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時空を超える美意識
碇星 2019 http://collaj.jp/
蒼い十勝
中札内 /池田 /帯広
北海道の東に位置する十勝。広大な十勝平野を中心とした日本有数の畑作(じゃがいも、ビート、豆類)、酪農の産地であり、防風林に囲まれた畑では大規模農業が展開されています。
十勝・帯広市の繁華街にたつ「六花亭帯広本店」。ロングセラー「ひとつ鍋」は、昭和27年、帯広開拓70周年記念式典のために考案されました。そのネーミングは、依田勉三の句「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」からきています。また昭和52年に登場したヒット作「マルセイバターサンド」は、依田勉三が主宰した晩成社のバターに由来します。▲帯広への出発にあたり乞食姿にふんして決意を示した依田勉三。
「帯広100年記念館」では、十勝内陸部の開拓に大きな役割を果たした「晩成社」の活動を紹介。依田勉三、渡辺勝、鈴木銃太郎(晩成社3幹部)を中心に明治16年、晩成社の開拓農民13戸27名が現在の帯広市に入植します。明治30年代からの殖民地開放政策により十勝への移民は本格化し、晩成社の手掛けた豆、小麦、ビート、トウモロコシ、馬鈴薯の栽培や牛肉、乳製品の製造、木材生産などは、後に続く開拓農民の足がかりとなりました。晩成社は明治35年バター工場を設立。東京の高級食品店でも売られますが、輸送費等がかかり利益は少なかったようです。
帯広百年記念館2階の特別展示室では「十勝開拓日記-史料が語る近代-」を開催していました(2019年9月23日まで)。晩成社が開拓地を入手する経緯を記した依田勉三の貴重な日記や「マルセイバタ」のラベル、渡辺勝の妻カネ(鈴木銃太郎の妹)の料理日記なども展示されていました。カネは共立女学校(横浜)出身の才女で、移民の子どもたちを自宅で教え、イギリス人ランドーが訪れた際は流暢な英語で応対しています。後に晩成社の語り部としても活躍しました。
明治以前の十勝は、柏の樹海に覆われていたといわれます。その資源を活かしきったのが、工業用革製ベルトで成功した大阪の新田長次郎です。新田は明治42年、柏の樹皮からタンニンを抽出する工場を幕別に建設します。皮なめしに不可欠なタンニンは、本州では品不足になっていました。樹皮を剥いた幹を活かすため、大正8年、新田ベニア製造所(現ニッタクス)を設立。耐熱、耐水に優れたニカワ接着剤を開発して、日本初の合板を製造します。柏を伐採した跡地を植林するとともに、牧場をつくり牛を飼育。大正15年にバター、昭和4年にコンデンスミルクを製造し、真珠ミルク、白鹿ミルク、軍艦ミルクなどと銘打った缶詰を、東京のデパートで販売しました。
晩成社の「帯広農場」は、現在の帯広市電信通り周辺にひろがっていました。白浜忠吉が描いた明治26年頃のオベリベリ部落(帯広の古い呼び名)の見とり図には、依田勉三、渡辺勝をはじめ、開拓民の家々が描かれています(この図は六花亭「ひとつ鍋」の箱に印刷されています)。明治25年頃から十勝監獄の建設がはじまり、工事関係者を目当てにした料理屋や旅館、商店が出来はじめました。右は宮本商産旧本社ビル、左は旧櫻湯。
建物の
1889年
月、ロンドンに超モダンなホテルが誕生する。そ
の名も、ザ・サヴォイ。その創業は「サヴォイ以前・以後」と言われるほど、欧州における高級大ホテルのあり方を革命的に変えることになる。そして、そのダイニングルームは、出される料理から宴席でのサーブの仕方さらには調理場の組織に至るまで、何から何まで画期的なものだった。一体何がどう画期的だったのか、その具体的な様子を覗いてみよう。
まずは、その建物から。
階建て全 400室のうち 250室
が控えの間付きのスイートで、うち温水・冷水自在のバスルーム
完備の部屋が
室もあった。現在の基準からすれば「それが何 ?」
と思われるかもしれない。だが、同じ頃ロンドンにオープンした 500人収容の中高級クラスのヴィクトリア・ホテルでは、共同
利用のバスが
箇所設置されていたのみ。多くの部屋には、ベッ
ドの下に、寝そべって入る「たらい状のバスタブ」が用意されていて、滞在客は必要に応じてメイドやボーイに命じて、ここにお湯を満たしてもらって入浴した。そんなサービスがあるだけでも「贅沢なホテル」と考えられていたのだ。海を渡って、花のパリ。
大貴族の御曹司である画家ロートレックの高級アパルトマンに風
呂が供えられていたことが「驚くべき贅沢」と考えられていた時代だ。これを思えば、サヴォイは、まさに夢のような別次元だっ
たことになる。一方、照明は全館、蝋燭やガスではなく、
の電気照明。これも大変な驚きだった。我が東京では、この
前 1887(明治
20
)年、東京電燈(現東京電力)が設立され、
産業用を中心にようやく「電燈」が知られ始めた段階だ。また、
階まで上下する米国製エレベーターの設置も人々を驚か
せた。それまでは、息を切らして階段を昇り降りする「召使いの
居住階」と思われていた
階以上の階の居室。これが以後「眺め
の良い贅沢な客室」と考えられるようになっていく。
このように採算を度外視して大金を注ぎ込み、一軒のホテルにこれだけのイノヴェーションを盛り込んだ創業者は、意外なことに、それまでホテル業界とは無縁の男だった。大ヒット作連発の演劇プロデューサーにしてサヴォイ劇場の座主であるドイリー・カート( 1844〜 1901)だ。その代表ヒット作が、当時未だに神秘の国と思われていた日本をテーマとした、我々から見れば荒唐無稽な軽音楽劇「ミカド」。その劇場ビジネスの成功を通じて養われた、贅沢な有閑階級が何を求めているかという先を読む
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ドイリー・カート
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セザール・リッツ
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時間 2年目。カートはこの点において抜群の先見性を持つ男だった。サヴォイ劇場での公演がはねたあと、心おきなくゆっくりとディナーを楽しみ、そのまま宿泊できる贅沢なホテルが必要だ。劇場の特等席にやってくる英国や欧州諸国からの王侯貴族を始めとする上流階級を顧客として取り込みたい。それには、贅沢に慣れた彼らが心底、そこに宿泊したい思うだけの設備とサービスと料理を用意しなければならない。こうして誕生したのが、空前絶後の設備を誇る、ザ・サヴォイ・ホテルだったのだ。
