時空を超える美意識
https://collaj.jp/月見夜 2023
絹の川結城紬
絹川の流れ
奥日光を水源として、北関東を南北に流れる鬼怒川は、江戸と北関東、東北を結ぶ物流の大動脈でした。その流域は全国屈指の養蚕地帯で、明治になるまで「絹川」、「衣川」と書かれていました。
水の豊かな鬼怒川流域の土壌は桑の育成に適し、古くから養蚕の盛んな土地でした。川岸には桑畑が広がり、結城種と呼ばれる蚕種が養蚕技術とともに全国に伝わっていきます。結城市の北、下野市の甲塚古墳からは、現代の地機と同じスタイルで機を織る女性の埴輪が出土しています。6世紀後半から今とほぼ変わらない姿で、織物が続けられてきたと考えられます。
▲鎌倉時代、結城朝光が結城城の堀として掘削した結城用水は、今も約300ヘクタールの水田を潤しています。
1601年、徳川家康の次男で結城家の養子となった18代の結城家秀康が、越前福井に移封されます。それに代わり送られた代官の伊奈忠次は、家康のもと利根川、荒川の付け替え普請や桑、麻、楮などの栽培を奨励した人物でした。結城では紬織物振興のため、信州上田の職工や京都の染工を招聘し、技術向上をはかります。1699年、能登から結城に転封した水野勝長は結城藩の初代藩主となり、結城城を再築して今も残る城下町を形成しました。問屋に扶持米を与え優遇するなど生産性向上をはかり、鬼怒川を利用して江戸へ送ります。元禄文化が花咲く一方、贅沢が禁じられた江戸では、色が渋く木綿にも見える縞の結城紬が「粋」として、豊かな町人に愛されました。▲古民家を移築した「陳列館」では、結城紬の秀品200点以上をゆっくり鑑賞できます。
結城紬の老舗問屋「奥順」100周年を記念して整備された「紬の館」では、重要無形文化財に指定された紬問屋の建物を見学できます。左の離れ(明治19年)はNHKの朝ドラ「鳩子の海」の舞台となり、結城紬ブームの火付け役となりました。奥の土蔵は、織物を最適な状態で保管します。明治になると、奥沢庄平氏を中心に絣(かすり)織りの開発が進みました。足利、桐生、八王子などの技術を導入し、トンボ絣、飛行機絣、ヨロケ絣、ナビキ絣など多様な模様を考案。1873年オーストリア世界博覧会に出品されました。明治後期には華やかな十字絣、井桁絣、キの字絣などが織られ、女性のおしゃれ着として生産を増やします。
様々な製作体験ができる「紬の里」。手軽な手織のコースター、テーブルセンターから、本格的なショールや帯などにも挑戦できます(体験は予約制)。子供たちに向けて結城紬の学習と体験を組み合わせたコースもありました。
ドラゴンシリーズ 106
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
バーボンとタバコとコーヒー
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んなに
窯の
もう随分と前にタバコをやめた
。ちょうど
の頃に体調を壊して何度も入院することもあって、それまでやめられなかったタバコをついにやめてしまった。いや、正確に言うと退院してからもしばらくはコソコソ隠れて吸っていたが、しばらくの間入退院が続いたこともあって何故だか吸わなくなった自分に気が付いて驚いた。それでもしばらくの間は時々夢の中で自分が吸っている姿が出てきて驚いていたくらいだから、本当は心のどこかでやっぱり吸いたかっんだろう。
今でも時々、大病をしても平気で吸っている年上の大先輩に遭遇することがある。そんな大好きな先輩達がうまそうにタバコをくわえライターで火を付ける仕草を見ると本当にカッこいいーと心の底から羨望する。そんな大先輩達は一度や二度はタバコが病気の原因で病院に救急車で運ばれたことがある強者どもなんだろうけれど、そんな自分が家族や周りにどんだけ迷惑を掛けてきたのかはすっかり忘れて平気で偉そうな顔でうまそうに肺から天に向かってゆっくりと煙と燻らせ懐かしい匂いをフワフワと漂わせる。僕らの時代、タバコとコーヒーと音楽はいつも一緒の親友みたいな仲間だった。
直ぐに思い出せるうまそうにタバコを吸っている姿の先輩達は昔は大勢いたが、最近は本当に数えるほどになってしまった。先日心
筋梗塞で
で亡くなったムツゴロウさんの伝記を読むと、彼がど
代で大病をして医者から『タバコか酒か女の
最低でも一つは辞めろ』と言われて酒だけ辞めてタバコはずっと辞めなかった言うのは有名な話だが、やはり大胆な人だった。僕らが焼物でサイドテーブルを作ってもらっている島根の嶋田
代後半になる嶋田さんは本当にうまそうにタバコを吸う大
