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時空を超える美意識
10月号 神ノ月 2017
http://collaj.jp/
琵琶湖ぐるるん 近江八幡編
信長の愛した伊吹山。
信長の居城だった岐阜城(岐阜市・金華山)。
岐阜城を拠点として、琵琶湖の東を京都へと突き進んだ織田信長。「天下布武」を宣言した信長の道筋をたどり、琵琶湖 湖東の町、豊郷や五個荘、近江八幡を訪ねました。
米原から京都まで、琵琶湖の東を通る中山道。番場〜鳥居本〜高宮〜愛知川〜武佐と、多くの宿場町が往時の面影をのこしています。鳥居本宿(彦根市)は、織田信長が近江の拠点とし佐和山城や開削工事を行った擂鉢(すりはり)峠に近く、朝鮮人街道と中山道の合流点として賑わいました。名産は旅人に欠かせない、柿渋と油を紙に塗った赤い合羽でした。
鳥居本の本陣跡に、近江八幡で活躍した建築家ウィリアム・メリル・ヴォーリズの設計と伝わる住宅があります(昭和 10年頃)。街道の町家にあわせ「虫籠窓(むしこまど)」を設けながら、暖炉の煙突を立てた和洋折衷です。
町家を利用したデイサービス。
高宮宿は室町時代からの麻織物の産地で、江戸時代には高宮上布(上質な麻布)が織られました。
中山道の両脇には、旅人を日差しから守るマツなどの木々が植えられました。織田信長は商工業を発展させるため、街道の整備と治安維持に力を入れたと伝えられています。
メサゴ・メッセフランクフルト
まちてん実行委員会
第1信川津陽子
ヨーコのまちてん旅日記
お借りして、わたしなりに感じる「まちの魅力やま
飛騨・高山
ちの元気」をお伝えしていきたいと思います。
9月初旬の岐阜県・高山市。
今号より連載をはじめる川津陽子です。
「飛騨の家具フェスティバル」に行ってきました。
簡単に自己紹介させていただきます。国際見本市の
なんだかんだと 6回目となる高山訪問でしたが、お
主催会社に入社後、海外見本市やインテリア・デザ
招きいただいた懇親会の席でのお話。
インの見本市などを担当してきましたが、7月より
懇親会の開始当初、それとなく腰掛けた 4人掛けの
地方創生をテーマとした『まちてん』というイベン
テーブルで、匠館のイタリア料理を堪能し歓談を楽
トを担当することになりました。これまでもモノづ
しんでいました。宴もたけなわの後半に差し掛かる
くりを中心に各産地の魅力に触れる機会はありまし
頃、飛騨木工連合会の岡田贊三前理事長(飛騨産
たが、より深く全国各地の特性や取り組みを知れば
業株式会社代表取締役社長)の音頭のもと、地元
知るほど、目から鱗。同時に日本人としての自分の
の家具メーカーのみなさんが一斉に唄を披露くださ
未熟さを痛感する毎日です。
いました。
地方創生 ……壮大なテーマですが、折角の機会を
歌詞さえ理解できないものの、突然のサプライズに
▲ 飛騨の家具フェスティバル会場
驚きと感動で思わず終始、目を丸くしたまま聞き入ってしまいました。
地元の方々にお話を伺ったところ、「めでた(目出度)」と呼ばれる祝い唄で、この飛騨地方には昔からお祝いの席や宴会の場では、必ずこの「めでた」を全員で唄うそうな。通常は会の年長者や主賓が指名されて出だしを唄い、それを引き継いで同席する全員が声を合わせて唄うのだそうです。東京に戻ってからも気になり調べてみましたが、この祝い唄は、昔木材を溜めていた「みなと」と呼ばれた場所で労働者たちが酒を酌み交わす時に唄われたもので、当時は「みなと」と呼ばれており、後に、金森家 2代目城主可重(ありしげ)の下屋敷である陣屋が完成した際、この「みなと」を棟梁が披露し、以来「めでた」と名前がつき今なお伝承され続けているとのこと。この歌詞自体は日本各地で見られますが、節まわりは他に類がなく、2分 30秒ほどかけて唄うのは飛騨独特のもののようです。宴のはじまりの乾杯後、この「めでた」の唱和が終わ
▲乗鞍スカイラインの景色
るまで、誰一人、席を立つことは許されず、「めでた」のあとは無礼講となり席を立ち、お互い酒を注ぎあう、即ち宴会の本番開始となります。目の前の人たちとじっくり語らい、作り手に感謝し食事を堪能する時間。やや?ハメを外して酒を酌み交わす、ある意味更にコミュニケーションが深まる濃い時間。
飛騨地方に伝承されるこの風習にはいろいろ納得です。自身も含め、お酒ともっと上手に付き合いたい人たちにとっても見習うべき風習かもしれません。日本の「まち」には新たな発見や感動が無限に存在します。
(余談)9月の高山は日中でも日陰に入ると涼しい、心地よい陽気。古い町並みを歩いていると沢山の朝顔が出迎えてくれました。塵ひとつない閑静な佇まいの町家の軒先に、控えめに、しかし凛と咲く朝顔を通じて、「まち」全体からのおもてなしを感じ嬉しくなりました。
古くから交通の要衝として発達した豊郷町は、伊藤忠商事や丸紅の創業者・初代 伊藤忠兵衛や、江戸中期から北海道の漁場に進出した初代 藤野喜兵衛など、優れた近江商人の故郷として知られます。中山道の高宮宿を過ぎて豊郷町に入ると、のどかな田園風景のなか忽然と輝くモダンな校舎が現れます。
昭和 12年の竣工当時、東洋一ともいわれた校舎は、丸紅の専務をつとめた古川鐵治郎によって立てられました。
「国運の進展は国民教育の振興にある」と考えた古川は、私財の 3分の 2に相当する 60万円(当時の数十億円)を寄贈したといわれています。設計は近江八幡を拠点としたヴォーリズ建築事務所、施工は竹中工務店が担当しました。
明治 11年、豊郷町に生まれた古川鐵治郎は、11歳のとき大阪で繊維を扱う伯父・伊藤忠兵衛に預けられ「泊雲塾」で 2年ほど英語や簿記を学び伊藤本店に入店。若き支配人をつとめます。その後、丸紅の専務となった鐵治郎は経営の近代化に成功し社長就任を懇願されますが、それを固辞。社長は伊藤家が務めるべきという信念を貫きました。階段の手すりには、学校のシンボルともなったウサギとカメがいます。旧中山道に面した校地の広さは約 12,000坪、前庭には実習農地、中央に本館、その両翼に講堂と酬徳記念図書館を配置していました。他に体育館、運動場、球技コート、プールを備え、教室 15室、理科室、音楽室など特別教室 6室、のべ床面積は校舎約1,054坪、講堂 207坪、図書館187坪。トイレは一部水洗、スチームのセントラル暖房、内線電話まで完備していました。図書館や講堂は周辺住民にも利用され、コミュニティセンター的な役割も果たしていたようです。旧校舎は「けいおん !」の舞台といわれ、聖地巡礼の地として沢山のファンが訪れています。2011年からは「とよさと軽音楽甲子園」が開催され、全国の高校生バンドが集合します。1999年には、一時解体の危機に見舞われますが、町民による反対運動は大きく報道されました。2008年には大規模改修も行われ、交流拠点として活用されています。豊郷小学校建設のきっかけとなったのは、昭和 3年、弟の義三に同行した海外視察です。7カ月かけて欧米を旅する中で鐵治郎の心をとらえたのは、鉄道王スタンフォードが早世した一人息子を偲び、巨額の寄付を投じて設立したスタンフォード大学でした。廊下の幅は約 3mとゆったりしています。連続する窓から自然光が入り、照明がなくても充分な明るさを確保。天井の梁を連続させた構造も特徴的です。正面右手に配置された「講堂」。床全体に傾斜をつけ、舞台を見やすいよう工夫していました。背の高い窓からは自然光がよく入り、照明をつけなくても明るさが保たれています。窓の下にはスチーム暖房の吹き出し口があり、冷気を防いでいます。
講堂の設計に先立ち、ヴォーリズ設計による神戸女学院講堂を視察した記録が残されています。
正面左手に配置された「酬徳記念図書館」はカフェとして活用されています。内部は大きな吹き抜け空間で、2階バルコニーを備えています。12,000冊の蔵書をもち、手すりの金属レリーフも重厚なもので、周辺住民の利用も想定したと思われます。古川鐵治郎は建設資金を寄贈するだけでなく、地主に敷地の確保を頼んだり、設備の値引交渉をしたり、ヴォーリズ建築事務所の所員と電話線追加工事費の支払いやプールの不具合、竣工後のメンテナンスについて手紙を交わしたりと、まるで建主のような心配りをしていたことが、当時の資料から明らかになっています。鐵治郎の学校建設にかけた情熱が伝わってきます。▲ 校舎の前庭には、かつて「実習農園」があり、子どもたちが野菜づくりを学びました。
ドラゴンシリーズ 40
ドラゴンへの道編 吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ギリギリの話。
まずは、はじめに言っておきたいが、今日の日本のクソ政治は日本国民の民意と品格をそのまま反映していると言うことだ。日本の今の政治の腐った状況は自由も希望もなく、私たち一人一人、国民の責任である。日本然り、アジア周辺諸国や同盟国、世界中の国々がおかしな状況になって来た。
経験が偏り、人間的に未熟で面の皮と自己顕示欲と名誉欲だけの厚かましい欺瞞だらけの政治が台頭して来て久しい。その筆頭が我が国の首相と政治家だ。個人や特定企業への便宜を図りながら、国会の質疑ではボケて逃げまくり、挙げ句の果ては保身のための解散総選挙と、真実が見透かされた喜劇を見ているようで、国民はオチのない悲劇に泣くしかないような結末だ。しかし、この欺瞞に満ちた政治をほとんどの国民が支持し、国政の半分以上の議席を確保している政治、それがこの国の本当の姿だ。
昔から言われているが
