クロのホ
クは天才参謀リオ(馬)が水面下で激しく根回しに精を出している。トム・フォ
ードを組織犯罪対策室本部長に据えたのはリオ(馬)がジーノを引っ張り出すた
めの口実だ。リオのとぼけた顔……。『今度は出しゃばるなと釘を刺しに来たんす』
なぜだ?リオ?出しゃばるなと言いながら、なぜ裏では僕を引っ張り出そうと
画策する?
「Miss花蓮、まず一ついいですか?」花蓮が不安そうな眼差しをジーノに向けた。「そうです」ジーノは頷いた。花蓮が静かに手で自分の顔を覆った。「 . nutsはもう既に死んでいると思います」 ■
ウィーン社交界のおもてなしホテル ザッハー
19世紀末から、国立オペラ座の脇でウィーン
社交界の中心にあった「ホテル ザッハー」。
日本ではザッハートルテで有名ですが、現在も
家族経営を続ける稀有な高級ホテルです。
赤い服装のドアマンに招かれて中に入ると、送
迎からチケット手配、ショップ・レストラン案
内まで「No」といわない卓越したサービスで
知られるコンシェルジュ達が出迎えます。前号
で紹介したウィーンのホテルスタッフ養成学校「module」の OBもここで働いています。
表通りの喧騒を感じさせないロビー空間。レセプションのまわりには、各国から訪れた王族や有名人のポートレートが掲げられています。
▲今もホテルのシンボルとして君臨するアンナ・ザッハー。
ホテル創業者の妻・アンナ・マリア・ザッハ.の名を冠したレストラン。グリーンを基調とした内装で、ロブマイヤーのシャンデリアが天井を彩り、小気味良いベテランスタッフの応対も一夜の楽しみを盛り上げます。
料理長はワーナー・ピクルマイヤー氏。伝統を継承しつつ華やかな雰囲気を演出しています。
ダブルベッドルーム。コンパクトで密度の高い内装。浴室は大理石張りでチョコフレーバーのアメニティが備えてあります。グランドホテルやインペリアルホテルなど格式あるホテルとも異なる独特の空間は、ウィーン社交界の雰囲気に満ちています。名作オペラから名付けられた Katja Kabanowa Suite。ヤナーチェクのオペラ
「カーチャ・カバノヴァー」は、ロシア・ヴォルガ河畔を舞台に妻の貞淑をテーマとした悲恋物語。清らかな水を表したブルーの色調と、オリエンタルな雰囲気をかもしだす調度が見どころです。
絵画や調度品には全て本物が使われています。
▲城壁をとり壊す前の前の古いウィーンの絵地図。
2000年代に入ってからピエール・イヴ・ロション(仏国)の設計による大改装が行われ、新設された SPAエリア。本格的なエステサロンになっていて、ザッハートルテにちなんだチョコレートトリートメントが人気です。
リング通りでは後発であったザッハーホテルを、社交界における重要なサロンとしたのがアンナ・ザッハーといわれています。当時としては珍しく葉巻をくゆらしたり自分用の馬車に乗ったりと、豪胆な女傑として知られたアンナは、家族的で細やかなサービスを徹底し、口コミによって名士の集まるサロンへとホテルを成長させました。
深夜まで営業している Blaue Barでは、オペラ鑑賞後のひとときを楽しめます。20世紀始めにタイムスリップしたかのような、シノワズリとアンピール様式の融合を思わせる内装。
▼ホテル ザッハーに隣接するウィーン国立オペラ座。
狭いウィーン中心街のなかで、要人たちが羽を伸ばせる貴重な空間。ここで数々のロマンスも生れたのでしょうか。
朝食会場にもなるバンケットルーム。厨房のシェフは好みの卵料理を作ってくれ、デザートにはザッハートルテも並びます。
深紅のレストラン「Rote Bar」。望みは何でも叶えてくれる王様気分を味あわせてくれます。世界中のホテルを渡り歩いてきたホテルマンにとっても、家族経営を続けるザッハーで働くことは、喜びであり、ステイタスでもあるようでした。
ドラゴンシリーズ9
ドラゴンへの道編
ピエール・ガニェール料理への道
のように流れ始めた。
福岡地方裁判所での口頭陳述を終えて、日帰りの ANAの飛行機で、その
