Colla:J コラージ 時空に描く美意識

トルコ・シリアでの救援活動を支援する 〈赤十字2023年トルコ・シリア地震救援金〉 にご協力願います。

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旧軽井沢の閑静な別荘地に建つT-Villaは、3世代家族のために設計されました。 軽井沢の自然と樹々を愛してきたオーナーの願いは、もともとあった庭木を出来るだけ伐らないことでした。エントランスの庇に開口を設け、既存のホウの木をそのまま生かしています。エントランスの屋根を低くおさえることで道路から見える建物のボリュームを小さくして、周辺環境にも配慮しています。 エントランスに入ると、右手にオーナーの個室につづくスロープがあり、左手に玄関があります。玄関ホールには、オーナーのご自宅にあった照明器具やステンドグラス引き戸が再利用され、ベンチの背には欄間がはめ込まれていました。 緑豊かな庭を眺める天井の高いリビングには、オーナー一家が大切に使ってきた家具が置かれ、団欒のひとときをゆったり過ごする空間になっています。この別荘のテーマのひとつが、オーナーがかつて暮らしていた、大阪近郊の洋館を継承することでした。洋館のステンドグラス、シャンデリア、家具、暖炉などを軽井沢に運び込み、それらを活かす住宅設計が軽井沢建築社によって行われました。歴史あるマテリアルを受け入れ活かすため、現代的な住宅でありながら、太い梁などボリューム感のある素材をや自然素材を多用して空間を構成しています。3世代家族が気兼ねなく過ごせるようにと、庭を中心に3つのプライベートルームが配置されています。母屋の向かいには若夫婦の離れがあり、窓からは庭越しに母屋が見え適度な繋がりを感じます。母屋と離れは渡り廊下で繋がっています。 洋館から運んだステンドグラスや照明器具などが随所に使われています。いずれもかけがえのない思い出の品で、運搬や施工には細心の注意をはらったと軽井沢建築社の関泰良さん。外部に面したステンドグラスは、サッシュと2重構造にして装飾性と機能性を両立させました。暖炉風の薪ストーブには、木製のマントルピースを再利用しています。 2階のプライベートルーム手前のホールにはカウチが置かれ、1階リビングの様子を感じながら読書などくつろぎの時間を過ごせます。プライベートルームの窓からも庭の緑を楽しめます。 1階のバスルーム。入り口にはステンドグラスをあしらっています。角度をつけて部屋を配置したプランのため、構造計算は3棟に分けて行ったと関さん。それぞれが耐震等級3を確保しながら、全体としても耐震性の高い構造になっています。 とっておきの休み時間17時間目写真・文 大吉朋子 8月は「6」のエネルギーが流れます。「6」は心の数字。 心で感じる、心を動かす、心を開く、癒し、優しさ、美しいもの、好きなことをする、家や家族、心の内面に目を向ける、心を決める。 「6」はこのようなエネルギーを表します。 7月はどのように過ごされたでしょうか。湿度の高い日本の夏、アクティブにいきたいと思いながら、体の重さやだるさを感じることも多い時です。それでも、世界はどんどん動いているからこそ自分もそのエネルギーに巻き込まれ、多忙な日々を送っていたであろう7月。 そのあとにやってくる8月は、7月によく出歩いて動いた分、少し落ち着いて、心の動きを感じ取り、自分の気持ちを大事にし、心を決めるようなタイミングでもあります。 「心のエネルギーはやさしくてパワフルです。」 今回は8月のエネルギーでもある「6」や「心」について眺めてみました。 「6」とは先に書いた通り「心」を表す数字です。とはいえ「心」の存在や実態というのは、体のように動かしたり休めたりという様子が、わかるようでわかりにくいものだとも思います。美しいものや芸術的なものを見たり感じたりすることで、感動や感銘を受ける。そのことにより、私たちは自分の心が動くことを感覚的に理解しているように思いますし、日常から少し離れてリフレッシュすることで、心が休まるような感覚、気持ちがやさしくなる感覚を覚えるのだと思います。 ヨガ数秘学でみる「6」=「心」のエネルギーは、優しく、柔らかく、ゆったり、まったりとした癒しのエネルギーそのものとも捉えますが、その心をひとたび決めて心のエネルギーを集中させると、とてつもないパワーを生み出すのだとも伝えられています。6の数字の形をみると下の方が丸く大きいですが、これは妊婦さんのエネルギーを表してもいて、まさに自分以外の命も携え、自分自身以上のエネルギーで生きているとてもパワフルな存在であるということ。柔らかなやさしさだけでなく、そのような大きな力も内包しているエネルギーでもあります。 とはいうものの、仕事やビジネスの世界であると、こういった "やさしいエネルギー "というのは、ともすると後回しになる傾向がまだまだ多いのではないか、と思うこともあります。