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12月号 乙子月 2014 Click
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ウタキとグスクそして我家
時空にえがく美意識
Copyright . 2014 Shiong All rights reserved
気根を垂らすガジュマル。石畳は雨水を導く役割も果たしています。
亀甲形に見える石積みは、琉球独特の「相方積」の一種です。
沖縄本島に数百カ所あるといわれる「御嶽(ウタキ)」は、祈りと祭事の聖域です。社殿やご神体は置かれず、神々の降臨する岩や樹木に祈りを捧げます。内金城嶽ではアカギに神が降りてくると考えられています。
ご神木を石垣で囲った「拝所(ウガンジュ)」が、人と神々の接点となっています。
築 150年以上の伝統民家(文化庁登録有形文化財)で、沖縄そばを楽しめる「しむじょう」。座敷の各室には役割があり、玄関脇は客間、奥は居室や寝室に使われていました。風通しのいい首里の高台。「しむじょう」(下門)は昔からこの屋敷に付けられた屋号だそうです。三方をガラスの引き戸で囲い、深い庇と縁側を張り出し、豊かな植栽によって直射光をカットしています。屋根は伝統的な赤瓦葺きです。
西側の台所に向って石造りの豚小屋(ウヮフール)があり、ここで生ゴミなどを効率よく処理していました。敷地を石垣で囲み、入り口には「ヒンプン」(下)と呼ばれる目隠しを立てるなど、台風の風雨を防ぎプライバシーを守る対策を施しているのが沖縄伝統民家の特徴です。
庭の池や泉。沖縄本島の約 3割を占める琉球石灰石の地盤は水はけがよく井戸を掘ることも難しいため、最近までたびたび渇水に見舞われていました。島にとって水は貴重な財産でした。
ドラゴンシリーズ7
ドラゴンへの道編
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
歩け、歩け、歩け、
歩く、歩く、歩く、歩き続ける。ただ、ひたすら歩き続ける。丘があっても、谷があっても、川が横たわっていて渡れなくても浅瀬のあるところまで迂回して歩き続ける。行きたいところが在るときも、どこに行っていいのかが分からない時も歩く。夜中に歩いていると自分の影にドキッと驚くことがあるけれど、もしかするとそれは自分の影ではなくて、誰かの影なのかもしれない。ふと目の前を横切るように過ぎ去った影は誰のものなのだろうか。
公園のベンチの影にひっそりと佇んでいる年老いた猫は誰を待っているのだろうか。こんな夜中には誰も無意味に歩いてはいない。とすれば、ただの帰宅途中の酔っぱらいか、家路に付く前に雨の公園から電話しなければならない事情のある妻子持ちスーツ姿のナイスガイ。そんなことはどうでもいいのだが、僕はひたすら歩き続ける。時々立ち止まると、歩みを進める脚が急に重くなってくるので、歩みを緩めること無く一定のペースで歩く。
いや正確には歩くような早さで、小走りに走っているのだ。歩き続けることで、歩くことができる自分を確認する、そしてすこしだけ早く走ってみて自分の状況をできるだけ正確に把握しようとしてみる。自分がどれくらい動けるのかどうか、早さに変化を付けながら、坂道になれば自然に歩みが重くなってくるのは当然のことだ。
歩くことができること、うごくことができること、呼吸することができること、全てが自然の当然の営みのように繰り返されてきた。自分自身はこれからまだどれくらい歩けるのだろうか。そしてこれからどんな道を見つけ歩いて行くのだろうか。誰かと一緒にその道を共に歩いて行くのだろうか。それとも独りぼっちで奥の細道を歩いて行くのだろうか。歩いていると色んな出来事が起こる。色んな人たちと偶然とも必然とも言えないような出会いが生まれる。
その出会いは、また何事も無かったかのように日常の霧の中に消え去って行
く。二本の脚を動かして歩ける距離と時間は限られてはいるが、どこに行くか
は自由なのだ。自由に自分の好きな場所にいつでも歩いて行けるのだ。自由に
歩いて行けることができる内に好きな人や大切な人、その場所を訪ねてみよう
と思っている。電話できる相手が存在している時に、その人と直接会って話し
ておこうと思う。だから歩く、歩く、歩く、歩いていると色んなことを見つけ
ることができる。それは昔からずっとその場所に存在したものだろう。ただ、
