竹久夢二伊香保記念館にて、スタインウェイの自動演奏機能再生計画が進んでいます。
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蔵は息をしている -川越 . 時空を超える美意識 https://collaj.jp/朔旦冬至 2025 小江戸川越 川越のシンボルとなった「時の鐘」。江戸情緒を感じさせる蔵造りの町には、年間約 700万人が訪れます。小江戸と言われる「蔵造り」の町並み。なかでも一番街の原家(陶舗やまわ)、宮岡家(まちかん)、小谷野家(フカゼン)が並ぶ一角が、蔵造りの迫力を伝えます。各家屋を道路に対して4度ほど角度をつけて建てることで、屋根のボリューム感を際立たせています。 大火復興から生まれた蔵造り 現在の町並みは明治 26年(1893)「川越大火」の後に再建された「蔵造り」の建物です。川越は江戸時代から、縦縞の綿織物(川越唐桟)で栄えました。大火で町の中心部の大半を焼失しますが、豊かな商家は江戸日本橋の蔵造りを手本に、莫大な資金を注ぎ込んでわずか 3年余りで町を復興しました。その一方、関東大震災(大正 12年)によって東京の蔵造り商家は倒壊し、レンガ造や鉄筋コンクリート造に建て替えられて行きます。 明治16年頃に刊行された『東京商工博覧絵』(深満池源次郎 編)より。東京日本橋、京橋などの蔵造り商家を描いた銅版画集です。この時代の商家にとって店構えは信頼を得るための重要な要素でした。 影盛 富の象徴 影盛と箱棟 「影盛(かげもり)」や「箱棟(はこむね)」が屋根の迫力を引き立ます。影盛は 箱棟鬼瓦をより大きく見せるため漆喰を盛り上げた部分で、大きなものは1m近くありました。箱棟は屋根の棟の上に、箱状の飾り棟を載せたもので、雁振瓦や印籠瓦で装飾されています。 星の船に乗って流れ星をつかまえに行くよ Vol.78 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 大沢家明治の大火を生き延び、蔵造りの町のルーツとなった 大沢家は、もともと呉服太物(木綿)を扱う、西村半右衛門(近江屋)によって寛政 4年(1792)に建てられました。半右衛門は天保の飢饉で疲弊する町民に仕事を与えるため、壁厚 20cm以上もある立派な蔵造りを建てます。これが功を奏し明治 26年の大火では火元の近くであるにも関わらず焼け残り、そのことが大火後に蔵造りの商家が増えた理由ともいわれます。大火の際は水槽にむしろをつけて火の粉を防いだり、味噌蔵の味噌を土戸の隙間に塗りつけたと当時 17歳の女性は証言しています。建物のスタイルは、日本橋の釘屋佐藤四郎兵衛家に似たつくりです。昭和 46年(1971)には国の重要文化財に指定され、蔵造りの価値を地元に示すこととなりました。 『東京商工博覧絵』(深満池源次郎 編)より りそなコエドテラスに隣接する小林家は、呉服・太物商を営む2代小林佐平により明治大火の直後に建てられました。外観は切妻の平入りで出桁による二重軒蛇腹、黒漆喰壁に重厚な観音開扉と典型的な蔵造り商家の様式を残し、鬼瓦にカラスと呼ばれる独特の装飾を付けています。これは東京の商家にも見られますが、用途は不明です。1階は土間で、箱階段で上がった2階は使用人の部屋や倉 庫に使われたそうです。 山崎家 亀屋 天明3年(1783)に創業した山崎家の菓子舗「亀屋」は、一番街の入口にあたる仲町の交差点で現在も家業を続け 蔵造り商家のお手本ています。江戸時代には川越藩の御用商人をつとめ、代々嘉七を襲名していました。4代目は第八十五国立銀行の設立に尽力し、5代目は山崎家別邸を建て皇族や華族をもてなすなど、街の経済・文化面に貢献しています。 川越の蔵造り : 川越市指定文化財調査報告書から転載 亀屋は「店蔵」の北側に「袖蔵」と呼ばれる細長い蔵を設けました。袖蔵には、北からの火の手を防ぐ効果もあると言われます。店蔵の間口は4間で、1階店舗の開口部は、木の揚戸(あげど)になっています。その外側に格子戸があり、火災の際はさらに土戸(土を厚く塗った防火性の高い板戸)をはめ込み、隙間に味噌や土を塗り込めて蔵を密閉し、中に火が入ることを防ぎました。2重の軒蛇腹をもつ屋根は、箱棟や影盛、鬼瓦がのった出桁づくり。精度の高い2階の観音開き扉は、開けた扉が隣の扉と噛み合いひとつに見せています。深い庇を 4本の「はね木」で支え、瓦の上には「目塗台」を載せました。これは火災の際、2階の扉を閉め、土で塗り込める目塗のために登る台で、目塗は蔵を建てた大工の仕事です。2階には畳敷きの座敷になっていました。山崎家の敷地には店蔵、袖蔵、土蔵、屋敷、菓子工場などがぎっしりと並んでおり、その多くは川越大火後に5代目山崎嘉七により再建されました。大工は関谷家、左官は亀田家がつとめています。5代目は建築家 保岡勝也の作品で知られる山崎家別邸(前号で紹介)を建てた人です。その先代4代目嘉七は、日本画家橋本雅邦の支援者であり、また川越商工界のリーダーとして活躍しました。雅邦の父親は川越藩の御用絵師で、その縁から川越の有志が「画宝会」を結成。4代目嘉七が幹事をつとめ沢山の雅峰作品を蒐集しています。昭和 57年には、6代目山崎嘉七が古い建物の一部を利用し、雅峰のコレクションを展示した山崎美術館を開館させました。 「お茶亀屋」は山崎家から分家したのが始まりで、今も亀屋山崎茶店「茶陶苑」を営んでいます。その敷地は味噌屋から屋敷ごと買い取ったといわれ、明治の大火で大半を失ったものの、店舗裏の大蔵は今も残されています。大火から10年の歳月をかけ、店蔵と住居を一体化させた母屋のほか、袖蔵、赤レンガのアーチ門なども建てられました。2階の横長窓には縦繁格子をはめ、瓦には京都の一文字瓦を使用。モダンなデザインの鉄扉や大谷石の土台など、京風 の洗練された雰囲気を感じさせます。 新しい始まりの年、2026。 2025年、今年はどのような一年だったでしょうか。数秘学での 2025年は、ひとつのサイクルが終わる年。世の中の大きな流れとしては、“手放し”や “終結 ”がテーマでした。2017年から始まったエネルギーが 2025年で一巡し、2026年の「始まりの年」を堺に、次の新しいエネルギーサイクルへと移行していきます。すでにエネルギーは変わり始めていて、だいたい2月頃に切り替わります。 「始まりの年」といっても、1月になった途端に何かが始まるということではなく、一年を通して、この先何年かを見据えたエネルギーが徐々に高まっていく、というイメージです。2025年に不要なものを手放し、スペースができて身軽になったところで、新しいエネルギーを取り入れていきます。仕事でもプライベートでも、何か新しいことを始めてみるのが大事な一年となります。