日の裁判について裁判官からの尋問内容のことを思い出しながら、自前のヘッドフォンで携帯に入れてある音を聞き、何気にぼんやりと飛行機内部のモニターに目を移すと、白衣を身を纏ったブロンドグレイのロングヘアとヒゲの見覚えのあるカッコいい外国人シェフが、画面の中の厨房で軽やかに舞うように動いている姿が目に止まった。
ピエール・ガニェール、ほとんどの人が知っているフランス人三ツ星レストランのオーナーシェフが、厨房の中でピエール・ガニェール東京店の料理長に対して細やかな指示を出している。僕の耳には自前のヘッドフォンからパット・メセニーの A map ofthe worldの音が流れているので、何を指示しているのかは分からないが、僕はあえてモニターの音声を聞こうとは思わなかったので、そのままモニターに映るピエール・ガニェール氏の動きと表情を目で追うことにした。
彼の動きは優雅であり、そして迷いが無く、実に美しい身のこなしに無駄がない。そしてそこで働く若いシェフ達に、厳しくもなく、優しくもなく、自然な雰囲気の中で的確に指示を出している姿がヘッドフォンの音声と同調して連動した映像のような美しい時間を作り出していた。その後、映像がピエール・ガニェール氏へのインタビューに切り替わり、日本語が映画の字幕
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
Q
A
:あなたの料理はなぜ評価されているのですか? :それは分からない。私にとって料理とは絶対的な探求の一種であり、
AQ
完璧さを目指す挑戦だと言うこと。それ以上説明出来ない。
:あなたの料理と他のシェフとの違いをあえてあげるならば?
:短い時間の中で食材を分析して別のものに変貌させることが出来るこ
とだと思う。例えば4つの食材があれば、それをより良く組み合わせた一つの料理を作り出せることだ。つまり私だけのアンサンブルを直感で生み出せること。だと言うようなことを語っている。
そして、画面は変わりベネディクト・ボジェ氏という料理評論家によるピ
エール・ガニェールの料理についての解説が字幕で流れ始める。ボジェ氏は
料理の関係性は料理は単独で成立するものではなく周りとの関係性で成立し
ているものであり、星と衛星、太陽と惑星に例えて、皿同士が上手く引き合
って成立していると表現していた。彼が真に素晴らしいのは誰も思いつかな
い食材の組み合わせを見事に成立させていることだと。
映像は東京のピエール・ガニェールの厨房に切り替わる。そこでは最後まで計画されていたメニューにその場のガニェール氏の感覚で変更が加えられ
て、料理が生み出されていた。
最後までなぜ変更を加えるのか?と言う質問に対してガニェール氏は、
理由は分からない、それが良いと
AQ
思うからであり、それは経験と直感から来るもので説明できないと。パット・メセニーの Last Train
Homeと同調するように、最後のイ
ンタビューが字幕で流れ始めた。
:これからの夢は?
:夢 ?ありませんね。
私の今の人生が夢の中にありますからね。日々精力的に素晴らしい条件の
中で、素晴らしい仲間達と自分の表現をするチャンスを持てていること、こ
うしたことは全て神から私に与えられたプレゼントのようなものです。だか
ら私は人のために仕事をする、人の利益になることをする。
福岡地方裁判所での尋問は、問題を解決するための必然ではあるけれど、決して前向きな生産性のある行為では無かった時を直前まで過ごし、ふと帰り道の機内で、偶然に触れたピエール・ガニェール氏の生き方を知ることで、創造することへのエネルギーを感じることができて、良い時間を過ごせた。
今度、パリでピエール・ガニェール氏のお店に行ってみようかな。
ミュールバウアー帽子作りを復活させた4代目
創業 111年を迎えたウィーンの老舗ブランド「ミュールバウアー」。4代目のクラウス・ミュールバウアーさんは、グローバル化を進めることで手作りの帽子工房を復活させました。
1903年、クラウスさんの曾祖母ユリアナ・ミュールバウアーによって、ウィーン近郊の帽子店として創業。小さなショップ兼工房から、ウィーン市内へと店舗数を拡大していきました。
