時空を超える美意識
https://collaj.jp/ 小雪 2023
軽井沢 アート三昧
リヒターフジタレーモンド
空間から感じとるリヒターの世界
Richter Raum
今年の7月、軽井沢にまたひとつ素敵なアート空間が誕生しました。現代アートを代表する作家として知られるゲルハルト・リヒターの作品で構成されたRichterRaum(リヒター・ラウム)です。
リヒターの部屋あるいは空間ともいえるこの建築は、WAKO WORKS OFART(東京・六本木)の和光清さんによって建てられました。和光さんとリヒターの出会いは30年ほど前。1991年、ロンドンのテート・ギャラリーでリヒターに魅せたれた和光さんは、作品を日本にも紹介したいと東京・初台に最初のギャラリーを開設。1993年にはドイツ・ケルンへリヒターのアトリエを訪ね、以来30年にわたり親交を温めてきました。
和光さんの最初の構想は、限られたファンを招く小さなスペースでしたが、リヒターとも相談するうちに計画が膨らみ、ケルン郊外の森にあるアトリエ・リヒターを模した空間を一般公開することになりました。和光さんの設計は徹底していて、規模は3分の2ほどですが、創造の場であるアトリエやオフィス、自邸の一部などを、窓の形や配置、照明器具、内・外装仕上げ、屋根の形状、外通路の敷石などすべて同じ仕様に作り込んでいます。さらにオフィスも再現され、テーブル、チェア、キャビネット、CD、筆記具にいたるまで、本人のものと同じとのこと(オフィスは非公開)。そしてなにより軽井沢の森との調和が、創造の源泉を伝えます。
Richter Raum展示風景(2023年)より、《Grey Mirror (Reminiscence)》(2015)、《STRIP927-10》(2012/2023) Exhibition copy, loan of the Gerhard Richter Kunststiftung、《25 Colours》 (2007) ©. 2023 Gerhard Richter / WakoWorks of Art、Photo: ToLoLo studio
リヒターの創作の場を模した部屋の中央には、大きなガラス作品《 8 Glass Panels 》(2012年)が置かれ、視点の変化によって万華鏡のようにまわりの作品と自然風景が映り込みます。リヒター作品のコレクターであってもケルンのアトリエを訪ねることはめったに出来ないそうで、ここはアトリエの雰囲気を感じながら作品と共に時間を過ごせる、世界で唯一の場となっています。庭には、リヒター作品初の屋外恒久設置作品《ストリップ・スカルプチャー・カルイザワ》(2023年)がそびえます。8枚のストリップを十字形に組み合わせた高さ約5mのオブジェで、高透過ガラスに軽井沢の樹々や空の青が映り込み、ここにしかない景色を見せます。和光さんの希望に応えてリヒターが制作したそうです。
RichterRaum展示風景(2023年)より、《AbstractPainting》(2015)、《AbstractPainting》(2015)©. 2023 Gerhard Richter / Wako Works of Art、Photo: ToLoLo studio
アブストラクト・ペインティングを展示した部屋はリヒター自邸を模しています。創造の場に近い空間で作品に囲まれていると、そばにリヒターが佇んでいるような不思議な感覚にとらわれました。リヒター・ラウムの入場は予約制です。ホームページからお申し込みください。
「水抜き不要」のパッシブ冷暖で
軽井沢の春夏秋冬を楽しむ
軽井沢千ヶ滝別荘地の一画に建つ「 S-Villa」は、70代ご
夫婦と、そのご子息一家の別荘です。今年2月の竣工で、緑ゆたかな傾斜地を利用し、敷地の樹々を出来るだけ保全することで、森の中の一軒家を実現しました。
設計・施工を担った軽井沢建築社の関泰良さんによると、傾斜地の設計を手掛ける際は、最初に自動車が登るスロープを計算し、その後で住宅の配置を検討するそうです。冬場でも利用できる別荘にするためには、積雪があっても自動車が登れるゆるやかなスロープをつくる必要があります。
母屋は、森の広がる南側にデッキと窓を設けた総2階建てのシンプルなデザインです。「傾斜地では、コンクリート基礎の高さを変えることで敷地の高低差を吸収し平らに整えます。基礎にコストがかかるため、コストパフォーマンスの良いスクエアな形状の総2階建てを提案しました」と関さん。屋根の傾斜角は軽井沢町の景観育成基準ガイドラインにそって2寸勾配以上をとり、軒の出を50cm以上だしました。
外壁には杉板を焼いて耐候性・防腐性を高めた「焼杉」を採用し、縦張りにしてすっきり見せています。室外機や給湯器、灯油タンク等は、表から見えない西側にまとめました。この別荘の財産のひとつは、南に広がる落葉樹の森です。傾斜地に生えた樹々は枝ぶりに高低差がつくため、ウッドデッキから奥行き感のある森の景色を楽しめます。
母屋のとなりに設けられた「離れ」は、浅間石の石垣の上に
建ちます。デッキでバーベキューをしたり、木漏れ日をグランピング感覚で楽しめる心地よいスペースです。趣味の自転車、スキー、ギターの収納庫でもあり、断熱性が確保されているので窓を閉めれば暖かく過ごせます。母屋と離れを行き来することで、光や風にあふれた軽井沢の自然を目一杯感じることができます。