上手くいくかどうかよりも、まずは始めてみる。まずは種をまいてみる。これが肝心です。今年の種まきによって、これからの道の広がりが変わっていきます。 まだ手放し切れていないなぁ、と思い返すことがあれば、2026年1月中には潔く決着をつけましょう。すると、2月にはすっきりとした「新年」の風を感じられるようになり、うまく流れにのっていけます。新しいことを始め、自分の可能性を広げる 2026年がやってきます。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間46時間目写真&文 大吉朋子 2025年を振り返る。 年々、時間の経過が早くなっていると感じる。今年も本当にあっという間に過ぎた一年だった。それでも、ひと月ずつ振り返ってみると、確かに毎日 24時間あり、日々違う時間を過ごしたのだと気づく。AIが身近になって、精度を上げながらも大幅に時間短縮できることが増えたはずなのに、世の中の変化のスピードが速くて、ちょっとした時間短縮くらいでは、十分な余白を確保するには至らないのでは?というのが、率直なところ。 本当に便利な世の中になったと思う。そもそも私はウェブ関連の仕事をしているものの、実はまったく得意ではない。この時代でなければ絶対にやっていなかったと思う。新しい事柄が次々にアップデートされ、とても自分の能力では太刀打ちできない場面が多すぎる。それでも、技術的なことはインターネット上で探せば大抵の情報があり、なんとか形にできる。ただ、欲しい情報に辿り着くまでの時間は膨大にかかっていた。 それが、だれでも簡単に生成 AIに触れられ、技術的な困りごとも瞬く間に回答を導き出してくれる時代になった。右往左往していたことが信じられないくらい、さっさと解決する。AIは自分のアシスタントとして欠かせない存在になってしまった。 世の中全体を見渡すと、良くも悪くも大きな変革期だと日々感じるけれど、一方で、自分の在り方を考える機会が増えたように思う。AIによって多くの産業で生身の人間がやる必要のない仕事が増え、現実的に「働く」ことに大きな変化が生まれている。メディアでも AIの話がない日は無く、「人間の仕事を凌駕する」というのは、もはや常識として刷り込まれつつあると感じる。便利な世の中で、なんでもかんでもオートマチックに出来そうだと思いながらも、朝の通勤ラッシュ時の人の多さは全然変わらず凄い。朝早くから多くの人がぎゅうぎゅうの電車に自分の体を押し込むように乗り込んでいき、大きな駅では人が大移動している。あの景色は四半世紀前と変わっていないし、もっと以前とも変わっていない気もする。これだけ技術が進歩しても、人の営みの根幹はそう簡単に変わらないのだと思う。 先日電車で、中学受験の試験問題をつかった学習塾の広告があった。問題の内容は、【「よく生きる」を考える。】というもの。ハピネスとウェルビーイングについて書かれた文章が掲載され、ハピネスは一時的な感情で、ウェルビーイングは「より良い状態」であると。その本文から自分が考えるウェルビーイングな状態をひとつあげ、そのためにどのようなことに注意して生きていこうと思うか、という問いだった。小学生が答えるにはあまりにも本質的な問いで、率直に驚いた。大人が本気で考える問いではないかと。 今年は、父の大きな変化もあり、家族の在り方に考えを巡らせることも多い時間で、歳を重ねるにつれ、日々の意識や課題の質が変わっていくものだとあらためて実感している。そして、これからの10年 20年を眺めたとき、自分がどう在りたいかについて、また一段階思考を深めた一年でもある。まずは健康で毎日を元気に過ごせていることは、更年期世代の自分としてはラッキーで、有難い。2026年、世の中はスタートの年で、個人としては収穫の年であるので、慌ただしい毎日ながらも、一日一日をそれなりに味わっていきたいと思う、この頃です。 2025年もありがとうございました。2026年も良い年でありますように。 沢山の観光客や子どもたちで賑わう「菓子屋横丁」。養寿院門前の駄菓子屋がルーツといわれ、関東大震災の際は沢山の菓子屋が東京・日暮里から移転したと伝わります。昭和 50年代のディスカバー・ジャパンブームにのり若い女性が口コミで集まりだし、素朴なお菓子と横丁の散策を楽しむようになりました。 川越名物のうなぎは、織物や米を納めに来た近隣農家の人たちがご褒美として食したともいわれます。 1980年代から 40年以上、市民主体のまちづくりを牽引したのが NPO法人川越蔵の会(6代目会長 小峰春彦さん)です。現在、事務局として利用している一番街札の辻近く「本町の長屋」で、事務局長益子水さん(左)とデザイン部副部長の黒沢ミユキさん(右)にお話を伺いました。 コラージ編集局:本日はお忙しいなか、貴重な機会をいただきありがとうございます。蔵の会に深く関わってこられた荒牧澄多さんにもご同席いただきました。まず現在の蔵の会の活動内容をお聞かせください。益子水(事務局長):コロナ禍の際はイベントを自粛した時期もありましたが、今年は「夜のまちあるき勉強会」や「弁天大市」への出店、「原田家住宅お掃除会」、「長屋バー」、「川越職人の技体験市」の開催など、川越の町の魅力を知っていただく活動をつうじて、会員や市民、子どもたちとの交流に力を入れています。黒沢ミユキ(デザイン部副部長):中心的な活動として市民主体のまちづくり支援があり、川越町並み委員会、大正浪漫委員会、菓子屋横丁町並み委員会など各団体と定期的に会談の場をもうけアドバイスを行っています。ほかに国内外からの視察対応、学生の調査支援、保存に向けての家屋調査、改修計画の提案、マスコミの取材対応など多岐にわたります。コラージ編集局:荒牧澄多さんは蔵の会の立ち上げ時から参加されていたと聞きますが、設立のきっかけは何だったのでしょう。荒牧澄多:川越の「一番街」はかつて埼玉全域から客の来る県随一の商店街で、関東大震災以前の東京を彷彿とさせる町並みでした。昭和 30年代になると衰退し駅周辺にその地位を奪われていきます。東京のベッドタウン化が進むと駅周辺に人が集まり、昭和39年に旧山吉デパートの建物に入っていた「丸広百貨店」がクレ 「夜のまちあるき勉強会」。ライトアップが綺麗です。 本町の長屋で毎年1回開催される「長屋バー」。 子どもたちも参加する「川越職人の技 体験市」。 蔵造りの建物調査や改修のアドバイス(デザイン部会)。 アモールの現在地へ移転し、同時期に銀行も次々に駅前移転したことで一番街は輝きを失っていきました。黒沢ミユキ:昭和 50年代の頃の一番街には、袖看板や電柱が乱立していました。