コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
|
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
1月号 鏡開き 2015
http://collaj.jp/
デザイン灯るウィーン
時空にえがく美意識
Copyright . 2015 Shiong All rights reserved
The Ring Hotel (左)はリング通り最古の Grand Hotel Wien(下)系列のホテルです
冬のウィーンは暖かな光に包まれます。1814年のウィーン会議を描いた映画『会議は踊る』からも分かるように、国際都市ウィーンでは世界の人々をむかえる「おもてなし」文化が発達してきました。今月はクリスマスシーズンに湧くウィーンの街と、銀器、家具、陶磁器の工房を訪ねます。ケルントナーリング通りに面した「The Ring Hotel 」もイルミネーションに飾られていました。
The Ring Hotelの建物は、20世紀はじめから続く古い銀行だったそうで、螺旋階段と組み合わされたエレベーターは当時から現役で使われています。リング通りは1857年、街を一周する市壁周辺の軍用地再開発計画として、皇帝フランツ・ヨーゼフによって提言され、1865年に完成式典が行われました(2015年は150周年)。明治 6年(1873年)にウィーン万博を視察した岩倉具視使節団も、真新しいリング通りの建物の姿を見学しています。The Ring Hotelのスイートルームに付属した会議スペース。銀行時代の装飾が残されています。
リング通りや議事堂、劇場、博物館などの建設費は軍用地を民間に売ることで賄われ、5年以内に建築を建てれば 30年間は税金免除という特典も与えられました。魅力的な土地のオーナーとなったのは当時台頭した実業家・銀行家・工場主など裕福な市民層です。彼らは通り沿いに豪華な宮殿を建て、一部は貴族の地位を与えられ、新しい時代の到来を示したのです。建物の多くはいま高級ホテルやカフェなどに利用され、往時の面影を体験できます。格式あるGrand Hotel Wienに比べ、The Ring Hotelはカジュアル&エレガンスな雰囲気を大切にしているそうです。宮殿を建てた富裕層の多くはユダヤ系の人々でしたが、ナチスの台頭により街を追われます。ちなみに芸術家を目指した若きヒトラーが青春時代を過ごしたのはウィーンの街でした。
The Ring Hotelの「at eight」。地元オーストリア料理やナチュラルな食材をテーマとしたカジュアルなレストランです。
レンズ豆を使ったアミューズ(上)からはじまり、ホタテのグリル(パッションフルーツのソースとワイルドライス)やアンガス牛のタスマニア胡椒風味(カボチャのクリームソース)。
冬場によく食べられるジビエ料理も。上はキノコとパスタのスープ。テーブルの上で鹿肉のコンソメスープを注いで頂きます。クリスマスシーズンが近づくと、鹿や鴨などをよく食べるそうです。
上はスズキのムニエル。ゴボウや白菜、ザクロを添え、オレンジのソースで仕上げています。右はアヒルのロースト。鴨の代わりに食べられるようです。
ショコラのデザートを頂いたあとは、The Ring Hotelから歩いてすぐのカールスプラッツへ。11月中旬〜クリスマスの日まで、ウィーン市内はクリスマスマーケットで賑わいます。
深雪を踏んでの移動は動物といえども消耗が激しいであろう。エゾユキウサギの足跡(大雪山国立公園)。
神々のデザイン
写真と文石井利雄( 旭川在住 )
厳冬
家の前の鎮守の杜では、
約 30年前にエゾオコジョが、
20年前にエゾクロテンが、
15年前にはエゾモモンガが姿を消した。
そして今 10kmのウォーキングで、
身近にいたはずのスズメを
ほとんど見ることがない。
もうヒト中心の道理は、
止めにしなければと思う。
ー 20℃の朝ヒマワリをついばんでひと息つく、シジュウカラとハシブトガラ。
▲クリムトの代表作「ベートーヴェン・フリーズ」のあるウィーン分離派館。幸福を求め続ける人類の苦難と喜びが描かれています。
バロック様式のカールス教会は、18世紀にペスト撲滅を祈願しハプスブルグ家の宮廷建築家フィッシャー・フォン・エルラッハによって設計されました。エルラッハは初の世界建築史画集「歴史的建築の構想」の著者でもあります。クリスマスマーケットは、市庁舎前広場やマリアテレジア広場、宮殿前広場など市内各所で開かれます。カールスプラッツのマーケットは特に、木工品や陶芸、手作りキャンドルや照明、手彫り彫刻など手工芸品の出店が多いことで知られています。
ヒツジ小屋のまわりで、干ワラと遊ぶ子供たち。
自転車で回転させる人力メリーゴーランド。
新連載
お隣のコージ君
ことの起こりは数年前にさかのぼる。「となりの空き地で、いよいよ工事がはじまるね」
ここは港区の閑静な住宅地。40 年以上生き抜いた、