浅間石の石垣は、あえて不揃いの石を積んだ乱積みにして、隙間に緑を差すことで既存の樹々と呼応し、新築でありながら数十年経たようなヴィンテージ感をだしています。
吹き抜けリビングの薪ストーブは、まわりを大谷石の壁で囲み遠赤外線による暖かさも得られます。
Sご夫妻がはじめて軽井沢に別荘を持ったのは、20年ほど前。町の小学校に近い便利な場所でしたが、住宅が建て込み交通量も増えたため都心の本宅とあまり変わらない環境に・・・。そして2011年、別荘の存在を大きく変えたのが東日本大震災でした。ご子息夫婦に生まれたばかりの赤ちゃんを連れ3月に軽井沢に向かいましたが「別荘の水抜きを栓を開けるのが難しかった」そうです。「水抜き」とは水道管の凍結を防ぐため管内の水を抜く作業で、軽井沢の別荘の大半は水抜きが必要です。
大震災の経験をとおしてセーフハウスとしての別荘の大切さを実感したSご一家は、冬季も利用でき「水抜き」がいらない別荘を求めて、軽井沢の建設会社を探しました。その中で出会ったのが、軽井沢建築社だったのです。
部屋の中からも、森が一枚の風景画のように見えます。
リビングの吹き抜けや階段室を通じて、2階にも暖気が送られます。
「軽井沢では、秋の別荘じまいと、初夏の別荘びらきの際に面倒な水抜き栓の操作が不可欠でした。その手間を省き一年を通じて快適な別荘を建てる方法を長年研究してきました」と関さんはいいます。従来は、水道管を凍結から守るため暖房をかけ続けたり、水道管に電熱線を巻いたりと大きなエネルギーを消費しましたが、軽井沢建築社の「パッシブ冷暖」は家全体を温め、低ランニングコストで水抜き不要の別荘を実現しました。もちろん冬場も暖かく、春夏秋冬を快適に過ごせます。
▼サニタリーには衣類乾燥機を設置して、冬場の洗濯にも対応しています。
1階の中心に設けられたキッチンは、手元を隠すハッチから森の景色を眺められます。廊下のように通り抜けでき、部屋をぐるっと1周できる使い勝手のいい間取りになっています。週末は新幹線の駅近くで食材を購入し、軽井沢駅まで1時間ほど。ご主人とゆっくり休日を過ごせるのがいいと奥様。町内循環バスのバス停が近くにあり、タクシー会社も複数あるので、自動車がなくても図書館やスーパー、美術館などを巡るのに不便はないとのことでした。
▼ パッシブ冷暖はIoTによってスマホで遠隔操作できます。都心にいながら室温を確認したり、機器の操作が可能です。
ご子息一家や沢山の仲間が訪れることをふまえ、ダイニングテーブル、薪ストーブのソファコーナー、ファミレスのようなボックス席など、気の合う同士が集える「居場所」が設けられています。各コーナーの窓は樹々の見え方が計算され、正方形のせり出し窓は1枚の絵画のようです。離れの開放的な空間と、落ち着いた守られ感のある母屋のコントラストによって、季節や天候にあわせた様々な楽しみが生まれます。
木漏れ日があふれる「離れ」のデッキ。
2階には家族それぞれの寝室やゲストルームがあり、長期滞在できるセーフハウスの役割を果たします。どの部屋にも絵画のような窓が設けられ、緑を近くに感じます。
北側には玄関がありますが、普段はデッキから出入りすることが多いそうです。玄関クローゼットが備えられています。
来客の客間も兼ねて、1階には和室が用意されています。20年前に建てた別荘は冬場は使えませんでしたが、ここは断熱等級6レベル以上を確保し、断熱した床下に温風を送り込む「パッシブ冷暖」によって暖かな環境を保てます。竣工は今年2月でしたが、都心の本宅より暖かいくらいだったそうです。これから本格的な冬を迎え、薪ストーブを初めて使うのが楽しみとのこと。真冬には森の樹々が樹氷で彩られ、軽井沢に暮らす人しか味わえない景色がひろがります。
ドラゴンシリーズ 109
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ピーター・ズントーとの仕事(後編)
い)の
ハルデンシュタインというスイス・クール地域の山麓の小さ
な村に自然に溶け込んで建つ、
つの異なるアトリエの建物そ
のものがズントー氏の考え方を体現しているようだ。 Atelier Peter Zumthorを訪れると感じるのは、古いヨーロッパの教会に足を踏み入れるような独特の神聖な空気と緊張感である。優しさと厳しさの両面を持つズントー氏の持つ雰囲気が、アトリ
エ全体から漂っている。
3
棟のアトリエでは数十名(
20
代から 30代の若いスタッフ達が模型の制作やデスクに
向かって寡黙に作図に集中している。
日本人スタッフで最も長く Atelier Peter Zumthorに勤務し一昨年に独立、スイスで建築事務所を設立した杉山幸一郎さんが僕らの家具制作のプロジェクトを長い間サポートしてく
れた。そして彼からズントー氏の仕事やアトリエの仕事のことを聞くことができたことは、難易度の高い Peter Zumthor collectionの制作を進める上で大きな助けとなった。幸一郎さんは優しい風貌に対し、アトリエでは常に緊張感を漂わせていた。誰よりもズントー氏に対して、長い時間を掛けて形成された特殊な関係性による緊張感を持って接していた。ズントー氏と幸一郎さんの姿は僧侶と修行僧のような、尊敬する師に仕える佇まいを持っていた。そんな幸一郎さんの最も印象に残っている言葉。『僕らはピーターの手になることです。』『僕らスタッフは創造しないのです。ピーターが実現したいことをする為に存在している手なのです。』『僕らは何かを創造することは無いのです。ピーターが実現したいことを僕らが模型にし、図面