▼ 111周年記念誌「111DARLINGS」。帽子作りの現場やファンからのメッセージなど、111の視点をまとめた本です。
ジュリアナ・ミュールバウアーは、当時としては珍しい第一線で働く女性でした。第一次世界大戦で夫を失いながらも工房を盛り立て、3人の息子に1店舗ずつ店をもたせました。その1人クラウスさんの祖父は、第二次世界大戦の混乱も乗り越えウィーンに10店舗を展開する帽子店に成長させました。それが一変したのは1960〜70年代だそうです。ミュールバウアーの得意とするフェルト帽は木型から成形されます。フェルトを高温の釜で蒸してから木型に固定し、形を整えてから乾燥機に入れて乾かします。4000種類ほどある木型の3分の1は曾祖母の代から受け継いだものだそうです。
乾燥を終えてから、金ゴテなどを使いシルエットを出します。不要になるフチの部分は、フェルトとして再生するそうです。
縫製の工程では「すべり」や「まき」の部分を取り付けたり、リボンなど装飾品を作ります。一時期、ミュールバウアーは帽子から撤退し、衣料品店に転換したこともあったそうです。学校で帽子の制作を学び、2000年に事業を継承したクラウスさんは、帽子作りの再興を目指して店舗を整理。自らのデザインで帽子を作り始め、ウィーン国立オペラ座の近くの店舗を帽子専門店にしました。
帽子の工房は少なくなっているため、帽子作りを志す優秀なスタッフが集まってくるそうです。
国内市場だけでは事業を続けられないと感じたクラウスさんは、パリ・ミラノ・ベルリンなどのファッションショーや各国の見本市に積極的に出展。東京やパリ、ロンドン、モスクワなどに売り場を展開し、世界的に知られるブランドとなりました。現在は約 6割が輸出だそうです。国立オベラ座近くのショップ。手触りの滑らかな兎毛のフェルトやストロー、メッシュ素材、布、毛皮など様々な素材の帽子が並びます。「世界市場で認められるには品質の高さと合わせて、新しいデザインを次々と発表すること」というクラウスさんは、毎年 200種類もの新作をだしています。意外にも日本は、欧米より帽子をかぶる人が多く、使い方も自由で面白い国とのことでした。
アメリカの地方都市に行くと、太った人が一杯だ。その「太り様」が半端じゃない。我々に近い中華モンゴロイド系はまだしも、白黒褐色いずれも国技館クラスの、体重百キロを越すような病的な大肥満体がゴロゴロしている。男、女、中高年、若者、そして困ったことに、子供まで。いったい、どうすれば、あんなに太るのか。もちろん、理由がある。
19 60年代末からアメリカではジョギングやエアロビクスなどの運動熱、オーガニック食品への関心やエコロジー思想の高まり、実質的なタバコ禁止等々、世をあげて健康志向・ナチュラル生活指向が急速に高まっていった。ウォール街では「肥満は自己管理の欠如の象徴」とみなされ、若きエリートたちは運動嫌いでさえもが高級スポーツクラブで必至に運動。 TVではジェーン・フォンダのエアロビがブームを呼び、エアロビ美男美女から次々にスター誕生。大統領はメディア引き連れホワイトハウスの周りをジョギング。ホワイトニングした輝くばかりの白い歯光らせ、額の汗をタオルで拭えば、若さと健康溢れる、ヨッ大統領! 食品では低カロリー&低
脂肪が合言葉となって、「私菜食
とお魚中心なの」とテニスラケッ
ト片手に微笑むセレブリティ。
以来、半世紀。米国民の暮らし
80
はより健康になり、肥満人口は大きく減少することになったのだろうか。答えは、否否否である。これだけの健康志向の高まりにもかかわらず、病的な肥満者の割合は確実に増加を続けている。
とりわけ問題になり始めている
のが、12〜3歳で体重 キロを越えるよう超肥満児童の大幅な増加だ。その原因は何か。驚くべき話を知ったので、ご紹介してみたい。
話は経済自由化政策レーガノミクスで知られるレーガン大統領時
代(1981〜1989)に遡る。それ以前アメリカの公立小中学
校は、日本と同様に、各校単位で内製した給食をカフェテリアで提
供するところが大半だった。これを非効率と見たレーガン政権は、
校内給食維持のために連邦政府から支出されてきた補助金を大幅削