ある意味貴重な建造物ともいえそうな我がマンション。かすみとケン太はこの一室を借り、住居兼仕事場として十数年暮らしてきたのだが、細々と生業を営むなか、大掛かりなマンション新築工事の幕開けに心を痛めていた。
さて、この工事。大手ゼネコンの手中と思いきや、その期待は裏切られ、設計施工・現場管理をエス社が請け負うという。「いま住民説明会とやらへ出ておかなければ、大変なことになるかもしれないよ …」嫌な予感と胸騒ぎに掻き立てられ、集会場所へ出向いたそうな。
そこではすでに我がマンションのお歴々が顔を揃えていたし、事業主、エス社から数人、窓口になるという会社の人、計6名が一列に並び住民と向かい合っている。
自己紹介のあと、さっそく配布された資料を説明してくれる訳なのだが、何か噛み合わず分かりにくいのはなぜだろう。立体模型なり、見てすぐ理解できる資料もないまま説明しようとしても、所詮無理な話だ。しかも集った住民は高齢者ばかりなのだから。
最前列に座ってしまったかすみとケン太。耳打ちしながら率直に疑問点を尋ね、口火を切った。
それからはもう、質問の嵐、滝のごとしである。
お隣側は、明らかに自分たちの都合だけで、こと
を進めようとしている。はたしてこの計画、向こう
三軒両隣から検証してみたことがあるのだろうか。
たとえば日照問題一つとっても、図面があるにも関
わらず、どちら側がどうなるのかを説明出来ずシド
ロモドロなのだ。
初めて参加した住民説明会。「これから先がますます思いやられるね …」ふたりは深いため息をつくしかなかった。
青山かすみ
恋から生れたオーストリア最古のゼクト Schlumberger(シュルンベルガー)
Schlumberger社はウィーン市北西部、ドナウ河沿いにあります。
Schlumberger(シュルンベルガー)は、オーストリア最古のゼクト(スパークリングワイン)を製造したワイナリーです。フランス・シャンパン地方のワイナリーで長くセラーマスターをつとめたドイツ人ロベルト・シュルンベルガーは、オーストリア人女性と恋におち1840年代にウィーンへ渡ります。その恋がオーストリア初となるゼクトを生み出したのです。
セラーマスターのヨハンさん。ウィーン近郊で収穫される様々な葡萄をブレンドして使います。
シャンパン製法を受け継いだシュルンベルガーは、ウィーンで醸造業を始めます。貴族社会でシャンパンがもてはやされた時期とも重なり、シュルンベルガーのゼクトは王室御用達となり大成功をおさめました。圧巻なのは 300年以上前に作られた総延長 3kmの地下セラーです。風の通り道が計算されていて、自然換気だけで一定の気温と湿度を保てるそうです。
▲昔の作業風景。ゴーグルをして瓶を扱っていることからも分かる通り、爆発の危険と隣り合わせでした。
シュルンベルガーのゼクトは、シャンパンと同様に瓶の中で二次発酵を行います。ワインにゆっくりと発酵する酵母を加え、1日〜数日間隔で 8分の1ずつ手で瓶を回転します。酵母の澱(おり)は瓶の口の方へ溜まっていき、18〜 24カ月かけて成熟させます。最後は、瓶の口を凍らせてから蓋をあけてガスの力で澱を飛ばし、リキュールなどを加え風味をだします。ウィーン万博(1873年)に出展されたスパークリングワインの泉。洞窟ごと会場から移されセラーに保管されています。華やかなウィーン宮廷文化に育てられたシュルンベルガーのゼクトは、さっぱりとした味わいでどんな料理にもよくあいそうです。パーティに集まる方々にくつろぎの時を提供する、もてなしの飲み物だと感じました。
『大寒、小寒』
鈴木 惠三(BC工房 主人)
ウィーン工房の理念をいまに伝えるウィーン・シルバー・マニュファクチャー
ウィーン郊外の農園地帯に建つ銀器工房「ウィーン・シルバー・マニュファクチャー」のファクトリー。かつてウィーンは150軒以上の工房がある銀器産地でしたが、今は2軒だけになってしまいました。そんなかドイツで10年にわたり銀器メーカーに勤めていたアントニオ・ウマーニさんは単身ウィーンにわたり同社に入社。2009年、銀器細工のマイスター試験に合格しました。宮廷で使われた銀器など100年以上前の金型が残されています。
同社のルーツは1882年、アレキサンダー・シュトルムによって設立された銀器工房にさかのぼります。ウィーン工房設立以前からヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーと交友のあったシュトルムは、カトラリーなどのデザイを依頼し数々の名作を生み出しました。その他、ハプスブルク家の銀食器も制作し、当時の金型は今も大切に保管されています。▲ 真鍮板を使って練習中。
ウマーニさんが同社にひかれた理由は、充分な時間をかけて手作りで銀器を作っている点だったそうです。ウマーニさんのような銀細工のマイスター受験者は十数年ぶりで、試験官は金細工のマイスターが努めたとのこと。銀器工房が少なくなるなか、手放された古い道具をコレクションしながら、それらを実際に使い手仕事の技を磨いてきました。
