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時空を超える美意識
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残暑 2023 涼を呼ぶフォトコラージ
Both Sides, Now それぞれの空のもと
道の辺に清水流るる 柳かげしばしとてこそ 立ちどまりつれ
西行法師(新古今和歌集)
今月のコラージは、
各地の涼をよぶ風景をお届けします。
『ウタキとグスクそして我家』白保
沖縄県 渡嘉敷島
小浜島「はいむるぶし」プール
『北海道 原野に満ちるもの』 摩周湖
『龍の記憶勝山』平泉寺
『Pawered Water』 落合楼水力発電所
『聖家族 軽井沢』 室生犀星旧邸
『Pawered Water』 河津七滝 初景滝
『海が見えた海が見える』鞆の浦
クチバシについた大きな袋をふるわせてペリカンさんは言いました
Vol.50
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
今月の茶道具 11
金輪寺茶器
「金輪寺(きんりんじ)」はもともと自然の太い蔦をくりぬいた円筒形の薄茶器で、最も古い形の茶器といわれます。南北朝時代、後醍醐天皇が南朝をひらいた吉野(奈良)の寺院にて、天皇が御手づから深山の蔦をくり抜いた茶器を12個おつくりになり、僧たちに茶を振る舞ったいう伝承から「金輪寺」と名付けられました。その後、足利義政、織田信長、大雲院へと伝わり蓋裏には勅作であることを示す「勅」の文字が書かれています。古くは写経を入れたものもあり、経筒を転用したとも考えられます。金輪寺を多くつくった黒田辰秋は、「木工では最高のもの」とそのシンプルな姿を賞賛し、基本形に手を加えることをしなかったそうです。金輪寺をはじめ、吹雪や中継ぎなど円筒形の茶器に抹茶を入れる際は、円錐型にとがった「杉形(す
透漆金輪寺茶器江戸時代(17世紀)東京国立博物館蔵 蓋裏には「如意輪寺」と朱書されています。
ぎなり)」という盛り方をして、茶杓で抹茶をとる際に山を崩さないよう気をつけます。写真の金輪寺茶器を東京国立博物館に寄贈した広田松繁(不孤斎)は、東日本橋の老舗骨董店「壺中居」の創設者であり、骨董界のオーソリティとして活躍しました。大正時代には中国の鉄道工事で発掘された唐三彩や、海外流失した明朝・清朝の官窯器を日本の財界人に紹介し鑑賞陶器の世界を確立します。壺中居を退いた後は北鎌倉の自邸で茶の湯を楽しみ、茶道具の収集にも取り組みました
(自邸は鎌倉女子大学山ノ内学舎として現存)。東京国立博物館に 500点近くの収蔵品を寄贈し、2012年「東京国立博物館140周年特集陳列 広田不孤斎の茶道具」が開催されました。常設展示でも多くの広田コレクションがみられます。
『白保のサンゴ礁』
『海が見えた海が見える』鞆の浦
『海が見えた海が見える』鞆の浦
沖縄県 渡嘉敷島
『佐原 水と大地のあいだに』佐原
『蒼き龍の伝説』岩泉 龍泉洞 清水川
『深川八幡 夢のあとさき』 深川八幡祭り神輿連合渡御
『山河にひびけ 美濃の槌音』 そば切り まる伍
前回の続き。サフランには様々な薬効がある。だから古代社会
で長年に渡って貴重な医薬として使われ続けてきた。その一方で、もうひとつ見逃せない特徴がある。キーワードは黄金色。染料としての役割だ。乾燥させた花のしべ(柱頭)をぬる目の湯に放つと、水の色は見る見るうちに黄色く染まっていく。より多く使えば、独特の香りを放ちながら、水はより色濃く深みのある黄金色に近づく。それは金(ゴールド)を連想させる。金は錆びることなき不滅の金属、すなわち「不老長寿の生命」につながる。今だって多くの人々が、金粉入りのお酒をありがたがる。古代社会であれば、なおさらのこと。祝い事の宴席で金粉を酒に入れて飲み、料理に混ぜて食べることが、縁起も良く長寿健康に通じると誰もが信じ
ていた。