先輩で、島根の窯元に行くとどうしても『嶋田さん、一本いいですか?』と言って一緒に吸ってしまう。轆轤の仕事場で嶋田さんと一緒に吸うタバコは本当にうまい。もしも僕よりも若い人がタバコを吸ってたら辞めた方がいいんじゃないの?と余計な小言も言ってしまうのだけれど、そんな僕より年上の先輩達のタバコには本当に羨望するしかない。
僕にとってタバコは若い時代を伴走してくれた昔からの親友み
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数年前、
歳前
つ中から歳になってそれからの人生をふぅ.とする、その時が楽しみだ。たいな存在であり、代後半から僕の人生の軌跡とずっと一緒で欠かせないと
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思っていた。絶対的だったが若い時の恋人もそうだけど絶対と言うのは存在しない、時間が解決してしまうと言うことなのだ。しばらくの間だけ苦しいだけで忘れるのだ。しかし何をする時も、誰よりも、食事よりも、いつもタバコが最優先でどこでも何時も一緒だった。タバコが無くなると本当に喪失感が強く なって何よりも優先順位が高かった。何かを考える時には僕は右手にタバコを持ったままペンで手紙や文章を書いてきたし、スケッチブックも右手にタバコと鉛筆の両方を持って、左手にはコーヒーカップで仕事した。そしていつも酒
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のグラスも右手に持ってタバコも右手に持って飲んでいた。時代が変わればその時代の絶対的な価値観もひっくり返ってしまう。
年くらい前までは国際線の飛行機の機内シートにも喫煙席があって、平気で座ってタバコを吸っていた。国際線では後方座席の分のくらいが喫煙席だったが、みんな飛行機の通路でも立って吸っていた時代が最近まであった。
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そして新幹線にも喫煙車があり、その車両は白煙で端まで見通せないくらい乗客が競うように吸っていた。そして日本企業のオフィスではみんながデスクで
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平気でタバコを吸っていたし、打ち合わせでもなぜかタバコ吸いの特権のように応接室のテーブルには重いガラスの灰皿が置いてあって、初対面でも平気で吸っていた。数年前まで駅のホームでもみんながタバコを吸っている時代があって吸殻がホームに散乱していたが、吸殻をみんな駅のホームに人差し指でピンッと弾き飛ばしていた。世の中の変化は早くて都合の悪いことは直ぐに忘れ去られるものだ。
今の時代は嫌われものとなってしまったタバコ愛好家だが、僕は何だか今でもタバコを吸っている人々のことを信頼してしまう。これを書いていて自分のそんな気持ちに気が付いたのだが、そんな今の時代を読めない少しおバカな人柄と、時代の変化に対応しようとしないマイペースな人柄、そして何だか自分の気持ちに素直な人間のように感じるのだ。そしてタバコの時間はその人に少しの余裕と、時間と言う空間を提供し緩やかさを身につける。
しかしタバコをやめてみて分かったことは、身体と健康には本当に良いと感じている。しかし反面、やはり何かに集中したい時、何かの創造的な作業の時、バーで音楽を聞いている時、空想の世界に浸りたい時、そこにはキャメルか、マルボロか、ラッキーストライク、そしてバーボンと音楽が必要なのだ。僕は
年前にタバコをやめた時に決めたことがある。僕が歳になった時には、また正々堂々とタバコを再開すると決めた。
茨城県産業技術イノベーションセンター
結城紬を次世代に伝え育てる繊維高分子研究所
結城紬の後継者育成のため、茨城県産業技術イノベーションセンター繊維高分子研究所では、約1年にわたる研修が行われています。
上は研修生による本場結城紬の作品です。約1年の間に、帯1本と着尺2反を「地機(じばた)」で織り上げ、研修終了後は地元の機屋(はたや)に就業しています。
案内してくださった所長平野聡さん(中央)、繊維・紬グループ長石川章弘さん(右)、同主任研究員中野睦子さん(左)。
茨城県産業技術イノベーションセンター繊維高分子研究所は、結城市の鹿窪(かなくぼ)にあります。その前身は100年ほど前大正11年に設立された茨城県工業試験場で、結城紬をはじめとする繊維の技術指導や試験研究を行っていたそうです。結城紬の研修制度は業界の要請により「織り手」を育成するため平成8年から始まりました。機織りだけではなく、糊付、染色、下ごしらえなど工程の流れをひととおり学べることが特徴で、研修は5月〜翌年3月まで。毎年11月頃に募集が始まります。一般的な高機の綜絖(そうこう)は両口開口ですが、地機は下糸だけを上下させる片口開口で、杼(ひ)で打ち込むことで目のつまった風合いの良い生地になるそうです。