減。で、どうなったか。各校は昼食提供業務を請け負う業者を求め
て入札を行い、安い価格で落札した業者に業務依頼を決定する流れ
が主流となった。
これを最大のビジネスチャンスと見たのが、米国の広い土地に散在する学校にまんべんなく安い価格で「昼食」を提供できる力のある、全米展開の大手食品関連企業だった。我が国でも知名度のあるハンバーガー、ピザ、ホットドッグ、ソフトドリンク等の全国ブランド企業群。ここから給食を提供する形になった学校が、州によってはほぼ8割に至ったという。こうした食べ物に山盛りのフライドポテトと発泡性の甘味飲料という昼食。育ち盛りの子供がこれを毎日お昼に食べ続ければ、どうなるか。考えるだけでも恐ろしい。ごく最近になって問題の深刻さが理解され始め、学校単位の給食を復活させようという動きが急速に高まりつつある。この動きは一方で地産地消運動の活発化とも連動している点が要注目だ。
ところで、肥満児童の大半は両親共に肥満だ。遺伝子の問題ではなく、各家庭の生活スタイルの問題だ。はっきり言って、これは家庭の所得と教育教養の水準、さらには居住地域と属するソサエティという社会的な要因によって決定されるといっていい。だから地方都市のショッピング・モールに行くと肥満が目立つのだ。
地方モールの食品系スーパーは、価格が安い。ここに週末、一家揃って一週間分の食品を買いにやって来る家族を見ると、そのあまりの肥満ぶりに唖然とする。数年前に都合三カ月間をオクラホマとテキサスで過ごし、ニューメキシコも含めて庶民派スーパーをつぶさに見てきた。それは一見、日本の地方都市の郊外型モールと変わりないようでありながら、注意深く観察すると様々な点で違いが見えてくる。まず、日本の食品スーパーよりも規模が大きく、糖分・脂肪分の高い多種類の添加物を含む加工度の高い食品が多い。生鮮の野菜・果物類は、価格は安いが日本よりも種類が限られる。
中西部ということもあり魚介類は種類が限定されている上、冷凍が基本で、鮮魚は例外的。そのぶん肉売り場は量的に迫力満点。ハム・ベーコン・ソーセージ類が豊富でパッケージが大きい。精肉はロースト用の数キロの大きな塊を筆頭に、異様に価格が安い。乳製品、特に各種クリームと加工チーズは日本の何倍も並ぶ。また各種ジュースの瓶や箱の種類と量に驚かされる。
出来合いの料理というか TVディナー類は冷凍が中心。その冷凍ケースが壁状にズラリと続く様は圧巻である。小さなバケツほどの容器に入ったアイスクリーム、数メートルにわたって続くソフトドリンクの壁。あと目立つのが、キャンベルや S&Wなどの缶詰の棚。そして極めつけがチップス、クッキー、チョコ、キャンデイ等々のスナック菓子の山また山。これがまた安い上に箱と袋が巨大だ。
こうした品揃えの中から、自分の体をスリムに保つ食品を選び出すには、よほどの自制心とインテリジェンスが必要だ。言うまでもなく、そんな健康指向とは無縁の客層が、庶民派スーパーにやって来る。店は客が好んで買う商品を並べる。安い・デカイ・すぐ食べられる ……。東京のスーパーと比べれば驚くほどの低価格と思われるが、一方で、その支払にさえ事欠く底辺貧困層の増大が大問題になり始めている。彼らもま
た肥満が多い。
赤色は肥満度 30%以上の州。南部の州が目立ちます。
子どもたちもTVディナーに大満足。
(次回につづく)
J.&L.ロブマイヤーのシャンデリア工房
国立オペラ座やホテルザッハーを彩るシャンデリア。その多くは1835年創業、J.&L.ロブマイヤーの工房で作られました。
クリスタルを繋ぎあわせたシャンデリア。硬質な無鉛クリスタルを、特殊な針金を使って一粒づつ丁寧につなぐ昔ながらの手法です。スワロフスキーなど質の高いガラスと、光の反射を考慮した組み合わせによって、透明感のある、きらびやかなシャンデリアが生まれます。通りから一歩中に入ると、緑豊かな中庭が広がります。今は車が置かれていますが、以前は馬車が中庭に出入りしていました。中庭を囲んで工房とアパルトメントが並び、ここで暮らしてきたスタッフもいます。窓際にはシャンデリアを釣り上げる滑車もありました。