3
30
名くら
実際のにすることがアトリエのスタッフの仕事なのです。』幸一郎さんのその明確で強い語りに背筋が寒くなったことを思い出す。
アトリエの壁にはさまざまなスケールの大きな図面が張り出され、その図面に直接ズントー氏が黒いペンで新しい線を書き込んでゆく。そしてズントー氏の書き込んだ線が図面に反映されてゆく。その繰り返しと対話によってスタッフが上描きしてゆく図面は、ズントー氏の目指す姿を帯びてゆくようだ。そしてアトリエには常にさまざまなスケールの模型が多くのスタッフ達の手によって作られている。数年間、数カ月毎に訪問するたび、同じプロジェクトの建築物の全体像が大きく変わり続け、新しい模型制作が延々と継続されて更新しているように見える。
僕の中では完璧に見える大きな建築プロジェクトの模型が、数カ月後には
同じ地形に全く違ったアプローチの新しい建築が立ち上がってゆくのを見て、その執念に恐れさえも感じる。そのような緻密で集中した作業の果てに完成した建築模型は、一つの建築物の完成を見ることと同じである。しかし常にその創造物を壊し捨て、何度も完成させた後にそれを壊し、そして新しいものを立ち上げて終着点を模索し続けること、そのものの中にズントー氏が目指す何かがあるのだろう。
の一つ一つの家具の制作においても、ズン
トー氏のプロダクトはその存在理由から、全ての素材、構造、仕上げまでが明確に定義されている。その図面は建築物の一部である家具を制作するために、必要な情報が全て記録されており一切の曖昧さは存在しない。
Peter Zumthor collection
▼中央が、安東夫妻による藤田作品の初コレクション《『魅せられたる河』よりヴァンドーム広場》1951年。
セレモニーには約80人が参加し、長野県歌「信濃の国」の合唱からスタートしました。演奏は森みず帆さん(ヴァイオリン)と城綾乃さん(ピアノ)。同館サロンでは、定期的にクラシックコンサートも開かれています。最初に創立者であり代表理事の安東泰志さんから、同館設立の思いが語られました。安東夫妻が藤田嗣治作品の収集をはじめたのは2005年の春、軽井沢銀座のギャラリーで《ヴァンドーム広場》と出会い、それ以降200点以上をコレクションしてきました。
▼左端がニューヨーク滞在中の作品《猫の教室》。記録によるとわずか1週間ほどで描かれました。
館長の水野昌美さんから、開館から1年の活動報告がありました。この1年で3回の展示替を行い、第1回は全収蔵作約180点から主要作品を全て展示した「開館記念展」、第2回は「猫と少女の部屋」と題して、ニューヨーク滞在中に描かれた油彩画《猫の教室》(1949年)をはじめ、戦後のモチーフとなる猫と少女をテーマとしました。また夏の特集展示として「戦争の時代の藤田嗣治」を取り上げ、戦中に描かれたポスター原画《勇敢なる神風特攻隊》(1944年頃)を初公開。戦後の日本に絶望し、羽田からニューヨークそしてフランスへと戻った藤田の軌跡をたどるような展示となりました。いつきても新しい発見がある美術館にしたいと、水野館長はいいます。
▼ 日本の美術館にみせられた美術史家ソフィー・リチャードさんは、10年以上かけて巡った美術館を紹介した著書『フランス人がときめいた日本の美術館』(集英社インターナショナル刊)で話題となりました。
軽井沢町長土屋三千夫さん。軽井沢観光協会会長土屋芳春さん。
来賓祝辞では、軽井沢町長土屋三千夫さん、美術史家ソフィー・リチャードさん、軽井沢観光協会会長土屋芳春さんが登壇。土屋町長は「展示室で可憐な少女や猫を見つめ、見つめられているうちに、その世界観に引き込まれます。深い悲しみや喜びのはてに生まれた作品には、悩みや苦しみを静かに受け入れてくれる力があり明日への希望を与えてくれる。この美術館がリトリート(仕事や生活から離れた非日常)の場である軽井沢にあることに意義がある。独自の環境、文化発展のため協働していきたい」と語りました。土屋観光協会会長は「130年を超える歴史ある別荘地軽井沢では、本物の文化しか認めてもらえない。芸術作品を並べて見せる美術館から、ライフスタイルにアプローチする場へと美術館が変化するなか、その先鞭を軽井沢安東美術館がつけてくれた。今後の活躍に期待しています」とお祝いの言葉をおくりました。