駅前のモダンな店に比べ蔵造りは古くさいという風潮があったようで、今は一番街のシンボルともいえる「陶舗やまわ」をはじめ、2階をパラペットや看板で覆う店舗が多く見られました。 ■ 蔵造り保存の目的は商店街の復活 荒牧澄多:大切なのは川越の蔵造り保存の目的が、観光誘致ではないことです。あくまで中心商店街の復活であり、駅前商店街とどう差別化するかでした。商店会の 40〜 50代の理事や役員が彼らなりの発想としてどう再興するか。それは今でも世代を越えて続く活力の源です。一番決定的だったのは、平成元年「陶舗やまわ」の改修でした。当時のご当主はまだ60代の現役でしたが、息子さんが跡を継ぐことになった時に、看板を外し外観を復原するとともに、商業コンサルを入れて店の品揃えから変えたんです。看板を外すことについては、以前から「蔵の会」でも働きかけていました。黒沢ミユキ:センスのいい色々な産地の陶器を扱うようになって、ご自身でも全国の産地を巡られたのだと思います。コラージ編集局:川越市に新興住宅地や工業団地ができ、経済成長著しいなか、蔵造りの価値というのはなかなか理解されなかった 川越駅の中心商店街「クレアモール」。13〜18時まで歩行者天国になり、多くの人で賑わいます。 1991年に開店した西武本川越駅の商業施設 PePeは、2026年1月に営業終了予定。 昭和 63年頃の「陶舗やまわ」。撮影:荒牧澄多2階部分を看板で覆った店舗が多いことが分かります。現在の「陶舗やまわ」。平成元年に現在の姿に改修され、一番街のシンボル的な存在となりました。 ▲ 宮下辰夫著『川越叢書第五巻 川越の蔵造 その社会経済的背景』。当時の川越商工会議所会頭 伊藤長三郎氏が中心となり、郷土研究家が執筆した川越叢書全10巻が刊行されました。 のではないでしょうか。荒牧澄多:確かに時間はかかりました。川越はもともと郷土史研究が盛んな地で、橋本雅邦など日本画家を支援したり、川越城七不思議を考案したり、山崎家をはじめ裕福な商家が文化振興に力を入れています。しかし、生まれ育った「建物」の価値はなかなか理解されませんでした。昭和 30年代というと、明治 26年川越大火を経験した人や蔵造りを建てる所を見て育った人もいますから、もう空気のようなものです。その一方、関東大震災後蔵造りの商家を失った東京では、川越の町並みは日本橋を思い起こさせると評価されましたし、昭和 30年には宮下辰夫さん(県立川越女子高校教諭)が『川越叢書第五巻川越の蔵造その社会経済的背景』を川越叢書刊行会から出しています。そして昭和46年「大沢家住宅」が国の重要文化財に指定されると、蔵造りは文化財になるという意識が初めて芽生えるんです。コラージ編集局:指定されるきっかけとなったのは何でしょう。荒牧澄多:全国で一番最初に町並み保存に取り組んだのは、昭和43年、明治 100年記念事業として町並み保存に取り組んだ中山道妻籠宿でした。昭和 40年代半ばくらいから高山、金沢、倉敷が景観条例や美観条例を制定し、文化庁による民家緊急調査がはじまります。それまでは重要文化財の民家は数棟しかありませんでしたが、これによって各県から数棟が指定され、その一棟が大 昭和46年国の重要文化財に指定された「大沢家住宅」。「蔵造り資料館」(旧万丈)は現在耐震化事業中です。 沢家住宅でした。その後「蔵造り資料館」(旧万文)の保存問題なども持ち上がり、昭和 48年には川越青年会議所が景観条例案を提案します。翌年には日本建築学会関東支部主催によって「歴史的街区再生計画」という設計コンペが一番街周辺を課題として開催されるなか、多くの建築家や都市計画家などが川越と関わるようになったわけです。昭和 50年に「重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)」の制度ができ、市はいち早く保存対策調査を行い、調査結果は『蔵造りの町並ー川越市伝統的建造物群に関する調査報告書』(川越市教育委員会)にまとめられました。 ■ 道路拡幅計画が蔵造りを守った? コラージ編集局:全国的にみると建物保存が大切と言われても、都市部では取り壊されるケースが多いと思います。黒沢ミユキ:川越にはご先祖様を大事にする意識が根づよく、歴史が古い城下町の誇りが連綿と続いているからこそ残ってきたという気はします。川越まつりを通した団結力も強いですしね。荒牧澄多:そのほか考えられるのは、都市計画道路の「拡幅問題」です。昭和 37年に幅 20メートルとする道路拡幅の変更計画が出て、一番街の道路を西側へ広げる予定でした。それに合わせ近代的な店を建て直そうと考えた商店主も多かった。道路の整備には10年 20年かかりますから、昭和 37年に計画が始まり実施を待つうちに、昭和 47年ぐらいになると町並み保存の時代へと移り変わっていったのです。コラージ編集局:本来は蔵造りを破壊したかもしれない拡幅計画が、蔵を守ったとも言えるわけですか?荒牧澄多:そのためか拡幅される予定だった西側よりも、東側のほうが建て替えが多いです。今でも道路にその拡幅計画線の痕跡は残していますが、道路拡幅と蔵造りを守ることは都市計画上矛盾してしまう。そこで全国でも珍しい「縮小変更」ということをやっております。都市計画道路でありながら幅を狭めるんです。当時の国交省の専門官から「この道を縮小するような理由をあげて欲しい」といわれたのを覚えています。国はこの町並みを残すのに全面協力でした。それと同時に「重伝建」に選定することで、建物の高さを制限しました。マンションなどを建てられなくして景観を守ると共に、地域の交通需要を減らすという考え方です。コラージ編集局:そうした流れのなかで「蔵の会」はどのような働きを果たしてこられましたか。荒牧澄多:蔵の会は一番街の商店主を中心に、青年会 OBや学会コンペに参加した専門家など様々な方が参加することで市民ベースの活動を後押ししたといえます。どうしたら古い建物を生かしながら、新しい発想で商売ができるか、専門家も交えてワイワイガヤガヤ。直していく家が一軒一軒増えてくると、自分はどうしたらいいか商店主たちが自然と考え始める。そ りそなコエドテラス(旧第八十五銀行)から見た一番街。道路は西側(写真左側)に拡幅される予定でした。現在は『川越の蔵造その社会経済的背景』に掲載された明治 40年頃の写真(右)とほぼ変わらない姿に整備され、平成4年には電線地中化が実現されました。 の一方、市では平成4年に電線地中化を完成させ、観光客が一気に増えました。コラージ編集局:今は年間 700万人以上が訪れる埼玉有数の観光地となりましたが、いかが感じますか。荒牧澄多:昭和 50年代になると、いわゆるアンノン族の女性たちがやってきて菓子屋横丁の駄菓子屋が口コミで広まり、地元の人との交流を楽しむようになりました。