Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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軽井沢の四季を愉しむ 数々の文学の舞台となった軽井沢。作家たちは四季を通じて自然を感じ、豊かなインスピレーションを育てました。軽井沢の冬を越すは大変なことでしたが、いまは快適に四季をすごせる家づくりが可能です。 世界をめぐり軽井沢へ 千ヶ滝別荘地 M邸 設計・施工 軽井沢建築社 軽井沢の歴史ある別荘地「千ヶ滝別荘地西区」の一画に、今年3月、M邸が完成しました。十数年にわたり海外生活を経験されたM夫妻の、理想の暮らしに応えた家です。千ヶ滝別荘地は中軽井沢の西側にあたり、大正時代から現在の西武によって開発がはじまりました。浅間山麓のゆるやかな起伏を活かした地形にカラマツをはじめ豊かな森がひろがり、インフラの管理が行き届いた定住者にも人気のエリアです。 M夫妻は1984年からアメリカへ、その後アメリカ企業に転籍、アメリカ、スイス、シンガポール、東京と世界各国で暮らしました。2007年には仕事をリタイアして、アメリカ・サンディエゴでの暮らしをスタートされましたが、その後、伊豆熱川に移られました。今はお子様たちも独立され、デトロイト、シカゴ、東京、サンフランシスコと各地で活躍されています。玄関にはYチェアが置かれ、リビングへつづく廊下との境にはガラス引き戸が入っていました。玄関の冷風がリビングへ流れ込まない工夫です。 リビングへの廊下を抜けると、リビング、アイランドキッチン、ダイニング、和室を一体とした大空間がひろがります。緑の美しいウッドデッキにでて、ご主人と建築を担当した軽井沢建築社の関泰良さんが、建設当時をふりかえります。構造には重量木骨造「SE構法」が採用されました。SE構法は耐震性が高く、柱や壁の少ない開放的な大空間を作れるのが特徴です。 緑の美しいウッドデッキ空間。大きなひさしをかけることで、アウトドアリビングとして活用できます。傾斜を利用して基礎を高く立ち上げているため、1階にありながら、2階から景色をながめる感覚です。窓の景色を絵画のように見せるリビングの吹き抜け空間。ハイサイドライトからの自然光が、室内をやさしく包み込みこみます。 ▲玄関からキッチンへ続く裏動線を兼ねたクローゼット。 ▼和室を障子でしきることで、個室としても使えます。 世界各国の街に暮らしたM夫妻。国をまたいで引っ越す際は、家具付きアパートやホテルに一時的に滞在しながら、不動産業者と物件をまわるそうです。家を探すうちにお国柄が分かるとのこと。ライフスタイルは国の文化を示すのかもしれません。軽井沢の地をすすめたのは、東京で通訳者として活躍する長女さんだったそうです。不動産業者と軽井沢をまわり、この土地を気に入って購入。その後、軽井沢の建設会社をあたるなかで選んだのが軽井沢建築社でした。「軽井沢建築社の関さんは、打合せ前に敷地の図面を大きくプリントして準備してくれていました。それで信頼できる人と確信しました」とご主人。離山エリアにある軽井沢建築社「HANAREYAMASTUDIO」は、築300年以上の古民家をフルリノベーションした空間です。あえて古い部分を残しながら、現代の温熱環境、耐震性、空間デザインを実現できるかの実験が行われました。打合せでオフィスを訪れたM夫妻は、冬場の自然な暖かさにひかれたそうです。暖房には軽井沢建築社が特許取得した「パッシブ冷暖」が使われています。1台のエアコンで床下全体を暖め、廊下や洗面所、トイレも含め空間全体の暖かさを保つシステムです。この現場では古い床下にコンクリートを打って断熱材で覆い、地面の湿気を抑え床下結露を防ぎました。坂道にそって傾斜したM邸の敷地。地盤の地耐力を上げるため、地盤改良工事が行われました。 地盤改良工事の現場 M邸の地盤改良には「木杭工法」(環境パイル工法) が採用されました。適切に防腐処理した木杭を地 中に打ち込み、建物に必要な地耐力を得る方法で す。セメントや鋼管を使う方法もありますが、木杭 は環境負荷が少なく、国産材の有効利用に貢献し、 地盤を汚染する心配もないことが注目されています。「家が建ってしまったら、地盤工事はやり直しがききません。納得いくまで時間をかけて工事してもらっ ▲ ▲ ▲敷地に大型杭打機や木杭が搬入されます。地盤改良に適し ▲杭の太さは、元口170㎜.180㎜、末口120㎜以上、 て良かった」とご主人はいいます。た木杭であることを示す証書が張られています。長さ 4000㎜に揃っています。これが約 140本使われました。 ▲ ▲決められた位置に木杭を打ち込みます。左側のドリルで ▲打ち込んだ木杭の上部を掘り起こし、規定の高さに合わせ ▲打ち込みがほぼ終わり、綺麗に整地されました。見た目予備穴をあけることで、木杭がすーっと入っていきます。てカットし、切り口を防腐処理して金属プレートを取り付けます。では分かりませんが、敷地に必要な地耐力が得られました。 リビングを見下ろす2階は、長女ご夫妻のスペースです。日本でも初孫を授かり、この別荘で一緒に過ごす機会も増えそうです。自然豊かな軽井沢での子育てを想定し、リモートワークの環境を整えた2拠点生活も視野に入れているようです。 奥様が軽井沢で一番うれしいのは、長年手掛けてきたパッチワークに集中できること。展覧会に出品する腕前で、軽井沢では思う存分、作品づくりを楽しめるそうです。現在制作中のベッドカバーは、明治、大正時代の古裂を縫い合わせています。M邸の脇には、美しい水の用水路が流れます。「もやのなか朝日がさして、鳥が鳴き始め、新緑が輝く、森の光の移り変わりを楽しんでいます。世界各地で暮らし、色々な人と出会って、子どもたちが健康に育ち、気に入ったところで暮らしているのが一番の幸せ」とご主人。今の自分にリズムにあった場所として、軽井沢が一番心地よいそうです。 キャラメルクリーム色のマーブルもようのおうちといっしょ Vol.48 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 世田谷代田 仁慈保幼園 TOY工房どんぐり活動40年記念展             終了2023年 5月 10日〜 16日  コミュニティスペース Piazza 身体や指の動き、知恵の発達など、布おもちゃで遊ぶことで、様々な能力がひきだされます。 