しかし、オープン時に至っても、その建物と設備はともかく、肝心のサービスと料理については、カート自身決して満足できる水準とは思っていなかった。そこで、目をつけたのが、すでにドイツの温泉保養地バーデン・バーデンとカンヌの高級ホテル経営で名を挙げつつあった、セザール・リッツ( 1850〜 1918)だった。リッツはそれまでに、モンテカルロやルツェルン(スイス)の高級ホテル成功の立役者と認められていて、これがカートの目に止まったのだった。リッツは当初、「サヴォイ支配人として就任を」という誘いを引き受けるつもりはなかった。「あくまでもアドヴァイザー的な立場で、その実情をしばらく見せて頂く」という条件でカートからの招待を承諾し、サヴォイのオープニング直前にロンドンに到着した。
リッツは初めて訪れたロンドンで、王侯貴族と上流層が集まるザ・サヴォイに大いなる将来性を見た。だが、同時に、サービスと料理に問題があることも、彼の目には見えすぎるほど見えていた。ザ・サヴォイ支配人の職を引き受けるべきか否か。大いに迷いつつ、一旦フランスに帰国する。一方、カートの狙い通り、ザ・サヴォイは開業の夜から大変な話題を呼び、その豪華な建物と設備に惹かれて、数カ月間お客が引きも切らない状況が続いた。だが、開業当初の話題性が薄れ始めると同時に、徐々にお客の波が引き始めた。やはり、リッツに来てもらわねばならない。カートは一大決心のもと、リッツに対して驚くべき高額の報酬を提示して、再度リッツに決断を迫った。これにより、ついにリッツは決断し、料理長の交代を含めてホテル運営を完全に任せるという条件で、サヴォイの支配人として就任し、その運営に欠かせない子飼いのチームを引き連れて着任した。「この大舞台のダイニングと調理場を、これまでにない形で仕切ることのできる男は、あいつしかいない」リッツはモンテカルロとルツェルンで共に仕事をした天才的な料理人オーギュスト・エスコフィエ(1846〜 1935)を、ザ・サヴォイの料理長として招く。
こうして、当時七つの海を支配する大英帝国の首都ロンドンに誕生した、当時世界でも最高にモダンで贅沢なホテル、ザ・サヴォイにおいて、高級ホテルのダイニングと調理場の革命が始まることになる。ロンドンでの、この二人の出会いが無ければ、後のパリ・リッツ・ホテルでの成功はあり得なかっただろう。その背景説明に入る前に、高級ホテル業界に大革命を起こすことになるこのふたりの生い立ちをたどってみよう。 〜次号へと続く〜
赤いドーム屋根の「双葉幼稚園」。そのルーツは明治29年、日本聖公会伝道師大井浅吉(初代園長)のひらいた日曜学校にさかのぼります。まさに帯広の歴史とともに歩んだ幼稚園です。
中心にある遊戯室。八角形のドームは直径約11m、高さ約7mの無柱空間で大正11年に竣工しました。四隅には4部屋の保育室が配置され、遊戯室から全体の雰囲気を感じられます。
園舎を設計したのは、2代目園長となった臼田梅といわれています。大正7年、仙台青葉女学院に進学した臼田梅は、学院長のランソン女史、コレル女史から、フレーベルの幼児教育を学びます。東京の園舎を見学したり、F.L.ライトなど海外の園舎を研究するなかで、臼田はフレーベルの幼児教材「恩物」にあるシンプルな球体、立方体を合わせたプランを練り上げます。
4部屋ある保育室は、五角形をしています。背の高い縦長窓が並んだ明るい空間で、木製の椅子と机が置かれていました。双葉幼稚園は2013年に閉園するまで、約4900人の園児を送り出しました。帯広の政治、経済、文化など担う市長、医師、新聞社社長などを輩出し、幼少期を帯広で育った作家・池澤夏樹さんもそのひとりです。エッセイの中で池澤さんは「中央のホールの丸天井がとても高い。中に立って見上げるとずっと上の方にあって、それこそ空のように遠く見えた。そこでお遊戯をする。女の子とと組んで両腕を交差させて手をつなぎ、スキップでホールを一周する。1組ずつ順番にやるのだが、ほかの子たちや先生が周りでみんな見ているのだからとても恥ずかしかった」と回想しています。建設は大井浅吉の支援者だった本名音吉が請負い、萩原延一が棟梁に任命されました。広い玄関は昭和27年に起き
遠くからでも目立つ赤い屋根には、行きた十勝沖地震の教訓から、避難しやすいよう拡張されたそうです。現在、双葉幼稚園は、所有者である日本聖公会北海
交う人々にも幼い日を思い起こして欲し道教区と、卒園者を中心に結成されたNPO法人「双葉の露」によって、保存・活用方法が模索されています。この日は週
いという願いが込められています。末の特別公開日(不定期)で、遊戯室ではメンバーの方々によって今後の運営方針が話し合われていました。
ガラスのおうちに水を入れましょうお魚たちが住めるようにね
新連載
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
いま帯広市の人気スポットとなっている「真鍋庭園」。NHK連続テレビ小説「なつぞら」のロケセット山田天陽(演・吉沢亮)の家とアトリエが移築展示され、9月3日のドラマでの死後、天陽ロスに涙するファンが次々と訪れています。上は馬小屋を利用した天陽のアトリエ。内部も再現されています。
山田天陽のモデルといわれる画家・神田日勝を思わせる絵が飾られていました。東京生まれの神田日勝は8歳のとき、戦火を逃れ、集団帰農計画に応募した家族と共に、北海道鹿追町へ入植。農業は未経験ながら、神田家は農家として定住します。奨学金をうけ東京藝大に入学した兄・一明の影響で、油絵に取り組んだ日勝は、昭和31年、帯広の平原社美術協会展に初入選すると札幌の全道美術協会展、東京の独立美術協会展などに活躍の場を広げ、北海道を代表する画家のひとりとして期待されました。しかし原因不明の病によって体調を崩し、わずか32歳で夭逝します。「農民である。画家である」と語った日勝は、開拓農民であるとともに、純粋な芸術家としての生涯を駆け抜けました。日勝の絵の多くはベニア板に描かれていますが、十勝の新田ベニア製と考えられています。
真鍋庭園は、樹木の輸入・生産・販売を行う真鍋庭園苗畑によって運営される24,000坪の広大な庭園です。1966年から一般公開され、数千種の樹木が、北国の環境でどう育つかを実地で確かめられるショールームとして機能してきました。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
アメリカ小売業の著しい変化この2年 -Ⅱ -オーガニックフーズ店舗発展の大きな波 .