また大学生の研究課題でも注目され、家屋調査の依頼が多すぎて「調査公害」と言われるほどに。どちらにしろ川越の魅力は、商店主や地元の人たちとの触れ合いにあります。黒沢ミユキ:観光客が増えると外からの業者がテナントとして入るようになり、地元の商店主が経営する川越らしい店が減らざるを得ないのは確かです。蔵の会としては、町並みが形作られた過程を広く知っていただくことが役割だと考え、イベントに参加していただいたり、蔵の会の会員になってもらえるよう働きかけています。また川越まつりを通じて理解を深め、川越を好きになってくださる方も多いかと思います。益子水:観光客は増えても市民が恩恵をあまり感じられないという課題もあります。やはり生活の場ですので、オーバーツーリズムによる人の集中を分散するためにも、一番街や大正浪漫夢通りだけではない、もっといろいろな魅力ある場所を知っていただくことも大切ではないかと思います。 理髪店「銀パリ」と書店「太陽堂」。2階部分に看板やパラペットを取り付けていました。撮影:荒牧澄多現在の「銀パリ」と「太陽堂」。看板を取り外し、ファサードを明治の姿に復原しました。 大正浪漫夢通りにはアーケードが掛かり、建物の姿が見えない状態になっていました。撮影:荒牧澄多アーケードを取りファサードを整備すると、明治〜昭和初期の町並みが蘇りました。 ▲▲ タイム アンド スタイルが、東アジアの発信拠点となるフラッグシップショールームを、ソウル 江南地区にオープンしました。 Time& Sty le Seoul Time &Styleが韓国初のフラッグシップショールームを、ソウルにオープンしました。場所は、並木道に沿って世界的なインテリアブランドが並ぶ、江南(カンナム)地区ハクドン通り。Hankook Furnitureとのパートナーシップにより、5階建てのインテリアビル 3階全フロア(約 450㎡)に、リビング、ベッドルーム、書斎を陶磁器やアートとともに連続的にスタイリングしています。日本と韓国の感性、生活美学を融合した東アジアの発信拠点とするそうです。 もう1カ所、韓国を代表する「Shinsegae(新世界百貨店)」江南店のインテリアフロアにもショップを展開しています(上)。同フロアに日本のブランドが出店するのは初めてだそうです。 蔵の会による「弁天横丁」再生の試み。 本町の長屋の一本裏の通りに、昭和の時代、飲み屋街として賑わった「べんてん横丁」(芸者横丁)がありました。通りの左右に並ぶ長屋は川越芸者の置屋「二葉」などに使われ、その後、元芸者さんが小料理屋やスナックを経営します。しかし徐々に閉店し長年空き家となっていました。いまは「蔵の会」が中心となり、再生の試みが続けられています。弁天長屋再生の経緯を、蔵の会事務局長益子水さんに伺いました。このプロジェクトの大きな特徴は、長屋の改修を蔵の会が手掛け、その費用を出資したことです。保存したくてもオーナーが改修にかかる資金を負担できず、取り壊される古民家は沢山あります。弁天長屋では蔵の会の資産や寄付金、有志からの借入(期限10年)によって改修費を集めて工事を行い、10年間は蔵の会が運営し、その後オーナーに返却する計画を立てました。蔵の会はアーティストや工芸作家をテナントとして募集し、サブリースすることで改修費を回収するそうです。クリエイターのコミュニティーを形成し、アート・ものづくりの発信拠点としての役割が期待されています。喜多町弁天長屋 2階に入居するTHE SUNの安田太陽さんは、東京で約10年間社会人生活を送り、2022年にデザインとブランディングの会社「THE SUN」を設立。地元川越に戻り、祖父母の家をセルフリノベーションして、家族と暮らしはじめました。弁天長屋への入居は、募集情報をたまたま目にしたのがきっかけだそうです。川越に戻ろうと思った理由には、コロナ禍でリモートワークが一般的になったこと、そして子どもと過ごす大切な時間を持ちたいという思いがありました。現在は、一番街の紹介動画を制作したり、「弁天大市」の運営やパンフレット制作に携わったりと、地域に密着した仕事も手がけはじめています。現在弁天通りでは「喜多町弁天長屋」「麻利弁天長屋」が活用されていて、喜多町には THE SUNはじめ、bero弁天長屋、Caoli Art Studio、キモノ・キツケ ハナノワ、川越人力車 いつき屋、REMODULE PAINTING、トモリ食堂、江戸和竿小春などが入居しています。麻利の方には、染織作家山本さとこさんのギャラリーなんとうり、ギャラリー&カフェ 二軒堂などがあります。 子供のころ「マセドアンサラダ」をよく母が作ってくれた。ど んなサラダ?ゆでた角切りのジャガイモ・ニンジンに、キュウリの薄切りやハムを加えて塩・コショウ・マスタード・マヨネーズであえて、時にゆで卵の黄身や、缶詰のグリンピースが載ることもあった。要は「マヨネーズであえたポテサラ」だ。当時は婦人誌の料理記事やテレビの料理番組でも「マセドアンサラダ」と呼ばれていたし、給食のメニューにもそう書いてあった。 「変な名前」とは思ったけれど、好きだから名前なんて気にもしなかった。それから三十数年経ってイタリアのボローニャ。真夏。お昼に小さなレストランで「デザート何かお持ちしますか?」と言われたので、「オススメは?」と応じたら、にっこり微笑んで「ではマチェドニアをお持ちしましょう」。どんなものが出てくるのかと思ってワクワク。そしたら日本でクリームパフェが出されるような大きなグラスに、小さく刻んだメロンやスイカやあれこれ が一杯のフルーツカクテルが運ばれてきた。口に含んだ途端に ℃の暑さを忘れる美味しさ。あの夏イタリアで何回「マチェドニ ア」("Macedonia")をオーダーしたことか。古き良き時代、円は強かった。 この時「マチェドニア」という名を耳にし、メニューに記された "Macedonia"という文字を見て、 ピンと来た。これはマケドニアだ!あの「マセドアンサラダ」も同じ語源に違いない。長らく「マセドアン」というカタカナの名前しか見ていなかったから気づかなかったのだ、それがフランス語の "Mac.doine"だと。「マセドアンサラダ」も「マチェドニア」もひとつの容器にさまざまな食材が投げ入れられている。マケドニア出身のアレキサンダー大王(紀元前356〜同323)の偉業が産み出したヘレニズム世界への連想から名付けられたものだ。大王が征服した西はエジプトから東はインドの端まで、色々な地域の要素が様々に混ざり合って、そこに新たに生まれた「ヘレニズム的世界」。今から2千3百年前の大英雄の記憶が今日まで生き続けて、サラダもフルーツカクテルも「マセドアン」であり「マチェドニア」と呼ばれているのだ。 