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11月号 つきかげ 2014
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時空にえがく美意識
外苑ラプソディ
Copyright . 2014 Shiong All rights reserved
ラグビーワールドカップ(2019年)や東京オリンピック
(2020年)の開催にともない、建て替えられることとなった神宮外苑の国立霞ヶ丘競技場。5月末に開かれたさよならイベントでは、東京オリンピックの開会式を彷彿とさせるブルーインパルスの展示飛行が行われました。オリンピック時の機体は F-86(セイバー)でしたが、今は T-4練習機に変わっています。亀倉雄策氏による1964年東京オリンピックポスター 3部作。中央の第1号ポスターはシンボルマークのコンペで選ばれた図案が、そのままポスターになりました。同じコンペに参加した永井一正氏は「落選の悔しさを忘れるくらい、目を洗われるぐらい、なるほど、オリンピックのマークはこれ以外なかったんだという位のショックを受けた」と当時を振り返っています。3作は左から △ ◯ 十という幾何学的な流れによって肉体の躍動感が表現されています。亀倉氏の特徴である幾何学構成は伝統的な「家紋」からヒントを得たといわれています。
国立競技場の前身となった明治神宮外苑競技場(大正13年)は日本初の大規模スタジアムとして青山練兵場跡地に建設され、戦時中には出陣学徒壮行会に使用されたことでも知られています。現在の競技場は昭和 33年のアジア競技大会にあわせ計画され、工期は昭和 32年1月〜昭和 33年 3月という24時間体制工事で完成しました。設計は奈良県庁を手がけた片山光生氏です。さらに東京オリンピックにあわせ、バックスタンド増設などの改築工事が行われています。新国立競技場の設計は国際コンペによりザハ・ハディド案が選ばれ、ラグビーワールドカップの開催にあわせ 2019年の完成が予定されています。現国立競技場の改修案もふくめ様々な議論が交わされるなか、解体工事は入札の不調などにより未だ始まっていません。競技場案左側にある広場の敷地には、現在「日本青年館」や「都営霞ケ丘アパート」が建っています。明治神宮外苑は、明治天皇・昭憲皇太后の遺徳を末永く伝えるため「明治神宮」付属の庭園施設として、全国からの寄付と勤労奉仕によって1926年に開園しました。有名な銀杏並木は「聖徳記念絵画館」に向かいパースを強調するよう、遠くなるにつれ背を低くしています。
聖徳記念絵画館(1926年)は公募により小林正紹案が採用され、佐野利器など造営局建築係による修正が加えられました。全国から集った石工の手により、外壁には岡山産の万成石が張られています。建設中に関東大震災が発生し、建築足場を利用して建てられた仮設住宅に被災者 6,400人が暮らしたこともありました。また終戦後しばらくは山の手の空襲で焼け出された市民のバラック住宅が並びました。
中央のドーム天井は高さ約 27.5m。大理石張りのホールの左右から明治天皇の生涯を描いた日本画・洋画の展示室に入ります。絵画全 80作の制作には著名な画家が多数参加しました。
青山・原宿の総鎮守である青山熊野神社に近い「AREA Tokyo」は、独特の世界観をもち、空間への疑問符を投げかけ続けるクリエーター集団です。
この秋発表された AREAの新作「SINシリーズ」。SINとは原罪を示すことばで「鬼の角のように誰もが隠し持つ、愛の裏側にある、愛の一部」だそうです。現代人の忘れた野性を空間に落とし込み、キャビネットやソファの小さく飛び出た角によって冒険のある暮らしを提案しています。またこれは、ゴシック様式へのオマージュも表現しているようです。お気に入りの本を身近における、コレクションテーブルやテーブル型ブックシェルフ。壁面の大型シェルフも特注できます。
北欧の名作椅子にインスパイアされた新作チェア「A-4」。ハンドクラフトによって肘や背の天然木を削りだし、軽く、かけ心地のいい椅子に仕上げています。価格も 48,000円(税抜)からとリーズナブルで、家族のダイニングチェアとしても愛されそうです。