の黄金色」=「貴重な医薬」=「不老長寿」というイメージが、ごく自然に確立していく。その発
こうしてサフランを入手できた一部の古代社会では、「サフラン
想は紀元前
世紀頃から
サフランの人工栽培が始まったイランとギリシアを中心として、東はインド・アフガニスタンから中国西域へ、西は古代ローマを経て西欧全域から北アフリカ・スペインにまで広がっていく。また、この連想は、いわゆる4体液説と結びついて、西
欧風の医食同源的な考え方に吸収されていく。で、どうなったのか。
飲みものや料理に極めて高価なサフランを使うことが「ありがたくも体に良い」と信じられるようになっていく。こうして、むしろ、その希少性から、王様や貴族たちの祝の宴席の特別な料理に、スパイスとしてサフランが多用され始める。貴重で高価なものを思い切って使う。これを惜しげなくふるまう。何よりもその贅沢なイメージが大切だった。料理の色すなわちサフランの黄金色で人々の目を驚かせ、その豪華さで主催者の富と権力を誇示する。
古代から
世紀中頃まで続いた、西欧諸宮廷の政治宴席の基本中
の基本だ。
その影響から生まれた料理は、今も至る所で見ることができる。いずれもサフランを使って料理を黄金色に染め、独特の風味を引
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四気質を擬人化した図。左から黄胆汁質、多血質、黒胆汁質、粘液質。
き出している。スペインのパエリヤ、北イタリア米作地帯の贅沢リゾット、イランのごちそう米料理タディー( tahdig)、南仏のブイヤーベース、インドのビリヤーニ( biryani)など、挙げていけばきりがない。その中心は米料理。「ごはんを黄金色にするため」にサフランが使われている。
単に米やスープを黄色く色付けたいのであれば、サフランのように飛び切り高価なスパイスを使わずとも、ターメリックなどでも、似たような色を出すことは可能だ。だが、サフラン独特のコクのある香りと色の鮮やかさ。これがないと、
これらの料理では、何か魂が抜けたような感
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じなってしまうはず。
昨年8月号でご紹介したアフガニスタン山中バーミヤン奥地の集落。あの家のご馳走お米料理では、サフラン水で米を黄金色に染めた上に、さらにローズウォーターを加えて、その風味を引き立てている。米に様々な素材の味わいを含ませ、色付けする。その手間を惜しまない。これらの料理はどれも、仕上げるまでに、かなりの手間と時間を要する。米料理のヴァリエーションの多さは、米喰民族として我々も見習うべきものがある。
こうしてサフランは、医薬からスタートして、健康をもたらす高価な食材として珍重されるようになっていき、これが世紀の半ばまで続く。だが、この頃から徐々に、サフランを医薬として、また健康をもたらす食材として見る見方は急速に薄れていく。ではなぜ、この時期に、見方が大きく変化したのか。それはこの頃西欧で、二千年近く続いてきたヒポクラテス以来の医学の根本が、大きく変化し始めたからだ。いわゆる「4体液説的思考」の終焉と共に、それまでの古い医学の前提が大転換。それに連れて「黄
金色の料理」=「長寿健康の源」という考え方も、過去の遺物として忘れ去られていくことになる。
先程例に挙げたサフランを使って作られる料理は、その多くが、祝の宴席などでの特別なご馳走として作られるものが多い。こうした祝宴料理をサフランなしで作ったら、どうなるか。見た目も風味も何とも味気ないものになってしまう。それだけに、医学的な見地が変わったからといって、長年続いてきた伝統的な祝宴料理でサフランの使用をやめる、なんてわけには行かなかったのだ。だからそれ以降も、米を中心に、様々な料理を黄金色にするために、一種高級な嗜好品と
インドのビリヤーニイランのタディースペインのパエリヤ
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店で購入したものを帰宅後開けてみたら、