黒エナメル彩を施したガラス器。見習いの若い職人さんが、ルーターを使って仕上げていました。
日本でもよく知られているロブマイヤーのガラス器。ハプスブルク家に長く愛され、20世紀に入るとヨゼフ・ホフマン、やアドルフ・ロース、オズワルド・ヘルテルなど建築家のデザインをコレクションに加え、新興の富裕層に受け入れられます。ロブマイヤーのオーナーがデザインした19世紀の作品も今だに健在で、ホフマンたちのデザインは、これらをリ・デザインしたものといえます。薄く軽く丈夫なロブマイヤーのモスリンガラスは、ワインやシャンパンの風味を華やかにす演出するドリンキングセットとして世界中のファンに愛され、注文に応じイニシャルや装飾模様をカットしてくれます。
17世紀ボヘミア・プファルツ戦争に始まった「30年戦争」は、ヨーロッパ全域を巻き込み長期に渡る消耗戦となりました。戦時中は鉄が不足し、その代わりにガラスを使ったのが、今のシャンデリアのルーツと言われます。年代ごとに作り方や素材が異なり、その歴史の流れを知るからこそシャンデリアの修復や制作を行えるそうです。金属旋盤などを使い、シャンデリアのパーツを自社で制作しています。巨大で華麗なシャンデリアも、細かなパーツの集合体であることが分かります。エジソンの電球をいち早くシャンデリアに取り入れるなど、技術革新も進めてきました。4代目オーナーハンス・ハラルド・ラートがデザインしたメトロポリタン歌劇場のシャンデリア。先端のガラス球をつなげる針金は、自転車のスポークだそうです。
ケルントナー通りに19世紀末にオープンした本店。ロブマイヤーの伝統は時代の変化と呼応しながら、若い世代に受け継がれます。
『ちょっとの何か』
鈴木 惠三(BC工房 主人)
大塚シェフと敬子さんのフレンチレストラン「ルゴロワ」(東京神宮前)。北海道の農家・酪農家から直送された食材とシェフの誠実な料理が、からだと心を元気にしてくれます。お得なランチもおすすめです。詳しくはル ゴロワのホームページへ。
中世の銀器工房を引き継ぐ
ヤロシンスキー&ヴォーゴァン
一時はウィーンに数百軒あった銀工房も、今は2軒だけになっています。そのひとつヤロシンスキー&ヴォーゴァンは、1847年カール・ヴォゴァンによって創業した銀工房です。
料理にあわせ様々な種類のスプーン、フォークなどを揃えたカトラリーのセットは、200種類近いデザインが用意されています。シルバースミス(銀細工職人)のマイスターが、カトラリーの工程を見せてくれました。銀の板をハンマーで叩きながら、金型の大きさに合わせ一枚ずつ幅や厚みを揃えます。
▲ 6代目を引き継いだジャン=ポール・ヴォーゴァンさん。
金型でプレスした後に余分な部分を切り取り、ヤスリを掛けたり、鋸で切ったりしながらカトラリーに仕上げます。別の金型を使い紋章をプレスすることもあります。工房の製品は1873年のウィーン万博でいくつかの賞を受賞し、その名を知られるようになりました。手作業だけの製造工程は当時と全く変わらないそうです。
▲パーツを温めて、松脂のような土台に埋め込み固定します。
▲スプーンの丸み部分は、金属型を当ててから
タガネで叩き、細工を施していきます。
大きなハンマーで叩きます。
スプーンの角度や寸法を確認しながら作業を進めます。
スプーンを制作するマイスター。組みセットを作る際に気を使うのは一本一本のサイズや形を揃えることだといいます。今は当たり前になりましたが、手作りの時代には揃えること自体に価値があったのです。
工房の財産といわれる金型は、木製キャビネットの中に 2000種類以上保管されています。金型制作の職人がすでに居ないため、現在は工作機械で作られていますが、手作りの型の方が質が高く長持ちしたそうです。
20世紀始めの工房では、シルバースミスを目指し沢山の弟子たちが働いていました。金銀細工職人は他の工人にくらべ社会的地位が高く、幼い頃から腕を磨きマイスターになることが夢でした。
古城フォヒテンシュタイン
エスターハージー家による堅固な城塞「フォヒテンシュタイン城」は、エスターハージー宮殿から南西に 20kmほどのロザリエン山に1300年ころ築城され、オスマン帝国からヨーロッパを守る防衛線として重要な役割を果たしていました。
