Colla:J コラージ 時空に描く美意識

モロッコでの救援・復興支援活動を支援する 〈赤十字2023年モロッコ地震救援金〉 にご協力願います。

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時空を超える美意識 ひと新に余白に集う 時空を超える美意識https://collaj.jp/ 錦秋 2023 水戸 /つくば 東京(江戸)から見て北東の鬼門方向に、高さ100mの塔と、まるでその塔を受け入れるように陥没した広場があります。磯崎新氏設計の、水戸芸術館とつくばセンタービルです。水戸の塔 北茨城市 大子町高萩市 日立市 常陸太田市 常陸大宮市 城里町那珂市東海村 茨城県 水戸市ひたちなか市 笠間市桜川市大洗町 筑西市 茨城町 結城市石岡市 小美玉市古河市八千代町下妻市鉾田市 五霞町境町つくば市土浦市かすみがうら市坂東市常総市行方市 美浦村 阿見町 鹿嶋市つくばみらい市牛久市潮来市 守谷市稲敷市取手市龍ケ崎市 河内町利根町神栖市 つくばの広場 水戸芸術館 1990年に開館した「水戸芸術館」。美術館、コンサートホール、劇場からなる複合施設で、地下には約200台収容の駐車場を備えています(写真左が地下駐車場入口)。 偕楽園や弘道館はじめ、徳川御三家としての長い歴史をもつ茨城県の県都水戸市。その市政100周年にあわせ、五軒小学校跡地に建てられたのが「水戸芸術館」(1990年)です。明治6年開校の五軒小学校は、日本画家横山大観、洋画家中村彝(つね)、辻永(つじひさし)の母校としても知られる名門校です。その移転が決まり、跡地の利用法について専門家による調査や市民アンケートが行われました。水戸市は偕楽園、千波湖など緑豊かな場所に恵まれているものの、都市中心部の広場や美術館、劇場、音楽ホール、駐車場が少ないことが調査から分かりました。1万人以上の回答があった市民アンケートでも、欲しい施設の1〜4位に、音楽ホール、劇場、緑の広場、駐車場が入りました。こうした結果を踏まえ、約14000㎡の敷地内に、雨水を利用した親水施設(カスケード)や芝生の都市型広場、音楽ホール、劇場、現代美術ギャラリー、会議場、地下駐車場のほか、市政100周年を記念したタワーを設ける基本方針が策定されました。 設計者はプロポーザル方式によって、磯崎新アトリエが選ばれました。磯崎新氏は、まず劇場、音楽ホール、美術ギャラリーを1つの建物に収める案と、各棟を独立する案、各棟をつなぎ合わせる案を提出します。その中から磯崎氏は、劇場、音楽、ギャラリーを別個の建物として運営し、用途によっては複数の組み合わせでも使えるというプランをすすめました。建物の設計と並行して、音楽 吉田秀和氏、演劇 鈴木忠志氏、美術 中原佑介氏という各界を代表する豪華なメンバーが運営委員となり、ソフト面の充実が図られました。 「馬の背状の地形に発達した水戸の街は、線的な都市構造を持ち、大通り(国道50号線)から1本、道を入ると、街の裏側になってしまう。それゆえ、周辺整備また周辺地区の活性化を図るのにもっとも重要なのは、この線的な都市構造を面的な都市構造に変換させることである。五軒小学校跡地施設の基本設計にあたって、この目的のためにまず考慮されたのは、当敷地を含め、用途地区を商業地区に変更すること、またこうした都市構造の変換のきっかけになりうる「都市広場」を作りだすことである。」『芸術館設計に対する基本理念』磯崎新より「塔は都市のスカイラインを生む重要な要素である。それは、遠望されるとともに、その上から展望するという二重の役割をあたえられている。(中略)その天に向かって無限に伸びていく形態によって、未来を象徴してる(幻想性)。(中略)さらに、この塔は、生物の遺伝子の構造である二重螺旋との関連を象徴するなど話題に富むものになろう(寓意性)。」『芸術館設計に対する基本理念』磯崎新より 塔のデザインは3案提案され、1辺9.6mの正三角形57枚(チタン製)を組み合わせ、高さ100mの二重螺旋が天に向かっていく姿をイメージしたA案が採用されました。他にはオベリスクに似た幾何学形態の案や北極星に向けてレーザー光線を発射する頂部をもった案がありました。「「都市広場」をとりまく施設は、芸術館である。それは、芸術・文化から美術、音楽、演劇と分岐したものを単に寄せ集めたものではなく、芸術・文化の根本にかえって一体になったものとして構成されていると同時に、使われ方もばらばらでなく、常に連続したひとつの施設となるようにする。劇場、コンサート・ホール、展示室などは関連してはいても、独立した空間として感知できるように、そして、そのなかに入ると包みこまれ落ち着ける雰囲気を生みだせるようなデザイン上の配慮がなされる(胎内性)。そして、水戸の町並みに対して、建物を突出した量塊にならないようにするために、人間的なスケールで建物の形を分節し、それらのアンサンブルが生まれるように考慮している。『芸術館設計に対する基本理念』磯崎新より 塔の展望室(地上86.4m)の丸窓から、万世橋や千波湖、偕楽園、市街の景色を楽しめます。高さ100mの塔の基礎は地上から6mの深さがあり、地下駐車場と一体の構造として、水戸台地の固い地層で支えられています。 建物の仕上げとしては、建物の地面に近いところに、石などの重厚な素材を用い、上部では金属などの現代的な素材を用いたい。これは、塔が過去と未来を両義的に表現しているように、施設全体としても過去(土着)と未来(飛躍)がたとえ矛盾しながらでも共存している様を表現するためである。『芸術館設計に対する基本理念』磯崎新より 撮影:田澤純 写真提供:水戸芸術館 「コンサートホールATM」は舞台を三方から囲むような座席配置が特徴で、天井を3本の大理石円柱で支えています。中央には直径13mの円盤状音響反射盤があり、楽器の特性に応じて上下して空気容量と反響を変化させることで、最適な音響特性が得られます。舞台後ろのバルコニー席は、コーラス席も兼ねています。磯崎新氏は、舞台を客席が囲むアリーナ式にすることで、舞台に集中するだけでなく観客同士の姿が互いに見える楽しみを与えたと言います。演奏を聴くだけならウォークマンで充分な時代に応じて、ホールの臨場感やデザインを重視し、ホールに来る意味を持たせています。地下には舞台と同じ大きさをもつリハーサル室があり、浮き床によって練習の音がもれないよう工夫されました。