「本物そっくりに作られた紙細工」だった。
そんな話があるくらいで、旅先でのお土産
買いは要注意だ。
最近の流れとして注目すべきは、アフガニスタンでの生産量が急増しつつあること。イランとアフガニスタンは共に米国から厳しい経済制裁を課せられている。しかし、このつの地域だけで、世界のサフラン生産量の大半を占めると言っても決して大げさではない。では、両地域のサフランは、どこからどうやって世界に流れ出ていくのか。生産ではなく、その流通経路として今、世界のサフラン交易の中心地はどこなのか。それは、ドゥバイだ。あなたがスパイス商人で、世界で最高のサフランを入手したいと思ったら、まずはドゥバイへ、ということになる。その商人たちは、世界各地から集まる国際色豊かな世界だ。サフラン、まだまだ語るべきことは山ほどあるが、今回は、これくらいで。して、サフランは使われ続けて今に至っている。
では 21世紀の現在、世界のサフラン生産はどのような状況になっているのか。様々な統計があり、いまひとつ不明確な部分もあるが、だいたい次のような感じだ。世界の全生産量の約%がイラン産で圧倒的存在となっている。北東部ホラサーン地方が栽培の中心で、この地は北にトルクメニスタン、東はヒンズークシ山脈
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の連なりからアフガニスタンと境を接する地方だ。次いで、品質の高さで知られるインドのカシミール地方。残念ながらこちらは、近年徐々に生産量が減少しつ
つある。欧州ではスペインの名が挙がるが、スペインはかなりの量をイランから輸入している。そして、ジブラルタル海峡を隔てて隣国モロッコ。そして伝統のギリシア。また、ごく少量ながら、米国には、建国の過程で欧州から移民したドイツ・オランダ系のプロテスタントの一派メノナイト教徒の子孫が、細々ながらサフランを作り続けている。
サフランは高価であるがゆえに、上記の国々以外でも新たに参入する国や地域が増え始めている。それだけに、文字通り玉石混交で、世界には怪しげな品物も少なくない。スペインでの産地として知られるラ・マンチャ地方。その僻地の村で購入した瓶詰め。後でラベルを剥がしてみたら、2年前のイラン産だった。カシミールの土産物
ドゥバイのスパイス・スーク(香辛料市場)
『青い瞳の見た日光』イタリア大使館別荘
『青い瞳の見た日光』中禅寺湖
『蒼き龍の伝説』岩泉純木家具近くの里山
『北海道原野に満ちるもの』釧網本線から見る斜里岳
『サスティナビリティ いま北の大地で』 オルテの丘
『ウタキとグスクそして我家』座間味グスク址
『白保のサンゴ礁』石垣島白保
小浜島「はいむるぶし」水牛池
『しろうさぎを追いかけて』鳥取県板井原集落
『しろうさぎを追いかけて』鳥取県板井原集落
『伯耆富士に抱かれて』鳥取県妻木晩田遺跡
『万葉かおる 高岡』雨晴海岸
『金沢夢幻』鈴木大拙館
第103
シネマ歌舞伎に魅せられて。
今年の夏はことのほか暑い。猛暑、酷暑以上の猛烈な暑さと湿気で外に出るのはままならない。熱中症対策に水分補給とクーラーをかけろと毎度のニュースでやかましく言われるが、高齢者には加えてマスクはまだまだ手放
せない。8月初旬、
年前の中村勘三郎と坂東玉三郎の舞台が、
シネマ歌舞伎となって上映されると聞き、チケットを申し込んだ。申し込んだのは6月、まさかこんな暑い夏になるとは思いもよらぬことだったが、東銀座の劇場まで出かけた。歌舞伎座の少し先で行ったことはない。久しぶりの外出ということもあり、日傘、帽子、マスクにサングラス、それと小さな水筒、支度をするだけで汗だくとなる。太陽が真上にある昼の外出はことのほかしんどい。お腹に力を入れて、バスと地下鉄を乗り継いで東銀座まで。劇場の名前を忘れて焦ったが、電話で確認。駅を上がったすぐのところで看板を見つけホッとした。5つもやれば1つぐらいは忘れる。来れただけでも大したものだと、自分を励ます。
