Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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Click https://collaj.jp/ 時空を超える美意識 薫風 2023 ようこそ 魂のすみかへ 新世紀 磯崎 新 私は歩き疲れ、聖堂の暗がりに身をゆだねていた。高窓から一筋の光が差し込んだ。すすけた壁をわずかに照らし出す。その時、深い闇がその場にたちこめているのを感じ、全身がその中に溶け出すような恍惚を味わった。建築が内部に抱え込む「空間」を初めて体感したのである。 日本経済新聞「私の履歴書」14 / 2009年5月15日より 2022年12月28日。沖縄にて建築家磯崎新さんが、91歳で逝去されました。磯崎さんの生まれた大分を訪ね、その初期作品「アートセンター(旧大分県立大分図書館)」、「岩田学園」のほか、群馬県の「原美術館 ARC」、「群馬県立近代美術館」をご案内します。 アートプラザ(旧大分県立大分図書館) 大分市の中心にある府内城跡。磯崎新さんは1931年、大分に生まれました。父親は中国の東亜同文書院を卒業し、家業の米穀商、廻船業を発展させ、大分合同トラックを創業した磯崎藻二氏です。藻二氏は大分を代表する俳人としても知られ、歌人 三浦義一氏や教育者 岩田正氏、医師 中山宏男氏、辛島詢士氏をはじめ文化人と親しく付き合いました。そのことが後に、磯崎新さんを建築家の道へと誘うのです。 お堀端を通学していた磯崎少年が、大分文化人の支援をうけて上京し、十数年後には大分の医師会館や県立図書館を設計することになります。 大分市で「生活空間デザイン室1級建築士事務所」を営む山本栄一さんは、1976年に磯崎新アトリエでアルバイトを経験し、地元大分に帰ってからもアートプラザ整備工事、辛島内科クリニック改修、岩田学園4号館・WC棟新築工事、大分瓦斯新大分工場新築工事など、磯崎新アトリエの仕事を担い、磯崎さんをアテンドしてきました。その貴重なエピソードを自著『地方で建築家を生きるローカルアーキテクトも亦楽しからず也』(建築ジャーナル刊)にまとめています。 磯崎新さんの代表作「アートプラザ」は、1966年大分県立大分図書館として開館。1992年には別の施設を建てる構想が持ち上がりましたが、市民や建築関係者の保存運動もあり、耐震工事などを施して1998年アートプラザとして再オープンしました。ちなみに上の写真右奥には、実質的な処女作「大分医師会館」(1960)がありましたが、1999年解体されています。 大分医師会館の竣工時、磯崎新さんは弱冠29歳。東京大学の大学院生でした。14歳、トラック事故で母を亡くし、20歳、脳溢血で父を亡くした磯崎さんを、父の友人たちが支援します。戦後の大分発展を支えた上田保元大分市長は、野猿の寺として有名な高崎山・万寿寺の設計を依頼(実現せず)、医師会館は岩田正氏の紹介で医師会副会長中山宏男氏の働きかけにより実現しました。「おそらく今日では地方の公共的な仕事をするときには、行政の長と設計業者のひとり、という関係を崩すことはできない。だが1950年代、私が大学に入学し、建築学科に学び、大学院を終えるこの時期では、こんな公僕・業者関係とは違う旦那・芸術家関係が存続していた」(『建物が残った.近代建築の保存と転生』(岩波書店刊)と磯崎さんは当時を振り返っています。 県立図書館の構想は、1961年、三浦義一氏の寄付申しでからスタートしたと言われています。三浦氏は歌人であると共に右翼の大物で、父・藻二氏の友人でもありました。1962年32歳の頃、図書館を設計することになった磯崎さんは、株式会社磯崎新アトリエを設立しました。「この大分県立図書館は、私が出発から学び続けた近代建築にたいして提出した卒業設計=論文のようなものではなかったか.」と述懐しています。図書館計画は予算や規模も決まらないまま進んだため、磯崎さんは有機体のように生長する建物を、ある瞬間「切断」するという新しい手法を編み出します。その切断面としての四角形が、建物の随所に見られます。 リニューアル後に設けられたアートホール(2階フロア)。展覧会、講演会等に貸し出されています。 二枚のコンクリート壁がそびえる細長い通路は、天井や壁、床をグリーンのペンキで塗った。光が照らす中を歩くと、深海にひたっているような気分になる。光と闇に関心が向かうのは大分で育った影響も大きい。最初に思い出すのは真夏の風景である。 日本経済新聞「私の履歴書」14 / 2009年5月15日より 大分県立大分図書館の取り壊しについては、1992年9月24日建築史家鈴木博之氏の『読売新聞』建築季評で公にされました。11月には日本建築学会が県知事に要望書を提出。保存を求める理由として「平面と構造と設備の見事な統合を踏まえながら、大胆な手法でなされた力強い造型のすばらしい調和にある」「平面計画は一対の2重壁によって囲まれた中央ラウンジを軸として巧みに展開されており、その外側に各エレメントを突き出していく形で、無限に成長する建築がイメージされ、そのダイナミックな建築的形態は、建築の成長を突然『切断』するという手法によって与えられている」「戦後のニューブルータリズムと1960〜70年代の建築運動のメタボリズムの両者を統合した作品として時代を代表している」をあげました。 1993年「大分合同新聞」のアンケートには約500人の回答があり、保存51%、解体40%という結果がでました。保存した場合の活用法については、大分市の図書館に転用37%、美術館34%、新しい建築家のために残す13%、記念館にする11%という結果でした。同年8月には建築関係者による「現大分県立図書館を考える会」が発足し、会報の発行や勉強会が開かれます。また大分観光協会は、大友館や府内城跡と磯崎作品をあわせ観光資源としてアピールしたい旨、大分市に提言しました。1994年には市民ギャラリー案が検討され、磯崎新さんはそのプランとして1階を収蔵庫やカフェテラス、2階には市民ギャラリーや演奏会など多目的ホール。3階は磯崎新さんの作品展示室に当てることを提案し、1991年ロサンゼルス現代美術館(MOCA)をかわきりに世界を巡回した「磯崎新 1960-1990 建築展」の展示模型、図面、写真、蔵書などを大分市に寄贈しました。1995年3月には大分県から大分市に建物が無償貸与されることとなり、1996年から改修工事がスタート。新しくなったアートプラザを「これは単なる再生ではなく、転生だ」と磯崎さんは評価しました。 