キラー通りの交差点にオープンした「AREA」のサブブランド「 db」は、ダイニングとベッドを中心にしたショップです。迫力のある天然木の一枚板テーブルやブックマッチテーブルなど、様々なダイニングのシーンを提案しています。
丘の初冬(美瑛町)神々のデザイン
写真と文石井利雄( 旭川在住 )
冬来たる
虫たちの姿が消えて間もなく本降りの雪となった。体が冬に向って身構える。だが車で雪道を走り、雪を踏みしめて歩くことは少なくなった。足の裏から冬が伝って来ない。親の車で通学する子供は、北国の大人になれるのだろうか。
カラマツの防雪林(美瑛町)
若手バンドの登竜門として、また全国の青年団が集い交流を深めてきた「日本青年館」は移転新築を予定しています。初代の青年館は1925年(大正14年)に完成し、戦後しばらくは、米兵の宿泊施設になったようです。ちなみにゴルフ練習場としても利用されている神宮第 2球場(写真右側)は残されます。新国立競技場の建設にともない取り壊される予定の「都営霞ケ丘アパート」。この一帯は山の手の空襲によって住民が焼け出された地域で、戦後、東京都による整備事業が進められ木造長屋の都営住宅となりました。1964年東京オリンピックの開催が決まると、現在の RC造集合住宅が建てられます。都立明治公園や高速道路の建設などで立ち退かされた周辺住民にも、このアパートに移った方がいました。2012年7月、東京都から「ラグビーワールドカップのための新国立競技場の建設」についての書類が投函され、住民は突然の立ち退きを要求されます。高齢の住民のなかには、オリンピックによって2度目の転居を迫られている方もいるなか、他の都営住宅などへの転居が進められています。
建設当時は風呂なしでしたが、後に増築されたようです。
夏は外苑花火大会で賑わう霞ケ丘アパートアパートの公園。東京オリンピック当時からここで暮らし、住み慣れた家で生涯をまっとうしたいという方々の願いは叶うのでしょうか?
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
目指せ道の駅
何を今更、世のため人のため、このままおとなしくしているのがいいという西軍と、いやいや人生はまだまだこれから、いいからやってみ
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なはれという東軍。綱引き状態に外部が加わり
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これまた賛否激戦。結局、東軍が1歩出て運転免許皆伝?への道を踏み出した。 そう、 年以上前に取得した運転免許の正規使用におもいきって挑戦してみることにした。車庫に入れたままの車は3ヶ月点検でエンジンがかからないというアクシデントに見舞われ先行きが危ぶまれたものの、ペーパードライバー専門の教習所の車には補助ブレーキが付き、 BGMをかけながら手取り足取り教えてくれる。ものごとにはセンスというのがあるが、これほど自分に運転センスがないとはおもわなかった。それでも2回3回とやっていくうちに、颯爽とドライブを楽しむ姿を目指して会話もできるようになる。きっと外からみたら楽しそうにドライブしているように ……やっぱりまだ
見えないか◯ ◯ ◯ ◯◯◯
1回目は自宅近くで左折と右折の繰り返し。2回目は浅草橋を越えて千葉県へ、スーパーマーケット前の歩行者の前を行ったりきたり。3回目はなんと青山一丁目から表参道を抜けて明治通り添いの裏道、若いカップルやベビーカーを引いたイクメン、散策を楽しむシニア夫婦など秋の土曜日をそれぞれのんびり過ごしている。相当ひどい形相だったのか、みな車を避け
つれづれなるままに 目指せ道の駅
てくれる。申し訳ないと思いながら、なんでこんな日にこんなところで練習するんだ。と、じっとり汗がまとわりつくのを感じながら、エンスト、縁石乗り上げを何度も繰り返し、なんとか時間を終了し自宅まで戻った。やっぱり無理かなぁと思いつつも初心に戻り、4回目の予約を入れた。いやはやまだ続きはあるが、紅葉した葉が全部落ちないうちに仕上げたいと思っている。