人気ファッションデザイナー Wolfgang Joopさんの作品「マジックマッシュルーム」。塩・胡椒入れになっています。最近では建築家やファッションブランド、アーティストから、オリジナルの銀器を作りたいといった依頼がくるそうです。左はウィーン・シルバー・マニュファクチャーの刻印(四つ葉のクローバー)。オーストリア政府の刻印も打たれています。銀器の制作で大切な研磨工程。スロバキアから働きに来ている職人さんたちは、壁に家族やスロバキアの風景の写真を貼っていました。100年以上前から各家庭に伝わるティーポットやキャンディーボックス、カトラリー、アクセサリーなどが持ち込まれ、ここで新しい命を吹き込まれます。王宮のために作られた作品は博物館にも収蔵されています。
ウマーニさんが手がけた作品を見せてくれました。上は1935年、Otto Prutscher(オットー・プルッチャー)デザインの水差し。プルッチャーはホフマンやコロマン・モーザーと共にウィーン工房で活躍した建築家です。こちらはホフマンがデザインした水差し。取っ手の幅が狭くなっていく部分(溝の幅は変わらいない)の加工が特に大変だったとのこと。
上はホフマンの弟子にあたるオズワルド・ヘルテルデザインの水差し。細かな溝に手間がかかります。下はコロマン・モーザーの宝石入れ。
シンプルなデザインも好きだけれど、装飾の多いものの方が仕事は面白いというウマーニさん。同工房の製品はスターリングシルバー(純度 92.5)よりも純度の高い 94%の銀材料を使い、曇りにくく、より細かな細工をできるといった特徴があります。手仕事による少量生産が見直されるなか、仕事の領域は徐々に広がっているようです。
▼ Otto Prutscherのティーサービス。
ウィーン中心街の「ウィーン・シルバー・マニュファクチャー」のショップ。近くにはオークションハウス「ドロテウム」もあります。上はウィーン在住のデザイナーThomas Feichtner(トーマス・ファイヒトナー)さんによるもの。各年代の作品を見比べることで、ウィーン工房以降100年のデザインの変遷を感じられます。
銀箔を貼り、オーストリアの内装材をふんだんに使ったインテリア。時代や作るものが変わっても、銀器をつうじてウィーン工房の理念を伝えていくことが自分たちの役目といいます。
「立派な仕事を成し遂げるには、何よりその仕事に惚れ込んでいなければいけない。惚れ込む仕事が見つかるまでは、一箇所に留まることなく、これを探し求めてみるべきだ」2005年6月スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で2万3千人の聴衆を前に発した言葉です。「自身がとことん好きな仕事を探す。これが人生成功の秘訣」昨今の自己実現思考の基本路線です。でも、本当にそうなのでしょうか? ジョブズ自身は学生時代、ロクに授業に出席せず、インドの神秘思想に心酔し、肩まで髪を伸ばして裸足で歩き回るようなヒッピーでした。しかも電子工学やコンピューター・サイエンスとは全く無縁。それどころか、「ビジネスで一旗揚げよう」などとは考えもしない「世捨て人指向」が強い青年だった。
それが、ウォズニアックという天才的な技術オタクと出会い、事の成り行きでパソコンがビジネスになるチャンスに遭遇して、劇的に変身していく。ジョブズは決して最初から「自分が好きな事を仕事として選択した」わけではないのです。ヨチヨチ歩きながらもアップルが、そのスタートアップで成功軌道に乗り始めた「後に」、はじめてそれが「好きな仕事」になっていく。言い換えれば、「成功したからこそ」好きになったわけです。その意味では、冒頭に挙げた彼の言葉と実人生の足跡が、必ずしも一致していない。にもかかわらず、世界の頂点を極めたジョブズの口から発せられた「惚れ込む仕事を探
し求めよ」というひと言は、至高の格言として世界に広まっていくことになります。
たとえば今のニッポン「仕事が自分に向いていない」で、新卒入
社の3割強が3年以内に退社するとか。好きな事を仕事にしたい。
そう思えば思うほど、目前の仕事に魅力を感じなくなる。 〜 歳
代の社員でも、これが理由でうつ病予備軍になる人が少なくないと
も。そんな「好きな仕事探し症候群」が蔓延しています。私自身そ
ういう時期を経ていますから、その気持は、よくわかる。でも、冷
静に考えてみてください。実際に自分の好きなことを仕事にしたら、
どうなるのか。
ゴルフ好きがゴルフ場運営会社、旅行好きが旅行会社、音楽好きがレコード会社や放送局に入社する。実は、これらの会社はすべて、サービスを提供するのが仕事です。「お金を払って下さるお客様に奉仕する組織」です。今のニッポン、あらゆる産業がサービス業化しています。だから、それまで自分が「お客様の立場」で楽しんできた道に進んでみれば、立場は変わって「お客様へのサービス提供」
ジョブズとウォズニアック。
1214
もらうには、かなりのお金を積む必要があったからです。 〜 歳の子供が、銀器造りを「好きだろうが嫌いだろうが」その道で頑張る以外に、逃げ道はなかった。現在ならば中学・高校時代を、仕事一筋で過ごしていた。
