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時空を超える美意識
4月号 春燈 2017
http://collaj.jp/
吉野川伝説と遊ぶ大台ヶ原を水源として奈良県・吉野の山々を下った吉野川は、西へと向きをかえ和歌山県にはいると、紀ノ川へと名を変えます。今号は吉野から和歌山へ。次号は南下して南方熊楠が活躍した田辺、南紀白浜までを訪ねます。吉野の入り口となる「吉野口駅」近くに、吉野杉を扱う製材所がありました。大正時代、吉野口駅に接続した吉野軽便鉄道が開通し、春は桜の見物客を、吉野の山へ運んでいました。谷崎潤一郎は『吉野葛』の取材・執筆のため、大正から昭和のはじめにかけ吉野を訪れていました。吉野口駅から軽便鉄道に乗り吉野駅へと向かうさまが、小説にも描かれています。
吉野軽便鉄道は現在「近鉄吉野線」となり、大阪阿部野橋駅から吉野の下千本口まで路線も延長されています。車窓からは奈良の古民家の特徴である「大和棟」の家々がみえました。
近鉄吉野線は上市の町で向きを変え、かつて「柳の渡し」のあった吉野川の鉄橋を渡ります。左右には杉の製材所や加工場が見え。吉野神宮駅でドアが開くと木の香りが漂ってきました。
吉野駅に到着すると、昨年デビューした観光特急「青の交響曲(シンフォニー)」が入線していました。3両編成の 2号車をバーカウンターを備えたラウンジ列車にするなど、豪華な仕様が人気です。現在は、吉野駅〜大阪阿部野橋駅を1日2往復運行(水曜運休)。4月1日から23日の観桜期は臨時ダイヤとなります。
第35 回feat . Sony Building 内田 和子
つれづれなるままにワクワク銀座
銀座ソニービル 7階にあるイタリアンレストランが
3月末で閉じられるとのことで、先輩友人がランチを誘ってくれた。老舗の人気イタリアンということもあって、予約がなかなか取れず 2カ月待ちだった。席は満席だが、料理を運ぶイタリア人ウエイターが 1つ1つ丁寧に説明してくれる。前菜、パスタ、メインの魚料理はソースまで美味しく、残さずきれいにいただいた。友人はイタリア旅行をしたことがあるとのことで、その思い出話を聞きながら、普段飲むことのないダブルのエスプレッソとデザートにティラミスを注文し、とことんイタリア料理を堪能した。
エレベーターで 1階まで行くつもりでいたが、途中「It's a Sony展」をやっているとのことで覗いてみた。
4階から 1階まで『ソニーパーク』というテーマで壁一面に東京の街が描かれ、映像が刻一刻と変化し音楽が流れる。映像と光が実に楽しく変化する。階段を使わずにだんだんと降りていくことになるが、木琴の上を木のボールが音を立てて下っていく。何時
間いても楽しめるテーマパークで、さすがソニーとうならせる。
一緒に行った友人は、私より
歳以上年上の方だが、
壁に映る映像をスマホで撮りながら、ウオークマンやソニーの最新機器を見るのがすごく楽しみだったと、若い頃の話をしてくださった。思いがけない「 Sony展・寄り道」に二人で声をあげて楽しんだ。
社会に出始めた若い若い頃、給料日には同じ職場の仲良し 3人組と連れ添って、決まって銀座に出かけた。
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つれづれなるままにワクワク銀座 feat. Sony Building
このソニービルにも何度も来た。有楽町から晴海通りを銀座 4丁目まで。銀座通りは 1丁目から 8丁目までよく歩いた。並木通りやみゆき通りの小さなお店を覗くのも好きだった。ボーナスが出たらと、それを楽しみに、華やかでおしゃれな街の中のウィンドショッピングは、それだけで十分幸せだった。
そんな銀座がオイルショックで、 9時になると一斉に電気が消え、このまま銀座から灯が消えてしまうのではないかと、ものすごく寂しい気持ちになったことを今でもよく覚えている。
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仲良し 3人組も一緒に歩く相手が変わり、いつしかギンブラすることもなくなっていたが、銀座が再び活気を取り戻したのは、それから随分経ってのことである。
昔行っていたお店はなくなり、知っていた裏の抜け道も通れなくなり、メイン通りの大きなビルも次々と建て変わり、行くたびに様相が変わっていくのは、少しさみしい気もするが、 Appleもあるし、銀座はやっぱり魅力ある街である。先輩友人とは銀座で食事をすることが多いが、銀座なら大体の場所に迷うことなく行けるのは、若い頃のギンブラのおかげと、気分も華やぎ足取りも軽くなる。ちなみに先輩友人は小さな買い物カートを杖代わりにしているが、足元に迷
いはなく、いつも私の方が後ろからついていく格好である。銀
座通のつもりでも、この大先輩には敵わない。脱帽……。
銀座ソニービルは懐かしい思い出を残してくれているが、 4
月1日から解体を始める。来年 8月には銀座に新たな広場が生
まれるというが、ワクワク期待感満載の「 Sony Park」
とても楽しみである。昔の 3人組に、久しぶりのギンブラを誘
ってみるのも悪くない。
数寄屋橋交差点に建って 年、まさに青春時代真っ只中で楽しんだ場所の 1つである。階段を下りるときの鍵盤をたたく音も懐かしい。解体前にもう1度行ってみようと思う。
葛桜いにしへ人の隠れ里吉野
昭和 4年に開業した現役最古のロープウェイ「吉野大峯ケーブル」。近鉄吉野駅近くの千本口駅から吉野山駅の急斜面を5分で結んでいます。地元の人も利用するため、定期券もあります。
ロープウェイ駅から路線バスに乗り換え、山道を登ります。「義経千本桜」で知られる桜の名所・吉野山は、下から順に下千本、中千本、上千本(、奥千本に分かれ、20日以上かけて桜が山上へと開花していきます。4月の頭からは桜見物で連日ごった返しますが、3月は人も少なく、門前町に並んだ店々は観桜期への準備を進めていました。
バスは門前町から細い山道へ入っていきます。車外に目をやると、急な崖によく手入れされた吉野杉がまっすぐに生えています。源義経と弁慶が隠れた「義経隠れ塔」で知られる金峯神社(奥千本)から少し下った「高城山展望台」でバスを降り、ここから蔵王堂に向けての道を下っていくことにしました。まずは落ち葉のたまる遊歩道を歩き、展望台に向かいます。
高城山高城山から奈良・京都方面を眺めます。鎌倉時代の末、元弘の乱で鎌倉幕府との闘いを繰り広げた後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王は、吉野山で幕府軍5万を迎え撃ち一時は死を覚悟しましたが、高野山へ逃れました。その砦のひとつとなったこの山は「ツツジが城」とも呼ばれ、役行者が修行した金剛山の他、葛城山や二上山も見えます。「太平記」の主要人物のひとり護良親王は、鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏の策略により鎌倉に幽閉され、やがて命を奪われます。