どちらかと言えば、行動力や闘争心、頑張るといった力強さが目に見える方が目立ったり、評価を得やすかったりということもあるかもしれません。前号では私の心の体験を少し書いたのですが、それは「心が疲れている」「心をいやす」という形のない、なんとなくこれまで避けてきた感覚や現象を実体験した時間でもありました。それらの言葉はわかるけれど、よくわからない、という感じで、まさしく自分の中では後回しにしていたことだったと思います。 心は目に見えるものではないからこそ、放っておくといつのまにか、自分の意思とは反する状態に至ることがあります。"放っておく "とは、自分の心で感じているものを見て見ぬふりをしたり、強がってみたり、無理やり何かの物事に紐づけて処理してみたり、ただその感情を抱えたままにしている、といったことなどでしょうか。放っておかれた感情は上手く解放していかないと徐々に蓄積し膨れていきます。そして、いつしか感情の袋はパンパンになり、少しづつ亀裂が入りはじめます。その小さな亀裂から感情のエネルギーが漏れ出し、しだいに漏れ出す量が増えていき、亀裂は広がり、ついには袋全体が破れ、一気にこわれてしまう。さまざまな感情を解放できず、心が疲れ、行き過ぎる様子を眺めるとこんなイメージがあります。 8月は心を動かしたい時であり、思いや気持ちを大事にする癒しの時でもあります。心が健全であればあ は、 "パワフル "このるほど、自分の内側が充実していき、とてもパワフルなエネルギーを生み出していきます。 "強さ "とも違う、とてつもない大きなエネルギーです。自分の心に目を向けて、強がるばかりでなく時には弱音だって吐いたらいい。心をオープンにして、自分の思いや気持ちを解放する。自分のためにその時間を持つことを自分に許すことも必要かもしれません。 暑い8月は体を休めつつ、美しいものを見たり感じたりして心を充実させる、やさしい時間となりますように。 ドラゴンシリーズ 105 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 孤独 孤独と絶望を感じることがある。普段の日常の中で、私達の人生は終わりのないような永遠に続く延々とした時間のような感覚の中で過ごしているが、日々の自然災害や多くの病気や突然の出来事によって、思考する暇も無く目の 20 80 前に終わりが訪れる。日常とはそのような儚いものだ。 そのような何の罪も失敗も無いところに、突然終わりは訪れる。遠くの国から飛んでくるミサイルの制御に狂いが生じる時もあるかもしれないし、隣の国から戦闘員が攻め込んでくることがこれから起こるかもしれない。 実際に世界各地では今でも何も知らされていない人々が戦闘員となって、何のためか誰のためかも意識することができない中で平和だ 15った家庭に突然の侵略が行われ、恨みが恨みを生み出す。そのような悲劇が繰り返されていると言う現実が存在する。 しかし日本の多くの人々はそんなことは戯言だと笑い飛ばすことだろう。それも自分たちの場所しか見えていない私達にはしょーがないことだと思うが、せめて私達がどれだけ世間知らずであるのかだけの自覚くらいは持った方が良いような気がする。多分、その事実を捉えることさえも私達には永遠に難しいようだ。 私達の日常の生活は平和である。しかし、この平和な日常は私達の歴史のルーツを遡ると一瞬であることも理解しなければならない。私が誕生するわずか年前まで、今から年前に私達の日本はアメリカや世界の大国と国民を交え歳前後の若者に弾薬を抱かせ、勝ち目の無い相手に命ごと向かわせる無謀な戦いを行なっていた。数十年の歳月の中で表面的な技術や流行は変化したが、人間の本質は何も変わらない。 20 私達日本人の根底にも、1940年代と同じ血と精神の危険が流れていることをはっきりと自覚することが必要だろう。そのような基本的な事実を明確に自覚して、現在の平和で緩み尽くした社会の平穏な日常が存在していることを見ると、この平和はなんとも不安定なものであるかが分かる。 僕自身はどこにいても、何をしていても、仕事をしていても、友人や家族との楽しい時間の中にも根本的な孤独を感じる。どのような環境や立場の人間であれ人間は誰しも孤独な存在である。 人は誰しももう一人の自分自身との対話をして生きている。僕には時々、他の誰かの声が聞こえることがあるが、その恐怖は言葉にすることができない。 1 何のために生きているのか。そしてその生きると言う意味はどこにあるのか。その自身との問いは時間に終わりが訪れるまで延々に続くのだろう。迷い、悩み、苦しみ、そして立ち止まり考え、そしてまたゆっくりと一歩を前に進める。直線の道などは存在しない複雑に絡み合った迷路のような幾つもの道を行ったり来たりしながら流離うのが私達の時間、目的地がどこなのかなど分かるはずもない。それでも僕らは前に進むしかない。 代の若い時に孤独な時間を過ごした。孤独は美しい時間だ。 