今回改めて調べてみたら、サラダについては、どうやら 末からのパリのレストラン文化の中で産まれたもののようで、料理百科ラルース・ガストロノミーク( 2007年版)によれば、基本となる様々な野菜もしくは果物を5㎜ほどの角切りに切り揃える調理技法自体もまたこの呼称が使われている。なので、こう マセドアンサラダとマチュドニア。 世紀 40 19 した素材をトマトに詰めたものや、アスピックゼリーの中に散らし入れた料理にも「マセドアン」という形容詞が付けられている。 32 それにしても、マケドニア出身の大王アレキサンダー(アレクサンドロス3世)はわずか歳で亡くなっている。それなのにその偉業は、没後千3百年を経た今日まで、サラダやデザートの名に刻まれるほど広く知れ渡っている。では、王としての人生の大半を戦場で過ごしてきた英雄は、どのような食生活を送っていたのだろうか。その世界を覗いてみよう。 行軍中は美食など無縁の軍隊食。当時は小麦・大麦・キビをもみ付きのまま携行し、石臼も共に運ばれていて、必要に応じて脱穀製粉し、麦粥や堅焼きの大麦パンモドキを焼いて主食とした。兵士 10人に付き1人の従者がこうした調理と食事の準備を担当したという。一箇所に長期滞在する時には窯を築いてパンを焼いた。だが、日々の行軍中は、麦粥や十分に火を通した大麦の乾パン的なものを水やヤギや羊のミルクに浸して食べた。おかずとしては、高タンパクで現代ギリシ 2 アのケファロティリ的(パルメザン的)乾燥イチジク、レーズン、アーモンドなどの保存がきいてカロリーの高い果実類。 肉類については、一般の兵たちには縁がなかったが、大王と側近たちには、日常的に行われた行軍先での狩猟の獲物である鹿・イノシシ・野鳥類の肉が供された。問題は水だった。時に3万〜5万の兵隊と2万頭に及ぶ馬が必要する水は悩みのタネだった。なので、行軍の兵と馬を小さな 羊乳ハードチーズ。川魚や海の魚の塩漬け。 遠征はペルシア、エジプトから北インドにまで及んだ。 単位に分けて、水場のありそうな複数の進路に分けて行軍したと言われている。 激しい戦闘の末に、敵地の城や町の攻略に成功し、勝利したときは、特に大王や側近たちはギリシア風の酒宴を催した。古代ギリシアの伝統である「シンポシオン」形式での酒宴だ。古代ギリシア世界では、ワイン1水3ほどで割って飲むのが男たちの酒宴(シンポシオン)での習慣だった(本連載2021年6〜9月号参照)。水で割らずに「生のワイン」を飲む者たちは、スキタイ人やトラキア人のように「野蛮人」と見下され軽蔑の対象だった。シンポシオン形式の酒宴ではやかましいマナーもアレコレあり、泥酔は嫌われた。 ところが、マケドニアの男たちの酒宴は、「水で割らない生のワイン」を泥酔するまでがぶ飲みすることで知られていた。「酒に強い」=「男らしい」の象徴とされていて、軍隊の中で死者が出るほどの大酒飲み大会が開かれていたほどだ。それどころか、血気にはやるアレキサンダー大王自身が戦の勝利の酒宴で泥酔し、これを諌めた大久保彦左衛門的な側近たる長老を槍で刺し殺してしまう。マケドニア人は「我らはギリシア人なり!」と他民族に対して誇っていた。だが、「酒宴で生のワインを泥酔するまでがぶ飲みするマケドニア人」は、他の地域のギリシ ア人からは、到底ギリシア人の仲間とは認められない、と受け止められていた。これは単に「ワインを水で割って飲むか否か」にとどまらず、「一見似ているようだが、奴らはあれもこれも俺達本物のギリシア人とは違うぞ」という様々な属性の一つに過ぎない。要するに文化の基礎が違うということになる。 ところが、このマケドニア的荒々しき気風溢れるアレキサンダー大王が、あることをきっかけとして、その質実剛健の荒ぶるマケドニア戦士魂を失っていくことになる。そしてこのことがついには、マケドニア兵の大王からの離反を招く事態にまで至る。では、そのきっかけとは、何か。紀元前 333〜 けて戦われた、古代ペルシア帝国のダリウス3世との戦に完全勝利したことだった。ではなぜ古来ギリシア最大の宿敵であったペルシアとの戦に勝って、アレキサンダー大王は戦士魂を失っていくことになるのか。結論から言えば、贅沢で洗練された古代ペルシアの宮廷文化のとりこになってしまったからだ。 紀元前333年初めての対アレキサンダー大王との戦に負けたダリウス3世は、その移動宮廷である「豪奢な王のテント」を布陣していた場所に残したまま敗走する。そのテントの中に一歩足を踏み入れた若きアレキサンダー大王は、その豪 50 奢さに圧倒され、こう叫んだという「これこそ、王者にふさわしい場所ではないか!」。では、大王の度肝を抜いたテントはどのようなものであったのか。 テントの中央最上部には、王を象徴する大きな水晶玉がはめ込まれていて、太陽の光が当たるとこれが光を放っていた。内部は本の黄金色の柱で支えられ、 100の寝台が配置できるほどの広さで、 金色の浴槽と手桶、手の込んだ作りの様々な金や銀で作られた水差しや壺や小物類が散乱していたという。さらに驚かされたのは、テント内を満たしていた濃厚で芳醇な香りだった。香が炊かれていたのだ。 今から 2 3 0 0年前に戦の場にこれだけの洗練を持ち込む宮廷であってみれば、その食文化の水準は推して知るべし。古代からペルシアの食文化はその水準の高さで知られていた。時を経て7世紀半ば。イスラーム勢力(アラブ)によってササ ン朝ペルシアは滅ぼされる。しかし、アラブ勢は圧倒的に洗練されていたペルシア文化の様々な要素を取り入れることで、砂漠のベドウィン的気風が大きく変化するきっかけとなったと言われている。古来ペルシアが誇る洗練された食文化に代表される怪しい魅力あふれる豊穣さの中に、アレキサンダーやアラブのように、戦(いくさ)しか知らない勢力は取り込まれていく。その結果、戦の敗者たる古代ペルシアの食文化が、様々なルートでアレキサンダー大王が築き上げた大帝国の各地に、また、イスラーム圏の各地に伝えられていった。そして最終的にはヨーロッパへと伝えられていくことになる。ペルシア(イラン)は、いつか再び復活する日が来るのではないだろうか、我が国の隣の大国のように。 イッソスの戦いで敗れたペルシアのダリウス3世。 330年にか 店内に併設された「武州めん」では、埼玉名物の肉汁うどんやさつまいもの天ぷらなどを味わえます。 川越市立博物館に近い「あぐれっしゅ川越」(JAいるま野)では、川越特産のさつまいもを豊富に取り揃えていました。そのほか小松菜・ほうれん草・きゅうり・枝豆・トマト・ごぼう・長ネギなど川越の地元野菜が手に入ります。 慈覚大師が 830年に創建した天台宗の名刹「喜多院」は、江戸時代初期から天海大僧正が住職をつとめました。 