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ラトビアの謡 時空を超える美意識 https://collaj.jp/光の春 2026 ラトビア 前号のラトビア特集に続き、首都リーガから北東へ 80kmほど離れたツェースィスまで足を伸ばしました。ソ連時代の核シェルター(バンカー)や湖底に眠る幻の城、野鳥観察から生まれたミシュラン・グリーンスターのレストラン。ピルツマスターが幻想の世界へと誘うサウナなど、ラトビアの魅力満載です。 L.gatne リーガトネ自然に恵まれた社会福祉の先進地 美しいガウヤ川の流れるリーガトネは、1815年に設立された製紙工場とともに発展した街です。工場のまわりには労働者住宅のほか、学校、病院、文化会館が建ち並び、19世紀としては先端的な労働者のための「社会福祉」も提供されてきました。当時の歴史的な木造・レンガ建築はラトビアの文化財に指定され、今も住宅や店舗として使われています。 レンガ造の製紙工場は、最高品質の紙をロシアはもちろんドイツはじめヨーロッパ各地に輸出していました。現在は産業遺産の工場内を見学するガイド付きツアーも開催されています。そのほかリーガトネには自然豊かな遊歩道やベリーワイン(果実酒)のワイナリー、砂岩の洞窟など色々な見どころがあります。 リーガトネ川にかかる、日本では珍しい逆アーチ型の歩行者橋。逆アーチ型は地盤の緩い場所でも基礎が小さく収まります。 Pav.ru m.ja パワール・マーヤ 橋の先には、かつて製紙工場の産院だった建物を改装した Pav .ru m.ja(シェフの家)が訪れる人を出迎えます。地元農家、自然環境と共生するレストランとして注目されています。 ヘッドシェフのユリス・ドゥカリスキスさんと、サービスマネージャのアルトゥールス・クリャヴィンシュさん。持続可能性を評価する「ミシュラン・グリーンスター」を獲得しました。 2019年にオープンした Pav .ru m.jaは、ラトビアのトップシェフ エーリクス・ドレイバンツさんの「創造的な仕事に100%専念できる場所を作りたい」という夢を叶えたレストランです。ドレイバンツさんはリーガ旧市街「3 Pav.ru restor.ns」(3人シェフのレストラン)の共同創設者で、テーブルクロスへソースを使った絵画を描くパフォーマンスにより一躍有名に。ラトビア料理界の新星として実験的、視覚的、グローバルな潮流をもたらしたといわれます。 レストランの「自然観察ガーデン」。イルゼ・ルクシャーネさんのランドスケープデザインにより、焚き火場、ガゼボ(東屋)、コミュニティ温室、子どもの遊び場、野鳥の餌やり場などが整備されました。庭の花壇では黄カブや古代ハーブなどラトビア固有種の回復を試みており、レストランの生ゴミを堆肥化しハーブや野菜づくりに利用しています。庭は開放され、地元の方が何人も歩道を通り過ぎていきました。レストランを継続するため、地域社会との共生が大切にされています。アミューズは、シーバックソーンのジュレや鹿肉タルタルのタルト。 Pav .ru m .jaは伝統食材の復興とともに、歴史ある建物の再興も担っています。このレンガ造の建物は、1901年、リーガトネ製紙工場のオーナーメンツェンドルフ家が私財を投じた産院でした。工場の女性たちは出産が近づくと産院に入り、常駐する助産師により大切にケアされ、最初の 20年間で約 600人の子どもがここで生まれたそうです。 メンツェンドルフ家は他に総合病院も開設し、従業員は無料で診療できました。 壁に飾られている野鳥の絵が、この店の成り立ちを物語ります。産院は第二次世界大戦後、社員寮としても利用されますが、やがて使わなくなり10年以上放置されたままでした。子どもの頃から野鳥観察を続けていたドレイバンツさんは、洞窟に棲むコウモリを観察するためリーガトネを訪ねるうち、荒廃した元産院を見つけ再生を決意したそうです。長い時間をかけ屋根を葺き替え、サッシを木製に替え、隙間を羊毛で塞ぎ、壁は天然の漆喰で仕上げています。低温調理した卵にイクラとワカサギ卵をトッピング。家具がラトビアの木製家具メーカーストラウベク社。ガラス工芸はアルティス・ニーマニスさん、金属工芸はミクス・ウアズアルスさん、花瓶など陶器はエヴィヤ・セラミックス工房、木の器は木工家リハルズ・ヴィジツキスさん、リノベーションの設計はラウダー・アーキテクツとの協働により行われました。食材も近隣農家や、湖の漁師から直接入手しています。こうした個と個のリレーションシップによって、長く愛される店づくりが可能になるのです。 ブルトニエクス湖のパイクパーチ(ザンダー)はモチモチした歯ごたえで、昆布を効かせた和風の味付け。魚の皮もパ リッと美味しく、ドレイバンツさんのモットー「ノーズ・トゥ・テイル」(鼻先から尻尾まで使い切る)が体現されていま す。ラトビア北部のブルトニエクス湖は水深が浅く、パイクパーチの釣り場として人気です。ラトビアには氷河によっ 地元産の菜種油と て削られた湖が大小 2000カ所以上も点在します。 白樺のシロップ。 ゴボウのようなブラック・サルシファイ。 血のソーセージのクロケットは、開店までのストーリーを封じ込めたような一皿。荒々しく削った木の皿に鳥の巣状に小枝を敷き、野鳥の卵のようなクロケットを載せて、地元で育ったブラック・サルシファイ(西洋黒ゴボウ)のチップスを添えました。