生き場所の当てもなく、毎日のように街を彷徨った時間、そして何の武器も持たずに目的地も無く、ただひたすらに眠り、そして本を読み、空想に浸り、街を彷徨いながら、どこにでも横になり眠り、全てを諦めていた時間に対話した自分自身はまだ自分の中に生きている。 また、全てをゼロから始めようと思う。 軽井沢現代美術館 2008年、離山の高台にオープンした軽井沢現代美術館。緑にあふれた環境のなか、日本人アーティストの作品を中心に毎年春〜秋にかけて展覧会を開催しています。 今年は4月27日〜11月23日まで「海を渡った画家たち」をテーマに、靉嘔、荒川修作、オノ・ヨーコ、川俣正、草間彌生、塩見允枝子、田中敦子、奈良美智、名和晃平、宮脇愛子、ロッカクアヤコ(敬称略)などの作品を常設展示。そのほか企画展「倉俣史朗展カイエ」、津上みゆき展「View-時の景」を開催中です。 「倉俣史朗展 カイエ」では、デザイナー倉俣史朗さんの椅子How High theMoon、キャビネットCabinet deCuriosit.をはじめ、アクリル製のフラワベースや、倉俣さんのスケッチをもとにしたシルクスクリーン作品集「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」1、2、3集が展示されています。 《68.ミス ブランチ(1988)》《52.ハウ ハイ ザ ムーン(1986)》《78.香水瓶(1990)》 倉俣史朗さんの遺したスケッチを、倉俣美恵子夫人、植田実さんの監修によるシルクスクリーン作品としたのが「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」です。素晴らしいアート作品であると共に、倉俣作品誕生のプロセスを感じさせる、貴重な資料ともなっていてます。現在は1集10点、2集10点、3集10点が刊行されています。刷師:石田了一発行:ときの忘れもの 《153.フロア照明スタンド、フロア照明スタンドと花瓶》 《174.1986年2月18日の夢日記より(1986)》 ト作品の普及につとめながら、まだ無名の若手作家の作品を積極的にコレクションしてきたそうです(現在、海画廊はすずらん通り冨山房ビルに移転)。そのコレクションをひろく公開したいと30年以上、鎌倉や箱根などで美術館の場所をさがした末に、たどり着いたのが軽井沢の地でした。離山の小高い場所にたつ建物は、企業の保養所でした。壁・天井を撤去することで生まれた広大なスペースは、緑あふれる景色を取り込み、天井の高い現代アートにぴったりの空間となりました。今回は「海を渡った画家たち」というテーマが設けられ、特に海外で評価の高い作家の作品が展示されました。海外では著名でも日本では評価されていなかった作家も大勢いて、谷川憲正さんは、そうした作家たちを日本人にもっと知って欲しいと願っていたそうです。もうひとつのテーマに「境界を超える」があります。倉俣史朗さんは家具、プロダクト、空間と様々なものを創造しアートとデザインの境界を超えた人物といえます。国の境、商業とアート、平面と立体など、様々な「境界を超える」ことをテーマとしたそうです。2階のアートギャラリーでは、村上隆さん。奈良美智さん、宮脇愛子さんの作品などが、比較的手頃な価格で販売されていました。「絵を買ったことがない人に、絵を所有する喜びをしって欲しい」というのが谷川憲正さんの願いだったそうです。15年前の開館当時は、草間彌生さんはじめ現代作家の名前を全く知らない方が大半だったそうですが、今は作家名がだいぶ浸透してきたようです。 《 川俣正 袋井駅プロジェクト(1988)》 創設者谷川憲正さんが作品収集に込めた魂が、空間から伝わってくるようでした。それを継承した谷川美奈子さんは、この場所を大切にしていきたいといいます。軽井沢に行った際は、必ず立ち寄りたい場所のひとつと感じました。 古くから、サフランの花を摘み、さらにその柱頭(しべ)を摘 み取るのは、女性と子供の役割とされてきた。そっと花を摘み取り、花びらからその細いしべを、さらに優しくつまみ取る。こん棒を振り回すゴツイ男の大きな手には向かない仕事だ。「古くから」って、いったい、いつ頃から?確実に時代を限定できる証拠が残っているもので、少なくとも今から3千6百年ほどの昔にまで、さかのぼることができる。画像1は、エーゲ海サントリーニ島の遺跡の壁に描かれたフレスコ画で、若き美女がサフランを摘む姿を描いたもの。ポンペイの遺跡同様、島で火山の大爆発(紀元前1600年頃)があり、一瞬にして火山灰の下に埋まってしまったため、往時の見事さが保たれたまま発掘されている。この美女は、今からおよそ3千6百年もの昔に、この島でサ フランの花を摘み取っていたのだ。 次に画像2をご覧頂きたい。淡い青色で尻尾が生えている動物。猿だ。こちらは、サントリーニ島から120キロほど離れた海上に浮かぶクレタ島北岸のクノッソス宮殿遺跡の壁画で、美女の壁画とほぼ同時代だ。猿のまわりにはクロッカス(後のサフランの原種)の花が咲き乱れていて、まるで猿が花々と戯れているかのように描かれている。