天海大僧正と 徳川家と関係の深い地として発展した川越。その礎を築いたのが、1599年から喜多院住職となった天海大僧正と、徳川家康の篤い信頼関係だったと言われます。 ▲天海の木像(川越市立博物館に展示された複製)。 108歳の天寿を全うした天海大僧正を祀る「慈眼堂」には天海の木像が安置され、かつては古墳だった丘の上から慈恵堂 (本堂)を見守っています。1590年頃に喜多院で徳川家康と出会った天海は、関ヶ原の戦いや幕府開府のアドバイザーとなり、四神相応をもとにした江戸の都市計画を提案したといわれます。天海が喜多院再興を家康に進言すると、関東天台宗の総本山となり寺領 500石を与えられます。多くの僧が集い、東の比叡山と言われるような役割を果たしていました。 徳川家康が病に倒れると、天海は駿府で自ら看病にあたり、家康から遺言を託されます。引き続き2代将軍秀忠公、三代将軍家光公に仕え、特に家光公は実の祖父のように天海を敬愛していました。1638年の川越大火で大半の建物を焼失しますが、家光の指示によって江戸城紅葉山御殿の一部が移築され、資材を運ぶため新河岸川の舟運が開かれたといわれます。喜多院では、江戸城から移築された客殿、書院、庫裏を見学できます。江戸城の現存建物はごくわずかで非常に貴重なものです。客殿の上段の間は家光公が生まれた部屋と伝わり、襖の山水画や天井の花の絵などが当時のまま残されています。書院は家光公の乳母として大奥を仕切った春日局をはじめとする女官の居所とされ、繊細な造りが印象的でした。 喜多院は 4代将軍家綱の時に 200石を加増して 750石、寺域5万坪近い大寺院となり、徳川家に厚く保護されました。その規模は川越城に匹敵するほどで、まわりを深い堀で囲まれています。川越街道で江戸と直結した喜多院は、徳川家とって、そのルーツを伝える揺り籠のような場所だったのかもしれません。 ドラゴンシリーズ 134 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 父とブラジル、そして僕、 12 4 月 飛行機のドアからタラップに出ると、しっとりとした心地よ い適度な湿気と、優しく独特な甘い香りに全身が包まれた。 初めてサンパウロに降り立ったその瞬間、かつてどこかで味わったような懐かしさと、名も分からぬ大きな存在に包み込まれるような感覚を覚えた。 日に東京を発ち、バンクーバー、トロント、ニューヨ ークと北米の都市を巡りながら打ち合わせを重ねた。 メキシコシティから空路でヒューストンへ向かい、そこで乗り継いでブラジル・サンパウロへと飛んだ。 空港からサンパウロ市内までは約 キロ。高速道路を走る車 窓からは、ポルトガル語で書かれた看板、建物の壁や塀に描かれた無数の落書き、さらには走るトラックの貨物箱にまで描かれた魅力的なアートが目に入る。 それらはどれも感性豊かで、極めてアーティスティックな表現だった。建物の壁や塀に描かれたグラフィック、アート、イラストの緻密さと大胆さには圧倒された。言葉は悪いが、そこらのギャラリーに並ぶ「なんちゃってアート作品」よりも何倍も魅力的で、美術として本質的ですらある。もしかすると、美術の原点は、こうした壁への感情の直接的な表現、すなわち落書きにあるのかもしれない。古代から、人は何かを描き、伝えることを壁から始めてきたのだから。 サンパウロの、どこか懐かしく心地よい空気感と、色彩豊かな落書きに満ちた街並みは、他の多くの都市とはまったく異なり、非常に新鮮に感じられる。世界の国々を巡っていると、ある共通点に気づくことがある。街中に乱暴な落書きが溢れている都市の多くには問題や課題が多く、盗難や傷害といった犯罪率も高い。しかし壁に描かれた落書きには、そこに生きる若者たちの届かぬ心の声や、何かへの切実な渇望が表れている。 かつて僕が住んでいたベルリンには「ベルリンの壁」という、資本主義と社会主義を隔てる象徴的な存在があった。その壁には、体制への反発や社会へのメッセージとして、若者たちの声が無数の落書きとして描かれていた。 またニューヨークでは、地下鉄や街中でキース・ヘリング、ジャン=ミシェル・バスキアといった、若くエネルギーに満ちた未来のアーティストたちが、街そのものを巨大なキャンバスとして時代を描き出していた。それらの落書きは、やがてアー 25 月 日、 12 14 トとして認識されていった。 落書きとは、その時代の熱量と、社会の閉塞によって行き場を失ったエネルギーが、地底から噴き出すマグマのように露出した存在なのだ。若者と社 25 会の情感が、そこには赤裸々に表れている。 サンパウロの街には、深く堆積した社会問題の層に見合うだけの、人々の 36 懐の深さを感じた。人々は現実を受け入れながらも、明るく前向きに、豊かに生きようとしている。その色彩豊かで明朗、そして文化的な表現は、ブラジル人独自の、天性とも言える明るさと前向きさから生まれているのだろう。 長年の大切な友人であり、グラフィックデザイナーであり、ジャズを愛するジャズメンであり、そして会社の仲間でもあるブラジル人のマルコ。彼がこれまで手がけてきた Time & Styleのジャズライブのポスターやウェブサイトのグラフィックに見られるセンスの良さ、独自の前向きな色彩感覚のルーツが、ここに来てようやく腑に落ちた。 日本に長年住みながらも、ブラジル人としての明るさを失わず、人生を豊かに生きようとする彼の姿勢は、まさにこの土地に根ざしたものなのだと、肌で理解できた。そして、これまでの彼との友情や人間としての想いが、一本の線で繋がった気がした。 ブラジルは、熱帯の大きな自然に囲まれた広大な国だ。サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロ、そして首都ブラジリア。僕の大好きなミルトン・ナシメントが生まれたミナス・ジェライスの音楽、アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトのボサノバ、オスカー・ニーマイヤーに代表される建築、そしてアートやデザイン。いずれも独自の世界観を持つ文化的土壌がここにはある。街の建物や風景は、密生する熱帯・亜熱帯の植物に覆われ、植物と動物と人間が共存する社会が広がっている。そして何より、ブラジルの人々は明るく、建設的で、優しい。 父もまた、ブラジルのように大きく、どこまでも明るく、建設的な人だった。若い頃に数年間過ごしたブラジルでの経験が、父のその人間性を形づくったのだろう。幼い頃から最期まで、僕は一度も父に怒られた記憶がない。 高速道路を走りサンパウロの街へ向かう途中、広大な大地が広がっていた。