Vol.47 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ なかったコトにしよう「パチン」 スイッチを切り替えるきえていく淡いコトバのカケラ ミラノと東京 隈研吾さんが参加した、ふたつのトークセッション 2023年 4月17、18、19日、ミラノデザインウィークにあわせ、T ime & Style Milanにて 3回のDesign Talksが行われました。1回目には、建築家・隈研吾さん、designboom創設者 Birgit Lohmannさん、Time & Styleの吉田龍太郎さんが集まり、吉田さんから隈研吾さんデザインの家具を製作するようになった経緯が説明されました。最初の仕事は根津美術館に設けられた「NEZUCAF.」で、その後、GCプロソミュージアムリサーチセンター、Roof/B irds、COMICO ART MUSEUMYUFUIN、COEDA HOUSEなど様々な建築作品のための家具が、隈さんとのコラボレーションから生み出されました。隈研吾さんは、するどいエッジをもつ座布団からFUを発想したことや、従来のボックス型のソファに対して、シャープなエッジをもつ KAを開発したことなどを説明しました。また 3月末に逝去さた坂本龍一さんと一緒に、森林保護活動をすすめるため作られたスキ材製のトイ「TSUM IKI」についてのエピソードも語られました。 GCチェアFUソファKAソファ ドリルデザインの安西葉子さん、林裕輔さんと、グラフィックデザイナーの葵・フーバーさん(ス ミラノ・ブレラ地区の Time & Style Milan。デザインウィーク期間中、イス在住)。ドリルデザインは新作 Diamond back chairを発表しました。連日1000人を超える人で賑わったそうです。 Claesson KoivistoRuneは、1995年 M.rten Claessonさん、Eero Koivistoさん、O la Runeさんにより結成されたスウェーデンのデザインユニット。日本で設計したホテル K5 (日本橋)のために開発した照明器具「Drop Paper Lamp」は、茨城の水府提灯の技術を生かし、和紙を巻いたペット樹脂を骨組みに採用。強度が高く大判の越前和紙を張ることで、Φ1200という巨大なサイズのペンダントを制作できます。 インテリアテキスタイル 「KUMASHIMA」 誕生イベント 隈 研吾 ×築城 則子 Time & Style Atmosphere(東京南青山) 2023 年5 月 18 .6 月6 日まで、 T ime & Style そこから日本の伝統織物をインテリアテキスタイル Atmosphereにて「 KUMASHIMA」発表会が開催 に利用する画期的なプロジェクト「 KUMASHIMA」 中です。1 8日には隈 研吾さんと染色家 築城則子 がスタートしました。 さんのトークセッションがひらかれました。築城さ 「築城さんのアトリエは森の中の古い一軒家で、ま んは、江戸時代から昭和の初めまで帯や袴の生地 わりの植物を染色に使っている。そこから『植物の として盛んに作られていた縦縞模様の綿織物「小倉 力』という言葉が生まれました。全てが自動化さ 織」を復興し、北九州市を拠点に「小倉縞縞」を れていく世の中で、工程の中にランダムなものを残 展開しています。縦縞の美しさにひかれた隈研吾さ すことから面白いデザインが生まれる。工房に置 んは、旅館の再生プロジェクトのために小倉縞縞を かれた輪転機のような織り機の存在感もすごかっ 採用した椅子を開発します。 た。人格を感じた」と隈研吾さんは語りました。 インテリアテキスタイル「KUMASHIMA」は、3本の経糸に対して1本の緯糸を通した厚手の生地で、布幅1 .4mと幅が広く、壁紙、ソファ、カーテン、シェードなど多方面に利用できます。今回は「光放つ葉」「闇の気」「深い森」「無伴奏白」の4種類の柄が作られ、FUソファ、KAソファなどに張られました。 学校法人岩田学園 岩田中学校・高等学校 大分有数の進学校として知られる岩田学園。磯崎新さん設計による1・2号館が生まれたのは約60年前の1964年。現存最古の貴重な磯崎作品です。 1900年、岩田学園は大分裁縫伝習所としてスタートし、戦前・戦中は高等女学校でしたが空襲で校舎が全焼。終戦とともにこの地に移転し、1983年には中高一貫6年制男子校として岩田中学校・高等学校を開校。2001年からは男女共学校に移行しました。学園には1960年代から2000年代の磯崎作品が現用され、その変遷をみることができます。各校舎をつなぐコリドール(回廊)には、1メートル角のコの字型の柱が連続しています。岩田学園の2代目理事長岩田正氏は、学生時代、演劇活動に熱中した教育者で、県の名誉職を歴任しながら、芸術・文化のパトロンとして活躍しました。磯崎新さんの父・藻二氏とは同級生で、その縁から磯崎さんに設計が依頼されたと思われます。雨を避ける赤いテントは、三角形で構成されています。 1・2号館は渡り廊下で結ばれています。「私の仕事のなかで、もっともひんぱんに出現する空中歩廊というべきものは、この岩田学園ではじめてあられた。(中略)北側の棟を高く、南側を低くし、その中間にサーキュレーションのための定義された場をとりだそうというのが最初の目的であった。そして、ふたつに棟を分けた故に、階段をふたつ設けねばならないという不経済を何とか打開しようとしたあげくの苦肉の策が、これを2階のレベルで結びつけることであった」(『現代の建築家磯崎新』鹿島出版会刊)と磯崎さんは述懐しています。1・2号館と同じデザインの校舎を複数建て、空中歩廊で結ぶ構想もあったようです。 1983年、3代目理事長岩田英二氏は、英国パブリックスクールのような男子エリート養成校を目指し、中高一貫6年制男子校に移行します。その際に建てられたのが男子寮「樟英寮」(しょうえいりょう)です。外壁にはコリドールと同様のコンクリート柱がたち、校舎全体の連続性をたもっています。屋根の断面にはヴォールトの形状が見られます。 中・高校生が6年間を過ごす「樟英寮」の食堂。食事は毎日3食提供され、1日3〜4時間の学習時間を設定することで、勉学に集中できる環境を作り上げています。居室は高校3年が個室、中学と高校1、2年は2〜3人部屋です。 5代目理事長の成瀬輝一さんは、岩田英二理事長の急逝をうけ2001年から理事長をつとめています。長年、鹿島建設設計部で活躍した経験をいかし、成瀬さんは1・2号館の耐震改修をはじめ、磯崎作品の維持、活用につとめてきました。複雑な形状の1・2号館ですが、オリジナルを保ちつつ耐震性を高めるため様々な手法がとられました。 ▼最上階の教室は天井が斜めになっています。 1号館では中学生が学んでいます。特徴的なのは、教室の後ろから出入りすることです。