リーガトネに 300カ所以上ある砂岩の洞窟は、食品の保存やワインセラーにも活用されています。 ▼ オリジナルのハチミツ、ソルト、白樺シロップ、ドライマリネ、スパークリングジュースなどを購入できます。 鹿肉のチョップにプラムのピューレ、ブラックトランペット茸を添えたメイン料理。松葉にのせたマッシュルーム形のクッキーがつきます。森の中で鹿と出会ったようなドラマチックな一品です。 あの日咲いた花の香りを瓶いっぱいにつめてぼくは深くコルクの栓をした Vol.80 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ L.gatne Padomju slepenais bunkurs旧ソ連時代の核シェルター 2003年、リーガから75kmほど離れたリーガトネで、大きな発見があったことが明らかになりました。リハビリテーションセンターの地下から、広大な核シェルター(バンカー)が見つかったのです。米ソの冷戦期(1947年〜1991年頃)、西ヨーロッパとの最前線にあったラトビアには、核ミサイル基地やレーダー基地が多くあったため、街には核攻撃を想 定した地下核シェルターが設けられ、防毒マスクをつけた避難訓練が頻繁に行われていたそうです。 ▲入口にはレーニンのスローガン「常に警戒を怠らず、我が国の防衛力を瞳のように守れ!」を掲げています。 ▼廊下の両側には党幹部の暮らす個室が並んでいました。 ソ連風の迫力ある演技でバンカーを案内してくれるのは、ガイドのオスカルスさんです。面積は約 2000㎡、ラトビア共産党の最高幹部約 250人が3カ月、地上とは隔離された環境で生活できる設備が整っています。特にモスクワ(クレムリン)や各基地・警察と連絡をとるためのソ連製通信機器が充実し、当時のままに残されていました。1991年のラトビア独立回復後、ラトビアから撤退するソ連軍は秘密保持のため多くの軍事施設を破壊しました。しかしここは閉ざされたままの状態で、発見時は「まるで今さっきまで職員が居た」ようだったといいます。ソ連崩壊から35年を経たいま、ソ連製の機器を当時のまま保存した場所はとても貴重です。ラトビアでもソ連支配時代を知らない世代が社会の中心になるにつれ、バンカーやミサイル基地、秘密軍事都市、レーダー基地などを、社会教育や観光資源として活かそうという機運が高まっています。ラトビアを中心とした巨大な地図を掲げた「作戦室」(ウォー・ルーム)。核攻撃を受けた際はこの部屋が閣僚評議会の司令室となり、ラトビア全土を統治する予定でした。地図には最新の軍事基地の配置、道路状況、核シェルターの位置、放射能の拡散予測などが記され、状況に応じて反撃の方法、住民の避難経路、農作物の汚染状況などを判断し、軍を指揮します。平時には閣僚や軍幹部が招集され、核戦争を想定した大規模な訓練が行われていたそうです。冷戦時にはこれらの地図は、軍のトップシークレットだったのです。 生命維持装置 バンカーで最も大切なのが、空気を浄化し換気するシステムです。外気の放射能物質を吸着する巨大な化学フィルターや空気再生装置(二酸化炭素を取り除き酸素を供給)など、換気装置は今も稼働します。バンカーの気圧を外よりもわずかに加圧し、放射性物質が入らないようになっていました。また水は150mの深さの井戸から供給。トイレは真空式で汚物を秘密裏に排出するシステムまで備え、冷戦期の「方舟」ともいえる施設でした。 3カ月ここで生活することを踏まえ、特別な要人の部屋は天然木を使ったホテルの様な作りです。個室の前には控室があり、椅子やデスク、電話なども全て当時のもの。一度バンカーの中に入ると外の状況は見られなくなってしまうため、通信情報を確保できるよう電話機や通信機が数多く置かれ、毎日のように通信状態が確認されていました。 クローゼットの衣服やテーブルの上の雑誌類もリアルです。 個室の奥には執務室があります。ここを利用するのはラトビア共産党の第一書記やラトビア・ソビエト閣僚会議の議長など、政治のトップだったと考えられており、赤い電話はモスクワ(クレムリン)や秘密軍事基地、核ミサイル基地への専用回線で 007番交換台のオペレーターにつながりました。 施設は現在、リハビリテーションセンターリーガトネとして、スパ、シニアハウス、リハビリ、ホテルなど多用途に運営されています。リーガからリーガトネまで車で1時間半ほどかかるため、核攻撃が始まってからここへ辿り着けるか疑問は残ります。特別な避難先を設けることで権力者の優越感を満たし、精神の安定を図ったという専門家もいます。 バンカーでの日常を感じさせる食堂。ガイドツアーにはロシアの定番料理をここで食べられるコースもあります。もし核戦争が起こったなら、党の幹部や軍人が集い食事をする姿が見られたのでしょうか。厨房の窓口に掲げたスローガン「パンを大切にしよう。それは何千人もの労働の結晶なのだ!」。極秘の施設とはいえ点検や備蓄した食料の管理が必要だからこそ、リハビリテーション施設の地下はカモフラージュにうってつけだったかもしれません。 暗い階段を上がり、外の景色を見てホッとしました。キューバ危機やスタニスラフ・ペトロフ事件など、第二次世界大戦後、核兵器の使用を奇跡的に回避した人類にとって、この何気ない風景がとても尊いものであることを実感します。 