被災された方の生活を支える
〈令和6年能登半島地震災害義援金〉
(日本赤十字社)にご協力お願い致します。
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コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします |
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やいま 花の楽園 石垣島 白保のくらし https://collaj.jp/ 夏至 2024 沖縄では二十四節気、小満から芒種にあたる梅雨の季節を 「スーマンボースー」と呼び、畑の種を撒くのに適した時期とされています。沖縄県石垣島の白保地区(白保村)は、石垣市中心部から東に約 9kmの場所にある、美しいサンゴの砂浜と丘の上の農地に恵まれた静かな村です。歴史書に登場するのは1610年豊臣秀吉による慶長検地の頃で、1771年の大津波で大きな被害をうけたあとは、波照間島や沖縄本島、宮古島、多良間島などから移住者が集まり、海や山の恵みを分かち合いながら暮らしを紡いできました。 私はいつしか民謡の数々をおぼえ蛇皮線を爪びき素朴な島の乙女たちの情に浸って恋と音楽と舞踏のとりことなった。 かくて汲めども尽きぬ郷土の歓楽の泉を飲んで育った私は原始の魂をぶらさげながらはなやかな東京に出てきたが現実のきびしさに耐えがたく郷愁に泣く日が多かった。 梯でいご梧の花 伊波南哲 赤き焔空にみちあふれ南国の夢麗しく花咲けり。 燃えあがる南の空に若人の夢のせて発情する梯梧の花。 緑の森に緋の衣うちかけ情熱の祝祭天にとどろく。 八重山を代表する詩人 伊波南哲(いば なんてつ)は1902年石垣島に生まれ、上京して警視庁に勤務しながら佐藤惣之助に師事。オヤケアカハチの乱をテーマにした長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』が映画化されると、全国に知られる詩人となります。戦後、石垣島に戻り八重山児童学友会を組織すると、子供たちの自由な発想を大切にした教育に尽力。八重山キリシタン事件の調査や民話の収集にも努めました。 Vol.60 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ カーラジオの天気予報だと週末の天気は快晴あの子を ドライブに誘ってみようか 創立 134年の石垣市立白保小学校。アコウ、ガジュマル、デイゴの三本木が子供たちを見守ります。校歌の作曲は宮良長包。八重山には大学がないため島を出る若者も多い一方、いつかは島に戻りたいという割合は 6割を超えます。インバウンドなどで観光客が増えるなか、飲食店、ホテル、商店などでは人手不足が深刻になっています。 何も拭くものは無い 大浜信光白い布切れに覆われた死んだ子の顔氷原の底によこたわる沈黙産声をあげない新しい門出私はふるえる手で成長のとまった爪を切った無人島の砂深く埋もれていた貝殻よりも美しい爪を切った妻よ なぜおまえはハンカチをポケットに入れてやるのだ何も拭くものは無い食塩のように清潔だった短い生涯ではなかったか大浜信光詩集『先島航路』より 今は穏やかな海ですが、明和8年3月10日(1771年 4月24日)、明和大津波が石垣島を襲い人口約 18,000人のうち半数近くが亡くなりました。特に白保村では、高さ 60mを超える津波により1574人のうち1546人(98.2%)が犠牲となり、その後、琉球王国は移民政策をすすめますが疫病や飢饉などの災害は続き、石垣島の復興には100年以上の歳月がかかったと考えられています。津波によって打ち上げられた巨石が、島のあちこちに残されています。最近では2024年 4月 3日午前 9時ころ、台湾沿岸で起きた大地震により石垣島などに津波警報が発令され、多くの住民が高台に避難しました。幸い八重山に大きな被害はありませんでしたが、台湾ではビルが倒壊するなど甚大な被害がありました。 ふるさと 大浜信光 ふるさとは 島ぱなり島 八重山(やいま)レースの襟飾りをつけた潮騒のとりまく島 石垣と石垣にはさまれ白い道は運河のように音もなく流れ 淀み人人は甲羅の赤い屋根の下で貧しいふるさとは 島台風の島 八重山赤道の向こうで陽に暖められ海流が動悸を高めると蜘蛛も用心ぶかく低く巣をかけてしがみつき熱い砂の上を駆け回っていた蟹も岸を離れて穴を掘るふるさとは 島ぱなり島 八重山パパヤの青い乳房がるいるいと垂れさがり亜熱帯の太陽にひまわりの花は狂い火焔木(カエンボク)も血を吐くがシベリヤから東支那海を渡り島に取りつく冬もある 大浜信光詩集『先島航路』より 自動販売機もあって美味しいお肉がいつでも手に入ります。 白保に精肉店をかまえる「ぼーのファーム」は、子牛の繁殖や石垣牛、経産牛150頭ほどを育てる畜産農家宮良家がひらいた直営店です。石垣島は子牛の生産が盛んで、そのお母さん牛である経産牛は10年ほどで役目を終えますが「家族と一緒に暮らしてきたお母さん牛だからこそ、大切にいただきたい」という長年の思いを叶えたそうです。 