現在は1周年記念特別企画「ようこそ藤田嗣治のお家へ」を2024年2月20日まで開催中です。創立者の安東泰志・恵夫妻は沢山の藤田作品を自宅の壁にかけ、絵と対峙しながら暮らしていました。その空間イメージを再現した展示室が、同館最大の特徴となっています。コレクションを遺すだけでなく「家族の物語」と共に伝えるために、美術館の建設が必要だったと安東代表理事はいいます。展示は基本的に、藤田が初めて渡仏した1910年代〜南米を旅した1930年代〜従軍画家として活躍した1940年代〜フランスに戻り教会を建設する1960年代までの生涯をたどっています。緑の壁の展示室2は、1920年代エコール・ド・パリ華やかなパリで、藤田がヨーロッパを魅了する「乳白色の下地」を生みだした初期作品を展示しています。黄色い壁の展示室3では、1931年から約2年にわたり藤田が新しい伴侶マドレーヌと中南米を旅した頃の多彩な作品のほか、第2次世界大戦中に日本で描かれた戦争画や資料を紹介しています。藤田の最後の妻・君代夫人が所有していた、貴重な手帳も公開されました。ドイツ軍によるパリ占領の直前1939年9月〜1940年4月までの心情を綴ったもので、戦時下のパリや戦況を細かな筆致で記しています。第2次世界大戦がはじまり日本人画家が次々とヨーロッパを去るなかで、藤田は最後までパリに残った日本人のひとりでした。イコンのような母子像や清らかな少女の絵が並ぶ展示室4は、教会をイメージしています。終戦後フランスに戻った藤田は、パリの風景や近所に暮らす少女たちの絵を描きはじめました。ランス大聖堂でカトリックの洗礼をうけレオナール・フジタとなった後は、教会の建設に取り組みます。フレスコ画の制作やレリーフ、ステンドグラスのデザインまでを手掛けた「ランス平和の聖母礼拝堂」は、藤田80歳のときに完成しました。
ゆったりとしたソファを置いた展示室5は「安東邸を再現」したような空間になっています。猫や少女の絵が赤い壁いっぱいに展示され、ソファでくつろぎながら鑑賞できます。あえてキャプションをつけずに作品を並べることで、より親密に藤田の思いが伝わってくるようでした。軽井沢の美術館は冬季閉館する所が多いなか、同館は展示替え等をのぞき通年の開館を予定しています。今後は藤田の研究拠点としての役割を担いつつ、信州から世界へとつながる広域連携を進めていきたいと安東代表理事はいいます。
玄関ホールでは、シンボルツリーの山もみじがゲストを迎えます。壁・床の素材を内と外で揃え、まるでガラスの仕切りが無いように感じさせています。
軽井沢町追分エリア。敷地面積約600坪という広大な平地に建つ「M-Villa」は、家族・親族約20人全員が集まれる家として計画されました。建主のMご夫妻は年に数回、家族・親族が集まる会をひらいています。レンタル別荘や北海道のホテルなどを利用してきたものの、皆が落ち着いて豊かな時間を過ごせる場所は無かったそうです。
軽井沢では珍しい約600坪の平坦地をひと目で気に入ったMご夫妻は、ここに別荘を建てることを決断。その中心となるのは、大勢が一堂に集まれるリビング・ダイニングです。階段ホールの鉄骨製シースルー階段ごしに、ダイナミックな庭の景色が見えます。吹き抜けのホールは1、2階の通気にも役立ちます。
「シンプルかつ豊かな家にしたかった。軽井沢建築社ととことん話し合い、自分の思いを形にしてもらった」とご主人。構造にはSE工法を採用し、大きな窓から見える庭の樹々の先には、八ヶ岳連峰がそびえます。家のどこにいても軽井沢の自然を感じられ、内と外の境界をあいまいにしたつくりになっています。
2棟の建物を翼のようにつなげたプランで、向かって左は寝室などプライベートスペース。中央に玄関ホールと階段ホール。右側の棟に広いリビングダイニングがあり、窓を出来るだけ広くとっていることが分かります。デッキはつながっていて、外を歩いて行き来できます。
日本のホテルの洗面・バスに不満を感じていたMご夫妻は、主寝室はもちろん、ゲストルームにも快適なバスルームを設けました。「シャワールームを広くして座れるようにするなど、最大公約数ではなく、自分の望みを叶える自由度があることが別荘建築の良さ」とご主人はいいます。
「ライフスタイルに対する思いが随所に生きていて、別荘に行くというより家に帰るという気持ちになります」と奥様。新築当初から「ここが我が家」という気持ちになったそうです。大きな窓から得られる日射と床暖房によって、冬場でも本宅より暖かいくらいで「避寒地」としても利用されています。
心・体・思考の健康をデザインする
「12月は可能性の実現、開花、スタートの時」
と
11月は完結、手放し、終わりのエネルギーが流れる月。
っ
いったんここで、3月頃から続いていて来たことの区切りをつけるというタイミングでもあります。私たちはさまざまなことを自分の中に蓄積していて、うまく循環しているものは良いけれど、無意識に重荷やブレーキへと変換させている
て
ことも多いように思います。数日単位のことから、数年、数十年にも渡る思い込みや決めつけ、意外と多いかもしれません。
お
世界に流れるエネルギー通りのタイミングですべてがそのようにならなくても、意識的に行っていくことが大切だろうと思います。
き
とくに「手放す」ことは得ることよりも大変。「大きく変わる」ためにそれなりの覚悟も必要です。
の
写その11月の次にやってくる12月は、「可能性の実現」という『10』のエネルギーが流れます。不要なものを手放し足かせが外れると、休真&身も心も軽くなって遠くまで見通せるような感覚が沸いてきます。その先には自分自身の無限の可能性が広がり、それを実現するというエ文ネルギーに満ち溢れ、道が開いていきます。どんなことも可能性があり、「できない」「ムリ」「むずかしい」と思うことは、その思いこみを
取り除けば「できるかも」という前向きな意識に変化します。
み21大
時時吉師走の足音が聞こえるこの時期だからこそ、なんとなく漂う忙しい雰囲気に惑わされず、明るい世界をイメージしながら、可能性を信じて間朋実現へと進めてまいりましょう。終わりは始まりでもありますから、新しいことへ可能性を見出し、取り組んでみるのもおすすめです。