障がいのある子ども達のため、オリジナル布おもちゃの企画・デザイン、制作を続けるボランティアグループ TOY工房どんぐりが、活動 40年を記念した展覧会をひらきました。場所は下北線路街の「世田谷代田 仁慈保幼園」。コミュニティスペースに子ども達の遊べるスペースが設けられ、沢山の親子連れで賑わいました。どんぐりが設立された1983年当時は良いおもちゃが少なく、現場の声を聞き改善を重ねながら、安全で質の高い、なによりも子どもに喜ばれるおもちゃづくりを進めてきたそうです。 仁慈保幼園のある「下北線路街」は、小田急線の世田谷代田駅〜東北沢駅の地下化にともない、約 1.7kmの線路跡を利用した新しい街です。緑ゆたかな街路がつづき、都会の温泉旅館由縁別邸代田や、屋台街のように飲食店があつまった BONUSTRACK、学生たちが共同生活をしながら学ぶレジデンシャル・カレッジなど地域の力を活かすチャレンジングが施設がならび、歩くだけでも楽しくなります。 ハシモトユキオノモケイ展 LIGHTBOX ATELIER / SEMPRE 終了2023年 5月 26日〜 6月 5日 昨年 3月に急逝されたデザイナー橋本夕紀夫さんの模型展が、東京南青山 LIGHTBOX ATELIER / SEMPRE(イデアルビル 2階)で 5月 26日〜6月 5日まで開催されました。初期作品から近作まで、精密に作られた数々のインテリア模型には担当スタッフによる手書きのエピソードが添えられ、模型作りの大変さ、素晴らしさが伝わってきました。 文化村の家 設計・施工 軽井沢建築社 文化村の建設現場 追分の「文化村」で建設中の、軽井沢建築社の現場に伺いました。追分文化村は、かつて徳川家の所有だったといわれる歴史あるエリアで、昭和30年代から別荘地の開発がはじまり、文人や学者の別荘が多いところから文化村と呼ばれます。しなの鉄道信濃追分駅に近く、徒歩圏内に小学校もあるため、子育てファミリーの定住にも適した場所として人気です。 「断熱等級 7」を実現 現場を見ながら、断熱性能のことや軽井沢特有の地盤のことを、軽井沢建築社の関泰良さんに教えていただきました。この家は、昨年施行されたばかりの断熱等級最上の「断熱等級7」にしたがって設計されました。等級に求められる性能は地域ごとに異なっていて、軽井沢は「2地域」にあたるため、必要なUA値(外 するため外断熱を採用し、外壁や屋根の断熱材(スタイロフォーム)の厚さを90mmにするなど、様々な工夫をしています。 20という厳しいものになります。これを実現 .皮平均熱貫流率)は0 玄関を入るとすぐに大きな窓がひらき、カラマツ、モミ、ヒノキ、サワラなど森の景観が見せ場になります。「断熱等級7」と断熱性能を高くすることで、夏場の冷房は不要で、冬場はエアコン1台だけを使った「パッシブ冷暖」によりマイナス10℃くらいまでは、全室を暖房できるよう設計されています。ガラス窓は三重のトリプルガラスにして断熱性能をアップ。外にはウッドデッキを設け、脇のドアから出入りするよう工夫しています。 「パッシブ冷暖」の効果を最大限にするため、床下のベタ基礎内部を断熱材(スタイロフォーム)で覆っていました。床下の断熱性が低いと、床下と床面の温度差によって結露することがあり、特に床暖房を採用した場合は温度差が大きくなるので注意が必要です。結露というと冬場に生じるイメージですが、軽井沢は春先の気温差(朝5℃、昼20℃など)が大きいため「春型結露」が起きやすいそうです。 ▼熱交換器から各部屋へのダクトが伸びています。 室内側には厚さ120mmのグラスウールを充填し、不織布(タイベックス)を張っています。換気には、熱交換型の24時間換気システムを採用し、天井裏に各部屋へのダクトを配管していました。熱交換機によって外気を温めてから取り込むので、換気による室温の低下を防ぎます。現場の施工によって断熱性能は大きく左右されるため、軽井沢建築社では断熱などのディテール図面を標準化して、間違いなく施工されているか現場監督が細かくチェックしているそうです。 軽井沢特有の軟弱地盤 軽井沢の地質は、浅間山の噴出物による堅い岩盤の上に土が載ったような軟弱地盤が多く、水はけの悪いことが特徴です。地盤改良工事が必要なケースも多く、地盤調査によって改良工事が必要かどうかを判断します。この家の敷地は道路から森に向かってゆるやかに傾斜していたため、一部に盛り土をして敷地を平坦にすると共に軟弱な地盤に対応しました。 暗 渠 暗 渠 土壌からかなりの水が出たため、敷地の三方に暗渠を掘って砂利を入れ、穴を開けたパイプを埋めました。暗渠に水が流れることで、敷地の乾燥を促すことが期待できます。デッキの前に立つ庭のニレの木は、建主の希望で残されました。 ▼ 敷地からは浅間山の噴石(浅間石)が出てきました。 暗渠の効果により、敷地の隅に水が排出されていました。基礎工事の際は、基礎の底部分に砕石を30cmほど敷き込み、転圧をしてから基礎を作りました。基礎の高さは最大で1.5mほどあり、コンクリートを打つ際は、型板の破裂を防ぐ支持杭を入れて支えたそうです。基礎工事など、完成したら目に見えない部分が特に大切なことを実感しました。 軽井沢建築社にて、佐藤健志さん(右)と関泰良さん(左)。 不動産のプロに聞く、軽井沢の「土地探し」その1 ここ数年、コロナ禍などをきっかけに軽井沢の地価が高騰しています。軽井沢に家を建てたいとき、どのように土地を探すのがいいのでしょうか。軽井沢で20年以上不動産にかかわってきた、佐藤不動産株式会社の佐藤健志さんに伺いました。「軽井沢の土地を購入するのは大半が東京の方々なので、軽井沢の地価は東京の景気とほぼ連動するのが特徴です」と佐藤さん。最も高くなったのは1980年代後半バブル景気のころでした。「富裕層の動向としては、時計や高級車、マンション、クルーザーの次に来るのが軽井沢の別荘。コロナ禍の前は、だいたいそうでした。別荘を十数年で手放す方もいますが、年に7.10泊しかしなくても保有している方が多いと思います。使わなくても年間維持費はかかりますし、別荘を使う前後には管理会社に清掃などを依頼し、庭木の手入れを頼む必要もあります。今ならばホテルの方が合理的に思えますが、軽井沢の別荘は一種のステイタスシンボルで、先輩実業家から君もそろそろ軽井沢に別荘をもったらどうか、となるんでしょう」。