クレタ島ではその昔「猿を調教し てサフランの花を摘み取らせていた」という伝説が残っているとのこと。その猿が淡い青色で描かれている。古代エジプトの伝説に登場する知恵の神トトの使者「青色の猿」のイメージが伝わったものと考えられている。もともとクレタ島には、猿は自生していない。従ってここに描かれている猿は、エジプトもしくは何らかの交易経路で、アフリカから運び込まれたものに違いない、という仮説が有力になりつつある。また、エジプトのピラミッド内部の絵には、様々な形でサフランが描かれている。 古代エジプト文明とエーゲ海のクレタ島周辺で栄えたミノア文 明。海上を直線で結べば、両者は約200 い猿とサフラン」という両者に共通する存在は、ふたつの古代文明間で、かなりの交流があったことの有力な証拠だ。両者の交流がいつ頃始まったのかは明らかになっていない。だが、少なくと 画像2 サフランと青い猿画像1 サフランを摘む美女 の距離になる。「青 k m も今から4千年以上前から両者の往来があった、と考えて間違いなさそうだ。東地中海からエーゲ海にかけての古代人たちは、我々の想像を遥かに超える活発さで、海を我がものとして動き回っていたのだ。 サントリーニの美女とクレタの青い猿。このふたつの壁画には、古代エーゲ海を代表する豊かな美を生み出した「ミノア文明」の魅力が溢れている。サフラン摘みの女の大きな耳飾りとビーズ状の腕輪。帽子と服は細かな小紋のような模様が散りばめられたエレガントな色調で大胆な意匠の組み合わせ。ウェーブの掛かった髪に目のお化粧も特徴的で、現代の目で見ても、そのお洒落度合いは半端じゃない。一方、猿は「左手」で優しくクロッカスの花を撫でるような仕草で、とても猿とは思えない優美な姿で描かれている。これが今からおよそ3千6百年前 17 18 なのだから、ただただ驚くばかりだ。 ロッカスで、後に品種改良されてサフランと呼ばれるものの原種であると推定されている。ここで画像3を御覧いただきたい。これまた見事な衣装に身を包んだ、美女と呼ぶにふさわしい女性が手を伸ばして足の指先を撫でるようにしている。専門家によれば、これで〜歳であったようで、しかし、この社会では「立派な大人の女性」だった。古代社会では現代の老人国家日本と比較して、年齢の進行が早く、女性は初潮を過ぎれば立派な大人として扱われた。この若き美女の足の指の下に、サフラン(クロッカス)が描かれている。これは、指の怪我の止血のためにサフロンが使われている場面を描いたものだ。当時サフラン(未だ天然 ところで、この2枚の絵に描かれた花は、これはまだクレタ島に天然自生のク 種のクロッカスの一種)は、「止血」の他にも、様々な薬効あるものとして珍重されていた。 こうした薬効のある種のクロッカスが育つ土地は限定されていたため、当時この種のクロッカスは、クレタ島からエジプトへの貴重な輸出品だった。青い猿のイメージはエジプトからクレタへと伝わったのもだが、クロッカス(サフランの原種)はその反対に、クレタからエジプトへと運ばれていたのだ。エジプトではこれが、医療と女性の美容の両面で珍重された。薬としては、眼病・月経不調・排尿不全・出産促進等で利用されている。また、クレオパトラが入浴したミルクの湯にはサフロンが投げ入れられていた、という。現代のインドの一部地域では、サフランを入れたミルクが好んで料理に使われていて、サフラン入りのミルクは料理素材として、一種の定番となっている。それを思えば、クレオパトラの話は、決して荒唐無稽な作り話というわけではなさそうだ。 画像 4:ネックレスをもつ女性画像 3: サフランで足の指を止血 サフランはユリ科のクロッカスの一種だ。だが、この暗赤色の長いしべを持つ フランと呼ばれるクロッカスの特別種」(画像)は、もともと自然界には存在しない。クロッカスの「しべ」に様々な薬効あり。それを知った古代人たちは、一生懸命「長いしべ」が採取できるクロッカスの品種を作り上げることに努力した。その品種改良には数百年を要したのではないだろうか。こうして人工種のサフランが誕生する。サフランは、人間の助力なしには増殖できない。人間の手で根茎の一部を切り分けて増殖させる。従って「天然サフランの群生地」などいうものは、存在しない。しかも、その生育に適した土地は、気候と土壌の条件から、現在で 5 もかなり限られる。 では、古代文明圏でサフランを利用したのは、エジプト文明とミノア文明圏だけだったのだろうか。決してそうではない。より古い時代、歴史上最も早い段階で都市文明が登場したメソポタミア(肥沃なる三日月地帯)では、クレタやエジプト以前にすでに、ミルラ(没薬)・イチジク・タマネギ・ニンニク・マスタードなどと並んでクロッカスが魔術的医療で薬として登場する。また、紀元前2000年頃成立するアッシリア王国では、このクロッカスのしべが、呼吸困難・頭痛・月経不調・排尿不全等への効能ありと考えられていた。 