研修生の指導にあたっている渡辺さんに伺いました。結城紬は古来の「地機(じばた)」という織機で織られます。経糸を腰あてで身体に固定することで経糸のテンションを調整できるのが特徴で、足元の紐を引くと経糸の下方に通した「かけ糸」があがり、下糸が上下します。結城紬の作業工程は40以上あり、本来、製造は分業制のため、織り手が下ごしらえの工程を行うこ
かけ糸が下糸を持ち上げたところ。とはないそうですが、研修では工程をひととおり学ぶことで、織り技術の理解向上にもつながっているといいます。大きな杼(ひ)で打ったあと、筬(おさ)で打ちます。
糸が切れた時は、傷になら結城紬は撚りのない手紬糸を経糸、緯糸の両方に使いまないようにつなぎます。す。緯糸を杼で打ったあと、筬(おさ)で打って織りの密度を高めるのが特徴です。この日は研修で織る絣(かすり)を織ってくださいました。100亀甲という亀甲模様で、より細かな160亀甲もあります。図案に従い経糸・緯糸の両方に柄が染め分けられいて、緯糸の端の印を合わせて織っていくと絣の柄がでます。▲ ▼ 染色や糊付けの研修風景。
令和5年度は5月から機織り未経験者2名と、経験者2名が研修を受けています。未経験者の研修は結城紬の基礎知識(座学)からはじまり、切れた糸をむすぶ「機結び」などを学び、帯1本、着尺2反分の染色、糊付け、整経等々の下ごしらえ、機織りを、そして最後は亀甲模様を織るといった作業工程を総合的に学べるカリキュラムです。研修生のお一人は、機械メーカーの営業職から転身したそうです。着物が好きなことから研修制度を知り応募。この日は「前結び」という下ごしらえの作業をしていました。糸の長さを揃え順番通りに結んでいく根気のいる仕事ですが、糸に向き合う日々が楽しいそうです。結城紬にはこうした地道な作業が数十工程もあり、機織りはそのなかのごく一部なのです。
▲ 整経作業などを行う絹織試験室。
▼ 糸の原料となる絹の袋真綿(左)と手紬糸(右)。
手紬糸(左)と一般的な絹糸(右)の違いを見せて頂きました。絹糸は表面に光沢があり、撚糸することで丈夫になります。一方、手紬糸は絹の真綿から手で繊維を引き出した撚りのない糸のため、繊維の間に空気が入ります。この手紬糸を経糸・緯糸に使っていることが結城紬の最大の特徴で、軽くてふっくらした風合いにつながっています。
研究棟の一室には、繊維などを試験する機械がならんでいます。織物の質感や風合いは感覚的なものでしたが、表面の凹凸、伸縮性、熱の感じ方、圧縮性、ねじり剛性などを試験機で調べることで、感覚を数値化して開発に役立てることが出来ます。繊維高分子研究所では最先端のCFRP(炭素繊維複合材料)の研究も行われていますが、その基礎には古くからの繊維の研究があるそうです。また茨城県にはプラスチック成形の工場が多く、プラスチック関連の研究・研修も行われています。
▲染色するため絣くくりをした糸。
▼ 手紬糸を作る道具「つくし」。
研修制度が始まってから4名が伝統工芸士になっています。今年度から新しい試みとして染色や糊付などの下ごしらえをより深く学ぶコースが設定され、結城で生産に携わる方2名が研修をすすめています。従来は機屋の主人などが下ごしらえを担ってきましたが、高齢化や後継者不足からその担い手が求められています。子供のころ祖母が糸とりをする姿を見て育ったという研修生もいて「日常風景として、あたりまえに結城紬に親しんできた地域の伝統文化から、次代を担う方が出てきてくれることが嬉しい」と所長の平野聡さんは語ります。信じられないほど緻密で根気のいる手仕事は、結城の歴史と風土によって支えられていると感じました。
心・体・思考の健康をデザインする
写真・文
とっておきの休
み
大吉朋子
時間目
時
間
8のエネルギーと、その人。
「8」は、倒れてもただでは起きないしぶとさ、粘り強さ、底力、パワー、などの要素を持ち、まさにエンジン。中でも "怒り"は「8」を象徴するエネルギー。ただ感情的に怒るということだけでなく、正義感や気合い、あくなき挑戦、反骨精神、権力への反発など、怒りのエネルギーは何かに取り組む時の原動力でもあり、満ちたやる気、生命エネルギーの塊のようでもあります。タフで、どこまでも走れるスタミナ、頑張ることがデフォルト、目的とゴール、情熱と責任感。つねに強いパッションを内に秘めている。多少失敗してもなんのその、強いメンタルで出来るまでやりきる、という性質を持ち合わせます。エネルギーが大きいぶん、ダイナミックで強烈なイメージの「8」ですが、持ち合わせる愛情も大きく、成熟したエネルギー8は「博愛」と表すこともあります。