軽井沢や追分は江戸時代の宿場町で、大名の参勤交代に使われる本陣がありました。明治時代になると交通のルートが変化し、宿場町は寂れていきました。そこに「軽井沢の父」といわれる宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏をはじめ外国人たちが避暑に訪れ、日本初の西洋式別荘文化が始まりました。やがて日本を代表する実業家、華族、政治家、学者、文学者などが続き、明治からステイタスの高い避暑地として発展した歴史があります。その中心となるのが、旧軽井沢ゴルフクラブ、軽井沢銀座商店街、万平ホテルなどがある旧軽井沢でした。 コロナ禍による変化 ステイタスシンボルとしての軽井沢を大きく変えたのが、コロナ禍でした。1990年代初頭のバブル崩壊により軽井沢の地価は急落し、1999年.2000年のITバブルで一時的に値上がりしましたが、2008年リーマン・ショックによって下落します。佐藤さんによると「地価が下がることで景気に左右されにくい富裕層が土地を買うようになり、2010年代になると少しずつ地価が上がり始めました。そこに起きたのがコロナ禍です。県をまたぐ移動が制限されるなか、もう誰も別荘なんて買わないと軽井沢の不動産業者は青くなりました。しかし我々も予想しない事態が起こりました。今まで避暑でしか来なかった人たちが、都心のコロナ禍から逃れる避難所として別荘を使い始めたのです。もちろん夏向きの別荘は冬場は寒いので、リフォームの依頼が増えて工事店が大忙しになりました。これが我々の感じたはじめての変化でした」。2020年4月、1回目の緊急事態宣言が発出され、その年のゴールデンウィークは軽井沢銀座を誰も歩かないという異常事態になりました。しかし5月後半に緊急事態宣言が解除されると、一斉に問い合わせが殺到して土地が売り切れ、歴代最高売上を達成した業者も多かったそうです。別荘の建築ラッシュがはじまり、地元の建設業者が手一杯になると、大手ハウスメーカーに依頼して、とりあえず東京から避難できる家を建てるケースも出てきました。古くからの別荘族からは「軽井沢にどうして街中のような家を建てるのかしら」と、訝しむ声も聞こえたそうです。「そうした変化に対応して、冬でも暮らすことを目的とした住宅が建ち始めます。それまでは隙間風があっても夏に気持ちよければいい。冬も使うんですか?という感じでしたが」と佐藤さん。以前の夏の軽井沢は、避暑に来た東京の客を追いかけるように有名料理店、デパート、ブティック、画廊などが夏季限定で営業し、銀座の街並みが移ってきたような独特の文化がありました。その一方、10月になれば旧軽井沢銀座の店は閉まってしまい、街並は閑散としました。しかし1998年の長野オリンピックを契機に北陸新幹線(長野新幹線)や上信越自動車道が開通。軽井沢駅前に巨大なアウトレットができ、一年を通して人が来るようになりました。 御代田のMMoP(モップ)は、アート、ライフスタイル、カフェ、レストランの複合施設。自然と調和した商業施設の多さも特徴。 土地の価格が高騰する仕組み コロナ禍以降、高騰が続くといわれる軽井沢の地価。どのような仕組みで土地の価格は上がっていくのでしょう?佐藤さんによると「人気のエリアは、コロナ禍で地価が数倍になった所も多く、場所にかかわらず軒並み上がっています。地元のプライスリーダー的な不動産業者が強気の価格をだすと、その噂が広がって相場が上がっていきます。不動産業者はお客様の土地を預かって購入者を探すわけですが、預かる際には出来るだけ高い価格設定を出したいのです。例えば実勢は坪10万円だけれど、他の業者が12万円で預からしてくださいと言うかもしれない。そこで15万円と言ってみる。それが、そのままの高値で売れてしまい、噂になって相場が上がります。また、今は不動産業者のホームページに土地の価格が出ているので、この値段で売れるのならと自分も高くしてみる。このように東京の人たちの購買意欲が土地の価値を決めるという所があります。実は軽井沢の不動産業者が思っていたよりも、軽井沢の土地の本質的な価値は高いのかもしれません」。コロナ禍以降に定住を希望する人は、以前よりも世代が若くなり、東京の仕事をリモートワークで続けながら、自然のなかで子どもを育てたいといったファミリー層も多いようです。別荘地としてのブランド価値が高く、東京から新幹線で1時間20分ほど、小学校が3校あり、スーパーやホームセンターも充実し、都心の有名レストランの支店や個性的な美術館が並ぶような場所は他にはないでしょう。「2020年春からのコロナ禍需要は一段落し、いまは落ち着いてきた感じです。別荘と定住目的の方の割合は、五分五分というところでしょうか?今まで年間10日しか別荘を使わなかった方が、2週間に1回、年間50日くらい使うことが増え、仕事をリタイアした後は定住するかもしれないという方も多くなってきました。夏の避暑以外の別荘の使い方に目覚めたというのが、コロナ禍以降の傾向でしょう」と佐藤さんは語ってくださいました。 ●次回は土地を選ぶ際の注意点や、おすすめのエリアを教えていただきます。 6月から7月、思考から行動へ移り変わる季節。とっておきの休み時間 2023年7月は「5」のエネルギーが流れます。16時間目「5」は ”体 ”の数字。行動、経験、自律、先生、バランス、ギア、変化、出会い、ネットワーク、といった写真・文 大吉朋子 現実の世界を表します。 ”考えるよりもまず行動 ”のスタンスが「5」のエネルギーを活性化。思考やアイディアでとまっていたものを 実際に行動し、実現、実行する、形あるものへと変化させる、というものづくりの数字でもあります。 また、体そのものを活性化すること=「運動」がとても大切で、じっとしているとエネルギーが消化不良となるため、 意識的に体を動かすことが好循環を生み出すポイントです。 変化を拒まず、フットワーク軽く動いていきたい7月。6月に計画したことは、7月に実行です。 「キャリアコンサルタント」 この言葉をご存じでしょうか。2016年に職業能力開発促進法に規定された国家資格です。キャリア形成や職業能力開発に関する相談・助言を行う専門家として定められ、企業や需給調整機関(ハローワークなど)、教育機関、若者自立支援機関などで活躍されています。