静観する 3月。 2026年 3月は「4」のエネルギーが流れる1カ月。「4」は落ち着いたマインドの数字。ものごとのポジティブやネガティブも見すぎることなく、中立的な視点から世界を静かに眺めます。公平で理性的、秩序ある世界を表すのが「4」のエネルギーです。 2月は少し浮足だつような、賑やかなエネルギーが流れていました。ポジティブ思考も強かったかもしれませんが、3月は一転。気分が高揚したあとの静けさのような、本来のペースへ立ち戻り、冷静に考え、整理する時間です。ふと我に返ると、きらきらしていたものすら見え方が変わってくるかもしれません。それらの良し悪しではなく、すべてを冷静に見つめジャッジせずに受け止めます。 悪い方にばかり考えが及んだ時は、一旦その場から離れ、マインドをリセット。落ち着いて考えてみると、違う世界が見えてきます。ひとつの何かにとらわれている、と思ったら、全体を見る意識へ切り替えます。 年度末、卒業や送別、引っ越し、春休みなど、せわしない気持ちになりがちな 3月。意識して、落ち着いた気持ちで過ごすことで、自然と良い流れとともに進みます。 プレ節目の年・聞くこと・人。 つい先日誕生日を迎え、ひとつ年を重ねた。40代もいよいよ最後の一年となるプレ節目の年。やんちゃな私もそれなりの年齢になってきたのだと、歳の数字を思うといろいろと頭をよぎる。ついこの間まで学生だった気がするものの、社会人になってから四半世紀以上が経ち、20代の頃に想像していた「大人」とはだいぶ違う。けれど、それはそれでいいなと思う。そして、当時には想像もしていなかった展開になっているのだと、あらためて振り返る。 今、再びカウンセリングを学んでいる。また違う切り口での学び。「人」への興味がだんだんと広がってゆき、もっと深めたいと思い一念発起。自分自身と向き合う時間、振り返る時間が多くなり、必然的に過去を思い出す作業も増えてきた。 学びを進める中で、自分の皮を何枚も剥がしては修復するようなことを繰り返している。それらには年齢を重ねるからこその “良し悪し”が如実に表れ、なかなかの重みがある。毎回、自分にダメ出しをしつつ、埋もれていた自分に気づき、そんな自分との距離を少しずつ縮めていく。スタミナのいる作業でもあるけれど、とても面白い。実に発見の連続。そして「人はいかに聞いていないか」ということを、実体験を通して思い知る。相手の言葉が耳に入り、集中して聞いているのだから聞き取れているはずなのに、相手の話を完璧に聞くことはまず無理なのだ。おおよそ聞いたとしても、人は一秒にも満たない一瞬の間に言葉を発している。しかも、そこには独特のニュアンスも存在する。本当に「つもり」というのは、ほとんど形を成さないのだと思うし、日常では多くのことを自分の解釈で理解しているのだと気づく。それでも、日常会話は誤差を生じさせることなく、問題なく進行していく。あらためて人の適応能力というのか、感覚の多様さに思いが至る。 「人の話を聞く」というのは、とても面白い世界であり、今後より一層重要な仕事になると感じる。ふだん当たり前のようにしているし、特別なことだと思う機会もさほど多くはない。なんならAIで事が済んでしまう世界にだってなりつつある。AIの方が都合のいい場合も増えていくかもしれない。けれど、人に話すことでしか実感できない気持ちや感情があるのが人間なのだと、あらためて気づかされる。 人生 100年と言われる時代の半分ほどまで来た今、こうして新たな学びに取り組む自分がいるとは、20代も 30代も、40代になりたての頃も、まったく考えていなかった。どこでどうつながり今に至るのか、我ながら本当に不思議だと思う。人への興味が写真から始まり、今に至る時間の経過、年を重ねる面白さを、年々味わい深く感じられることが嬉しい。そして、それらすべては健やかな心身があってこそ成立するのだと、健康で丈夫な自分である今を有難いと思う。 Balt .Kaza(バルター・カザ)は白いヤギという名のレストランで、ラトビアの伝統食材を生かした質の高いガストロノミーと居心地のいいパブ 前菜は〈サーモンのグラブラックスとフレッシュサラダ〉あるいは〈ラトビア産オーガニック牛のタルタル〉。グラブラックスは、サーモンを塩、砂糖、ハーブに漬け込んだ北欧の伝統料理。軽く発酵させたサーモンはビタミン類も豊富です。サラダを彩るヤギのチーズには、イクラを添えています。手つかずの草原が広がるラトビアでは、オーガニックビーフの飼育が盛んで、自然放牧で農薬・化学肥料フリーの牧草、ハーブ、ベリーを食べて育った牛のタルタルは、大地の風味(テロワール)が味わえます。 EU圏のオーガニックビーフには、牛一頭あたりの占有面積や、ストレスを与えない飼育環境などアニマルウェルフェアについての規定が細かく定められています。 〈チョウザメのフィレのオーブン焼き〉には、カリフラワーのクリームと醤油のサワークリームが添えられていました。チョウザメというとキャビアがよく知られますが、その身も高級食材とされ、フグにも似た食感で淡白な味わいです。 〈牛サーロインステーキ〉は、オニオン・ピーナッツクリームとブロッコリーニを添え、肉汁ソースをかけた一品。ラトビアの牧畜で話題となったのが、絶滅の危機にあった青い牛(ラトビア・ブルー・カウ)の復活です。