間目子
ヘルスリテラシー
「ヘルスリテラシー」という言葉、昨今よく見聞きするようになりました。いつ頃からこの言葉が使われるよ
うになったのか?1990年代からだそうです。その後 2012年に再定義され日本でも広まってきたようです。
そして、コロナ禍において、誰もが健康に対して向き合う時間を持つようになり、さらには「人生100年時代」
という言葉も、人生の合言葉のように身近なワードとなってきました。
私はヨガを学び始めてから、特に女性の体についての学びを続け、2019年に「メノポーズカウンセラー」という資格を取得しました。資格が目標というよりも、女性の体、特に骨盤底筋にまつわる仕組みを学び、体全体の仕組みを学ぶうち、より深く学ぶためにたどり着いた分野がメノポーズ(更年期)カウンセラーでした。
学ぶ領域は医療、心理の分野など多岐に渡り、分野外の私が取り組むにはハードルが高いと思いながらも、自分自身がメノポーズにかかるまでに数年間あるということもあり、長期的に学んでいくと決め、今も定期的に勉強会や学術集会に参加しています。
先日、今年で 21回目となる「日本更年期と加齢のヘルスケア学会」が主催する学術集会が開催されました。オンライン開催で、各セッション限られた時間の中、先生方の発表を聞くだけで時間いっぱいとはなりつつも、毎年違う角度からの議題が登場し、多くの学びと刺激があります。そして、中には参加型の時間もあり、私は「ヘルスリテラシー」に関するテーブルに参加しました。議題は「日本人のヘルスリテラシーはなぜ低いのか?」について。
2022年に公開された情報で「国別ヘルスリテラシーの平均点」というデータがあります。15か国の数字が並ぶ中 37.1点のオランダを筆頭にアイルランド、ドイツと続き、日本はといえば、なんと25.3点という最下位です。しかも、下から 2番目のベトナムとは 4ポイント以上も差がついているという状況。さらに、運動習慣のある人口割合などの数字においても、お隣の国中国との比較では、日本はその半分以下という、どうみても低い数字が出ています。
ヘルスリテラシーについては、日頃周囲を眺めていても、十分ではないのだとは感じていました。
「運動はした方がいいですか?」「野菜って食べた方がいいんですか?」「お水は飲んだ方がいいですか?」「汗はほとんどかかないです」「寝つきが悪いです。(寝る前までスマホを見ています)」「更年期っていつなの?」など、これらは実際にお会いした方々から聞いた言葉です。うーん、そうなのか・・・・・ と驚くこともしばしばあります。
私自身、健康のために良かれと思いやり続けていることでも、あれ?と思いなおすことがあります。その時にはいくつかの情報を見比べ、自分にとっての最適な情報を見つけるよう努めます。今の時代、日々新しい情報がアップされ、それらを簡単に得ることができますから本当に有難いことです。信頼できる情報は自分にインプットしたら身近な人に事あるごとにシェアしていく、これは私のルーティンにもなっています。これまでの常識が常識ではなくなることもずいぶんと増えているのだと感じます。
「ヘルスリテラシー」というと身体的な部分を思い浮かべますが、ヘルスリテラシーの高い人は、健康的な行動習慣を確立しているだけでなく、仕事のストレスの対処においても積極的に問題解決をしたり、他者からのサポートを求めることができるということも報告されているそうです。
12月は始めるタイミングとしてもいい時期です。忙しない時だからこそ、資本である自分自身の身体、健康を後回しにせず、アクティブとリラックスのバランスを保ちながら、できるかぎりヘルシーに2023年を駆け抜けていきましょう。
1961年、江戸時代に作られた農業用水「鷲穴用水」の水を引き込み地元住民によって人造湖「塩沢湖」が造成され、冬場のスケートリンクとして使われました。1971年には「塩沢遊園」が開園し、1983年「塩沢湖レイクランド」に改称。1996年には旧軽井沢銀座から移築された旧軽井沢郵便局舎が「深沢紅子野の花美術館(明治四十四年館)」として開館し、名称が「軽井沢タリアセン」になります。中央ゲートの向かい側に建つ「軽井沢高原文庫」(コラージ2023年6月号で紹介)も、軽井沢タリアセンの施設です。
国の重要文化財となったアントニン・レーモンドの名作
ペイネ美術館軽井沢・夏の家
アントニン・レーモンドが「私のデザインの上で新時代を画す建物」といった名作「夏の家」が、ペイネ美術館として保存・公開されています。今年9月、レーモンド作品としては初めて国の重要文化財に指定され、11月23日までスケルトンの状態で邸内を見せる特別公開が行われました。1888年ボヘミヤ(現在のチェコ)で生まれ建築を学んだアントニンは22歳の時アメリカに渡ると、妻ノエミの紹介でフランク・ロイド・ライトの事務所に入所。帝国ホテル建設のためライトと共に1919年来日します。日本を気に入ったアントニンは日本に残り、関東大震災後の建設ラッシュによって大使館や外資系企業のビル、資産家の邸宅を多く手掛けました。▼屋根の鉄板にはカラマツの枝を載せていました。