み吉野の 高城の山に白雲は 行きはばかりて たなびけり見ゆ
釈 通観 万葉集巻三(三五三)
ふたご山 眺めてみかどは 絵図をかき
水分神社
高城山を下った場所にある、水の神「天之水分大神」を祀った吉野水分(みくまり)神社。子宝の授かる神社として信仰を集めています。
中央の正殿に主神・天之水分大神を祀り、右殿には国宝 造玉依姫命(たまよりひめのみこと)を安置しています。建長 3年(1251)作の女性神の坐像で一般公開されたことはありません。
豊臣秀吉がここで子宝を願ったことから、その子、豊臣秀頼は水分神社を厚く信奉し、現在の社殿は関が原の合戦後、慶長 9年(1604)秀頼によって再建されました。松坂出身で古事記の研究で知られる国文学者・本居宣長も、自分は「水分神の申し子」であると信じ「水分の神がなければ、自分は生まれなかっただろう」という歌を残しています。
▲ 神社周辺の集落には「子守」という地名が残っています。
拝殿は崖の傾斜に立った「吉野建て」になっています。平地の少ない吉野では、尾根の崖にそって家々が立てられ、道沿いが 3階部分となり、奥に行くに従って 2階、1階となる構造の民家や社殿が多く見られます。
雪というものがあるらしい。その雪というものを見たかっただけなのだ。でも私の体は、今やもう、ちょっとも動かない。夏の終わりの風の中。私はゆっくりと私の終わりを迎えている。私は祈った。誰か。私の夢を ………。
大きな木の下にポトリと落ちたかぶとむしの卵。殻を割って、僕はぼんやりと風の匂いをかぐと、すぐに、むぐむぐと土を掘りはじめた。かすかな手足で何センチもぐっただろう。僕はぐったりして体を動かすのをやめた。まわりの兄弟たちも動かない。みんなここで冬を越すのだ。
ザクッザクッと音がした。尾の白い鳥が僕のまわりの土をついばんでいる。そばにいた兄弟が土から掘り起こされて鳥のくちばしに咥えられた。兄弟は悲しそうな顔で僕を見ていた。僕はしびれた手足をもう一度動かした。もっと奥へ。鳥のくちばしの届かないところへ。生まれたばかりの僕の記憶。あるはずのない過去の記憶。僕は雪を見たいんだ。生まれたばかりの僕がなぜそう思ったのかはわからない。とにかくそう思った。僕の手足は兄弟のそれよりも、ほんの少しだけ長かったみたいだ。それが命を先へつないだ。僕は生き残った。
時間がおぼろげに過ぎていく。ある日、土の中で声がする。もぐらが僕を見ていた。やあ。もぐらが言った。こんにちは。僕は答えた。あなたは誰 ?? 私が誰というよりも、私は君のことを知ってるよ。もぐらが鼻をひくひくさせて言った。ぼくのこと ?そうさ。正確に言うと君のことではなくて、君のお父さんのことだけどね。何を知ってるの ? 君は虹色かぶとむしさ。虹色かぶとむし ?? そうだ。普通のかぶとむしとは違うのさ。君はきっと雪をみたいんだろう ?? なんで知っているの ? 私はもうずいぶん長く生きている。だから、大抵のことは知っているのさ。あの ……もぐらさん、僕は普通とどう違うの ?? もぐらはちょっと言葉に詰まった。そして、ふいっと興味をなくしたかのように僕に背を向けて、知らないよと言った。僕が太陽を見ることができないのと同じで、君も雪を見ることなんてできないのさ。
それでも僕は嬉しかった。僕は僕を知った。虹色かぶとむし。それが僕だ。
僕らのリズム
Vol . 14
野田 豪 (AREA )
僕はうきうきして、体を伸ばしたり丸めたりした。僕は虹色かぶとむしで、いつか雪を見るんだ。それが僕なんだ。もぐらは無理だと言ったけど、きっと僕にはそれができる。なぜなら僕が虹色かぶとむしだからだ。
時間がおぼろげに過ぎていく。ある日、土の上で声がした。おかしいなあ、この辺に埋めといたはずなんだけどなあ。ザクッザクッ。あたりの土が掘られていく。あ、あったあった。崩れた土の隙間からしまリスが見えた。どんぐりを胸に抱えていた。おや ?? しまリスが僕をのぞきこんだ。君は……。しまリスが首をかしげた。虹色かぶとむしです !! 僕は胸を張って答えた。ふーん。雪を見るために生まれてきました !! リスが前歯をカチカチさせて笑った。それはとても無理だと思うよ。どうしてですか ??だってカブトムシは夏の終わりに死ぬものだからさ。そう決まってるんだ。生きるものには運命というものがあるのさ。それに逆らっちゃぁ、いけないよ。しまリスがふと何かを思い出したように上を向いた。そういえば同じようなことを言っていたかぶとむしがいたなぁ。君のお父さんかい ?? 僕のおとうさん ………。彼も自分のことを虹色かぶとむしだって言っていたよ。僕のおとうさんは雪を見たの ??しまリスは口を曲げながらそれに答えた。いや。普通に死んだよ。夏の終わりに。僕はカッとなった。そんなの嘘だ !!!嘘に決まってる !!! 僕は体を反転させた。土を掘った。だって虹色カブトムシなんだぞ。普通とは違うんだ。特別なんだ。僕はがむしゃらに土を掘った。おおい。後ろでしまリスの声がする。あまり下まで潜ると出てこれなくなるぞ。うるさいっ。僕は掘った。掘って掘って掘りまくった。気づくと土の上の音がまったく聞こえないところまで来た。土の中はシーンと静まり返っている。いいさ。僕は特別な虹色かぶとむしなんだから、特別深いところまでもぐっていいんだ。
時間がおぼろげに過ぎていく。ある日僕の体が硬くなっていた。どうしたんだろう。なにかがおかしい。しだいにあたたかい気持ちになってきた。おかしいけど、どうやらこれは悪いことじゃないみたいだぞ。僕は今なにか新しい成長しているんだ。僕は虹色かぶとむし。ゆきを ………みる ………んだ ………………。
そして僕は蛹になった。
僕が生まれて、僕が死ぬ、とてもありふれた運命、そのさいごのさいごに、夢はあるのでしょうか 愛はあるのでしょうか 希望はあるのでしょうか。
ある日、背中がピリリと破けた。ついに僕は大人になるんだ。僕は土をかき分けた。地上へ !! 深くまでもぐっていたからとても大変だった。けれど、これだけの長い時間を僕は待ったんだ。こんなのなんでもない !!へっちゃらだ !! 僕は地上に向かってあらん限りの力を振り絞った。最
後の土塊をかき分けた時、僕は虹色の羽を大きく開いた。見てくれ、世界よ、これが僕だ。僕は虹色かぶとむしだ !! よし飛ぶぞ。羽を震わせた。しかしうまくできなかった。体が動かない。しょうがないから、僕はもぞもぞと足を動かして前進した。目の前の大きな木にしがみついて、登って行った。僕はあたりを見回した。どうやらこの世界は、土の中でみんなに聞いていた世界と、だいぶ違うようだった。木に緑の葉が付いていなかった。太陽が熱くなかった。風が冷たかった。そうだ。僕は夏を通り越して生まれてしまったのだ。6