ひとつ気づいた事がある。「道をまっすぐ」とは、歩行者の時と車を運転したときでは異なることであ
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る。車を運転しているときの「まっすぐ」とは、車線の引いてある(薄くて見えないのが多い)方向にまっすぐということで、歩く時の道の「まっすぐ」は車線変更になるとのこと。あやうく国会議事堂前の緩い右カーブを、目線まっすぐのまま突っ切ろうとした。教官がハンドルを右にちょっと押して、走行車線にもどったが、白線が見えなかったなんて言い訳にならない。歩行者歴 年、安全通路を確認しながらの日常から、車目線で道路を見るとこんなにもちがうものかと、あらためて免許更新時にもらった教則本を読み返した。あせらず年相応にゆっくり楽しみを増やしていきたいと思う。ちなみに甥や姪はみな応援してくれている。が、「おばさんの車は私がいつでも運転してあげる。」と、抜かりない。
車に乗れば携帯電話から目を離さない歩行者や自転車の横暴さに腹をたて、歩行者になれば、車の無神経な走りに恐い思いもする。守り守られる生活を担う一員であることをあらためて自覚する、運転免許皆伝指南中である。目指すは道の駅。おいしい秋が終わらないうちに、地域の食材をさがしに行こう!!!
大正時代に創業し日本の「あかり」と共に歩んできたYAMAGIWAの東京ショールームが、外苑交差点近くに移転オープンしました。新築されたオリックス南青山ビルの最上階(9階)にあり(1階は成城石井)、天井高 6mの広々とした空間に照明器具や家具を展示しています。約 6mの天井高を活かした LABOスペースには昇降装置が備えられ、大型の照明器具などを実際に使用する高さに吊り、明るさや見え方を試せます。上に吊るされているのはロス・ラブグローブの「systemX LED」。LED化された新バージョンです。下のカラフルなランプは LUCEPLANのコスタンザとコスタンジーナ、右は ZANOTTA製のカルロ・モリーノのテーブル。LED化の進む一方、布や天然木を通したやわらかな光も人気です(上・BAUMN Ⅱ、下・ヤコブソンランプ)。
照明の LED化に対応した展示もあります。上はケルビン数(暖色〜白色)や Ra値(演色性)、パワー LEDなどによる光の違いを体感できるコーナー。色の見え方や明るさ感が大きく違います。同社ではグループ企業内で LED光源開発から照明器具製造まで一貫体制が可能となり、細かな用途にあわせた LED光源の開発を進めているそうです。空中庭園に面したラウンジエリアは、ウォルター・ノルの家具を中心にコーディネートされています。巨大なガラス窓にカーテンやバカラのシャンデリアが吊るされ、贅沢なペントハウスの雰囲気を味わえます。
ファッションビルの先駆けとして 38年がたち、現在閉鎖中の青山ベルコモンズはオフィスビルとして転用される予定です。スキップフロア式の店舗スペースや、シースールーエレベーターが斬新で、屋上にはテニスコートもありました。設計は黒川紀章氏です。ベルコモンズの交差点を西へ進むと、ロイズアンティークやアクタス、Knoll Storeなどおしゃれなインテリアショップが並ぶキラー通りです。そこから路地を少し入ったところに、この地で20年近くの歴史を刻んできた青山 BC工房があります。BC工房初の本格的なショップとして椅子、テーブル、キャビネット、棚など様々な家具を生み出してきました。
オープン当時の青山 BC工房では、まだ若手だった小泉誠さん、村澤一晃さんをはじめ、柳宗理さん、白石勝彦さん、長大作さん、岡村孝さんなど日本を代表するデザイナーのコレクションが店頭を飾っていました。ベテランデザイナーにとっては家具談義を交わす集いの場として、一方若手デザイナーにとっては、自分のデザインを製品化してくれる数少ないメーカーでもありました。やがて BC工房はムク板天板のテーブルに力を入れ、椅子もオリジナルのデザインが中心となります。神奈川県の藤野、横浜や町田、厚木と店舗を増やし、今の青山店は楽(がく)さんと竹村さんが切り盛りしています。2階には家具の修理コーナーがあり、その場でメンテナンスも行っています。