自分が歩いてその場所を訪ねなければ出会うことができなかった。ただそれだけのことだ。だから、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩けば分かるさ。(アントニオ猪木の言葉に似ている気がする)歩くのは楽しい、歩くことで色ん
なことに出会うことができる。
街や山の木の葉が今は美しい季節だ。落ち葉の積もる公園の散歩道を見ていると自然の美しさや自然の崇高な営みに心を動かされて立ち止まってしまう。しかし、そこで少しだけ立ち止まったとしてもまた、その木の葉の上を枯れ葉を踏みしめる音を感じながら歩く。歩き続けられることは本当に幸せ。だから何かに悩んだり、迷ったり、怒ったりしたら、とにかく歩け、歩け、歩け、歩けば分かるさ。何にも考えなくていいからただただ歩け。今日も歩く、歩く、歩く、道に迷いながら、行き止まりに突き当たり、引き返してでも、また新しい道が在る限り、歩く、歩く、歩く、原稿の文字数を稼ぐためにも歩く、歩く、歩く、だから君も歩け、歩け、歩け。人から言われるのは嫌だけど。とにかく今晩、家の近所を当ても無く歩いてごらん。歩けば分かるさ。
ル・コルビュジエ作品の撮影等で知られる写真家・北田英治さんは、紀建設の手がけた住宅40軒を1年半かけて撮影。今回の写真展「もうひとつの自然」では、膨大な写真から厳選された約 80点が展示されました。建築を背景にして、そこで暮らす人に焦点をあてた写真から、住宅と人のコラボレーションによって作り出されていく「生活」の姿を感じました。
このイベントの準備には、社屋の改装も含め
「道標としての家展」では、設立 10周年の
数年をかけたそうです。オープニングは建築
アーキデザインワークス一級建築士事務所と
関係者や建て主など沢山の人々でにぎわい、
15年周年の紀建設設計室スタジオビスポー
ジャズの生演奏で盛り上がりました。
クが紹介されました。
スタジオビスポーク(be spoke=対話を重ねるの意)は、15年にわたる設計活動を写真パネルで紹介したほか、計画中の「EAST VILLAGE CONDO」を発表しました。沖縄北部の海を望む高台に建つ住宅3軒をまとめたコンドミニアムで、世界から沖縄に集う一流の科学者や VIPにふさわしい住空間を提案したそうです。テラスから住居の奥までガラスを素通しにして、人工の建築のなかで沖縄の自然と対峙する空間を創造しています。アーキデザインワークスは、那覇埠頭近くに計画中のコーポラティブハウス「Corpo West Town」を提案しました。各戸に天井の高いリビング空間をもうけ1階は住民のコミュニティスペースになっています。一般定期借地方式を活用し、ファミリー層にも購入しやすいよう事業計画もたてていました。会場には子ども部屋をイメージしたスペースもつくられました。パーティの途中、アーキデザインワークス佐久原好光さん、スタジオビスポーク伊波亜砂子さんから来場者への挨拶がありました。コンクリート打ち放し住宅を得意とする設計事務所として10年以上にわたりよきライバルとして切磋琢磨するなかで「いつかは一緒に展示会をひらきたいと考えていました。目指す方向は一緒ですが、両者の提案の違いも感じてほしい」と伊波さん。
沖縄本島南部の南城市玉城地区。海に近い高台に、紀建設スタジオビスポークによる住宅が建っています。250坪の広い敷地に建坪は約 50坪。リビングを中心に、各部屋を翼のようにひろげた Tの字型のプランです。
額縁のような外部の梁が、庭の眺望を引立てています。
玄関を入ってすぐのリビング・ダイニング・キッチン。左右に開口がひろがり、芝生の庭と一体になったような空間です。キッチンの脚部は打ち放しコンクリート製で躯体と一体化しています。背面のガラス引き戸を開けると、作業台や冷蔵庫の置かれた大きなストレージが出現(左)。美観と実用性のバランスをよく考えています。
キッチンの左右に分かれた通路を行くと、子ども部屋や寝室などのプライベート空間があります。リビングから距離があるので、まるで離れのような感覚です。敷地の高低差を上手に活かし、この部屋には眺望の良いデッキを設けています。
コンクリート打ち放しのデザインのなかに、視線をさえぎる「ヒンプン」的な壁や、空間を緩やかに仕切ったリビング・キッチンなど、沖縄伝統民家の DNAが継承されているようです。