青い牛はバルト海沿岸を原産とする希少種で、成長するにつれ独特の青みがかったグレー色に変化します。伝説では海の女神から授かった牛といわれましたが、旧ソ連時代には効率の悪い種とされ、わずか十数頭まで減ったそうです。独立回復後「失われかけたラトビアの魂」を象徴する存在として保護活動が行われ、今は数千頭にまで増えています。デザートは店名「白いヤギ」にちなんだヤギチーズのタルト。1991年の独立回復後、ラトビアでは西ヨーロッパ諸国(英国、ドイツなど)への若者層の流出が問題になっていました。ここ数年は帰還移住(Uターン)する人も増え、海外で経験を積んだ若者が、生活の質の高さ、豊かな自然、子育てのしやすい環境をもとめて帰国し、リーガ近郊に暮らしながらリモートで仕事を行う生活スタイルが確立されつつあります。このような動きが街に活気を与え、伝統食材をモダンにアレンジしたレストランが生まれています。 ピルツ魂の生まれ変わる場所 Ziedlejas Pirts (ズィエドレヤス ピルツ) 母はピルツに火をくべ、ピルツで子を産んだ。ピルツの温もりが子を守り、水がその身を清めた。 ラトビア民謡「ダイナ」出産の歌 ラトビアの暮らしに欠かせない「ピルツ」。生まれてから亡くなるまで、人生はピルツと共にあるといっても過言ではありません。熱・蒸気・水・植物・音・触感などあらゆる感覚を統合させ、 人間と自然の関係を体感することで身体と心を癒やし、浄化、再生へと導く。伝統的なピルツを現代的に解釈し作られたのが、スィグルダの森に佇む Ziedlejas Pirtsです。ここを訪れたゲストは、まず森の遊歩道を散策しながら木々の囁きや落ち葉の匂いに触れ、心身をリラックスさせます。遊歩道の途中にはピルツに欠かせない道具「ウィスク」を保管する風通しのよい小屋があり、白樺やオーク、菩提樹など様々な木の枝葉が吊るされていました。夏場はきったばかりのフレッシュな枝葉を使うそうです。 ピルツを出たら小川へ連れていって、私の悲しみを水に託したい。流れに乗せて遠くへ運んでくれますように ラトビア民謡「ダイナ」ピルツの歌 スモークピルツ 森の中に佇むスモークピルツ(黒いピルツ)は、最も人気があります。古代ラトビアの住居を思わせる丸太小屋の中で火を焚き、充分に温まってから火を消して入ります。ピルツのルーツは燻製小屋だったともいわれ、スモークピルツはその原型を伝えています。小屋のそばには小川が流れ、ピルツで温まっては小川で冷やすことを繰り返しながら、家族や 恋人同士が一日をゆったりと過ごすのがラトビア流。森に満ちる清気を身体の中に取り込んでいくのです。 グラスルームは、正面と天井がガラス張りの宿泊施設です。電動昇降式の座卓を床に収納すれば、ダブルベッドを取り出して寝室として使えます。面積は約 24㎡で、トイレ、シンク、シャワー、ロフトを備え、大人 2名と子ども 2名まで宿泊可能です。施設の基本デザインは、ラトビアの建築家ザネ・テテレ・シュルツェさんが手掛けています。 ウールピルツは螺旋形の建物で、壁・天井にウールを張り詰めたモンゴルのパオを思わせる内装です。2人の女性は、ゲストをピルツのセッションに誘う経験豊富なピルツマスター。中央のストーブは周囲に石を積み上げることで肌あたりをやわらかくし、65℃程度の低温でじっくりと身体を温めます。外には冷たいジャグジーも用意されています。 母よ、姉妹よ、共に来て、私をピルツへ導いてください。私の生涯が変わるその場所へ、ひとりで行かせないでください。 ラトビア民謡「ダイナ」花嫁の歌 この寝台に横になり、ウィスキングを受けます。白樺のウィスクは血行促進・発汗、筋肉の緊張緩和、皮膚の浄化・保湿の作用があり、オークは白樺より硬めで、発汗や神経の高ぶりを鎮め、落ち着きと安定感を与えます。菩提樹は鎮静効果が高く、甘い香りが不安や緊張を取り除き、睡眠の質を高める、 皮膚を整える効果があります。そのほかジュニパー、イラクサ、ミント、レモンバームなどを使い分け、ゲストに適したウィスキングを施します。 グラスピルツ 湖畔に建つグラスピルツ。ピルツマスターのライラ・セーヤーネさんとロランヅ・フェドトヴスさんが出迎えてくれました。ピルツマスターはゲストの状態を見極め、それぞれに適した方法で、束縛をとき、活力を与え、再生へと導いていきます。グラスピルツは、コンクリート造のモダンなピルツ。大きな窓から池が見え、そのまま何時間でも眺められそうなリゾートフルな空間です。最初にゲスト自らが旗をあげ、次に薬草入りの苦い液体を飲むことでウィスキングの効果が高まるそうです。乳幼児のためのピルツや結婚時のピルツなど、人生の節目ごとに行われる特別コースも揃っています。 寝台に横たわり充分に体を温めてから、その人に適したウィスクを用いて身体を叩いたり、やさしく撫でたり、水を掛けたり、お湯を掛けたり、微妙な温度調整を施しながら緊張をとき、精神を解放へと導きます。枝葉のサワサワという音と、樹木の香り、適度な刺激により、まるで催眠術にかかったような幻想の世界へと誘われていきます。 ピルツの効果は温度でも変わり、低〜中温は鎮静作用、リラックス感が強く、高温は血行促進・デトックス感が強いといわれます。ピルツマスターはゲストと対話をしながら温度、湿度、ウィスクの種類を組み合わせ調整します。仕上げはソルトのスクラブでマッサージ。