与那岡 白保の海岸から坂道を登ると、サトウキビ畑や牧草地の広がる与那岡にでます。真謝節には、「与那岡に登って見下ろせば、稲粟の稔りが豊かで泰平である」と謳われています。牧場では黒毛和牛たちが、のんびりと牧草をはんでいました。白保は石垣島でもっとも広い農耕地をもち、サトウキビ、オクラ、ゴーヤ、芋など多彩な農作物をつくっています。 白保のくらし 白保の商店でお買い物。お刺身はイラブチャー(ブダイ)、カーエー(アイゴ)、シチュー(アオダイ)、チョウチンマチ(アカサバ)など、島特有の色鮮やかな魚たちです。近海マグロはさっぱりした味わい。よく熟した小ぶりの島バナナは甘みが強く、ゴーヤの他に青パパイヤもよく食べられます。八重山のおにぎりといえば、混ぜご飯を握った「ジューシー」。ヤギ汁のセットやイノシシ肉も売っています。牛乳はマリヤ牛乳やゲンキ牛乳。食堂の八重山そばは、自家製コショウ「ピパーチ」をかけて頂きます。 ドラゴンシリーズ 116 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) ソウルから釜山への旅 2024年 月後半の旅は、ソウルから始まった。ソウルでは、 既存の取引先を訪問すると同時に、ミラノデザインウィークで打 ち合わせした新しい取引先候補 社を訪問する予定だった。 ミラノサローネの期間中、世界中のインテリア関連企業が見本 市会場や各社ショールームを訪れ、新製品の情報を集めると同時に、新規取引の可能性を模索していた。それは出展する家具ブランドや製造メーカーにとっても同じで、年間で最も重要な市場開拓のチャンスである。世界展開を目指すブランドにとって、この一週間の結果が一年の業績を大きく左右することになる。イタリア企業はそれまで眠っていたように見せかけ、派手に装い、瞬間に力を発揮してこの一週間の短距離走を駆け抜けるのだ。 ミラノデザインウィークの一週間、ビジネスの瞬発力が求められる。イタリア企業や国際的なブランドが見本市会場に賭けるコストは膨大であり、その期間中、ミラノは高揚した雰囲気に包まれ、誰もが前向きな空気感に興奮していた。言葉やコミュニケーションも浮ついている。その中で、本気の人間とその場しのぎの演出の見極めが求められる。訪問者が数千名を超える場所では、真の将来のポテンシャルを持つ来訪者を正確に捕らえることが重要であり、それが短期決戦の勝敗を分ける審美眼となる。 その怒涛の一週間の混雑の中で、全ての情報を収集し、取引先候補企業に感謝の手紙としてメールを送付し、本格的な国際取引契約への道のりが始まる。デザインウィーク中にコンタクトのあ った世界各地の企業の中からまず初めに韓国の家具販売企業 とアポイントを取り、一社一社を訪問し、その企業の経営陣と話す。そして、相手がどのような企業で、現在の事業の姿を自分の目で確かめることが重要だ。 経営者の理念、企業の規模、店舗やショールームのロケーション、取り扱いブランド、事業内容、社員の意識、資金力、顧客サービス、展示やスタイリングのセンスなどを見極め、迅速に理解することが求められる。正しく判断できなければ、理想的なパートナーシップは築けない。正しい場所で正しく理解されなければ、その努力は報われない。お互いの感覚が違いすぎたり、相手の力量が足りなければ、その契約は正しいパートナーシップにはなら 5 5 社 6 ず、双方の努力は結実しない。もちろん、相手だけでなく、自分たちにも製品力やブランド価値の魅力が求められる。 2 世界の各都市で事業を行う企業や経営者と出会い、共に成長できるローカル 5 パートナーを見つけることが重要だ。イタリアやヨーロッパのトップブランド 2 は、製品の品質やオリジナリティだけでなく、長年に渡り世界中に築き上げてきた強固な販売ネットワークを持っている。これに対抗するためには、世界各地で独自のローカル事業ネットワークを一つ一つ繋ぎながら、物流や輸出のノ 2 ウハウを蓄積して日本の地理的課題を克服する必要がある。 3 ソウルの月後半の街は、もう夏のように暑かった。数社へ渡すためのカタログを片手に、緩やかな勾配の続くカンナム地区の幹線道路沿いに立つイタリア家具ブランドのショールームを眺めながら、訪問先の本社ビルへと向かった。 50 「これで良いのだろうか?」という思いもある。しかし、その道のりに近道は ない。ソウルでの日間、一社一社と理想像や将来像を共有し、現実的な条件 について話し合い、お互いの本音を探り合った。今の韓国の経済状況はとても 厳しく、年前からすると家具業界の販売は%以下にまで落ち込んでいる そうだ。韓国には家具製造メーカーは少なく、 西欧志向が強いこともあって日本よりも数多 くのヨーロッパブランドの大型ショールーム が軒を連ねていた。 その後、釜山に向かい、ローカルの販売代 理店のショールームを訪問した。日間をか けてソウルから釜山に南下し、一旦東京に戻 ってすぐにシンガポールへ。訪問中、お互いの方向性が合わなければ、交渉を ストップすることも必要だ。