それでも。ずいぶん経っても僕は生きていた。木の葉陰でひっそりと生きていた。毎日がとてもとても苦しかった。僕は虹色かぶとむしだから、生命力が強い。だから苦しい世界で死ぬことも許されなかった。冷たく凍った樹液をなんとか啜りながら僕はつらい毎日過ごした。ねえ、僕はどうして夏を通り越してしまったんだろう。ある日、冬支度をしている一匹のアリに聞いてみた。知らないよ。アリは忙しくしていて、とてもそっけなかった。でもさ、雪を見たかったんだろ ??神様がその願いを叶えてくれたんじゃないのかい ?? 僕はそれを聞いて途方にくれた。それが本当なら、なんてことだ。僕は ………そんな夢を見なければ良かった。だって毎日がこんなにもつらいんだ。
分厚い雲が空をおおっている。僕の体はあおむけにひっくり返っている。僕の 本の脚は鉤型にカチンと曲がり、もう動かない。ずっとさっきから、僕は空を見ている。少しづつ薄れていく意識の中で、鉛色の空を見ている。誰かに託された夢。その夢を引き継いで自分のものにした。本当だったら叶わない夢。残酷な夢。その夢が今叶おうとしている。でも ……。今、僕は、この夢を叶わせてはいけないと思っている。この夢が叶ってしまったら、僕は、とても残酷な僕のこの人生を肯定してしまうことになるからだ。雪が来る前に。雪を見てしまう前に ………僕は …………死にたい。
一粒。
ホロリと雪が舞った。やがて、無数の白い結晶が天を埋め尽くす。虹色か
ぶとむしの濁った瞳に、固まった手足に、乾いた腹に雪が落ちる。
白くて優しくてあたたかい雪の中に。
虹色かぶとむしは深く深く落ちていく。
しまリスが雪の中にぴょこんと飛び出した。ふと思い出したように耳をそばだてた。雪の空を見上げた。そういえば、あいつ ………雪を見れたのかな。しかし、すぐに首を振った。まさかね。そう独り言を残して、しまリスは、白い野原に走り去って行った。
花矢倉(はなやぐら)
花矢倉から見た門前町。奥には金峯山寺の蔵王堂が見えます。花矢倉は吉野随一の桜の眺望でしられ、源義経が吉野に逃れた際、忠臣・佐藤忠信が敵の追撃を防いだ場所といわれます。
数々の伝説の残る吉野。兄・源頼朝の命により逃亡者となった源義経は弁慶と共に吉野へと逃れ、白拍子・静御膳は、佐藤忠信(実は源九郎狐の化身)と連れ立って後を追います。そのさまを描く「義経千本桜」は谷崎潤一郎「吉野葛」の主題ともなりましたが、実際に義経が吉野を訪れたのは、桜の手前の時期だったといわれます。この塚は追っ手のひとり横川覚範の首塚で、水分神社に逃れた義経の身代わりとなった佐藤忠信が、花矢倉から矢を放ち覚範を討ちとったと伝わります。吉野の山々は、修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)によってひらかれました。山を覆う桜は金峯山寺の本尊・蔵王権現の神木とされ、平安時代から植樹が行われてきました。吉野から熊野本宮大社を目指す修験の道「大峯奥駈(おおみねおくがけ)道」は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、春は桜を眺めながら、その一部を歩けます。
ここはなお丹生の社にほど近し 祈らば晴れよ 五月雨の空
後醍醐天皇
後醍醐天皇は都へ戻ることを夢見ながら、延元4年(1339)皇位を後村上天皇に譲り崩御されました。向かいの山に見える「如意輪寺」には醍醐天皇御陵が京都を向いて築かれています。
急な坂の途中に「吉水院宗信法印御墓」と彫られた石柱を見つけました。京都から吉野に逃れた後醍醐天皇を守った吉野の英雄・吉水院宗信法印の墓所です。後醍醐天皇が崩御されたときには、足利の襲撃を恐れる公卿をおさえ、皇位を継いだ後村上天皇を庇護して南朝継続に貢献しました。全国の桜を集めた「桜展示園」の一画には、大塔宮護良親王の功績をつたえる「大塔宮迎徳碑」が立っています。丘の上は吉野城の火の見櫓跡で、大塔宮軍の武士たちが狼煙をあげた場所といわれます。
吉野の宿坊竹林院は吉野の宿坊のひとつであると共に、千利休が豊臣秀吉を楽しませるために改修したといわれる名庭「群芳園」で知られています。
大峯奥駈修行の宿坊のひとつ喜蔵院。門前には各地の講による記念碑が立ちます。
役行者の開基と伝えられ1300年の歴史を持つ「東南院」には、和歌山県海南市の野上八幡から移築された多宝塔が立っています。古くから修験者を迎え宿坊も兼ねてきました。
急な坂道を下っていくと、勝手神社のある中千本の交差点にでます。旅館「サクラ花壇」は谷崎潤一郎が「吉野葛」を執筆した場所ですが、現在は休業中でした。葛処 横矢芳泉堂で、吉野名物の葛湯を頂きホット一息つきました。
まだ肌寒い 月下旬、午後打ち合わせで人に会う前に、少し早めのお昼。何食べようかな。いつも通る道沿いの「てんや」、その店先に「春一天丼」のポスター。「夢かさご、新物あおさと小柱のかき揚げ、穂先竹の子」とあり、季節感があって、おいしそう。時刻は午前 時40分、店内はすでに三分の二が埋まっている。デフレ時代にこの
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店は受けている。調理場を正面に見通すカウンター席の端から2番目に座る。熱めのほうじ茶が出る。(850円)
「春一天丼」を注文する。
今日は風が冷たい。冷え切った手に、茶碗の熱さがありがたい。両手で包んで手を暖めながら、お茶をすすり、店内を見渡す。スーツ姿のサラリーマンが大半で、中に隠居世代がちらほら。女性は僅かで、テーブル席に年配の主婦の二人連れがいる程度。若者と言える姿は見えない。どんな天丼が出てくるか楽しみだなあ、なんてぼんやり思っていると、私の左隣、カウンターの一番端の席に、厚手のウールのブルーのコートを着た人が座った。決して服が私に触れるわけではないけれど、何やら見えない圧力を覚えた。その人、容積がデカイのだ。見ると、白髪を後ろで束ねてひっつめにした女性で、
歳前後か。太り過ぎで、猪首で、首と顎が一体化している。顔も手も日焼けのためか小麦色で、目つき鋭く何やら11不敵な面構えだ。怪婆、である。
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すかさず奥の従業員から親しげに声が掛かる「毎度どうも」。かなりの常連らしい。若い女子店員が小走りにやってきて、にこやかに語りかける「いつもので宜しいですか?」。怪婆ニコリともせずに、無言で頷く。「ナマセット一丁!」軽やかな声が響く。「ナマセット?」何それと思っていると、先ほどの若い子がビールのジョッキを手にやってくるではないか。「ナマセット」とは、「生ビールセット」のことで、「えび・いか・れんこん・いんげんの、天ぷら4種盛り合わせ」+「キリン一番搾り生〈中〉」のセット(580円)なのだった。ご飯も味噌汁もぬき。怪婆が手にすると小さく見えるジョッキ。軽くひと飲みした後、突然私の目の前に、その右手が伸びてきた。と思った瞬間、婆の右手はカウンター奥、私の目前に置かれた取り放題のたくあんの壺漬けのガラス容器を掴むと、かすめ取るように自分の前に持っていく。そこから容器の四分の一ほどの壺漬けを皿に移し、容器を戻してきた。その素早いこと。「すみません」とか「失礼します」なんて挨拶は一切ナシ。あんなに沢山壺漬け取ってどうするのかと思っていたら、怪婆はこれをドバッと口に入れて、再びビールを一飲み。スゲえなと驚いているところに、天ぷらの盛り合わせが届いて女店員曰く「以上で宜しいですか?」。怪