この日は親子連れのお客様がマイチェアを選びに訪れていました。BC工房の椅子は全て張地を選べ、脚の長さや幅を調整したり、脚台を取り付けたり色々と注文できます。女性が時間をかけるのは、やはり張り地選び。直輸入した椅子張り地は鮮やかな花柄などが素敵で、天然皮革との張りわけも出来ます。自分だけの家具を創造するための試みは、ますます進化していきそうです。
キラー通りを入ったところにあるブラジル大使館。設計はブラジルの代表的建築家ルイ・オオタケ氏です。サッカーワールトカップ・ブラジル大会では、ブラジル戦の開催日に大使館前で朝食が提供され話題となりました。
数々の名作椅子でしられる米国 Knoll社。日本での発売 50周年を迎えた今年、キラー通りにフラッグシップショップ「dffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffff Store青山本店」がオープンしました。「Knollの歴史は米国モダンファニチャーの歴史」といわれる通り、ミース・ファン・デル・ローエやエーロ・サーリネンなど、国際的建築
家のモダンチェアを製品化するビジネスモデルを発展させたのは、ノル社の創始者でドイツ生まれのハンス G・ノル氏と、フローレンス・ノル夫人の功績でしょう。またフローレンス夫人はクランブルックの学友であるハリー・ベルトイアを支援し、革新的なワイヤ
ーチェアを生み出しました。
ミースやブロイヤー、サーリネン、ベルトイアなどによる名作椅子の他、ノル社のオリジナルファブリックス「KnollTextiles」や日本独自の国産家具シリーズも展示されています。
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ぶ様子を描いた、古い絵を見た記憶があります。 それくらい寒くなると、秋に収穫したブドウの果汁を発酵させる過程に大きな影響が出ます。樽詰めしたブドウ果汁が、秋の深まりと共に発酵を深めるものの、一月〜二月の厳寒期には、あまりの低温のために発酵が止まってしまう。やがて気温が緩み始める頃に発酵再開。気温低下による中断をはさんで二度の発酵を経て出来上がるワインは、樽の中で自然に、微発泡性のものになる。ところが、当時のフランス宮廷では、これが嫌われた。「僅かに泡があり舌に刺激を感じる、滑らかさに欠ける質の劣ったワイン」という評価です。泡を何とかしたくても、気候の変動が原因ですから、天を仰いで嘆くばかり。いつしか「シャンパーニュのワインはブルゴーニュに比べて数等落ちる」という評価となり、地域のワイン産業は長い停滞期に入ります。 世紀の後半に至って、シャンパーニュの評価を下げる原因となっている「ワインの泡を取り除く技術」を探ろうという動きが出始めます。その中心となったのが、シャンパーニュ一帯に広くブドウ きらめき泡立つシャンパン、その昔、この泡があるために、ワインとしては低い格付けだったこと、ご存じですか。今我々が知るようなシャンパンは、お酒としての歴史は古くありません。最初の専業醸造元が誕生するのは 世紀も半ばのことです。発泡酒シャンパン誕生のきっかけは、意外なことに、気候の変動でした。シャンパーニュ地方は、マルヌ川経由でパリから約 150キロに位置し、古くから「発泡しない普通のワイン」の産地として知られていました。競争相手であるブルゴーニュよりずっと北に位置するため、白はともかく、赤は、どうしても薄い軽めのワインになる。それでも、奮闘して競っていた。ちなみに、ボルドーは歴史的地理的な背景から、イングランド宮廷と関係が深く、英国貴族が多くのシャトーを所有
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してきました。というわけで、中世のフランス宮廷のワインは、シャンパーニュとブルゴーニュが中心だったわけです。十五世紀末からしばらく欧州は気候の寒冷期に入ります。これが半端じゃなかった。冬期はロンドンのテムズ河やヴェネツィアの運河さえ一部凍るほどだったとか。確かに、テムズ河が凍って多くの市民が氷上で遊