窓が教室の左右にあり上部にはハイサイドライトが設けられ、自然光が均等に入るよう工夫されています。最近の授業は電子化が進み、黒板は液晶ディスプレイにかわり、生徒全員がiPadを持ちWiFiが完備された環境で授業を行っているそうです。 スキップフロアのようなプランで、短い廊下の左右に教室が配置されています。出入り口は大きな引き戸で、廊下の突き当りに水場が設けられています。 2号館の2階は元は図書室でしたが、今は職員室として使われています。斜めの天井に設けられたハイサイドライトから、自然光がよく入ります。 5号館は主に高校生の教室で、ヴォールト屋根が特徴です。ヴォールトについて磯崎新さんは「ヴォールトは円弧状の一定の断面を無限にひきのばしていくものだ。当然端部があらわれる。《切断》はその端部を決めるひとつの手法である。(中略)切り口は内側の空洞を外にのぞかせて魅力的だ。内側になにかが含まれ発生していることを暗示している。」(『現代の建築家磯崎新』鹿島出版会刊)と書いています。 岩田学園100周年事業で建てられた4号館と体育館が並びます。1・2号館からコリドールがつながり、4号館や体育館の構造と連続していることが分かります。ちなみに体育館や「樟英寮」は、磯崎アトリエ時代の青木淳氏が担当したと伝わります。 体育館は外側のコンクリート柱によってFRPの壁面や屋根を支える仕組みになっています。FRPの半透明パネルによって体育館の中は明るく保たれます。 クスの大木が立つ岩田学園の敷地は、戦時中、海軍の航空廠でした。クスは樟脳の原料として貴重で、その苗木を女学生たちが植えたそうです。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間14時間目 写真&文 大吉朋子 「4」の話。 2023年6月は「4」のエネルギーが流れます。今回は「4」という数字についての話です。 「4」はニュートラルマインドの数字。ものごとに善悪をつけず、客観的な視点からものごとを眺め、ジャッジをせず、そのまま、ありのままを受け入れる、というエネルギーを表します。整理整頓、ルール、秩序、建設的な思考も「4」の特徴です。また、ルールを重んじることから、まじめな気質もある数字。 「4」を持つ人は、整然とした思考で物事を冷静に捉え、周囲の考えや声をそのまま受け取り、話をきちんと聞いてくれるため、安心して話せる人、です。職業で表すならば、建築家や構造家、法律家、カウンセラーなどがそれにあたります。(あくまで一例です)そして、日本人や日本を数字で表現するときには、迷わず「4」となります。秩序を重んじ、冷静でルールを大切にする国民性、生真面目さ、勤勉さ、などがその所以でしょうか。 「4」はいつも考えていて、思考は常にフル稼働状態。そのエネルギーがうまくめぐっていると、物事を論理的にとらえ、全体を見渡す観察眼をもって、分け隔てなくすべてを見ることができる公平な人。一方で、そのエネルギーが強すぎたり、バランスが悪いと、考えすぎるが故の理屈っぽさや、思考がグルグルして考え方を自由にクリエイティブにすることが難しくなり、自分のルールを相手に押し付けてしまう、なんてことにもなりかねません。4月生まれの方、4日、13日、22日、31日生まれの方々は、より意識していただくと◎。2023年6月は、自分を取り巻く外の世界全体に「4」のエネルギーが流れるため、疑問や批判を伴う考えはいったん横に置き、まずはありのままに受け入れ、ものごとの全体を客観的に眺め、落ち着いて考えを整理する、ということがうまくいくコツ。頭の中がいろいろな考えや思いでいっぱいになったら、それらをいったんアウトプットして頭の中にスペースをつくることが必要です。 「4」は四角い箱や器も表します。器が小さければ少しのものしか入らず、すぐにスペースはいっ ぱいになります。コップの水も満タンにしていたら新しい水を入れるスペースがなく、入れ替えるこ とができません。これらを思考に置き換えてみると・・・・・どうでしょうか。 私たちは無意識のうちに思い込みや、自分のルールでものごとを計っていることが意外と多いです。自分のルールと他人のルールは違い、そこには善悪だけでは測れないことが山ほどあります。多様性が必要だ、と言われますが、社会の大きな仕組みもさることながら、まずは自分自身の思考の器はどうなっているのか、を省みることからなのでは? と思います。 この 6月は、そういった自分の中にあるルールや思い込みを少し横において、俯瞰的に物事を眺めることを意識して過ごしてみると、これまでとはまた違う発見があるかもしれません。6月に落ち着いて整理したことは、アクティブな 7月のエネルギーに繋がっていきます。 今年の梅雨時期はじっくり考える時間が似合いそうです。 ンチャク ラフィア椰子(クバ王国 ブショング族 )協力:小川 弘 ラウ・ウティ・コウコットン泥染 貝殻細工(インドネシア スンバ島 )協力:佐藤岳利 ポンチョ 極細の強撚手紡ぎ獣毛(ボリビア )協力:山本悦子 手織り綿布 手描き模様(コロゴ・セヌフォ族 )協力:小川 弘 家具モデラーの第一人者宮本茂紀さんの職人生活70周年を記念した展覧会「布と椅子着る、羽織る、纏う」が、2023年4月2日〜7日まで、東京・南青山のLIGHT BOX GALLERY AOYAMAで開催されました。 1937年生まれの宮本茂紀さん(86歳)。 宮本茂紀さんと五反田製作所グループに関わった方々から、展覧会のため貴重な布が寄せられました。16歳から椅子張りの徒弟修行に入った宮本さんですが、生地をピンと綺麗に張るだけでなく、ルーズに着たり、ふわっと羽織ったり、ぐるっと纏わせたりと、布地の個性をひきだした様々な椅子張りに挑戦したいそうです。宮本さんの探求の旅は、これからも続きそうです。 主催 ときの忘れもの 磯崎 新 群馬建築ツアー 2023年4月1日、ときの忘れもの(東京・駒込)の主催で「群馬磯崎建築ツアー」が開催されました。ユネスコ世界の記憶に登録された「上野三碑(こうずけさんぴ)」が話題の高崎駅に集合し、バスに乗り込み出発しました。ギャラリー&編集事務所ときの忘れものは、1970年代から磯崎新さんの200点を超える版画作品をサポートしてきました。磯崎さんは「建築は100年後には残らないだろう。でも紙は残る」と言い、版画によって建築のコンセプトを後世に残すことを願ったと伝わります。 ツアーには全国から建築家、美術館学芸員、版画コレクター、編集者など20名以上が参加しました。最初に訪れたのは磯崎作品ではなく、アントニン・レーモンドが設計した高崎市の「群馬音楽センター」(1961年)。磯崎新さんの代表作「群馬県立近代美術館」(1974年)とこの建物は、深い縁で結ばれています。 