「その国の政治はその国民を反映する」と、それが真実なのだろう。日本が唯一、世界に誇ることができる憲法第 9条に自衛隊を明記して世界に正義面しようとしてみても、アメリカのアホな大統領が喜ぶだけで大半の国々、特にアジア諸国からは無意味な嫌悪が増長されるだけ。他国を挑発して戦争への道を作ることに繋がることが、政治家にも国民にも理解できないようだ。自分の国を自分達で守ると言うような幼稚な論理で世界や日本の政治も動いているが、戦いは防御であろうが憎しみしか生み出さない。どちらが先にせよ手を出したら、それが戦いの始まりである。戦争は無意味な死と悲しみと憎しみだけしか生み出さない。明白な戦いの現実は武器は持たぬが勝ちなのだ。
そんなことは、私のようなバカでもわかる。
私は政治について何も語るつもりも必要もないのだが、世界の平和、これからの時間、時代について、未来について我々はもっと考えるべきであるし、もっと自分達が行っていることや未来に望みを持って生きてゆくべきでは無いだろうか。我々が今の時代に享受している幸福な時間の存在は、父や母、祖父や祖母が子供達や未来の為に、わずかな布石を積みながら地道に生きて来たからである。どのようにして今の平和な時間が存在するのか、私達は今の幸福な時に生きていることの意味をもっと認識するべきだ。
人生は自ら切り開いてゆくもの。それは、どんな環境であっても、どんな境遇でも、自分が変わる為に考え、一歩でも前に進むことは全ての人に通ずるのではないか。自分の人生は一度しかない、人は生まれたら必ず死ぬ。この事実はどれだけ時間が経っても医学や科学が進化しても命は一度であり、時は永遠に繰り返すことはない。
その人間の短い限られた人生も瞬間瞬間の積み重ねであり、人間としての日々の積み重ねの上に成り立っている。短い人生であるが故にその瞬間瞬間が綿々と繋がって時間の意味を創ってゆくことで一本の道を切り開いてゆくことができる。私達の生命は私自身だけで切り開いて来たものではない。そこには長い時間と多くの人々によって繋いできた時間の蓄積で出来ている。
人は前後 2世代づつしか記憶に残らないように設計されていて、私の知らない祖祖父、その人に直接会うことはできなかったが、多分、父や祖父のような人間だったのだろうと想像するし、その祖祖父の人柄や望みを受け継いでいるのかもしれない。しかし、たった 3世代前の自分のルーツでさえも充分に知るができないように、私たちの人生も自分の両親や子供達との短い繋がりの中で成り立っていることをしっかりと認識し、両親から受け継ぐべきこと、そして子供達に伝えてゆくこと、そして、自分自身がちゃんと自分の足でしっかりと考えて、前に進むことが私たちの未来や暮らしへの私たちの担っている責任なのだ。越えられない山は存在しない、
アホな自分はそう信じて挑戦するしかない。
人は自分には甘いようにできているらしい。いつも自分は正しい、自分の考えは正しい、世の中が間違っていると思っている人間が多い。しかし、正しい答えは国を越えれば違う常識があり、どこにも全てに通じる本当の正しい答えは存在していない。しかし、私達は永遠に恒久的な視点で、本当の正しい答えを探し続けなければなくてはならない。
現代の社会は時間の経過以上のスピード感で変化し続けているようだが、これまで適応してきた常識では生きて行けないような世の中へと変化している。自分達の経験値だけでは世界の多様な価値観や変化に追いついてゆくことはできない。しかし、自分達の価値を定義しながらも、他人の価値観を受け入れる柔軟で前向きな心をもった創造性に挑戦することによって、自分たちの文脈を後世に受け繋いでゆくことができるかもしれない。それが自分で挑戦し、経験し、創造することの意味であり、意義であると思う。意味のない経験は存在しないと思うが、生きるのならば未来に繋がる真実の創造に挑戦したいと思う。
挑戦することは自分から逃げることを許さない。自らが望んで進んだ道であれば誰にも言い訳ができない。挑戦しなければ、自分自身さえも知ることができないし、どこまで行けるのかを知ることもできない。どんな挑戦でも良いと思う。挑戦することで何とか自分の存在を自分で認識することができる。そして、自分の本当の存在の意味や実力を知ることに繋がり、そして、その先に進んでゆくことができる。たぶん ……
少しでも物事が上手く進んだり、事業で利益が出たり、著名になったりすると私たち人間は、未熟なほど有頂天になり、自分の愚かさが見えなくなり、傲慢な人間へと変貌してしまう。自分が自分の堕落に気づけるように、未熟さを実感しながら自分の生きている瞬間を感じられるように、挑戦を続けて、失敗を繰り返してゆくのが私たちが与えられた人生というもう一つの側面なのではないだろうか。冒険には大きな岩の崖が切り立っていて、逃げ場のない瞬間に自分自身と向き合わなければならない。 ■
近江商人の町として知られる「五個荘(ごかしょう)」。すげ笠に天秤棒を担ぐ旅人の姿は、近江商人のルーツを表しています。五個荘を代表する近江商人のひとり、4代目・藤井彦四郎は、文化 12年(1815)に布屋の屋号で独立した商家をルーツにもち、彦四郎は明治 9年(1876)、3代目善助の次男として生まれました。4代目善介となった兄を助けて呉服商藤井西陣店を経営し、善助の政界進出とともに社長に就任。スキー毛糸で知られた藤井株式会社の基礎を築きました。
昭和 8年に増築した「客殿」は釘を使わない総ヒノキづくり。兄・善助の関係で政治家の揮毫を掲げています。
藤井彦四郎は「日本の化学繊維のパイオニア」といわれ、レーヨン(人絹)をいち早く輸入したことで知られます。明治 22年、海外の新聞からフランスで人絹が発明されたことを知った彦四郎は、フランス、ドイツからさっそく見本を取り寄せ「人造絹糸」と名付け、京都西陣の業者などに売り込みます。当初は品質に問題がありましたが次第に輸入量も増え、帝人などによる国産化につながりました。国産レーヨンが普及すると、彦四郎は羊毛の毛糸に重点を移し「スキー毛糸」を成功させました。近江商人には「お助け普請」という習慣があり、飢饉や不景気なときに、自ら出資して寺社などの普請を行い、地域経済の活性化をはかりました。この客殿も、昭和恐慌の直後に建設されていることから「お助け普請」のひとつと考えられています。琵琶湖を模したダイナミックな池泉回遊式の庭園。池には瀬田の唐橋がかかっています。
藤井彦四郎邸をユニークな存在にしているは、昭和 9年に立てられた洋館です。欧州視察の際、彦四郎はスイスで見た山荘を気に入り、外観は丸太を張ってログハウス風に仕上げています。
内部は本格的な山荘のつくりで、壁には高い木の腰壁を張って、天井板も杢目を強調しています。どっしりとしたダイニングテーブルや椅子などは、ヨーロッパから輸入されたものでしょうか。この部屋は地域の寄り合いにも使われたようです。明治の初めに立てられた母屋は、客殿にくらべとても質素です。右は明治のはじめに撮影された近江商人の姿。すげ笠に道中がっぱ、天秤棒を担いでいます。行李には麻布や椀などの見本品や商品カタログ、注文や売上を記した帳面などを入れ、商品は別の業者が運んでいました。行李は前後あわせて11〜 14kgといわれます。
家族だけでなく奉公人の食事もまかなった大きな台所。近江商人の矜持である「しまつしてきばる」は家事にも活かされ、普段は米と味噌汁、漬物だけですませ、ハレの日には豪華な食事で客をもてなしました。たとえ商売で成功しても、一粒の米、1本の糸を無駄にしない精神が、近江商人の妻には求められたのです。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
ふじのフェルト展
フェルトに出逢ったのは、去年の秋。ふじの名物のひとつ「サニーサイド」の会場だった。
「フェルト」って、名前は知ってるけど、ちゃんと作られたフェルトは初めて見た。というより、初めて触れた。やさしい手触り、あったかい質感にあふれていた。オイラは、手触りと質感が大好きである。
「椅子の張り地」にどうだろうか?と、考えてしまった。フェルトは、羊毛などを縮絨(しゅくじゅう)と
称して、たたいて、のばして、毛をからめて一枚の布状にしたものだ。モンゴルのゲルのテントにも使われているという。紀元前から存在する。布の原点のような布?かつて、着物地や帯地を椅子に張ったことがある。限定品として展示するうちになくなってしまった。
日本では、正倉院にあるものが毛氈(もうせん)。最古のフェルトと言われている。お茶席の緋毛氈は、日本のカーペットのようなフ
ェルトだ。
「知っているようで、知らないモノ」に、出逢うとうれしくなる。ふじのフェルトの「メリーの5人」に椅子の座に合ったフェルトを自由なデザインで作っていただいた。5人5様の出来上がりを、それぞれに合った椅子に張る。
「あったかで、やさしい質感」が、 B C
工房の椅子たちに、ぴったりだ。
一脚ずつ一枚ずつのフェルトは、今までの張り地にはない味がある。
草原の風?大地の香り?人類の文化?とんでもない驚きの一脚が生まれた。ふじのリビングアートギャラリーまで、来て、見て、触れて、座ってください。
[ふじのフェルト展] メリーの5人 + BC工房10月28日(土).12月24日(日)
ふじのリビングアートギャラリー神奈川県相模原市緑区牧野4707 TEL.042-689-3755
五個荘の中心部「金堂」は、聖徳太子伝説の残る歴史ある地域です。明治13年には、3分の1にあたる67戸が繊維製品を扱う商家で、県外に出店をもつ家も多かったようです。
金堂では、作家・外村繁の生家や中江準五郎邸、外村宇兵衛邸が、五個荘近江商人屋敷として公開されています。
近江商人には、五個荘など中山道沿いの「湖東商人」、近江八幡の「八幡商人」、日野地方の「日野商人」、琵琶湖西側の「高島商人」がいて、例えば湖東商人は麻布、日野商人は木椀といった得意分野がありました。ただし近江商人は「持ち下り商い」といわれる独自の商法を展開しました。これは、まず地元の商品を他国で売り、それを元手に別の商品を仕入れ、また別の国で売りを繰り返して全国をめぐるもので、情報収集をしながら機敏に仕入れ品を決めました。若き商人は天秤棒を担ぎ街道を歩きながら、各地の名産品や売れ筋を体得したのです。