次に池へ飛び込み、瞬間的に冷やすことで身体を引き締め保温性を高めます。水温は5℃程度と凍りつくような冷たさですが、水からでると身体の内側から暖かさが湧き上がります。ウールの毛布で全身を包み、デッキに横たわりしばらく瞑想していると、遠くから鐘の音が聴こえ、まるで異世界にいるようです。このコースの仕上げは、温かいお茶やたっぷりのハチミツ、黒パン、フルーツをとりながらリビングでくつろぎます。 Viesn.ca un restor.ns Aparjods (ホテル&レストラン アパリュアヅ) Ziedlejasピルツから5kmほど離れたスィグルダの Aparjods(アパリュアヅ)は、古民家を思わせる木造建築のホテル&レストラン。ここでは串焼きナマズの BBQにクスクスを添えた一皿など、ラトビアらしい伝統に根ざした料理を味わえます。ナマズは古くから親しまれた定番料理で、燻製すると脂や臭みが抜け鶏肉に近い風味になります。 ▲ 薄い塩味のサーモンを添えたポテトパンケーキ。 ▲ラトビアでは祭日のご馳走として人気のヤツメウナギ。 ▼ 自家製 BBQソースのグリルドポークリブ。 ▼野趣あふれる鹿肉タルタルは色々な薬味と一緒に。 ラトビアの食文化を語る時、欠かせないのが「黒パン」です。 黒パンは日本では、あまりなじみがありません。首都東京であっても、「本格的な黒パン」を入手することは難しい。なぜか。それは、黒パンの素材となる麦が「ライ麦」だからです。欧州でも「ライ麦文化圏」とされる地域であって、はじめて本格的な黒パンに出会うことが出来ます。では、ライ麦文化圏とは、どこのことか。 それは「北緯 度以北の地域が中心」とされています。という のも、高緯度の寒冷地域では、小麦の栽培がなかなか難しかったからです。なんて言われても、すぐに「ああ、あの辺だな」と、地図が頭に思い浮かぶ人は少ないでしょう。欧州大陸に視線を移 すと北緯 度以北の地が身近になります。その線上付近に並ぶ有 名な都市を列挙してみましょう。ブリュッセル、ム・マイン)、マインツ、プラハ、クラクフ(ポーランド) (ウクライナ)、ハルキウ(ウクライナ)と、それなりに日本でも知られた都市が並びます。これらの都市「以北」が、ライ麦中心の文化圏です。すなわち西欧の一部から中欧、東欧、北欧、そしてロシアの大部分がこの文化圏に属します。この広大な地域の農民にとって、産業革命まではライ麦こそが基本的な食料としての穀物でした。貴族階級や都市の上層市民(金持ち)は、多くの場合輸入小麦で作られた白いパンを食べていました。 しかし、この地域の人口の9割近い人々にとっては、「ライ麦」こそが日々の暮らしを支える基本食品だった。この広大な地域と人々の食文化の基本である 「ライ麦主食の文化」が、日本ではよく 知られていません。 では、北緯 度以北の「ライ麦文化圏」と、そうでない地域では、 その食文化において、何が大きく違っているのか。話を欧州からロシアまでの地域に限って見てみます。「ライ麦文化圏以外の地域」では産業革命の時代に至るまで、農民は基本的に大麦や燕麦を主体とした穀物を基本として、これを自宅の大鍋で「煮て」(ゆでて)一種の麦粥にして食べるのが日常でした。大麦や燕麦でパン生地をこねて、自宅のオーブン(窯)で焼くという習慣はなかった。なぜならこれらの地域の農家に、オーブンは設置されていなかったからです。「西欧の家庭には昔からオーブンがあったので、パンを家庭で焼いたり様々な肉のロースト料理が見られます」なんてセリフは、大うそです。料理は基本的に、暖炉もしくは日本の囲炉裏状の設備、まれに、竈(かまど)状の設備で煮炊きを行っていた。その周囲で食事をし、語り、眠るという暮らしが当たり前だったのです。英・仏・伊・スペインの普通の農家に、オーブンなんて、設置されていなかった。なぜかというと、パン焼きのた 50 50 50 フランクフルト(ア、キーウめのオーブン(窯)でパンを焼くためには、高温が必要で、そのためには大量の薪を必要とした上、それは常に火事の危険に直結していたからです。 55 ところが、北緯度以北の「ライ麦文化圏」では、全く事情が異なります。と 57 にかく寒いので、麦はライ麦くらいしか育たなかった。ラトビアの首都リーガの緯度は北緯度です。ラトビア全域で見ても、その北端は北緯度、南端であっ 50 ても北緯度です。要するに樺太(サハリン)北部同様の緯度です。沿岸部は北海の海流のお陰で「多少は温暖」ですが、内陸部はシベリア同等の寒さ。しかも、 「ライ麦文化圏」では冬が長い。1年の3分の2近くが、我々の感覚だと「冬」と呼んでいい季節になる。なので当然のことながら、農家の建物は厳寒の冬を生き延びることを旨として建てられてきました。暖房装置がきちんと設置されていなければ、即、凍死という世界です。欧州の農家では、産業革命までは、「暖房装置」=「台所の火」という形でした。では、このシベリア並の極寒の地で、暖房はどのようにして行っていたのか。ペチカです。もしくは、ペチカ的なる装置です。このペチカを使って料理をした。ペチカのある場所=台所だった。英語ではペチカのことを「ロシアン・ストーブ」(Russian Stove)などと称します。直訳すればロシア風ストーブ。しかし、それは、我々日本人の大部分が頭に思い浮かべる「ストーブ」というものとは、ま 58ったくかけ離れた暖房装置です。