2008年「群馬音楽センターを愛する会」を結成した建築家水上勝之さんが、音楽センターの成り立ちを教えてくださいました。建設に大きな役割を果たしたのが、井上房一郎氏(1898〜1993)でした。井上氏は建設会社井上工業の社長であるとともに、芸術家のパトロンとしてブルーノ・タウトの高崎滞在を支援したり、群馬交響楽団の設立や音楽センターの建設に奔走します。水上さんは高崎高校在学中、美術部に所属していました。ある日、井上さんに誘われ工事中の音楽センターを見学した際、レイモンドが原画を描いた壁画の制作風景に感動し、建築家を志したそうです。 折板構造を内部にも生かしたホール。竣工年にあわせ1961席あったそうです。平面は歌舞伎座を模したといわれ、客席から舞台に上がるスロープにより、客と演者の一体感があります。 ▼センター内の「アントニン・レーモンドギャラリー」。 1999年、音楽センターは日本を代表するホールとして DOCOMOMO「日本の近代建築20選」に選ばれますが、2007年には建て替え計画が報道されます。水上さんの呼びかけによって「群馬音楽センターを愛する会」が立ち上げられ、高崎市長は音楽センターの保存を宣言しました。2011年には50周年のシンポジウム、2021年には60周年の記念イベントが開催され、今も学校の卒業式や吹奏楽の演奏会、高崎高校マンドリンオーケストラ定期公演など様々なイベントに使われ。市民に愛され続けています。折板構造の躯体は今も頑丈で、耐震補強を施さず当時のまま利用されているそうです。▼テレビ岩手1階MORIOKA第一画廊の喫茶「舷」は、盛岡の芸術サロンでした(2020年11月閉廊)。 岩手県盛岡市で和見設計舎を主宰する中村孝幸さんは、磯崎新さんの版画作品コレクターとして知られ、今回は有名建築家の追悼文などをまとめた資料集を自ら作り、盛岡から参加されました。MORIOKA第一画廊で「Folly-SOAN」を入手したのをかわきりに、2005年にはもりおか啄木・賢治青春館にて「磯崎新 版画展」を主催し、連刊画文集「百二十の見えない都市」や一連の建築版画作品を展示しました。「磯崎さんは自分で手を動かすタイプの建築家と思います」と中村さん。磯崎さんの版画制作活動は、こうした支援者によって支えられてきました。 スコットランドと言えば、男のタータンチェックのキルト(短い巻きスカート)とバクパイプの演奏、そしてウィスキー。そんなイメージが頭に浮かぶ。キルトは古くからの伝統で、その色柄とタータンの模様は、ぞれぞれの家(氏族)によって異なり、その家の伝統を象徴するものとなっている。なんて話が、ウィスキーの宣伝や、スコットランド旅行のパンフレットに書かれていたりする。また、スコットランドの山岳地帯(ハイランド)の人々を指す「ハイランダー」という言葉は、不屈の戦闘精神溢れる「戦う男たち」というイメージで、そんな男たちが好むのが、伝統のハイランド・ウィスキー。007で知られたショーン・コネリー的男が登場するコマーシャルの映像が目に浮かぶ。だが、英国最大の島の北部の大半をスコットランドと呼び、そこに住む人々をひとくくりにスコットランド人と呼ぶことに対しては、強烈な異論がある。 地図を見れば一目瞭然だが、スコットランドは、多くの人が知る「首都」エディンバラやグラスゴーのある「スコットランド東部」と、その東部とは山岳地帯で隔てられた、地図で見ると左側に位置する「西部」とに分かれる。西部の一番南側の海に浮かぶのが、オートバイのレースやケルト遺跡で有名なマン島だ。マン島を南限として、そこから以北の一帯は、海岸近くまで丘陵が迫り、その狭い海岸沿いにへばりつくように町や村が散在する。そして、その最西北部の海には、ヘブリデス諸島を始めとする多数の島々が浮かぶ。その最北端はオークニー諸島へとつながる。こうした海岸沿いの地域と島々をすべて含めて「スコットランド西部」と呼ぶ。その南限であるマン島のすぐ西隣は、狭い海を挟んで、北アイルランドだ。 スコットランド西部は、歴史文化的に見て、東部スコットランドとよりも、アイルランドとの一体性が強かった。スコットランド東部から西部の海岸沿いに行くには、急峻ではないが荒れた低山岳地帯を越えなければならない。そのため古い時代には、両者の交流は限られたものだった。むしろ、西部からは船で容易に渡れる対岸、アイルランド北部との交流が盛んだった。海は両者を隔てるのではなく、海によって両者は結ばれていた。そのため、現在のスコットランド西部は長年に渡って、アイルランド豪族の支配下にあったと見るべきだ、という強力な仮説が提出されている。これは地域の歴史から見ても説得力があることで、西部スコットランドの人々は、ヴァイキングの血が濃い。西暦 8 0 0年前後から2百年近くに渡って、この一帯は波状的にヴァイキングによって侵略され、やがてヴァイキングが定住する集落が数多く生まれている。海によって両地域が結ばれていたというのは、海と川を自在に動き回って本籍地である北欧から遠く地中海や黒海を荒らし回っていたヴァイキングならではのことだ。 1701年イングランドがスコットランド一帯を併合し、スコットランド王国は消滅する。この消滅したスコットランド王国は、スコットランド東部中心の王国であった、と見ていい。実際この 18世紀初頭という時点でもまだ、東部スコットランド人から見た西部スコットランド人は、「野蛮で貧しく遅れた地域で、言葉もよく通じない異邦の人々」というイメージだった。当然、自分たち東部スコットランド人と西部スコットランド人を合わせて「我ら共にスコットランド人なり!」という同一民族意識など、全くなかったという。 その背景を知るに大切なことを、ひとつ。西部スコットランドでは、バグ・パイプなんて、ほとんど知られていなかった。伝統的な民謡はハープで奏でられてきた。ここでハープと言えば、それはもちろん、アイリッシュ・ハープのことを指す。従ってこの一帯の民謡は、アイルランド民謡と共通性が高い。そして、もうひとつ。 1701年の段階で、この一帯で、男がタータンチェックの巻きスカートを日常的に着ていたという記 スコットランドの首都 エジンバラ城 録は、ほとんど残されていない(この点は東部地域についても同様だ)。また、当時スコットランド西部で使われていた主要な言語は、対岸の北アイルランド同様にゲール語で、これは現在イギリスでよく冗談の種にされる「スコットランド訛りの英語」とは全く異なる言語だ。私はゲール語を母語とする地元のおばさんたちのグループと会話を交わしたことがあるが、彼女たちが互いにゲール語で交わす会話は、全く理解できなかった。私に気を使ってくれて、英語で話をしてくれる時だけ、話の内容を理解することができた。 く同席したが、いくら耳をそばだてても、単語一つ理解できなかった。