エーゲ海のミノア文明とは別に、古代ギリシア(本土)では、劇場など人の集まる場所で、サフランの水溶液を、一種の芳香水として撒く習慣があった。また、大医学者ヒポクラテス以降の医師たちは、角膜異常・白内障・目の痛みなど様々な眼病治療に、耳や歯の痛みに、また、皮膚の化膿にも、サフランを処方している。 現在世界一のサフラン生産量を誇るイラ ン(画像 6)。古代ペルシア時代に、クレタ島と並んで最も早い時期に、野生ではない品種改良されたサフランの使用が開始されている。たとえば芳香素材としてアロエや竜涎香と並んでサフランが使われている。また、祝典の際には、甘いお菓子や、様々な花と共に、サフランが撒かれたという。 非常に古い古代の文明圏でいかにサフランが大切な医薬品として利用されてきたか。これでご理解頂けたと思う。ただ、これまで述べてきたのはほぼすべて、古代ローマ帝国登場前の時代だ。ようやく歴史の入り口にさしかったところだ。サフランはこれからスパイスとして、さらに長い夢を見ることになる。次回は、その夢の続きを追いかけてみよう。 「サ 画像 6:世界一のサフラン生産国イラン。画像5:サフランの花 今月の茶道具 10 萩 焼 「一楽二萩三唐津」といわれるように、萩焼の茶碗はわび茶の世界で重用されてきました。萩焼には多様なバリエーションがあり、戦国時代から現在まで、山口(長州)の歴史と連動しています。室町時代の山口は、守護大名大内氏による明国、朝鮮との貿易によって繁栄しました。石見銀山の銀や硫黄、銅、刀剣、漆器などを輸出し、明銭(永楽通宝)、絹織物、茶道具を輸入。唐物の茶道具は高値で取引され、応仁の乱を逃れて京都からやってきた貴族、文化人たちによって大内文化と呼ばれる最高レベルの文化圏を形成しました。やがて毛利氏によって大内氏は滅ぼされ、豊臣政権下で毛利元就が中国地方一帯を支配します。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した元就は、萩焼の始祖となる李勺光、李敬を中心とした朝鮮陶工をあずかり、 萩井戸茶碗 十二代坂倉新兵衛 (1881-1960)  昭和31年国立工芸館収蔵 安芸の広島に窯を開かせました。やがて関ケ原の合戦に負けた毛利家が広島から萩に移封されると、陶工たちも萩に移り萩焼が興ります。当時は朝鮮式登り窯による高麗茶碗に似た茶碗が焼かれていたと考えられています。御用窯本窯として萩城下松本の「松本焼」、御用窯脇窯として深川村三ノ瀬(現・長門市)の「深川焼」があり、大道土と呼ばれる陶土を用いることで浸透性・保温性が高く、細かなヒビ(貫入)から入った水分が風合いを変化させ、侘びた味わいを醸しだすことが茶人たちに高く評価されました。明治になると荒廃していた山口市が復興し、そこに「山口萩」が生まれ、この3つを総称して萩焼と呼ぶようになります。大正期には深川焼十二代坂倉新兵衛が表千家に入門して伝来の名品を写し、萩焼のブランドイメージを確立しました。 第102回 から 19 「どうする家康」ー弾丸ツアーあれこれ 6月末「どうする家康」の宣伝に乗せられて、1泊2日の団体ツアーに参加した。駿府城、浜松城、岡崎城、久能山東照宮、日本平に加え、メロン狩りと、まさしく弾丸ツアー。一人旅では到底回りきれる場所ではない。どうなることやら・・・・と思いながら、松潤くんの大河ドラマ館も見て見たいと、かなりミーハーの ノリで参加を決めた。東京駅朝8時、旅行会社の旗の元に集合。総勢 とほとんどどっこいどっこいのご高齢者。添乗員の旗を頼りに団体改札を通過。久しぶりの朝の新幹線、ゆったり席で静岡まで。ここからは専用バスで駿府城へ。広大な敷地でなかなかお城までたどり着けない。バスの中でガイドさんがあれこれ説明してくれたが、その場所を探すのも容易ではない。8歳 た「竹千代手習いの間」が復元されていたが、人質とはいえ大事に育てられ、またよく勉学に励んでいたことがうかがえる。見学時間はたっぷりあったが、集合場所までかなりある。団体ツアーは時間厳守。お昼に本場のうなぎを味わえるというのも魅力の1つだったが、団体ゆえにゆっくりと味わう余裕はない。期待しただけにちょっと残念だった。まぁ、仕方ない。鰻屋の看板を後に浜松城へ。お城への道は当然ながら上り坂、さらに入り口は急な階段で、ただひたすらに黙って上がる。中は所狭しに、家康の金の鎧兜や調度品が並べられているが、天守閣まで登るのは容易ではない。足を上げるのも一苦労。あぁ次はもうないなぁと、一息ついて浜松市内をぐるっと見回し、下るときはより慎重に一段一段確かめながら足を下ろした。外へ出ると大勢の人がそびえ立つお城を背に写真を撮っている。みんなリュックを背に似たりよったりの格好なので、親しげに声をかけてくる人もいるが、同じ団体の人かどうかは、胸のバッチで確認する。 歳まで人質として過ごし 22 名、見渡す 同じようなプランで同じ時間帯で見学する団体ツアーが多い。旗を間違え ないように添乗員を探す。浜松城の後は、大河ドラマ館。等身大の松本潤 くんや、有村架純ちゃんがお出迎え。