深い堀にかかる橋をわたり城内に入ります。ワニの剥製は1711年から門にぶら下げられていて、かつてオスマン帝国のあった東側を向き、敵を威嚇しているそうです。
中庭の壁面を彩る神聖ローマ皇帝たちの肖像は。1669年に開催されたフェスティバルの際に描かれたそうです。エスターハージーを研究するフロリアン・バイヤー博士が城内を案内してくださいました。まず見せてくれたのは先祖たちの名が連なる家系図です。血筋を証明するため、伯爵の代替りのたびに家系図を描く習慣があったそうです。
家系図には、カール大帝やアッティラ王、聖書の聖人、果てはアダムとイヴにいたるものもあり、千年前に遡る初期の先祖の肖像画には、本の挿絵などからとった架空の人物もいるようです。16世紀ハンガリーで続いたオスマン帝国との戦いの際に、エスターハージー家は侯爵の息子や従兄弟を戦場で亡くしました。こうした貢献によってハンガリー国内での権威を高め、ハプスブルク家との関係を深めていったのです。
上は幼くして亡くなった子供たちの肖像。大人の衣装を着せ弔っています。左はゼンマイ式の黄金のおもちゃ。目や舌が動いたり、ドラムを叩いたり細かい仕掛けでドイツ・アウクスブルクで作られました。
展示の目玉のひとつ銀製の調度品。鏡やシャンデリア、テーブルなど大型の銀製品はオーストリアでもここにしか残っていません。テーブルなどは17世紀にアウクスブルクで作られました。
テーブルは木製テーブルの上に銀をかぶせています。18世紀末ナポレオン戦争の際は、ハプスブルク家が貴族に呼びかけ金銀器を供出させ戦費に当てました。エスターハージー家は罰金を払ってまで銀製品を守ったという説もあります。
左は唯一現存するといわれるヴラド 3世(ドラキュラ伯爵のモデル)の全身像。ヴラド3世は15世紀、ルーマニアでオスマン帝国に最後まで抵抗したと伝えられる英雄です。オスマン帝国の侵攻をテーマにしたコーナー。オスマン帝国軍が遠征に使ったテントや武器、馬の装飾品などが展示されています。フォヒテンシュタイン城のあるブルゲンラント州はハンガリーとの国境に南北 166kmに伸びる細長い州で、城の多い州という意味です。文字どおり数十 kmごとに城が置かれオスマン帝国への防衛戦となっていました。幸いオスマン帝国軍はフォヒテンシュタイン城を避けるように進軍し、城は一度も戦火に見舞われませんでした。
15世紀、ゴシック様式のチャペル。エスターハージー家はハンガリー貴族としては珍しいカトリックでした。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の肖像。下顎が突き出たように見えるのはハプスブルク家の特徴といわれています。エスターハージー家はレオポルド1世に侯爵の地位を与えられ(右はそのお墨付き)、感謝の意味をこめて家紋に「L」の字を入れるようになったそうです。将校たちの肖像や武器、装備、軍服などが展示されています。
日本製と思われる蒔絵・螺鈿を施した漆の木箱(16世紀)。エスターハージー家は大航海時代以降、東洋の産物を数多く収集していました。当時、東洋の品々は貴族にとって権威の象徴で、日本の漆器や工芸品も残されているそうです。19世紀末、ウィーン万博で巻き起こったジャポニズムのルーツといえるかもしれません。
エスターハージー家の宝物庫。歴代の侯爵が収集した貴重なコレクションが保管されています。長年その存在は知られず、近年になって偶然発見されたそうです。
ルーカス・クラナッハの「ユディット」を模した絵画や東洋の陶磁器、宝石を散りばめた時計、象牙細工、銀製のおもちゃなど豪勢なコレクションが収められています。
2015年 5月〜 9月の金、土、日曜日。ウイーンからエスターハージー宮殿、フォヒテンシュタイン城などをめぐる1日周遊バスツアーが開催されます。この機会にエスターハージー家 400年の歴史を感じてみませんか。詳しくは下記リンクからエスターハージーホームページをご覧ください(日本語もあり)。