民謡と楽器そして言葉、西部スコットランドと北アイルランドは、様々な点で共通するものが多い。 にもかかわらず、 1701年のイングランドによるスコットランド併合以後、この異質性の高い西部も含めて「スコットランド」という統一的なイメージが出来上がっていくことになる。同時に「ハイランド」という、それまでには無かった、新しい地域イメージが登場してくる。まるでそれが、大昔から歴史的にそういうものであったかのような衣装をまとって。しかし、なぜこの時期に、認識が大きく変わり始めたのか。あえて一言で言えば、これすべて、イングランドによるスコットランド併合を正当化するために作り上げられた、一種の歴史神話だという説が有力だ。言葉を遠慮せずに言えば、「それまでは無かった歴史をでっち上げた」ということなのだ。従って、タータンチェックのキルトの色と柄の読み解きで、氏族(クラン)を知ることができるなんてことは、少なくとも1701年以前には、ありえない話だった。それどころか、あのようなスカートをどれほどの男たちが着用していたのか、はっきりした記録も殆ど残っていない。いずれにしても、イングランドにとってスコットランドの併合は、歴史的な神話をでっち上げてでも正当化する必要がある極めて重要度の高いことであったことは間違いない。 30 分間近 そしてその重大さは世紀の現在でも、意外な形で姿を現すことになる。 初めてスコットランドの「首都」エジンバラを訪れた時、誰もが訪れるエジンバラ城にまず行ってみた。そこには特別な展示場所が作られていて、歴代のスコットランド王が即位のときに、その上に座ることで初めて正式に即位したと認められる「スクーンの石」(The Stone of Scone)と呼ばれる石が、麗々しく飾られていた。その説明を読んで 21 度肝を抜かれた。この石は、1296年イングランド王エドワード1世によるスコットランド侵略時に略奪され、ロンドンに持ち去られた。その後石は、どうなったのか。以降、エドワード王の命で製作された特別な玉座の座部の下に、石は組み込まれた。歴代 14 のイングランド王は、即位式において必ずこの玉座( Coronation Chair)に着座し、原則としてカンタベリー大司教から王冠を授かるのが慣例となっている。実際1954年のエリザベス2世の戴冠式まで、スクーンの石が組み込まれた世紀初頭に作られたというオークの玉座が使用され続けてきた。私が見たスクーンの石は、ほぼ七百年ぶりに、これがスコットランドに返還されたものだったのだ。それにしても「他国の王の即位儀式の象徴たる石」を「尻の下に敷き置く」。しかも、これを七百年に渡って継続して行い続ける。これ以上の侮辱があるだろうか。 14 石の返還それは「イングランドとスコットランドの歴史的和解の象徴」なのだろうと、その時は思った。だが、この「石の返還」には、厳しい条件が付けられていたことは知らなかった。その条件とは何か。将来、新たなイングランド王が即位するときには、この石を再びイングランドに戻して、新王の即位式に使われる玉座の下に組み込むこと。その条件で「返還」されたものだったのだ。これ、ざっくばらんに言えば、「イングランド王家で使わないときには、そっちに飾っておいてもいいよ」という感覚ではないか。随分な話である。スコットランド人からすれば我慢ならないはずだ。 では、先日行われたチャールズ3世の戴冠式では、どうだったのか。様々な儀式を簡素化し、多民族多宗教多文化混合である現在の英国社会に配慮した儀式内容であったと盛んに報道されたことは皆様ご承知の通り。では、スコットランドの心情に配慮して、スクーンの石の使用は止めることになったのだろうか。そうは、ならなかった。チャールズ3世の即位式には、慣例通り世紀初頭に作られたと言われる戴冠玉座とスクーンの石が使用され、そのために石は、エジンバラ城から持ち出されて、ロンドンのウェストミンスター大聖堂に運び込まれている。歴代のイングランド王は必ず、男女ともタータンの衣装をまとって記者団の前に登場する機会を作ってきた。エジンバラにはイングランド王家の別邸があり、歴代の王たちは在位中何度も、この別邸ホリールード宮殿に滞在する。「スコットランドはイングランドと一体不可分なり」というメッセージの表明だ。こういうことが続く限り、スコットランド独立運動の機運が消え去ることは絶対にないだろう。歴史はいつだって、現代の最先端に通じている。 原美術館ARC 次に訪ねたのは渋川市伊香保温泉に近い「原美術館ARC」。磯崎新さんの設計で、原美術館(東京品川)別館として1988年に開館しました。澄んだ青空と満開の桜が出迎えてくれました。 原美術館は1979年、原俊夫氏が理事長をつとめる公益財団法人アルカンシエール美術財団によって、東京・品川御殿山に開館した現代アートの美術館で、渡辺仁設計の洋館と共に、多くの人に愛されました。1988年、その別館として磯崎新さんの設計で建てられたのがハラミュージアムアークです。2021年に原美術館は東京での活動を終え、新たな活動拠点となったハラ ミュージアム アークは「原美術館ARC」としてリニューアルオープンしました。 1989年から30年以上にわたり、磯崎新さんと仕事を共にしてきた建築家大野幸さんと、原美術館ARC館長の青野和子さんが、美術館を案内してくださいました。原俊夫氏の曽祖父原六郎氏は、幕末の志士として活躍した後、米・英に留学して経営学を学び、銀行や鉄道業で渋沢栄一、安田善次郎、大倉喜八郎と並ぶ大実業家として成功します。また東洋古美術の蒐集家としても知られ、円山応挙、狩野永徳、雪村、蛇足など国宝を含む貴重なコレクションを残しました。一方、原俊夫氏は、1950年以降の現代美術コレクターとして知られ、世界を旅して作家に直接面会し、自身の眼に叶う作品を蒐集してきました。原美術館ARCは、古美術と現代アートをかけあわせたユニークなテーマの企画展を開催しています。1988年に完成したギャラリーA、B、C棟。ピラミッド状の屋根を持つ正方形のギャラリーAから、かまぼこ状のギャラリーB、Cが左右に伸び、中心に招き入れられるように感じます。大野さんはこの配置について「網走刑務所を引用したのでは」と言います。芝生の前庭はゆるく傾斜していて、エントランス部分をステージに見立てた円形劇場的な構想があったようです。 ギャラリーA入り口前には、ミニマル・アートの巨匠ソル・ルウィットの「不完全な立方体」(1971年)が展示されていました。 「青空は、太陽の反対側にある」展展示風景。 ギャラリーCの内部は、アーチ状の梁の上から自然光が降り注ぐ白い空間。現代アートをやわらかな光が包み込むように照らし、原俊夫氏のアートに対する世界観を表現しているようです。 中央のギャラリーAは正方形の平 面で、ピラミッド状の天窓が特徴 です。