8月生まれの方は、強力なエネルギーを抱えているが故に、自身でのコントロールが難しく、自分を傷つけたり、相手を傷つけることもしばしばあります。強いエネルギーを正しく生かすには、「怒り」や「燃え尽きない」というエネルギーのコントロールがとても重要になります。一方、8日、17日、26日生まれの方は、仮におとなしい姿に見えても、実はとてつもないパワフルさを持ち合わせています。前に出ていく方が自分が活性化しますし、指示を受けるより自分でやっていく方が向いている、そんな性質があります。私はそんなことはない、という方も、よーく自分を眺めてみると、実は大きなエネルギーが内包されています。それは活性化するとよいエネルギーですから、思い当たる方は控え目よりも前に出る、がおすすめです。
8月、8日、17日、26日生まれ以外にも、この数字を持ち合わせる方はたくさんいます。またのタイミングでご紹介したいと思います。
AREA 20周年パーティ「宴(EN)」
20周年を迎えたAREA Tokyo(東京・青山)。8月31日に記念の祝賀パーティが開かれ、昼から夜まで沢山の人で賑わいました。AREAの皆さんは和装でお出迎え。威勢のいい人力車「東京力車」に乗り、青山を遊覧するサービスも好評でした。
全国の名産品やお酒、来場者の差し入れが次ぎ次ぎと供され、まさに「宴」。料理の準備からサービスまでAREAスタッフが担う、おもてなし感あふれるパーティでした。
▲宴のあいだ、YouTubeによる生配信が行われ、藤芳兄弟とAREA野田豪さんが長年のコラボを語りました。 ▼ニューヨーク店では家具インテリアだけでなく、柿右衛門といった日本の伝統工芸品も紹介するそうです。
注目作品は、Fujiyoshi Brother’s(兄 藤芳太一郎、弟 藤芳幸太郎)が襖絵を描いた大きな壁面収納。これから開店するニューヨーク マジソン・スクエア・ガーデン店では、藤芳兄弟が現地に出向き壁画を描くとのこと、楽しみです。
宴もたけなわ。AREA野田豪さんから重大発表がありました。「これから世界に羽ばたくため一番大切なのは事業継承。世代交代による組織の若返り、デザインやサービスの若返りを計っていきたい」と語り、所奈津子さんが2代目社長に指名されました。「会社の理念である愛ある場所づくりをお客様だけでなく、スタッフや関連する人たちにも広げていきたい。3代目を育て、引き継いで行くのが私の使命です。若いスタッフは次代の経営者を目指して欲しい」と所新社長は決意を述べました。野田豪さんは会長となり、当分は新社長をサポートしていくそうです。
Vol.51
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
そのときペリカンさんのクチバシの中から2匹の魚が飛びだして水そうの中にダイブしました!キキの家の窓ぎわに置いてある水そうにやっとお魚さんは戻ってこれたのです
WASHINGTON,D.C.Capital of the States,
written & photo by HERMINE
国の理想を示したワシントンの計画都市
ワシントンはアメリカ合衆国の首都として、世界でも最も知名度の高い都市の一つでしょう。ワシントンDCDC(District of Colombia=コロンビア特別区)という、首都機能を集約した地域名であり、各州からは独立した存在です。
左:ワシントン・モニュメント
初代大統領ジョージワシントンの功績を称えるため米国産の石によって作られた169mの塔は、ロバート・ミルズにより設計され、1848年から1885年にかけて建設されました。
右:記念塔からの眺め
ワシントン都市計画の主軸である、東西を貫く公園通り(ナショナル・モール)と、その東端にそびえる合衆国議事堂。塔からは首都ワシントンが一望できます。入場は時間指定の予約制で、ネット予約のほか当日券も朝8時45分から写真下のオフィスで購入できます。
18世紀、フランス人技師によって提案されたナショナル・モール
独立戦争後、1790年フランス人技師ピエール・ランファンによる都市計画素案。1900年ごろに西側にリンカーン記念堂、南側にイーストポトマック公園が加えられ、そ既にホワイトハウス、連邦議事堂の配置と、それをつなぐ大通り(ナショナル・モーれぞれを結ぶ大通りの交差部にワシントン記念塔(モニュメント)を配置した現在に近ル)の配置が提案されています(アメリカ公文書館)。い計画が立てられました。
1790年ピエール・ランファン案現在の配置(Google Map)
プレジデントハウス
モール議事堂
ポトマック川