私が思い描く「店舗デザイン」は、企業がお客様のためにどのように役立つか、どう従業員の成長を支えるかという「企業理念」を、商品とその構成、売り場、環境づくり、外観、店舗環境形成を通じて「店舗全体が媒体」となり、それを効果的に機能させ、お客様、従業員、関係取引先、地域、社会の「共感」を獲得し、支持を得て事業を継続的に発展させていく武器を構築するというものです。
今回の視察の大きな成果は、ワシントン D.C.の1501 New York Ave NEにある「 MOM ' S Organic Market 」(マムズ)というスーパーマーケット(以下 SM)で、私にとって久しぶりの感動的な出会いとなりました。SMをはじめ CVS(コンビニエンスストア)、ホームセンターなど数多くのチェーンストア業態の基本デザイン開発に携わってきましたが、このチェーンは
全面ガラスの開放的なファサードや、明るい木目の陳列什器。
私自身が10年以上思い描いてきた理想的なSM店舗のイメージと驚くほど似ています。理念とデザインが一致しているのです。ビル1階の 300坪強の都市型小型店で、まだ午前 9:30頃ということもあり、お客の姿はまばらでした。
【 装飾ゼロでありながら安っぽくない計画の力 】
店のファサード面は採光を考慮して、アルミ製ストアフロント(ビル用大型サッシ)に透明ガラスをはめ込み、軽快で開放的です。店内正面の壁上部には天井から商品陳列什器の上まで、半透明ガラスのハイサイドライトを配し、採光量を確保するとともに光を拡散させています。鉛直面が明るいと人は明るい空間だと感じますので、よく計算された配置です。高い天井高に適度な数の照明、本当にポイントだけにしぼったスポットライト、柔らかく明るい木目の商品陳列什器が整然と並びます。アメリカのローコスト店舗でよく見られるウェット仕上げと呼ばれるポリッシュ着色コンクリート床が、幅が広く買いものしやすい通路と木目の什器によく似合います。派手さは全くありませんが行き届いたクリンリネスとさりげない空間が心地よく、テイクアウト用オープンキッチン設備はステンレス製で奇麗に磨き込まれています。後で調べたところ、壁は VOC(揮発性有機化合物)ゼロの塗料で塗られ、ホルムアルデヒドを含まないフラットグレインバンブー(竹製パネル)、メイプル製ベニアなどサスティナブルな建材を使い、カスタマーサービスのデスク、パンの棚などを造っているとのこと。商品の特徴を説明した手書きのパネル以外は、大きなプライス表示、派手な POP、商品アピール用ポスターなどは一切掲示されていません。
【 究極的オーガニック店舗の姿 】
「 MOM 'S Organic Market」の商品は、健康的な暮らしに欠かせない「安心、安全」が担保され、全てが信頼に足る商品です。一般的な NB(ナショナルブランド)も安心出来る物が大半ですが、この店には NBはほとんど並んでいません。地元産を含め、フェアトレード(信頼できる農園と直接取引)された国内、海外を問わない仕入商品、自社開発 PB商品が棚に並んでいます。これは SMとして「やろうと思っても」まず不可能な「もの凄い」ことです。マムズが志向するのはオーガニックの極みであり、人類が目指
ウェット仕上げのコンクリート床と木目の什器がよく似合います。
テイクアウトコーナーのステンレス製オープンキッチン。
すべき暮らし方や価値観を、商品、店舗のあり方、エネルギーの使い方といった全体によって強く示しています。初めての訪問でもあり、まずは建築や空間、照明や内装、什器に眼が行き、商品に向き始めたころには出発時間が迫っていました。早足で店内を回り始めたとき、ふと眼にとまったのが板チョコでした。パッケージデザインは控えめでありながら、NBとは異なる繊細な色づかいをしていて、美しいパッケージにひかれ3枚を手にとりました。レジを待つあいだに、また眼に止まったのはレジ横の冷蔵ショーケースに並んだ水の入れ物。ペットボトルではなくストローをさす切れ込みのある透明な蓋を載せたカップで、不思議な気がして買い求めました。
【 ユニークなネーミングの Naked LUNCH 】
オフィス街など街中に立地したチェーンの特徴のひとつは、テイクアウトランチです。この店では大きく「Naked LUNCH everything'sorganic」という表示を掲げ、何の添加物も無いありのままの食材を使った「健康、安全」なランチであることを主張しています。メニューも多彩で10種類のOrganic Meal(例えば MOLER BOWLモグラどんぶり?、CROWDER BOWL混み合いどんぶり?、BREEZEBOWL爽やかどんぶり?)と5種類のOrganic raw juices(オーガニック生ジュー
ス)を用意し目の前で作ってくれます。パネルには「NakedLUNCHのカップ、ストロー、ナプキン、スープ、サラダ容器など全てが Compostable(堆肥化可能)」と表示されていました。先ほど買った水カップにも「NakedLUNCH」がプリントされています。ペットボトルが捨てられるとマイクロプラスチック化して海洋汚染の元凶になる可能性があります。この店では販売時点からコントロール出来ない汚染原因を作らない、売らない方針であることが良くわかりました。
【 for vegan ヴィーガンへの対応 】
板チョコは非常に美味しい物でした。パッケージには forveganと記され、使われているミルクはもちろん植物性ココナツミルクです。この商品は本当の PB商品でしょう。帰国して数日後、近所のイタリアンレストランで来合わせた人にホワイトチョコレートを食べてもらいましたが、全員がこれは「美味しい!」と喜んでもらいました。鎌倉のベジタリアンの女性は何とか入手したいとパッケージを持って帰った程です。
「 MOM'S Organic Market」はワシントンD.C.を抱えるメリーランド州ロックビルの創業で、現在はそれに加えてペンシルバニア州、ヴァージニア州、ニュージャージー州、D.C.に18店舗展開しています。創業者はスコット・ナッシュ氏(54歳)。
Compostableなプラスティックを使ったカップやストロー。
ヴィーガン対応した PBの板チョコ。
従業員1,000人以上、SM事業を通じて環境保護と復元を中心とした文化を築き上げています。オーガニックSMではヒッピー出身のジョン・マッキー氏が夫人と2人で興した、売り上げ一兆円を超えるアメリカ最大のオーガニックSM「ホールフーズマーケット」が有名です。トレンドをリードする存在でしたが、2017年に「Amazon」に買収され、今は元気が少し衰えています。大きくなり過ぎて特徴が見えにくいこともありますが、顕著なのは会社の規模やブランド、マス媒体に左右されないデジタルネイティブな「ミレニアル世代」(1981年.1996年生まれ)の台頭です。SNSを通じて、自分達なりのトレンドを引っ張り始めました。「マムズ」のように特長があり、環境問題を自分達の大切な課題ととらえ、積極的に改善しようという社会性を持った、小粒でありながら意識の高い企業が、アメリカのそこここで活動し始めています。