近江名物といえば「近江牛」。近江八幡駅前のホテルニューオウミ「鉄板焼伊ぶき」では、厚さ 3cmの鉄板で近江牛を焼いています。肉のように赤いコンニャクは、派手好きの信長が染めさせたともいわれます。
石巻 日和山から見たマンガ館(マンガッタン)。
つれづれなるままに東北大震災 6年半の今を訪ねて
9月半ば過ぎ、震災から 6年半経った石巻、女川、南三陸、名取を訪ねた。震災直後に現地の人の車で案内してもらった場所である。つい先ほどまで人の気配が残っていたであろう住宅街が一面押し流され、新築の家のカーテンが揺れていた光景を忘れることができない。赤ん坊を抱え、押しつぶされた家の中で探し物をしている若夫婦の姿も目に残っている。特別許可書を持った車しか入れない時だったが、工事用ヘルメットをかぶって、崩れ落ちた堤防を歩き海を見た。海から随分と離れた住宅街だったが、津波が残した惨状に言葉はなかった。
あれから 6年半、その時一緒に行った仲間 4人と仙台駅に集合した。駅の土産売り場では、牛タン、笹かま、地酒が並び、出張帰りのサラリーマンが足を止めている。視察というのはおこがましい、見学とするにはいささか無責任かも、旅行でもなし、なんとつけるかこの旅は、などと他愛もないことを言いながら、レンタカーに乗る。
まず初めは、石巻の日和山。幾度となく訪れているが景色はあまり変わらない。ように見える。天気がよく空は澄み渡っている。海はどこまでも青い。ずーっと目を凝らすと、護岸工事が随分と進んでいる。押しつぶされた家々はすっかり取り除かれている。大きな病院はなくなっていたが、マンガ館は今もしっかりと建っている。境内には震災時の日和山に登って来た人たちと、津波が押し寄せる様を写した写真が貼ってある。
眼下に住宅があり、人々の暮らしがあったことは、この写真でしか知ることができない。
火事で焼けた門脇小学校は覆いをかぶったままだったが、新しい道路が造られ、「がんばろう !石巻」の看板があった場所は入ることができない。道路はずっと内側を走るように造られ、海を望むことはできない。階高の綺麗な復興集合住宅が並び、ショベルカーが護岸を造り、長く新しい道路が続いているが、市街地はまだ震災時の壊れたままの家もあり、シャッターが閉まったままの店も多い。
駅前を一周りして女川へ。長いこと鉄道が通らずなかなか来ることができなかったが、 2014年6月、米国取引先の役員 6名を案内した。高台にある病院の柱に記された津波の高さは、同行した身長 195cmの彼の背丈を超えていた。震災 3年以上経っていたが、横倒しになっていた 4階建てのビルはそのまま。復興が容易ではないことを目の当たりにし
つれづれなるままに東北大震災 6年半の今を訪ねて
た。あれから 年、鉄道が通り、女川駅と周辺には様々な施設が建ち、建築雑誌にも紹介された。多くの人が行き交う復興の様子は華々しくテレビでも報道され、もう一度訪ねてみたいと思っていた。さすがに横倒しになっていたビルはなくなり、地面は平らになり、病院へ入る道路も新しくなっていた。女川駅はこじんまりと綺麗である。駅前に並ぶ各施設や建物
3
も雰囲気はいい。が、なぜか違和感がある。ここにくらす人の顔や様子が何も見えないのである。どこかのロケ地にでも
いったかのような錯覚に陥る。復興とは何か ……
がら、言葉が見つからず重い。
この後、少し遅くなったが、大川小学校へと向かう。悠々と流れる北上川、稲穂が黄金色に染まり、美しい東北の風景が続く。大川小学校は私以外は初めてである。ここではいつも言葉がない。みな同じである。この場所に多くの子供たちがなすすべもなく、恐怖と不安一杯に立ちつくしていたと思うと、手を
改めて考えさせられる。
被災地に住まない者がやおらいうことはできないと思いな
合わすことしかできない。夕暮れに包まれた校舎と献花台。手を合わせる人が何人かきていた。
この後南三陸にある海沿いのホテルまで走ることになるが、すっかり日も暮れ道路もよく見えない。灯りとなる車もない。海沿いといっても海が見えるのはほんの少し、ほとんどがクネクネと曲がった細い山道。ナビだけが頼り。ようやくホテルの灯が見えた時は、緊張の糸が切れかかっていた。お風呂に入ったら動けなくなると、すぐに食事の用意をしてもらった。ビールとほんの少し地酒をいただいたが、宴会気分ではない。確かにこれは旅行ではない。今回の旅は「研修会」とするのがいいかもしれないと思いながら、部屋でシャワーを
浴びてバタンキュー。
女川 横倒しだったビルは撤去されていた。
(次号につづく)
▲ 130年の伝統をついだ4代目・川端利幸さん。
琵琶湖に流れ込む河川沿いには多くの竹林があり、古くから竹製品の製造が盛んでした。明治 20年(1887)創業、近江八幡の竹松商店は「八幡丸竹工芸」の伝統をうけつぎ、竹の採取から製品加工まで一貫したものづくりを続けています。竹の加工には「曲げる」、「ためる(真っ直ぐにする)」、「組み上げる」、
「編上げる」など、様々な技術が必要で、それら全てを習得することが竹工芸職人には求められます。竹松商店では、京都伝統工芸大学校 竹工芸専攻の卒業生など、若者への技術継承をすすめています。▼外資系ホテルで使われる、竹製アフタヌーンティースタンドのパーツになります。
熱湯につけながら竹を曲げて輪にする工程。お湯に浸けて曲げるを繰り返し、竹を折らないよう注意しながら少しずつ輪にしていきます。この窯で竹の着色も行われています。一人前になるまで 10年はかかる、根気のいる仕事です。
数寄屋や茶室に使われる飾り窓など、建築用のパーツも制作しています。丸竹をバーナーの火で曲げて作るパーツは特に難しく、火を当てすぎると焼け焦げてしまい、曲げが弱いと形が元に戻ってしまうそうです。パーツ作りから組み立てまで、一人の職人が一貫して行い、図面やスケッチをもとにした特注品やカスタムメイドも可能とのこと。丸竹を藤でつないだトレイを制作中。特に図面などはないため、先輩職人の作ったものを見て、実測し、ジョイント方法などを自分なりに工夫しながら作っているそうです。「職人の性質に合わせ、製品の分担を振り分けています」と川端さん。
六つ目編みや四つ目編み、亀甲編み、網代編みなど、様々な編み方を駆使して、製品に活かしていきます。編みも自社の職人の手で行っているそうです。
竹松商店の近くには、古い木造校舎の面影を伝えた八幡小学校があります。下校中の小学生に混じって、竹材を保管する倉庫に案内して頂きました。
▲トタンに隠れていますが、倉庫の右側は古い土蔵になっています。▼青々とした竹を天日干して水分を抜くための棚。
飴色に輝く竹。竹松商店では、近江八幡の竹林から毎年冬に竹を採取し、材料に仕上げる作業も職人の手で行っています。竹材を仕入れる工場も多いなか、竹の特性を自ら感じることが、ものづくりには欠かせないそうです。
油抜きされた青竹は、数カ月後に黄色っぽい晒竹(さらしだけ)になります。竹は繊細な材料で、土蔵で保管する方がひび割れを防ぎ、質の高い状態を保てるそうです。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
ダ・ヴィンチ岩窟の聖母デッサンの魅力 その 2
前回のジャコメッティに続き「デッサン」の魅力をお伝えしたいと思います。そのきっかけは今年 6月17日(土)の日経新聞朝刊 33面「二大巨匠の軌跡競演レオナルド×ミケランジェロ展」の特集記事。紙面の上部中央にレオナルドの「少女の頭部/《岩窟の聖母》のための習作」(1483. 1485年頃)が大きく掲載されていました。実はこの作品の事を私はほとんど知らず、初めて出会ったといっても過言ではありません。自宅階段上の造り付け本棚の奥から、画家の娘だった母が買いそろえていた埃まみれの美術全集の一冊「レオナルド」を引っ張りだして調べました。そして展覧会場(三菱一号館美術館)へは、新聞紙上を飾った素描「少女の頭部」一本にしぼって向かうことにしました。
私は今まで数多くの美術展や国内外の美術館を訪れ、名画のオリジナルは程々観てきました。しかし今回のレオナルドの素描との出会いは、オリジナルを観るのとはほど遠い新聞紙面上だったにもかかわわず、その「素描」が持つ、少女の謎めいた
レオナルド・ダ・ヴィンチ 《少女の頭部/<岩窟の聖母 >の天使のための習作》 1483-85年頃 トリノ王立図書館 ©Torino, B iblioteca Reale
眼差し(瞳の光彩部分に色が無い事も大きな要因か)とその鋭さ、描かれた線一本一本の的確さと顔立ちの美しさに、強烈にひかれました。シンプルで柔らかいカーブの輪郭線、左利き特有の左上がりのシャドウ線、高過ぎないスッリした鼻立、理知的な薄めの唇、等どこをとっても完璧です。これ以上、線の省略は出来ないほど的確です。これほど完成度の高い素描は他に類を観ません。なぜ今まで知らなかったのか私自身が不思議です。この時襲ってきた驚きと深い感動は今までに経験したことの無いもので、ここ数十年の中で最高の心の高まりでした。
先日、三菱一号館美術館で、ついにオリジナルに出会えました。横181mm、縦159mmという小さいものです。それに加えて作品を傷めないよう照明の照度をかなり落としていますので、残念ながらやや観にくい面もありました。この作品は、イタリア自動車工業の中心地であるトリノの王立美術館所蔵です。ミラノ詣でのついでに、時間を割いてにちょっと立ち寄るのは難しいでしょう。
今回の展示で重要な素描がもう一つあります。レオナルドの素描で有名なもので、60歳前後に描かれたとされる〈自画像〉(ファクシミリ版・複製の展示)です。端正な顔立ちで思慮深い目の表情は、実に味わいがあり観るものを飽きさせません。