シャンパン発祥の地。ドヴィリエ大修道院(Abbaye d 'Hautvillers)
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ガラス製造窯の燃料として薪(木材)に替えて石炭を利用することで、より大規模に高温を作り出すことに成功しています。この「高温窯」から生み出されるガラス瓶は、従前の技術で作られるフランス製のガラス瓶よりもずっと強度があった。これにより、ガラス瓶問題が解決し、現代につながるシャンパン隆盛の基礎が出来上がります。 ところで、ドムペリは非常に優れた舌の持ち主で、晩年盲目に近くなった後も、ワインをひと舐めして、その畑を言い当てたといわれます。同じシャンパーニュでも、畑とぶどうの種類、収穫年や熟成の年数等により、ワインの味は複雑に異なります。で、その多様な「素材としての原ワイン」を自由に組み合わせてブレンドすることで、好みの味を創りあげる。このやり方を生み出したのも、ドムペリです。ワインに対する地に足の着いた奥深い知識を必要とする「ブレンドの技術」。これこそシャンパンの各醸造元にとって一番の秘法です。こうして「きらめき泡立つシャンパン」最初の専業醸造元として 1729年に誕生したのがルイナール。 世紀末アルフォンス・ミュシャの手になる宣伝ポスターで知られ、現在は LVMHの傘下です。これに遅れて 1743年クロード・モエにより創業されメゾンが、現在地区最大の醸造元で、俗称
「ドンペリ」の発売元として知られる、モエ・エ・シャンドン社へと発展していきます。
他にも面白い逸話が一杯の有名ブランドが目白押し。ロデレールのクリスタル、お歳
暮で来ないかなあ ……。
畑を所有し、地域のワイン造りで大きな存在であったベネディクト派のドヴィリエ大修道院。欧州の修道院は古くから、農業技術や冶金など、地域の技術振興センター的な役割を果たしてきたところが珍しくない。とりわけワインの品質向上は修道院にと
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って収入の多寡に直結する大問題。 1688年修道院は、既にワイン造りで優れた才能を発揮していた修道士ピエール・ペリニヨン師( 1639〜 1715)すなわち、ドム・ペリニヨンを新たにワイン造りの総責任者に据え、昔のような「泡のないシャンパーニュ・ワイン造り」を目指すことになります。 ところが、時代の流れは皮肉なもの。その少し前頃からチャールズ 世率いる英国
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の宮廷で、この「泡立つシャンペイン」がオシャレな飲み物として評価され始める。この王様の妃はフランス王ルイ 世の妹です。これに遅れて、その従兄弟に当たる太陽王ルイ 世が燦然と中心に輝くフランス宮廷でも「泡立つシャンパン」が受け始める。時代感覚の変化に伴う、味覚の嗜好の変化です。で、ドムペリの仕事は「ワインの泡を除く」ことから、「いかに上手くワインの泡を瓶の中に保つか」という方向へと百八十度の大転換。ここで問題となったのが、醸造過程の見直しとコルクとガラス瓶の強度です。前のふたつはドムペリの努力で何とかなった。ところが、ガラス瓶は強度が確保できなかった。倉庫で割れることが珍しくなく、シャンパーニュのカーヴでの作業は、瓶の破裂と背中合わせ、という危険なものでした。その頃イングランドでは、
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シャンパンの父・ピエール・ペリニヨン師
テーブルの上で北海道各地の幸が出会います。
北海道の大学で酪農を学び、東京でパティシエとして活躍する敬子さんは、富良野でルゴロワ農場を運営する農園家でもあります。上は増毛産シードルと自家製そば粉パン、日高産バター、ポタージュスープ(芦別産ピーマンのムース&トマトのクーリー、芦別産トウモロコシ)。