日本の小売業はいま、消費税の増税やキャッシュレス決済の対応で目一杯です。購買層の高齢化、ミレニアル世代の動向への対策など、価値観の大きな変化に対応出来ていません。周回遅れという緩い表現では、ワールドワイドに広がる超速的な潮流に追いつけないと、このところ強く感じます。
「帯広百年記念館」には、石器時代、縄文時代の石器が多数展示されています。左は帯広市西8条南12丁目付近「暁遺跡」から出土した石器で、十勝でとれる黒曜石(十勝石)で作られています。石器には皮革をなめす掻器(そうき)、ナイフのような削器(さっき)、骨や角を加工する彫器(ちょうき)などがあり、シカやクマなどの皮や肉、骨を活かしていたことがうかがえます。右は帯広市南町2遺跡から出土した、2万年前の皮なめしにつかわれた掻器です。この時代は氷河期の終わり頃で、十勝にマンモスがいたと考えられています。
「暁遺跡」スポット12からは、1,900点の細かなカミソリのような細石刃(さいせきじん)や、5700点の掻器や削器などが見つかり、石器の工房であった可能性を示しています。
▼ 鹿を呼ぶことのできる鹿笛(イレクテプ)。
「帯広百年記念館」には、アイヌ民族が使っていた狩猟の道具も展示されています。とがうかがえます。アマッポ(仕掛け弓)は、本体から伸ばした糸に動物が引っかかると自動的に発射される弓で、トリカブの毒を弓矢に塗ってエゾシカ、キツネ、クマをとりました。他にウサギやテンをとる罠もありました、仕掛けの近くに目印をつけるのが決まりです。狩りは温かい冬毛の生える冬から春が多かったようです。縄文時代には、シカの通り道に落とし穴を設ける猟も行われました。
十勝・池田町に建つ「 D型ハウス 」は、長谷耕平さんが主宰するEZO LEATHER WORKSのショップ兼自宅です。「地域おこし協力隊」として2016年から家族で池田町に暮らしはじめた長谷さんは、ログビルダーの経験を活かし納屋や畜舎などに使われるD型ハウスを自らの手でリニューアル。今年春にショップをオープンしました。
▲十勝を紹介したNHKの番組で、清原翔さん(『なつぞら』柴田照男役)が紹介して話題となった靴。
EZO LEATHERWORKSでは主に、長谷さんが池田町で捕獲したエゾシカの革製品を扱っています。姫路や東京のタンナー(製革会社)にシカの原皮を送り、皮なめしを依頼。SLOTH leatherfactory(カバン)、凸&凹(靴)、Michka(靴)など、作家の協力をえて、ここでしか手に入らないオリジナルの製品を直販しています。
野生のエゾシカの革には、牛革や豚革とは異なるノウハウが必要です。長谷さんはタンナーや作家の意見をフィードバックしながら、シカ革の特性を活かした製品づくりを目指しています。皮なめしには主に、鉱物性のクロムなめしと、植物性のタンニンなめしがありますが、ここでは環境負荷や人体への影響が少ないタンニンなめしを採用しています。長谷さん自身も十勝ワインのオーク樽を利用し、「オークバークタンニング」という古い技法で皮作りを行っています。カシワ、ミズナラの樹皮からタンニンを抽出した液に半年ほど漬け込むと、皮のコラーゲンが変質して腐らなくなります。水洗いしてからヒマシ油をすり込みながら揉み、半乾きになったら揉んで干してを繰り返して革にしていきます。
▲帯広市のMichkaと共同開発したシカ革製ファーストシューズ。
長谷さんがいま力を入れているのが、トレーラーの台車に載せた「タイニーハウス」の開発です。D型ハウスの中に、長谷さんが設計・施工したモデルハウスが展示されていました。台車を車で牽引すれば、外部への移動が可能。一般住宅と変わらないキッチン、トイレ、ユニットバスを備え、キャンピングカーよりも居住性、断熱性が重視されています。天然木をふんだんに使い、床暖房まで完備した家族で暮らせる快適な空間。材料は赤坂建設が協賛しています。
大学を卒業後、沖縄今帰仁村で自給自足の共同生活をしていた長谷さんは、施設の建設を担ったことから大工への興味がわき北軽井沢(群馬県)のハンドカットログメーカーで5年ほど修行。手作りログハウスづくりを体得します。その後「自然とのつながりの中で生活すること」を目標に北海道での暮らしを考えていたところ、移住を促進するイベント「北海道暮らしフェア」で、相談員として参加していた赤坂正さんと出会いました。赤坂さんは池田町の地域おこし協力隊の情報提供や、住居の手配などを手助けして、長谷さん一家の移住をサポートしました。
リビングに造り付けたソファには、8頭分のシカ革が張られています。シカ革は牛革にくらべ一枚が小さく、ボディラインにそってカットした曲線を上手に縫製し、無駄なく利用。この仕事を手掛けたのは、池田町の椅子張り工房「コレカラ」の野々村真太郎さんです。
若いシカの皮は毛が付いたまま、ミョウバンを使ってなめす事もあります。シカ肉は真空パックしてから冷凍庫に保管して自家消費すると共に、知り合いの飲食店などに販売しています。
池田町の赤坂建設にて。TIME&STYLEの吉田安志さんも取材に同行。ツーバイフォー工場を見学しました。
今回の取材で十勝を案内してくれた赤坂正さんは、明治45年からつづく赤坂建設6代目です(コラージ2015年4月号で紹介)。同社は1976年、道東で初めてツーバイフォー住宅を建て、十勝の気候風土にあわせた安心・快適な家づくりを目指し、近年の気候変動や災害対策にも取り組んでいます。また移住を希望する人たちをサポートすることで、町の活性化に貢献。帯広市の現場では、江別産レンガの「乾式レンガ工法」を使った平屋住宅を建設中でした。
江別は明治からレンガの一大産地として知られ、今も400棟以上のレンガ建築が残されています。この家に採用した「乾式レンガ工法ブリックタイプ」は、壁面に張った金属レール下地に本物のレンガをはめ込み、目地材で仕上げる工法です。色ムラのあるレンガを割り付け、バランスを見ながら入れ変えることも容易で、レンガ積みと変わらないボリューム感があります。江別レンガは年間気温差60℃という厳しい環境に耐え、開拓時代を支えた歴史あるレンガとして「北海道遺産」にも選定されています。
赤坂さんの自邸にて、朝の光がさわやかです。センターテー池田駅前レストラン「よねくら」のバナナ饅頭は115年の池田名産「十勝ワイン」。ワイン城にはオークの樽がならびまブルは愛別町の木工家奥俊博さん(モク工房)の作品。歴史をもつスイーツ。温かいミルクと一緒に頂きます。す。地元出身吉田美和さんのドリカムブドウ園もあります。
池田町の猟友会に所属する長谷さんは、早朝と夕方の2回、有害鳥獣駆除のパトロールにでかけます。夕方、奥様と2人の息子さんに見送られながら、霧雨のなか車で出発しました。