16代大統領エイブラハム・リンカーンの記念堂は、ナショナル・モール西端に位置します。ワシントン・モニュメントとの間にはリフレクティング・プールと呼ばれる長方形の池があり、リンカーンはこの池に映るモニュメントを見下ろしています。ドーリス式神殿様式の建物は、リンカーン没時のアメリカ合衆国の構成州である38本の柱で支えられ、その後増えた州の名前は壁面に掘られたり、プレートによって追加されています。
宗教の自由
ナショナル・モールの西の先、ポトマック川をはさんだ対岸にアーリントン墓地があります。総面積約2.5平方kmという広大な敷地に南北戦争以来、アメリカ合衆国に尽くした人物が埋葬されています。「信仰の自由」を保証するため、あらゆる宗教、宗派、宗教の有無を問わず埋葬が許されています。
アメリカの都市らしく、道路は広く、自動車以外の移動手段も豊富です。自転車専用レーンも充実しており、自前の自転車で移動する人はもちろん、レンタサイクルや電動キックスケーターが安全に、存分に活用できる環境が整えられています。地下鉄はもちろん、路線バスですら自転車と共に乗ることができます。人が自由に動けることを、最大限に担保しようという強い意識が感じられました。このページの撮影 H.Onishi
ナショナル・モール周辺には多くの博物館が並んでいて、数日かけないと見きれません。博物館・美術館は入館無料で誰でもいつでも自由に入場できます(航空宇宙博物館のみ予約が必要)。国立自然史博物館には呪いのダイヤとして有名なホープダイヤはじめ、植物、動物、化石、鉱石、隕石や工芸品など1億2500万個を超えるコレクションを誇ります。
国立自然史博物館に近いナショナルギャラリー。こちらも入場無料で、歴史的な絵画・彫刻作品の数々を、間近で(ガラスが無い!)好きな時に、好きなだけ堪能できます。ドガの名作を模写をしている人もいました。
ワシントン・ダレス国際空港
ワシントン、つまりアメリカの表玄関であるダレス国際空港です。1962年に開港。エーロ・サーリネンによって設計されたターミナルは、吊り下げ構造によって美しい天井と広大な無柱空間を確保しています。複数あるターミナル間は、エアロトレインと呼ばれる無人運転の地下鉄と、モバイルラウンジ(動くラウンジという巨大な輸送車両)で結ばれています。
世界の三大料理といえば、中華料理・フランス料理・トルコ料理もしくはペルシア料理? 更に続けて、日本料理・インド料理・イタリア料理・スペイン料理・メキシコ料理・韓国料理・英国料理・レバノン料理・ベトナム料理・タイ料理・ロシア料理 ……ざっとこんところでしょうか、「国名を冠する料理」として日常語られることが多いのは。多少なりとも食に関心のある人なら、こうした「◯ ◯国料理」という言葉を聞きけば、「何となく」その料理のイメージが浮かぶはず。でも、それって、あくまでも「何となく」であって、いまひとつはっきりしない、という人が大半じゃないのかな。
いや、そんなことはないよ。インドならカレーとチャツネとナンだろ。ロシアならボルシチ、いやこれはウクライナか? イタリアはトマトソースにパスタにピザ。メキシコならタコス、スペインならタパス料理。中華と韓国はお隣りである上に、昔から在住の人も多いから、料理はあれこれ挙げられるよな。ベトナムならフォーと生春巻き。タイならグリーンカレー。トルコなら羊肉のケバブで、マレーシアならサティか? という具合で、どこの国にだって、「その国を代表する伝統料理」と呼ぶべきものがある。決して「ぼんやりしたイメージ」なんかじゃないよ。
そうかなあ。確かにどこの国にだって「伝統料理」はある。その通りです。じゃあ、今から二百五十年前の世界史地図を広げて見て下さい。これまで挙げた国家の中で、現在と同じ国名で、確立された国境線によって現在と同じ領域を確保していた「国家」がどれくらい、あるのか。おそらく、ひとつもないはずだよ。たとえば、イタリア・スペイン・ベトナム・タイ・レバノンは、当時はまだこの名称では、国家として存在していないし。ドイツという国だって、この世に存在していなかった。メキシコは今より大きくて、ロサンゼルスもサンタフェも「メキシコの領土内」だった。ロシアは今のロシアと別の国かという感じだったし、トルコにしたって、今のトルコの領土を前提にしたら、当時はその領域がまるで違っている。
何が言いたいのかというと、現在存在する国家の名前を冠した「◯◯国料理」なんていうのは、その歴史をたどっていけばいくほ
ど、あいまいな存在になっていく、ということ。だから、ある地
域の伝統料理を食文化史的に探っていくと、政治的に線引きされ
た現代の国家というものとは、全く違った地図が、そこに出現してくる。探索を深めれば深めるほど、その歴史の面白さが見えてくる。その魅力を知ってほしいのです。だから、食文化史を探っていくときには、「現在の国家の名前と国境線は一端忘れること」これがとても大切です。そうしないと、ものが見えてこない。歴史が見えてこない。で、つまるところ、現代が見えてこない、ということになる。