実はこのたび、私はキャリアコンサルタントの資格を取得しました。ふだん主にデザインまわりの仕事を生業としているため、一見するとどういった経緯でそこに辿り着いたのか?と不思議に思われることもありますが、他方ではスタッフサポートなどのカウンセリングの仕事も行ってきました。とはいえ、「人」について専門的な勉強は正直不十分で、ヨガインストラクター、メノポーズカウンセラーといった資格にまつわる学びや、これまでの自らの経験を最大に掛け合わせ、一生懸命向き合ってきたというのが実情です。それでも真摯に向き合うことで確実に変化していく様子を目の当たりにすることは実にやりがいがあり、そのたび人の可能性を諦めてはいけないと学んでいます。 気丈で元気印が取柄の私ですが、2年ほど前、ある仕事に関わることで、初めて「うつ」を経験しました。これまでも厳しい環境下で”うつ気味”の状態になったこともありましたが、深刻な状況一歩手前で踏ん張り、なんとか回避できていました。それがある時、自分では特に気づくこともなく、ただなんとなく不調だと感じていた矢先、ふと言われた言葉で一瞬にして自分の現状を理解し、腹の底から涙が溢れ出し、自分ではどうにもできない、ただただ言葉で表せない心情へと突入しました。これが「うつ」なんだと初めて実感しました。幸いにも私の場合は軽度で、病院には行かずカウンセリングで対処することができ、仕事はほぼ休業状態でしたが 2カ月ほどで自分が戻ってきました。今でも私自身あの時の自分は不思議ですが、本当に説明しがたい気持ちで日々過ごしていました。今では貴重な体験をした時間だったと有難く思います。そして、結果として、この経験はぼんやりと私の中に存在していたライフテーマを明確にしていき、背中を押し、まずはやってみようとキャリアコンサルタントの学びを始めるに至りました。私にとって生涯学び続ける分野だと思います。 「デザイン」というと、グラフィックやプロダクト、形あるものをイメージしやすいですが、私はそれらだけでなく、人生そのものが本来自らデザインできる、クリエイティブなものだと思っています。キャリアという言葉は仕事の側面に引っ張られがちですが、ここでいうキャリアは個人の人生全体を表していて、キャリア形成とは「自分の人生設計」です。自らの人生をデザインする、言葉で言うほど簡単ではないからこそ、その側面でサポートを必要とする人に寄り添い、カウンセリングを通じて背中を押す。キャリアコンサルタントはとてもクリエイティブな仕事だと捉えています。 多様性という言葉が飛び交う昨今、まだまだ言葉に私たちが追い付いていない部分も多いように思います。変化のバラエティにも富んだ今だからこそ、柔軟にあらゆる視点で可能性を考えていきたいと思うこの頃です。 7月のエネルギー「5」は、動くこと、やってみること、変化すること、試行錯誤の数字です。動くためには、十分な体力を維持する運動が大切となります。梅雨時期で体のだるさを感じることも増えますが、そんな時こそ体を動かし、自分のエネルギーを循環させていきましょう。 軽井沢を彩るきら星の文人にふれる 軽井沢高原文庫 有島武郎、室生犀星、芥川龍之介、川端康成、堀辰雄、立原道造、野上弥生子など、軽井沢は多くの作家・詩人に愛され、この地で数々の名作が生まれました。軽井沢を訪れる人達に作品創造の舞台を体感してもらいたいと、1985年、塩沢湖畔に開館したのが「軽井沢高原文庫」です。 北軽井沢から創作の舞台を移築 野上弥生子「鬼女山房」 軽井沢高原文庫は、小説家・中村真一郎さん、元軽井沢町長・藤巻進さん、堀辰雄夫人・堀多恵子さん、室生犀星長女・室生朝子さんなど文人や地元の方々の尽力により設立され、塩沢遊園によって運営されています。入り口付近に移築されたのが、女流作家の草分けのひとり野上弥生子の「鬼女山房」(1933年)です。茶室の造りになっていて、円窓のある茅葺屋根のスタイルは、島根県松江 普門院の観月庵を思わせます。この茶室を建てた30年後には代表作『秀吉と利休』が刊行されました。 「宗易。一服たてて貰はうか。」「はい。」所望をきいたのは利休のみではない。それに応じて順次にはこびだされた道具の一つ一つが、最後のめんつうの建水まで、いち早くめいめいが果す役割をこころえてゐた。利休はただその手を柄杓に、茶筅に、小茄子の茶入に、茶杓に触れさへすれば、岩の窪みに真清水がわくやうに、茶はほろ苦く、甘く、厚味のある暖さで、五月のみづみづした若葉のいろに、ふんわりと白天目の底から盛りあがる。これが利休のいつもながらの点前であり、彼は茶をたてるのではなく、茶のほうがひとり手にたつのであった。        『秀吉と利休』野上弥生子著より 北軽井沢の学園村(群馬県)から1996年に移築保存された茶室は、浅間石を積んだ石垣の斜面に建っています。野上弥生子は山荘と東京・成城の家を行き来しながら99歳で亡くなるまで『欧米の旅』、『迷路』、『秀吉と利休』『森』(絶筆)といった作品を書き続け、浅間山の頂きを照らす朝日や中秋の名月を、この茶室から愛でたそうです。 野上弥生子は夫と共に夏目漱石門下となり、同門の安倍能成、高浜虚子たちと共にワキ方宝生流の謡を学んでいました、宝生新や桜間金太郎たちが山荘を訪ね、謡い会を催すこともあったようです。同じく北軽井沢に暮らした哲学者・田邊元とは特に親密で、300通を超える往復書簡が『田辺元・野上弥生子往復書簡』(岩波書店刊)にまとめられています。 庭の一画には、建築家・磯崎新さんによってデザインされた、中村真一郎文学碑が立ちます。軽井沢で堀辰雄と深く交友した中村さんは、同文庫の館長をつとめていました。ガラスの文学碑には、代表作『夏の樹』が浮かび上がります。 光を浴びて野中の樹緑に燃えて金の絵ちらししじまの凍る真昼時大地の夢を高く噴き出し 白いお前の歌のなか優しく匂ふ乙女の生肌   明日の記憶の眠る墓茂みの髪は永遠の夜中だ? 酔はせよ、遠い時を解き堅い乳房に青い日含み 、  流れよ、重い葉の動き吹き上げのやう愛の波生み光を浴びて野中の樹! ドラゴンシリーズ 104 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 旅 その友人の窪んだ目の奥にある瞳は、鍛錬して鍛え上げた武道家のように僅かな隙も見逃すこと無くその眼差しは動かない。脈々と変化してゆく世界の空気感や微細な日常の出来事の結びつきを、一つの大きな眼差しで、動じずに今の流れを捉え、この先を予測しているようだ。 