助手席に散弾銃を用意して、河川敷に目を凝らしながら土手を進みます。馬たちが放牧されている草地もありました。エゾジカは明治時代、乱獲や豪雪によって絶滅するほど頭数を減らしました。その後、禁猟などの保護政策で個体数を回復し1990年代から急増。今は全道に50.60万頭いると推定されています。生息域も道東から道南、道北へとひろがり、森林や貴重な草花への被害も問題となっています。
シカに駆け寄り、手を合わせる長谷さん、かつてアイヌの人々にとってエゾシカは主食のひとつであり、神が遣わした大切なものとして、肉や皮革、角、骨などを余すことなく利用していました。
皮を傷つけないよう気をつけて車に運び、シートを掛けて荷台に固定します。この日は東京農大から研修に来た頓所さんが手伝ってくれました。町役場に提出する写真を撮り(町から一定の報奨金がでます)、GPSで捕獲した位置を記録します。長谷さんは製品1点ごとに、どこでとれたシカの革かをトレーサビリティできようにしています。
解体加工施設にシカを到着すると「衛生処理マニュアル」に従って、手早く解体・洗浄します。内蔵を傷つけずに取り除くことで、雑菌の付着を防ぐのがポイント。翌朝、専門業者が精肉に加工し、衛生的な食肉を生産しています。質のよい革を得るためには、狩猟から皮はぎまで自分の手で行うことが不可欠と長谷さん。
▼店内の江別レンガは「北海道遺産」認定品。壁面に穴をあけた透かし積み工法で、江別の煉瓦職人の手により赤坂建設が施工。
池田町の居酒屋「寿楽の息子」にて、長谷さんがとったエゾシカをオーナーが調理してくれました。様々な調理法を模索することも、シカ肉の有効利用につながります。「ハンティングは生活の一部。その副産物としてのシカ革を無駄なく活かしながら、これからは大工仕事を本格化したい」と長谷さん。
ドラゴンシリーズ 61
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
父と僕
父からの手紙が机の引き出しから出てきた。
父の書く文字はいつも丁寧で強い筆跡。毛筆のような強い筆圧で几帳面に書いた手紙には、父の温かみと僕に対する『生きろ !』と言うメッセージが込められていた。
僕が宮崎から東京に来て歳で海外に行くまでの年間、父は東京に出張に来るたび所在の分からない僕を見つけては、バイト先や宿泊先に呼び出し、そこから晩御飯を食べに連れて行ってく
15
れた。僕はいつも
2時間以上遅れて到着するのだけれど、父はジ
1
ッと背筋を伸ばして座って待っていた。僕が着くと怒らずに『オゥ』
F3
と一言声をあげて立ち上がり、直ぐにどこかに行こうとした。
21
父は不思議に僕のバイト先を見つけては突然に現れて驚くこともあり、バイトが終わるまで外でずっと待っていてくれたように思う。そして、いつものように晩飯に行くか ?と聞いてくれた。僕は特に用事はいつもなかったから(ずーっと彼女もいなかったので)、一緒に新橋、有楽町、赤坂など、父の行ったことのある酒場に連れていってくれた。僕は父とはなぜだか、 18歳とか歳
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とかになっても何の違和感も 3なく、小さなころと同じような感覚で話すことができ、短 20かったけれど幸せな時間を一緒に過ごせた。高校を卒業して東京に来ての〜年間は、僕の人生の中で本当に自己嫌悪の塊のような不毛の数年間だった。どこで何をしているかも分からない息子のことは多分、父にはとても心配だったと思う。
そんな時、父に会うととても自然体で一緒にいることができた。父は僕に気をつかって、あまり難しいことや不毛な生活、バイトについての苦言はいわなかった。一緒に晩飯を食べていると酒好きの父はいつも、自分の仕事のことを状況も含め、とても詳しく教えてくれた。だから町長をやっていた時期の父の仕事の大枠や、反対派がどんな人達で、そんな卑怯な人間になってはいけないというような話は詳しく知っている。
小さな町の町長だったが、そこには航空自衛隊の重要な基地があり、沖縄のようではないけれど、基地の町としての様々な問題を抱えていた。特に当時は日米共同訓練などが始まって、防衛費が増えて 15イーグルなど、機 100億円する戦闘機が機ほど配備されるなど、日本の空の防衛拠点として重要な位置にあった。そこで働く自衛隊員や家族、その恩恵を受ける地元住民や右翼系の人々、その一方、恩恵を受けられない住民や左翼系の人々が全国から集まった集会なども行われていた。地方の町長とはいえ、国の政策と地元住民の間で解決できない様々な問題や、利権が絡む問題に向き合う難しい仕事をしていた。
僕は息子として父の大変さを垣間見て来たので、その仕事を尊敬して誇りに思いながらも、絶対に政治家にはなりたくないと感じていた。父は東京で、僕と一緒に酒を飲んで晩飯を食べながら、こんな仕事も夢があっていいぞと
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か楽しい商売になるぞ、と気持ちを伝えてくれたこともあった。
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父はほとんど、他人や家族に対して怒った姿を見せたことがない。もちろん激怒することなどなかったし、他人の悪口もあまり聞かなかった。ただし、顔を赤くして正面を向き、口を一文字に強く締め、グッと怒りや感情を鎮める我慢した顔を鮮明に記憶している。根本は本当に明るくて、父がその場にいるだけで元気になるようなオーラをいつも放っていた。その父の性格は、僕ではなく弟が引き継いだようだ。
弟は父に似て常に明るく前向きで、誰にでも好感を持たれる明るいオーラを受け継いだように思う。父はどこでも大きな声で挨拶をしていた。歩いて町の役場まで行く道中、『おはようございます !今日も精が出ますな !』といつもお決まりのフレーズで誰にでも同じように接していた。
東京で僕のバイト先に来ても同じで、大きな宮崎弁でバイト先の人人に『いつも龍太郎がお世話になっております。どうかこれからも宜しくおねがいします。』と高校生の女の子にまで挨拶をしてまわっていた。僕はそれがいつも恥ずかしく、父には申し訳ないと今では思っている。
僕の息子が当時の僕と同じような年齢になり、僕も当時の父と同じ年齢になり、それが父親の気持ちなんだということを身に染みて分かるし、当時の自分が情けなく、父に会って謝りたい気持ちにもなってくる。
僕が勉強もできずに遊んでばかりいて、先生や母に怒られていた小学生の頃、父は「龍太郎は大器晩成だから大丈夫だぞ。大きな夢を持って世界に出て行けよ」といってダメダメな僕を励ましてくれた。僕は大器晩成の意味が分からず「バンキタンセイ」とお父さんが言ってくれるから大丈夫と、祖母や親戚の人たちに言って不思議な顔をされた。
