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7月号 棚機月 2016
http://collaj.jp/
時空を超える美意識
広川町は江戸時代からつづく綿花の産地で、織物も盛んでした。
福岡県八女郡の広川町は明治時代から「久留米絣」の産地として発展し、今も十数件の織元が集中しています。なかでも藍染めの工房が並ぶ長延地区に向かい、山村 健(たけし)さんの「藍染絣工房」を訪ねました。
藍染めには欠かせない地下水。メダカが泳いでいます。30年ほど前、工房の 4代目・山村健さんは父から家業を継いだ事をきっかけに、外注していた藍染めを自ら行うことを決意したそうです。それ以来、自分なりの色柄を求めて藍染めの絣を模索する日々を続けています。12個のカメが並んだ藍染めの工房。30年ほど前に機織り場を改装しました。カメの高さは 2mほどあります。藍染めの染料となる「すくも」は、四国徳島から取り寄せています。すくもはタデ科の藍の葉を7〜 8月に刈り取り、水を掛けながら100日ほどかけて発酵させたものです。カメに地下水とスクモを入れて糖分などを加え、適温を保ちながら2週間ほど発酵させてPH11程度のアルカリ性に保ちます。この工程を「藍を建てる」といいます。
土に埋めたカメは 4個一組で、寒い日は中央の穴から火を焚き発酵を促します。工房によって地下水が違うため微妙な発色の違いがあるそうです(塩素の入った水道水は使いません)。
90年ほど前の手織り機が現役で使われていました。山村さんの絣は全て手織りによって制作され、機織り機を近所の家に貸しだして好きな時間に織ってもらう方法をとっています。昔は農閑期の主婦の仕事で、久留米絣の標準的な幅である38cmは、女性が織りやすい肩幅に合わせたサイズになっているようです。縦糸の数は約 850本あります。
久留米絣の技法は今から約 200年前、井上伝(でん)という久留米の女性によって発明されました。伝がまだ12歳の頃、偶然出来た斑点からインスピレーションを得て絣(加寿利)の織り方を考案したと伝えられています。文化 10年(1813)には東芝の創始者で「からくり儀右衛門」と呼ばれた天才少年・田中久重の協力により高度な絵がすりが開発されたものの、久重が久留米を去ったこともあり実用化には長い時間がかかりました。設計図となる原紙をくくり機にセットすると、原紙に従って糸がくくられます。それを染めると糸を縛った所が白く残ります。
かすり模様の設計図を見せてもらいました。久留米絣の木綿糸は、くくり作業によって糸を固く縛ってから染めることで色分けされています。縦(たて)糸を染め分けた縦がすりや、緯(よこ)糸を染め分けた緯がすり、縦緯両方の経緯(たてよこ)がすりなどがあります。実際に織った布には微妙なズレがあり、それが絣の魅力となっています。▲ オリジナルデザインの「あかり」はグラデーションに染めた糸を使い、光を放つような輝きをもった技術的にも難しい絵柄です。
30年着込んだブラウス(左)と最近織られた反物(右)。時間が経つにつれ白さが際立ち、藍色も冴えるのが藍染めの魅力です。山村さんはインテリア用品やアクセサリーなどの製品を開発し、現代生活の中に藍染めを取り入れる工夫を模索しています。反物は一反 12.5m以上で、メーター単位で購入できるものもあります。
地元の定番「ごぼ天肉うどん」。惣菜の小皿は無料サービスです。
なつかしき友 来たる鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記
7月2日、小泉誠さんの「地味のあるデザイン展」トークイベントは楽しかった。
年程前の椅子の商品開発、ワークショップを振り返って
のトークショー。主役は、小泉さん、南雲さん、村澤さんの3人のデザイナー。そして、司会役の内田みえさんは編集者だ。オイラは、そのワークショップの旗振り役プロデューサーだった。若い3人のデザイナーが、これからの日本の家具デザインの中心に育っていくだろう。などと、オイラの勝手な思い込みのプロデュース。3人は、しっかり成長した。なつかしきワークショップの同窓会である。
ありがたきことに、
人もの知り合いが集まってくれた。
さしづめ、オイラの生前葬?オイラは、なつかしくて、うれしくて、ボオッとしていた。あの人と、もっと「時間」をとって、話しをしたかった、などと今になって悔いている。いつもパーティーでは、皆を見ながらホッとして、ボケっとしてしまう。しっかり「いい時間をとりたい」が、出来ない。タケオとジョージのように、ココ「ふじの」へちょこちょこ来てくれる友とは、いい時間が生まれる。やっぱり少人数でないと、こうはいかない。
今回の展覧会の企画者であり、「地味のあるデザイン」の本を編集した「トマト」こと中野照子さんが、オイラと「話す時間」を、とっていきましょう。と言ってくれた。中野さんは、信頼する友である。
年来の友との「話す時間」から、何が見えてくるのかな?
今こそ、「話す時間」が大切だと思う。「話す時間」から、気づけなかった何かが見えてくるのを信じたい。「地域の味わい」「地域のデザイン」が、ナショナリズムを超えて飛んでいく?