婆再び無言で頷き、えびに箸を付けた。いやはや、大変な婆さんである。それにしても、時刻は午前 時 分。平日の昼前に一人「てんや」のカウンター、座れば黙っていて
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も出てくる「生セット」。賭けてもいいが、夜は毎晩かなりの量を飲むに決まっている。
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しかし、この怪婆、身なりはそれなりで、金に困っている風でもなければ、やつれて
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病的な感じなど全くない。ひょっとすると、現役で何か仕事を続けているのではないか、とさえ感じられた。依存症? 結構なんじゃないですか、あのお年で、あのど迫力なら。
で、思い出した。ひと月半ほど前の出来事を。時間帯は同じで、店は「日高屋」。急いで軽くというとき、この店のラーメン(380円)を年に2〜3度食べる。席に着くとすぐに店員がやってくる。「ラーメンお願いします」と頼むと、「モリモリサービ
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ス券のご利用ありませんか?」と聞かれる。「ないです」と答える。常連は着席と同時
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にポケットからこの券を取り出してカウンターに置く。これで麺が大盛りになって、本来なら70円の上乗せ分が無料となる。客の大半は中年男。「てんや」とは違って、サラリーマンに混じって、工事現場からそのままお昼に、という感じの皆様も珍しくない。私はラーメン以外は頼まないけれど、多くの人が、五目焼きそばと餃子とか、半チャンラーメンに野菜炒めというように、2品頼んでいる。ちょっと食べすぎじゃ
ないの、なんて思いながら店内を見ていた
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ら、壁に有名なスコッチ・ウィスキー「ホワイトホース」の大きなポスター。日高屋のハイボールはホワイトホースになってい
0円!
そういえば昨今ホワイトホースとジョニ
ウォーカーの赤ラベルは、一般スーパーで
千円ちょっとで売られているなあ、などとぼんやり思っていると、私のはす向かいの席の女性が、店員に声を掛けて「同じものもう一杯」と頼んでいる。「ハイボールでよろしかったでしょうか?」と響く店員の声に、私の耳はダンボになった。平日の午前 時 分。目隠しの隙間から覗くと、シャネル風のツイードの上下で、どう見ても、仕事着もしくは、お出かけの服装だ。年の頃なら 歳前後の女性で、お化粧は派手目ながら、まるで生気が感じられない。金色のブレスレットに指輪。首からはジェットらしき黒のネックレス。「てんやの怪婆」と比べるならば、明らかに疲れた表情で、服装もヨレた感じがある。それが昼前から2杯目のハイボール。つまみはチキンの唐揚げ。周りの客は、さしてこれを気にする風もない。珍しいことではないからだろう。彼女の手元には、「LV」という2文字が組み合わされた模様が広がる小物入れが見える。日高屋、平日昼前、2杯目のホワイトホースのハイボール、チキンの唐揚げ、当初高級だったヨレたツイードのジャケット、濃い目の化粧、 LVの小物入れ、金色のブレスレット、そして疲れ切った顔 …………。痛い。
たのだ。しかも、これが一杯2
勝手神社
文治元年(1185)、雪の吉野山で義経と分かれた後に追っ手に捉えられた静御前が、神楽殿で法楽の舞をまったと伝えられる「勝手神社」。能楽「二人静」の舞台にもなっています。また壬申の乱によって吉野にくだった大海人皇子(天武天皇)がここで琴を奏でると、背後の振袖山から天女が舞い降りたとも。2001年に本殿を焼失し、募金活動が行われています。
吉水神社
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
静御膳
元は吉水院という僧坊で、春は「一目千本」の桜で賑わう吉水神社。文禄 3年(1594)には、豊臣秀吉がここを本陣として 5千人を招いた花見会を開きました。文治元年(1185)、源義経と静御膳、弁慶は、この書院に 5日間潜伏したといわれ、義経たちは山伏に姿を変えて大峰山地へ逃れますが、女人禁制の掟のため泣く泣く静御膳と別れるのです。
延元元年(1336)、足利尊氏によって皇位を奪われた後醍醐天皇は、幽閉されていた京都の花山院を夜半に脱出し、三種の神器を携えて朝もやのなか輿に乗って吉野に向かいます。吉水院の宗信法印が僧兵 300人を従えて天皇を出迎え、10カ月ほど吉野朝廷(南朝)の皇居は、この部屋に置かれていました。その後、秀吉によって桃山式書院に改修されます。
金峯山寺は大塔宮護良親王と鎌倉幕府軍との戦場となりました。蔵王堂の前庭は傷ついた護良親王が最後の宴をひらいた場所で、忠臣村上義光が身代わりとなって自害する隙に、高野山へ落ち延びたといわれます。金峯山寺は今も大峯奥駈の拠点として、体験コースから女性向けコース、熊野本宮大社にいたる奥駈コースまで、様々なレベルの修行を行っています。
吉野川〜紀の川に沿って走る JR和歌山線の普通電車にのって、和歌山市に向かいます。かつて吉野と和歌山は吉野川、紀ノ川で結ばれ、熊野古道でも密接につながっていました。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
ブルーノ・タウトと世界遺産ジードルング
ブルーノ・タウトといえば 1933年 5月、来日した翌日に日本人建築家夫妻の案内で桂離宮を訪れ、「玄関の間、これに続く古書院控えの間、広縁、そこから張り出された月見台の竹縁、御庭!泣きたくなるほど美しい印象だ。」と翌日の日記に表しています。日本伝統建築の美しさや質の高さ、あるいは工芸や芸術について賞賛を惜しまず、日本美の再発見者として知られています。それでも日本滞在期間は約3年半でそれほど長くはありません。在日時のタウトを論じた本は沢山出版されていますが、それはタウトの死後、夫人がトルコから日本で書かれた日記などの資料を持参してくれた為と思われます。
タウトの場合、フランク・ロイド・ライトのように日本国内の実作が複数残っている訳ではないため、どのような建築を、どのような作風で設計したのか、知名度の割には知られていないのが現状です。ひとつだけ旧日向別邸「熱海の家」がありますが、和風