彼は建築家でもう高齢になるが、身体的な強さの軸の見える後ろ姿からは、全く衰えを感じさせない。歩くスピードはもちろん、神社の急斜面の階段を軽快なテンポでスタスタと登ってゆくので追いつくこともできない。台風一過の炎天下、日本の初夏の中で全く疲れる様子も見せずに過密に練り込まれた日々のスケジュールを楽しんでいるようだ。 友人の建築家ご夫婦がオランダから日本に週間やってきた。ずっと前から一緒に計画した日本の旅だったが、 30 年前にコロナが世界中 62 を閉ざしてしまいずっと延期になっていた計画だった。友人はその 3昔、年以上前に日本で設計した集合住宅のプロジェクトを久しぶ りに見ることもこの旅の一つの目的となっていた。しかし、元々この旅の本当の目的は、僕らのアムステルダムでの酒の席の、何気ない話から始まったのだった。年前からスタートしたアムステルダムの僕らのお店の近所に、友人ご夫婦の行き付けの和食屋さんがあって、僕はアムステルダムに行く時には必ず彼に連絡を取ってその和食屋さんで升酒を酌み交わし、何だか不思議な友情が育まれていた。 毎回のように酒の席では、世界の変化する政治の話や動き続ける都市と国々、民族や宗教、習慣のこと、そして歴史、美術史、建築史、音楽、宇宙から素粒子、食や日本酒の話など止まることなく縦横無尽にグルグル目まぐるしく転換して、酒の量が増えると共にどこにいるのかも分からなくなってしまう。彼の頭の中にはあまりにも多くの深くて奥行きのある引き出しの中に、本当に膨大な量の情報が集積され、そこから適時的確に情報を引っ張り出して、机の上に並べ、その文脈を繋いでしまうのだ。それも自然に緩やかで、子供のような屈託のない表情で本当に楽しそうにパズルを組み立てる。 2 この週間の間に、僕らは北海道の工場のある東川町を訪れ、それから一気に九州に飛んだ。九州では昔の彼のプロジェクトの集合住宅を訪れたが、多くの住民たちが今でも年以上経つ住宅のエッセンスを大切にして、 2 共に素敵な空間を創造し、その丁寧な暮らしの中で住民の方々と彼の想い が重なり、とても心地よい空間で時間を過ごすことができた。年以上の時を経た、友人にとって嬉しい作品との再会だった。 30 それから唐津に宿を取り、美味しい地元の料理と住宅プロジェクトを肴にして地酒を楽しく味わった。唐津焼、三川内焼、波佐見焼など佐賀県と 2 長崎県の伝統的な窯元や陶芸作家を訪問し、日本の陶磁器の現場をしっかりと見聞しながら、作家たちと交流した。 それから久留米絣の織元を訪れ、独自の糸の括りの染色方法と職人の仕事を拝見し、また八女では染色作家のアトリエを訪れ、日本の染め物の仕 30 事を学んだ。八女では古民家を改修した小さなホテルに宿泊したが、それがとても素晴らしくバランスの良い改修がなされており、その必要最小限の施しをした完璧な空間を満喫した。そこから大分を経由して小倉に向かい、小倉織のアトリエを訪問。小倉織は周辺の自然素材で染色した糸を用いて、独特の縦縞を色の組み合わせで表現し、全ての作品の工程をアトリエで行っている。 日本の工芸の美しさは伝統と言う縛りを守りながらも、その縛りをどのように変化させ解き放つことができるか、そのような挑戦も伝統を継承するために必要なことだ。小倉織は本当に繊細で深く強く、織り込む密度によって強度の高い微細な縦縞を表現している。友人は伝統と前衛的な感覚が同居する、小倉織の作品アーカイブスに感動していた。 それから僕らは新幹線で名古屋まで移動し、レンタカーに乗り換えた(名古屋から石川県山代温泉までの長距離運転になるが・・・)。名古屋では名古屋港にある、直径メートルまでの大きな丸太を製材できる製材所を訪れた。日本には台風などの被害を受け、倒木の危険から伐られる巨木が時々ある。樹齢300年〜500年の巨木は直径メートル以上のものが多く、普通の製材所では製材できないため、運搬や製材に大きなコストがかかり使われる機会も少なくなっている。 また大きな一枚板を乾燥させる場合、最近は高周波プレス機で一気に乾燥させることが多い。しかし高周波は電子レンジのように、木材の繊維質を破壊して捻じれや割れを防ぐ方法で、表面には見えないが、木材の強さである繊維質の細胞は破壊され、時間と共に崩壊してゆく。目先の利益と現代スタイルを追求したそのような仕事には、疑問を感じるのである。そこで最近、日本の伝統的な水中乾燥が再発見されている。その製材所と一緒に、僕らは木材の水中乾燥に取り組み始め、建築家の友人ご夫婦と一緒にボートに乗って、水中乾燥の現場で水中深く沈めた丸太を引き上げる作 2 業を見聞した。水中で木が乾くというのは理解しにくいが、そんな僕らの挑戦を見て欲しかった。それから岐阜県銘木協同組合の木材市場に向かい、翌週の競りにかけられる多くの素晴らしい日本の銘木を見て、どのような木材が日本に自生して市場へと運ばれるのかを学んだ。 レンタカーで山代温泉の老舗旅館に到着し、翌日には越前和紙の工房を 3 訪問した。越前和紙は大きなサイズの和紙を二人がかりで漉いている。大きな紙漉きの道具を使い、美しい所作で作られてゆく。その素晴らしい和紙作りの職人たちの製作環境も厳しくなっているが、地域の伝統的な工芸こそ本質を大切にして継承してゆくべきで、美的な和紙づくりの工程は、 日本の貴重な財産だとつくづく感じる。 2 それから越前漆器の工房を訪問し、その後永平寺へ向かった。その翌日には小松市の近代的な繊維工場、そして富山県高岡市の鋳物工場、前日に訪問した永平寺のおりん (けいす)を作っている工房を訪問し、その素晴らしい山代温泉では日間滞在した。僕らは約週間の旅を終え、金沢駅から新幹線に乗って東京までの帰路に着いた。 この旅で僕は本当に多くのものを得て、素晴らしい経験を沢山した。人間の意識の持ち方の違いで、生命力が全く違ったものになることを知った。彼らと共に過ごした週間は、これまでのどのような時間とも質の違う時間だった。まだ自分の中でこの貴重な経験の持つ意味を明確に理解することはできないが。しかし、多分、僕の根っこの部分の意識に絶対的な良い影響を与えたと感じている。まだ自分の中では何も変わらないし、何の違いも感じていないが、どこか深く遠い場所の何かが変わった気がしている。 それが自分にとってどのような意味を持つか、自分で自分の今後に期待したい。 