例えば、何か「伝統的な祝い事」がある時に必ず出される料理があるとする。昔からその料理を囲んで家族揃ってその行事を祝う。そういう家族が居住する地域の広がりが、現代の国境線の両側に広がっている、なんてことは世界中で見られる現象です。元々そこに住んで同じ食文化を共有していた人たちが、政治の力で国境の両側に分断されてしまう。決して珍しくないですよ、世界を見渡せば。幸い我が国は「国境による民族分断」という辛い歴史とは、比較的に縁が薄くて済んでいる。でも、その一方で、明治維新で成立した「県境」という、厄介なものがある。我が国の伝統食は、江戸時代末までに完成したものが多い。そのため我が国の伝統食文化を考えるときには「県単位」ではなく、維新以前の「藩」さ
らには「村や集落」単位で歴史を見る必要がある。「県境で区切って地域の伝統文化の違いを探る」なんてことをしていては、まず歴史は見えてこないと思うけどな。
例えば、ドイツのミュンヘンからイタリアに向かって進むアルプス超えの街道沿いには、「ドイツ」独自の伝統的なパスタ料理が見られます。で、これ、「ドイツ風イタリア料理」と呼ぶべきなのでしょうか? そりゃ、ないよね。なぜって、「ドイツ」という名称の国家も、「イタリア」という名称の国家も、二百五十年前には、
地上に存在していなかったわけだから。一方、カリブ海に点在する島々の料理。西欧列強が当初砂糖や綿花のプランテーション開拓のために勝手に島々を侵略して占領して行った歴史がある。お陰で、隣の島なのに、言語も法制度も本国のものが適用されて、カリブ海には島ごとに、フランス・イギリス・スペイン・オランダの食文化が残る地域が今もある。それこそ、隣の島なのに「話も通じない」。ところが、そのすべての島々に共通するものが一つある。アフリカから強制的に各プランテーションに送り込まれた、奴隷とその子孫たちが生み出した独自の食文化です。これは政治的に区切られた島の「国境」を越えて、一種「カリブ海風料理」と呼ぶことが出来そうな、一定の共通性がある食文化を形成している。さらに、この同じ要素が、各島の音楽にも見られます。レゲエとかサルサとか呼び名は色々ですけれど、ある共通する何ものかがある。
こうした「カリブ海風の食文化」は、特に第二次世界大戦後、カリブ諸島から労働力として欧州本国に続々と送り込まれた元の奴隷の子孫たちによって、欧州の各宗主国に持ち込まれます。その代表格が、ロンドンのブリクストンやノッティングヒルに見られるウェスト・インディーズ系の料理を出す店や、魚屋や、食
ドイツのパスタ料理ミュンヘン・ミラノ アルプ超え交易ルート
洋民族は、紀元前
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このような視点を大切にしながら、様々な食文化の歴史を通して見えてくる世界の面白さを、早稲田大学オープンカレッジでお伝えしています。2023年度の秋期講座は、次の要領で11月1日(水)から開催されます。皆様のご参加をお待ちしています。
材店。こうした食文化は今ではすっかり英国の食文化の一端として融合していて、そのインパクトは既存の「英国料理」にも様々な形で影響を及ぼしています。宗主国が植民地の文化から影響を受けている、という形です。これはもう、欧州全域で広く見られる現象で、欧州の大都市にはどこだって、旧植民地からやってきた移民たちが集まって住む地域がある。そしてその地域に行くと、彼らの故郷の
食や食材を楽しむことができます。
一方、近年フランスの大都市郊外で、旧植民地からの住民が集まって住む地域で暴動が相次ぎ、大きな社会問題になっています。規模は違えども、北欧でも、スペインでも、イタリアでも、同様の問題が日常化している。食文化史を探っていくと、こうした現代の最先端の重苦しい社会問題に向き合わざるを得ない場面も出てきます。それは、しかし、一般に報道される視点とはかなり異なる視点から、移民たちが抱える問題を見つめることにつながります。食という視点を通して、異なる他者をより一歩深く理解することができる。
他方、食文化の拡散という部分に視点を置くと、随分と古い時代から、人間が
動くに連れて、食文化も遠方まで運ばれていったという歴史が見えてきます。例えば現在のレバノンに紀元前数千年の昔拠点をおいていたフェニキア人。この海
世紀には、現在のスペイン南西部アンダルシア地方の都市カ