映像マッピングで遊んだ後は、お土 産コーナー。浜松城は出世城ともいわれているとか、まぁ、よくぞよくぞ、「どうする家康」グッズのオンパレード。添乗員が「お土産はこれと思っ た時が買い時、後で買っておけばと思ってもなかなかない」と言われれば、 どうしようかなぁと迷ったら買うしかない。ミーハー気分で遊んできたま ま財布の口も開いたまま。あれこれ楽しい買い物も久しぶりである。 浜名湖を望む宿にチェクインをすると、旅行支援クーポン券が配られた。 宿の売店には、交換できるお土産袋が用意されている。初めて使ったが、 上手にお金が落ちる仕組みにハメラレタ感も否めないが、まぁ目くじら立 てることもないと、スペシャルうなぎパイを買う。 翌日は8時出発、岡崎城を見学、竹千代の像と並んでツーショット。その後は蒲郡でメロン狩り。ベルトコンベアーに乗せられたような超スピードのメロン狩りだったが、大玉のメロンをゲット、大事に箱に入れてお持ち帰り。この後は一路静岡まで戻り、久能山東照宮へ。ロープウェイで下りた後は、ひたすら長い階段を登る。これ以上は無理と一旦はギブアップしたが、思い返してようやく家康のお墓に着いたときは、息も絶え絶え声も出なかった。初めての久能山東照宮。日光東照宮とは全く趣が違うが、来れて良かった。そのあとの日本平夢テラスは、目の前に日本平が一望できるテラスがあるが、もう階段は1段たりとも上がれない。駐車場からでも充分に眼下を見下ろせる。あいにく雲がかかって見渡すことはできなかったが、ここはまた来ることもできるだろうと思いながら、ベンチに座っている女性に「撮っていただけますか?」と携帯を渡すと日本人ではない。片言の日本語と身振りでポーズを指示する。「ありがとうございます。」と礼を行ってバスの中で確認すると、なんだかとてもスマートに撮れている。すごいカメラを持っていたので、ひょっとしたらプロのカメラマンだったかもしれない。自分でもたくさんの写真を撮ったが、最後の1枚、とっておきの記念写真になった。 コロナ明け、旅行パンフレットが次から次へと送られてくる。一人では行けないところもあるが、団体ツアーは凄まじい体力が必要とわかった。足腰鍛えてと思いながら、やっぱり旅はのんびり気分任せで行くのが性にあっている。弾丸ツアーの回復は丁度1週間、メロンの食べごろまでかかった。 新しい軽井沢の自然風景が生まれる造園 東信花木 自然に溶け込む造園を目指して 軽井沢で、ホテルや別荘の造園を50年にわたり手掛けてこられた株式会社東信花木。信濃追分駅から車で5分ほどの場所にある東信花木の圃場で、2代目の瓜生錦護(うりゅうきんご)さんに、軽井沢での庭造りを伺いました。「まずは自分たちが気持ちいい庭を造りたい」と瓜生さん。視線をコントロールしたり、日陰を作ったり、爽やかな風を呼び込んだりといった実用性を備えつつ、軽井沢の風景に溶け込んでいく造園を目指しているといいます。 零下10℃以下の冬を越すためには、軽井沢で苗から育てた木の方が枯れる確率が低く、特に常緑樹はモミ、トウヒ、サワラ、イチイ、ソヨゴなど針葉樹を中心に5種類ほどしか育たないそうです。 東信花木は、軽井沢に東京ドーム6個分ほどの広大な土地を保有し、自社で軽井沢の植生にあった樹木を育てています。この場所は畑で育った木を移植し、建築現場へ出荷するまでの期間をすごさせる圃場で、木の健康状態をチェックしたり、移植に耐えるかどうかを確認してから、適切な時期に現場へ移植するそうです。圃場を歩きながら好みの木を選んで購入・移植してもらうこともできます。「樹木は1本1本の良さではなく、組み合わせて考えると自然な情景になります」と瓜生さん。 木の枝ぶりには個性があり、どこから見てもきれいな木を揃えると不自然な庭になるそうです。2、3本の大木を中心として、木々に高低差をつけることで、背景に溶け込む情景が生まれます。 「建物の窓の位置や全体のプランを重視しながら造園計画を進めています」と瓜生さん。外観よりもリビングから見た景色を優先して樹木を植えていくそうです。隣家を木で隠して見えないようにして欲しいという要望に対しても、完全に隠したいのか、やわらかく見えない感じにしたいのかといった細かなことまでヒアリングします。完全に隠すと木々のバランスが崩れやすいので、手前に目立つ木を植えて意識をそらすなど、建主が満足する庭の姿を模索していきます。建設会社と協働して、工事前、建設中、完成後と、何度かに分けて造園することで、より豊かな庭になるようです。 ピンクの札がついた木は、行き先が決まり移植の時期を待っている状態です。 移植する前には木のまわりを深く掘って根切を行い、縄で根を巻いて移植に備えます。夏場の6〜8月は樹木の生長期で移植には適さないため、建設会社と協議して移植に適した時期に庭造りをすすめるよう調整するそうです。水をよく吸 つけると枯れてしまうことも。動物と変わらない「生き物」として木を扱えるかどうかが問われる仕事といいます。 5倍くらい重さになり、樹皮も傷つきやすくなります。