「優れた画家は、主要な二つのものを描かなければならない。それは人体とその心に抱く思いである。前者を描くのは容易であるが、後者は難しい。というのは、後者の方は、四肢の動作や身振りを通じて表現しなければならないからである。」とレオナルド自身が書き残しています。画家が対象を観察し、本質を感じ取り、それを表現するために余分な要素を全て排除したドローイングが素描です。言い換えれば、画家の脳を一度通すことで対象の抽象化が始まり、その確認作業の一連とその成果物が素描であると云えます。着彩の大型作品の完成度と比べれば輝き方の方向は大きく異なりますが、画家の意図がストレートに伝わる素描の魅力はここにあると私は考えます。
レオナルド作品の素描以外のオリジナルでは〈ラ・ジョコンダ「モナ・リザ」〉を、東京で開催された遥か昔の企画展とパリのルーブル美術館でそれぞれ1回、それとミラノの「サンタ・マリア・デッレ・グラッツェ修道院」の食堂壁面に描かれた〈最後の晩餐〉を3回観ています。最初は30年前で、丁度大掛かりな修復中でした。壁
面の左半分が明るく修復終了間近の状態、右半分が修復まえで暗く汚れた状態での鑑賞という、今となっては決して出会えない特別なタイミングでした。ですので強く記憶に残っています。そして1999年に20年かかった修復が遂に終わります。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 《自画像》1513年 - 15年頃トリノ王立図書館
作品修復にはオリベッティ等、イタリアの当時の有力企業が資金を援助していると聞きました。その後の2回の訪問は当然修復後で、サローネ開催期間中です。余談ですが、現在は〈最後の晩餐〉を観るには事前予約登録が必要です。鑑賞時間も10分強と限られています。一般の美術館のように「気が向いたからからぶらっと」という訳には行きません。
絵画として世界で最も有名な〈ラ・ジョコンダ「モナ・リザ」〉はスフマート技法(油彩のぼかし技術の一つ)で描かれています。もう一つの有名なレオナルドの作品
〈最後の晩餐〉は壁画ですので、本来は壁や天井に塗られた漆喰が生乾きのうちに、水溶性の顔料をしみ込ませるように描くフレスコ技法が一般的なのですが、レオナルドの最も得意な描き方は先に述べたスフマート技法という、湿った漆喰とは全く相容れない技法です。スフマート技法は、対象となる形態の外角線を描かない微妙なぼかしが中心の技法ですので、描くのに膨大な時間を要する為に必然的に筆が非常に遅くなるという問題点があります。レオナルドはその点でも当時から有名でした。資料によりますと〈最後の晩餐〉は卵を用いるテンペラ技法と油彩技法の混合で描いているのですが、その画材では漆喰に色が染込まず表面に乗っているだけのため、湿気等気候条件の影響が大きく、.離による傷みが、ひどく進みました。
三菱一号館美術館での「レオナルド×ミケランジェロ展」では、ほぼ同時代に活躍した二大巨匠の素描を中心に相互比較する構成で進められていました。そのためか大きな気付きと発見が、ミケランジェロに関しても数多くありました。また改めて取り上げたいと思います。 ■
今年も新しい出会いがありそうな … …
IFFT/インテリア ライフスタイル リビング
11月 20日(月)から 22日(水)まで
国内最大級の家具見本市であると同時に、様々なライフ NEW LOCALを企画した UDS 黒田哲二氏プロデュース
スタイル用品やマテリアル、デザインと出会える IFFT/イ の NODE UEHARA。代々木上原駅前にあり、1階はカ
ンテリア ライフスタイル リビング 。今年は 11月 20日か フェ、地階はビストロ、上階は住宅という複合施設です。
らの 3日間、東京ビッグサイト西ホールで開催されます。 出展者を招いたトークショーも開かれました。榛原の中村
記者発表はアトリウム特別企画 THE HOTEL.Hello, 陽子さん、かねみつ漆器店の深澤兼司さん、ドリルデザ
2017年11月20日(月)〜22日(水)10:00〜18:00 (最終日は17:00 まで)東京ビッグサイト 西1・3・4ホール+アトリウム
インの林裕輔さん、ジャーナリストの本間美紀さんが登壇し、出展の動機やどんな出会いを求めているかを語りました。かねみつ漆器店の深澤さんは、タイム アンド スタイルの店頭で見た林さんデザインの椅子を気に入り、籐家具の開発を依頼したそうです(次ページ参照)。
▼木材塗料の老舗・和信化学工業は、塗ってはがせる水性ストリッパブル塗料「BELAY」を初お披露目。木材や石、タイルの表面を長く守ります。和信化学工業 THE HOTEL(Atrium S-14)▲ 杉材を炭素繊維でサンドし反りを抑えた新素材「パワーサンド」を使い、革新的な接合方法で作った家具のプロトタイプを展示。創造技術 CREATIVE RESOURCE(Hall-4 K-25) ▲かねみつ漆器店(長野)が、ドリルデザインとコラボレート。オリジナル籐家具ブランド「 TOU 」を発表。かねみつ漆器店 THE HOTEL(Atrium S-03)
青森ヒバの優れた効能を活かしたディフューザー等オーガニックプロ日本橋で 200年以上続く和紙舗「榛原」。ダクトや箸、しゃもじ、籠などシンプ河鍋暁斎や竹久夢二等の絵師から提供された図ルで美しいプロダクトを提案。 案が収蔵されている榛原聚玉文庫に伝来する文Cul de Sac - JAPON様を用いてハガキや便箋等和紙製品を提案。NEXT(Hal-3 F/N-14)榛原 JAPANSTYLE(Hall-1 E-06)
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▲天童木工は、スギ、ヒノキなど軟質針葉樹を成型材に利用した独自の Roll Press Wood技術による新作家具を発表。天童木工 HOME(Hall-1 A-23)
▼ 金属のプロ集団 工房 ZuBu/A(埼玉)は、滑りにくく傷や指紋の目立たない金属表面の新しい仕上げ「シャワートーン技術」を公開。工房 ZuBu/A CREATIVE RESOURCE(Hall-4 K-18)
▲燕三条の金属表面処理専門メーカー中野科学の
「As it is」は、金属本来の特性をひきだす独自ブランド。ステンレスを酸化発色させたカトラリーや皿を出展。As it is THE HOTEL(Atrium S-11)
創業大正 12年、いぶし瓦の窯元光洋製瓦による伝統技術を使った「KOYO IBUSHI」は、断熱性や遠赤外線効果のある内装・壁材。光洋製瓦 CREATIVE RESOURCE(Hall-4 K-24)
旭川の新進メーカー・ガージーカームワークス。シンプルで質の高い特注家具やオリジナル家具、照明を展示。ガージーカームワークス 旭川家具工業協同組合(Hall-4 J-20)
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W・M・ヴォーリズ(1880〜1964)
近江八幡を拠点に住宅から学校、教会、百貨店、オフィスビルと、明治後期から戦前にかけ1000件を越える建築設計に関わったウィリアム・メレル・ヴォーリズ。ヴォーリズ記念館(昭和 6年)は、満喜子夫人との後半生を過ごした自邸です。下見板張り(無塗装)の質素な作りで、人々への奉仕を最優先したヴォーリズの人柄が忍ばれます。記念館の入館は電話予約制(0748-32.2456/10:00〜16:00/月曜、祝日および12月1日〜 1月15日休館、不定休有り)です。▲ 公益財団法人 近江兄弟社 本部事務局長 藪 秀実さん。
館長の藪 秀実さんがヴォーリズの生涯を解説してくださいました。明治13年(1880)、ヴォーリズは敬虔なクリスチャンの両親のもと、アメリカ中西部カンザス州のレブンワースに生まれます。建築家を目指したヴォーリズは高校卒業後、マサチューセッツ工科大学への入学を許されますが、家庭の事情でコロラドカレッジに入学。YMCA(キリスト教青年会)の活動を熱心に行い、明治 35年(1902)にはコロラド州代表として海外伝道学生奉仕団大会(カナダ・トロント)に参加します。
ヴォーリズ建築は200棟以上が現存しているとみられます。それを後世に繋いできた人たちの尽力を思って欲しいと藪館長。
大会も終わりに近づいたとき「中国奥地宣教団」の医療宣教師ハワード・テイラーの夫人が演壇に立ち、2年前に起きた「義和団の乱」により多くの教会が襲われ、中国人信徒が殉教する様子を生々しく語りました。当初ヴォーリズは建築家として成功し、本国に居ながら宣教師を支援する将来を描いていましたが、夫人の講演から「霊的な体験」を得たのちは、自ら東洋世界へ赴き、いまだ宣教師のいない土地でキリスト教的生活を送ることを望むようになります。
玄関に設置された心地よいベンチ。訪れる全ての人をもてなす精神を感じます。ヴォーリズは広くて実用的なエントランスを提唱していました。
近江八幡で英語教師の募集があることを紹介されたヴォーリズは、渡航費を自らまかない明治 38年(1905)サンフランシスコ港から日本へ旅立ちます。19日の船旅の後、横浜で汽車に乗りかえ、単身で真冬の近江八幡駅に降り立ったのでした。ヴォーリズが赴任した滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)は、近江商人のエリート育成校として有名な実業家を次々に輩出しています。当時はアメリカ移住を夢見る生徒もいて、ヴォーリズは自宅に彼らをまねき、母国の写真やゲームを愉しみました。それはやがて、バイブルクラスへと発展します。
バイブルクラスには数週間で 100人以上が集まるようになり、ヴォーリズは私財を投じ八幡 YMCA会館の建設を決意します。明治 39年(1906)に一時帰国したヴォーリズは、前年に病で亡くなった親友ハーバート・アンドリュースの父から寄付を得るとともに、日本人の信徒から土地の提供をうけ、処女作となる八幡 YMCA会館「アンドリュース記念館」の建設を実現しました。活動の拠点を得たヴォーリズでしたが、キリスト教の伝道を心配する地元民との軋轢も生まれ英語教師の職を失うこととなります。