親戚の中で僕は一番の劣等生で、姉の子供達の成績が良くない時には比喩的に「龍くん(僕は龍くんと呼ばれていた)も今は会社の社長さんやってるから、あなたも大丈夫よ」という変な例え話に使われてきた。父が言ってくれた言葉が僕の根っこを支えていることは誰も知らないので「あなたの息子と僕を一緒にしないで欲しいんだけど」と大人気ないことを言って姉や母から嫌われている。本当のことだから。
長谷さんのタイニーハウスのソファを張ったのが、昨年春、池田町に椅子張り工房「コレカラ」をひらいた野々村真太郎さんです。元々は、そろばん教室として使われていた赤坂建設所有の建物で、明るい照明が気に入ったそうです。池田町の隣町、音更町出身の野々村さんは、東京でデザインの専門学校に通っていた頃、雑誌で日本初の家具モデラー・宮本茂紀さんを知ります。実家を手伝うため地元に戻っていた野々村さんでしたが、1997年、帯広に宮本さんの「ミネルバ十勝」が設立されることを知り、迷わずに就職。主に営業や事務をしながら宮本さんのすすめで椅子張りを習得し、難しい「椅子張り1級技能士」の資格をとりましたた。いま野々村さんは、主に古い椅子の張り替えを手掛けています。この日は、個人から依頼されたロッキングチェアを張り替えていました。元々の張地を丁寧に剥がし、そこからとった型紙をもとに、新しい張地を裁断します。元の張地は伸びたり切れたりしているので、誤差を見極めて型をとる必要があります。クッションは痛み具合を見て、必要なところはウレタンなどを取り替え補強します。作業台に使われているのは、折り畳みに便利な卓球台です。
左が張替え前の椅子。「祖父が愛用した椅子を直したい」という家族の思いがあったそうです。椅子を大切に使い続けることで、家族の記憶がつながります。
そろばん教室の黒板があった壁には、どんな張地にも対応できるよう約300色の糸を置いています。ミシンは4台。なかでもドイツADLER社製のミシンは使い心地がよく、一番気に入っているそうです。18年つとめた「ミネルバ十勝」を退社したのちも、野々村さんは北海道に暮らしながら椅子張りの仕事を続けてきました。宮本さんと約束した「十勝から世界へ椅子を発信する」夢を実現するため、自らのソファブランドを立ち上げたいといいます。
ヨーコの旅日記第22信熱気ムンムン積層造形川津陽子メッセフランクフルトジャパン
毎年 11月ドイツ・フランクフルトで開催される、積層造形(AM)を中心とした次世代製造加工技術の見本市 Formnext(フォームネクスト)。先日、それに先駆けたセミナー・展示・交流会の 3本だてフォーラムを、都内で開催した。樹脂や金属といった材料で立体構造物を形成する積層造形(3Dプリント)は、複雑な形状を成型出来ることはもちろん、一般のオフィスでも製造作業のほとんどが出来てしまうため、従来に比べ低コストで納期も短縮でき、モノづくりに変革をもたらすとも言われている。製造業界にとって大注目なトピックだけに、当フォーラムは参加募集を開始するや申込みが定員に達し、業界の情報収集に対する勢いを感じた。当日は、100名を超えるメーカー、ユーザー企業の方々に参加いただいた。
セミナーでは、日本のモノづくりをリードするDMG森精機株式会社の近藤氏、パナソニック株式会社ライフソリューションズ社の阿部氏ほか、海外からも講演者をお招きした。ドイツ・アーヘン市にある研究機関、ACAM Aachen Center for Additive Manufacturingのクリスチャン・アーンツ(Kristian Arntz)氏と、オランダ・アイントホーフェン市にある、Additive Industries社のハリー・クライネン(Harry Kleijnen)氏である。開催に向けメールや電話では何度もやり取りさせていただ
▲ 3Dプリンターをはじめ、最新の製造加工技術に出会えます。
いたものの、クリスチャンさん以外は初めてお目にかかる方々。「お堅い人たち ……?」 普段、技術者と接する機会の無い私の勝手な想像は、彼らの穏やかな物腰によって一瞬にして払拭された。ハリーさんに至っては、前日、日本に到着するやいなや、千葉県を中心に襲った大型台風の影響により成田空港で数時間足止めを食らう羽目となってしまった。ようやく見知らぬ旅人たちと共にタクシーを捕まえるも、高速道路が閉鎖され 5時間近くかけて東京・日本橋のホテルに到着。そんなトラブルを物ともせず、「 It was an adventure ! 」と、爽やかに状況を語ってくれた。こうして、誰一人欠くことなく、無事にセミナーは始まった。彼らは 45分という限られた登壇時間を超えることなく、質疑応答の時間も含め綺麗にまとめてくださった。これも私の勝手な思い込みだが、技術者とは簡潔なのだ。聴講者も終始、メモを取る人、講演者の話に頷づく人たちが目立った。こうしたセミナーでの質疑応答の時間は静寂に包まれるケースも少なくないが、この日は同時通訳を介さずに、流暢な英語で直接クリスチャンさん、ハリーさんに質問を投げかける場面も見られた。講演内容はもちろん、要所要所で感嘆するセミナーであった。セミナー後の交流会も、名刺交換や会話に皆が没頭している様子。折角用意したフィンガーフードやドリンクに手をつけてもらえず、マイクで「ぜひ召し上がってくださ.い」と呼びかけたほど。AM業界の熱気を肌で感じた。全プログラム終了後の、内輪だけのファミリーディナーが盛り上がったことは言うまでもない。講演いただいた皆さ
▲ セミナーの後でひらかれた交流会も大盛況。
まもお招きし、賑やかな一夜になった。近藤氏や阿部氏の経歴のお話は非常に興味深く、時折り笑いも起こる。そして初めての食材を美味しそうに食べるクリスチャンさん、嬉しそうに趣味のバイクの話をするハリーさん。みんな人間味のある温かくて、失礼な言い方かもしれないが、とてもチャーミングな人たちであった。ファミリーディナーから、近藤氏はそのまま海外出張のため羽田空港に向かわれ、阿部氏は仕事が残っているからとホテルに戻られた。本当にお忙しい方々で、今回ご一緒いただけたことに改めて感謝の想いが溢れる。それでは今宵はお開きで……とはならず、お腹はもちろん、当日の盛りだくさんな出来事により色んな意味でお腹いっぱいであったが「フォームネクスト」の主催者であるドイツ人の同僚を筆頭に、もう一軒行ってみよーということになった。毎年のように
来日する彼のお気に入りの店に連れて行きたいのだと言う。聞くと、そこは銀座の 300BAR。すべてのドリンクが 300円均一で楽しめるバーである。クライアントも一緒だけど、本当に 300円で良いの?と一瞬躊躇したが、外国人たちは皆「All 300 yen!」と感嘆しノリノリである。結局、彼に導かれ皆で移動。カジュアルな雰囲気のなか、気軽にドリンクを楽しめるシステムに各々ご満足の様子。私も一緒になって初体験させていただいた。ただ、前日に日本に到着したばかりの彼らにスタンディングバーは少々ハードだったのか、思いのほか早めの解散となった。最先端技術をリードする彼らと300円 BARという組み合わせがなんだか微笑ましかった。翌日、彼らからは楽しかった.、ありがとう、というメールが届いた。次は 11月のフランクフルトで会いましょう、と。