木は幹と皮の間で水を吸うため、樹皮を大きく傷 .う夏場は通常の1 軽井沢の別荘地に多いのは、腐葉土の黒土が数十センチ堆積し、その下に浅間山に由来した軽石層がある水はけの悪い土壌です。根腐れを防ぐためには、土を盛り上げて植える必要があります。特に水が多い場所では、ヤチダモやハルニエなど水に強い木を植えます。例えば星野リゾートのハルニエテラスは湯川沿いにあり、もともとハルニエが多かったことから、この名がついたそうです。 軽石層より深く伸びることができない樹木の根は、浅い土の層におせんべい状に広がります。そのため大木になると風に弱く、近年は隣家に庭木が倒れるなどの事故も起こりやすくなっています。「軽井沢の姿も時代と共に変わっています。木にも寿命がありますから、100年以上経った大木をモミジなど広葉樹と植え変えていけば、新しい軽井沢の景色が生まれていくでしょう」と瓜生さん。完成時ではなく、10年、20年と手入れを続けるうちに良くなっていくのが、いい庭の条件とのことです。 人の手が入らないと、軽井沢の森は広葉樹のヤブ状態になるようです。 旧軽井沢モミジなど落葉樹に囲まれた二手橋は、11月頃になると美しい紅葉に彩られます。このような光景が、数十年、百年先の軽井沢の景色の中心になってくるのでは、と瓜生さん。 浅間山の噴石は「浅間石」あるいは「焼け石」と呼ばれ、古くから敷地境界の石垣に使われてきました。瓜生さんは石積みにコンクリートを使わず、隙間が出来たところに植物を植えて、軽井沢らしい緑に覆われた石積みを作ることを実践しています。コンクリートを使わないため石を転用することも容易です。 瓜生さんがいま力を入れているのが、自然と共存した庭造りです。軽井沢で育てた樹木を自然の樹形のまま植栽し、現場で伐採した木はウッドチップや薪に加工して100%利用しています。廃材を出さず、自然の森との繋がりをもち、庭と自然が融合していく。そうした新しい軽井沢の風景が広がっていきそうです。 軽井沢建築社にて、佐藤健志さん(佐藤不動産株式会社)。 不動産のプロに聞く、軽井沢の「土地探し」その 2 前号に続き、軽井沢で20年以上不動産にかかわってきた、佐藤不動産株式会社の佐藤健志さんに、軽井沢での土地探しについて伺いました。軽井沢の土地価格が急激にあがるなか、土地を購入するタイミングはどう計ればいいのでしょうか?「軽井沢で暮らしてみたいと思ったタイミングでいい土地に出会ったら、坪単価の上下など気にせずに土地を購入して、なるべく早く家を建てるのがいいと思います。その方が別荘での暮らしを長く楽しめますし、子どもたちも小学生までは親と行動しますが、中高生になったら別荘に来なくなってしまう。100点満点の土地でなくても、建築でおぎなえる部分もありますので、気に入ったら土地を買って建てるが基本です」。ここ数年で地価が数倍になった地域もありますが「別荘が欲しいと思ったら、投機の目で土地を見ることはおすすめしません」と佐藤さん。手に入れた土地を売ってしまったら、いつまで経っても別荘は建たないそうです。 では、どのような土地を選ぶのがいいのか、不動産のプロから見たアドバイスを聞きました。「駅や小学校、スーパーに近くて、適度な自然に恵まれた土地という希望を出される方が多いですが、そういった土地はめったにありません。利便性の高い市街地は緑が少ないですし、森に囲まれた場所は駅やスーパーから遠いのはどこも同じです。大切なのは生活のビジョンをはっきり持つことです。歴史的な価値を重視するなら、旧軽井沢のようなブランド価値の高い土地を選ぶでしょうし、この景色が気に入ったということだけで選ぶ方もいます。世間一般の評価にとらわれず、自分がいいと感じた土地が、結果としては最適な土地なのでしょう」。 不動産的な価値と、本人にとっての価値は異なる 「不動産的な土地の価値と、家を建てるための土地の価値は異なると思います。軽井沢建築社の関泰良さんと土地を見るようになって、その事がよく分かるようになりました」と佐藤さん。「不動産業者の目線では、南東角地とか、建ぺい率が高くとれる、土砂災害警戒区域に入っていないといった価値を重視しがちで、リビングの窓からの景色を優先するという発想はありません。やはり現地にいかないと、その土地の本当の価値は分かりません」と佐藤さん。眺めのいい傾斜地は、土地の価格は割安でも基礎工事などにコストがかかり、建物を建てられないことさえあります。景色が気に入って傾斜地を購入したい場合は、信頼できる建設会社に見てもらったほうがいいかもしれません。また軽井沢の宅地の多くは水分を含んだ軟弱地盤のため、購入後に地盤改良工事が必要なケースが大半で、樹木を伐採した後の抜根作業にも費用がかかります。 別荘地には民間企業(西武、三井、野村など)が開発した管理別荘地と、一般の土地があります。管理別荘地は道路や水道などのインフラを民間が担い、除雪などメンテナンスも行き届いていますが管理費が毎月かかります。