メインは白糠産エゾ鹿のポアレをハスカップと赤ワインソースで。いま北海道では鹿と自然のバランスを保つため、その活用法が研究されています。店内の椅子や無垢板のロングテーブルは BC工房によるものです。
店の壁にはアーティストや俳優、作家たちのサインが刻まれています。「食材の持ち味を活かしたシンプルな料理だからこそ、手間を惜しまず調理の技術を磨く」という大塚シェフ。デザインとも共通する強い意志を感じました。テーブルに展開する小さな北海道は、生産者とシェフが互いをリスペクトするネットワークから生まれるのでしょう。
IFFT/インテリア ライフスタイル リビング
2014年11月26日(水)〜28日(金) 10:00〜18:00(最終日は17:00 まで)東京ビッグサイト西1・2ホール +アトリウム
毎年恒例の「IFFT/インテリア ライフスタイル リビング」。2014年11月26日(水)〜 28日(金)まで東京ビッグサイトで開催されます。アトリウム展示のテーマは
「THE HOTEL」。東京オリンピックをひかえホテルのリノベーション等が盛んとなるなか、多様な「おもてなし」を提案した空間展示を行うそうです。ディレクターはインテリアスタイリストの黒田美津子さん。ホテルというテーマにちなみ、記者発表会も皇居をのぞむパレスホテル東京で行われました。▲ 初出展の「Stellar Works」は、デザイナー Neri&Huの「Utility」シリーズを中心に、往年のデザイナーによる名作の復刻版など幅広いラインナップを揃えます。
▲ 檜創建のモダンなひのき風呂「O-Bath mugen」。デザインは川上元美さん。旅館の露天風呂付き客室にもよろこばれそう。▲旭川の匠工芸は、小林幹也氏さんデザインの「yamanami」シリーズを発表。職人のクラフトマンシップを感じさせます。
▲カンディハウス(旭川)は、ペーター・マリーさん(ドイツ)の「Challenge」シリーズを発表。シャープなフォルムは複雑な木組みの技術で成り立っています。
▲ 飛騨産業が開発した「スギ柾目圧縮材」を使った新作チェアは、川上元美さんのデザイン。スギ材のすっきりとした木目をそのままに、シンプルな椅子に利用できる粘り
と強度をもたせたハイテク材料です。 ▲ Ronan & Erwan Bouroullecデザインの Ligne Roset「PLOUM」には、コンパクトサイズが追加に(ドリームベッド)。
▲飛行機に乗ってでも飲みたいと評判のカフェ FUGLEN(オスロ)のコーヒーがアトリウムで提供されます。それにあわせ Norwegian Icons(ノルウェージャンアイコンズ)が初出展し、「fjord fiesta」や「northern lighting」など、ノルウェーを代表する名作椅子、照明器具を展示します。▼ 建築家・芦沢啓治さんディレクションの「CREATIVE RESOURCE」は、インテリアデザインのためのパーツや素材に特化したゾーン。伝統着色技法を応用して発色させた「モメンタムファクトリー Orii」の銅板やパッティワークのようなアンティーク風タイル(平田タイル)などが出展。▲オフィス分野で百年以上の歴史をもつ文祥堂が、国産木材・間伐材家具の新ブランドKINOWAを発表。デザインは NOSIGNERです。
ドラゴンシリーズ
怒りの鉄拳編
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総理大臣と拉致された子供達
全ての日本の政治家と総理大臣に対して腹が立つ。本当にやるべきこと、守るべき人を守れない日本、そして政治家に対して、血が沸騰し、頭の頂辺から噴出するように腹が立つ。みんな、腹が立たないのか? みんな、それで平気なのか?
日本国は、そして政治家は、総理大臣は、それで良いのか?北朝鮮の日本人拉致に対する日本の対応の在り方と、そして政治家、特に総理大臣に対しては心の奥底からの本気の怒りを感じるのである。どうしてそれほどまでに怒るのか? それは我が子らを他国の何者かによって奪われ、数十年の間にもその犯罪の事実を知りながら、『日本人』は、『日本と言う国』は、連れ去られた子供達や国民を本気になって助けようとしていないではないか?