ディスに植民都市を築いている。同地で故国から持ち込んだオリーブ栽培の技術を花開かせて、本国にオリーブとその油を送り込み始めています。今スペインは世界最大級のオリーブ生産国ですが、その最初の礎はフェニキア人であったというのが定説となっています。現在を知るには、過去を知る必要があります。
カディスのオリーブ搾油機スペインカディス近郊の町とオリーブ
本場結城紬を見て、触れて、体験する結城市伝統工芸館
結城市伝統工芸館では、本場結城紬の伝統技法を広く伝えるため、製作工程の実演を見せるとともに、機織り体験も行われています。
▲ 茨城県本場結城紬織物協同組合 小島 章理事長。
本場結城紬の製作風景を気軽に見学できるのが、結城市伝統工芸館です。昭和31年、国指定の重要無形文化財となった結城紬は「糸つむぎ」、「絣くくり」、「地機織り」の3工程が指定されています。工芸館ではこの3工程を守った本場結城紬の製作シーンを見学しながら地機織り体験もできます。茨城県本場結城紬織物協同組合の小島章理事長にお話を伺いました。結城は養蚕が盛んな地域でした。明治になると製糸工場が建てられ、ヨーロッパ向けの輸出も行われました。古くから売り物にならない繭を生活着に活かす手段として「紬」の技法が編み出されます。通常の絹糸は繭から直接引き出して撚りをかけた生糸ですが、本場結城紬には、ぬるま湯のなかで繭を手で広げて袋状にした袋真綿が使われます。この日は手つむぎの研修が行われていました。伝統工芸士植野智恵さんの指導のもと「つくし」というキビガラの茎を使った道具に袋真綿を巻き付け、糸をつむぎ出します。反物に貼られた本場結城紬の査証には、手紬をする女性の姿と「結」の字が描かれ、手紬糸が結城紬の象徴であることが分かります。糸とりの研修は週2回、様々な年代の方が集まります。糸を平等な太さに引き出しながら唾液をつけて固め、オボケという桶に溜めます。袋真綿50枚分の糸を1ボッチと数え、反物には7〜8ボッチ(繭約2200個分)を使います。手つむぎの無撚糸を経糸・緯糸に使った織物は世界に類を見ないそうで、昔は冬場の内職として結城のどの家庭でも糸とりをしました。
地機の実演を行いながら、若い織り手への技術継承も行われています。この日は伝統工芸士早瀬惠子さんが、繊維高分子研究所を修了した織り手に細かな絣模様を指導していました。地機は腰の動きによって経糸を張る力をコントロールすることで独自の風合いを出すとともに、絣の模様合わせを微妙に調整します。江戸時代は縞模様が大半で、和漢三才図会には「紬は常州結城に出るものを上とす」という記載があるそうです。明治になると蚊絣といわれる細かな十字絣が登場し、昭和30〜40年代の高度経済成長期には美しい絣の柄物が流行しました。上は160亀甲飛柄「夜空の花」(機織り:野村操子、絣くくり;山中奈津子)。右は100亀甲飛柄(機織り:北村道子、絣くくり:北村初雄)。160亀甲は反物の幅に約160の亀甲(六角形)が入る細かさです。本場結城紬は本場結城紬検査協同組合によって幅、長さ、打ち込み本数、模様ずれなど厳しい検査を受けます。最盛期の昭和40年〜50年代には2000軒ほどの機屋があり年間3万反が織られていましたが、現在は茨城県に45軒、年間700反ほどになっています。
機屋は農家との兼業が多く、家族と数人の織り手という所が大半でした。経糸を機織りにかけるまでの「下ごしらえ」は機屋の主人が行ってきましたが、後継者不足が課題となっています。機屋のノウハウを跡取り以外に伝えることは稀でしたが、小島理事長は希望する織り手に対して下ごしらえの技術を教えています。この日は経糸を筬に1本1本通していく「筬通し」を行っていました。1本間違えたら全てやり直しという緊張した作業が続きます。次に「機巻」を行います。経糸を真っ直ぐ伸ばし櫛で整え緒巻(おまき)に巻きつけます。こうした作業が農家の縁側や庭先で行われてきました。
地元の織物問屋が、呉服屋の皆さんと見学に訪れました。製作工程の知識を販売に生かしたいそうです。
機屋の主人の大切な仕事のひとつが「絣くくり」です。図柄に合わせて糸に墨の印をつけ、木綿糸で縛っていきます。縛ったところには染料が染みず、白く残ります。複雑な柄は半年以上かかり、数万カ所も糸でくくります。柄が細かいほど細い糸を使い、爪が変形して指から血が出るほどの作業だったそうです。この絣くくりや下ごしらえこそが、絣模様の美しさを大きく左右します。「同じことの繰り返しを精密にすることが大切」と小島理事長。高度経済成長期に機械化を進めた紬産地がある一方、結城では1000年以上前とほぼ変わらない手仕事が続いています。無撚糸の手紬糸は切れやすいため、小麦粉の糊を3回くらい糊付けしながら作業を進めます。特に経糸は織る時に擦れて切れやすく、緯糸より太めの糸を使います。販売された反物は一度産地に戻され、専門の糊抜き屋で糊を抜いてから着物に仕立てます。糊を全て抜いてしまうとコシが無くなるので、少し残した状態で長年着続けると光沢と柔らかさが出てくるそうです。本場結城紬は今でこそ高級織物ですが、元々は農家の日常着として、暖かく、軽く、丈夫で汚れも落ちやすく「結城三代」といわれるほど長持ちします。