工事で剥き出しになった場所には、赤土の大地が見える。ブラジルの大地は、この赤土でできているのだと、訪れて初めて気づいた。そしてその瞬間、長年胸の奥にあった疑問が、静かに繋がっていった。 今から年前、歳のとき、僕は二つ目の店として「 Time & Style Galleria」を表参道・根津美術館のそばにオープンした。その店は後に「Time & Style Existence」「House Storage」と名前を変え、数年前からは「Time & Style Atmosphere」となっている。 その準備のため、表参道みゆき通りのパレスみゆきというマンションに引っ越した際、友人から引っ越し祝いでもらったランプ用オイルを誤って飲料水と間違え、大量に飲んでしまった。吐血して倒れ、都立青山病院の集中治療室に緊急入院することになった。 集中治療室に入院してしばらくの間、昼夜を問わず、僕の眼前には何人かの人物と風景が現れ続けた。身体は死に向かって壊れつつある一方で、脳は驚くほど明晰で、目の前にはこれまで見たことのない光景が広がっていた。意識ははっきりしているのに、治療を受ける身体と意識が分離しているような感覚だった。 この人物と風景は何を意味するのか。僕は繰り返し考えたが、答えは見つからない。そこでスケッチブックを手に取り、壁の前に立つその人物を、そのままトレースするように描いた。決して夢うつつではない。 その絵はもう手元にはないが、内容は鮮明に覚えている。アルブレヒト・デューラーに似た長髪の人物と、赤土に覆われた広大な土地を切り開くように働く人々の姿だった。昼から夜にかけて、広大な赤土の土地で、多くの人々が土を運びながら開拓していく光景が、何日も繰り返し目の前に映し出された。それは、未開の地を切り拓く人間の労働の姿であり、僕がそれまで一度も見たことのない光景である。 僕は、この景色が生まれ変わる前の記憶か、あるいは祖先や先人の記憶が D N Aとして身体の奥深くに刻まれていたものが、生命の制御を失い露出したのではないかと感じていた。精神が狂っていたわけでも壊れていたわけでもない。その人物と景色は、確かに、何日もの間、僕のベッドの前に存在し続けていた。やがて病状が回復するにつれ、その人と景色は静かに姿を消した。 ブラジルに初めて降り立った瞬間に感じた、包み込まれるような懐かしい身体感覚。そして、生死の境で見た赤土の大地の風景。その意味が、サンパウロの地に立ったことですべて繋がった。空港から市内へ向かう車の中で、胸が詰まり、溢れる涙を抑えることができなかった。 サンパウロの空港に降り立った瞬間から、僕は「自分だけではない」という感覚を抱いていた。空気の匂い、懐かしさ、そして赤土の大地。すべてが、僕の記憶と繋がったのだ。 身体に刻まれた記憶は、生命の記憶として細胞レベルで受け継がれた、父が若い頃に見たブラジルの風景なのではないだろうか。父の記憶が、僕の身体に刻まれていたのだと、今では確信に近い感覚を持っている。 もう一つ付け加えるなら、父が亡くなる数年前、ドイツ・ニュルンベルクを訪れた際、父はどうしてもデューラーの絵が見たいと言い、その生家まで足を運んだ。そのこともまた、すべてが繋がっていたのだと思えてならない。 全国でも珍しい現存本丸御殿川越市立博物館に近い川越城本丸跡では、日本に4棟しか残っていない江戸時代からの現川越城本丸御殿 存御殿を見学できます(他に高知城本丸御殿、二条城二の丸御殿、掛川城二の丸御殿)。▲川越市役所に立つ太田道灌の像。 ▼ 御殿では、お台場などの海防について家老が打ち合わせ。 川越城は元々、太田道真・道灌父子が 1457年に築城した河越城(川越城)をルーツとします。江戸時代になると徳川家光の腹心松平信綱(知恵伊豆)によって拡張され、富士見櫓はじめ 4つの櫓や西大手門、南大手門はじめ13の門に空堀・水堀を巡らせた大城郭となりました。現存する本丸御殿は、1846年の二の丸御殿焼失をきっかけに1848年に建てられます。明治になると 廃城令により城の建物は競売に掛けられ解体・移築されますが、本丸御殿は築年が浅かったこともあり、6分の1ほどに縮小したものの、大唐破風を掲げた大玄関や大広間が県庁や煙草工場、修練道場、校舎などに転用され、昭和 42年には県の指定有形文化財になりました。川越城の堀は埋め立てられ、城跡には市役所や学校、図書館、公民館など公共の建物が多く建てられ、武家屋敷の跡地は住宅街となりました。「仲の門堀」は、旧城内に残る唯一の堀跡で、市民の声によって残されます。左から攻め込んで斜面を駆け下りた敵は、傾斜のきつい左側の坂を登れず、土塀の銃眼から狙い撃ちされる仕組みです。 とおりゃんせ 帰りは怖い? 三芳野神社 本丸御殿近くの「三芳野神社(みよしのじんじゃ)」は、わらべ唄「とおりゃんせ」発祥の地として知られます。城の鎮守として菅原道真公をお祀りした天神様で、お祭りや七五三の時だけ参拝が庶民にも許されました。ただし城門の出入りには厳重なチェックがあり、城内の細い参道を歩くのは相当な緊張を強いられたと考えられます。 ▲ 21世紀の川越を考える市民協議会による 3Dデータ。 マンション開発によって取り壊されようとしていた「旧川越織物市場」が、川越織物市場の会をはじめとする市民の働きかけにより、起業家を支援するインキュベーション施設として蘇りました。場所は大正浪漫夢通りのそばで、旧川越織物市場(明治 43年)と旧栄養食配給所(昭和 9年)をリノベーションし、クリエイターの創業支援や地域交流などを目的としたコエトコ(川越市文化創造インキュベーション施設)として 2024年4月にオープンしました。 ▲ 織物市場の活況を伝える、川越市立博物館の模型。 ▼インキュベーションオフィスには、デザイン事務所や設計事務所、工芸家、カメラマンなどが入居しています。 旧川越織物市場は明治の末、織物商振興のために設立され月6回の市がひらかれました。鉄道の発展や織物価格の下落などに対応するため、一番街の織物問屋は利便性の高い市場の設立が必要と考えます。そこで八王子や桐生といった織物産地を参考にして、長屋形式の織物市場を設立したのです。建物は南北に長い2棟が向き合っていて、東棟は15間、西棟は18間あります。土庇の奥行きは約1間と広くとられ、庇の屋根には当時最新の大波鉄板を葺いていました。▲1.5間の店舗2軒が引き戸で仕切られていました。板戸と格子戸が上に揚がります。▼川越唐桟の展示。 各問屋が店舗とした部屋が、一部復原されています。1部屋の間口は1間半で、西棟に12店、東棟に10店と組合事務所がありました。市場の閉鎖後は住居として長年使い続けられ、全国でも珍しい市場建築がほぼ完全な状態で残されます。