自身が人の親となり、そしてまた、連れ去られた子供達と同じ時間の人生を数十年間送ってきたからこそ、連れ去られた子供達の苦悩とその親の地獄のような想いを少しだけでも感じることができるようになったからだ。
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
国からは特使を送り、拉致被害者の消息を調べさせてはいるが、北朝鮮の、のらりくらりの対応からは未だ拉致被害者を奪還する希望を見いだすことはできない。一国の総理と言うことは、国民の代表であり、父である。その父は数十年間もの長い年月に犠牲となって北朝鮮における不憫な人生を余儀なされてしまった自分の子供が苦しい思いをしているのをよそに、何不自由無く、美味いご飯とお酒を飲み、くだらないゴルフに興じ、自分のクソ名誉の為の選挙運動に多額のお金を投じ、その間、北朝鮮では多くの子供達が言葉も通じない、見知らぬ国に突然連行されて、親兄弟や家族から一人で引き離されて、たった一人の孤独の中に何十年もの間、そして今もいることを私達日本人は見て見ぬ振りを続けてきた。あなたも私もその一人であり、重い罪人である。
苦しんでいる今日、一日一日、日本から誰かが自分を探して見つけてくれることに僅かな希望を抱きながら、泣き、そして叫ぶこともゆるされないような孤独な日々を過ごしてきたことだろう。日本と言う国と日本人と言う国民はそんな無責任な国であり国民である。大切な子供が連れ去られ、子供も親も苦しんでいるのを誰も助けない。
私が総理大臣になったら、私の命と引き換えに一人の子供を日本に連れ戻す。 直ぐにでも北朝鮮に向かい、自分の命を差し出してでも一人の子供を救うべきだろう。それが日本の総理大臣の本当の仕事であり、日本を代表する者の使命なのではないか。極論のように聞こえるかもしれないが、その決意がなければ一国の総理大臣の役割は努められないだろうし、国民の父として子供である拉致被害者を救うことはできないと思う。日本の親父は命を掛けて子供と家族を守るものだ。自分の親父は自分の命を掛けて僕や家族を守ってくれたぞ。
inspireD歴史・文学の教科書 青山墓地さんぽ
南青山〜外苑前にかけ、ひときわ大きな緑地帯は、日本初の公共墓地となった「青山霊園」(明治 7年)です。大久保利通や乃木希典など政治家・軍人をはじめ、尾崎紅葉、星新一などの作家、キヨッソーネやワグネルなどのお雇い外国人たちもここにいます。明治以降の日本を知る歴史教科書を散策しましょう。青山の春を告げる墓地のサクラ。元々は幕府の要職にあった青山家の下屋敷で、サクラは明治期に植えられたものです。明治末から昭和のはじめ、洋画壇の中心で活躍した藤島武二。自身でデザインした墓石は花々に囲まれていました。右上は後に竹久夢二のモデルにもなった「お葉」を描いた「女の横顔」。日本の肖像画としては珍しい横顔でチャイナドレス姿です。青山墓地には藤島と活動を共にした洋画家・岡田三郎助、その妻・八千代も眠っています。外国人墓所の一角にあるゴットフリード・ワグネルの墓は、2本の円柱に飾られています。1831年、ドイツ・ハノーファーで生れたワグネルは、ゲッティンゲン大学で数学・物理を学び慶応 4年(1868)長崎に赴きます。佐賀藩に雇われ有田焼の窯業指導を行ったあと、ウィーン万博やフィラデルフィア万博への出展を指導しました。ジャポニズムを巻き起こした国際万博での成功は、彼の尽力が大きいといわれます。また京都では永樂和全と協同で陶磁器、七宝、ガラスなどの製法を研究し、ワグネルの進言により創設された東京職工学校は東京工業大学に発展しました。特に窯業の近代化を進めた人物として評価され没後 90年の1982年、日本セラミックス協会によって墓所が改修されています。外国人墓地には、明治期の宣教師やキリスト教系学校の設立に尽くした方などが静かに眠っています。明治のはじめ、青山墓地は日本で生涯を終えた外国人たちにとって貴重な安息の地でした。縁故者がいなくなってからも外国人墓地は改葬されないことが決められています。