興味深いことに、このギルド徒弟制度で支えられた世界が生み出した銀器の中にこそ、極めて水準の高い銀器が誕生している。「職人の技量」という点に限れば、徒弟制度が消えた以降は、仕事の水準が急激に低下していく。英国には今も「作家」として、手仕事でそれなりに味わいのある銀器を作る人々は存在しています。しかし、細やかな細工を仕上げる技量については、過去との比較が残酷に思えるほど、大きな落差がある。骨董銀器屋である私の目には、その技量の落差は一目瞭然です。
では、過去と現在で、いったい何が違うのか。修練の時間の長さです。子供の頃から徒弟として住み込みで長時間の手仕事ひとすじ。その長年の積み重ねが職人の技量を育てた。「何事も一流と言われるようになるには、それなりに能力を備えた人が真剣に取り組んで、1万時間必要だ」しばらく前からビジネス誌でよく引用される仮説です。手仕事にかぎらず何事も、長時間の修練だけが一流の成果をもたらす。その水準に至れば、いやでも人は、その仕事を評価する。で、「人生、我慢と精進さ」などと若者に言いたくなるのは、年寄りになった証拠ですね、きっと。という仕事に追われることになる。特に新入社員時代は、その業界に身を置きながら旅やゴルフや音楽を楽しむ暇もない、となるのが普通です。
新規ゴルフ場の開発担当者になる。自分が発掘したミュージシャンをプロモートする。個性的な旅の企画を立てて商品化する。「仕事の真の面白さ」が実感できるようになるのは、その頃からです。いずれも新入社員が任される仕事じゃありません。上司にいわれて動くのではなく、自分が立てた企画を自分の裁量で実行し、それを成功に導く。こうした立場に至るまでには、どんな世界だって、最低でも入社後五年、普通は十年近く掛かるのではないでしょうか。そこに到って初めて、周囲から一定の評価を受け、人の見る目も違ってくる。そうなれば、仕事が面白くないはずがない。
19
話は飛んで、英国銀職人の世界。 世紀末まで「親方」(いっぱしの職人)として認められる資格を得るのに、7年間の徒弟修業が必要でした。 〜 歳で徒弟に入り、住み込みで朝から晩まで銀器ひと筋。これを7年続けた後、晴れて「いっぱしの銀職人」として認められ独立が許される。この時点で初めて「自分の名前」で仕事をすることがスタートする。しかも一旦入門したら、途中で辞めて「別の職種の徒弟の口を探す」なんて、まずあり得ない話だった。というのも、いい親方に徒弟として入門を認めて
12
14
中世の金銀細工工房。
約100年の歴史をもつ「modul」は、ホテルやリゾート施設、観光施設等で働く国際的なプロフェッショナルを育成する学校で、ウィーン商工会議所によって所管されています。初々しい1年生たちが、昼食をサービスしてくれました。
「modul」には義務教育を終えたばかりの14歳から入学できます。カリキュラムは5年制で1学年を3グループに分け、ベッドメーキングや調理、ホールでのサービス、接客マナーなど様々な実務と、ホテルやリゾート施設のマネジメント、英語、フランス語、イタリア語等の語学教育など多方面の教育を受けます。ウィーンや海外のホテルで実地研修も行い、20歳になる頃には、世界の一流ホテルで通用するスタッフになることを目標としているそうです。▲ ▼ アットホームな雰囲気の「The Guesthouse Vienna」。
「modul」の特徴は、実践に重きを置いている点でしょう。学校内には本格的なバーやビストロがあり、そのサービスも学生たちで行っています。学生は世界各国から集まり、卒業後は一流ホテルの他、2年間のディプロマコースや大学進学の道も選べます。ひとりの女性OBに聞くと、ヴェルヴェデーレ宮殿の広報担当から政府観光局職員をへて、コンラン卿のデザインホテル「The Guesthouse Vienna」でPRをつとめているそうです。また老舗「ザッハホテル」で働きながら、大学で MBAの取得を目指す男性 OBもいて、自分なりのスタイルでキャリアアップを図っていました。▲ イタリア料理の先生。トマトの皮むきを教えていました。
調理実習も本格的です。ホテルの厨房を想定した4カ所の調理場があり、学生や教師の食事は全て学生が作っています。質の高いホールのサービスをするためには、食材や調理法などの経験も不可欠です。それ以上に感じたのは、同校がホテルのマネジメントや経営学に力を注いでいることです。ホテルに就職した学生は、10年ほど(30歳位)でマネージャーまで昇進するケースが多く、重役やオーナーとなる人も少なくないそうです。そうしたポジションをまっとうし、ホテルを安定して運営するためには、この年齢から経営感覚を養う必要があるのでしょう。
ウィーン伝統料理を教える先生。実際のホテルさながらの忙しさ。
別の調理場では、昼食を作ってくれた学生たちがウィーン伝統料理の講習を受けていました。同校の OBは 6000千人以上が観光業で働いていて、世界的なネットワークがあるそうです。ある学生は「世界中で仕事をしたいと思い、ホテルマンを目指しました。人をもてなすことに喜びを感じないと出来ない仕事」といいます。政治・経済の交流点となる国際都市にとって、質の高いサービスを提供する人材の育成は、国力に直結する大切な要素と感じました。