早めについたが席は指定ではないので先着順。前席ブロックはすでに満席。シネマ歌舞伎は随分前からあったようだ。私は初めて。若い人はあまりいない。平日ということもあるが、歌舞伎観劇と同じような年齢の女性が多い。隣に座った二人連れの婦人は、随分と遠方からきているようだった。ご贔屓の役者が出ていれば、どこにでも出かけていくのは、当然かもしれない。推しの世界はいづこも同じということだ。
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演目は、三島由紀夫作「鰯賣戀曳網」(いわしうりこいのひきあみ)。来年で 13回忌となる勘三郎が亡くなる前の年に歌舞伎座で公演されたもの、と古典芸能の元 NHKアナウンサー葛西聖司氏の分解説付きである。三島由紀夫が歌舞伎の戯曲を書いていたことを初めて知った。演目の解説や見どころ、衣装についても細かな説明があり、シネマならではの役者の表情、見所を情感たっぷりに語る。歌舞伎は、役者のセリフとは別に情景やことの経緯を説明するために長唄が用いられるが、なかなかその場で理解することは難しい。後であらすじを読んで、「あぁ、そういうことだったのね」と理解することが多い、今回はその長唄で誦む和歌の意味についても説明があり、舞台を観るだけではわからない歌舞伎の奥深さを改めて知ることができた。葛西氏のソフトな語り口で、いつの間にか勘三郎演じるイワシ売りの口上を、観客が一緒になって唱和する。そして、大 40型スクリーンに映し出される歌舞伎座舞台の幕開けで、シネマ歌舞伎の世界へと入っていく。
年前の舞台、勘三郎は若く艶のある声、ユーモラスな表情に色気もある。玉三郎の傾城はなんとも美しい。勘三郎の舞台は香川の金毘羅歌舞伎で観たことがあるが、まだ、歌舞伎の面白さがわからなかった時で、演目も勘三郎の素晴らしさもわからなかった。金丸座の再建に随分と尽力したことは知っていたが、茶目っ気たっぷりに、舞台を沸かす歌舞伎役者の早世は、今更ながら惜しいことだったと思う。中村家には、お家芸と言われるものが多くあると聞く。勘三郎の舞台をみる機会が少なかったことはとても残念である。勘九郎、七之助の舞台は何回か観たことがあるが、ものすごいものを背負っている気迫を感じた。孫たちも活躍しているが、勘三郎の芸を受け継いで、色気も茶目っ気もたっぶりに楽しませてほしいと思う。
この夏の酷暑を越える猛酷暑は、シネマ歌舞伎の魅力に出会った強烈な夏でもあったが、夏は映画館で涼みながら歌舞伎を観るという楽しみを得たのは、大きな収穫でもある。
『金沢夢幻』縁煌(えにしら)にて、小坂未央作「花器」
『八戸 数え唄』八戸港の造船場
『東京島めぐり』 ジェットフォイルから見た東京湾
『海が見えた海が見える』鞆の浦
『Pawered Water』 落合楼水力発電所
『北海道 原野に満ちるもの』弟子屈町 硫黄山(アトサヌプリ)
『北海道原野に満ちるもの』釧網本線から見るオホーツク海
『サスティナビリティ いま北の大地で』 富良野
『甲斐に抱かれ JAZZ』 甲府市 加牟那塚古墳
『甲斐に抱かれ JAZZ』白州 清泰寺
北海道 富良野
小浜島「はいむるぶし」あだんの森
自然災害の猛威が、もうどうにも止められぬ事態となっています。酷暑に疲れ果てたところの夏休みを狙い撃ちするかの如く日本を襲った超大型台風。新幹線、空港ステーションは閉鎖され、外出もままならぬ。考えてみれば、関東大震災からちょうど百年後、東日本大震災から一巡りのサイクルで起こった天災と言えなくもない。北海道に住む友人たちでさえいよいよ、クーラーを設置せざるを得ない状況になってきたそうである。
コロナ禍を超えてはみたけれど、それ以上のキケンはそこかしこ、身
に迫っていたという訳だ。大雨が降る場所ではゲリラ的に降りすぎるほ
ど降るし、東京近郊に至っては雨乞いしたくなるほどのカラカラ天気が
続き・・ 昔の梅雨気候が戻ってくれることを切に願ったりしちゃいます。
マジ真剣に!