人生は経験していないこと、知らないことだらけだ。何も知らないことを明確に認識し、時間を大事にして、少しでも前に進みたいと願う。 旧軽井沢で憧れの山荘に暮らす 堀辰雄「1412番山荘」 高原文庫の森に佇むのは、今も多くのファンを魅了する堀辰雄が所有した「1412番山荘」です。1941年の正月、川端康成から堀辰雄に届いた速達は、堀辰雄が気に入っていた別荘が売りに出されたことを知らせていました。堀辰雄にとって売値の3.500円は高額でしたが、川端康成から450円を借りうけ(1年で返済)購入に踏み切ったと伝わります。 堀辰雄が初めて軽井沢を訪れたのは18歳、大正12年(1923)8月のことでした。「道で出遇うものは、異人さんたちと異国語ばっかりだ……」と親友の神西清に書き送っています。直後に起きた関東大震災で堀辰雄は彼を溺愛した母を失い、その寂しさを贖うように毎夏、軽井沢を訪れるようになります。東京で可愛がられていた室生犀星、芥川龍之介たちと散策やドライブを楽しみながら創作に励みました。そんななか1933年、軽井沢ホテルで矢野綾子と出会った体験が、代表作『美しい村』に結実します。 そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを緩めながら、わざと目をつぶった。その木陰になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように見出したかったのだ。・・・・とうとう私は我慢し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。そうしてその木陰にしゃがみながらそれまでパレットを削っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように。描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところだった。ほうり出された大きなカンバスは、しかしひとりでふんわりとなりながら、草の上へ倒れて行った。それを見ると、私は彼女のそばへ駆けつけた。「僕が持っていて上げよう」「いいわ・・・・いつもひとりでするんですから」「意地わる!」「意地わるでしょう」                  『美しい村』堀辰雄著より 1934年、矢野綾子と婚約した堀辰雄でしたが、共に結核を1412番山荘のリビングには、大きな患うなか富士見高原療養所に入所します。堀が回復に向か石積みの暖炉が据えられています。 う一方、綾子は12月に喀血し24歳の若さで旅立ちました。このサナトリウムの日々を美しく描いたのが「風立ちぬ、いざ生きめやも」で知られる『風立ちぬ』で、その最終章は真冬の軽井沢「幸福の谷(ハッピバレー)」で終わっています。 高いほどな額、もう静かな光さえ見せている目、引きしまった口もと、ー何一ついつもと少しも変っていず、いつもよりかもっともっと犯し難いように私には思われた。・・・・そうして私は何でもないのにそんなに怯え切っている私自身を反って子供のように感ぜずにはいら堀辰雄の愛用品が展示されています。1939年購入れなかった。私はそれから急に力が抜けてしまったようになって、が の蓄音機は横浜市立大学によって修復されました。っくりと膝を突いて、ベッドの縁に顔を埋めた。そうしてそのままいつまでもぴったりとそれに顔をおしつけていた。病人の手が私の髪の毛を撫でているのを感じ出しながら・・・・   『風たちぬ』堀辰雄著より 1936年12月『風立ちぬ』を改造に発表すると、翌年の大半を追分で過ごし、東京との2拠点生活がはじまります。日本の王朝文学に興味をもった堀は京都で1カ月ほど過ごし、追分に戻ると油屋旅館にて生涯の伴侶となる加藤多恵を知りました。11月には油屋が全焼し、身の回りの品を一切失った堀は川端康成の別荘に避難し、川端が帰京したのちも別荘に暮らし続け、詩人・野村英夫と冬を過ごしています。1938年、室生犀星の媒酌で加藤多恵とささやかな式をあげた堀は、4月から室生犀星の山荘を借りながら、愛宕山水源地近くのスイス風の大きな山荘を新居に決めました。1940年12月には多恵子夫人の母が亡くなり、その混乱のさなか翌1941年1月、堀辰雄は米国聖公会宣教師スミス氏所有の1412番山荘を入手しました。春先にまだ人の少ない軽井沢をよく散策した堀は、気に入った無人の別荘のテラスに上がりくつろぎました。1412番山荘もそのひとつでした。1941年7月から1412番山荘に暮らし始めた堀夫妻のもとには、中村真一郎、加藤周一、福永武彦といった友人たちが集い、若手文人サロンとなります。堀辰雄の軽井沢ライフは文学青年たちの憧れで、ベレー帽にステッキというスタイルがこぞって真似されました。堀夫妻は軽井沢と東京を行き来する2拠点生活をいち早くはじめ、冬場も軽井沢で過ごすなど、今の軽井沢ライフの先鞭をつけたと言えるかもしれません。1412番山荘は1985年、堀多恵子夫人から寄贈されました。 1412番山荘は大きな暖炉を備えながらも、夏を基本とした作りです。外壁には杉皮が張られ、構造にはカラマツなどの丸太材を使い、中央には土管をつなげた煙突が立ちます。壁の一部は風通しのいいアンペラ(籐のような編み物)で、廊下の板の隙間から地面が見えます。外と室内の気温差が小さいため結露は起こりにくく建物の寿命は伸びますが、冬場の生活はかなり厳しいと考えられます。堀夫妻はここに4年間暮らした後に追分に移り、戦後は友人の画家・深沢省三・紅子夫妻が夏のアトリエとして利用しました。堀辰雄は多恵子夫人の献身的な看病により48歳まで生き抜き、多恵子夫人は夫の倍にあたる96歳まで追分で暮らし、訪れるファンを温かく迎えました。 本館2階ギャラリーでは、軽井沢高原文庫館長を25年間つとめ、今年1月93歳で亡くなった加賀乙彦さんの追悼展が開かれていました(2023年5月23日終了)。1929年生まれの加賀乙彦さんは、精神科医の道を進みながら1960年代から作家活動をはじめ『フランドルの冬』でデビュー。『帰らざる夏』(谷崎潤一郎賞)、『宣告』(日本文学大賞)、『永遠の都』(芸術選奨文部大臣賞)など、緻密な調査をもとにした多くの長編を執筆し、80歳代になってからも自伝的小説『雲の都』を完結させます。