ブリッツ馬蹄形住宅団地。自然の池を中心にして、芝生を植えた中庭を円形に取り囲むように建てられている。
で彼の本領ではないと私は思っています。ですので私自身にもタウト作品のイメージは殆どありませんでした。しかし昨年秋にベルリンで幾つかのタウト建築に触れてみて、日本であまり彼の作品がもてはやされない理由の一部が理解できました。
建築家タウトの本領はどのようなものか、なぜ日本に来たのかなど、帰ってから少しづつ資料を読みました。1880年生まれのタウトは、1909年ベルリンで建築設計事務所を開業し、初期は表現主義の建築家として台頭します。1920年代の表現主義建築の実作には、エーリッヒ・メンデルスゾーンによるアインシュタイン塔(ドイツ)やイェンセン・クリントによるグルントヴィークス教会(デンマーク)などがありますが、ドイツは 1914年.1918年の第一次世界大戦で、とても払いきれないような巨額な賠償金を背負い困窮を極めていました。そのため建築の発注は限られ、表現主義建築は構想や設計段階で止まったものも多いそうです。その中でタウトはドイツ工作連盟ケルン展「ガラス・パヴィリオン」(1914年)や「アルプス建築」(1917年、数十枚のスケッチのみ)など、建築史上重要な作品を残しています。1920年代の前半、タウトはベルリンから120kmほど東のマクデブルグ市で役人として建築に携わりました。対戦国への賠償金支払いのため政府は無理矢理な工業化を推し進め、ベルリンなど大都市の工場に労働者が集中しました。当時の労働者住宅の
ファルケンベルク田園都市。
ファルケンベルク田園都市。
上空から見たブリッツ馬蹄形住宅団地。
環境は劣悪で、まるで監獄のようであったと言われています。その状況を知ったタウトは、高い社会意識を抱いて労働者の健康を守る住宅を設計しようと1924年にベルリンへ戻り、ベルリン住宅供給公社ゲハーグ(GEHAG)へ入所。主任建築家として活動を始めました。ここから日本に渡るまでの 9年間が最も多作な時期で、12,000戸もの労働者住宅を設計します。これらは「ジードルング」(ドイツ語で「集落」の意味。ワイマール共和国時代の集合住宅を指す)と呼ばれ、後にバウハウスを展開するワルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなども参加し、様々な新しい視点での集合住宅をドイツ各地に建設しました。
2008年には、6件のジードルングがユネスコ世界文化遺産「ベルリンのモダニズム集合住宅群」に登録され、そのうち以下の4件がブルーノ・タウトの設計です。① ファルケンベルクの田園都市(1913.1916)タウト32歳の作品で全129戸。一部はテラスハウス形式で、都市生活にも田園風景をとり入れようと庭園建築技師が加わっている。低層で作られ、壁や窓やドアの色彩が豊富で美しい。② シラー公園の住宅団地(1924.1930)③ ブリッツの大規模住宅団地(馬蹄形住宅団地、1925.1930)タウト45歳のときの最も著名な作品。963戸の広大な団地で、その中心に馬蹄形住宅がある。元々あった自然の池を中心に芝生が広がり、一部に植栽も。外側から中庭へ抜ける通路が数カ所あり周囲とのつながりを重視している。④ カール・レギーンの住宅都市(1928.1930)タウト 48歳の作品。1145戸の高密度団地で5階程度の建物が並ぶが、隣棟との間隔が広く圧迫感がない。中庭も広く各住戸からの眺めも良好なのでは。採光や通風にも配慮していてパッシブソーラー設計の走りではないかと思われる。世界文化遺産の登録に際しては、建築自体の評価は当然ですが、世界中の集合住宅に大きな影響を及ぼしている点も高く評価されました。日本でも代官山や原宿の同潤会アパート、公団住宅の計画などに影響を与えています。今回訪れたどの団地の入口にも、小さな碑が建てられていました。これらは住民がタウトに感謝の意を表す為に作られた顕彰碑(隠れた功績を明らかにすること)です。このように、住んでいる人から愛される建築家は日本では少ないと思います。
タウトはこれらの実績で社会主義建築家として著名になりましたが、同時にナチスに睨まれ始めます。工業力のついたドイツは国力を盛り返し、右翼ナチス党が国民の支持を得て1933年の選挙でヒトラーが首相に就任します。ナチス党が政権を掌握し、表現主義は退廃芸術として非合法化されてしまいました。この1933と
ブリッツ馬蹄形住宅団地の道路側。
カールレーギン住宅都市。
オンケルトムズヒュッテ団地のタウト顕彰碑。
いう年は、デッサウのバウハウスが閉校に追い込まれたり、タウトがナチスから逃れるためベルリンを出て、かねてから憧れていた日本へ向かうなど、不幸な時代の始まりとなってしまいました。タウトは日本に辿り着いたものの、当時の日独の関係から、建築設計や大学教授の仕事には恵まれませんでした。社会主義者扱いされて特高に見張られたり、ユダヤ人説を流されたりするなかで、日本が戦争へ向かっていく様子を憂いていたそうです。そんな時、トルコから大学教授として招聘され 1936年 10月に大好きな日本を離れました。しかし過労が原因で1938年12月にトルコで亡くなります。まだまだ力を残した 58歳でした。今思えば時代に翻弄された可哀想な建築家だったのではないでしょうか。
日本の建築デザイン界は造形主義、作品主義です。美術館や商業ビルなど個性的な形を持つものを建築ジャーナリズムは取り上げます。タウトの作品は色彩こそ個性的ですが、造形は暮らしやすさを重要視して設計されていますし、労働者向けの住戸が大半で、言ってみればフォトジェニックでは在りません。社会性が高く国の発展の為に大きな貢献をした彼の乾坤一擲の真価が評価される機会は少なく、日本の建築デザイン界ではタウトはほんの一部の人にしか理解されてないと現地を見て分かりました。これからはドイツ本国での実績が広く知られ、より高く評価されていくでしょう。 ■
中世が終わり近世が生まれた和歌山
織田信長や豊臣秀吉により中央集権化のすすむ戦国時代にあって、雑賀衆(さいかしゅう)や根来衆(ねごろしゅう)など、最後まで民衆や寺院による自治を貫いてきた紀州和歌山。
豊臣秀吉の命によって築城されたのち、紀伊徳川家の居城となった和歌山城。
太田城の水攻め
和歌山駅前にたつ太田左近の像。天正 13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めの際、太田衆を率いた太田左近は、雑賀衆や根来衆と共に和歌山市中心部の太田城(来迎寺付近)に籠城します。それに対し秀吉軍は大規模な提を築いて紀の川を堰き止め、3月末から 4月末まで、ひと月をかけた水攻めを行いました。力尽きた太田左近たち侍 53名は自害し、その他、籠城していた百姓たちは秀吉の朱印状により武装解除され、村にもどされました。これが秀吉による「刀狩り」のはじまりであり、農民や僧侶から武器を奪い、兵農分離した近世への足掛かりになったといわれます。