その40
青山かすみ
南風なれども
地球規模の熱波ですから怖いよねぇ〜。マウイ島での山火事しかり。海ではお魚も日焼けに苦しまされていることと存じます。この期に及びますますヒートアップさせた戦争を続ける国々やわざわざ旅客機を都心へ侵入させる時間と手間を費やし続けるのが日本です、というのなら、そんな国家は軽蔑されるのがセキノヤマでしょう。この先、地球上に明るい未来を描くことができるんでしょうか。国を導くリーダーの責務が今ほど問われる時代はない。
私達は一人ひとりが、自分の居場所で自分自身に問い続けるべきテーマと思う。
『食の冒険』 H.agen-Dazs LA MAISON GINZA
『青い瞳の見た日光』金谷ホテル
『青い瞳の見た日光』金谷ホテル
『海が見えた海が見える』鞆の浦
『伯耆富士に抱かれて』鳥取県倉吉
『宝の海道をゆく』佐渡 尖閣湾
『龍の記憶勝山』平泉寺
心・体・思考の健康をデザインする
とっておきの休み時間
18時間目
写真・文 大吉朋子
9月はクローゼットを整理するように心を整え、心の声を届けます。
2023年 9月は「7」のエネルギーが流れます。「7」はオーラ、境界線、コミュニケーション、メッセージ、内省、などを表します。
8月を通して心の中に生まれたさまざまな思いを、9月は外の世界に発信していきます。やみくもに発信するのではなく、自分の内で整理した”心の声”を、自分を取り巻く空間も通して伝えていく、そんなイメージです。
心の声を外の世界に届けていくには、まずは自分の心の内が整然と整った状態であることが大切。心の内はさまざまな思いが渦巻いているカオス。クローゼットを整理整頓するように心のスペースを整えます。そして、「ひとりの時間」をもつこと。外からの情報と離れ、自分と向き合い内省することで、カオスから抜け出し、世界に向けた純粋な心の声が生まれてきます。
コミュニケーションが上手い人とは。
私は週1回、趣味とインプットをかねてピラティスのグループレッスンに参加しています。レッスンを受けることは自主練習とは違う気づきが多く、自分の体と丁寧に向き合い動きだけに集中できる贅沢な時間でもあり、学びの時間として楽しく続けています。ピラティスは「動く瞑想」とも言われ、体の微細な動きや感覚に集中して行っていくため、地味だけれど、なかなかのキツさがあることも私には魅力です。ふだん、「これ以上はムリ」と自分でブレーキをかけているだけで、実はもっとできるよね、ということに気が付いたりもします。キツイと思った時ほど、レッスン終わりの体の軽さは抜群で、ほんとうに爽快です。
そして、私にとってさらにうれしいことは、いい先生のレッスンに出会えた時です。動きのテクニックやフローの良さだけではない、「また次も受けたい」と思わせる何かがあって、そんな出会いのある時には、本当にいい時間を頂いたというさらなる充実感があります。
最近、オンラインでもオフラインでもお会いしたことのない、初対面の先生のクラスに参加しました。ベーシックなクラスで、まずは試しに、という軽い気持ちでしたが、レッスンを1回受けてみると「これは何だかすごい。また受けたい」という好印象で、すぐ翌週の予約も入れました。そして、2回目を受けてみても初回での感動はかわらず、それ以上にまた次の回が楽しみになりました。1回目と動きの流れが違い、また新しいクラスに参加したような感覚と、それゆえ体の変化も大きく感じることができ、さらに充実した時間でした。おそらくベテランの先生なのだと思うものの、ベテラン感バリバリの様子もなく、それほど派手さがあるというわけでもない。けれど、クラスが始まると、なんとも上質なレッスンの空気が漂い、場の空気が変わり、程よい緊張感と全員が集中している様子が感じられ、心地良い。難しい動きはないけれど、じわじわ効いてくるキツさがてんこ盛りで、早々に汗が噴き出してくる。そして、丁寧にひとりひとりを見ている様子も聞くともなしに伝わってきて、安心感があり、ポジティブな空気が感じられる。とても清々しい印象が残るのです。
こういう体験に出会うと思い出すのは、「7 」のエネルギーの使い方が上手い人、ということ。
「7 」はオーラの数字、コミュニケーションを表す数字ですが、このコミュニケーションというのは単なる言葉のやり取りだけでなく、自分を取り巻く空間すべてをつかって心の声を届けるというもの。まさに、その先生の発する言葉、声がけは、ただ聞こえるように発せられるものではなく、大勢の中、そのひとりひとりに届くようにその場の空間全部を巻き込んで、本当に今伝えたいことを、よどみなく、流れるように心から発している。そんな感じをダイレクトに受け取りました。