全ての企業と契約できないが、理想のパートナー を根気よく探し続けることが重要だ。 この出張を振り返り気がついてみると、韓国での三日間の5回の食事は全て 焼肉ばかり食べていた。旅続きで疲れているはずが、どうりで何だか一回り体 が大きくなっている。 それからシンガポールでは社と長時間の打ち合わせを行い、お互いの方向 性を確認し、次にタイバンコクに向かった。バンコクでの滞在は短かったが、 そこで得たインサイトは非常に有益だった。これらの努力が実を結ぶかどうか は、これからの僕たちの行動にかかっている。根気強く、そして柔軟にパート ナーシップを築くための努力を続けていくことが求められている。 浮いたり沈んだり、登ったり降りたり、進んだり退がったりしながら前に進 むしかない。今までと同じように無骨に・・・・。 さて、バンコクの後はコペンハーゲン、パリ、ウィーン、アテネ、ミラノへ と訪問が続いた。そして来週からは上海が待っている。まだまだそこからイン ドネシア、フィリピン、インド、そしてオーストラリアへと旅は続く。 昭和初期に建てられた金嶺(アラカネ)家(白保公民館指定文化財)は、白保でも珍しくなった赤瓦の伝統民家です。築 90年を超えて屋根や構造の痛みがひどくなっていたものの、それを直してくれる大工はなかなか見つかりませんでした。その再生を担うことになったのが石垣島出身の大工 川満 一(はじめ)さんです。18歳で上京し大工となった川満一さんは18年ぶりに石垣に帰った際、あまりの変貌ぶりに実家の場所さえすぐには分からなかったそうです。赤瓦の家が並んでいた白保もコンクリートの家が増え、当たり前にあると思っていた伝統住宅が次々と失われる現実を見た川満さんは竹富島に 2年間通い、八重山の伝統的な家造りを学びました。 左は工事前の金嶺家。間口は約 13mで、正面は南を向いています。向かって右側から一番座、二番座、三番座があり、一番座は床の間のある客間、二番座は仏壇を置いた家の中心です。その裏に生活空間となる一番座裏、二番座裏があります。台所や浴室は三番座の裏側に設けられています。赤瓦の屋根は4寸五分勾配の寄棟屋根で、台風の強風を効率よく逃がします。 ▼ 平面図『平成 21年度 沖縄の古民家保全・再生・活用調査事業 報告書(データベース集)』より▲建具を取ると大きな一室空間になり、冠婚葬祭が行えます。 ▼四隅だけを L字型の壁で支えています。 「八重山の伝統住宅は、通常の木造軸組と構造が異なります」と川満さん。室内に壁はなく、外壁も 4隅に L字型の構造壁(石積やコンクリートブロック)があるだけで、他は全面開口になっていました。中心にある二番座の 4本の柱・梁(上の写真)がコアになっていて、そこから周囲に梁をわたしていくような構造で筋交いはありません。 寄棟屋根を支える小屋組はとても複雑な構造で、梁や束、桁がパズルのように組み合わされクサビで留められています。古材の転用も多く、穴や継ぎの跡が見られます。木材の貴重な八重山では、古材を大切に使いまわしてきました。新しい木は、海水に 2年ほどつけてから浜辺で乾燥させると虫が付きにくくなります。金嶺家では一番座、二番座の他は天井を張っていませんでしたが、後に天井を張ったこともありシロアリの被害が予想以上に大きかったそうです。棟木には「天官賜福紫微鑾駕(テンカンシフクシビランガ)」と墨で書かれています。家に災難をもたらす女神が、これを書いた家だけは繁栄させると約束したと言われています。屋根を支える垂木には、キャンギと呼ばれるイヌマキの細い丸太を使い、細い竹を編んでシート状にしたものを載せて連結させています。一方、床には太い竹を並べ、上に直接畳を敷いて風通しを良くします。竹は沖縄県最高峰の於茂登岳(おもとだけ)で採ります。 屋根には 6000枚以上の赤瓦が使われています。赤瓦はメス瓦(ミーガーラ)4枚の上にオス瓦(ウーガーラ)2枚が載る形で葺かれています。それを全ておろし白い漆喰をはがす所から作業は始まりました。週末には沢山のボランティアが集まり、子供たちも混じって1枚 1枚漆喰をはがします。八重山では古くから地域の「ユイ」が盛んで、家造りは共同作業で行われました。食べ物や金品、労働力の提供などは到来帳に記載され、家の宝となります。 手作りのお昼を頂きます。豚のバラ肉を使ったソーキ汁やキュウリと昆布の和え物、お刺身や魚のフライなど贅沢な献立。味付けのベースは昆布やかつお出汁が中心で、脂っこくなくさっぱりしています。北海道から中国に昆布を輸出する中継地になっていたことから、昆布がよく使われるようになったと考えられています。金嶺家は母屋だけでなく、フクギで囲まれた石垣や庭、マンゴーの大木など緑あふれる環境も大切に守ってきました。フクギの防風林は台風から家を守るとともに適度な日陰をもたらしますが、手入れが大変で減ってきています。人に快適な環境は野鳥にとっても心地よく、愛鳥家あこがれのアカショウビンやクイナが庭にやってきました。金嶺家は「しらほサンゴ村」などで工芸指導されていた徳山光枝さん(コラージ 2009年 3月号で紹介)の生家でもあります。