和歌山のものづくり
東京・銀座や大阪・心斎橋に収納家具ショップ「ギャラリー収納」を
大谷産業の「生活収納家具」展開する大谷産業の工業が、和歌山市北野の家具木工団地にあります。朝8時、工場の朝はラジオ体操から始まりました。
大谷産業の生活収納家具は「ギャラリー収納」での収納相談、設置場所の現地調査などをふまえ、収納のスペシャリストによって設計されています。工場の管理部ではショップから送られる図面をチェックし、工場生産のための部材データを専用ソフトを使って作成。ショップからの細かな指示も製造に反映していきます。
生活収納家具には 6つのシリーズがあり、表面の仕上げは数十種類あります。部材データに合わせ表面のシート貼りやエッジ加工を行ったのちに、NCルーターや専用機を使ってパネルを加工していきます。独自のノウハウによってパネルの反りを防止するなど、工場のスタッフがアイデアを出し合い、約 30年にわたり品質を高める工夫を続けてきました。
「生活収納家具」6つのシリーズ
Fシリーズ 30年近く愛されつづけるロングセラー。Sシリーズ 多彩な組み合わせが人気のオープン収納。Gシリーズ 厚い天板を使った重厚感のある家具シリーズ。
Vシリーズ 壁面いっぱいの本棚を実現する頑丈なオープン棚。Cシリーズ ウォークインクロゼットのためのキャスター付き収納。Bシリーズ コレクションを楽しく飾れるコンパクトな収納。
扉の加工や取り付けは、全て手作業で行われます。仕上げに応じてエッジの丸みを変えたり、縁取りと取手の位置を隙間なく揃えたりと、細部にわたり丁寧な仕事が求められます。一方、工場の一室では、新シリーズの開発が進んでいました。工場での試作を繰り返し、製品を練り上げていきます。部材データに従って作られたパネルに、スライドヒンジや高さ調整脚、木ダボなどを取り付けてから組み立てます。この工程で初めてボックスの姿を現します。
扉を取り付け位置を調整した後に、厳しく検品された家具は梱包されて東京や関西方面に出荷されます。現地への配
送や取り付けも、専門の業者が行っています。大谷産業の「ギャラリー収納」は、収納の相談〜設計〜製造〜納品〜
設置までを一貫し、ショップスタッフと工場の各担当者がコミュニケーションを取り合うことで、品質を高めてきました。「生活収納」は日本で生まれ、30年かけて沢山の人に育てられた家具であることが分かりました。
和歌山電鐵貴志川線の「いちご電車」(伊太祈曽駅にて)は、市民の募金活動から生まれた電車です。デザインは水戸岡鋭治さん(ドーンデザイン研究所)。五十猛命(いたけるのみこと)を御祭神とする伊太祁曽(いたきそ)神社。スサノオノミコトは体毛を抜いて様々な木をつくり、木の特性にあった使い方を定め、五十猛命が全国に播いて国土を青山にした後に紀伊国に鎮まったと「日本書紀」にはあります。
7世紀頃まで、紀伊国は「木国」と書かれていました。
紀の川は紀伊半島を横断する「中央構造線」にほぼ沿って流れています。流域の暮らしを描いた作品としては、有吉佐和子の「紀ノ川」が知られます。
紀州備長炭とハイテク協同組合 LATEST(ラテスト)
紀の川に沿った和歌山市小倉の木工団地内に、紀州備長炭を活かした技術開発を行う、協同組合ラテストがあります。
▲ 様々な製品に応用されている紀州備長炭。▲ 炭を練り込んだ繊維。
和歌山の名産品「紀州備長炭」は、紀州の山で採れる硬いウバメガシを主に使い、伝統的な炭焼窯で 10日間以上かけて焼かれます。紀州藩の時代から卓越した品質を誇り、遠赤外線効果の高さや不純物、臭気の少ないことから、一流の料理人や茶人に愛されてきました。現在は日高川町、みなべ町、田辺市など、紀南を中心に生産されていますが、原木の不足や、炭焼き職人の手不足などから生産量が減少し、他の産地の備長炭におされていることも確かです。紀州備長炭は、水や空気を清浄にする機能や脱臭効果なども高く、様々な分野に活かす試みが行われています。そのなかで、平成 3年に和歌山の異業種 5社(協業組合太成、三木理研工業㈱、㈱早田商店、㈲エーティコム、紀州繊維工業協同組合)によって設立された協同組合 LATEST(ラテスト)は、大量の繊維屑から炭を作る技術開発からスタートし、備長炭の機能を多様な製品に応用するための研究を進めています。ちなみに LATESTには「最新」、「時代の変化に対応」といった意味があり、「環境」、「健康」、「快適」、「安全」なものづくりを目指しているそうです。
▲ ラテスト理事長の中川和城さん(三木理研工業)。▼ラテストが活動をスタートした和歌山県工業技術センター。
ラテストでは炭の他にも、熊野のヒノキやスギから抽出したオイルや水を利用したアロマウォーターなど「自然の力で健康な生活」をテーマにした製品を開発しています。
独自の技術によって、金属並みの硬度をもつ紀州備長炭を粉砕したり、パウダーやペースト状に加工することで、脱臭剤や化粧品のマスカラ、歯ブラシ、炊飯器の釜、消臭繊維、食品用着色剤、樹脂との合成などの応用が可能になり、世界中のメーカーから注文を受けています。プロダクト製品に利用されることで備長炭の安定的な需要を創出し、ウバメガシの植林から炭の生産まで、後世に炭焼の技術と自然環境を継承していきたいと、ラテストの中川理事長は語ります。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記「戯れ言」
40
そうだ!
今から
年前だ。
才の時、デザインというコトバを知った?
なんとなくは知っていたが、ホントに知りたいと感じた。西尾忠久さんと植条則夫さんの本を読んだ。コピーライターへの入門書だった。当時、2人は有名なコピーライターの先生。そして2人は、オイラの通っている大学の大先輩でもあった。うれしくなって何度も読んだ。2人の著作の中の広告表現は、コピー中心に語られていたが、視覚的デザインも、ド真ん中にあった。
いい広告は、「いいコピー+いいデザイン+いい写真」だ、と思った。デザインについても、もっと知りたい、オイラのデザイン出発点だ。
あれから
年。
デザインの世界で生きてきた。デパート広告から始まって、ファッション広告、インテリア広告といった、グラフィックデザインの世界だった。
年前、初めてミラノ・サローネへ行った時は、
「デザインをジャンルで分けるべきじゃない」と教えられた。ウィンドウディスプレイもデザイン、テキスタイルデザインも、改装もデザイン、建築も、インテリアも、家具も、みんなデザイン。
「デザインは、みんなやった方が楽しい」って、
チニ・ボエリさんが言った。デザインって何だろう?
と、いきづまっていた
イラに、大きなヒントをくれた。
50
50
と思った。
才のオそれでオイラは、グラフィックデザインの制作プロダクションから家具屋になってしまった?