玉城地区の名所 「垣花樋川」(通称シチャンカー)は古くから伝わる水場です。大きな岩を切り通した石畳の坂道を下ります。
急な坂道を100mほど下の海の見える所に、水龍の口から豊富な湧き水を吹き出す水場があります。沖縄の湧き水は、サンゴ礁によって形成された琉球石灰石層(水を通す層)と泥岩層(水を通さない層)の境目付近から出ることが多いようです。人々は日々、水場への坂道を昇り降りして、生活に欠かせない水を確保してきました。
湧き水は川となって泉に注ぎます。かつて左側の川は女性用の「イナグンカー」、右側は男性用の「イキガンカー」と使い分けていたそうです。川や泉で沐浴をしたり、馬を洗ったり、洗濯や野菜洗いなど生活に欠かせない場所でした。泉の水はさらに下に流れ、海辺の広がる田畑を潤していました。そして今も生活用水や農業用水として活用されています。
「垣花樋川」は沖縄で唯一、環境省の名水百選に選ばれました。集落の命をつないできた湧き水は、住民の手厚い保護によって往時のままの姿をとどめています。
小中高生の頃毎年 月になると牧阿佐美バレエ団のクリスマス公演『くるみ割り人形』を見に行くのが楽しみだった。ジャケット着用で大手町のサンケイホールに行く日は、心うきうきわくわく気分。とはいっても初めて伯父から「バレエに連れてってやる」と言われた時は、「どうせ女の子の習い事発表会だろ」という感じで、嬉しいとは思わなかった。それが実際の舞台を観て印象は一転。毎年師走の訪れとともに、『くるみ割り人形』に行く日を待ち望むようになっていた。「バレエ観劇」というイヴェントへ向かう過程すべてが楽しみだったのだ。 クリスマスの音楽が流れ始める頃、忙しげに人々が足早に行き交う街は、年末に向かって気分が徐々に高揚していく。そんな師走の街を通り抜けてホールに入り、席に座る。ちゃんとした音を出すオーケストラが入っていて、開演前の音合せが始まる中、開幕の時刻が近づいてくる。指揮者はいつも燕尾服着用の福田一雄さんだった。やがて幕が上がる。オーケストラ席から流れ出るチャイコフスキーの色彩感一杯の音の連なり。舞台美術は子どもの目を楽しませるに
『バレエ・リュス』レオン・バクストの舞台衣装
充分な、童話の絵本のような雰囲気。舞台は大きなクリスマスツリーが飾られた、お金持ちの家の大広間。今しがた終わったばかりのパーティーの余韻漂うなかを、夢見る少女クララ登場。あとはもうチャイコフスキーが、絵の具のように音を素材として描き出す世界に浸りながら、人形や妖精やねずみたちが面白おかしく舞台を飛び回る「冬の一夜のお伽話」の世界に引き込まれていくことになる。そしてバレエのはねた後はロシア料理店ロゴスキーでボルシチというコース。ウォッカ片手に伯父が「本物のボルシチはこんなもんじゃない」などと小声で言いながら、その日のプリマの踊りをあれこれ批評するのだった。 当時日本のバレエ団にとって年末の『くるみ割り人形』公演は、バレエ団に習いに来ている子供たち全員出演の「発表会」。会場は出演者の親と親戚さらにはお友達で一杯だった。そうは言っても、プリマは別格。僕が見たのは、大原永子さんや武者小路有紀子さんだ。この大原さん、後に英国に渡って大きな成功を収めるが、残念ながら親戚でもなんでもない。同じ頃注目の新星だった森下洋子さ
『バレエ・リュス』の伝説的バレエダンサー ヴァーツラフ・ニジンスキー
【おしらせ】NHKBSプレミアム 『 美の壺 クリスマスのテーブルセッティング 』12月19日(金)19:30にて、大原千晴さんのインタビューが放映されます(再放送12月23日11:00予定)。
んの踊りも何回か見ている。今にして思えば、当時は日本バレエ界の新たな成長への基礎が準備されつつある時期だったのだ。その後我が国バレエ界の水準は大きく飛躍し、最近は日本人のローザンヌ国際コンクール優勝・入賞というニュースも珍しくない。特に注目すべきは、東京の大バレエ団だけではなく、地方のバレエ教室からも水準の高い踊り手が育ち始めていること。プリマと呼ぶにふさわしいスターが何人も誕生していて、日本のバレエ界は今、新たな黄金期を迎えつつある。とっくの昔に亡き伯父は、今の日本バレエ界の盛況を知れば、涙を流して喜んだに違いない。 大学生の頃、私の周囲には文学や映画や音楽について「熱く語る奴ら」が揃っていた。中で一番おビョーキ度の高い中から、プロの音楽評論家が一人と、ジャズ雑誌の編集