十勝・池田町の「 BOYA FARM(ボーヤ・ファーム)」では、牧場の羊を手際よく移動させるシープドッグたちの活躍を見学できます(基本的に5月GW.9月の土日、祭日に開催)。
ボーヤ・ファームは、1000頭近くの羊を飼育する日本最大級の羊牧場です。丘の上に広がる牧場でのびのび育った質の高い羊の肉は、全国の有名レストランからも支持されています。
▲シープドッグショーには、観光バスの団体客も訪れます。
ボーヤ・ファームは今から31年前、スキーウェアの製造元山田ニットにより、羊毛を生産する牧場としてスタートしました。現在は羊肉を提供するかたわら、ファーム代表 安西 浩さん(右)によるシープドッグショーを開催。池田町の名物として毎年8千人ほどの来場者があります。春先に集中して生まれる子羊は、今年350頭生まれたそうです。安西浩さんは、帯広畜産大学を卒業後、設立当初のボーヤ・ファームに就職。牧羊犬の育成、畜舎の建設、羊毛生産から羊肉への転換、羊肉の品質向上、販路の開拓、観光施設の整備など、数々の難題に向き会ってきました。昨年、今年はヒグマによる被害にあい、広大な牧場に散らばった500頭の羊を、一日で移動させたこともあるそうです。羊を集め、コントロールすることは人の力だけでは不可能で、それを支えるのがシープドッグとして活躍するボーダーコリーたちです。
安西さんはボーダーコリーのトップブリーダーでもあり、牧場生まれの犬もふくめ、4匹が活躍しています。羊を操るためのコマンドは4種類あり、掛け声や笛の音で意思を伝えます。例えば時計回りは「カムバイ」、反時計回りは「アウェイ」と声をかけます。個々の犬によってコマンドは異なり、使い分けることで羊の動きをコントロールするのが腕の見せどころです。イギリスでは大規模な牧羊犬世界選手権が開催され、上位の犬たちは国外に出さないよう保護されるそうです。
ボーダーコリーは吠えることはせず、目で威嚇しながら羊を追うため「アイドッグ」とも呼ばれます。犬が近づきすぎると羊が混乱するので、一定の距離を保つようにコントロールしています。
高い知能と俊敏な動きが特徴のボーダーコリー。それぞれ個性的な性格をもち、ずる賢さも持ち合わせています。最年長のボルグ12歳(♂)を筆頭に、子どものころから優秀なリラ11歳(♀)、イギリスで大会上位の父の血を継いだエリート犬ベル8歳(♀)、ベルとボルグの子アリス1歳10カ月(♀)など、安西さんは1頭1頭の性格を解説します。最高齢のボルグは、なかなか命令を聞きません。一方リラはわずか8カ月で実務につき、木陰に隠れた羊も上手に連れ出します。エリートのベルは朝から晩まで羊を見つめ続け、羊のことしか頭にありません。アリスは耳がたれているボルグと、耳が立つベルの形質を引き継ぎ、片方の耳だけがたれています。
レイ(ベルとボルグの子)
▼平山さんとレイはいつも一緒に行動しています。
羊を狭い柵に追い込むのも犬たちの仕事。1頭ごとに薬を飲ませたり、オスとメスを分けたりします。研修生の平山さんは、小学校のときに観たシープドッグショーをきっかけに牧場に興味をもちました。犬の主人は1人だけなので、担当するレイ(ベルとボルグの子)は平山さんの命令しか聞かないそうです。ボーダーコリーにとっては、羊を追うことが最高の幸せ。都会の飼い主が羊を追わせてあげたいと、ボーヤファームでトレーニングを行う試みも始まっています。
Q
コンピュター講座は、以下のアンケートから始まった。
コンピュターは初めてですか?
Qキーボードは打てますか? Qエクセル、ワードは知っていますか
難なく始められると思ったがマシンは
これは不覚。 Windowsは使えますか? という項目がなかったので、これには触れずに講座を申し込んだ。
マシーン持ち込みでいいと思っていたが、練習課題が Windowsにインストールされていて、講師用モニターを見ながら操作することになっていた。
メールや Web検索、写真の整理など日常的にはなんら不自由なく使えているものの、 OSを自動アップデートしたり、文章に段落をつけたり、ちょっと複雑な計算シートを作ろうとすると、画面まわりが随分と複雑になっているので、戸惑うこともある。
この際、エクセルとワードの基本を習ってみようと思ったのだ ……。
今さらジロー .じゃないけれど、いまさら Windowsもない。が、途中退出も情けない。なんとか必死でついていこうとしたものの、途中で完全ギブアップ。キーボードはなんとかなるが、マウスがどうにもならない。
左クリック、次は右クリックと、講師のいうとおり動かそうとしても、頭と手はシンクロしない。振り返って
みれば、 MAC
を使い始めてから
教えてくれるセミナー教室などなかったが、何とはなしにマウスをクリックをしながら操作を覚え、いらなくなった書類はゴミ箱に捨てる。コンピュターを使っているという意識もないまま、操作の順番も適当、いつでもやり直しができたし、途中で別のアイデアが出たり、操作手順は曖昧でもなんとかなった。
しかし
Windows
のパソコン教室は違った。目的
35
AAA
いいえ。
はい。はい。
Windows。
年。当時は使い方を
今さらジロー .
地に行くのにいろんな方法があるし、途中で変更することもあるのに、何層ものメニューを順番通りに開けて、マウスの左、右を機械的に操作する。1つ操作が遅れると何を言っているのかわからなくなる。
そのたびに手を上げてアシスタントを呼ぶが、ほとんどつきっきり。さすがに申し訳ないと諦めた。途中休憩を挟み4時間、悪戦苦闘。どっと疲れる。これを 35年前にやったら、絶対にパソコン嫌いになっていただろう。
ボランティアでパソコンを教える知り合いがいる。歳以上でも通う人は多いと聞く。受けているのはご婦人が多いが、何をしているのか覗くとトランプゲームをしている。
エクセルとワードの講座は3日連続で課題は4つづつ。最終日は、課題の書類を1時間で作成しなければならない。半分しかできなかった。悔しいというより情けない。もう Windowsのキーボードを見るのもうんざり。
認知症予防にマウスの操作はいいらしい。エクセル操作はないけれど、結構マウスは使えるそうだ。さすがにここで認知症予防を受ける気はない。 Windowsのマウスがおばけネズミに見えてくる。
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みんな疲れているのか、喋る人はほとんどいない。なんのためのパソコン教室だろう ……。
そう、エクセルを新しくしたら関数が使えない。セルが自由に使えない。ワードはメニューが複雑になっているのでしたいことができない。余計な段落が入りイライラすることが多い。それを解消したいから受講したものの、今さら Windowsを使う必要はない。
本屋さんに行ったら、たくさん指南書があった。そうこれを買って、ゆっくりやればいい。教室での上達はやめることにした。
今さらジロー .