初代館長吉田秀和氏の尽力で水戸室内管弦楽団が結成され、小澤征爾氏(現館長)による定期演奏がひらかれるほか、和楽器や能楽の公演も行われています。施設内には茨城発祥の「サザコーヒー」や人気のレストラン「チャイナテラス五軒」があります。 エントランスホールにはパイプオルガンが設けられました。教会と同じ長方形で天井の高いエントランスは、残響時間約5秒とオルガンの演奏に適した空間になっています。マナ・オルゲルバウ社製のオルガンは、中里威氏、松崎譲二氏という2人の日本人マイスターによって制作されました。東日本大震災の際はパイプが倒れるなど大きな被害を受けましたが、2人のマイスターによって修理され、見事に復活を果たしています。定期的な無料オルガンコンサートには、多くの市民が集まります。 タマは機械のお人形だけど今日ならオバケが見えるかな? Vol.52 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 水戸市民会館 水戸芸術館の向かいに建つ水戸市民会館は、伊東豊雄氏の設計で、京成百貨店の跡地に建てられました。 カフェのような空間を求める市民の声をうけて、フリーに使える椅子・テーブルやラウンジが各所に設けられています。 東日本大震災で甚大な被害をうけた旧市民会館に代わり、水戸芸術館向かいの京成百貨店跡地に建てられた新市民会館が、2023年7月にオープンしました。革新的な木構造による広大な「やぐら広場」は見どころのひとつ。地上4階地下2階建ての会館には、収容2000人の大ホールはじめ、中・小ホールや会議室、ギャラリー、和室、屋上庭園が集約されています。 一流アーティストの公演が多い水戸芸術館にくらべ、市民会館は学生、市民、地元企業のイベントに多く利用され、大ホールでは、ゆず、EXILE、長渕剛、玉置浩二、中島美嘉などのコンサートがひらかれています。伊東豊雄氏は「子供たちが学校帰りに寄り道したくなるような、市民が日常的に使えるような場を作りたいと考えました」といいます。東日本大震災以降、伊東豊雄さんは被災地の仮設住宅地などに「みんなの家」を建ててきました。この市民会館はその延長線にあり、自治体が設定した特定の機能や目的に縛られず、市民が求める多様な場所を提供し、憩いやコミュニケーションの場となることを目指していると感じました。市民会館は国道50号線を挟んで、新しくなった京成百貨店と空中回廊でつながっています。芸術館、市民会館、百貨店の3施設はMitoriO(ミトリオ)と名付けられ、市の中心部活性化の切り札として期待されています。 心・体・思考の健康をデザインする果実を収穫したあとに残った葉をすべて落とすように、 不要なものを手放す11月。 10月の実現、収穫のエネルギーに満ちた時間から迎える11月は、いらなくなったもの、こと、思考などをそぎ落とし、完結していきます。 りんごの木が果実の収穫を終えたあと、すべての葉を落とし幹と枝だけになるようなイメージです。潔くすべてがそぎ落とされた幹や枝は少し寂しい景色ですが、新しい芽をつけるための土台整備。翌年も健やかに実をつけるよう栄養を蓄えるためにはなくてはならないこと。 自然界のいとなみは、わたしたちにも当てはまります。新しいエネルギーを迎えるためには、そのスペースを空けておく。いらないものは執着せず、潔く手放す。 写真・文 とっておきの休 決めつけていること、思い込んでいること、自分の中に溜め込んでいることなど、自分を縛っている感覚感情は、この11月にサヨナラします。サヨナラするにはちょっとした思い切りも大切です。  大吉朋子 み 時間目 時 間 はじめてのファスティング。 先日、人生初の「ファスティング」をしました。”断食”ともいわれますが、私がトライしたのは3日間を発酵ドリンクだけで過ごし、その後3日間は重湯や具なしの味噌汁から10倍粥、5倍粥と徐々に食事を戻していくというもの。我流ではなく、専門の方のサポートを受けてやってみました。 もう何年も前からファスティングという言葉は見聞きして、一定期間、胃腸や他の内臓を休ませることは大事だと理解はしつつも、なかなか実現するに至りませんでした。カフェインやアルコール、固形物をとらない数日.ごく粗食をいただく計1週間。後から思えばたかが1週間というくらいのことなのに、なかなか思い切れない。だいたいのことはやってみようと思う私ながら、ファスティングについては本当にハードルが高かったのです。何が思いきれないのかといえば、、、1週間大好きなワインが飲めないなんて、ということでした。 終わってみれば、なんということはない理由ながら、それまでの私には立派な食事がとれないことよりも、ワインを頂けないことがツライ、という認識でした。アルコール依存症でも無類の酒好きというわけでもなく、ワインというものが好きで、もはや食事の一部という感覚です。年齢を重ねるごとに体への負担も理解が進み、飲む量はずいぶんと減り、質のいいものを適量に、というように変化はしてきました。アルコールは飲まない方がもちろん体にはいいのですが、こればかりはどうも脳内にこびりついた習慣となっているようです。一日のやることを終え、すっきりとしたところでワインを頂く時間は幸せで、ホッとする瞬間でもあります。 そんな私を自分がなかなか手放せなかったわけですが、一方でおおむね健康的に過ごす中、ストレス過多サインとして胃に症状が現れ、胃炎をおこすことが年に一度か二度発生。 胃炎というのは実に不快で、体の中央あたり具合の悪さは全身に影響して、食事もまともにとれないため体力も落ち、さすがに気持ちも滅入ります。元気が取柄の私に元気がないと自分自身が一番しんどいのです。胃炎を起こすと数日間、満身創痍というのか、とにかく食欲もワイン欲もゼロ。ただただ不調で過ごすことになります。 というわけで、2023年もあと3か月というところで一念発起。少しおおげさですが、腰の重い私がついに本格的にファスティングをすることに至りました。これまでは「ワインが飲めない」などという欲が先にたっていたのに、体をしっかりリセットしたい、そしてリセットされた後に何を感じるのか味わってみたい、という思いが上回りました。 終わってみて、栄養や体についての学びの時間があったこともプラスとなり、どれだけ自分の中に無意識に習慣化していること、執着や思い込みがあったのかに気付きました。