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長(故人)がひとり出ているほどだ。が、彼らとの間で「バレエ」が話題になったことは、一度もない。周囲から少女趣味と笑われるのを恐れた私は、「 月は『くるみ割り人形』が楽しみ」なんてとても言えなかった。それくらい、当時日本でバレエは存在感が薄かった。 その後、すっかり忘れていたバレエに、思いも掛けない形で再会することになる。きっかけは十年ほど前に飛行機の中で見た『バレエ・リュス』(ロシアバレエ)と題さ
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れた一遍のドキュメンタリー映画。 世紀初頭、帝政ロシア崩壊の少し前、ペテルスブルクにセルゲイ・ディアギレフ(1872〜1929)という天才的な舞台制作デ
ィレクターが登場し、彼の設立した『バレエ・リュス』一座が、パリを筆頭に西欧で
圧倒的な成功を収めるに至る。その経緯は、シェング・スへイエン著(翻訳:鈴木晶)『デ
ィアギレフー芸術に捧げた生涯』(みすず書房)に詳しい。伯父は酔うと、このディ
アギレフという名をよく口にしていた。物好きの私はこの映画に刺激され、 ”ロシア語
翻訳の鬼才 ”で本書の訳者である鈴木晶先生のバレエの講義を受けるに至る。その時
のテキストが、オクスフォード大学出版局から出ている ”InternationalEncyclopedia
ofDance ”。伯父が追い求めていた世界の基本資料に遭遇したという運命的な出会いを
感じて全巻購入。批評家・蘆原英了とも知り合いだった彼は、若い頃偶然ロシアのバ
レエと音楽に出会い、その魅力に開眼したのだ。その伯父がなぜ「ディアギレフ」の
名をよく口にしていたのか。今は泣きたいほど彼の気持ちが理解できる。ピカソやコ
クトーさらにシャネルも登場することになる、現代モダニズムの誕生に直結する興味
深い逸話が一杯の世界なのだ。戦前・戦後の混乱期の日本でそんな世界を追いかけて
いた彼は、どのような「知的環境」に置かれていたのか。山口昌男『「挫折」の昭和史』
(岩波書店)を読んで、得心がいった。今ならこうした逸話を肴に、ウォッカを舐めな
がら伯父と徹夜で語り明かすことができただろうに。もっと話をきちんと聞いておけばよかった。人は亡くして後はじめて、その大切さを知る。私にとってバレエ『くる
み割り人形』は、伯父と共にした、ウォッカとボルシチの味わいに象徴されている。
『バレエ・リュス』生みの親 ディアギレフ
沖縄に数ある島の中でも、琉球神話発祥の地として崇められてきた「久高島」。島に点在する男子禁制のウタキは今もノロ(祝女)によって守られ、12年に1度行われる秘祭イザイホーは、民族学的にも貴重な祭事として研究されてきました。その神秘的な島を望む場所にジョン・ポーソンデザインの「蒼カフェ」(SOU CAFE)があります。
世界のミニマリズムデザインをリードしてきたジョン・ポーソンさん(英国ヨークシャー生まれ)。エントランスは白一色のシンプルな空間です。床には黒く染色した琉球石灰石を使い、この地に対するポーソンさんのリスペクトが伝わってきました。2階のカフェ客席。三角に突き出た部分の窓から久高島を拝します。カフェのランチは評判のパン(ベーカリーサクラ)や根菜カレー、ベジタブルサンド、特製ビッグハンバーガーなどで、マリアージュフレールの紅茶も多種用意されています。
外装は琉球石灰石と杉板のコンビネーション。琉球石灰石の柔らかな質感が、ポーソンさんの作風にぴったりと感じました。
蒼カフェ近くの世界遺産「斎場御嶽 (せーふぁうたき)」。琉球の始祖アマミキヨにより創造された聖地です。琉球国では王権を男性がになう一方、祭事は女性(ノロ)によって司られました。近年まで一般の立ち入りは許されず、男子は琉球王さえも制限されたそうです。上の大庫理 (うふぐーい)では、最高神女「聞得大君(きこえおおきみ)」の就任式が行われました。
寄満 (ゆんいち)は、海・山の幸を司る豊穣に満ちた場所とされています(首里城にあった王の厨房と同じ名前)。斎場御嶽のある知念半島には、麦や豆・稲作発祥の地があり、沖縄本島に最初に人が渡り暮らし始めた場所ともいわれています。
三庫理 (さんぐーい )は最高神女「聞得大君」が祈りを捧げた場所です。巨岩の隙間をくぐったところに、アマミキヨが降臨するといわれる最も重要な拝所「チョウノハナ」があります。