デザインのジャンルを乗り越えたかった。乗り越えたかどうかはワカラナイが、最近、何でも無手勝流にデザインをやってしまう自分が好きになってきた。デザイナーという職業は、「遊び人」だ。日々、遊びをする。どんどん遊ぶ。遊びから、おもしろいデザインが生まれる。なんていう、オイラのコトバは、山の中の仙人の「戯れ言」。
3月はジャワ工房暮らし。山の中のふじの工房から、東京へ、シンガポールへ、そしてジャワ工房へ。この1ケ月ずっと「デザインって何だろう?」なんてことを考えていた。4月に、とあるデザイン塾に出席する。昔からの仲間の若杉さんのデザイン塾。久しぶりに逢えるのが楽しみで、つい考えてしまうのだろうか?いいかげんにフラフラ生きるオイラの老春。青っぽく、アホっぽく、純粋に不純に、デザインを発信したい。
今年のとんでもない「これなんだ」のデザインは、「のびのび椅子」?心がのびのび。カラダがのびのび。ちっちゃくカタまった日本人の心とカラダを「のびのび」させるのだ。
根来寺と境内都市
長承元年(1132)高野山に開かれた大伝法院をルーツとする新義真言宗総本山「根来寺」は、覚鑁(かくばん)上人によって創建されました。20歳で高野山に登った覚鑁上人は、宗祖・空海の教義復興につとめ、大伝法院を創建。真言宗中興の祖ともいわれる一方、既存勢力の反発にあい根来へ移りました。
『懺悔の文』をはじめ多くの教義を記した覚鑁上人は康治 2年(1143)、49歳で没します。根来寺「奥の院」の御廟所は、拝殿の後ろに古墳のような築山をもうけた独特の構成です。
遺構からは紀の川で運ばれたと思われる沢山の中国製陶磁器も発掘されています。一方、根来塗の漆器は、全国の寺院や武家などに出荷されていました。
室町時代に隆盛をきわめた根来寺は、高度な教義を学ぼうと集まる学僧や、根来衆と呼ばれる行人(僧兵)など数万人を抱え、谷に沿った古道に石垣や排水路、井戸などを築いた中世最大規模の計画都市であったことが、30年にわたる発掘調査から明らかになりました。根来大工や「根来塗」の塗師、鍛冶工房などが密集した手工業の町でもあり、特に津田監物によって種子島からもたらされた鉄砲は商都「堺」よりも早く制作され、根来衆の鉄砲隊は織田信長を支援したこともありました。楽屋根来寺を象徴する「大塔」は天文 16年(1547)の建立で、高さ 40m幅 15m。真言宗の教義を表した日本最大の木造多宝塔として国宝に指定されています。外観は四角い塔ですが、内部には円筒形の内陣があり、大日如来を中心に諸仏が安置されています。根来の大工は各地にわたり、京都や日光、江戸の増上寺や江戸城、仙台の瑞巌寺などに名を残しました。天正 13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めによって、根来寺は大塔などを残し焼き尽くされます。商工業を掌握し、多くの武器をそなえた大寺院は、身分制度や税制、法律、警察権などの及ばない「無縁場」であり、主従関係や親族関係、国の支配から逃れられる一種の都市国家「境内都市」でした。根来寺の陥落と武装解除により、中世の寺社勢力に大きな変革が訪れたのです。
和歌山のものづくり
根来塗を未来へ
豊臣秀吉の紀州攻めにより途絶えた「根来寺根来塗」。400年ぶりにその技法を復活させ後世に伝えるプロジェクトが、根来寺に近い「岩出市民俗資料館」を拠点に進められています。池ノ上曙山さん作「根来寺椀」。
▲ 椿皿、▼ 椀(岩出市民俗資料館蔵)。
根来寺の周辺では、主に僧侶の使う御食器(おんじき)や折敷(おしき)、盆、鉢など実用本位の漆器が多く作られ、黒漆の上に塗られた朱漆が永年の使用ですり減っていくさまが茶人や数寄者に愛されてきました。しかし天正 13年(1585)、根来寺は秀吉軍に攻められ漆職人は四散。寺院や膨大な漆器類、古文書が消失したため 400年以上にわたり、根来寺での漆器の制作は絶えていました。根来塗研究の第一人者・河田貞さんに師事し修業を積んだ池ノ上曙山さんは、遺物の研究成果にもとづき当時の根来塗を復活。初代「根来寺根来塗師」として根来寺に認められました。
▼ 受講生の皆さんが作品展の準備中でした。作品展は、4月10日までの開催。
池ノ上曙山さんは岩出市と協力し、人材の育成に力を入れてきました。岩出市民俗資料館で根来塗の市民講座(3年制)をひらき、26工程をかける根来塗の技法を広く伝えています。「根来塗は下地が大切です。下地が丈夫だからこそ漆が剥離せず、朱漆が摺れるまで使い込めるのです」と池ノ上さん。見た目では分からない、根来塗本来の意義を教えています。根来塗の職人は全国へわたり、江戸時代に繁栄した近代漆器のルーツになったともいわれます。松江那津子さん作「眉間寺三ツ椀」、「角切折敷」。松江さんは LEXUS NEW TAKUMI PROJECT2016の和歌山の匠に選ばれ、仁坂和歌山県知事にもこの作品をプレゼンテーションしました。朱漆の刷毛目を残した独特な仕上げに、知事も関心を寄せたそうです。
ドラゴンシリーズ 34いい匂いのする思い出。吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンへの道編
全身が牛のウンコまみれのまま、倒れるようにベッドに横た
わり、死んだように朝の3時まで眠る日々が続いた。夜 時まで仕事して、朝の3時まで体も心も芯まで疲れきって眠る時間はあっと言う間の時間だった。目が覚めると重い体を無理矢理起こして、屋根裏部屋の真っ暗な闇の中を手探りで階段を下りると、そのまま真っすぐに勝手口である裏口に向かい、そこから傾斜の強い坂道を下ると200頭の牛が待つ牛舎に辿り着くのだ。牛
K-Swiss
のウンコ付きのシャツとジーンズ、そして
30
ウンコがカチカチに固まって、体を動かす度にボロボロと地面にこぼれ落ちた。牛舎の重くて大きな扉を開けると、そこには左右に200頭の牛の顔が並んで牛達の瞳が僕を一斉に見つめる。牛にも一頭、一頭に個性があり、性格も違う、牛はとっても優しい性格をしていて、大きな潤んだ瞳で見つめられると、早く牧草を食べさせてあげたい気持ちになる。牛舎の扉を開け広げると一斉に大きな声を上げて『モ..モ..』と言う鳴き声が大きな牛舎の中に響き渡る。それから僕は大型の使い込まれた古いトラクターを運転して黒い森に広がる傾斜地の草原の牧草地に新鮮な牧草を刈り取る為に、エンジンキーを右に回してトラクターの重い『ドッドッドッドッ ……』と言うエンジン音を響かせながら牧草を刈り取りに出て、 分程で200頭分の新鮮な刈り取り、牧草をラストワーゲンに乗せて牛舎に戻ってくる。200頭の牛達は僕の帰りを待ちわびて、今度は少し優しい鳴き声で僕を迎えてくれた。