「あの人はコミュニケーションがうまい」などという表現を見聞きしますが、そういう方々は、ただおしゃべり上手なわけではなく、まずは相手の話や様子をよく聴き、自分の発する言葉に対して、自分の心の内から出るウソのない言葉選びをされているように思います。そして、その場の空気などを一瞬一瞬で感じ取り、その場に適した距離感をもって、発信する。心から生み出される言葉や声は本物で、だからこそ、まっすぐに相手に届いていく。そんなイメージがあります。2023年は全体を通して「7」のエネルギーが流れている年ですが、9月はもっともその年のエネルギーを映す時でもあります。もし、今、コミュニケーションに難題を抱えていることがあるとしたら、まずは「ひとりの時間」を持つことがおすすめです。特に、7月生まれ、7日、16日、25日生まれの方であれば、これは必須です。コミュニケーションに難しさを感じるというのは、周囲の″気”に対して敏感だったりもします。周囲からの影響を受けやすい傾向もあるかもしれません。もしそうであれば、いったんそれらを遮断して、自分自身の心の声はどこに向かっているのか?を、丁寧に整理することが必要です。そのためには意識的に「自分に引きこもる」という時間が大切になるわけです。
私の師匠は「7」のバランスがイマイチのときには「クローゼット整理してる?」と聞いてきます。クローゼットが煩雑になっていたら心の内側も同じだよ、というのです。
9月はまだ残暑も残る時期だと思いますが、少し太陽のエネルギーも弱まり、気持ちも落ち着くころでしょうか。あらためて、クローゼットをきちんと整理整頓する時間をつくろうと思います。
『葉山あたりで春』 一色海岸
『陸奥巡礼』宮城県 雄勝町
『葉山あたりで春』 秋谷海岸
『葉山あたりで春』 秋谷の立石
沖縄県 渡嘉敷島
『瀬の音いとし 長良川』 小瀬鵜飼「足立家」
『金沢夢幻』ひがし茶屋街
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ドラゴンシリーズ 105
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
孤独
孤独と絶望を感じることがある。普段の日常の中で、私達の人生は終わりのないような永遠に続く延々とした時間のような感覚の中で過ごしているが、日々の自然災害や多くの病気や突然の出来事によって、思考する暇も無く目の
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前に終わりが訪れる。日常とはそのような儚いものだ。
そのような何の罪も失敗も無いところに、突然終わりは訪れる。遠くの国から飛んでくるミサイルの制御に狂いが生じる時もあるかもしれないし、隣の国から戦闘員が攻め込んでくることがこれから起こるかもしれない。
実際に世界各地では今でも何も知らされていない人々が戦闘員となって、何のためか誰のためかも意識することができない中で平和だ 15った家庭に突然の侵略が行われ、恨みが恨みを生み出す。そのような悲劇が繰り返されていると言う現実が存在する。
しかし日本の多くの人々はそんなことは戯言だと笑い飛ばすことだろう。それも自分たちの場所しか見えていない私達にはしょーがないことだと思うが、せめて私達がどれだけ世間知らずであるのかだけの自覚くらいは持った方が良いような気がする。多分、その事実を捉えることさえも私達には永遠に難しいようだ。
私達の日常の生活は平和である。しかし、この平和な日常は私達の歴史のルーツを遡ると一瞬であることも理解しなければならない。私が誕生するわずか年前まで、今から年前に私達の日本はアメリカや世界の大国と国民を交え歳前後の若者に弾薬を抱かせ、勝ち目の無い相手に命ごと向かわせる無謀な戦いを行なっていた。数十年の歳月の中で表面的な技術や流行は変化したが、人間の本質は何も変わらない。
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私達日本人の根底にも、1940年代と同じ血と精神の危険が流れていることをはっきりと自覚することが必要だろう。そのような基本的な事実を明確に自覚して、現在の平和で緩み尽くした社会の平穏な日常が存在していることを見ると、この平和はなんとも不安定なものであるかが分かる。
僕自身はどこにいても、何をしていても、仕事をしていても、友人や家族との楽しい時間の中にも根本的な孤独を感じる。どのような環境や立場の人間であれ人間は誰しも孤独な存在である。
人は誰しももう一人の自分自身との対話をして生きている。僕には時々、他の誰かの声が聞こえることがあるが、その恐怖は言葉にすることができない。 1
何のために生きているのか。そしてその生きると言う意味はどこにあるのか。その自身との問いは時間に終わりが訪れるまで延々に続くのだろう。迷い、悩み、苦しみ、そして立ち止まり考え、そしてまたゆっくりと一歩を前に進める。直線の道などは存在しない複雑に絡み合った迷路のような幾つもの道を行ったり来たりしながら流離うのが私達の時間、目的地がどこなのかなど分かるはずもない。それでも僕らは前に進むしかない。
代の若い時に孤独な時間を過ごした。孤独は美しい時間だ。
生き場所の当てもなく、毎日のように街を彷徨った時間、そして何の武器も持たずに目的地も無く、ただひたすらに眠り、そして本を読み、空想に浸り、街を彷徨いながら、どこにでも横になり眠り、全てを諦めていた時間に対話した自分自身はまだ自分の中に生きている。
また、全てをゼロから始めようと思う。