「夏の家」は1933年、軽井沢の南ヶ丘、軽井沢ゴルフクラブに隣接するゆるやかな斜面にアントニンのアトリエ兼別邸として建てられました。斜面の高低差を吸収するため最大高さ1.8mもある擁壁のようなコンクリート基礎の上に建ち、外壁は杉板の下見板張りで、鉄板の屋根には日射や雨音を緩和するカラマツの枝を葺いていました。また窓にはスダレを垂らしていたため、竣工当時は全体が箕(ミノ)をかぶったように見えます。バタフライ型の屋根によってリビング奥に背の高い大開口を生み出し、窓の向こうには浅間山の勇姿が見られたようです。
アントニンがコルビジュエの案を気に入ったのは、バラフライ屋根の傾斜にあわせたスロープやダイナミックな暖炉の構成だったといわれます。コンクリート製の暖炉には、敷地からとれた浅間石の骨材が使われていました。
「夏の家」を計画したきっかけは、東京の富裕層からの別荘の依頼が増えた事でした。この頃アントニンは日本の木構造を取り入れ、風土に根ざした建築を模索することで、師であるライトからの脱却を目指していました。そこでコルビジュエの発表したメゾン・ド・エラツリスのバタフライ屋根の建物を、コンクリートではなく木造で実現することを試みました。結局コルビジュエのエラツリス邸は実現しませんでしたが、それとそっくりな「夏の家」が建築雑誌『アーキテクチュラル・レコード』で発表され、怒ったコルビジュエからアントニンに質問状が届いたそうです。やがて2人は和解し、コルビジュエは「私達の考え方を巧みに実現してくれて喜ばしい」と「夏の家」を評価する言葉を残しています。広いリビングにはバラフライ屋根の勾配にあわせた2つ折のスロープがあり、2階にはロフト型のアトリエがあります。ここで吉村順三、前川國男などの所員が、窓からの自然光をたよりに設計作業をしたそうです。腰壁の上には襖が使われ、さりげなく和の雰囲気を取り入れています。レーモンド設計事務所は軽井沢に20軒ほどの別荘や教会を設計したと言われます。柱や梁は丸太の皮を剥いだままで、柱は栗材、梁は杉材を使っています。このような丸太の木造軸組工法は簡素に見えますが、丸太と角材の収まりを現場で調整するなど大工の力量が問われます。そのため日光東照宮の宮大工が工事に参加しました。この後に建てられた軽井沢聖パウロカトリック教会にも「夏の家」の手法と宮大工の技術が活かされています。
家具、照明、テキスタイルなどは、アントニンの妻・ノエミの作品です。レーモンド事務所では、建築はアントニン、インテリアはノエミと仕事分担が決まっていて、スタッフも別だったそうです。それでも建築・インテリアの調和がとれるのは、夫婦ゆえの技でしょうか。哲学者ジャン・ジャック・ルソーの血をひくノエミ夫人は1889年フランスに生まれ、母に連れられてニューヨークに渡ると、コロンビア大学やパリでアートを学び21歳の頃グラフィックデザイン事務所をひらきます。アントニンとの出会いは1914年、イタリア旅行から戻るサンジョバンニ号の船上でした。交際わずか4カ月で結婚式をあげ、88歳でアントニンが亡くなるまでの60年余年を添い遂げました。
移築後の受付部分にはキッチンがあり、その奥には8畳ほどの寝室が並び、浴室、倉庫のほか、小さなプールも設けられていました。第二次世界大戦時、アントニンは「夏の家」を売却してアメリカに退去します。その後は企業の施設となりますが、戦後日本に戻ったアントニンは家族の思い出が詰まった家を手放したことを後悔したようです。老朽化のため1984年に建て替えが決まり、取り壊しを惜しむ声が上がったことから解体を1年延ばし日本大学理工学部近江栄教授によって建物調査が行われました。そんななか1985年9月19日の信濃毎日新聞には「塩沢湖レイクランドが建物を保存したいと、解体・移築の方向で話を進めている」と報道されます。報道は翌年実現し、フランス人画家レイモン・ペイネの美術館としてオープンしました。
参考文献
■ レーモンド夏の家(現ペイネ美術館) 谷村秀彦著 ■ 日経アーキテクチュア1984年8月13日号
有名建築その後 軽井沢夏の家 村田真著 ■ 住総研 研究論文集No.43, 2016年版 アントニン&ノエミ・レーモンドのトータルデザイン 主査 鈴木敏彦、委員 飯田昂平、北澤興一、杉原有紀、齋藤さだむ
リビングのガラス窓には、アントニンが得意とした柱の「芯外し」が採用され、窓や雨戸を壁に引き込んで全面開口できます。ここで実現された木組みの構造や大きなスロープ、内外の境界をなくした窓の大開口などは、吉村順三、前川國男をはじめとする元所員たちの作品に反映され、現在の住宅建築にも影響を与え続けています。木造モダニズム建築のルーツとしての存在価値が、国の重要文化財指定につながったのでしょう。いま当たり前のように享受している日本の建築スタイルが、先人たちの挑戦により築かれたことに気付かされます。
文人も利用した旧軽井沢郵便局を移築
深沢紅子野の花美術館 明治四十四年館
明治四十四年館は、旧軽井沢銀座のシンボル的な建物だった郵便局舎を移築した美術館です。明治44年、軽井沢駅の改修を担った鉄道大工の甲田良吉によって建てられ、室生犀星や川端康成、堀辰雄などの文人が、手紙や原稿を送るため通ったといわれます。1971年から1995年までは軽井沢観光会館としても使われました。洋画家の深沢紅子、省三夫妻が、20年以上にわたり堀辰雄山荘(軽井沢高原文庫に移築)を夏のアトリエとして多くの高原の花を描いたことから、2階は「深沢紅子野の花美術館」として公開されています。