網代織「シティ」(機織り:田能あゆ美)100亀甲帯状「蔦の葉」(絣くくり:湯本小夜美)
本場結城紬の工程は40以上あり、全て習得することが難しいため、糸とり、染め、整経など分業が進みました。しかし日本では年々着物の需要が減り、さらにここ数年はコロナ禍で着物販売会を開催できないなど、産地の構造にも変化が求められています。海外の富裕層へのアピールやSNSの活用がテーマとなりそうです。技法の継承だけでなく、結城紬を生業としていける伝統産地の存続が大切と小島理事長はいいます。
あれよあれよという間に過ぎゆく夏?と思いきや、残暑と呼ぶには程遠い猛暑日が継続中の東京。沖縄の方が関東よりよほど涼しく、北海道で豪雨続きだなんてまったく世の逆転現象はなはだしく、顕著なりけりの長月です。
ただ、夕暮れ時の早まりだけは秋に向かう気分へいざなってくれるよう。また夕げの支度などで火を使う機会も着実に増えつつあるわけですが、慢性化しちゃった夏バテ感を早めに回復するべく体力付けておかなくちゃーと感じてる人多いんじゃないかしら。
季節が移ろう時期だから、自分自身のメンテナンスとご褒美を忘れず、心の栄養も充分に補給してあげたいですよねぇ〜。そんな風にできたら理想的なんだけれどもね。まぁあえていうなら私の好物といえば、まずお茶コーヒー類に合うお菓子でしょ?それプラス、いつも音楽や映像なんかにパワーを与えてもらってるなぁとあらためて感じる今日此頃。
南風なれども
その39
青山かすみ
知らずしらずのうちに食欲、芸術の秋、実りの秋を求めてるんだわね〜
それでなくとも、今年超酷暑だった春から夏にかけた五カ月以上にわたる港区上空、特に青山通り上空における旅客機やヘリコプターの乱舞じみた低空飛行の頻度たるや「もう、うんざり」のひとことしか出ませんわ。戦時まがいのこんな低空飛行を四年以上続けていたら高齢者さんやお子さんたちを含む新航路下に住まう人々への精神的、肉体的な悪影響、ダメージなどなど。目には見えずとも計り知れないものがすでに存在しているはずだわね。
コロナ疲れとの相乗効果も手伝い、日本人の宝命がますます不健康な方向へ進んでしまうだろうと考えたとき、脅威を覚えますよ。政府はまさか、国民の弱体化を望んでるのかしら。こんなこと続けて自国民の命を守ろうとしてるといえる?そんな疑問が起きても仕方がないと思っちゃう。低空飛行で国民いじめる時間あるなら、もうちょっと世のため人のためになることしてほしいと願う。自然災害を少しでも食い止める方法を打ち出すべき時は、もうとっくに手遅れか?あちらこちらで戦争起こしてる間に地震や豪雨で地球が壊れてしまうよ。これからいかに生き抜くことができるか、それぞれの地域で真剣に考えてゆかなければなりません!!!
花の飾り付けやブーケを担当したのは新郎新婦のダンス友達、おどるお花屋さんひかりん。「花は身体に染み入るものである」をテーマに花屋 bodyを展開。舞台や撮影のフラワーアレンジやPOPUPSHOPなどで活躍中です。空間いっぱいに季節の花々がひろがりました。美味しいクレープを焼いてくれたのは調布仙川駅近く mococoのチカさんとアユミさん。パリパリの生地に塩キャラメルやあずきカスタードなど、シンプルで大人なクレープに行列ができていました。ケーキ担当は新郎新婦が大ファンのスウィーツ店、調布 feuq uia ge(フキアージュ)の天才パティシエ畠山和也さん。ウェディングケーキを沢山のフィナンシェで飾りました。カヌレやフィナンシェなど焼き菓子に力を入れ、バターはヨーロッパからとり寄せているそうです。新宿伊勢丹の催事でも人気です。厨房を担当したのは、FOOD STORY PROJYECT菅原梨沙さんと、Bistro coucou高橋シェフ。菅原さんは飲食店のプロデューサーとしても活躍中で、農家を訪ね季節感を大切にした料理を伝えています。今日の野菜は神奈川産を使ったそうです。高橋さんは和食の板前からフレンチ、イタリアンを経験し、今は魚介類を中心としたイタリア料理を作っています。
藤野倶楽部の全景。
1時をすぎて、沢山の人たちが集まり始めました。協力してくれるダンス仲間と気合を入れ直しゲストを迎えます。
「結びの家」に移りダンスパーティの始まりです。新郎新婦を慕う仲間たちがダンスを通じて思いを伝えあいました。
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