近江八幡を神から与えられた世界の中心と考えたヴォーリズは、職を失ってもこの地を離れようとはしませんでした。ヴォーリズ学園「ハイド記念館」の石碑には、ヴォーリズのサインが刻まれています。◯は世界であり、丶は近江八幡を示します。ヴォーリズは、YMCA会館で教え子のひとり吉田悦蔵と共同生活をおくりながら、建築への道を再び歩みはじめます。明治 43年に一時帰国し、若き建築家レスター・チェーピンを連れ戻ったヴォーリズは、吉田と共にヴォーリズ合名会社(後の一粒社ヴォーリズ建築設計事務所)を設立。教え子の村田幸一郎や米国人ヴォーゲルと共に設計事務所を発展させます。その根底には、経済生活を営みつつメンバー全員が社会奉仕を実践するという近江ミッションの理念がありました。記念館の隣にあるヴォーリズ学園は、ヴォーリズのパートナー・一柳満喜子(ひとつやなぎ まきこ)夫人による幼稚園「清友園」をルーツにもつ学校法人で、近江八幡を中心に、こども園や保育園、放課後児童クラブのほか、小・中・高校を運営しています。元の幼稚園舎(昭和 6年)は「ハイド記念館」(右)として一般公開されています。赤瓦のシンプルな切妻屋根で、外壁は白いスタッコと下見板張りです。幼稚園としては破格に広い講堂・体育館(教育会館・正面)を備え、建設当時は日本で最も理想に近い幼稚園舎といわれました。
▲ ハイド記念館館長の辻 友子さん。▼ヴォーリズと海を渡った大きなトランクも展示されています。
ハイド記念館館長の辻 友子さんにご案内いただきました。昭和 5年、満喜子夫人の教育事業に 3万ドルを寄付したハイド夫妻は、世界的に有名なメンソレータム(現・近江兄弟社メンターム)の発明者です。ハイド氏とヴォーリズの出会いは、明治 43年(1910)。近江ミッションに共感したハイド夫妻は毎年の寄付を約束するとともに、メンソレータムの販売権をヴォーリズに託し、湖上伝道船ガラリア丸を贈ります。ちなみにメンソレータムに使われたハッカは、北海道 北見産でした。▲タイルの美しいトイレ。手洗いが低く、扉には万一に備えた覗き窓が付いています。子どもにも大人と変わらない体験をさせるのが、満喜子夫人の教育方針だったようです。
ヴォーリズの設計思想をよく表すといわれる階段。幼稚園舎とは思えない重厚さですが、段差は低く、園児も大人も昇りやすく設計されています。ヴォーリズは「均整(バランス)」を大切にする一方で、如何なるものが均整であるかは難しい問題で、容易に規則や法則で求めるものではないと言います。用途や利用者をよく理解し、全てケースバイケースで設計を進めたようです。ヴォーリズは主にプランニングを担当し、立体芸術の天才と呼ばれた佐藤久勝(大丸心斎橋店を担当)など優秀なドラフトマンが、ゴシックやコロニアル、スパニッシュ、和洋折衷といった様々な様式のドローイングや図面を描いていました。▼今は吹奏楽学部の生徒たちが練習に集います。
園児たちの集った暖炉。子ども用の籐椅子は近江八幡で作られた上質なもので、背の高い窓から自然光が降り注ぎます。ヴォーリズは住宅のリビングや施設のホールなどにファイアプレース(暖炉)を設けています。例え年に数回しか使わないとしても、日本の床の間と同じく空間に欠かせない場所で、精神的な交流の場になるといいます。
清潔な保健室。子どもの健康は大切なテーマで、お昼寝には籐製のベッドが使われていました。辻友子さんが代表をつとめる NPO法人ヴォーリズ遺産を守る市民の会は、ヴォーリズ記念病院「ツッカーハウス」の修繕工事を進めています。ツッカーハウスは、大正 7年に結核サナトリアム「近江療養院」として開設。ツッカー女史は米国ニューツッカーハウスの屋根瓦募金や賛助会員募集を行っています。ジャージー州の裕福な家庭の婦人で、療養院の建設費など多額の寄付を行って近江ミッションの活動を支えました。
辻さんがツッカーハウス設立のエピソードを教えてくれました。比叡山の修行僧だった遠藤観隆は、修行による満足を得られず失意のうちに下山する途中、近江ミッションの活動を知ります。琵琶湖を渡って八幡 YMCA会館を訪ねた観隆は、クリスチャンとなり建築事務所で働きますが、結核によって亡くなってしまいました。結核の撲滅を決意していたヴォーリズは、自然光や新鮮な空気を存分にとりこみ、建築空間が自然治癒力を高めていく先進的なサナトリアムの建設を目指したのです。教育会館(講堂・体育館)。演壇の窓をあけると窓枠に十字架が現れます。昭和6年には近江八幡にメンソレータムの工場が完成し、国内生産が始まりました。工場で働く女性たちの向上のため、吉田悦蔵は「近江勤労女学校」を設立。会館はその教室としても利用されました。近江兄弟社の工場では今も「メンターム」ブランドの外皮用薬やリップクリームが作られています。
▲階段状ベンチ。のぼりやすいように箱段を付けています。
▼ 内側に金属を張った映写室。生涯を近江八幡に生きたヴォーリズでしたが、夏の数カ月は軽井沢で過ごしていました。少年期、アリゾナ州フラグスタッフで育ったヴォーリズにとって、軽井沢は故郷を思い起こさせてくれる場所であるとともに、重要な仕事場で、ヴォーリズ建築が沢山たてられました。建築事務所開業当初、ヴォーリズは教会関係者向け雑誌に記事を載せ「教会関連建築に関する様々な相談にのります」と広報しています。夏の軽井沢には、全国から教会関係者や大使館員、政治家、華族などが集い、ヴォーリズはそのまとめ役をしながら軽井沢の出張所で設計活動を行いました。日本が真珠湾を攻撃し太平洋戦争が始まった昭和 16年、ヴォーリズは日本に帰化することを決め、名前を一柳米来留 (アメリカから来てここに留まる)に改めますが、大戦中は外国人の強制疎開地となった軽井沢に暮らしました。終戦の昭和 20年には親交のあった近衛文麿の使者が軽井沢の別荘を訪れ、マッカーサーとのなかだちを頼まれます。ヴォーリズはマッカーサーに対し天皇に戦争責任が無いこと、天皇は自らを神とは考えていないことを訴えたといわれています。創業 125周年の創元社から、ヴォーリズの貴重な書籍が刊行されました。大正 12年に発行された『吾家の設計』は、ヴォーリズの講演をまとめた住宅の指南書で、関東大震災後の住宅建築に大きな影響を与えました。長らく絶版でしたが、『吾家の設備』と共に復刊しました。『ヴォーリズ建築図面集』は、教会、学校、住宅、商業建築から代表作56件、363点の図面を収録した初の図面集。A3版352頁の大冊です。
『吾家の設計』のなかでヴォーリズは、「台所からはじめる設計」を提案し、甲と乙、ほぼ同じ面積の台所プランを 2つ掲載しています。特に重視しているのは作業動線で、甲の動線は短く、乙は長い。乙は一見すると広々しているが、無駄な動線の動きを数十年続けたら、どれだけの損失になるかとヴォーリズは訴えます。次のテーマは「寝室」で、子どもの死亡率が高かった当時、寝室や子ども部屋を 2階に設け、湿気やバイ菌の少ない清潔な睡眠環境を得ようというのがヴォーリズの主張でした。当時は子ども部屋を設ける家は少なく、充分な睡眠をとれないことが成長を止めているといいます。また採光や通風についても、旧来の日差しや風を遮る家ではなく、できるだけ自然光を採り入れ、風通しを良くすることを求めています。明治期にコンドルなどから導入された英国ヴィクトリア朝の洋館と異なり、ヴォーリズの提唱した明るく開放的で清潔な住宅のあり方は、大正期に進展した住宅改良運動のモデルとなりました。
ヴォーリズは同著のなかで、これらの考えを集約した「二十坪の住宅」を提案しています。1階には暖炉のあるリビングや台所、書斎、女中部屋をそなえ、2階には夫婦の寝室や子ども部屋(2段ベッド付き)、風呂、物置などがあります。普段は使わない客間などを排すことで、20坪程度の小住宅でも充分な居住空間を整えられるというのがヴォーリズの考え方です。この本の出版直後に関東大震災が起こり、耐震・耐火住宅を補った改訂版が翌年に出版されました。関東大震災では火事による死者が多かったため、耐火建築を強くすすめ、木造住宅の耐震補強工事についても言及しています。
『吾家の設計』より台所の例。
近江八幡の池田町洋館街には、大正 2年建設のウォーターハウス邸、吉田悦蔵邸をはじめヴォーリズ邸(現存せず)、ダブルハウスといったコロニアルスタイルの洋館が並んでいます。土地はツッカー女史の寄付によって購入され、近江ミッションの精神を示すモデル住宅でもありました。ウォーターハウス夫妻は大正元年から活動に加わり、ガラリア丸の船長となって琵琶湖の湖上伝道に活躍しました。ベッシイ夫人は自邸で料理教室マナ会を開き、吉田悦蔵夫人・清野や満喜子夫人も参加して、西洋のライフスタイルを八幡に伝えています。
ダブルハウス(一般住宅のため非公開)。ヴォーリズは『湖畔の声』大正 5年6月号に「米国にある住宅街に見る様に、三つの洋館があい並んで建って居ります。庭には一面に青草が広々と生えて居ります。そして常に機械で刈りますから丁度青い段通を敷いたようです。」と書いています。このようなアメリカの住宅地の生活様式を日本で示した初めての例といわれています。
ダブルハウスは一般住宅のため非公開です。
近江ミッションの社員住宅だった「ダブルハウス」(大正10年)は 2所帯を1棟としていて、『吾家の設計』のなかで敷地の限られた都市型住宅のモデルとして紹介されています。隣家と接したリビングの壁面には暖炉をもうけ、壁を 2重に隙間を作り音を防いでいます。庭は広々としてプライバシーも確保され、現在の都市住宅にもつうじるプランとなっています。