ドラゴンシリーズ8
ドラゴンへの道編
夢とノートブック
一昨日、ベルリンに住む息子、武士から手紙が
1251
届き、その中に一本のスケッチ用のシャープペンが入っていた。手紙には、自分が親父と同じ歳になった時、自分はどんな人間になり、何をしているかを想像したことを思い出してみたいと書いてあった。シャープペンは僕の 歳の誕生日のプレゼントとして手紙の封筒に同封されてきた。
8年前、 歳の時に一人でベルリンから東京の僕のところにやってきて、 6年間を共に東京で過ごした息子も、もう高校を卒業して 1年半前にベルリン自由大学で弁護士を志して東京を後にした。
彼は小さな頃は、大きくなったら恵まれない子供たちを助けることが出来るような弁護士になりたいと言っていた。
それは何だか僕の無謀な人生や理不尽な生活に対する子供なりの抵抗を表現しようとしていたように感じていた。
しかし、人生は彼の想像した通りに進むものではない。 1年ほど前から、彼は弁護士を目指した大学を辞め、ある日突然、料理人を目指してベルリンのレストランで早朝から働きながら、下積みに加え、料理人への道を歩み始めた。
ホテルに併設するレストランなだけに、早朝のブレックファーストの準備か
ら始まり、まずは掃除や洗い場などの下積みから毎日が始まるのがフレンチレ
ストランの厳しい流儀であり、その洗礼を受けながら勝ち進んでゆかなければ、
自立できるようなシェフとして成長できない社会だと、経験してきた友人のシ
ェフから聞いた。
僕は息子に対して、これまで一度も将来の道を示唆したことは無かった。自分のやっている会社やインテリアやデザイン、建築などの道を勧めたことも無かった。ただ、彼が自分自身でやりたいことを学ぶこと、それを自分で見つけることが大切だと思ってきた。だから彼が道を見つけ、進んでゆこうとしていることを嬉しく、誇りに思っている。
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
しかし、同時にこれからの長い人生の道は紆余曲折、失敗することが必要であり、迷ったり、苦しんだり、悩んだりする経験が彼らの人生を強く豊かなも
203
10
のにする肥沃な土壌となる。
弁護士と言う職業の選択を辞めシェフと言う料理の道を志したとしても、いずれの道も厳しく、これからの彼の人生に対する向き合い方が仕事の意味や価値を決めて行くことになるのだから。
2030
何でも無いような日常の仕事の中に苦しみも楽しみも同居していて、それは他の誰にも見えないものであり、その楽しみの価値を定義するのも自分自身。様々な無謀な挑戦や直感による行動からの失敗を沢山、山のように経験して苦しんでほしいと思うのと同時に、その山を乗り越えることを楽しんで欲しい。
10
正直な気持ち、まだまだ先を急ぐ必要も無いし、今はっきりと先が見える人生などつまらない。料理の道も続けてほしいと思うけれど、それが失敗に終わっても、まだまだ余裕で挽回できる。だからこそ、直感でも何でも良い、やりたいことが見つかれば挑戦し、失敗してゆくことがその後の長い仕事の経験を高めて行くのだから。 歳くらいまでの 年間であれば、何度だって目標を変えて挑戦しても良いと思う。
去年の 月、息子の 歳の誕生日にイタリアの Pinettiと言う文具メーカーのノートをプレゼントとして贈った。僕も使っているノート。でも最近は美篶堂(みすずどう)のコトノハノートと言う谷川俊太郎さんの詩が最初と最後のページに和文と英文で入ってるノートが一番気に入っていて 種類使っている。
僕はノートブック(スケッチブック)が大好きで、
スケジュール用のダイアリーは持ち歩かない。罫線などが全く入っていない真
っ白なハードカバーのノートブックをいつも持ち歩いていて、その真っ白な紙
に打ち合わせのメモ、スケジュール、日記、スケッチ、店のレイアウト、デザ
イン、夢、目標、事業計画、借入計画、
なんでも全てを書いて、描いてきた。
息子の 歳の誕生日には、自分のこれまでを作ってきた、大切にしてきたこと
を伝えたかった。
それでノートを贈ったのだが、息子から、先日の僕の誕生日に手紙と一緒に
スケッチ用の小型のシャープペンが贈られてきた。まだまだ、このシャープペ
ンで夢を描けと言うメッセージが込められていて、とても嬉しかったが、彼に
一本取られた感じがした。
僕には正直、本当にやりたいことが日々、次々と湧き上がってきて、これまで以上に内面のエネルギーに満ちている。ダーウィンの時代のような激動の時代が再び訪れようとしている、正解は無い。正解を生み出し、正解を作るのは自分自身なのだ。
MAK応用美術博物館で激動の時代のデザインに触れる
リング通りに面した MAK応用美術博物館。1864年に開館した「王立オーストリア芸術産業博物館」をルーツにもつ歴史ある博物館です。なかでも見どころは「ウィーン1900」と名付けられたコーナーで、1890年からオーストリアがナチスドイツに併合される1938年までのデザイン・芸術の流れを分かりやすく展示しています。上はアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデのライティングデスク。セセッション展に出品され、デザイナー達に大きな影響を与えました。