1973年信濃追分に別荘をたて、年の3分の1ほど四季を通じて軽井沢ですごし1998年から中村真一郎館長の跡をついで館長に就任。後年は「リビング・ウィル」を提唱するなど、人間の生と死の尊厳を問い続けました。 有島武郎が情死したことで知られる「浄月庵」が移築され、ライブラリーカフェ「一房の葡萄」として利用されています。有島武郎が父から受け継ぎ、1916.22年まで夏を過ごした別荘で、元々は旧三笠ホテルの近くに建ち『信濃日記』『小さき影』などがここで書かれました。文学史の一大事件である有島武郎と波多野秋子(婦人公論記者)の心中はこの1階で行われました。その後、旧軽井沢区青年部樫の実会が管理してきましたが、1989年、軽井沢高原文庫に移築保存されました。 2階には有島武郎記念室があり、心中事件の新聞報道などが展示されています。移築の際にベランダ部分などが復元され、明治期の富裕層による軽井沢別荘の特徴をよく表した貴重な建物を体験できます。 岩田学園の2代目理事長岩田正氏は、学生時代、演劇活動に熱中した教育者で、県の名誉職を歴任しながら、芸術・文化のパトロンとして活躍しました。磯崎新さんの父・藻二氏とは同級生で、その縁から磯崎さんに設計が依頼されたと思われます。 LINEデビュー写真の衝撃 50年来の友人グループがある。コロナが落ち着いたのを機に、3年分を取り戻そうと、幹事役が毎月のように楽しい企画を立てて、集まる機会を作ってくれている。私がこの集まりに参加をはじめたのは、7〜8年前。大病をした後だった。いつでも参加 O K、体調の良い時、気分次第で構わないと、仲間に加えてくれた。最初に参加したのは、江戸博物館、入り口に集合するリュックおばさんたちがそれとは気づかず、セーラ服のおさげ髪を重ねるのは容易ではなかったが、ダラダラと歩きながらのおしゃべりとキャッキャと笑う声に、それはあっという間に縮まった。 全員が揃うことは滅多にないが、あちこちに散らばった友人たちが、朝の通勤時間帯の電車に揉まれながらも、リュックサックを背負って元気に集合する。何をするわけでもない。顔を見て安否を確認。取り留めなくおしゃべりして帰る。それだけのことだが、コロナ禍には、この仲間の存在はすこぶるありがたかった。コロナに罹らなくても、病気をしたり、怪我をしたり、入院したり、手術をしたり、この年齢になれば当然のことのようにそれぞれあったが、仲間に会う楽しみを励みにリハビリに頑張り、体重を落としてスリムになり、太極拳で体を鍛え、健康を取り戻そうと努力をした。会うたびにみんな元気になっているのがなにより嬉しい。 築地買い出し、上野公園巡り、浅草木馬座観劇、皇居三の丸博物 館、大手町カーデンプレスと東京の名所観光地を案内してくれる が、東京生まれ東京育ちの私にとっては、初めてのところばかり、「え〜」と驚きながら、毎回楽しく参加させてもらっている。 段取りしてくれる幹事役には感謝するが、一人はずっとガラケー で、連絡も段取りは旦那さんの協力があってのことと聞く。最初の頃は3分の2はガラケーだったが、あっという間にスマホになり、今は L I N Eが飛び交っている。私は L I N Eは苦手なので、なかなかやり取りにはついていけないが、写真が一斉に送れるのは便利と、送り方を教えてもらってからは、 L I N Eも時々覗く。驚いたことに、昨日、最後のガラケーだった幹事役が L I N Eに登場した。みんな一斉に、「パンパカパーン!!」「おめでとう!」「乾杯!!」と、祝福コールであっという間に画面がいっぱいになった。しかし、よく見ると、写真の顔は誰だかわからない。「誰」と聞くと、昔のギャル時代の写真だと誰かが言う。「そんなのあり?」「ずるくない」と、返しているうちに L I N E繋ぎに協力してくれた息子?の写真が登場。旦那さんと思ったのはもしかして息子さん?と、話はチンプンカンプン。結局、写真の話はそれきり、衝撃の写真も闇の中。 L I N Eはみんなに一斉に送れるけど、みんなが一斉に反応するので話がごちゃごちゃ。ちょっとタイプが遅いと、話題はもう明後日。 L I N Eはやはりついていけない。苦手なままおとなしくしていよう・・・・・ しかし、最近スマホに変えた友人は最初から L I N Eありきでスピードが速い。絵文字もあれこれ間髪入れずに入れてくる。その彼女、 「グループラインは、返信が遅れるから、話が噛み合わない」「対面して話してもズレてるのに、どうなることやら・・・・」 「うんうん、わかるー」と誰かが絵文字で返す。一人で大声出して笑った。その後はもう誰も何も言わず、 L I N E画面の喧騒は嘘のように静まり返ったまま。 人生100年、順風満帆とはいかないでしょうが、笑える友がいることはありがたい。6カ月定期検査で先生が変わった。イケメン。目を見てしっかり話す。 「好きなことを制限するより、人生豊かに生きる方がずっといい、と僕は思いますよ」もうそれだけで、病気は飛んでいく。埃を被ったままのゴルフクラブを磨いて体調管理、 L I N Eで思いっきり笑って鬱陶しい梅雨を乗り切りたいと思う。!!!!!。 ▲軽井沢駅に集合しタクシーで現地へ向かいます。 2013年、小説家・辻邦生(つじくにお)さんの山荘が軽井沢高原文庫に寄贈されました。2014年から年に数回の見学会が開かれ、山荘内が特別公開されています。周辺に配慮して場所は非公開で、軽井沢駅から出発するツアー形式の見学会になっています。2023年は9月2日(土)、9月30日(土)の公開が予定されています(詳しくは軽井沢高原文庫ホームページへ)。 辻邦生さんは1925年生まれ。東大仏文科を卒業後佐保子夫人とともに渡仏。『背教者ユリアヌス』、『西行花伝』はじめ多くの歴史小説を著し、学習院大学でフランス文学の教授もつとめました。1999年軽井沢で急逝した後も根強いファンに支持されています。辻山荘は傾斜地に建ち、玄関を入るとリビングに降りる階段と書斎に登る階段が分かれる踊り場(コンコルドと呼ばれていた)に出ます。設計は磯崎新さんで、群馬県立美術館開館の2年後1976年に建てられ、美術館と同じ井上房一郎さんの井上工業によって施工されました。山荘は永井荷風の「偏奇館」にちなみ「偏奇の家」と名付けられましたが、磯崎さんは「ASKA山荘」として発表しています。ASKAは磯崎新、宮脇愛子、辻邦生、辻佐保子の4人の頭文字を並べたものです。