それどころか、「ペチカ」=「家」と呼んでも差し支えないほど重要な存在でした。 「ペチカ」とは何か。産業革命以前、ラトビア内陸部の農家では、地域によって、ロシア風のペチカが当たり前であった地域と、それとは少し違うスタイルの「ペチカ的設備」が設置される地域があったようです。ここではあえてロシア風のペチカに代表させることで、その「暖房装置」兼「台所の火元」の構造をご紹介します。というのも、「ペチカ文化圏」では、それ以外の地域とは、料理の仕方が決定的に違っていたからです。まずは、写真を御覧ください。ペチカとは、基本的にレンガで組み立てた巨大な立体的な構造物です。家の大きさにもよりますが、畳3畳もしくは4畳ほどの空間を天井までレンガで組み立てて、その内部には、焚口で火を燃やすことで生まれる熱気が、複雑な経路を経て、その巨大なレンガの塊全体を熱するように造られた構造物です。熱気の経路の最終端には、開閉可能な開口部が設けられています。この巨大なペチカが家の中央に鎮座していた。その複雑な構造はペチカ職人の秘伝で、ペチカ職人はその仕事の重要性から、職人としては社会的な地位が高かった。家を建てる大工よりも、ペチカ職人の方が重視されていた。なぜなら、ペチカ文化圏の寒冷地では、家を建てるとき、最初にペチカを設置する場所をどこにするか決めることから家の建築工事が始まったからです。まずペチカを作る。その後に、ペチカの周りを取り囲むように「家」の形となるように建物を建てていった。「ペチカがなければ家じゃない」というべきであって、朝起きてから寝るまで、暮らしの日常のすべてが、ペチカを中心に回っていたのです。 秋の初めから夏前まで、ペチカの暖房は欠かせなかった。一般的に農家の主婦は、午前3時半〜4時には、ペチカに火を入れて、これを熱します。だいたい2時間ほどでペチカ全体が熱せられる。そこで、焚口を大きな金属製の蓋で閉じ、熱気の経路の終端の蓋も閉じる。あとはこのまま放置して、翌朝まで、徐々にペチカ 50 の熱が下がっていくに任せておく。ロシアでは、老人や子供が夜になって温度が下がったペチカの上で寝たといいます。外は零下度とか度が当たり前。でも、ペチカがあれば、翌朝までほんのりと暖かさが保たれた。で、ココからが本題です。 ペチカ文化圏では、ペチカ以外には食べ物を調理する場所が無かった。火の焚口は、オーブン状に造られていて、そのオーブン内部と、焚口の手前の僅かなスペースを利用して調理をした。要するにオーブンを使った料理以外には、料理をする方法がなかった、ということです。より具体的に言えば、「ペチカ文化圏=北緯度以北圏」=「ライ麦文化圏=黒パン文化圏」では、直火の上に鍋やフライパンを置いて、炒めたり揚げたり、串刺しにした魚を直火で炙るなどという調理法は一切無かった、ということです。日々の料理は様々な野菜や穀物やベーコン 10 を入れた深鍋に水やミルクを注いで蓋をして、これをペチカの焚口内部のオーブン状の場所に置いてペチカの蓋を閉じる。あとはペチカの予熱でゆっくりと鍋の 20 中身に火が通るのを待つ、という調理法が基本となっていました。要するに、ラ 10 トビアの農家の料理は「圧倒的に煮物料理が基本」でした。炒めもの、揚げ物、直火焼きの類は、存在しなかった。もちろん夏になれば、屋外の小屋で直火を使 30 って調理をする機会もあったようですが、寒冷地の夏、農民は農作業に追われる季節で、のんびり調理する間 50は限られていたようです。 で、黒パンです。ペチカでは毎日かなりの量の薪を焚くため、その燃えカスが溜まっていきます。なので、煮物料理の鍋はきちんと蓋をしてからオーブン内に置くことが必須でした。で、1週間から日に一度は、ペチカの焚口の内部に溜まった燃えさしや炭の粉塵を掃除する。これは徹底してきれいに掃除しました。 なぜなら、そこにライの麦粉を練り上げたパン生地を置いて、黒パンを焼いたからです。徹底してきれいにしないと、パンに煤や燃えかすが入ってしまうので、掃除は徹底して行いました。北緯度以南の西欧の農民の日常食は、麦粥中心。家にオーブンもないため、その麦粉からパン生地を作って自分の家で焼くなど考えられないことでした。これに対してラトビアの農民を始めとしてペチカ文化圏の農民は、週一から日に一度、自宅で黒パンを焼いていた。ライ麦は煮ると、べっとりとした糊状になり、臭いもきつく消化に良くなかった。なので、ライ麦=パンの麦なのです。この黒パンの生地を作る過程で「水ではなくお湯」を使うのがラトビアのパン生地造りの特徴です。このラトビア独特の製法で作られた黒パンをルプマイゼ(Rupjmaize)と呼びます。正式には、サリナータ・ルヅ・ルプマイゼ (Salin.t. rudzu rupjmaize)(湯通しした粗挽きライ麦粉の甘みのある黒パン)という名称で、EUの「伝統的特産品保証(TSG)」に登録されています。要するに、この黒パンはラトビアの特産物として認められている特別な黒パンです。 西欧と日本の食文化を比較する時、必ず言われることが、オーブン文化の有無です。日本の農家には、オーブンは無かった。一方、ラトビアの農家には、オーブン「しか」無かった。この違いが、どれほど大きな食文化の違いをもたらすか、食の歴史をたどることで、はじめて見えてくる面白さが、ここにあります。 