そして、体重が減り、体もサイズダウンして嬉しいことではあるのですが、それ以上に、必要最低限の食で過ごす体験は、当たり前だと思っていた習慣を手放すことや、どの程度の運動ならば自分に負荷をかけすぎないか、どの状態であると自分が快適なのか、など、自動再生するようにやっていたことを丁寧に観察することで、今はそれらの発見が自分の体に落とし込まれつつあり、これが一番の収穫のように思います。 健康の定義は人それぞれあるものの、自分の心身を快適にしておくことは一番大切だとあらためて実感しました。そのためには思っている以上に手放すことがあり、手放してみれば何ということはない。手放してみて初めてどれだけ自分自身が執着していたのか、と気が付きます。ファスティングは身体だけでなく、思考や生活習慣においても有意義なリセット時間となりました。またチャレンジしようと思います。 弘道館 アメリカ、ロシア、イギリスと外国の脅威にさらされた幕末の日本では、各地の藩校をつうじて「尊王攘夷」思想が広まりました。その中心的存在となったのが、水戸の「弘道館」です。 弘道館は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(なりあき1800〜1860年)によって1841年に開校した日本最大の藩校です。 用地を確保していることからも力の入れようが伺えます。 5haの .場所は水戸城本丸にちかく、老中の屋敷を移して10 藩士の位に関わらず入校のチャンスが与えられ、年齢は15歳〜40歳までと生涯教育の先駆けといえます。文武一致が重んじられ「文」は儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、「武」は剣術・槍術・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多彩です。また医学館には本草局・蘭学局・製薬局・調薬局・薬園が設けられ、天然痘を予防する「種痘」も実施されました。徳川御三家のひとつ水戸藩は、徳川家康の第11子初代藩主頼房公と2代目の光圀公(水戸黄門)によって築かれました。光圀公の発案によって200年以上にわたり編纂が続けられた歴史書『大日本史』から、幕末の世を動かした「尊王攘夷」思想のよりどころとなる「水戸学」が興隆します。その主軸は天皇を尊ぶ「尊皇」にあり、特に幕末斉昭公の時代になると夷狄(外国)を排除し、天皇中心の政権構造を目指すようになり、それが倒幕運動へと発展します。1867年、斉昭の子であり徳川家最後の将軍となった慶喜公は、大政奉還によって政権を朝廷に返上することになりました。 弘道館周辺には「水戸学の道」が整備されています。 弘道館に近い水戸城旧北三の丸に建つ「水戸市水道低区配水塔」は、昭和7年、熱海や真鶴の水道設備を手掛けた後藤鶴松氏によって設計されました。上部に巨大な水タンクを備える水道設備ですが、外壁に華麗なレリーフをあしらい入口はゴシック風のつくりになっていて、全市水道事業完成の記念碑ともなっています。1999年まで現役で稼働し、近代水道百選にも選ばれました。 ドラゴンシリーズ 108 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) ピーター・ズントーとの仕事(前編) のある その昔のずっと前にスイスの建築家ピーター・ズントー氏に 初めて会いに行った。それからズントー氏とはもう長い付き合いになる。スイスアルプスの渓谷の古都クール郊外の山麓の小さな村ハルデンシュタインにズントー氏は自身の居と仕事場であるアトリエ・ピーター・ズントーを構える。チューリッヒ空港で 4輪駆動のレンタカーを借り、アウトバーンから切り立った山々がどんどん出現してくる整備された牧歌的風景の彩るアルプスの美しい街並みを横目にしながら山道を走り抜けてズントー氏のアトリエ向かった。 スイスの山々と山麓の風景は、自然の創造と人間の造形力がこれほどまでに絵に描いたように美しく整えられるものなのかと思う壮大なものだ。そのような環境の中で育ち家具職人を経て歴史的な建築を創造してきたズントー氏が、どのような佇まいのどんな人間なのかと言うシンプルな興味を持って多少は緊張しながらズントー氏のアトリエに向かった。 ハルデンシュタインの古城の麓に建つアトリエ・ピーター・ ズントーは られた地下 の建物の 棟の建物で構成される。初期のコンクリートで作 階、地上 階 階部分は最初の アトリエであり、そして現在もズントー氏の思索の場として、また住居として使われている。その地下には試作工房と言えるような設備をもつ、木工房など模型の初期の試作室と図面などのアーカイブスが構えられている。中庭に面するアトリエには音楽室があり、紅葉樹の無垢板の壁面で覆われた空間にはチェロや譜面台が置かれている。氏の息子は、ドイツの ECMと言うキース・ジャレットなど有名で詩的な音楽家が所属するジャズ音楽のレーベルに属するパーカッショニストでもある。中庭には日本からの美しい楓の木が風景に溶け込み詩的な情緒感と現代性が共存する低層コンクリー ト造りの 階のアトリエは、ズントー氏の目指す現代性と普遍 性が交差する空間となっていた。 木造で建てられた地上 階、地下 階のアトリエは現在、庭 階フロアがミィーティングルームとして、 スは設計デザイン以外のマネージメントのデスクワークを中心として使用されている。地下にはアーカイブスや試作の為の素材をストックする空間がある。 木造建築のアトリエの外壁は、日本の北陸の古民家や蔵の針葉樹の壁面のように経年変化したスイスの細い木材が縦方向に 3 1 2 1 1 2 1 1 階オフィ 2                  30 代から代の若いスタッフが図面を描き模型を制作しながら働いていた。棟の中で最も新しく、スタッフが図面を描きながら同時に多くの大きなスケール模型を、時系列順に集中して制作するために作られたように感じる。 大きな地下にはそれぞれの建築資材に分けられた模型用素材の部屋がある。色の部屋には想像を超える色の素材が美しくストックされ、外壁や内装の塗壁や煉瓦、コンクリートなど、各素材の色と素材感を追及する為に集められた色を作る石やピグメント、自然素材などの様々なマテリアルが綺麗に整理され引き出しに収められている。 それは絵画を描く美術作家が自身でピグメントから色を調合するように、建築で使用する外壁の素性を決める検証用に用意されたものだ。そして、外壁の色を検証する為に大学の美術の絵画学部の研究員を雇用して色の創造に取り組んでいた。 