もともとこの場所は宮脇家の土地で、辻山荘の下に建つ磯崎別荘とあわせ総称として付けられました。踊り場に立つと、右上に辻邦生さんの書斎、左上に佐保子夫人の書斎、右下にリビングに降りる階段があります。「複雑な段差と微妙な陰影にとむ採光の効果によって、こちらの身体が移動するたびに、眼に入る光景もたえず変化する。邦夫はまるで透明なアイス・キューブのなかをくぐり抜けるような気がするといっていた。」と佐保子夫人は述懐しています。 今年館長に就任した大藤敏行さんが、辻邦生・佐保子夫妻の暮らしぶりや、磯崎新さんの設計のことなどを参加者に丁寧に説明してくださいました。軽井沢高原文庫が発行する『高原文庫』第24号辻邦生特集で、佐保子夫人は別荘遍歴について詳しく書かれています(『過ぎ去る時ととどまる記憶』)。元々は八ヶ岳の別荘を利用していましたが、1963年、追分の福永武彦さんの別荘を訪ねた際に軽井沢の魅力にひかれ、翌年から軽井沢の貸別荘を利用するようになります。旧軽井沢つるや旅館近くの「青い魚の家」には石積の暖炉があり、近所に暮らす文豪たちを観察しています。 モリエールとヴォルテールの胸像が飾られています。 右側の階段を上がると辻邦生さんの書斎があり、コーナーにひらかれた窓から新緑が美しく見えます。辻山荘の特徴は、建物だけでなく蔵書や生活用品がそっくり寄贈され、生前のまま保存されていることです。その空間を体感できるのは、少人数の特別公開だからこそかもしれません。磯崎新さんの提案したプランは、夫妻共に小説家、研究者であることを考慮して、2人の書斎を左右に分け、その真中に生活空間を置くことでした。辻夫妻から特に注文はなかったそうですが、長年の交友からその暮らしや価値観を理解し、創作の時間を最大限にサポートすることを考え抜いた設計と感じました。 リビング・ダイニングの大きな窓は西側を向いていて、磯崎新さんは、そこから浅間山の山頂が見えることを「山越阿弥陀図」にたとえ重視したようです。 辻夫妻の使った文具、食器、料理器具などがそのまま残されています。書斎には立派なオーディオセット、ダイニングには操作パネルがあり、家中で音楽を楽しむことができました。ちなみに辻山荘は一間半の立方体(キューブ)を重ねたモデュールシステムを採用しています。均一な立方体を並べる手法は、群馬県立美術館にも使われています。 棚の向こうに辻邦生さんの書斎が見えます。 辻佐保子夫人の書斎。女性としてはじめて東大文学部美術史学科を卒業した佐保子夫人は、1957年からフランス政府給費留学生としてパリに留学。辻邦生さんもフランス政府保護留学生の資格をとり共に渡仏しました。本棚には、磯崎新さんの著書が沢山並んでいます。ここで暮らし始めた印象として佐保子夫人は「神殿の廃墟の上に住んでいるような感覚」をあげています。一方、磯崎新さんは『新潮』1999年10月号「辻さんのアクロポリス体験」で「この設計中、私はひたすらアクロポリスだけを考えていた。」と書いていることから、美術史家としての佐保子さんの直感は、磯崎さんの構想を射抜いていたのかもしれません。 大藤館長が、晩年の辻邦生さんが山荘で森を眺める最中に体験した神秘的な出来事について教えて下さいました。それは木村美苗さんとの往復書簡集『手紙、栞を添えて』のエピローグ「風のトンネル」に書かれています。 その透明なトンネルの中のものは、人が永遠と呼ぶ真の実在ではないかと思いました。何の理由もなく、窓から谷を見ながら、私は今永遠を見ているのだと思っていました。それが永遠かどうか証してくれるものはありませんが、もしあるとしたら、その透明なトンネルの中の風物を見ているとき、それが水晶に彫刻したようにくっきり見えるとともに、私は何ともゆえ知らぬ幸福感に満たされていることでした。森も遠い雲も風もいつもの風物と変わりないのに、トンネルの中ではすべて明晰で冴えざえと美しく、それに触れるだけで、あの幸福感がそこから溢れてくるのでした。 道路側のひかえめな外観からは想像できない鋭角的なデザイン。扇型のデッキにそって、大きな扉が回転します。 暖炉のあるリビングは一段低く、吹き抜けの高い天井のダイニングとは異なり、上に私の書斎があるため、落ち着いた気分になる。『高原文庫』第24号「過ぎ去る時ととどまる記憶」辻佐保子著より 梅雨入り前の台風、豪雨災害につづく突然の夏日。気付けば、意地っ張りの紫陽花も満開、見つめる方も戸惑いを隠せません。この一ヶ月だけで様々な事象がスピーディーに押し寄せ、動き出したみたいでした。。広島サミット開催とピタリ重なるように起きた、かつてない歌舞伎界の大騒動。また、随分昔から囁かれ その38 青山かすみ ていたジャニーさん事務所の問題。それらに加え、海外へも驚きとともに伝わったニュースが起こってしまうことに。 銃を手にした前途ある若者が、身近な人へ銃口を向け打つという信じがたい事件が続いたからである。サミット以降の株価上昇によりコロナ明けバブルなどと言われ始めた日本だが、このまま調子づいていいはずはない。  日本だけに限らないとは思うが、時代の空気感としてなにか行き場を無くし歪んだひずみ、特に旧態依然なまま囲われた空間の中で起きた事件のように思えてならない。歌舞伎界、芸能界は特殊な芸能の分野とよくいわれるけれど、それは各分野なりの特殊性が存在するはずだし、面々とバトンを今につなぐ歴史性こそ日本の誇りとするところだが。いくらなんでも裸の大様的配慮が過ぎてはいけません。やがては柔軟性、透明性を 欠き、時代から解離し魅力ないものとなるだけ。軍隊の組織で例えるにしても、そもそも明治期の文明開化が近世の原点でしょうし、幾度もの戦争を乗り越え平和を手に入れたかに感じていたけれど ...日本はほんとうの意味で一人ひとりが自立できてたんだろうか?世界の中の日本ってどんな存在で、これから先どんな国になれるんだろうねぇ。コンピュータで管理される日が待っているとしたら地球は滅びてしまうんじゃないかしら?便利を追いかけたツケは誰もがコロナ禍である程度払ったのだから、私たちは未来を担う子どもたちのため、人間が成長できる楽園づくりを目指し励まなきゃいけなんじゃない?海べりルートで飛ぶ旅客機を、わざわざ都心中央部まで引き込み遠進させ、無駄な燃料費と大事な時間を 3年以上浪費させてる場合じゃありませんよ!!! 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】