庭にはトイレを併設した家畜小屋や古い井戸、家の基礎に使われる琉球石灰岩、貴重な粟石の壁も残されています。家畜小屋でブタを飼い、トイレの排泄物を小屋に流す光景は八重山の多くの家で見られました。 赤瓦をおろした後、川満さんと藤田さんは、屋根の竹や土、漆喰を丁寧に取り除いていきました。屋根は細い竹を編んだ上に練った赤土を盛り、赤瓦を敷いてから白い漆喰を塗っています。重さは数十トンになり、それによって強風で屋根が持ち上がることを押さえます。ほぼ壁や筋交いのない躯体が、なぜ屋根の重さに耐えられるか不思議です。▲ 曲がったキャンギを調整して、平らになるよう並べています。▼瓦の漆喰の断面を見ると、4回塗っていることが分かります。 垂木に使われたキャンギ(小丸太)は真っ直ぐではないため、その場で高さ調整していることが分かります。「これをまた合わせるのは大変」と川満さん。昔は漆喰を4年に1回塗り重ね、12年目に 5層目を塗ってから屋根を葺き替えていました。手入れをすることで土や竹の湿度が適度に保たれ、台風による動きを柔軟に受け止めるそうです。まさに有機的に生きている屋根といえます。現代とは異なる技術や考え方が、伝統住宅には詰まっていました。▲ 土や竹は丁寧に分類して、再利用します。 数カ月かけて屋根がきれいに解体されました。川満さんはこれから梁や柱など、構造の修繕に取り掛かります。いま川満さんたちの悩みは、古民家再生の資金です。「竹富島伝統的建造物群保存地区」のある竹富島では、景観保全のガイドラインや、それを守るための補助金制度が充実していますが、石垣市では公的補助がほとんどありません。そのためクラウドファウンディングによる資金調達を計画しているそうです。古民家再生が軌道にのれば、屋根職人や左官職人の存続にもつながります。故郷への恩返しとして、再生・保存の仕組みづくりに尽力したいといいます。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 28時間目 写真&文 大吉朋子 7月はゆったりまったり。心を決めたらどこまでも突き進みます。 2024 年7 月は「6」のエネルギーが強まる1ヶ月。「6」は心の数字。6 月のアクティブな雰囲気から一転、7 月の世界は、まったりやさしいエネルギーが巡ります。「6」はアウトドアよりインドア派。ゆったりお家で過ごすような、穏やかでやさしいエネルギーを表します。 あちらこちらと動き回った6 月を過ごした方は少し疲れも出るころです。7 月はおうち時間を少し増やして、ゆっくり過ごしてみましょう。自然に触れて心安らぐ時間を過ごすこともおすすめ。エネルギーチャージできます。いつも走り続けている人もいったん動きを緩め、自分の心や気持ちに向き合うと、また次につながるエネルギーもわいてきます。 やさしくまろやかなイメージを持つ「6」ですが、心が決まると爆発的なエネルギーを発揮する、というのも特徴です。ここまで様々な経験や体験を通して得たことを、いったん自分の心に戻して聞いてみる。そして「これだ!」と決意したら、ものすごく大きな力がわいてきます。一度決めたらまっしぐらに突き進む、果てしないエネルギーが生まれます。心が決まれば実はかなりアクティブに動くのが「6」、プロジェクト進行もみんなの心がひとつになったら鬼に金棒の時です。 6 月生まれの方は、心がより敏感になり、傷ついたり、辛いと思う事もあるかもしれません。そんなとき、つい心を閉じたくもなりますが、あまり神経質になりすぎず、意識的にオープンマインドを心掛けると、またしだいに回復していきます。 メンタルヘルス.精神年齢は実年齢の七掛け? そろそろ梅雨、太陽を浴びる時間が減りがちな季節、メンタルヘルスの調子はいかがですか? 今でこそ、私はカウンセリングを行う側ともなり、できるかぎり私自身のメンタルヘルスが安定するよう、日々意識的に過ごしています。もちろん、良いこともイマイチなこともあるわけですが、年齢を重ねるごとに自分自身の取扱い方をしっかり心得るようになってきました。調子が出ないときは、まずはしっかり寝る。そして運動! そんな私ではありますが、20代はまったく違いました。今思い出しても冷や冷やするほどアンバランス。若いからとはいえ、本当に無理ばかりしていたとつくづく思います。むやみな遠回りや感情優先のことも多く、無駄に見えることもとても多かった。それでも、時が経つにつれ、それらの無駄と思うような行為すべては今につながり、反面教師的な役割や、自己理解を深めざるを得ない動機にもなったと思います。 「精神年齢は実年齢の七掛け」この言葉を知ったのは20年近く前だと思います。当時、臨床心理士である母に真剣に相談をしていた際、「人の精神年齢は実際の年齢とは違う、良くも悪くも年齢だけで相手を捉えることはない」という話があり、この言葉を聞きました。ずいぶん年上の大人だと思っている人たち、はそうでもないのか? ? と。一方で、それなりに大人だと思っている自分はまだまだ未熟(こども)で、至らないことだらけなのか…と。