アトリエで作られる模型のスケールはその都度の必要性によって変化すると言うが、一つのプロジェクトに掛ける時間は膨大なものであり、 1 その数年にわたるプロセスの中で検証の為に信じられない数の模型を制作する。膨大な建築模 3 型は全てスタッフの手作りであり、使われる素材は実際の建築で使われる色と素材を厳密にアトリエで再現して制作されている。 その小さくも大きな模型は実際の建築物同様の素材を使用することもあって、妥協のない数年間に渡る設計プロセスの中で、一つのプロジェクトに対して多くのプランが試作される。そんな特殊な行程の本当の意図や意味はズントー氏にしか分からない。もう設計が完成するだろうと言う感触を受けるような完成度の高さにあっても、その場でそのプランはスクラッチされて、全くの白紙で再びそのプロジェクトのデザインが始まる。そうした現場の風景を何年間にわたり何度も見て来た。それは厳しくもあり、そして数百年先に見つめる、美しく溶け込むような原始的な景色を見ている気がしていた。 そんなズントー氏と初めて会った時、二番目の木造のアトリエの階の大きなテーブルで彼の登場するのを待った。すると黒くて重さを感じるような存在感が背後から近づいたことを感じた。素直に目の前に現れた人間は、大きな日本人の僧侶が現れたような錯覚にとらわれた。袈裟を纏った徳の高い僧侶のような空気感を感じて、その時に初めて少しだけ緊張したことを覚えている。 そして、彼は僕を見て、『君は何の為にここに来たのかね。』と重く低い声を発したのだ。 (後編へつづく)細かに使用され、繊細な陰影が木材の美しさを醸し出していた。 そして最も新しいアトリエはコンクリートと木造建築の地下階、地上階で、大きなスケールの建築模型が時系列に作られ、寡黙で真面目そうな 20 3 偕楽園日本三大庭園といわれる水戸の偕楽園は、弘道館を設立した徳川斉昭によって築かれました。弘道館の「張」(学問武芸)に対し偕楽園の「弛」(余暇)を一対とした「一張一弛」の精神を体現した場です。 禽獣草木各々その性命を保つものは一陰一陽その道をなし一寒一暑そのよろしきを得るをもってなり 偕楽園表門(黒門)から入ってしばらくは、鬱蒼とした杉の森や竹林が続いています。これが一陰一陽の「陰」を示し、梅林が「陽」を示すと考えられています。 推定樹齢800年の太郎杉。 仙台空襲によって偕楽園の建物は焼失しました が、徳川斉昭公自らが書いた偕楽園記碑が残されています。江戸で生まれ育った斉昭公が初めて水戸を訪れたのは、藩主になることが決まった30歳になってからでした。石碑には「藩主になって帰国したときに、西に筑波山、南に千波湖を望むこの地を発見した。数千本の梅を植え心身保養のため好文亭と一遊亭を建てたので、詩歌や管弦、書画、茶などを楽しみ、花をめでつつ酒盃を傾け、好きなことをして過ごして欲しい。多くの人と楽しみを共にしたく偕楽園と名付けた」とあり、3と8が付く日には領民にも開放されました。 好文亭は斉昭の設計により1840年に建てられました。藩士と領民が共用した公民館的な施設で、敬老会や宴会にも使われました。仙台空襲で焼失し、昭和30年代に再建されています。床に漆を塗った東塗縁広間では、斉昭公が領内の80歳以上の家臣や90歳以上の庶民を招いた養老の会を開き、綿入羽織などを贈ったそうです。こうした領民想いな藩主である一方、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料としたり、僧侶が行っていた戸籍の管理を神社に移管するといった強引な藩政が幕府から咎められ、強制隠居のうえ2年間の謹慎処分を受けています。100面近い襖絵の大半は、須田.中氏と田中青坪氏によって復元されました。2016年には襖絵の修復も行われています。 偕楽園記碑には、斉昭公が大切にした二元論が書かれ、偕楽園もそれに基づいて作られました。「人間の本性はもともと同じなのに、君子になったり小人になったりする。道徳(仁・義・礼・智)を修め、教養(礼法・音楽・弓術・馬術・書道・算数)を学び、職務に励むことで君子になる。また人も自然と同じように、いろいろな変化があって命を保っているので、休息も大切。弓は弦を張り、弛めるからこそ強い弓である。学問や武芸のあとには、心身をリラックスするべきである」。斉昭公はこれに加え、入園時間(6時〜22時)や男女の風紀を守ること、深酒や大騒ぎを禁止し、梅の枝を折らない、籠は下りることなど規則を決めていて、これは今の公園管理の先駆けといえます。 好文亭の3階「楽寿楼」からは、千波湖や梅林、筑波山といった三方向の景色が眺められます。黒門を入ってから続く「陰」の世界が、広々とした景観によって一気に「陽」へ転じる瞬間です。 西は筑峰を望み南は僊湖に臨む凡そ城南の勝景 皆一瞬の間に集まる 梅桜橋をわたり、千波湖へ向かいました。偕楽園公園内の月池に建つブライダル施設「The迎賓館偕楽園別邸」は、茨城県初のパークPFI事業です。同事業は公園内で民間事業者が施設建設と環境整備を行い、収益の一部を公園整備にあてるものです。 水の都を象徴する千波湖。夕暮れ時には多くの市民があつまり、ジョギング、散歩、読書など思い思いの時を過ごします。かつては3倍ほどの広さがあり、仙台城の外堀として機能していました。秋から冬にかけてカモ、ハクチョウ、ガンなど渡り鳥が多く飛来します。 30 東京で 日間の真夏日が観測された今年の夏。ようやく涼し くなったと思ったら、一気に晩秋の気配。食の市場では海外産の松茸の輸入が盛んです。どこからって、そのメインは、ブータン、韓国、そして中国。ブータンの産地は標高3500メートル内外の高地が中心であるため、驚くなかれ、例年7月から収穫が始まり、9月下旬で収穫打ち止めとのこと。一方、輸入量では中国産が群を抜いて多く、次いで、ブータン、韓国、アメリカ、カナダ産などが続き、さらにトルコやメキシコなどからも、粉末などに加工されたものも含めて、日本に入ってきています。近年は中国からの輸入だけで、日本の国産の松茸の総生産量を大きく凌駕するに至っています。この中国産の松茸の中には、現在は経済制裁で輸入が禁じられている北朝鮮産が中国経由で国籍を変えて混じっていると、もっぱらの噂。 いずれにしても、今では国産の松茸は、日本国内の市場全体の中では、少数派となってしまったのが現状です。松茸の価格を考えれば当然ですが、多くの方が「栽培」に挑戦してきました。