旧八幡郵便局は大正 10年(1921)、ヴォーリズの設計で町家を建て替えたスパニッシュ様式の建物です。軒裏に見える垂木の形状やファサードの R形状がスパニッシュ・コロニアルの特徴をよく表していて「阪神間モダニズム」建築に影響を与えたともいわれます。昭和 36年には郵便局の役割を終え、改装されながら様々な用途に使われてきました。
▲古道具や骨董を扱う「レトロ前田」。伝統の小幡人形も。
中に入ると、郵便局時代のカウンターが出迎えます。老朽化がすすみ一時は解体も検討されましたが、平成9年、有志6人が始めた清掃活動をきっかけにNPO法人ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会を結成。市民や学生によって地道な改修が進められ、平成16年には念願だったファサードを復元し、地域コミュニティの拠点として一般公開されています。
▲ 「一粒の会」の橋 元輝さん。
▼ 電話交換室。女性たちが交換機を操作しています。
郵便局長の小西梅三氏はヴォーリズの教え子のひとりで、吉田悦蔵の同級生でもありました。電信・電話事業にもとりくみ、2階には、女性たちの働く電話交換室がありました。木の2重床で、配線を通せるフリーアクセスになっています。長年にわたり旧郵便局の保存・再生に関わってきた「一粒の会」橋元輝さんは、「様々な人たちの手で、無理をせずゆっくりと修復を進めながら、運営のしかたを工夫してきました」といいます。今もボランティアの方々が持ち回りで当番を続けています。
▲ヴォーリズ建築によく使われたガラス製ドアノブ。日本では手に入りにくい建材や金物、塗料、衛生陶器、家具、設備、ピアノなどの輸入商社として近江セールズ株式会社が設立され、後の株式会社近江兄弟社へと発展しました。▼自家製の酵母パンや無花果バター、地元の野菜サラダ、生パスタなど。ランチコースとディナーコースあり。予約制。
昭和4年築のヴォーリズによる和風住宅が「bistroだもん亭」として活用されています。カルフォルニア出身の陶芸家ダレン・ダモンテさんが、自分の器をつかい近江八幡周辺でとれる食材を使ったシンプルな料理の店としてオープンしました。
ドイツ人技師ホフマンによって開発されたホフマン窯は、巨大なカマボコ型の窯をリング状に配置して、連続的にレンガを焼くことを可能にしました。最盛期の昭和 30年代には全国に 60基近くありましたが、現存するのは埼玉県深谷や京都など4基ほどです。その貴重な1基が八幡堀に近い舟木町にあります(社会福祉法人一善会・赤レンガの郷 /敷地内には立ち入り不可)。煙突は高さ約 33m。昭和 45年に休業しましたが、平成 9年には 30年ぶりに火入れされ、5000個のレンガを焼いたそうです。近江八幡のヴォーリズ建築は、ここで焼かれた規格外のレンガを活かしています。
ち第74回
星ら上卓きたの
ヘミングウェイ、ふたたび大原千晴
食文化ヒストリアン英国骨董おおはら
十月一日(日)銀座四丁目の角(日産ギャラリーの 7階)にあるフランス料理店ティエリー・マルクスで、「ヘミングウェイと 1920年代のパリの食」をテーマに 1時間お話をした。食と歴史を楽しむこの催し(石澤季里プティ・セナクル主催のグルメレクチャー)も34回、 14年目に入った。今回なぜ 1920年代のパリなのか。それは、この時代のパリの外食文化が現代に多大な影響を残していること。そして作品の中でその雰囲気を描いた小説家にとって、最初の妻とパリで過ごした 5年弱こそが、生涯で最も重要な創作の時期と重なっているからだ。
アーネスト・へミングウェイ( 1899〜 1961)は、
1921年のクリスマス直前、 9月に結婚したばかりの妻ハドリー(7歳年上)と共にパリに到着し、左岸カルチェ・ラタンの安アパルトマンで暮らし始める。仕事はカナダを代表する新聞社の契約特派記者。第一次世界大戦後の混乱する欧州政治と文化を広くカヴァーし、各地を飛び回って、驚くほどの数の記事を書き送っている。今も昔も契約記者が書き送った原稿がそのまますべて記事として紙
面を飾るわけではな
い。しかし、ヘミン
グウェイの場合、ご
くわずかな例外を除
き、大半の原稿が記
事として掲載された
というから、抜群に
優秀な記者だったの
だ。この経験によって小説家として成功したという説もある。新聞
記事の文章は、原則として感情移入することなく、端的に事実を書
くことが求められる。修飾語を極力抑えたヘミングウェイの小説の
文体は、一見、これに似ていなくもない。それだけに、記者として
の執筆が小説を書くための修行になった、という見方は根強い。し
かし、大作家本人は、そうした見方に対して否定的で、むしろ妨げ
になった、とさえ述べている。
作家がそう言うのも無理はない。なぜなら、その小説作法は、新聞記事とは対照的な形で執筆されているからだ。ヘミングウェイによれば、小説のテーマは、一定期間熟成させることではじめて作品誕生の種となり、熟成が長ければ長いほど、作品は深みを増す。こうして自身の内部でテーマが熟したとき、一気に書く。代表作はいずれも、驚くべき集中力で、短期間に一気に書き上げられている。長期熟成については、例えばノーベル文学賞受賞のきっかけとなったと言われる 1952年出版の『老人と海』。執筆はその前年だが、彼にはその原作というべき作品がある。 1936年雑誌エスクワイアに掲載された小品だ。一度描いた同じ題材を、更に 年間の熟成を経てのち、新たに作品化しているのだ。電波メディアが未発達な当時にあって、新聞に最も求められたのは、速報性だ。記者は、数日もしくは数時間前に見聞きした出来事を、短時間で記事としてまとめ、それが数時間後には、新聞として街角で売られる。新聞記事の執筆は時間との競争で、「テーマを長く寝かせて機が熟した時に書く」小説とは、正反対の世界だ。
もうひとつ、大きな違いがある。例えば、 歳の男の子が横断歩道で車にはねられて即死、という交通事故があったとする。これをどう伝えるべきか。新聞記事では、一定の事実について 5W1Hすなわち「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」行ったのかについて、漏れなく端的な言葉で書き連ねていく。どの要素も書き落としてはならない。その上で記事の最後に「喪失感の只中で若き両親はただ
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悲しみに耐えながら両手を合わせるばかりだった ……」などという一文で結ばれることが珍しくない。しかし、ヘミングウェイによれば、小説においては、人の感情
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や情緒をダイレクトに表現することは、心して避けなければならない。両親の悲しみを伝えたいのであれば、「悲しみ」という言葉を一切使わずにこれを表現する工夫をする。外部から観察できるクールな事実を、最も的確な言葉を選んで、ひとつ
ひとつ、一語一語連ねていく。いわば、情緒の周囲を的確に描き固めていく。たとえば、卓上のリンゴを描いていながら、見る者に寒々しい荒涼感、寂しさを覚えさせる絵がある。本来モノであるリンゴと食卓に情緒はないはず。なのに、絵には寂しい荒涼感が漂う。そんな絵のような文章を絞り出せ、と
いうことになる。中心テーマを正面から描かない。それでこそ、物事の真実を描くことに近づくことができる、と主張する。これまた、新聞記事とは正反対の世界だ。
食を中心テーマとした会であるから、レクチャーでは、こんな話はしない。飲兵衛で食いしん坊のヘミングウェイなら、 1920代のパリの道案内役として最適、だから登場願ったのだ。ところが、気がついてみれば、彼の人生とその作品世界の魅力に今、飲み込まれつつある。学生時代、四十年前に出会ったヘミングウェイは、最も男らしい男の作家の代表で、無欠のヒーローのような存在として語られていた。
「男らしさの手本」そんな思い込みで作品を覗いて見たが故に、読み進むことができず、真の深みに触れることができなかった。この四十年間に、ヘミングウェイ像は一変している。少年期から母親との関係に悩み、視力の欠陥から陸軍の入隊試験に落ち、初めての結婚申込みで振られ、その後も挫折を重ねていく。結婚と離婚を繰り返しながら、一生を通じて最初の結婚生活への思いを断ち切れない。ノーベル文学賞受賞の十数年も前に、その創作力はピーク越えている。受賞後上がり続ける名声(虚名)から逃れるように、更に酒に逃れていく初老の男。弱々しい内面を「男っぽさ」の仮面で覆い隠しながら、ボクシングに戦場に海釣りにサファリにと「華々しく行動する男像」を演じ続けたヘミングウェイ。その光と影の深さ。今になって、書き残された言葉の一語一語が、重みを持って心に響き始めている。
近江商人の町として発展した近江八幡。「ふとんの西川」のルーツ西川甚五郎邸(非公開)や、西川利右衛門邸(公開)、西川庄六邸(店舗として
など見どころ沢山です。 )(公開営業)、伴庄右衛門邸
八幡は特に「畳表」や「蚊帳」の商いで知られていました。
切妻屋根瓦葺き、中 2階建ての平入りが近江八幡の商家の基本で、五個荘にくらべ通りに開かれています。虫籠窓や縦繁格子、うだつなど町家の形式をもち、軒下の壁面に貫を見せる「貫見せ」という意匠が特徴です。
▼ 「クラブハリエ日牟禮館」 ▲「たねや日牟禮乃舍」
かつて豊臣秀次の「八幡山城」があった、近江八幡のシンボル八幡山。山頂まではロープウェイで結ばれています。そのふもとには日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)や近江八幡日牟禮ヴィレッジがたち、いつも観光客で賑わっています。日牟禮八幡宮の創建は約1900年前にさかのぼります。3月に開かれる「左義長祭」は、かつて安土城でもひらかれたといわれる火祭りです。堀の両脇に石畳が整備され、船荷を直接運び入れられます。