その頃の私にとっては目から鱗、自分自身を省みるうえでとても強く印象に残りました。 当時(20代の私)は、なんとなく理解した気でやり過ごしていましたが、その言葉によって少し気持ちが楽になったことを思い出します。少し視野が広がるような、自分の今を今なりに理解することに役立ったように思います。今も私にとってその言葉は、自分自身を見直すものさしであり、今を正すきっかけになったりと、時々出現してきます。 そして、人のメンタルに触れる機会にも役立つ時があります。目の前のしんどさ、辛さが生じた要因が人生の総量に比例して起こることも少なくなく、経験が限られているから「知らない」ことで起こるエラーであったりすると、七掛けであることが前向きになれるきっかけの小さな要素になることもあります。 精神年齢は実年齢の七掛けなんて言われてもピンとこない、というのは20代の私がそうでしたから想像できつつも、頭の片隅にあることで、何かもがき苦しいとき、落ち着いて今を考えようとするときのきっかけになるのかもしれない、とも思います。4月の新年度スタートから丸三か月が過ぎようというところで、新社会人の方、異動で新しい環境が始まった方など、より現実が本格的に動いてくる時期でもあるかと思います。日々の仕事に忙殺されていると、自分は後回しで、ひたすら目の前に必死になることも多いかもしれません。ただ、何か違和感を感じたら心の声を無視せずに、まずは誰かに話してみる。話すことそのものが実はハードルが高いこともあるわけですが、少し勇気を出して、心を開いてみる。なかなか心をオープンに出来ないときは空を見上げると、実際に胸が開いて、呼吸も広がります。 夏至、真夏前の爽やかな青空や夕暮れ空は、ほんとに心が澄んでいきます。いい季節ですね. やちむん館のシンボル、樹齢 400年のガジュマルが来館者を出迎えます。八重山伝統民具工房「やちむん館」は1978年の創業。八重山の陶芸家の作品や月桃のカゴ、ゴザ、枕などの展示販売、体験講習を行っています。 ▼ 17世紀に新城島や西表島で焼かれていたパナリ焼の復刻品。 焼き物は若手のカジュアルな日用品から、人間国宝金城次郎さんまで、石垣島、西表島、沖縄本島など多くの作品を展示販売しています。夏に心地良い月桃の円座や「あんつく」と呼ばれる編カゴも素敵です。民具の材料としては月桃やアダン、クバ、マーニなど島に自生する色々な植物が使われているそうです。 ヤマクニブー(モロコシソウ)を 30分ほど蒸して虫除けをつくります。ヤマクニブーの虫除けは琉球王国時代から使われていて、部屋に吊るしたり、衣類の防虫にも効果があります。今は栽培する人が少なく絶滅が危惧されています。 シッサスの気根。 やちむん館のある盛山地区は、かつてマラリアなど疫病のため人が減り大正6年に廃村となりました。民謡「盛山どっけま」には最後の村人となった女性ドッケマの物語が歌われています。 にじむ墨とアクアリウムの世界 東京・元麻布の住宅を舞台に、書とアクアリウムのコラボレーションが展開されました。 インテリアデザイナーメゾン・リトル・トリブ(タラ・ラドレッシュさん)の企画により、京都を拠点に活躍する書家上田普さんと、大阪のアクアリウムデザイナー浦田恭資さん(8rium)が参加したコラボレーション展示が行われました。舞台となったのは、フランス人家族が暮らす東京・元麻布の邸宅です。「Silent CHINMOKU 沈黙」 「Mountain YAMA 山」 「山水」の前で、しばし瞑想の時間にひたれました。浦田恭資さんは大阪でホテルや施設のアクアリウムを制作されています。 上田普さんと浦田恭資さんによるインスタレーション「Beauty of Nature(Mountain and Water)SANSUI 山水」。3つの円筒形の水槽に、白いプラチナエンゼル、透明なトランスルーセント、黒いブラックゴーストが泳ぎ、時折、ボコボコッと空気のあがる音を奏でます。枯山水ならぬ、濡れ山水といった趣です。 カキツバタの手配が大変だったと浦田さん。アクアリウムの水質や温度管理にも心を配っています。 リビングに置かれた「Stone Garden SEKITEI 石庭」は、黒いウーパールーパーと白いベタが踊る舞台装置のようです。屋上のウッドデッキには、カキツバタの花と金魚が共生するアクアリウムを展示。コンクリート壁やモダン家具のコンテンポラリーな邸宅をあえて選び、日常生活のなかに「書」を展開したかったと上田さん。浦田さんのアクアリウムを触媒として淡い墨のにじみが空間にあふれだし、人々の共生への願いが伝わってきました。 大統領選挙戦が過熱するアメリカで、ある有力下院議員が「 (旧ツイッター)に上げた一枚の領収書が大きな反響を呼んでい る。写真を御覧ください。議員が利用したレストランの領収書で、間違いなく議員本人のクレジットカードでの支払いであることが確認できる。では、このレシートの、一体何が話題となっているのか。それは、支払いのための本人の署名の他に、大きくメッセージが書き込まれていること。「トランプに一票を! 