でも、なかなか 「成功」と呼べる水準には至っ ていません。椎茸・しめじ・舞茸などのように、ほぼ工場生産で、いつでも入手可能となる日は、まだまだ先のことになりそうです。要するに今、国内に出回っている松茸の大部分は外国産の松茸です。 年ほど前までは「外国産の松茸」というだけで、食通から は忌避されていました。ところが今では、外国産の松茸の中に、一種ブランド化し始めているものがある。というのも、ブータン産や一部アメリカ産の中には、日本の松茸よりも香りが強い種類があるため、こちらの方が「より香りを楽しむことができる」と礼賛する板前さんやお客さんが出始めたからです。これは、見逃すことのできない、大きな変化です。松茸は「和食」の秋の味覚を代表する食材です。それなのに、ブータンや北アメリカ産が珍重されるようになってきた。「入手のむずかしいブータン産を使っております」という感じで。質(香り)が良ければどこの国の松茸でも構わない。「ほのかな香りを楽しむ」というところから一歩進んで「より強い香り」を求める。現代の味覚 90 の志向の変化が背景にある、と見ることも出来ます。いずれにしても、松茸をめぐる国粋主義が終わりつつある。とはいっても、昔から全国津々浦々に至るまで広く「秋の松茸を楽しむ習慣」があったわけじゃないので、「和食文化の危機」というほどの話ではありませんけれど。それでも、年前には考えられなかった流れが生じていることは、注目すべき変化です。 秋といえば、秋鮭。こちらは9月末から、北海道産の生鮭が出回っています。とはいっても、年間を通じて一般に出回っているのは、圧倒的に「塩鮭」です。例えば全国のビジネスホテルで「朝の和定食」として出される定番の塩鮭。日本産の塩鮭を使用しているビジネスホテルなんて、ほとんどないはず。安価な定食屋さんの「塩鮭定食」にしても、スーパーやお弁当屋さんの鮭弁当、コンビニの鮭にぎりにしても同様で、大半がチリやオーストラリアからの養殖モノです。その「和定食」に付き物の味噌汁。使われる味噌の素材である大豆もまた、安価な 30 味噌は海外から輸入された大豆を使用しています。場合によっては、豆腐そして 25 醤油さえ、アメリカやカナダやブラジルから輸入された大豆が原料ということだって大いにあり得ます。というのも、日本における大豆の総消費量に占める国産大豆の割合は、大きな量を占める精油用を除いて数えた場合でも、%程度に過ぎないからです。さすがに、お米だけは国産を使っていると思われますが、梅干しもまた安価な中国産である可能性を排除できません。要するに今「安価な和定食」は、素材から見れば「どこに和があるのか定食」なのです。皮肉ではなく、現実を冷静に見つめて頂きたいのです。 では「衣食住」の「衣」はどうか。昨今わ たしたちが日常的に着ている衣服、これもまた、大半が海外製です。私を含めて 着ている服が下着まで含めてすべて海外製という方だって、決して珍しくないは ず。日本で生まれた素材から糸を作り、これで織り上げた布で、国内で縫製され た服を着ている。そんな人は、超高級呉服をお召しの方ぐらいではないでしょうか。 今では、特に男の場合、定年後の年配者たちでさえ、アメリカのおじいさんたち と同じような格好をしている。東京の爺さんもカリフォルニアの爺さんも着てい るものには、大差がない。その産地は中国やベトナムやバングラデシュなわけで、「衣服」の世界は、ほぼ完全にグローバルな世界となっています。 ところで「和服」という言葉。日本国語大辞典(精選版)によれば、「日本在来の衣服。日本で、古くから用いられている様式の衣服。きもの。」となっています。注目すべきは、この「和服」という言葉が、明治の中頃から使われ始めた言葉であるということ。欧米から「洋服」が多く流入し、当時のエリート層が多く洋服を着用し、学校や軍隊や警察の制服も洋服が当然となっていく過程で使われ始め チリ・オーストラリア中国 日本?アメリカ・カナダブラジル た言葉です。「洋服」という異質な文化の奔流に対する形で「和服」という言葉が 使われ始めたという流れです。 最後に衣食住の「住」。私が子供の頃、「和室」という言葉は、めったに耳にしませんでした。その代わり、今ではまず耳にしなくなった「洋間」「洋室」また「板の間」という言葉を、日常的に耳にしています。これは何を意味しているのか。当時の日本の家は、大半が畳の部屋が当たり前で、家の中に一部「板の間」や「洋間」もしくは「洋室」と呼ばれる部屋が作られていた。だから当時は誰も「和室」なんて言葉は使わなかった。部屋は和室が当たり前だったからです。今、私達が「和室」という言葉を当たり前に使うようになったのは、現代の大半の家庭で、畳の敷かれた和室 30 がひと部屋あるかどうか、という段階に至った からです。「和室」は他の部屋とは違う「特別な 作りの部屋」という存在になった。私が子供の 30 頃とは、主と客が逆転した結果です。 30 30 で、ここでもう一度、衣食住の「食」に戻りましょう。昨今、以前にも増して盛んに「和食」という言葉が使われるようになってきました。これは、もはや私達の食事の中心が「和食」ではなくなっている、ということの反映です。日常の食で和食が当たり前であったら、誰も「和食」なんて言葉は使いません。「和菓子」についても同じです。私が子供の頃は「洋菓子」という言葉をよく耳にしました。でも今では菓子店の名前に残る程度で、「きょうは洋菓子を買って帰りましょう」なんて誰も言いません。「和菓子」は少数派となってしまった。かつては盛んに使われた「洋酒」という言葉も、今では酒類の分類に使われるくらいで、その代わりに「日本酒」という言葉が一般化しています。スーパーやデパ地下で「洋酒売り場はどこ?」なんて聞く人、まずいないはずです。 何が言いたいのか。この「失われた年」の 間に、私達の暮らしは衣食住のすべてに渡って、巨大な変化が生じている、とい うことです。国家経済的には間違いなく「失われた年」です。でも、その間に、「和食」「和服」「和室」という言葉が当たり前に使われるようになった。私達の日 常の暮らしのあり方に着目すると、決して「停滞の年間」などではなかった。 むしろ、見過ごすことのできない「巨大な変化が生じた年間」だった。この日 常の生活文化の本質的な変化は、今後社会の多方面に大きな影響を及ぼしていく ことになりそうです。 