黒い4本の柱には、木肌を生 かした丸太が使われています。「青空は、太陽の反対側にある」展展示風景。 原家が林業を営んできたこともあり、建物は木造のパネル工法で建てられました。イギリス式の下見板張りが周辺の緑に映えるよう黒く塗装され、西洋の素朴なバーン(農作業小屋)を思わせます。木造とはいえ耐火性、防火性を高めるため壁に鉄板が使われています。屋外には磯崎新さんの夫人であり彫刻家宮脇愛子さん(1929〜2014)の作品「うつろひ '89カシオペア」(1989年)が展示されています。「うつろひ」は青空にドローイングを描くイメージを表したといわれ、庭の桜は、この作品の設置に合わせて植えられたそうです。2008年には新しい収蔵庫やミュージアムショップ、古美術品を展示する「觀海庵(かんかいあん)」等が増築され、面積が2倍以上になりました。来場者を迎えるのはジャン=ミシェル・オトニエル「Kokoro」(2009年)です。磯崎新さん60歳、77歳、88歳のときには、この美術館で記念パーティが開かれました。 ▲ 開架式収蔵庫の中の様子(写真提供:原美術館ARC)。 今回のツアーでは通常非公開の「開架式収蔵庫」の中を、青野館長がご案内くださいました。2階層の収蔵庫には貴重な現代アートが多数収蔵され、月に1回程度、メンバーシップ会員等を対象としたツアーが開催されています。また主に研究目的での特別観覧時にも学芸員が案内しています。昼食は敷地内の「カフェダール」でサンドイッチやビーフシチューを頂きながら、参加者同士の会話がはずみました。 特別展示室「觀海庵」は、主に原六郎氏の東洋古美術コレクションを展示する、書院造をモチーフにした静謐な空間です。背後にはかつて竹久夢二が、美術研究所を構想した榛名山が見えます。 古美術・現代美術を問わず、東洋・西洋も問わず、原俊夫氏が曽祖父原六郎氏から受け継いだものに加えて、独自のコレクターとして収集した現代美術を、区別せずに都会から離れた自然の只中に展示する。そんな場(ギャラリー)を編成したいと考えた。 (觀海庵の設計について『新建築』2008年9月号) 右側に立っているのが、イサム・ノグチの作品「物見台」(1959〜81年)。 由布院駅大分県・由布院温泉の「由布院駅」は、ハラミュージアムアークの2年後、1990年に竣工しました。中央には正方形のコンコース棟が建ち、左右にかまぼこ状の建物が伸びています。正面右側の棟は待合室兼ギャラリースペースになっていて、原美術館ARCと同様に、天窓から自然光が入ります。 初夏のウオーキング 「胸を反らして、腕を振り、踵9時半、田町駅集合。通勤時間帯に電車に乗るのは久しぶりだが、5月初旬ウォーキング講座に参加した。改札を少し離れた場所にリュックを背負った高齢者諸氏が、旗の元に集まっている。コースは、田町駅から芝浦運河脇の遊歩道を通り、芝浦中央公園を突っ切って、天王洲アイルをぐるっと回って品川駅までの2時間コース。前日の雨も上がり風も爽やか。まさにウォーキング日和りである。このウォーキングに参加するには、基礎講座を受けるのが条件となっている。ウォーキングと歩きの違いを座学で習い、膝を痛めない歩き方、疲れない歩き方を実践する。 を上げて、つま先で蹴る。」この基本を体に覚え込ませての参加である。駅前の広場で通勤の人たちを横目に準備体操をするが、ここ田町駅は社会に出て、初めてお給料をいただいた職場 50 があったところでもある。まさか年経って、リックを背負って駅前で体操をするとは思ってもみなかったが、懐かしい場所でのウォーキングに、こころ踊る気分でもあった。駅や街はすっかり変わっていたが、駅前の森永ビル壁面に大きなミニスカート姿のツイッギーの写真が貼られ、毎日それを見ながら通勤したのを思い出す。仕事が終わると週に2〜3度は甘味どころに集まって、磯部焼きやお汁粉にところてん、お給料日にはあんみつにアイスクリームをのせて何時間も喋っていた。いつの間にか他の部署の女子たちも集まり、甘味処は女子会場所となっていた。なんであんなに喋ることがあったのだろうか・・・・・楽しかった若い頃を思い出しながら、田町駅をスタート。 田町には結構長く通勤していたが、運河の脇を通る道は全く知らなかった。歩道はよく整備されて綺麗に花が植えられている。地元のボランティアの方が手入れされているようで、雑草が刈られ水が撒かれていた。初めてみる芝浦の景色、江戸時代には穴子や 内田和子 天王洲アイル 10!! いなぁと、今度品川駅の映像が流れても、ちょっと見方が変わるかもしれない。汐の公園でクールダウンの体操をして解散。リックを背負った参加者の後ろ姿は、内館牧子の『すぐ死ぬんだから』のカバーそのものだったが、なんのなんの、年以上も続くウォーキング講座に参加する人たちの姿は、人生 10 0年時代の先頭を行く人たちでもあった。連れ立って駅ビルへ消えていったが、私はおしゃべりに加わる気力は残っていない。昼すぎの電車は案外混んでいる。若い女性がすぐに席を譲ってくれたが「遊んできたので大丈夫です。ありがとうございます」と、一度使ってみたかったセリフがスッと出た。彼女は笑って携帯に目をやったが、今後は隣の若い外国人カップルが席を立った。「ザットオーライ」と手振りで断ったが、セリフは出てこない。目顔で何度もすすめられ、サンキューと座ったが、英語でどう言うのか・しかしリック姿の自分は外国人から見ても充分に高齢者、降り際に「ありがとうございました。」とお礼を言った。有楽町から銀座へと歩き、銀座アスターで五目麺にビール、よく歩いた自分に乾杯。コロナ後初めてのウォーキング参加だったが、五月晴れに恵まれてエネルギーを充満、第二弾の国分寺崖線、武蔵国分寺跡の史跡巡りにも参加して、初夏のウォーキングを存分に楽しんだ。コロナ禍の時、よく通勤状況ニュースで流れた品川駅の映像、大勢の人の波に、思わず「ご苦労様です」と呟いていたが、天王洲アイルから品川に続く道はおしゃれで、こんなところがあったのかと驚く。緑もたくさんあって、まさに都会のオアシス。お昼は外でお弁当を広げるのもい海苔がとれ、エビは特産で芝海老はここから名付けられたと説明がある。父がよく江戸前寿司のことを話していたが、明治生まれの江戸っこの父の時代には、ここ芝浦は寿司のネタがよく採れたのかもしれない。そんなことを思いながら、ふと、落語の「芝浜」を思い出す。確か志ん朝の DVDの中にあったはず、帰ったら聞いてみようと、遅れかけた歩を早めた。芝浦中央公園は大勢の子供たちもきていた。たくさんのバラが咲いて、高輪ゲートウェイ近くにはクレーン車が何台もアームを伸ばしていた。いつか江戸前も海苔も昔々の話になって忘れられていくのだろうか。年後の芝浦はどうなっているのか・・・・・天王洲アイルの地面を歩くのは初めて。