思わず、小柳ルミ子の歌が出る。
今さらジロー、罪だよジロー ..……歌わなければやってられない気分でもある。
柏林のアートサンクチュアリ中札内芸術村
とかち帯広空港に近い「中札内美術村」。広大な敷地に点在する6カ所の美術館が枕木の路でつながれ、柏(かしわ)林のなかを散策しんがら作品を訪ねます。受付もなく、スタッフの姿も見えない、凛とした森全体が不思議なギャラリー空間。「ギャラリー柏林」では、中札内村が主催した「北の大地ビエンナーレ」受賞作家展が開かれていました。
開拓前の時代、柏の樹に覆われていた十勝一帯。その名残を示す貴重な柏林を工場用地として入手した六花亭製菓は、1987年、土地の利用方法を飯田郷介さんに相談します。以下、飯田さんの著書「美味しい美術館.美術館の雑学ノート」(求龍堂刊)を参考に、「中札内美術村」設立の経緯を振り返ってみたいと思います。
飯田さんが提案したのは、工場を中心にレストラン、音楽ホール、ゲストハウス、アトリエ、デザイン工房などを配置したファクトリーパークでした。六花亭オーナーと全国の美術館をめぐり、構想をまとめていったそうです。最初の建物「坂本直行記念館」(現・北の大地美術館)は、明治42年に建てられた北海道大学農学部 第2農場 牧牛舎(重要文化財)がモデルです。
天井の美しいトラス構造は、中央に真束を持たないクィーンポストトラス。シャンデリアは馬車の車輪をモチーフにしています。現在は自画像公募展「二十歳の輪郭」がひらかれていました。
「真野正美小館」は大正13年、帯広で農機具や建築・土木用品を扱う三井金物店によって建てられた「札幌軟石(凝灰岩)」の石蔵を移築したものです。札幌軟石は、明治初期に発見され、開拓使の奨励によって札幌の公的施設や小樽運河の倉庫群に使われました。柔らかく、保温性が高いのが特徴で、入り口の上には金物店の屋号「菱三」の紋が彫られています。
帯広市大通り南5丁目にあるレンガ造の旧三井金物店は、現在「六花亭サロンkyu」としてコンサートなどに利用されています。三井金物店は、山梨県出身の三井徳宝により、明治31年に開店しました。レンガ造の建物は2代目で、櫛形三連アーチのユニークなファサードが特徴。レンガは十勝監獄製といわれます。
山もみじのトンネルには、ローマから取り寄せた石畳が敷かれています。その左右にはアナベルやエキナセアが咲き乱れるイングリッシュガーデン「美術村庭園」が整備されました。
板東優さんの彫刻作品。
真野正美作品館。
「相原求一朗美術館」は、六花亭帯広本店近くにあった「帯広湯」(1995年廃業)を移築。1927年に建てられた木造トラス構造で、外壁を札幌軟石で張っています。男女に分かれた2カ所のアーチ状ドアが銭湯の名残を示し、2階のアーチ窓と絶妙なバランスを保っています。2階は義太夫の練習場としても使われ、地域コミュニケーションの場であったといわれます。
1918年生まれの相原求一朗は、戦後、猪熊弦一郎に師事し、40代のはじめ北海道旅行をきっかけにして、雄大な北海道の山々や田園風景を描き続けました。展示室では、六花亭が制作を依頼した「北海道十名山」をはじめ、雄大な山岳画と向き合えます。作家の希望により館内の照度は高く設定され、実際の山を目の前するかのように細部まではっきり鑑賞できます。
「中札内美術村」の柏林は、次代への遺産として、工場を建設せずに、そのまま残されました。その後、新工場の建設された「六花の森」は、美術村から西へ4kmほどの所にあります。
十勝六花が咲き乱れる六花の森
札内川沿岸の荒れ地を10年掛けて整備した「六花の森」。六花亭のアイコンともいえる坂本直行画伯の山野草が咲く森を作ろうと、三番川の流れを活かした庭園づくりが行われました。
六花亭の工場にはガラス張りのカフェ「六’ caf.(ロッカフェ)」が併設されています。ちなみに六花亭の「六花」は雪の結晶を表し、東大寺別当清水公照師により名付けられました。
建物はクロアチアの古民家を移築・再生したものです。「安西水丸作品館」は、公募展「着てみたい北のTシャツデザイン展」の審査員を務めた安西水丸さんの作品を展示。六花の森には、十勝六花(エゾリンドウ、ハマナシ、オオバナノエンレイソウ、カタクリ、エゾリュウキンカ、シラネアオイ)をはじめ、坂本画伯によって六花亭の包装紙にも描かれた山野草が、季節ごとに咲き乱れます。鮮やかなマゼンタの「ハマナシ」は、ハマナスとも表記されますが、坂本画伯は尊敬する牧野富太郎博士の説をとって、ハマナシと呼んでいました。
敷地のなかで三番川は、様々な表情をみせてくれます。水は札内川をへて十勝川に注ぎます。
「坂本直行記念館」には、十勝六花など山野草と、十勝の山々の絵が展示されています。坂本画伯は明治39年釧路に生まれ、北海道大学で農業を学び山岳部を創設。数々の山を登りました。卒業後は東京の園芸会社に就職するものの、わずか2年で退職。十勝の牧場で酪農を学び、独立後、原野を開拓する苦しい暮らしのなか、絵や文章を描き続けました。
広大な庭を眺める贅沢なひととき。旅人同士の会話もはずみます。
坂本画伯の作品は、彫刻家・峯孝(みねたかし)に見いだされ、1957年、第1回個展を札幌で開催します。そんなおり、六花亭製菓創業者・小田豊四郎氏が画伯をたずね、児童詩誌「サイロ」の表紙絵を依頼します。「無償でやりましょう。そのかわり、私も死ぬまで描くからやめたらだめだよ」と答えた画伯は1982年に亡くなるまで、病床でスケッチを描き続けました。
世界でここだけの ばんえい十勝
世界で唯一の、ばんえい競馬場「ばんえい十勝」。競馬だけでなく、十勝の新鮮な野菜や畜産品、お酒が手に入るマーケットや、豚丼、ジンギスカンなどのレストラン、馬の資料館などが揃い、家族連れで賑わっています。資料館では、北海道開拓時代の馬と人の関わりが紹介されています。十勝において、馬は開拓の原動力として大切にされました。明治のはじめに導入された「ブラウ」は、クワの代わりに馬に引かせて田畑を耕す道具で、根をはった笹や木の根を切り開くには、馬の力が欠かせませんでした。人の力で耕すのは1日3アール程度が限度でしたが、馬耕ブラウをを使うと60アールにもなり、より大型の馬が求められるようになりました。
レースの開始前、出走馬がパドックに姿を現します。ばん馬の体重は1トン前後。北海道にいたドサンコと、フランスから導入されたペルシュロン種、ブルトン種などの交配で、より大型で力強い農耕馬へと進化してきました。ばん馬の父と呼ばれるのが、明治から大正にかけて18年間に600頭近い仔をつくった種付け馬「イレネー号(ペルシュロン種)」でした。出走時間が近づいてくると、騎手たちが騎乗して、出走ゲートに向かいます。ちなみに頭をグンと上げて、目を輝かしている馬は好調といわれています。
ゲートが開き、いよいよ出走です。コースは直線の200mで、2カ所の障害があります。騎手の乗った鉄ソリは最大1トン。騎手には馬の力を最大限にひきだす、熟練した技術が求められるそうです。もともとは農家の祭で行う馬同士の綱引きからはじまり、米俵を乗せたソリをひく競技へと変化してきました。公式競技となったのは戦後1946年のことで、戦争の徴用で減った農耕馬を、増やす意味もありました。競争のスピードはゆっくりで、第2障害の前では、一度止まって馬の力を蓄えます。コースの脇を歩きながらレースを楽しむこともできます。
高さ1.6mの第2障害を乗り越えると、ゴールはもうすぐです。ゴール前の砂障害で一気に逆転することも。この日の3レース、4番アアモンドマイ(松田道明騎乗)が的中しました。ばん馬は昭和30年頃まで、農耕馬として30万頭ほどが飼育されていましたが、農業の機械化によって、急速に頭数を減らしていきました。
とかち帯広空港ちかくの「ばんえい牧場十勝」では、100頭以上のばん馬が飼育され、昨年からは観光施設として一般に公開されています。農耕馬としての役割を終えたいま、ばんえい競馬の存在が、種としての「ばん馬」を継承する、大きな原動力になっています。
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