written & photo by 落水荘への道 HERMINE The Way of Fallingwater 建築に興味を持つ人ならだれでもその名を聞いたことのある、世界的建築家、フランク・ロイド・ライト。ライトの作品のうち、8つが「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」として世界遺産に登録されています。そのうちの一つ、ライトの作品の中でも特に有名なこの落水荘を、ワシントンを起点に訪ねました。 落水荘は西ペンシルベニア州保護財団によって管理され、1964 年の公開開始以来、600万人もの見学者を受け入れています。2002年には崩落の危機にあったテラスの補強工事が行われました。見学の申し込みは電話か財団のウェブサイトからでき、いくつかのコースが選択できます。邸内を見学できるコースは2種類あり、概要は以下の通りです。情報は2023 年9 月のものですので、実際に訪問を計画されるときは、最新の情報を確認されることをお勧めします。 日本からはるばるここを訪れようというような方なら、IN Depth Guided Tour( 以下、Depth Tour Tour)一択だと思います。他には1800ドル払うと、邸内見学に加えてテラスでの素敵なディナー体験、などというツアーもあるようです(4 名限定、二週間前までの予約必須)。ただし、Depth Tour に参加するには朝の8 時頃には落水荘のビジターセンターに着いていなければなりません。ワシントンからの所要時間約3時間半、余裕を見て4時間とすると朝の4時には出発したいところです。今回の移動にはレンタカーが必須とはいえ、観光のメインがワシントンであることから市街地の観光には不向きなレンタカーの借用期間はなるべく短く済ませたいところです。そこで、移動前日の遅い時間にレンタカーを借りて、翌朝早朝に出発、落水荘の見学は午前中に終わるので、ゆっくりワシントンに戻っても夕方に返却すればレンタル期間は24時間以下で済む、という計画を立てました。ワシントン市街にあってアクセスの良いロナルド・レーガン空港(地下鉄でアクセス可)で、レンタカーは「折角のアメリカなんだから、アメ車で面白いやつ」と車種指定でジープを借りました。運転に慣れるために車を使って郊外のレストランに食事に行くなどして、同行者と一緒にしばらく走り回り、駐車場はホテル前の道路の有料駐車帯が夜にはフリーになると聞いたので、そこに停めました。 ワシントンDCから落水荘までは約320キロ、東京からだと名古屋ぐらいに相当する距離になります。行程の殆どが無料のインターステーツ(高速道路)で、制限速度は場所によって違いますが、60〜70マイル(約96〜112キロ)。実際に走ってみたところ、ヨーロッパのように飛ばしている車は少なく、道幅も広いので右側通行に気を遣う以外はたいへん走りやすい環境でした。日本の高速道路のように、サービスエリアはありませんが、インターチェンジ周辺にはガソリンスタンドやホテル・飲食店などがあり、インターチェンジが近づくと提供されるサービスを表示した標識が現れるので、それを目安にインターを降ります。往復700キロ近い距離なので、途中の給油は必須ですが、給油の作法は日本のセルフスタンドと全く変わりはありませんでした。 320キロの旅を終えて、無事Fallingwaterに到着です。敷地の入り口にゲートがあり、ここで事前予約の名簿との照会を受けます。予約が無いと入ることができません。 パーキングに車を停めて徒歩一分もかからないビジターセンターに向かいます。正面のボックスオフィスで予約名を告げて、冊子をもらったり、手荷物預けのロッカーのカギを受け取ったりします。落水荘には大きな荷物を持って入れないので、無料の手荷物ロッカーを利用します。この日は生憎の雨(雪)模様でしたが、傘もここでレンタルできました。ビジターセンターにはライト建築の写真ギャラリーなどもあり、ツアーメンバーの集合まで時間を潰せます。ツアーに入るとトイレがないため、ここで用を足しておく事も重要です。 ツアー開始予定の8:30に、参加者が揃っているのを確認してビジターセンターを出発します。パーティーのメンバーは殆ど年配の夫婦で、私たちを含め8人ほど。この日はたいへん寒い上に生憎のみぞれ雨で、全員施設の傘をさしての移動となりました。5〜6分ほどガイド氏の先導で歩くと、雑誌等で幾度となく見たあの建物が見えてきました。 DepthTourでは、有名なリビングはもちろん、複数ある寝室や、キッチンリビングから滝に降りる階段部の建具を開けるデモなど、邸内の殆どの空間を回り、自ンストレーション。面白い構造でした。まさに、「神は由に撮影することができます。細部に宿る」といった印象です。 家具や調度品も備わった生活感のある展示で、当時の生活の様子が伺えます。 ▲ 本館とゲストハウスをつなぐ回廊を覆う、階段状のカンチレバー屋根。 カウフマン家のサマーハウスである落水荘の本館を見下ろす位置に、訪れた人を泊めるためのゲストハウスがあります。素材や質感は本館と共通ですが、外観は本館ほどの意匠的な特徴はありません。インテリアは本館同様、屋根を意図的に低くして、窓の面積を広く取り、下界に視線を誘う重心の低い空間づくりは共通しており、とても寛げる雰囲気です。このゲストハウス横にはプールもしつらえてあります。 1時間以上かけて、たっぷりライト建築を堪能した後、パーティーは落水荘前で解散します。各々ビジターセンターに戻る途中、改めて落水荘の外観を撮影したり、周辺を散策したり、川沿いに少し下った場所にある撮影スポット(左写真)での記念撮影などを自由に楽しんでいました。ビジターセンターのカフェで一休みして、ミュージアムショップで土産物選びを楽しんだ後、昼前に帰路につきました。途中、カンバーランドという美しい建築が並ぶ街に寄り道をしたりして、ワシントンに着いたのは16時。なかなか充実したワシントン旅行オプションとなりました。レンタカーでの旅はハードルが高いと思う方は、ワシントン出発の日本人向け現地ツアーもありますので「落水荘 ワシントン ツアー」で検索してみてください。 帽子作家でイラストレーターでもあるスソアキコさんの帽子展が六本木のTIME&STYLE MIDTOWN で開催中です(11月20日まで)。10月20日のレセプションでは「プロジェクト大山(古家優里・三輪亜希子・長谷川風立子)」のダンスパフォーマンスが披露されました。 