モノレールの上から見たことは何度もあるが、ボードウオークという板張りの遊歩道はとても気持ちいい。ウォーターフロントの景色を楽しみながら水分補給。品川まではあともう少し。 50 武蔵国分寺跡 ドラゴンシリーズ 103 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 隈研吾と坂本龍一 NHK の追悼番組の映像を見ていると、坂本龍一さんの ご自宅の風景の片隅に黒猫のぬいぐるみが置いてあった。 その黒猫は 年に僕の自宅に 2007 たモモのスケッチを描いて下町の小さなぬいぐるみのアト リエで作ってもらい、それ以来 年以上作り続けられてい るロングセラーのぬいぐるみである。 どのようなご縁なのかは知る由もないが、坂本さんは僕の作った黒猫のぬいぐるみを闘病する生活の中で側において、大きな黒猫に『さっちゃん』、小さな黒猫を『ちーちゃん』と名付け、入院する際にも病室のソファーに座らせておき、時々『さっちゃんはね、さちこと言うんだ本当はね。だけどちっちゃいから自分のこと・・・・』と歌っては涙していたと後に雑誌に黒猫のことが書いてあるのを見つけた。 若い時からこれまで自分の仕事の中で迷いが生まれ、行 き先が見えない時、そして何かを生み出したいけれど何も見つけられない時に『千のナイフ』の音源を求め、また海外での活動先で自分の存在を認識するべき時には『 Merry Christmas Mr Lawrence』を聴きながら心を落ち着かせてきた。そんな坂本龍一さんと心のどこかで繋がることができたことが嬉しくて、僕は一人で涙した。 今年、 2023 年の 4 月 日、ミラノサローネの初日に 僕らの新しいミラノショールームで隈研吾さんとのトーク イベントを開催した。その 年前の 1 2022 ロナ禍の制限がゆるんだ久しぶりの海外出張でイタリアを訪れた隈研吾さんは、オープンしたばかりのミラノショールームまで足を運んでくれた。その時に翌年のサローネにむけた隈研吾プロダクトの展示構想の話しをすると、僕ら 12 15 17 年間一緒に住んでい 年 5 月末、コのためにオープニングに来ることを約束してくれた。 1 そして年後、本当に隈さんはミラノまで来てくれた。少しふっくらとした表情でそれまで日本国内で会った時よりもゆったりとしたペースで僕らのミラノショールームを見てくれた。それまで本当に分刻みで世界中を駆け回ってきた隈さんに、コロナ禍は大きな休息を与えたことだろう。 そして今年のトークイベント日前、隈研吾さんのオフィスからトークショーの画像スライドが届いた。その内容は隈さんの建築と言うよりもプ 3 ロダクトにフォーカスした画像が多く、当日は隈研吾さんの「クマヒダ」の家具やアパレルブランドのバッグなどのプロダクトが語られる予定となっていた。しかし、当日になって隈さんの指示によって内容が変更されたトークショー用のスライドが届けられ、そのスライドの画像を見て僕は心が震え、込み上げてくるものを感じた。 それまで抱えていた自分の不安感などちっぽけなものが全部一気に吹き飛んだ。時間のトークショーは終始、隈さんがゼロからの空気感を引っ張り上げて、話と会話を構築し、会場の雰囲気や会話を盛り上げてくれる。そのスライドは僕らのプロダクトを中心に構成されたものに変更されており、隈さんが海外で活動する僕らのことを盛り上げるように、隈さん自身がスタッフの方々に指示して内容を変更してくれたものだと言うことが僕だけには分かった。 あれだけ多くのプロジェクトを抱え、毎日世界中の様々な場所を訪れて人々に会い、次々と生まれる建築や家具の詳細を見て打ち合わせを重ね、そして多くのメディアや取材に丁寧に対応し、そして道ゆく人々にも笑顔で接する姿を知るだけに、僕らの活動に対する応援の気持ちに感謝すると同時に自分の中に生まれた何か大きく強い存在するものを感じた。 隈研吾さんは自己と言う意識を捨てている人であり、隈事務所のスタッフや周りで共に活動する人々、クライアントなど人の為に自分のクリエィティブに集中している人だと感じた。自分を捨てることで、自由になることで、人に無垢な愛情を注ぎ、常に大切なことに向かって新しい挑戦を続けることができる、すごい人なのだと感じた。 そのトークショーのスライドの最後に隈研吾さんが子供のような笑顔で坂本龍一さんと二人で写っている写真が大きなモニターに写し出され、隈さんの表情がさらに優しい表情に変わった。 隈さんと坂本さんは若い時からの友人であり、隈さんの幼馴染の生田アキさんが Y M Oのマネージメントをしていたこともあり、隈さんと坂本さんも若い時から良く一緒に遊んでいたらしい。そして Y M Oのロス公演の後にマネジャーとして同行した生田さんがメキシコ旅行に行くと言い出し、隈さんも坂本さんも誘われたが、そのメキシコで生田さんの車が崖から転落して亡くなったこと、そしてその検死に隈さん、坂本さん、若い日本大使館職員がロスから駆け付けたこと、そして、それから随分と経って隈さんが手掛けたサンパウロのジャパンハウスのオープニングのイベントに坂本さんを呼んで、アコースティックのピアノ一台だけのライブを野外で開催し、 1万人の市民が集まって坂本さんの音楽に涙したこと。その時のサンパウロの日本大使が昔メキシコで亡くなった親友の生田さんの検死に立ち会った、当時は若い日本大使館員だったことの偶然が重なって、その夜は坂本さんが好きなボサノバを聴くバーのカウンターで 3人で泣きながら飲んだことを話をしてくれた。ミラノでその話をする隈さんの目に涙が浮かんで光っているのが見えた。 隈研吾さんは、若い時に坂本さんの Y M Oの活動を目の当たりにし、アートと言うものを使い音楽を作り、日本から世界に通ずる音楽を生み出した姿を見て、『アートというものの力で、世界に到達できることを知った。』アートが日本から世界に到達するものを生み出すことができると確信した、と話してくれた。なんとこれからの日本人に勇気を与える言葉なのだろう。 群馬県立近代美術館 最後に訪ねた「群馬県立近代美術館」は1974年に開館した磯崎新さんの代表作です。旧陸軍の火薬製造所が県立公園「群馬の森」として整備され、その一画に美術館が建てられました。 学芸員の田中龍也さんが館内を案内してくださいました。群馬県立近代美術館の創設には、高崎で群馬音楽センター計画を進めた井上房一郎氏が深く関わっています。若い頃、山本鼎のすすめでパリ留学した井上氏は、地方都市に美術館が少ないことを憂い、会社の一画にファウンデーションギャラリーを設けて地元作家の作品を蒐集。美術館の基礎を作りました。 井上氏は現代美術家斎藤義重氏の紹介で磯崎新さんを知り、大高正人氏、槇文彦氏との3人で群馬の森の基本計画が練られます。