一方一般の土地は管理費は掛かりませんが、ゴミステーションが遠いといった不便があります。夏は人で溢れる軽井沢ですが、住民自体は2万人ほどで、東京に比べ行政サービスは行き届かないと考えた方がいいそうです。 不動産のチラシにある事項は、注意してチェックする必要があります。例えば「水道自営工事」とある場合は、水道を自分でひかなければなりません。また土砂災害特別警戒区域内(レッドゾーン内)では、建物の規模構造に規制をうけます。べつに軽井沢町独自の「自然保護対策要綱」があり、外装の色彩(マンセル値)や屋根の形状、軒先の出、バルコニーやベランダに細かな規定があります。また「保養地域内」では、売買する土地一区画の最小面積が1,000㎡(302.5坪)と決められていて、それ以下に分割した売買はできません(すでに分割されている土地は除く)。明治期に外国人が結成した軽井沢避暑団、それを継いだ軽井沢会の流れを、今は自治体が継承しているとも考えられます。こうした決まりがあるからこそ、別荘地軽井沢の価値が守られているのでしょう。 浅間山との向き合い方 町の北西に鎮座する浅間山は軽井沢のシンボルであると同時に、今も噴煙の上がる活火山です。最後に起こった大噴火は約240年まえ、天明3年(1783)「天明の噴火」でした。噴火は数十日に渡って続き、山腹に溜まった堆積物が土石流となって北側の嬬恋村(群馬県)方向に一挙に流れ鎌原村を飲み込みました。泥流はさらに利根川まで到達し、川沿いの村々を津波が襲ったと伝えられます。このように天明の噴火では、軽井沢の反対側、山麓の北側に大きな被害がありました。将来起こりうる浅間山噴火にそなえ、軽井沢町はハザードマップを制作して、浅間山に近い北西域の一部を「土砂災害警戒区域」(イエローゾーン)や「土砂災害特別警戒区域」(レッドゾーン)に指定しています。その他、豪雨の備えとして、傾斜地の谷筋が細かく警戒区域にされています。 そんな中、佐藤不動産と軽井沢建築社はコラボレーションして、環境がいいにもかかわらず敷地の一部にレッドゾーンがかかった土地を活用するための住宅を提案しています。レッドゾーンを庭にすることで住宅にかかる建築制限を回避し、庭の景観をリビングから楽しめるようにしています。軽井沢の特性を知り尽くしているからこそ出来る提案といえるでしょう。 ▼ 軽井沢町土砂災害防災マップ Vol.49 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 「銀河鉄道と競争したの?」とキキがきくといつもの止まり木にぶらさがったトリさんは下目づかいで空をチラリとみました もうじき梅雨明けの声が聞こえて来るはずが、である。ここ数年耳に馴染んでしまった線状降水帯と局部的豪雨というやっかいな災害が今年もまた極東の島国に上陸。日本海側全体での影響の大きさを見るにつけ、いまだかつてない驚異を感じているのはみな同じと思う。と同時に、真夏並み以上の猛暑にめ その38 青山かすみ まいを覚える人も少なくないだろう。 誰もが熱中症をしのぎ、自然災害を乗り越えられるよう、今また気持ちを緩めることなく先のコロナ禍以上に注意を注がなくてはならないからだ。 いま世界は黄色から赤信号のままである。世界のここかしこで竜巻や熱波、水害、二極化による貧困、内乱による戦争、エネルギー・原材料の高騰からくる物品の値上げ、数え上げればとめどもなく悩ましい現実ばかり?笑い飛ばすしかないって感じかも。色々スピーディかつ便利になったはずなのにねぇ〜何故か深い溜め息が出てきちゃうのはなんでなのかしら?夏も本番が近づけば必然的に南風がつづくでしょ。あいも変わらず3時が近づく頃には「今日も飛ぶんだわねぇ・・・・」などとブツクサつぶやきながら自家製防音壁の段取りをはじめるのよね。 もう、四年目に入ったワ〜ホント腹立たしくも憎たらしい限り。頭上を飛ばす側はますますいい気になって、それこそ加速度的スピーディ飛行となって、大型機ほど低空飛行で飛んでますよ。歩いてても、左手側で飛んだと思った矢先に右手側を飛んでゆくんだから、たちが悪いったらありゃしませんよ!!ますます戦時中状態なのよ!!!ドンパチ戦争はしてないかもしれないけど四年に渡り旅客機が都心上空に入り込んで、国民を脅かし迷惑行為を続けようとする、低空飛行をやめようとしない人たちの気持ち、意図がますます理解できない今日此頃でござんす。いらいらストレスは募る一方って感じ。今の時代を生きる一人ひとりが自分の身を守る覚悟を持ち、そして助け合いながら、それぞれの命を生き抜くことができるよう願うばかりです。さまざまな悩みごと困りごとは自分の中に貯めず、近しい人に話を聞いてもらいましょう。自分の気持ち、怒りは吐き出すことが大事と思う。なるべくクリアーな、スッキリした気持ちになれるよう、文章とか絵なんか書いてみたり、声や言葉に出すことを忘れないでいましょうね♪ 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】