▲コロマン・モーザーによるライティングデスク(1904年)。
▼ヨゼフ・ホフマンによるシャンデリア。
アドルフ・ロースとフリードリッヒ・オットー・シュミット社がコラボレーションしたアパートメントのインテリア(1900年)。ロースは装飾性を否定した建築家として知られますが、これはエレガントなラインを活かした優美なデザインです。ロースは伝統的な職人達には敬意を払っていたようで、中央には有名なエレファント・トランク・テーブルも見えます。ヨゼフ・ホフマンが Waerndorfer家のためにデザインしたカトラリー(1904年)。ホフマンは各家庭からオリジナルのカトラリーを注文され、図面を描いて銀器工房で制作させていました。料理に合わせ形の違う数十種類のナイフ&フォークをデザインしているところからも、ホフマンの真面目さが伺えます。シンプルで使い勝手もよく、今も生産されているシリーズもあります。左は、チャールズ・レニー・マッキントッシュ夫人のマーガレット・マクドナルドが描いた、ヴェルンドルファー邸(ウィーン工房出資者) 音楽ホールための壁画「The Seven Princeses」。右は、グスタフ・クリムトがホフマンの代表作ストックレー邸のモザイク壁画のために描いた華麗な下絵「ストックレー・フリーズ」。全部で9枚描かれています。
システムキッチンの元となる「フランクフルトキッチン」を設計したオーストリア初の女性建築家・マルガレーテ・シュッテ・リホツキー。彼女が1925年にウィーンでデザインした単身女性向けの部屋が再現されていました。ベッドやライティングデスク、ドレッサーを壁面に組み込み、収納も充実。壁面収納家具のルーツともいえます。壁面は積層合板仕上げです。世紀末ウィーンから第1大戦をへて第2次大戦を迎えるまでの激動の時代。デザイナーたちが人々の生活や人間性を守ろうとした強い意志が伝わってきました。応用美術館にはウィーン分離派のコレクションも充実していて、2015年4月19日までは、ホフマンとロースに焦点をあてた企画展「Wege der Moderne」を開催しています。
1871年完成の応用美術館は、ハインリッヒ・フォン・フェステル設計のルネサンス様式建築です。応用美術館のレストラン「エステライヒャー・イン・MAK」。内装デザインは、アイヒンガー・オーダー・クネヒトル。既存部分と新造部分のコントラストが素敵です。伝統料理を現代風にアレンジした料理が評判です。
10
年前、この 2
それでも地球は回ってる
「これまでのあらすじ」
連載を再開するにあたり、著者にこれまでの「あらすじ」を振り返って頂きました。
【背景1】
リゾート都市ホノルル。世界中の人々を魅了してやまないこの観光都市は、その裏に2つの巨大なマフィア組織が拮抗を保ちつつ存在している。両者、インビジブルウェポン(見えざる武器)とラフィンホク(笑う月)は近年、ほぼ同時にトップの世代交替を終えた。インビジブルの若き指導者[ロックマン ]は父親であるマカニ・ブルーノの巨大な地盤を継ぎ、金融と不動産ビジネスを中心にさらに巨大な利権を獲得した。一方、当時弱小組織であったホクをたった数年でインビジブルに対抗するまでに膨張させた悪のカリスマ [クロ ]は、ドラッグビジネスを厳格に禁止するイン
ビジブルを横目に新型ドラッグ「
T
」を駆使してインビジブル一強だった
ホノルル市場を我がものにして行く。
【背景2】
大組織は大きく衝突している。世に言う「ツインブリッ
ジ事件」である。この抗争で当時のホノルル市警(HPD)署長、テイラース・スウィフトとインビジブルのマカニ・ブルーノ、当時ホクの指導者
野田豪(AREA
)
であったディック・ウルフが死亡している。また、この抗争の裏には 3人の天才参謀が暗躍していた。インビジブルのリオ(馬)、ホクのクロ、ホノルル市警所属のジーノ・ホワイトである。
15
【背景3】
この人物関係図をさらに解きほぐして行くと、そもそも、この「ツイン
ブリッジ事件」から遡ること 5年、つまり現在から 年前に、この主要人
物の幾人か(クロ、ロックマン、リオ)は既に極東の国日本で出会ってい
る(第一部・日本編)。
「ツインブリッジ事件」の後、リオは古巣インビジブルを裏切り、ディック・
ウルフの後継者となったクロの参謀となる。イタリア移民のジーノ・ホワ
イトは市警のコンサルタントを降りて故買屋(表家業は家具職人)を始める。
【背景4】
現在、かろうじて均衡を保っていた 2大黒組織がホノルル市警を巻き込み、再び抗争の危機を迎えていた。引き金はロックマンの一人娘ナツキ・ブルーノ、未来のホノルル市警署長を夢見るトム・フォード、謎の日系人 Foxー faceだ。ラフィンホクの新参謀リオ(馬)はジーノ・ホワイトに宣戦布告をする。「もうあなたは僕には勝てない」もう二度と血の抗争を望まないジーノだったが、彼の前に2人の日系人が現れる。
inspireD 沖縄 読谷村やちむんの里 ー山田真萬さんの工房を訪ねる