八幡城が築かれたのは天正 13年(1585)。織田信長が本能寺の変(1582)で倒れたのち、安土城の城下町と町民たちは、そっくり近江八幡に移されました。その町並みは真っ直ぐな碁盤目状で、城下町の特徴である鉤の手はなく、商工業を第一にした新時代の城下町でした。東側に大工町、鍛冶屋町、畳屋町、鉄砲町といった職人町、西側に仲屋町筋、為心町筋、魚屋町筋、新町筋、小幡町など商人町を配置し、自由市場である「楽市楽座」がひらかれました。こうした町名も安土城下町を真似たといわれ、現在も残っています。八幡堀は築城と同時に掘られ、琵琶湖とつなぐことで活発な水運を促しました。城主の豊臣秀次(秀吉の姉の子)は築城当時、豊臣秀吉の後継ぎと目され、秀吉は自ら陣頭指揮して八幡山城を築いています。その後、秀次は清州城に移りますが、文禄 2年(1593)に秀吉と淀殿の実子・秀頼が生まれると謀反の疑いをかけられ高野山で切腹。八幡山城も10年ほどで廃城になりました。その後も城下町は発展を続け、楽市楽座によって力をつけた商人たちは、琵琶湖の水運や街道を利用し全国に販路を広げました。琵琶湖とつながった八幡堀は、町の生命線として定期的な浚渫作業が行われ、溜まった泥は名産の八幡瓦の原料として活用されました。時はすぎ、昭和 30年代になると水運は廃れ、40年代にはヘドロの堆積や植物の密生が進み公害の元となりました。自治会は八幡堀の埋め立てを求め、行政もそれに同調して国の予算もつきます。それを憂いた地元の青年会議所は、昭和 47年「堀は埋めた瞬間から後悔がはじまる」を合言葉に「観光目的ではなく、近江八幡の歴史が詰まった堀を守らなければならない」と主張。ボランティアの清掃活動を黙々と始めます。当初は市民からヤジを浴びるほどでしたが、めげることのない姿に市民の態度も変化し、老人会や建設業者など協力者も現れ、ついに対立してきた行政の職員までが清掃に参加するようになりました。昭和 50年、滋賀県は改修工事を中止し予算を国に返上。その後も市民によって定期的な清掃が続けられ、毎年9月には幻想的な「八幡堀祭り」がひらかれます。時代劇のロケ地としても全国的に知られるようなり、町の欠かせない財産となっています。八幡堀を見下ろすように立つ「白雲館(はくうんかん)」は明治9年(1876)、近江商人や町の人の力によって建設された小学校です。明治初期に流行した擬洋風建築で、西洋を強く意識しながら、唐破風屋根の下にバルコニーを設けたり、両翼の屋根も独特のつくり。ひときわ目立つ鐘楼には太鼓を納めていたようです。現在は観光案内所として活用されています。
広告代理店に勤める、佐藤慎平の妻が姿を消したのは 6月の蒸し暑い夜だった。深夜過ぎの帰宅。鍵穴を回した時の感触がいつもと違っていた。いつもよりふわっとシリンダーが回った感じ。玄関口から見える、暗い LDK。カーテンを引いていない窓。 6月の雨がガラスにいく筋もの雨だれを作っていた。ダイニングテーブルがキレイに片付いていた。僕はそこに何か普通じゃない雰囲気を感じたんだ。なにかすごく大事なものがまるっと抜け落ちたような不吉なテーブル。普段、勘のニブい僕がその晩はやたら冴えていた。「美沙ちゃん ?」僕は小声で妻の名前を呼んでみた。返事はなかった。かわりに冷蔵庫がウィーンと音をたてた。僕は靴を脱ぐのももどかしく、あわてながら、手近のトイレとバスルームを確認した。どこにもいなかった。最後の部屋。ベッドルーム。普通に考えて、ここにいるはずなんだ。でもなんだろう。この感じ ……。ノブに手をかけて、開いた。美沙ちゃんはいなかった。奥の窓の側。ベビーベッドに娘の夏姫が立っていた。こちらに背を向けて、柵に付いた小さなマスコットをいじっていた。「夏姫ちゃん !!」僕の声に夏姫が振り向いた。夏姫が、はにかんだように、にこっと笑った。「お母さんは ?どこに行ったの ?」 1歳半の夏姫。まだ言葉を喋れない。なぜかまだ、ハイハイもできない。「お母さんどこ行ったんだろうね」抱っこすると、彼女は一瞬、キョトンとした顔をして、そして急に堰を切ったように泣き始めた。おなかを僕の顔につけて、僕の頭に手をまわして、しがみつくように大きな声で泣き出した。ど、どうしよう。とりあえずミルクを作った。彼女はそれをングングと飲み始めた。飲み終えて、まだ泣きそうだったから、僕は夏姫をだっこして「よしよし」って背中を優しく叩いた。そしてその格好のまま、右手で携帯を取り出した。携帯電話、 SNSメッセージ、 LINE。考えられる連絡先に全部連絡を入れた。レスポンスはなかった。そうだ。何かの事故かもしれない。警察だ。もう一度 iPhoneに目を落とした時、ギクっとした。メールの件数表示アイコン。「 1」。 AM2 :00。最後にメールをチェックしたのは自宅のマンションに着いた時。こんな深夜に他人からメールなど来るはずもなかった。あわててメールを開いた。「慎平へ」から始まる超長文のメール。美沙ちゃんからだった。知らずのウチに正座になった。読み進める。そこには、出会った頃の気持ち、それがどのように変化していったか、どんな心の変化が起こり、何が辛かったか、そして最終的に出した結論に今どんな気持ちでいるかが克明に書かれてあった。なん度も読み返した。でも ……。そこには僕のことも夏姫のこともまったく書いていなかった。「全部自分のことじゃないか !!」
僕らのリズム
Vol . 18
野田 豪 (AREA )
僕は携帯を床に叩き付けた。腕の中で、半分寝かけていた夏姫がハッと起きて、僕の顔をピシャッとたたいた。「あ、ごめん」
「で ?なんでウチなんだ ?」中目黒のボロアパートの 2F。窓から目黒川が見える。夏姫が新ちゃんの背中に乗っている。その向こうに桜の木の緑。「だって、新ちゃんまだ就職先決まってないんでしょ ?」夏姫が新ちゃんの鼻を引っ張っている。「勉強してるんだよね ?保母さんの、あ、保父さんか」「まあな」新ちゃんがアイドルみたいなきれいな顔をブルッと振った。夏姫がキャッキャッと笑った。新ちゃん、名前は伊藤新。新ちゃん、幼稚園から大学までずっと一緒の僕の親友。新ちゃん、女の子だけど、心は男。新ちゃん、性同一性障害の幼なじみ。幼い頃から引っ込み思案の僕をいつも助けてくれた新ちゃん。いじめられると飛んできて、いじめっ子たちを蹴散らしてくれた、僕の英雄。「なあ、シンペー。俺言ったよな、美沙ちゃんはやめとけって。こうなるのは分かってたんだぜ ?」「うん」「で、どうすんの ?」「どうするって ?」「会社は ?天下の電通は ?やめんの ?ようやく念願叶ったんだろ ?」僕の夢。言葉をうまく使えない僕に神様がたった一つ与えた能力。グラフィックと映像の才能。僕はこの能力で世界を幸せにしたい。そう思って入社した会社。「やめない ……やめたくないよ」夏姫をチラッと見た。あっ。おむつがパンパンになってる。「じゃあ、美沙ちゃんを探すしかないな」僕はおむつを替えながら頷いた。「うん」「しょうがねえな。じゃあ、お前の出勤中はここで預かってやるよ。男の世話すんのは絶対ごめんだけど、お前は ……昔から、まあ別もんだし、夏姫は女の子だしな」だけど俺の就職が決まるまでだぞ。新ちゃんが夏姫を見ながら言った。「大丈夫 ?彼氏、あ、いや彼女さんとか来ない ?」ははっ。今はいねーよ。新ちゃんが笑った。
302
美沙ちゃんの実家に行ったり、住民票を追いかけたり、置いていった PCから GPS使ったり ……。考えられることはすべてやった。でも彼女を見つけることが出来なかった。夏が終わり、秋になった。会社の仕事が手に付かなくなってきた。僕は二つのことを追いかけられない。昔からそうだ。とことん不器用で自分が嫌になる。同期のみんなの配属が決定していくのを見ながら、僕はうなだれた。夏姫がいなければ僕だって ……もっと仕事ができるはずなんだ。と自分に言い聞かせてみる。でも本当は違うんだ。たぶん僕は複雑な仕事に向かない。単純明快な仕事を深く掘り下げる方が性にあっている。それを夏姫のせいにしようとしているだけだ。表参道のスパイラルカフェ。上司と仕事の打ち合わせ。予算表を渡すだけの仕事が 件。一件目が早めに終わった。次の予定が同じ場所で 分後か ……。僕は Macを開いた。作りかけのグラフィックをいじる。これをやっているときだけ、いろんな悩みから解放される。アイスコーヒーのおかわりを注文した。夢中になってキーボードを叩いていると、僕の肩に誰かが手を置いた。振り向く。茶 色い短髪の小柄な男が立っていた。「スターウォーズ ?」「はあ」知らない人とはなかなか上手く話せない。「すげえな」その男が呟くように言った。スターウォーズの 作品を一枚のグラフィックにまとめたコラージュ・ポスター案。僕が勝手にやっているお遊び。「すげえよ。これ一枚で全部分かる。ストーリーもそうだけど ……うーんなんて言うかな。だってさ、このタイトルロゴ。これお前が作ったの ?」あ、そこ気づいた ?嬉しくなった。「えーとですね、一作目の当初は、もちろん、あの正規ロゴで良かったんですけど、こう時間も経って、内容や時代も変化してくると、あのフォントのままじゃ気持ち悪いというか ……」僕はハキハキ喋った。6シンペー、そのハキハキした感じ。オタクっぽくて気持ち悪いぜ ?新ちゃんの言葉を思い出してハッと口をつぐんだ。しかし、その男はフンフンと真剣に聞いている。そして急に振り向いて大声を出した。「アキラ !!すげえぞこいつ、天才だ !!」つられてそっちを見た。アキラと呼ばれた長身の男が手をひらひらと振った。「春吉、こっちが終わってないんだけどな」春吉と呼ばれた男はチェッと舌を鳴らすと、またこっちを見た。「お兄さん、家具に興味ない ?」家具 ?あの日の光景。きちんと片付けられた、不吉なダイニングテーブル。家族が壊れた日のテーブル。 ……我に返った。「あ、家具は怖い ……です」思わず口走った。「怖い ?」「テーブルが怖いです」「テーブルが怖いって、お前家族に何かあったのか ?」ドキッとした。なんで分かるんだ ?「テーブルってのは家族の象徴だ。それが怖いってのは家族になんかあったってことなんだよ」と言って、春吉という男がニカッと笑った。家族の象徴 ……。「まーとりあえずこれ取っといて」春吉が名刺を僕に放った。「今度、ここら辺に店作るから遊びに来いよ」と言って、もとの席に戻って行った。