美術館の設計者として当時40歳頃の磯崎さんが選ばれますが、美術館の構想に悩むなか、緑の草の上に四角いキューブが転がる情景が頭をよぎったそうです。その空洞そのものを美術館と呼べばいい、いずれアーティストがその空白に作品を持ち込むだろう、というのが磯崎さんのプランとなりました。そうして1辺1.2mのガラスとアルミパネルに覆われた1辺12mのキューブを、連続して並べた美術館が生まれました。 今日において、美術館とは、すでに額縁と台座をそなえて、世界中を流動している《作品》の、仮泊の場にすぎない。 『現代の建築家 磯崎新』(鹿島出版会刊)より 選別され、配列された.《作品》.がおりなす空間。そこに要求される建築は、自らが必ずしも明示的な図像をもたない。囲いあるいは枠であればよい。 『現代の建築家 磯崎新』(鹿島出版会刊)より 四つの立方体が並ぶ奥深いロビーの空間に、カッララ大理石でおおわれた祭壇のようなステップがある。そのエッジは手前の一点に向かって逆のパースペクティブが生まれるように集中している。 『現代の建築家 磯崎新』(鹿島出版会刊)より ▲ 白井晟一設計の煥乎堂(現存せず)。▼ 榎倉康二《干渉》1990年コンセプトスペース(渋川市)での展示を再現。 2023年1月21日〜4月9日まで「アートのための場所づくり一九七〇年代から九〇年代の群馬におけるアートスペース」が開催されました。これは、煥乎堂ギャラリィ、ぐんまアートセンター、コンセプトスペース、アートハウス、北関東造形美術館といった、群馬の作家活動を支えた1970〜90年代のアートスペース(活動・発表の場)を当時の作品と共に紹介した意欲的な展覧会で、担当学芸員の田中龍也さんは作家や関係者を訪ね、展覧会案内状、カタログ、会場写真などの資料を丹念に調査されました。煥乎堂ギャラリィは老舗書店煥乎堂(前橋)にあり、1960年代から白井晟一設計の新店舗で、群馬の代表作家による「煥乎堂美術展」が2005年まで開催されました。煥乎堂2代目社長で博識の詩人として知られた高橋元吉は白井晟一の無二の親友で、頻繁に前橋で会った時期に「縄文的なるもの」や「めし」など代表的エッセイが書かれたそうです。 金子英彦による、ぐんまアートセンターギャラリー(前橋)の最初の個展で展示された「隅屋夢幻の16篇のはなの詩による版画集」(1974年)。シルクスクリーン版画は金子英彦、詩を書いた隅屋夢幻は煥乎堂社員岡田芳保のペンネームで、煥乎堂ギャラリィの運営を任されていました。版画集は限定10部制作されました。 磯崎新さんがはじめて設計したといわれる茶室(施工中村外二工務店)。磯崎さんの茶室としては「FOLLY-SOAN」が知られ、藤森照信さんと茶室について対談した『磯崎新と藤森照信の茶席建築談議』(六耀社刊)があります。 角度をつけて建てられた「山種記念館」。群馬県出身の山崎種二氏によって寄贈され、井上房一郎氏が寄贈した古美術「戸方庵井上コレクション」が展示されています。足もとの池には宮脇愛子さんの「うつろひ」が、建物を見守るように囲んでいました。 その37 青山かすみ 大分県の中で行ったことのある場所を上げるとしたら、誰もが由布院と答えるのではないかしら? 湯けむり立ち込めるイメージの別府温泉とか。九州の中でも名だたる温泉地、人気の観光スポットですものね。この度は二度目の大分体験と相なり、もちろん取材旅だが、なんといっても二十年近い由布院ぶりである。大分の中心地ってどんなとこ?期待や緊張感、遠出も含めた不安に包まれつつ、私たちは春休みで混み合う羽田から大分空港へ向かった。 驚いたことに今やローカル便は左右三席づつのコンパクト便、ボーイング 737型とのこと。こんなところまで経費節約?混んでたし息苦しく感じ、思わず扇子を開く。久しぶりの空の旅ですから、もう少しゆったり気分を味わいたいと思いましたね〜あぁコロナ禍空席率の恋しいことよ!そんなこんなを考えているうち、大分空港へ到着。 トイレを済ませ、急いで市内ゆきバスへ。やはり混んでて暑いのに、バスの窓が全部閉まってるのはなぜ? 扇子をあおぎながら冷静に窓の景色をしばし見渡してみる。低い山々の森林地帯が続き、たわわに揺らぐ杉やヒノキに見えた重たげな花粉・なるほど〜そういうことなのね〜窓が開けられない訳を理解した。春先の黄砂や花粉の飛散を想像するだけで、なかなかに手強い場所であることを知ったのだった。国東半島の森からは、それはもう手つかずといってよいくらい野性味あふれるパワーがみなぎってるようでありました。やがて煙立つ温泉地別府を通り過ぎ、大分駅まで一時間半ほどかかっての到着。以外に時間がかかったんです。 大分空港から船便での移動コースがあれば随分と分散できるのに・・・・ そうなれば、逆に帰りは大分湾から空港までの海コースが選べますもの。海風に当たりながら移動ができればきっと最高の気分なんじゃないかと考えたりした次第。 大分県は瀬戸内に開かれた、物資物流の集散地を担う九州でも要の場所。穏やかな海側の風と山側から流れ込む風がほどよい具合に交差し、空気が溜まることなく循環がなされてるよう。そのうえ食事やお水もおいしく、総じて物価はお安めかもと思います。港や温泉地が近いからかもしれません。 三日に渡った充実の取材を終え、さぁ、帰りの便に乗り込まなければ。駅前にある空港行きバスの待合から空港まで、なんとかトイレを我慢し、再び大分空港に無事戻ってきました。シルバー世代に入ったら、ここまでで大仕事になっちゃうのよね。トホホのほ! 大急ぎでサンドイッチを頬張り13時半の便に乗り込みました。 この日も快晴なり!もしや、もしや?そう、三年に渡って地上から低空飛行で行き交う旅客機をウラメシクニランデ見てきた側の自分でしたが、飛行機の乗客という立場で低く飛ぶところの都心状況を、上空から体験できる日がやっとやってきたのです。この初体験をわたしは忘れることはありません。 都心に入りこむパイロットの操縦は、ギシギシ、ガクガクぎこちなく機内に響き、正直、飛行機酔いを起こしかねないものでした。そして、座席に備え付けのモニターに映し出された東京都心部の低空映像は、新宿都庁を過ぎた頃、急に映像がブチギレたのです!はぁ?もうすぐ港区じゃん!うちのマンションの上を飛ぶところ確かめたかったのに!近すぎて丸見えだと個人情報に関わりますものねぇ・・そういうことか。なにか飛ぶ側に対しても、飛ばれる側にとっても、3年目にしてあらためて、大変失礼な行為であることにがっかりしただけでした。そして操縦するパイロットの苦悩がひしひし伝わったのです。 不自由な世の中だけど、一人ひとりがいろいろ気付いた問題点とか、少しづつ改善してゆけたらいいね。まずは自分の足元からはじめなくちゃ。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】