沖縄では、焼き物のことを「ヤチムン」と言います。読谷村は文化村構想の中で、読谷山焼を中心に周囲の窯も含めて「ヤチムンの里」としてスタートし、今では村内に 60軒を超す沖縄有数の窯場に成長しました。その創設メンバーの一人で、N.Y.のギャラリーや BEAMSなどを通して国際的に評価されている陶芸家、山田真萬さんの工房を訪ねました。
沖縄の土は赤土系で、ほかに黄土、白土等を合わせて使います。特に化粧土として使われる名護の白土はあたたかみがあり、貴重だそうです。
1944年、那覇市で生まれた山田真萬さんは、400年の歴史を持つ「那覇壺屋」と栃木県益子で学び、1980年に大窯でモノ作りをしたいと、4人の仲間と共に読谷村に 9つの部屋をもつ「読谷山窯」を開きました。可能な限り土や釉薬も地元で採れるものを使い、沖縄の風土を自然体で表現出来たらという思いでモノづくりをされているそうです。
4軒の工房で共同使用している登り窯。窯焚きの際は 4工房交代で 80時間、3日〜 4日間にわたり焼き続けるそうです。「燃料に松薪を使う登り窯は、コントロールが難しい反面、予想以上にいい作品が生まれるなど変化に富み、そこが登り窯の魅力でもあります。形を作り、絵付けをし、最後は自然の炎に任せる」と真萬さん。
サンゴ礁石灰と籾殻で作る透明釉。モダンなデザインを次々と生み出しながらも、数百年前から受け継がれた土や釉薬の調合は今も続けられています。
「これまで窯場の環境作りをしてきました。将来、煙の公害問題等が出てこないように、周囲の自然を大事に守っていきたいと思います。伝統とモダン。答えは自然界にあると思います。次の世代の若い人達はしっかりと自然と向き合ってほしいです」と語る真萬さん。いつまでも見続けていたい、沖縄の風土と歴史を閉じ込めた作品です。
中世さながら 宮殿に抱かれた木工房 ウィーン6区コテック宮殿のフリード
リッヒ・オットー・シュミット本社。
Friedrich Otto Schmidt
(フリードリッヒ・オットー・シュミット)
世界各国の宮殿建築を手掛ける一方、ヨーロッパ各地の宮殿、教会、家具などの修復に関わるフリードリッヒ・オットー・シュミット(1853年開業)。日本では「日本フリードリッヒ・オットー・シュミット」(東京・板橋)が同社の仕事を行っています。工房の一角では、コレクターから依頼された蒔絵の修復を進めていました。
元設計部長のヨハン・オーバーライターさんが工房を案内してくれました。美術書などの資料を元にして家具の復刻も行います。上はヨゼフ・ホフマンのライブラリテーブル。彫刻やセラックニスによる塗装仕上げなど細部まで再現されています。歴史ある教会からの依頼で、祭壇の修復を行っていました。傷んだ箇所には木材を継ぎ、時代感を活かしながら新たな命を吹き込みます。内装の修復技術をもつ職人は少なくなっていて、各国から仕事が持ち込まれるそうです。
木彫刻の作業場
木槌をふるう木彫刻の職人さん。時々えんぴつで線を描きながら、フリーハンドでノミを進めていきます。壮麗な教会や宮殿の彫刻も、こうした職人の手によってコツコツと積み上げられたのだと実感しました。
▲カイガラムシの分泌液を使ったセラックニス。
象嵌を施したテーブルトップをセラックニスで仕上げます。布に染み込ませたニスを何回も拭き込むことで、深い艶をもつ光沢が生まれます。16世紀に登場したセラックニスは、乾かしては塗りを繰り返す手間のかかる塗装法です。
キャビネットを制作中の職人さん。1分の1の大きな図面を元に、フレームを組み立てていました。日本と異なるのは図面に寸法が入っていないこと。完成時の雰囲気を大切にしているようです。
ねじりん棒を彫る若い職人さん。産業革命以前の貴重な技術を学びたいと、世界各国から職人が集まってきます。
120室もあるコテック宮殿に本社を移したのは1892年のことだそうです。創業した1853年当時は、リング通りに次々と建てられた宮殿やホテル、議事堂などの内装を手掛け、ヨゼフ・ホフマンやアドルフ・ロースとも親交を深めました。
豪勢な内装は、伝統様式を示すショールームも兼ねています。
椅子張りも昔ながらの材料と工程で行われています。太鼓状のスプリングや馬の毛、麻布などで張られた椅子は、沈み込みの深い柔らかな掛け心地が特徴で、耐久性が高く修復もできます。
中国風のキャビネットも置かれています。
内装の設計やプレゼンテーションは手描きのパースや手作りの模型を中心に行われ、空気感を伝えることに重点を置いているようです。第二次世界大戦でコテック宮殿は爆撃を受けますが、貴重な図面類は奇跡的に無事だったそうです。
一流メーカーの生地見本を1万数千点も揃えたファブリクスの部屋。家具やカーテン、壁の張地は、ここから自由に選べます。一日中こもりっきりになってしまいそうな魅力的な部屋でした。
高速化と日本向けBIM機能の充実したVectorworks 2015 新製品発表会
インテリア業界でも多用されている CAD「Vectorworks 2015」の新製品発表会が、東京・大阪・福岡・名古屋・仙台・札幌の6会場で開催されました(写真は東京会場)。