その牛一頭一頭に名前を付けた。僕だけが付けた名前ではない。みんなが呼ぶ名前を憶えて、新入りには僕も名前を付けた。ラストワーゲンから牧草を牛舎の中に下ろして、一頭一頭に牧草の山からガーベルで山盛りの草を与えて行く。牛は待ちわびた新鮮な牧草を口の中でモグモグ咀嚼しながら美味しそうに食べて続けている。酪農家の牛は美味しい牛乳を出してくれるように、トウモロコシなどの穀物も新鮮な牧草と一緒に与える。冬になる前にホイと呼ばれる干し草を冬場の牛の食料として確保する為に、夏から秋にかけて草原に出てはトラクターで干し草を刈り取り、牧草を草原で乾燥させた後は、ブロック状の干し草の
のシューズは、
塊を作り、ラストワーゲンで収穫する。冬になるとホイシュトックと言う保
21
管場所から干し草を取り出して、毎日牛達に与えるのが冬場の牛達の食料となるのだ。2
22
毎日の日課は牧草を牛達に与えた後に、朝の乳搾りをする。乳搾りは一日に朝夕の 回する。そうすることで一定の濃度の新鮮な牛乳を得ることができるのだが、その2回の乳搾りは365日間、1回も休むことはできないのだ。だから酪農家は旅行に行くことが出来ないし、ほとんどのドイツの酪農家は重労働の為に短命であった。乳搾りは牛のお腹やお尻、おっぱいを素手で水をかけてきれいに洗い流す。また、牛乳をしぼる為に、バキュームのある場所まで牛を誘導する時には、牛と格闘しながらドロドロのウンコの海の中をもがきながら誘導するのだが、時々、機嫌の悪い牛は思い切って蹴りを入れてくる。牛に蹴飛ばされたり、踏みつけられたりすると当然痛いし、時には骨折もする。それくらい酪農家の仕事は大変なことなのだった。
随分とマイスターの Andreas Iseleと言う若者の主人には怒られたものだ。お父さんの Benedikt Iseleは、いつも僕に優しくしてくれた。時々、雨が降ると当時のアメリカの大統領がレーガンだったので、ドイツ語の雨と言うレーゲンに掛けて親父ギャグを言ってくれた。優しい Benedikt Iseleさんもその後に 60代で亡くなったと聞いた。
歳から 歳までの1年間、南ドイツの黒
い森のスイスとの国境に近い、 Uhringen -
Brikendolfと言う町の Berau地区にある Isele家という農家に文化研修生と
してお世話になりました。今でもその時のことを思い出すと、胸を締付ける
感情がこみ上げてきます。農家での仕事の合間に黒い森に囲まれた牧草地で
寝そべって空を見上げた時の新緑の唐檜の森の中にポッカリと空いた深く濁
りの無い青い空の景色は、今でも僕の心の原風景となっています。
その青い空に一本のシャープな真っ白なラインを引っ張ってゆく飛行機を見る度に、この飛行機は何処に向かっているのだろう ……もしかすると日本の空に向かっているのだろうかと空想を描いて、何故だか日本の家族や友人達のことがとっても大切な存在だったことに気付いたことを思い出します。僕の中で黒い森の空の景色は、一生の心象となっています。若かりし頃の色々な思い出はありますが、当時の Berau地区は黒い森の中で酪農やジャガイモ農園を営む農家、黒い森のドイツ唐檜を糧とする林業を営む林業家が住民のほとんどであり、その人達は神聖なカトリック教徒でした。二度と繰り返すことの無い、僕の大切な宝物の時間でした。
TIME & STYLE Amsterdam Open
3月 23日、オランダ・アムステルダムに、TIME & STYLEの新店舗がオープンしました。建物は1888年にたてられ、一昨年まで警察署として親しまれた運河に面した重厚なレンガ造(市の歴史保護建造物)。天にそびえる時計台は、今日も時の鐘を告げています。 オープンニングパーティには、沢山のアムステルダム市民が訪れました。よく知られた歴史建築に日本のショップが出店したとあり、市民の注目度も高いようです。TIME & STYLEの提案する日本のホスピタリティ空間が、これからどのように受け入れられていくか、楽しみです。
雑賀衆(さいかしゅう)
和歌山市の中心部から南へ 6kmほど離れた「雑賀崎」から和歌山港を望みます。遠くに見える製鉄所の高炉は新日鐵住金。かつて和歌山市は住友金属の企業城下町ともいわれ、最盛期は 3万人もの市民が働いていました。港を出たフェリーは、四国・徳島へと向かいます。かつて雑賀荘と呼ばれた雑賀崎の漁港。雑賀衆は、和歌山市から海南市の一部を100年以上治めた「惣国」のひとつでした。惣国は一種の共同体で、戦国時代のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、熊野三山、高野山、根来衆、雑賀衆などをあげ「大いなる共和国的存在」と記録しています。織田信長や豊臣秀吉など大名の領国に対して、領主を持たない国だったのです。雑賀衆は日頃は農業、漁業、鍛冶、商業、海運に携わりながら最新の鉄砲をあやつり傭兵としても活動。熊野水軍の流れをくむ水軍も保有し、海外貿易も行っていました。全国統一を目指す織田信長や豊臣秀吉にとって、惣国や寺社勢力は邪魔な存在でした。織田信長が一向宗弾圧のため大阪の石山本願寺を攻撃すると、雑賀衆は鉄砲隊を派遣して織田軍に大被害を与えます。その力を削ぐため、信長は大軍をもって雑賀へ侵攻しますが、雑賀衆の鉄砲とゲリラ戦術に阻まれ制圧には至らず、一時は和睦を結ぶことになりました。
ギリシャを思わせる雑賀崎の家並み。
海南市の火力発電と和歌山マリーナシティ。
清酒「世界一統」
和歌山城に近い蔵元「世界一統」は、徳川吉宗のひらいた紀州藩藩校「学習館」の跡地に立ちます。和歌山を代表する「知の巨人」南方熊楠(みなかたくまぐす)の父・南方弥右衛門が明治17年に創業し、熊楠の弟・南方常楠に継承されました。「世界一統」という社名は、常楠が師事した大隈重信により名付けられたものです。
南方シリーズを醸造している若き杜氏さん。
南方常楠は兄・熊楠の海外留学や帰国後の研究生活を終生にわたり支えました。今年は南方熊楠の生誕 150周年を記念して、和歌山県産山田錦・和歌山酵母・紀の川の伏流水、そして作り手も和歌山と、オール和歌山で仕上げた生誕 150年記念酒「南方」(1000本限定)を発表。ラベルには、熊楠が研究していたミドリスギダケが描かれています。世界一統が見える堀の対岸に、南方熊楠の生誕地を記念した胸像が立っています。次号は熊楠の足跡をたどり、和歌山市から広村、田辺、白浜へと南下します。