軽井沢の別荘を代表するヴォーリズ作品
睡鳩荘旧朝吹山荘
滋賀の近江八幡を拠点とし、主に関西で活躍したウィリアム・メレル・ヴォーリズが、軽井沢の別荘を手掛けたのは明治44年、愛宕山中腹のグレジット・ハウスといわれます。翌年には自身の別荘兼設計事務所を軽井沢に開業し、昭和17年までの31年間で別荘46棟のほか幼稚園や教会、集会場、テニスクラブ、サナトリウムなど多くの建物を手掛けました。なかでも旧軽井沢にあった睡鳩荘(すいきゅうそう)は、軽井沢テニスクラブに並ぶ代表作といわれます。2008年軽井沢タリアセンに移築され、湖畔に佇む情景が広まるとたちまち人気スポットになりました。
軽井沢タリアセンは2024年1月9日から3月中頃まで冬季
休館予定です。休館日はホームページでご確認ください。
睡鳩荘(旧朝吹山荘)は、昭和6年、帝国生命や三越の社長をつとめた朝吹常吉氏の別荘として建てられ、長女でありフランス文学者の朝吹登水子氏に引き継がれました。登水子氏によると「睡鳩荘」の名のゆえんは益田孝氏(鈍翁)が中国・睡鳩の掛け軸を所望し、その代金で建てたからとのことです。1階サロンは5人兄弟が夏休みをすごした楽しい場所でした。大きな籐椅子はフィリピン製で、カーテンはフランスで登水子氏が見立てたもの、赤い絨毯はフランスの外交官から譲り受けたもの。大きな暖炉は湿気を飛ばすため真夏にも使ったそうです。
Vol.53
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
ながい ながい時間と距離をこえて舞いおりた きみ
▲ イタリアで3年がかりで作られた鍛鉄製の門扉が完成。
真鶴オリーブ園4回目の収穫祭が、9月27日に行われました。夏場の高温によりオリーブの生長が良く、昨年にくらべ1週間ほど早めの収穫です。朝10時、園主・牛山喜晴さんのあいさつから始まり、約30名のメンバーが広い園内に散りました。
昨年に比べ数倍のオリーブの実が枝についていて「穫っても穫っても穫りきれない」と歓声があがりました。一個一個をプチプチっと手で摘んで、大切にカゴに入れていきます。高い枝にもなっているので、ハシゴを使って注意深く収穫します。
少し汗ばむ位の秋空のもと、オリーブの収穫が進んでいきます。開園時に植えた樹々が大きく生長し、オリーブの並木道が形づくられました。お昼になり、ランチ休憩をとります。シャンパンで乾杯してから、地元の食材を生かしたお弁当に舌鼓。汗を流したあとのご飯は本当に美味しいです。
収穫したオリーブの実は、計量ののち水洗いをして、葉っぱやゴミ、傷んだ実を丁寧に取り除きます。今年は前年の3倍近い130kg以上がすでに穫れたため、早めに収穫を切り上げて、実の選別作業を進めることにしました。
沢山の実の選別に予想以上の時間がかかり、デッキに出て身体を伸ばします。今年は初めてオリーブのワイン漬けを試しました。オリーブの種を1つづつ地道に抜いてからワインに漬けると半年〜1年ほどで食べられるようになります。他は例年どおり新漬けにされました。アルカリ溶液で酸性のアク(ボリフェノール)を中和し、10日以上かけてこまめに水を替えアクを抜いてから、薄い塩水につけます。牛山園主は、ほぼ徹夜になるこの作業を20年以上続けてきました。10月27日に行われた2回目の収穫では63kgとれ、今年の収穫量は約200kgとなりました。2回目のオリーブの実からは、念願のオリーブオイルが絞られ約3kgのオイルとなりました(搾油率5%)。瓶詰めした新漬けも沢山でき、会員に配られました。真鶴の春の名物となった真鶴の岩牡蠣「鶴宝」につづく新たな真鶴ブランドを目指して、オリーブ園はさらなる進化を続けます。
Japan MobilityShow2023の一日
1954年に始まり、2019年第46回まで開催された「東京モーターショー」は、2021年コロナ禍による中止をへて2023年10月「Japan MobilityShow」として再スタートしました。東京ビッグサイト全館を使い10月26日(木)〜11月5日(日)まで開催され、目標の100万人を超える111万人以上が来場しました。開場初日のプレスデー(10月25日)の様子をお届けしながら、モーターショーとくらべ何が変わったのかを見ていきたいと思います。
東京ビッグサイトには、東館、西館、南館があります。全体の印象としては、自動車メーカー主体の従来型モーターショーは東館、Tokyo FutureTourなど新機軸を示した西館、キッザニアやトミカコーナーなど家族で楽しめるスポットは南館という配置でした。まず向かったのは「モビリティーが変える未来の東京」を提案するというTokyo Future Tour。暗い入口を入ると巨大シアタースペース「 ImmersiveTheater」が来場者を出迎え、ゴジラに襲われた東京の街を救うレスキューの活躍が投影され、大音響と光の演出・・・・・。▼西館の「Personal MobilityRide」ではホンダ
ONE」や電動キックボードなどを体験。UN I-ONEは体重移動だけで方向転換でき両手があくため、警備や清掃はじめ誰もがバリアなく移動できる未来を目指しています。