課税に 」と、用紙のチップ金額を書き入れる欄のすぐ脇に、議 員本人のメッセージが書き込まれているのだ。 この数週間前にトランプ氏は、「私が大統領に選ばれたら、チップ所得は非課税とする」という公約を発表している。これはラティーノや黒人層などのマイノリティが多い、飲食業やサービス産業の低所得労働者に向けて、トランプ陣営が新たに打ち出した選挙戦術なのだ。この層は伝統的に民主党の基盤で、少しでもその支持を得たいトランプ陣営は、この層に向けて、これまでには見られなかった様々な動きを見せている。そのひとつが、「チップ非課税」という公約発表ということになる。 この新戦術を背後から後押しする形で登場したのが、このメッセージ入り領収書なのだ。確かに、このアイデアは凄い。実際次々とトランプ支持者たちがグリーン議員の真似をし始めている。この領収書がまたたく間に全米に広まったのは、議員がジョージア州選出の超有名な共和党の女性議員だからだ。その名は、マジョリー・テイラー・グリーン (Marjorie Taylor Greene)。1974年5月生まれ。その極端な右派ぶりは、トランプ氏が抑えにかかるほどの凄さだが、地元では圧倒的な人気を誇っている。それにしてもジョージアといえば綿花プランテーションと黒人奴隷……という歴史的なイメージが深く刻まれた州であるわけで、その一方で、グリーン議員のような立場の議員が熱い支持を獲得しているというのも、なかなかその土地に暮らしてみないと見えにくいところがありそうだ。 このクレジット伝票、どこかのレストランでのディナーとのことだが、店の請求金額が601ドル(約9万円)。これにグリーン議員がチップとして自身で記入した金額が120ドル(約 1万8千円)で、これは請求金額の 20 %に相当する。このチップ の金額(請求額の2割)は、現在の米国では常識的なものとなっ !! X」 チップは非 +++++++ ている。「無料おもてなしサービス残業蔓延国」からすると、この「2割のチップ当然国」の現状には驚かされる。それどころか、これを当然のこととして、陰に陽にこの水準のチップを「半強制的に要求する店」も大都会では少なくないというから、あきれてしまう。 で、この議員の伝票が S N S上で広まるにつれて、トランプ応援メッセージ以外にも、様々な反響が米国内で生まれている。まずは、レストランへの支払額だ。チップ込みで721ドル! この金額は全米でも特に所得水準の高いニューヨークのレストランのウェイターの一週間の平均収入金額を越えている。低所得マイノリティ向けの選挙戦術とのことだが、「議員様の雲の上の暮らしぶり」に、戦術の対象である特に地方の労働者たちから反発が起き始めている。私がこのクレジット伝票の受け渡しを担当するウェイターだったら、決していい気持ちはしないと思う。「金を恵んでやる」的なニュアンスが背景に感じられるからだ。さらにこれが国会議員の行為であることを思えば、「金で一票を買う行為」だと捉えられかねない。むしろトランプ氏の足を引っ張ることになるのではないかと思ってしまう。 今回の騒動に限らず、今、欧州よりも米国で、チップに関する議論が活発になってきている。近年多数の欧米からの観光客が日本の「無料おもてなしサービス 残業蔓延国」の快適さを知ったことも、少なからず影響しているらしい。「チップ廃止」を訴える人々が徐々に増え始めている。レストラン業界の一部の組合からも同様の動きが出ている。日本に比べて米国では、チップ支払いが当たり前、という場面が非常に多い。これは社会構造・仕事分担のやり方の違いも背景にある。今、こうした社会 と仕事の構造自体が大きく変化し始めていることが、議論活発化の背景にあると思われる。 では、世界に冠たる「チップの国アメリカ」で、チップの支払いについてのエチケットが語られ始めたのはいつ頃からなのだろうか。それは意外と新しく、1910年頃からのことであるようだ。その証拠となる格好の本がある。現在に至るまでアメリカでエチケット本の女王と言われるエミリー・ポスト。彼女の百年前のマナーブック( 1922年版)から、チップに関する一節をご紹介してみよう。これが、すごく、面白い。 以下の一節を読めば、チップとは本来、友人が「使用人を多数抱える屋敷」に住んでいるような、社会の上層クラスまたそれに準ずる、ミドルクラス最上層の人々の間で問題になるような事柄であったことが分かる。「欧米では昔からチップの文化が広く普及し……」などと、調べもせずに軽々しく口にするのは止めてもらいたい。 大きなお屋敷に招かれたときには、そこでチップをどうすればいいか、考えた だけでも恐ろしくなります。でも、英国の大きなマナーハウスで支払われる金額 Emily Post(1872〜1960) に比べれば、わが国(米国)でのチップなど取るに足らない金額に過ぎません。 ヨーロッパに比べればわが国は割安、そう思えば気が楽になるはず。 幸いなことに、わが国(米国)では、友人の屋敷で食事をするときに執事にチップを渡す必要はありません。