三庫理の手前には、水を滴らせる2本の鍾乳石があります。1滴づつ壺に落ちた聖なる水は、占いや大切な祭事に使われます。
拝所チョウノハナから、遠くに久高島を望みます。2000年世界遺産に登録され急増した観光客により、祈りの行為が妨げられ、聖地の尊厳を失うという声も根強くあります。入場前に拝観マナーを解説したビデオを見せるなど工夫されているものの、男子禁制のルールを徹底すべきという議論も盛んで、南城市では年 2回の休息日を設ける試みを行っています。沖縄県立博物館・美術館(設計:石本建築事務所+二基建築設計室)近年評価の高まる内間安.さんの日本初となる大規模な回顧展が開かれていました。内間さんは沖縄移民2世として米国に生まれ、東京とニューヨークを往復しながら活躍した版画家です。連日ニュースでも報道されている宜野湾市・普天間基地のオスプレイ。家屋の密集する市街地を悠然と飛んでいきます。ニュースでお馴染みの景色が広がる嘉数高台公園の展望台。駐機中のオスプレイをはじめ普天間基地を一望できます。普天間基地の面積は宜野湾市の約 25%にあたり、その 9割以上は私有地で、地代は実質日本政府から支払われています。基地の右側には、ヘリコプターの墜落事故で話題となった沖縄国際大学も見えます。
かつて嘉数高台公園は、沖縄攻防戦の陣地が置かれた激戦地で、トーチカが残る山頂には京都や島根、韓民族出身の戦死者を慰霊する塔が立っています。
取材時は沖縄知事選の告示日でした。選挙最大のテーマとなったのは普天間基地の辺野古移転問題。11月16日の投票で県民によって選ばれたのは、県外あるいは海外への基地移転を主張した翁長雄志さん(前那覇市長)です。
【 我家の居間から旭川の夜景を望む 】暖炉の後ろに薪を積むのは、含水率を 18%以下に乾燥させるため。
神々のデザイン
写真と文石井利雄( 旭川在住 )
北の温もり
カナダ北部の町フォトマクマレーで、
少数民族の人びとが
オーロラの下太鼓に合せて踊る姿からは、
太古の昔から天空に舞うオーロラに
深い畏敬と尊敬の念を抱いていることが
伝わってきた。
暖炉の炎のゆらめきは、
宇宙のゆらめきへと変ってゆく。
【 オーロラ燃焼の炎 】オーロラ燃焼とは、堅いナラのような薪が高湿かつ酸素供給の少ないときに多く発生します。そのゆらめきはとても幻想的で長く見ていても飽きません。炎の色は温度によって赤→黄→緑→青とオーロラのような美しいグラデーションを描きます。
1967年、沖縄に戻った國場さんは兄の設計事務所「国建」に入社。那覇で最初期の高層ビル「国場組新本社ビル」を設計します。台風の風雨や塩害、強烈な日射に対応するため、カーテンウォールを使わず、柱や梁を浮き上がらせた彫りの深い独自の工法を確立しました。
「ムーンビーチホテル」でもその思想は活かされ、ガジュマルの木陰をイメージしたピロティなど風土に根ざした建築を模索すると共に、仕上げ材などを簡素化したコストダウンも進めています。その創作メモをみると、設計の方向性を示すキーワードや、建築の構造・ディテール、コスト計算などが混然となり、同時進行していることが分かります。国場さんは沖縄のオジー、オバーがよく使う「シメー(学問)知っち、ムノー(物)知らん」(学問は知っていても、物の道理は知らない)ということわざを大切にしているそうです。建築学として正しくても、物の道理や人の心に背いていはならないという言葉が印象に残りました。沖縄独特の建築様式は、国場さんをはじめとする、沖縄の風土と共に歩んできた建築家たちによって確立されていったのです。講演会のあと、米軍ハウスをリノベーションした 「米や 松倉」へ。オーナーの浅野さんは宮城県の米農家の出身で、実家で大切に育てた米を自家精米し、沖縄の家庭に紹介しながら、宮城直送の食材を使った料理を提供しています。新鮮な魚介や野菜を贅沢に使った料理に会話も弾みます。紀建設会長の佐藤圭吾さんは、師匠の國場さんと新人時代をふりかえり「最初から人間関係の難しい案件を与えられ、建築の何たるかを教えてくれた」といいます。
『オイラがモデル』
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鈴木 惠三(BC工房 主人)
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月.