新潮社の創始者である佐藤義亮(ぎりょう)氏の墓所はサクラの古木に守られています。秋田県角館出身の佐藤氏は明治 28年(1895)に上京。秀英舎(現大日本印刷)の職工として働きます。その文学的才能を認められ校正係となり、在職中の明治 29年 (1896)雑誌「新声」を創刊。大正 3年(1914)から続く「新潮文庫」は創刊 100年を迎えました。
「金色夜叉」などで知られる尾崎紅葉(徳太郎)の墓は、父であり象牙彫の名手として知られた尾崎谷斎の供養塔と共にあります。人気作家となった紅葉は神楽坂の自宅で泉鏡花など門下生と暮らし、明治文壇の大派閥となりました。「(「新声」の)第三号から「文界小観」という題で文壇の時評をやった。(中略)その無遠慮な批評が祟って尾崎紅葉などは、後々まで新声社員にはどうしても会ってくれなかった」と佐藤義亮氏は回顧しています。紅葉の病死によって未完に終わった「金色夜叉」の完結編として、佐藤氏は紅葉の門下生だった小栗風葉に「終編金色夜叉」を書かせ大ベストセラーとなりました。
六本木ヒルズを望む場所にたつ、雪山道人・河口慧海(かわぐち えかい)の墓。慧海は日本人ではじめてチベットへの入国を果たした人物といわれます。慶応元年(1866)、大阪府堺市に生まれ、明治 30年(1897)32歳の時、チベットの聖地ラサを目指して日本を経ちました。インドを経由してネパールのカトマンズからヒマラヤの峰々を単身踏破し、2年がかりでラサに着きます。ラサではチベット人と偽り、医者として活躍。ダライ・ラマやチベットの政治家の信頼を得たものの、日本人であることが発覚しそうになりラサを去りました。慧海は滞在時に蒐集した貴重なチベット語仏典や民俗資料を日本へ送り、その体験をまとめた「西蔵旅行記」は大きな話題となりました。 SFショートショートの名手として、今も読み継がれる星新一作品。彼をふくめ星家の人々の墓所は、青山墓地交差点近くにあります。星製薬の創始者・星一を父にもち、祖母は森鴎外の妹で歌人の小金井喜美子、祖父は人類学の先駆者・小金井良精。親一(本名)は本郷の祖父母のそばで子供時代を過ごします。東京大学農学部卒業後は大学院に進んだものの、父急逝のため星製薬の跡取りとなり会社再建に奔走し、一時は保険金を得るため飛び降りまで考えたそうです。会社が人手に渡ったのち、新一は本格的にショートショートに取り組み、他に父や祖父の生涯を描いた伝記小説(「人民は弱し官吏は強し」など)を発表しました。その著作は累計 3,000万部以上発行されているそうです。
囲碁好きの大久保のため、碁石が供えられています。
アララギ派の歌人・斎藤茂吉の墓所には、イチイ(アララギ)の木が植えられています。晩年の歌集「つきかげ」から大好物の鰻の歌「 汗垂れてわれ鰻くふしかすがに吾よりさきに食ふ人あり」。木挽町の竹葉亭(新橋駅近く)がお気に入りだったようです。ながく歴史の闇に隠されてきた「竹橋事件」を今に伝える「旧近衛鎮台砲兵之墓」。明治11年(1878)8月、竹橋の近衛砲兵大隊を中心とする 300人余りが待遇改善などを求め決起。皇居をでて鎮圧軍と銃撃戦となり大隈重信邸などを砲撃、天皇への直訴を試みます。参加したのは農村から徴兵され西南戦争の苛烈な戦いを生き延びた兵士たちで、決起の背景には理不尽な徴兵制度や明治政府への失望、賃金への疑念などがあったといわれます。鎮圧後わずか 2カ月で 50人以上が銃殺刑となり遺体は青山墓地に埋められました。作家・澤地久枝氏はこの事件を掘り起こし「火はわが胸中にあり」(日本ノンフィクション賞)にまとめ、墓所はいま「竹橋事件全国遺族会」によって守られています。