また、訪問の際にあなたの名刺を玄関から奥様の 1 いる部屋に届けてくれるフットマン(召使)やパーラーメイドにもチップを渡す 必要はありません。訪問後に友人のカントリーハウス(邸宅)をあとにするときでも、使用人たちに対して512ドル以上渡す必要はありません。 1 週末に友人の屋敷に滞在する女性の場合、ご自身がメイドを同伴しないときは、友人の屋敷の筆頭メイドにドルか 1 3ドルを手渡します。また、他にあれこれ世話をしてくれる使用人全員にドルか 2ドルを渡します。友人の家が小さな家である場合には、人あたりドルで構わないので、あなたが何かしてもらうかどうかに関係なく、必ずすべての使用人にチップをあげるようにします。ただし、大きなお屋敷の場合には、あなたに仕えてくれた人だけにチップを渡します。ご自身のメイドを同伴して訪問滞在をする場合には、彼女にチップ(約ドル)を渡します。また、彼女(あなたのメイド)の食事を準備してくれるコック(多くの場合、セカンド・シェフ)と、さらにそのテーブルを準備してくれるキッチンメイドにもドル渡します。 2 お屋敷によっては「チップ禁止」を打ち出しているお宅もあります。そのような場合は、お客様の滞在する部屋の化粧台もしくは浴槽の上の目立つ場所など、必ず目につきやすい場所に、次のようなメモが置かれています。 「使用人にチップを渡さないでください。使用人との契約 にはこのことが確認事項として挿入されおり、その待遇に ついては十分な手当がなされております。こうした中で、あえて使用人にチップ を受け取るよう強いられた場合、そのことが即座に使用人の解雇に結びつく可能 性がある、ということをご留意ください。」 ここで言う「十分な手当て」とは、屋敷に訪問宿泊客があった場合には、宿泊客の人数と宿泊日数に応じて、「特別ボーナス」が使用人たちの給与に上乗せされる、という手当のことです。こうしたチップ禁止の取り決めは、次の2つの理由から、使用人たちから好評です。第1に、自尊心のある使用人は、「チップを恵んでもらう」という屈辱感を嫌うということ。実際、受取を断る使用人もいます。第2に、こうした取り決めがあれば、使用人の側で、訪問滞在客の人数と宿泊日数から、頂けるボーナスの額が予め予想できるからです。 ++++++++++ では、現代の日本でチップは問題にならないかというと、話はそう単純ではない。「心付け」という言葉で覆われる「人間関係の潤滑油」。これがいろいろな場面で必要とされていること、皆様もよく御存知の通り。昨今、「心付け」の差し出し方の名人と言われた「田中角栄の気配りぶり」が再評価され始めている。日本社会の変化の兆しではないか。 ヤエヤマヤシや琉球マツの群生は、島の西部独特の景色です。 八重山の伝統生活を紹介した「やいま村」では、アダンの実、水牛、赤瓦の家などを通じて、八重山の暮らしを体感できます。夕焼けの美しい西部沿岸では移住者によって民宿やカフェがひらかれ、リゾート施設で働くスタッフたちも集合住宅で多く暮らし、家賃相場も上がってきています。 石垣 大浜信光 いつの頃からか ふるさと人は石垣にかこまれた生活を始めたろうか 雨がふれば苔はふくらみ陽が照ればしっぽの青いとかげも匍い出た ああ 若い母が上布を織ろうと石垣の穴に竹をさしこみ糸をのべたはるかな少年の日 全国的に梅雨入りが遅れ、沖縄・南大東島方面でしつこく降り続いた今年の水無月 ……… なので雨に打たれながらポンポコリンの頭を垂れ、瑞々しくゆらめくあのアジサイを今年はまだ目にしていなかった。けれど沖縄本島の先、石垣島の白保地区では目も覚めるような魅惑的な花たちが待ってくれていた。ちょうど沖縄が遅れ馳せの梅雨入りを告げたタイミングでしたから、その点は幸いでありました。ひさびさにお尋ねすることとなりました白保におわします弥勒さまにあらためて御礼を申し上げます。アポ取りなどまったくしてなかったのに、今回もまた様々な出会いを授けてくださいました。 白保に吹く南風(マフェ)や海、空と雲、そして花や木や緑、そこに暮らす人々が人間にとってだいじなことをいつも示して下さるんだな、これが。 その49 青山かすみ 大変立派な、新しい石垣市役所が元の空港跡地に建ったとの情報!へぇ.え.あ の隈研吾さんの!?見に行かなくちゃね。は.い見てきましたよ.、 つぎに市役所前から出るマイクロバスに乗り込み平和祈念館へまいりましょう。なんとここへ着いてみたらお向かいには日本のボクサーとして世界チャンピオンを連続13回防衛されるという偉業を果たされたお方の記念館が! 長年伺いたいと願っておりました具志堅用高さんの記念館にも行くことが叶ったのです!彼のサンドバックはずっしり重くてしなやかでした。ぇえ?どんなことも受け止めてくれちゃう?またお隣に最近できたサンドイッチ&フルーツシェイク屋さんも超オススメ。この周辺には神聖で気持ちを引き締めてくれる空気感が漂っていました。 遠くへ旅するという行為は、まだ見ぬものと出会う喜びとともに慣れぬものとしてのハンデも付いてくることを忘れてはなりません。普段にもました慎重な決断が問われます。