いつの間にか冬が終わろうとしている。日曜日。人のまばらな初春の目黒川。桜のつぼみはまだ開かない。今年は開花が遅いような気がする。しかし開花すれば、ちょっとさみしいこの風景は一変する。人も沢山詰めかける。夏姫は元気だ。新ちゃんが押すベビーカーの中で意味不明な歌を歌っている。未だに言葉が喋れない。それどころか、まだハイハイもおぼつかない。立つのは早かったんだけどな。「夏姫の発達、ちょっと遅いよな」と、新ちゃんが言った。「うん」と、元気なく僕は答える。新ちゃんが僕の背中をパンと叩いて言った。「元気出せよ !調べたんだけどさ、あんま気にしなくていいみたいよ。そのうち一気に来るって」通行人が新ちゃんを見て振り返る。芸能人と勘違いしているんだ。なんで新ちゃんは
中目黒なんて芸能人だらけの街に住んでるのかな。それでなくても目立つのに。一緒にいるこっちがドギマギするよ。「一気に来るって ?いきなり歩き始めて、いきなり喋り始めるってこと ?」ベビーカーの夏姫を見る。あぶあぶ言いながら、ベビーカーの一部をしゃぶっている。この子がいきなり歩き始めて、いきなり喋り始める ? ……ちょっと想像がつかないな。「今、いろいろ溜めてんだって、きっかけがあれば、うん、そんな感じでいきなり来るよ。心配すんなって !」2「そうだといいけど」「それはそうとさー …」新ちゃんが何か言いたそうにしている。女の子みたいに少しモジモジしている。まあ、どこからどう見ても女の子なんだけど。いや ……というか、新ちゃんは最近変わった。前みたいに俺って言わなくなった。短い髪が最近は伸びている。簡単に言うと女の子らしくなってきているんだ。なんでだろう。言いたそうだけど言えないなんて、新ちゃんらしくないな。「どうしたの ?」「あ、うん。あのさ、シンペーにちょっと聞きたいんだけどな」「何 ?」「あ、いや、家族ってなんだろうな」家族 ?春吉という男が言っていた。「テーブル ?」僕の返答に新ちゃんが口をムグッてさせた。はぐらかされたと思ったのかもしれない。「まあ、いいや、忘れてくれよ」そう。新ちゃんは最近ちょっとおかしい。就職先がまだ決まらないからかな。世の中、これだけ待機児童が多いのにな。新ちゃんをチラッと見た。やっぱり、履歴書の写真がスーツだからじゃないかな。でもそれは言えない。彼女の存在の問題だから。命をかけてもゆずれない一線だから。そう思って新ちゃんを見た。何か違和感 ……ん ?あれ ?スカートはいてる。小学校の時以来久しぶりに見たな。新ちゃんのスカート姿。新ちゃんがお店の前で立ち止まった。じっとショーウィンドーを見ている。ぬいぐるみの専門店だった。ドイツのブランドの直営店らしい。「よお、シンペー、夏姫のプレゼント買ってやれよ」そうだ。もうすぐ夏姫の 歳の誕生日だった。新ちゃんが憶えてて、僕が忘れていた。夏姫がいなければ、仕事も上手くいくのかな、なんて最近考えてたから、忘れたんだな。きっと。昨日の電話。九州の僕の実家。母のセリフ。「夏姫ちゃんは一度ウチに預けなさい。もう美沙さんは戻ってこないんでしょ ?新ちゃんに預けとくのも夏姫ちゃんにとっていいことじゃないわ。お父さんもいいって言ってくれてるし、あなたはちゃんと今の夢を追いかけなさい。ね。来週迎えに行くからね」僕の夢。グラフィックと映像で世の中を幸せにすること。僕はすぐにその話を新ちゃんに打ち明けた。新ちゃんはしばらく黙っていたけど、「そうだな。それがいいよな」って最後にはそう言ってくれたんだ。僕らはその店で小さい犬のぬいぐるみを買った。芝色のそいつはちょっと困ったような顔をして、ペロッて舌を出していた。首輪にロゴが書いてある。[ファミリー &フレンド]会計を済ませると、夏姫に手渡した。夏姫は ……そいつをぎゅーっと抱きしめて ……にへっと笑った。「わんわんだよ ?」僕は顔を夏姫の顔に近づけて言った。「言ってごらん、わんわん」ぷすー。夏姫は変な吐息を吐いて、なぜか僕を見つめた。「わんわんだよ、わんわん」
ぷすーぷすー夏姫が犬のぬいぐるみをポイッと捨てた。そして僕を小さな指で指差した。「お前のことわんわんだと思ってんじゃねーの ?」と新ちゃんが笑った。「夏姫 …… ……何か言ってよ」なんかダメだ。もういろいろとうまくいかない。生きるってこんなに辛いことだったのかな。ぷすー僕の目に涙がにじんだ。春の目黒川。桜の枝木が小さなつぼみをつけていた。優しい陽だまりがあちこちにできていた。でも、本当の春はまだ先のようだった。
「慎平、もたもたしないで !!」
さっきから母が僕をせかしている。ぼーっとしていた手を早めて、僕は夏姫の洋服をカバンに詰めた。母が夏姫のベビーカーを開いたり閉じたりして研究をしている。ふーん最近のものはよくできているのね。夏姫は床にごろごろと転がっている。夏姫のモノが無くなったら、部屋がとてもがらんとした。ダイニングのテーブルに春の光が
2
落ちていた。美沙も夏姫もいなくなるのか。このテーブルで僕は毎日たった一人でご飯を食べるんだ。
「あ」そうだ !わんわんを忘れた。新ちゃんの家だ。忘れ物をしたよ。と母に言った。
「いいじゃない。そんなの博多でも売ってるわ」でも彼女のお気に入りなんだよ。新ちゃんにも最後の挨拶しないと。世話になったんだしさ。母は、まあ、そうね。とブツブツ言ってついて来た。僕の気変わりを警戒し
ているのだろう。夏姫にも僕にもこれが最良の方法よ、毅然としてなさい。昨夜母はそう言っていた。
タクシーが新ちゃんのアパートについた。桜はまだ咲いていなかった。ここの桜、最後に夏姫に見せてあげたかったな。新ちゃんが仏頂面でアパートの前に立っていた。
胸にわんわんをぎゅっと抱いていた。母が新ちゃんに挨拶をした。いろいろありがとうございました。母はわんわんを受け取ると、ベビーカーに夏姫を乗せた。
「さてと、じゃあ行くわね」せめて駅まで送りたいな …。でも僕の意見は通らなかった。キリがなくなるからと母が言った。目黒川沿いの小道。夏姫が遠ざかって行く。夏姫のいろんな表情、夏姫の
いろんな仕草。すごく大事なものが ……遠ざかって行く。ぼんやりとした朝の春霞。残された僕と新ちゃん。ポツンと 人ぼっちで立ってい
た。新ちゃんがボソッと口を開いた。「なあ ……いいのかよ、ほんとうにこれで」
僕はうつむいた。目の端に桜の花が見えた気がした。ハッと顔を上げた。幹に大きく桜の花びらが咲いていた。たったひとつ。今年初めての桜だ。
その時。「わんわーん」遠くから声が聞こえた。
「……え?」新ちゃんが口を丸くした。夏姫ちゃん ?の声 ?
僕らが間違うわけがなかった。夏姫の声だった。「わんわーん」
新ちゃんがすごい勢いでこっちを向いた。「おい !呼んでるぞ !夏姫がシンペーを呼んでる !」
遠くで母が座り込んでいた。夏姫がすごくむずがっていた。母がベビーカーから夏姫をおろした。夏姫が小さな両手を道路につけた。 その体勢で数秒プルプルと震えて ……。「な、夏姫 ……」ゆっくりと立ち上がった。そして ……。新ちゃんが口に両手を当てた。「夏姫 …… ……」遠目にもわかる。短い両手を前に出して、一歩一歩『一気に来るって ?いきなり歩き始めて、いきなり喋り始めるってこと ?』こっちに歩いてきた !「シンペー ! !」新ちゃんが僕の手をギュウッと握った。その握った手を目の前に振りかざした。「こういう家族でもいいんじゃないのかなぁ !」わかってる。わかっていた。新ちゃんが少しづつ変わっていた理由も、僕は心のどこかで気づいていたんだ。「あたしはこんな人間だけどさ。結婚できるかなんてわかんないけどさ」いいよ、新ちゃん。全部言わなくていい。分かってるって。「慎平の気持ちも分かんないんだけどさー」「わんわーん」その三度目の声に、僕たち 2人は同時に走り出した。桜並木の視界が流れた。走りながら気づく。幾つもの桜の花が開いている。大きな何かに背中を押されて季節が今、動く。僕の夢。グラフィックと映像で世の中を幸せにすること。世の中 …… ?世の中って誰だ ??それは夏姫より大事なものなのか ??夏姫ごめん。お父さんいくじなしでごめん。お前に答えを出させて ……ごめん。「夏姫ーーーー !!!」つまづいた。転んで顔を上げたら、夏姫の顔が目の前にあった。「……わんわん」夏姫が僕の鼻を押した。「わんわんじゃないよ。お父さんだよ ……」僕は声に出して泣いた。心に ……きれいな水みたいな何かが満ちて行く。僕と新ちゃんは、笑いながら泣いていた。
夕焼けの帰り道。新ちゃんが顔を赤くしてずっと喋ってる。シンペー、さっきのあれなんだけどな、なんか勢いで言っちまったけど、なんていうか、やっぱり俺は男だし、でもあれだ、一緒に住むってのはいいんじゃないかな、夏姫のためにも、いや、でも、お前まだ離婚したわけじゃないし、道義的にどうなんだろうな、って、おーい、なんか言えよシンペー。「新ちゃん ……」「な、なに?」「テーブルが欲しい」「ふーん」「一生使えるやつ」僕と新ちゃんと夏姫。ほんとはちょっといびつな 3人が一つのテーブルを囲む。『家族って何だろう』新ちゃんは前にそう聞いたよね。僕はね、家族の形なんて、家族の分だけあるって思うんだ。『テーブルは家族の象徴なんだよ』春吉って言ったっけ。彼はテーブルを売っているのか。それって ……。すごく単純で、すごく幸せな仕事だな。今度、彼の店に 3人で行ってみよう。「ねえ、新ちゃん ……」新ちゃんが振り向いた。今まで見た中で最高の笑顔で。「家具屋ってどう思う ?」 ーおしまいー
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