the MUNIO ムニオ 2008年にエリーナ・チーマさんが創業した「theMUNIO」は、スタートアップから世界的なキャンドルブランドへと成長しました。その原動力となったのが、ラトビアの大地を覆う多様なハーブや野花です。ラトビアでは北欧諸国と同じく「自然享受権」が認められており、誰でも森を自由に散策でき、自然を壊さない範囲でベリー、キノコ、野花、ハーブ、ナッツなどを採取することも許されています(ただし自然保護区や保護種は除く)。エリーナ・チーマさんがハーブティーでおもてなし。 もともとカフェを営んでいたエリーナ・チーマさんは、ある日、店で使う何百本のキャンドルを自ら手作りすることを思いつきました。人工的なパラフィンに代わる大豆ワックスの存在を知り、妹のローラさんと共にキャンドルブランドを立ち上げます。世界の見本市に出展したことでバイヤーの注目を集め、ヨーロッパ、アジア、北米など 20カ国近くへ輸出するブランドとなり日本ではアクタスなどが扱っています。野花やハーブ、苔を封じ込めたキャンドルはリーガの工房で少数のスタッフによって手作りされ、苔やジュニパー、ビルベリー、ヘザーなどを森へ採取しに行くそうです。theMUNIOのキャンドルには、ワイルドフラワー、ジュニパー &リモニウム、モス、ローズ、ラベンダー、リンデンフラワーなどがあり、これらの香りを軸にディフューザーやボディオイル、ローション、液体石鹸、ボディスクラブ、バスソルト、ハーブティーなどを展開しています。朝目覚めてから夜寝るまで、暮らし全体をお気に入りの香りでトータルに演出できるのです。リーガ市テルバタス通りにある本店で、円形のワックスサシェを作るワークショップを体験しました。好みのハーブや野花、ベリーを型に配置し、香料を混ぜた大豆のワックスを注ぎこめば完成です。 風がさざ波 呼び起こし古の知恵を 呼び覚ます名前を呼べば 城は沸き光を連れて 空へ昇らん ラトビアの民謡「ダイナ」より ラトビア各地には、湖の下に「光の城」が眠っているという伝承が残されています。それらは長い間、単なる物語と思われてきましたが、近代になって実際の建物群が湖底から次々と発見されたのです。1991年、ラトビアが独立を回復した歌の革命の際には、湖から蘇る「光の城」が各地で歌われ、人々の思いを鼓舞しました。 浮かびあがる伝説「光の城」 .rai.i Lake Castle Archaeological Park アーライシ湖上住居遺跡群 .rai.i(アーライシ)湖のビジターセンターでは、遺跡発掘までの経緯や当時の暮らしぶりなどを遺物とともに詳しく紹介しています。首都リーガから北東に約 90km離れたアーライシ湖には、1200年ほど前、国名のゆらいとなった古代ラトガリ族による湖上の城がありました。やがて城は水面下に沈み、水中に建物が見えたり丸太や杭が漁師の網にひっかかることはあったものの、古代都市はあくまで伝説でした。しかし1959年、考古学者ヤーニス・アバルス博士たちは 100カ所以上の湖を水中調査し、アーライシ湖をはじめアウリュカルンス湖、バカヌィ湖、ブリツィ湖、ドゥーキ湖、イジェゼルス湖、リエゼーレ湖、リサ湖、ウシュルス湖、サラス湖などから遺跡を発見したのです。遺跡は西暦830年前後のものと推定され、面積は約2500㎡。80mほどの土手道で陸と繋がっています。 アーライシ湖の湖底で発見された厚さ 3mほどの堆積物から、約 150棟分の遺構や無傷の陶器、木の道具、金属のアクセサリー、動物の骨、植物の種子、植物の編み物、樹皮製品などが大量に出土しました。100年以上前から考古学者による小規模な調査は行われてきましたが、アバルス博士は学生時代から慣れ親しんだアクアラングを利用し、水中調査や水中ポンプを導入することで大規模な調査を可能にしたのです。 湖底の土台は丸太で組まれており、その上に丸太を敷き詰め、水面から1mほど高い人工地盤が作られていました。城は5回ほど作り変えたことが調査で分かりました。集落の中心には広場があり、外周は高さ1mほどの柵で囲われています。水上に建てた理由は他部族や野生動物の侵入を防ぐためで、ラトガリ族たちは、家、衣類、生活道具、日用品、装飾品などを自分たちで作り交易も行っていました。一戸あたりの面積は10〜30㎡。3〜 8人が一緒に暮らす住居が 16軒ほどあり、全体で約 70〜 90人の集落です。家の中心には大きなカマドが設置されています。 建物は丸太構造で、切り妻屋根は垂木を敷き詰めた頑丈な作りです。玄関にはポーチがあり、玄関口は向かって左側に統一していました。時代が進むにつれて間取りも変化し、控え室、リビングルーム、物置なども作られ、最大4.5×9.5mの建物を建てています。刃の幅が5〜7cmの細い斧を使い、直径 65cmの白樺やトウヒを伐採し、板を滑らかに仕上げる技術も持っていたのです。煙突はなく傾斜の緩やかな屋根をトウヒや白樺の樹皮で覆いました。▼民族衣装を展示した工芸品店「セナー・クレーツ」。リーガ市庁舎の近くにあり、伝統的なミトンも手に入ります。 1960年代の発掘当時から集落の復元が構想され、アーライシ湖では発掘現場の上に 9世紀初めの状態を再現しています。作業には古代の小さな斧(レプリカ)が使われ、当時と同じように作ったそうです。