夏休みのお出掛けなどは特に気を配り行動いたしましょう。 2万7千年前(旧石器時代)白保で発見された白保人が石垣島のヒトの始まりと考えられています。「八重山博物館」には石器時代から近代までの様々な文物が展示されています。アンツク(網袋)は農作業に使われた袋で、月桃などの植物繊維を編んで作られます。大きな厨子甕は、洗骨した骨を納めお墓に安置するための甕です。石垣新空港の工事で発見された白保竿根田原洞穴遺跡では、世界最大級の旧石器時代の墓所が発掘され、日本最古の全身骨格が出土しました。当時から風葬の後に洗骨し、埋葬する習慣があったことが分かっています。 八重山で焼き物が始まったのは1600年代で、琉球王国から招かれた陶工仲村渠致元(なかんだかりちげん)が1724年、八重山焼きの窯をひらきました。窯跡から抹茶茶碗や茶入が発掘されていて、琉球王国で盛んだった茶道が八重山にも伝わっていたことが察せられます。 登野城遺跡で発掘された勾玉。 石垣島の紅型。型紙を使って色を差した後、隈取りで色をぼかすのが特徴です。主に士族の礼服として着られました。石垣島では縄文時代の土器が発掘されていますが、1200. 1500年ほど前には、国内では他に例のない新石器時代に逆行した無土器期(土器を使わない)時代があったことが分かっています。琉球王国時代、八重山の人々を苦しめた過酷な人頭税は、明治 36年まで続きました。藁算(バラザン)と呼ばれる結縄は、徴税される米の量などを結び目で記録する道具です。人頭税は女性にも掛けられ、苧麻(ちょま)の手紡ぎ糸を地機で織った八重山上布などを納めました。 人口約 5万人の石垣市に対し、市役所の規模・予算が過剰だという声も多く、案内図にはまだ空室が目立ちます。 ▲市の中心部にある旧市庁舎跡地には、ホテル・水族館・商業の複合施設「YAEYAMA GATE」が建設される予定です。 ▼車の無い高齢者にとって新市役所の場所は不便で、1日7便ほどのマイクロ路線バスを利用しています。 八重山の大切な歴史のひとつに、マラリアとの闘いがあります。マラリアはマラリア原虫を持つ蚊に刺されることで感染しますが、石垣島や西表島に比べ竹富島や黒島、新城島など面積の狭い島はマラリアの被害が少なかったため、小さな島から大きな島の水田、耕地に舟で通耕することも盛んでした。被害が拡大したのが第二次世界大戦中の「戦争マラリア」です。米国の艦砲射撃を避けて山に疎開した住民が次々と罹患し、茅葺屋根の仮小屋でマラリアと飢餓に苦しみながら、八重山の人口の10%以上にあたる 4000人近くが犠牲となりました。石垣市新栄町の「八重山平和祈念館」では、戦争マラリアの実態を豊富な写真や資料で解説しています。その向かいには、石垣島のヒーロー「具志堅用高記念館」があります。具志堅用高記念館に隣接するホットサンド専門店 OHANABATAKE(オハナバタケ)石垣リゾート店。関西圏を中心に店舗を増やしてきた OHANABATAKEが石垣島に進出。20種類近いボリーミーなホットサンドとトロピカルジュースが石垣の気候にぴったりです。屋上テラスでの飲食もできます。 琉球士族允氏具志堅家の血を受け継ぐ具志堅用高さんは、昭和 30年石垣市生まれ。沖縄本島の興南高校へ進み生まれて初めてボクシングに出会います。金城真吉氏の指導で天性の素質が開花した昭和 47年は、沖縄が日本復帰を果たした年でした。具志堅さんはボクシングを始めてたった1年で山形のインターハイに沖縄代表として出場しますが、パスポートを用意しドルを円に両替して向かったそうです(パスポートは不要だったと判明)。翌年にはインターハイ モスキート級に優勝し注目を集めると、拓殖大学が学費免除を申し出て大学進学が決まります。合宿所に荷物を送り、ボクシング部監督がポケットマネーで購入してくれた航空券を握りしめ、具志堅さんは羽田に向かいました。 羽田空港で待ち構えていたのは、協栄ジムのマネジャー高橋勝郎氏でした。笑顔で車に案内するとジムに連れていき、金平正紀会長と共にプロ入りを説得されます。突然の事に戸惑う具志堅さんでしたが翌日の新聞には「高校日本一の具志堅用高が協栄でプロ転向」のニュースが載ってしまい、この事件はプロ・アマの断絶に拡大していきます。6畳一間に暮らした具志堅さんは、とんかつ屋でバイトをしながら昭和 49年プロデビューすると、無敗のままジュニアフライ級世界王座挑戦者決定戦で勝利し、世界王座挑戦のチャンスを得ます。そして沖縄復帰の 4年後、山梨学院大学体育館で世界王者グスマンから世界最短の 9戦目で世界タイトルを奪取。沖縄の凱旋パレードは「ヨウコウありがとう」の声であふれました。おめでとうではなく、ありがとうの声に、沖縄の人たちの思いがこもっていると具志堅さんは語ります。沖縄が生んだ世界王者は、日本との理解の扉をひらくきっかけとなりました。その後は前人未到の13戦連続防衛。いまも具志堅さんはガードを崩さずにかまえ、基礎練習を繰り返すことの大切さを伝えています。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】