月、ジャワの工房は春から夏へ。
雨期が始まる。毎日、どしゃぶりの雨が降る。こちらに来る前に、ふじののレストラン SHU年1回の坂田明さんのライブだ。あいかわらずの狂ったフリージャズ。
代の頃を思い出させてくれるので、まあ、これも良し。
だが、いちばんは最後にやった「ひまわり」のテーマだ。あの映画のシーンがよみがえってきた。坂田明さんは、チェルノブイリまで行っている。その時、感じた曲が「ひまわり」のテーマ曲?
歳をすぎての坂田明さんのエネルギーは狂人だ。
オイラも、「モノづくりの狂人でありたい。」と思っているが、なかなか、そうはなれない悲しさ。ジャワ工房でも、せめて狂ったように「あがきたい」のキモチで、椅子の試作&開発をしている。テーマは、「腰」
・・・・?
「こしあたり」をテーマにした椅子を作りたい、の「あがき」である。オイラがモデルのように座っているのが新作「腰あたりのいい椅子」。 2015年のヒット作?まあ、そこそこヒットでいいのだ。
「こしあたり」などというテーマを発見し、
それに向かってあがいているのがいい。ちょっとや、そっとじゃダメダメのテーマこそ、うれしくなる。
「腰あたりのいい椅子」を
デザインは作るが、ライフワークになった。
人生最後の椅子づくりが「こしあたり」。ホンキだ!!ウソをつくピノキオにならないぞ!の証拠写真?
のライブに行った。
首里の高台にたつ別荘住宅。外観はコンクリート打ち放しのソリッドな壁で囲われています。
一歩中に入ると自然光の降り注ぐ大きな一室空間。家具やキッチンによって生活空間をゾーニングしています。プールを挟んで向こう側には、離れのような寝室棟が見えます。
琉球石灰石を敷き詰めた中庭は広々とした人工の台地。街の景色を一望できます。寝室棟はプールやジャグジーを目隠しする位置に建ち、西日を遮っています。
キッチンは I型とアイランド、大型ストレージを組合せたシンプルな構成。上吊り戸などをつけず重心を低くおさえることで、天井の高さを活かしています。玄関脇を降りた地下のストックルームには、泡盛のコレクション。
プール脇の深い庇は、沖縄の民家に見られる「雨端(あまはじ)」(内外の中間地帯)を思わせます。台風の塩害などに耐えるよう、金属部分や塗装の耐候性には細心の注意をはらうそうです。
14世紀ころの琉球は、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の3勢力に分かれていました(三山時代)。南山の佐敷城でうまれた尚巴志 (しょうはし )は、15世紀はじめに中山を征服し、首里城を居城とします。そして1416年、尚巴志が北山の今帰仁城を攻略した際、若き護佐丸は軍勢を率いて城に攻め入りました。落城後は特に功績のあった護佐丸を今帰仁城の守護とします。
曲がりくねった城壁は敵の方向感覚を失わせ、ところどころに袋小路も設けられています。王権を確立した尚巴志は、護佐丸に北山守護の要衝となる座喜味城の築城を命じます。護佐丸は難攻不落といわれた今帰仁城を手本として、戦闘に特化した城を設計しました。琉球石灰石を積み上げたアーチ状の城門や緩やかな曲線を描く城壁は、国頭マージと呼ばれる崩れやすい赤土の層に対して、城壁の強度を保つためともいわれます。
▼ 座喜味城を上空から見た所(グーグルマップから)。
座喜味城址は唯一城壁に上がれるグスクで、丘の上から東シナ海を一望できます。護佐丸は中国・東南アジアとの交易を行い、読谷に「喜名焼き」をひらくなど王国を経済面からも支えます。この時代、幸運にも城は一度も戦火に見舞われませんでしたが、沖縄戦の際は日本軍の砲台として、戦後は米軍のレーダー基地に利用されました。
築城から十数年、護佐丸は中城城(なかぐすくじょう)に移されます。若き日から王の右腕として武勲をほこった護佐丸でしたが「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれるクーデター騒動に巻き込まれ、王の命で中城城を攻めにきた阿麻和利(あまわり)軍を前にして、戦わずして妻子とともに自害。最後まで王への忠誠を示したと伝えられています。