Tokyo FutureTourには、LIFE、EMERGENCY、PLAY、FOODの4つのコーナーがあります。LIFE&MOBILITYのコーナーでは、様々なパーソナルモビリティに溢れた世界観を、ラッパーのサウンドにのせてショー形式で展開。歩行と同じスピード感覚で動く小型の乗り物によって、仲間とのコミュニケーションや高齢者の暮らし、観光地の楽しみ方が変化する近未来をプレゼンしました。唐傘を乗せた和風モビリティは、トヨタ自動車で開発中の「&bre lla」。散策のスタイルが大き変わりそうです。
-Iの着座型モビリティ「UN
▼月の砂は細かく鋭利なため、月面で活動した後は、エアシャワーで宇宙服の砂をよく落とします。
水の発見によって開発熱が高まる月面に向け、トヨタ自動車が開発中の「ルナクルーザー」実物大モデルが出展されました。中に入って椅子に座ることもでき、操縦レバーで月面走行を体験。実際の月面でも外はモニター投影され、運転感覚はほぼ同じようです。2名が最大1カ月過ごす居住空間を兼ねるため、睡眠、休息、食事、シャワー、排泄、プライバシーの確保なども考え抜かれています。エネルギーは太陽光を利用した再生型燃料電池で作られ、汗や排泄物、呼気などを全て回収し再利用するそうです。
FOOD&Mobilityのコーナーで話題となった転送食ケーキ。ByteBites社の「Mimetic FoodSystem」は、素材の調合、調味、出力を一台で行う3Dフードプリンターで、今回はショートケーキやモンブランなど6種類のケーキを作り来場者に提供しました。食品の3Dプリンターはフードロスを減らすことはもちろん、食材の輸送、保存にかかるエネルギーの削減も期待されます。そのほか山形大学工学部SWELの寿司ネタを作るフードプリンターや、水素でコーヒー豆を焙煎したUCCのコーナーがありました。
水素社会に向けての動きが加速するなか、デンソーはブランコを漕いで水素を発生する装置をデモンストレーション。ブランコの動きで発電して、水を電気分解して水素をつくります。将来は太陽電池の電力から水素をつくる装置が各所に設置され、自然エネルギーの安定供給に貢献すると考えられます。川崎重工は、新型の液化水素運搬船用タンクを積んだ水素輸送船を発表。JR東日本が試験運転を行なっている水素ハイブリッド電車FV-E991系「HYBARI」も展示されました。
▲トヨタ紡織の燃料電池アシスト自転車は、安全性の高い水素吸蔵合金タンクを採用。システムは車椅子にも応用できるそうです。
ホンダは水素を燃料とした次世代燃料電池システムを発表。コストは3分の1、耐久性を2倍に延ばすことに成功し、これを搭載した「CR-VFCEV」の発売を予定しています。またホンダはカーボンニュートラルが難しいとされてきた長距離輸送トラックへの燃料電池利用を目指していて、いすゞと共同開発中の大型トラック「GIGA FUELCELL」をいすゞブースに展示しました。これはホンダクラリティ向けの燃料電池を5基搭載したといいます。豊田自動織機からも汎用型の小型燃料電池モジュールが展示され、トヨタ紡織では超小型の燃料電池システムを搭載したアシスト自転車が公開されるなど、今後は自動車以外にも様々な場所で、燃料電池が活用される未来が見えてきました。
GIGA FUEL CELL。
ホンダのFCVクラリティを愛用する小林清泰さん。MobilityShowの帰りに水素ステーションに寄ったところ、後ろからFC路線バスが給水素に来たそうです。
空間デザイナーが見た Mobility Show 談話と写真:小林清泰(KENOS代表)
今回印象的だったのは、水素のプライオリティが上がったことでした。日本の産業全体として水素社会を目指す姿勢が、展示から見えてきました。モーターショーからモビリティショーに変わったことで、自動車のスタイリングだけではなく、社会性に重点が置かれ始めたと感じます。その一方、ニュース報道が未だコンセプトカーの紹介に終始していることが気になります。水素社会のことなど、社会性をもった報道が増えるてくれると嬉しい。中国の電気自動車(EV)が本気でブースをだしてきて脅威を感じましたが、急速充電可能な「全固体電池」を日本が開発すれば、世界をリードできると期待しています。ソニーとホンダが共同開発したEV「AFEELA」はユニークな試みでしが、展示が目立たなく残念でした。ホンダはビジネスジェット、燃料電池、自動運転タクシーと、先端技術では他社を引き離していると感じました。
2026年お台場での実用化が予定されている「レベル4」の自動運転タクシーのほか、新型ビジネスジェット「エシュロン」。電動垂直離着陸機「eVTOL」など惜しみなく展示したホンダ。親子連れに大人気の「 Out of KidZania 」。子どもたちが働く街をテーマに、トヨタ、日産、マツダ、スバルなど、色々な職業体験施設が並びました。マツダはエンジンの鋳造体験として、原型から砂型をとり、錫を流し込んでメダルを作る砂型鋳造を体験。トヨタは試作車を作るため、板金の匠が金属板をハンマーで叩いてパーツを作る工程を体験。日産はスカイラインGTRのエンジンを作る匠たちが、ボルトの締付けトルクを確認しながら進める微妙なテクニックを伝授。スバルはレーシングメカニックの指導でタイヤ交換といった、大人も興奮しそうなプログラムで、超青田買いのリクルート活動かと思いました。
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