住民の生活道具(カゴ、黒パン作りの道具)や金属のアクセサリー、衣服など織物の復興も盛んで、リーガ市内の工芸品店や宝飾アクセサリー店では、発掘品からヒントを得た手工芸家の作品なども販売されています。 Kolon.de コロナーデ リーガのシンボル自由の記念碑に近いレストハウス。緑豊かなバステイカルナ公園と調和するようにイオニア風円柱を並べた建物にガラス張りの温室風ハウスを設け、開放感あふれる空間で食事を楽しめます。観光で歩き疲れたあとの夕食にも、安心して立ち寄れるお店です。 スパイシーなパンプキンクリームを添えたタコは、ピクルスしたチェリートマトがアクセント。ビーフのサーロインステーキにはアスパラガスやルッコラ、熟成チーズが寄り添いバーボン風味のスイートクリームソースをかけています。ブラックコッド(銀ダラ)のフィレは、タイガーシュリンプのリゾットとセットで。 本日、南風なれどもその70青山ナシオ いまから800年ほど前、「失地王」と呼ばれたイングランドのジョン王は、反発する貴族たちに追い詰められ羊皮紙に書かれた条文「マグナ・カルタ(大憲章)」にしぶしぶ署名しました。相次ぐ敗戦と領土の喪失、戦費の負担、理不尽な投獄に憤った貴族たちは「王といえども法に従わなければならない」という画期的なルールを認めさせたのです。マグナ・カルタに記された「王の判断で勝手に人を罰する」ことや「議会の同意なく課税する」ことを禁じた条文は、近代民主主義の芽生えとも言われています。 この精神はイギリス議会政治の発展を促し、アメリカやフランスの憲法にも大きな影響を及ぼしました。現在の日本国憲法第 31条「法律の定める手続きによらなければ刑罰を科されない」という条文も、マグナ・カルタ第 39条「いかなる自由人も、国法による裁判なしに逮捕、監禁、財産没収、追放されない」を継承したものといえます。憲法とはジョン王のように暴走しがちな権力者を戒めるルールであり、それに基づく民主政治を目指すことが、憲法に立脚した「立憲民主主義」だったのです。 日本では伊藤博文が、横須賀の夏島町で大日本帝国憲法の草案を秘密裏に作りました。当時は、板垣退助はじめ自由民権運動家の熱気も高まり、イギリス流の「王権(日本では天皇)を制限し議会を重視する」憲法が求められていました。しかし伊藤は王権の強いドイツ(プロイセン)流の憲法を選択し、国家を安定させるため、天皇を中心とする統治を目指したのです。当時の明治政府にとって、この選択は正しかったのかもしれません。 明治憲法は後の戦争へと繋がる「統帥権(とうすいけん)」を組み込みました。天皇の名のもと軍部が議会を離れ、自由に行動できる権限を与えたのです。統帥権は後に軍部の独断専行を招き、日本は戦争の時代へと突き進みます。 戦後、日本は民主憲法を手に入れながらも、衆議院選挙における自民党圧勝により明治憲法へ回帰するような雰囲気を醸しています。2012年に発表された自民党の 「憲法改正草案」は、憲法のあり方を根底から覆す可能性を秘めています。 例えば「緊急事態宣言」に関する条項(第 98条、第 99条)は、武力衝突など緊急事態の際は、内閣総理大臣が国会を通さずに政令を制定できるというものです。発動されれば内閣は戦前の天皇に近い役割を果たし、国民の行動を制限するかもしれません。 さらに憲法学者は、第 102条 「憲法尊重擁護義務」を危惧しています。現在の憲法は、天皇、内閣、国会議員など権力者サイドが憲法を守るべきとしています。一方、自民党草案は「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない」と定めました。諸外国では時代に合わせた憲法改正が頻繁に行われ、日本でも適切な改正の必要な時期であることは確かです。第 102条により日本国憲法は 「権力を制限するための憲法」から離れ、「国民の自由を制限する憲法」へ大きく方向転換する事となるのでしょうか。 C .sis(ツェースィス)ラトビア文化の中心地 中世そのままの景色が残るツェースィス。人口1万5千人ほどの小さな街でありながら、ラトビア国民オペラの創始者アルフレーヅ・カルヌィンシュはじめ著名な文化人やスポーツ選手を輩出し、音楽祭やアートフェスティバルの盛んな文化都市です。リヴォニア騎士団の古城や旧市街の教会、カフェ、レストラン、手工芸店、緑の公園、遊歩道など「普段着のラトビア」を体験できる街として人気を集めています。 C.su maize(ツェース・マイゼ) ツェース・マイゼ(ツェースィスのパン)は街で一番人気のパン屋さん。ラトビアの主食は「黒パン」が基本で、ツェース・マイゼでは古代から伝わるスペルト小麦粉、粗挽き大麦粉、蕎麦粉、ライ麦などに、キャラウェイやドライトマト、オリーブ、アプリコット、レーズン、アーモンドなどを混ぜ、オリジナリティの高い黒パンを焼いています。試食させて頂いたパン の中でもスペルト小麦の黒パンは味わい深く、噛むほどにナッツのような香ばしさがありました。 H.E.Vanadzi..(ワナヅィンシュ)は、冷燻鹿肉、鹿の心臓、ラムのサラミ、アンズタケ、トラウト、フラットブレッドのサンド、ラムのパン粉焼きカツレツなど、地元料理を味わえるレストラン。ミシュラン・ガイドのビブグルマンを獲得し、プチホテル「ヴァナジニス ハウス」も併設しています。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】