板戸と格子戸は 2重の揚戸になっていて、梁の内側に収納し方立て(柱)を外すと大きな開口が得られます。室内には「川越唐桟」についての展示がありました。細い木綿糸(双糸)で織った縞織物で、絹のような風合いを持ちます。もとは舶来の高価な織物でしたが、幕末に川越で国産化されると江戸で爆発的にヒットしました。川越織物市場は大正の末に閉鎖され、昭和9年には栄養食配給所が開設されました。周辺の織物関連工場で働く人たちの労働環境改善のため、栄養バランスの取れた食事を提供する施設で、昭和 20年まで営業します。大空間に7つのカマドがずらりと並び、床下には煙突に代わる煙道が設けられていました。天井には煙抜きの開口があります。 川越城二の丸跡に建つ「川越市立博物館」では、蔵造りの町並みを原寸大模型で展示しています。米穀問屋を再現したコーナーでは、「揚戸(あげど)」の仕組みを紹介。板戸を上部に収納してから方立て(柱)を外すと大開口が生まれます。火災の際は揚戸の外に厚く土を塗った土戸をはめ込み隙間を土で塞ぐことで密閉しました。酸素を入れないことで、高温になっても蔵の中は燃え出さない防火方法です。万一に備え、店の前には湿った土が置かれました。火事の後、すぐに扉を開けると、内部に こもった高温によって燃え出すおそれがあるため、数日経ってから扉を開けたそうです。 明治 35年頃の一番街の模型。明治 26年3月、北風が強い日に町の北側から出火した火は南へと広がり、家屋 3300戸のうち1302戸を焼失しました。その後、約 10年をかけて蔵造りの町並みが復興していきます。大火が北側から延焼した経験から、窓が全て南側に設けられているのが町並みの特徴です。敷地は間口が狭く奥行きの深い短冊状で、通りに面して店蔵、その背後に住居、さらに中庭や土蔵が配置されました。各戸が中庭の位置を揃えることで風の通り道を確保するよう工夫されています。 一番街を北(辻の札)から見たところ。 明治期まで川越の商業を支えていた織物産業は、特に太物(綿)の縞織物(唐桟)が粋な江戸っ子に人気でした。店蔵の大半は呉服織物商によって建てられましたが、明治後期から織物商が衰退すると、洋装、硝子、パン製造、度量衡器、運動具、八百屋、証券、印刷、医院、事務所など、各商家は様々な職種に商売替えしました。やがて一番街は、埼玉の広域から人を集める一大商店街となっていきました。 天正 18年(1590)、徳川家康の関東入部に伴って川越藩が設置され、その後 3代目城主の松平信綱は城を拡張すると共に城下町「十町四門前(じっかちょうしもんぜん)」を整備しました。城の西側を町民地(十町)として、江戸町、本町、南町、喜多町、高澤町、上松江町、多賀町、鍛冶町、志義町、志多町を配し、城下町特有の「鍵曲」「七曲」「丁字路」といった道路の屈曲を設けました。松平信綱は新河岸川舟運の開設や野火止用水の開削、新田開発を積極的に行い、川越は大消費地江戸へ物資を供給する集散地として発展します。また北方の防衛拠点として、江戸と直結する川越街道で結ばれ、城主には最も信頼のおける譜代(ふだい)大名が選ばれました。 新河岸川の舟運 川越繁栄の源は、新河岸川の舟運にありました。旭橋(東武東上線・新河岸駅近く)の上新河岸、下新河岸、牛子河岸には河岸問屋が設けられ、江戸初期から昭和初期までの約 300年間、川越と江戸の物流を支えました。新河岸川は荒川と合流し隅田川となり、川越からは米・野菜・綿織物、材木などを運び、江戸からは最新の町民文化を川越へ伝えます。河岸の船宿は最新モードが得られる場所として賑わいました。 蔵造り 川越市川越伝統的建造物群保存地区まちづくりガイドライン川越市 都市計画部 都市景観課から転載 川越市立博物館には、蔵造りの実物大カットモデルが展示されています。蔵造りはまず基礎工事から始まり、鳶職人が木遣りを歌いながら伊豆玉石、入間川石、小松石を8尺ほどの深さに突きこみ蔵を支える地盤を作りました。躯体にはケヤキ、ヒノキ、アカマツが使われ、柱は5〜6寸角、大黒柱は1尺角程度です。外側の柱には通し貫を貫通させ、5寸間隔の刻みを付けます。そこに丸竹を引っ掛け、細い竹と縄を組んで木舞をかきました。次に藁を混ぜた土団子を木舞に打ち付け、壁下地(荒壁)とします。土は近郊の農家が田んぼの土を大八車に載せて売りに来ました。荒壁が乾くと棕櫚縄を固定し、砂ズリを塗ります。砂ズリは火に強く耐火性を高める効果がありました。さらに中塗りを何層か重ね、上塗りの後に最後のノロ掛けをしてから漆喰を磨き上げます。川越では特に難しく高価な黒漆喰がよく使われました。蔵造りは屋根の上部まで一切の木部を露出させずに左官で仕上げるのが特徴で、塗っては乾かすを繰り返すため、完成までに数年かかります。 山崎家の向かいに建つ松崎家は、砂糖商を営んでいた 2代目松崎徳次郎によって明治 34年頃建設され、現在はスポーツ用品店を営んでいます。店蔵は間口 4間奥行 2間半、3尺の庇をだす堂々とした姿で、角地の特性を生かし妻側を入母屋屋根にして、寺社に見られる懸魚(黒漆喰)を垂らしています。大きな鬼瓦、影盛、箱棟のせた重厚な屋根は、一番街の入口にふさわしい威容をほこります。 塩野家 町中のコンパクトな蔵造り 原家 夜のライトアップも素敵 明治大火の直後、明治 26年に呉服商を営んでいた山本平兵衛により建てられた店蔵で、現在は原家「陶舗やまわ」になっています。高柳鉄五郎(棟梁)、大野高蔵(木材)、渡辺房吉(左官)、富沢久助(石工)、小川清之助(鳶)といった名が棟札に見られ、いち早く再建された原家が蔵造り商家の手本になったと思われます。コンペで選ばれたオリジナルの街灯が建物と歩行者の足元を照らし、美しくライトアップされた夜の町歩きもおすすめです。 宮岡家天保から続く金物商 「陶舗やまわ」に隣接する宮岡家「町勘(まちかん)」は、天保 13年(1842)創業の老舗刃物店です。間口は 3.5間と狭いものの、巨大な影盛や高い箱棟に迫力があります。棟梁は「時の鐘」を手がけた関根松五郎で、細長い敷地に店蔵、住居、商品蔵が並びます。店蔵の奥には店と住居を隔てる観音扉があり、火災時には隔絶できる仕組みです。店蔵と住居を一体にしたタイプの蔵造りもありました。 原田家埼玉随一の米穀問屋 原田家は米穀問屋「足立要(あだよう)」として埼玉の穀物相場を執り仕切った大店で、敷地には店蔵をはじめ住居、文庫蔵、東西 2棟の土蔵、屋敷稲荷社、井戸などが子孫によって現在まで伝えられてきました。明治期の米穀商の暮らしぶりを伝える貴重な建物として川越市の所有となり、活用方法が検討されています。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】