さまざまな素材を自在に操った造形から、頭につけるものだからこその自由を感じました。スソアキコさんは金沢美術工芸大学卒業後、資生堂在籍中からイラストレーターとして活躍。立体的な造形への興味がつのり、帽子デザイナー平田暁夫氏(Haute ModeHirata)に師事。ブレードを使った帽子づくりなどを学んだそうです。 つくばセンタービル つくばセンタービルは、筑波研究学園都市の中核施設として企画され、1983年に完成した建築家磯崎新氏の代表作です。中央の広場をホテル、コンサートホール、インフォメーションセンターなどがL字型に囲うプランになっています。 中央の広場は、ペデストリアンデッキよりも低いサンクンガーデンになっています(実際は地上面)。多彩な建築の姿を楽しみながら歩くうちに、デッキの上から眺める広場がローマ遺跡のように見えてきました。 撮影の下見に訪れた写真家石元泰博氏は、この建物は撮影が難しい。全貌を一枚で捉えられる決定的なアングルがない。表も裏もすべて異なっているので、そのすべてを押さえてやっと全貌を感知できるだろうと磯崎新氏に言ったそうです。磯崎氏は「この観察が案外、この建物の特徴を適確に言いあてているかもしれない。全体としては三段構えになっているし、色彩的にもモノクロミックに見えるのだが、細かく見ると、ひとつとして繰り返しがない。外観がいずれの側もすべて異なっているのである。」(『磯崎新のディテールつくばセンタービルの詳細』より)と言います。 消滅していく建築 サンクンガーデンの滝の前は、階段状の観客席を備えた屋外ステージになっています。 《 TSUKUBA I 》 1985年《 TSUKUBA Ⅱ 》 1985年《 TSUKUBA Ⅲ 》 1985年 つくばセンタービル完成の2年後。1985年に発表された磯崎新氏のシルクスクリーン作品《 TSUKUBA》シリーズには、時を経て崩壊したような建物の姿が描かれています。つくばセンタービルを議論した本『建築のパフォーマンス.〈つくばセンタービル〉論争』(パルコ・ピクチャーバックス)の表紙にもなり話題を呼びました。 「これは、私なりの日本の国家をセレブレイト(祝う)する方策から導かれた。その国家に所属しているし、それが直接に企画した場所を設計しているわけだが、その国家の貌が、私には明瞭に見えない。いや、見せたくない、というのが本音で、堂々と明快な様式性をもって賛美するには、その貌はあまりにも風化している、と感じているためである。それにもかかわらず、この場所はセレブレイトされねばならない。そこで、虚や空洞や消滅や下降が、メタフォアとして取り出される。」『建築のパフォーマンス.〈つくばセンタービル〉論争』(消滅というメタフォア 磯崎新)より ホテルの窓のまわりには釉薬を掛けないタイルを張り、改装時のサッシュ交換に対応しています。 ギリシャ神話のダフネとアポロの物語をモチーフにした彫刻「月桂樹とパピルス」は彫刻家長沢英俊氏の作品。彫刻の元から溢れた水がカスケードと合流します。関根伸夫氏、長沢英俊氏、原口典之氏の3者の案から長沢氏のダフネ案が選ばれました。「スケールといい、主題といい、この場所に最適であると感じた。石組みの滝をつくることはすでに決められていたし、その水源に近く追いつめられた処女が月桂樹に変身するという主題は、この広場で可能なかぎりの消滅のメタファーを実現させようとしていた私の意図にぴったりと思えた。」『建築のパフォーマンス.〈つくばセンタービル〉論争』(迷路的物語の組み立て磯崎新)より。  秋の彼岸を過ぎても長引く酷暑に辟易しておりま 肌寒く感じるくらいそれはそれは劇的な秋への移 さりとて、コロナ明けとともに上昇の一歩を辿る世界的インフレ。自然災害の猛威とも戦わねばならぬ時のはずが、またもや中東で戦争の二の舞とは、、これいかに・・・・ 頭上を征く旅客機様やヘリコプター様なども涼しくなったからかしらね〜パワー全開でお飛び遊ばしておりますわ!!国内に目を向ければ、日本の話題といえばジャニーズ問題を引きずったまま半年が過ぎ、世界中に恥の上塗りをさらけ出しています。いまさらではございま その42すが、ジャニーさんってまさに裸の王様でしたのねっ! 青山かすみ 南風なれども 様式の混在と衝突 中世を思わせる石造り、未来的なアルミパネルなど、つくばセンタービルは様々な時代の様式と素材が混在し、複雑なディテールにあふれた建物として知られています。 「つくばセンタービルの計画をはじめた1970年代の終わりに、私は、近代建築と様式的な建築との差異を主張するのではなくて、その両者を均等な距離に置き、近代建築をもうひとつの歴史的様式と考えて、いっさいを混在させることを試みようとした。(中略)ここでは近代建築の抽象的構成も、様式的建築のオーナメンタルな配置も、同様に許容しながら、それぞれが内包している様式的連続性を破壊し、ディスジャンクションともいうべき、不連続な結合をあえてこころみようとした。その意図の背後には、突然、不連続なまま異質のシステムが衝突することによって、その場が生みだす異和感、衝撃をとりだすことにあった。」『磯崎新のディテールつくばセンタービルの詳細』(ディスジャンクティブのディテール -つくばセンタービルの場合- 磯崎新より) ホテルは現在「ホテル日航つくば」となっています。1階の入口からペデストリアンデッキの高低差をつなぐ階段ホールには蛇紋岩が多用され、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ礼拝堂を思わせる白と緑のボーダーがロビー空間全体にあしらわれています。この高さの異なる2つのエントランスを持つことが、つくばセンタービルの多様性を生み出しています。 3段構えの材料づかい つくばセンタービルの基本デザインに、西洋の伝統的パラッツォの構成にも見られる「三段構え」があります。ベースの商業空間には、石造を模したコンクリートハンマー叩き仕上げ、ミドルの居住空間には金属的な輝きをもつシルバーのラスタータイル、トップの屋根裏部にはアルミパネルが当てはめられています。 ホテルの1階入口に立つ鋸刃上の柱は、クロード・ニコラ・ルドゥによるアル=ケ=スナン王立製塩所(18世紀フランス)を引用したといわれます。その隣にはアルミパネルとガラスブロックを使った有機的曲面があり、様式の混在が見られます。 つくばセンタービルの設計者は、当時はまだ珍しいプロポーザル式によって選ばれました。