Vectorworksのベンダーであるエーアンドエーからは、川瀬英一社長が登壇。「これからも日本のユーザーの要望を可能な限り反映して行きたい」と宣言しました。今回のバージョンアップの目玉は 64bit化を実現したことで、マシンのパワーを引き出し、大規模なデータの処理スピードが格段に早くなったそうです。また画像をより美しく表示するグラフィック機能も強化され、3Dビューの切り替えもアニメーション表示できるようになりました。
▲ 東京会場は品川グランドホール。開発元の米国Nemetschek Vectorworks社からCEOのショーン・フラハティさんとVectorworks BIMスペシャリストのジェフリー・W・オゥレットさんが来日しました。フラハティさんは「世界規模で都市人口が拡大するなか、設計作業のボリュームも増大している。よりスピーディーでクリエイティブな作業環境を提供することが重要な課題」と語ります。CADなど設計ツールの効率化が、地球全体の都市環境を左右する時代が来ていると感じました。様々な環境でプレゼンテーションや作業を進められる、モバイル向けアプリの開発にも力を注いでいるそうです。
▲ 「Vectorworksサービスセレクト」の契約者は、モバイル端末向けアプリVectorworks Nomadを利用して、ipadなどでウォークスルーのプレゼンテーションが出来ます。
k BIMスペシャリストのジェフリー・W・オゥレットさんは、建築設計の主流となるであろうOpen BIMについて講演しました。国際的な BIM機関ビルディングスマートの認定をうけたVectorworksは「他社の様々なアプリケーションとも連携しながらIFCデータによって作業を進めることが可能です。Vectorworksは BIMの標準化を進めるための委員会にも参加し、土木から建築、メンテンスまで一貫した作業プロセスの開発に協力しています。BIMデータは、竣工後も建物の運営やメンテナンスに活用され、都市機能の保持に役立てられるのです」といいます。
▲ユーザーの声を反映した「日本向け建築部材スタイ
ル」が追加され、BIM機能がより使いやすくなりました。「Vectorworks2015」は、1月16日の発売です。
ヴォティーフ教会
シュテファン大聖堂近くのレストラン「Labstelle」。
▲ 街のあちこちが、日々、電飾で彩られていきます。
シュテファン大聖堂前広場のクリスマス・マーケット。有名な観光地だけに、おしゃれに電飾されたブースが並びます。
木のコブをくり抜いた木工品やクリスマスツリーの飾り物などの屋台は、統一されたデザインになっていました。
クリスマスに向けて一本ずつロウソクに火を灯していく「アドベントリース」。花屋さんでとぶように売れていきました。
デザイナーの力によって再興された陶磁器工房
Wiener Porzellanmanufaktur Augarten(ウィーン磁器工房アウガルテン)
1718年、ヨーロッパで2番目の陶磁器工房としてスタートしたウィーン磁器工房。1744年には女帝マリア・テレジアの管理下でロココ調の作品を多く残しています。18世紀後半からは新古典主義の時代となり、威厳あるインベリアルな柄がウィーン会議に使われると、海外の王族からも支持され隆盛期を迎えました。
世界的に評価される磁器製のフュギリンは、カオリン、長石、石英などを独自の配合でブレンドし熟成させた磁土を使い、石工型で型どりしたパーツから作られます。数十点以上になるパーツは、生乾きのやわらかな状態のうちに手作業によって組み立てられます。
最も難しいといわれる組み立て工程。こうした専門職のマイスターを目指し、14歳頃から職業訓練校に通いながら工房で実際に働く若い人もいるそうです。学校では主に経営学などの座学を、工房では実技を学びます。釉薬をかける工程にも専門の職人がいます。釉薬に漬けてから回転させたり、くぐらせたり、棒で支えたりと、形状にあわせたテクニックを使います。この後に2度の焼成を行います。
▼ 古典的なカップは、絵付けを行って焼くを何度も繰り返します。
焼成を終えた白い生地に絵付けを行います。上はホフマンのメロンシリーズに金彩の絵具を塗っている所。茶色の絵具を焼いてから磨くと金彩になります。特殊な絵具や極細の筆などに、数百年のノウハウが込められています。絵付け部門のマイスター Docknerさん。マイスターは技術の高さばかりでなく、職場の環境整備やスケジュール管理など、職場全体を把握する能力が求められるようです。
アウガルテンのミュージアムには、創業時からの貴重なコレクションが展示されています。希望者は工房を見学するツアーなどにも参加できます。
工房に併設されたショップではクリスマス向けのデコレーションを進めていました。ホフマンの「メロン」や「Myth」、「Deco Vienne」などがウィンドウに飾られ、光に包まれるような冬の暖かさを感じます。
アウガルテンは市民のための公園にもなっています。リニューアルされたカフェからも景色がよく見えます。