その審査の場で、磯崎新氏は人工的に作られていく都市に対して、疑問を投げかけます。「大げさにいえば、筑波研究学園都市の中心施設の計画というこの仕事には、私は、日本という国家の影を感じていた。(中略)最初のプロポーザルで報告書を制作するときに、私たちは、この都市に欠けているものだけをひろいあげることにした。(中略)たとえば、呪術性(東京から鬼門にあたる)、迷路性(主要道路から小路にいたるまで、徹底的に見透しがよい)、劇場性(建物が背景の装置で、広場はその舞台、そこに集まる人間が主役、といった都市的空間がどこにもみあたらない)、複合性(機能的、用途的に、明快に割りつけられてしまったために、都市が所有しているはずの偶発的な組み合わせが生みだす不意の楽しみが、まったくみつからない)、両義性(均質化されてしまった都市と建築の空間。論理的な透明性が支配する限りでは、都市も建築も、内部に矛盾をふくみながら多義的に語るといった魅力を生みだすことはできない)、象徴性(何をシンボライズし、何を語るかがあらためて問われねばならないとしても、それを意図した建築的な方法によってつくられた建物がみつからない)、界隈性(かなりの量の異なる施設の集積がない限り成立しないのだが、かくまで明確に太い道路で区切られていて、はたしてにぎわいが生みだされていくサンクンガーデンに築かれた水の流れるカスケードは、チャールズ・ムーア作のイタリア広場(ニューオリンズ)をモチーフにしていると言われます。流れた水は広場中心の噴水に導かれます。材料には地元の稲田石が使われています。磯崎新アトリエのスタッフがつきっきりで石積みの作業をすすめたそうです。のだろうか)など。(中略)このプロポーザルによって設計者として選ばれたことは、この計画を推進する母体もまた、筑波の現況に不満をもっていたのだ、と私は理解した。国家的な規模でのプロジェクトで、戦後の日本の都市計画陣が総力を挙げて建設しつつあるニュータウンに、批判的であった故に、かえって設計を担当することになった。」『建築のパフォーマンス.〈つくばセンタービル〉論争』(都市、国家、そして〈様式〉を問う磯崎新)より 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】 ミュージカル「生きる」を観る。 友人から『娘が「生きる」の舞台に出る』と、 LINEで知らせてきた。娘さんといってもを超えたベテラン女優である。根っからの舞台人で、小さい頃からその道1本、厳しい中でもよく続けている。何回か観に行ったが、ひとつの舞台で4つか5つの役を受け持つという。最初はオペラグラスで必死で探していたものの、今では舞台に現れた彼女はすぐにわかるようになった。 9月初旬から新国立劇場で公演されると聞き、チケットを取 「生きる」は、黒澤明監督、志村喬主演で 70年前に公開された 映画で、いくつぐらいの時か何処で観たかは覚えていない。 雪のちらつく公園のブランコで『いのち短し恋せよ乙女  .』 を口ずさむシーンは、はっきりと覚えている。志村喬のあの 声までが耳に残っている。 重いテーマをミュージカル仕 立てで演出するのは難しいと 思うが、ベテラン市村正親と 鹿賀丈史のダブルキャストで 主人公渡辺勘治を演じる。 新国立劇場は初めてで、 W E Bを見ると初台駅からの行き方が丁寧に案内されている。これなら方向音痴の私でも大丈夫と思いつつ、待ち合わせた友人とタクシーで行くことに。劇場地下に横付けされたものの、どう行けばいいのかトントわ る。 40からない。地下でウロウロやっと地上に出ると、9月に入ってからの日差しはすこぶるきつい。早めに行ってゆっくり食事をするつもりが、めまいを起こしてそれどころではない。ベンチを見つけコンビニでおにぎりを買って一息、ようやく何処にいるのか理解した。彼女の出るミュージカルの観客は若い女性が多いが、団体バスで来ているご高齢の方や男性客も多く、いつもと違う雰囲気で劇場に入った。 映画とは異なり、舞台では売れない小説家が水先案内人となって、ことの次第を説明しながら展開していく。無遅刻無欠勤の役所勤めをあと少しで定年という時に余命を宣告された 30 主人公渡辺勘治が、最後の命をかけて市民のために公園をつくるという話は、典型的なお役人仕事、たらい回しのあれこれ、お金がものを言う時代をよく表している。戦後間もない、みんなが必死に生きていた時代でもある。幼いときに見た懐かしい風景も出てくる。近所にいたおばちゃんたちがそこここにいる。道はどろんこ、身なりは貧しく、子供をおぶって逞しく働く優しいお母ちゃんがいた。隣近所みんな助け合って生きていた。そんな時代の物語である。 前の方の席で観ている人たちは、みな同じくらいの年代の人、ミュージカルではあるが、懐かしい思いをしている人も多いのではないだろうか。最後、雪の降る中、出来上がった公園のブランコで『いのち短し・・.』を歌う鹿賀丈史、死を間近にして絞り出すように歌うシーンは、やはり胸 30!! に迫るものがある。休憩を挟んで3時間半、久しぶりのミュージカル、冷房で体は冷え切ってしまったが、カーテンコール3回を最後まで観て、舞台の上の彼女に手を振った。 帰りは目の前の初台駅から新宿駅へ。新宿には「三国一」といううどんすきのお店がある。 年前によく行ったが、やっていれば冷え切った体には丁度いい。建替工事があちこちで進められている新宿、果たして残っているか?あった中途半端な時間でうどんすきをやってくれるか心配だったが、大丈夫とのこと。さすがに夏場の昼間にうどんすきをやる人はいないのだろう。2階に案内され、少し傾いた階段は昔のまま。うどんすきも昔のまま、夏でも白菜がたっぷり、大きなしめじも入っている。エビやホタテ、白身の魚も入って、うどんは打ち立て。少し塩がきつい出汁もそのまま。最近は何処へ行っても「昔」がなくなっているが、そのままに変わらないのが懐かしく嬉しい気持ちになる。若い店員さんに年前から変わらないねというと、「ご贔屓にしていただいてありがとうございます」と、殊勝な言葉が返ってくる。こういうやりとりができる人もまだいるかと、またまた嬉しくなる。 久しぶりにビールを飲んで、ほろ酔い気分で明るい新宿東口を通り抜け、3D猫を見て口をアングリ、歌舞伎町のゴジラの首に度肝を抜く。新宿東口も歌舞伎町も昔は歩けたが、今はお上りさんそのもの、案内なしでは到底歩けない。這う這うの体で新宿を後にした。