出演者:小泉 誠(家具デザイナー) 中野照子(編集者)飛び入りゲスト 木村健治(テーブル工房 kiki)
『地味のあるデザイン』を編集した中野照子さんの司会で、小泉さんが現物を手にしながら 8つの「こいずみの素」を説き明かします。中央に置かれた「こいずみの形」は、地味のあるデザインの代表的な成果として「テーブル工房 kiki」の製品を紹介するコーナー。徳島から駆けつけた kikiの木村健治さんは「小泉さんとやり取りしたものができ上がったとき単純に嬉しかったんよ」その気持ちが16年間も続く共同開発の原動力になっていると話します。真っ直ぐで力強いデザイン物語が、参加者を惹きつけていました。
「星亀ワークショップ」は 90年代後半に星亀椅子工房(埼玉)とデザイナー3人で行われた伝説的なワークショップです。そのメンバーやデザイン誌『コンフォルト』を通じてワークショップを伝えた内田みえさん、長町美和子さんによる座談会が開かれました。メンバーが一堂に会するのは17年ぶりで、当時、オリジナル製品を開発したいと願った星亀椅子工房・星野勇さんと、独立間もない頃に参加した小泉誠さん、南雲勝志さん、村澤一晃さん、彼らを引き合わせ新しいデザイン手法を試みた BC工房の鈴木惠三さんが、デザインバトルを交わしたワークショップの様子や、その体験が今も製品開発のベースになっていることなどを語りました。ものづくりに対する純真さをぶつけ合った者同士のデザイン談義から、デザインに熱く向き合う生き方がにじみ出し、聴く者の胸を熱くさせました。薪で炊いた大きなおでん鍋を囲んでの懇親会。全国各地から訪れた来場者の差し入れは、柿の葉すし、みたらし団子、特級ハム、きび餅、芋焼酎、イタリアワイン等々。いろいろな人のさまざまな話題が渾然一体となって、一緒に過ごす時間が流れます。今回の座談会はリハーサルも楽譜もないまま、せーのの掛け声でそれぞれの持ち味を奏で合うジャズセッションのよう。ライブ感に満ちた熱いデザイナーライブでした。
次に地下解体の現場で目を疑いたくなるような光景に出くわしたのは、度重なる騒音・粉塵・水脈問題等に憤慨し頭を悩ませた頃でした。もうじき今日の作業も終了かと思
い、なにげにカーテンを開けてみたら、ななななんと 白い粉が撒かれ、重機のヘッドで撹拌した粉が舞い上がっているじゃあありませんか
この状況は何?どうしちゃった訳?数十キロは入っ
ていそうな粉入りの大きな袋が、いつの間にか大量に搬入
されていたのだ。散水のフォローもなく、白い粉は通行人
N
と車両に降りかかり、私たちのベランダや洗濯物へも降り積もってしまったのです。これ以上公害の撒き散らしを許
!!
すわけにはいかぬ。即刻事情説明を求めたところ、待ち合
W
わせた近所のカフェに 所長を含む東注建設の担当者 4
名が顔を揃えた。N
後ろめたいのか、皆だんまりを決め込んで話そうとしない。余計なことは言うなと口止めされているのでしょう。所長の話によれば白い粉は土壌改良材というもので、地盤や土壌の水分を飛ばすために使うものらしいのだが、成分!!など詳しい説明は調べないと分からないらしい。近隣住民の迷惑を考えない、身勝手な東注のご都合主義はこうした形でまた現れた。後日、シュラの 氏と 所長とで土壌改良材の説明がなされ、主成分となる石灰について安全性をしきりに強調していたけれど、それも今となっては虚しいたわ言に過ぎぬ。協議の席で使用期間や数量を何度か問うてみたけれど、案の定、答えはいつも違っていて、肝心な部分はウヤムヤなのですから ……。
八女福島には江戸後期から明治にかけて建てられた、防火性の高い土蔵風の町家(居蔵)が沢山残されています。通りに面して切妻屋根を見せているのが特徴で、敷地はうなぎの寝床状に細長く奥まで続く通り庭があります。江戸時代から職人の多い街で、提灯や和紙、蝋燭、仏壇、石工など、仕事場兼商店兼住居として使われてきました。新聞販売店「牛島新聞舗」
平成 14年には「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、カフェやショップなど町家の活用も進んでいます。オープンしたばかりの「薬膳 草樂(そうらく)」では薬膳カレーや薬膳料理を楽しめます。
1階にはかつて深い軒が出ていましたが、明治期からの道路拡張によって短くされています。町並み保存の機運が高まったのは、平成 3年に町を襲った台風 17・19号により町家が甚大な被害を受けてからでした。平成 7年に「八女福島町並み保存会」が結成され、住民と行政が一体となった調査・保存活動が活発になりました。
城下町の掘割が残り、水運が盛んだった時代を忍ばせます。空き家の町家を NPO法人が借り受け、再生・活用する試みもされています。
つれづれなるままに第 27 回 サラ・ブライトマン感動のコンサート!!!内田 和子
15
こは
武道館で行われたサラ・ブライトマンのコンサートに行
った。ものすごい迫力で圧倒された。
〜6年前、「とてもいいので、ぜひ聴いてください」と、
会社を辞める女性から CDをもらった。ピアノが得意だったが、プライベートな話をすることはほとんどなく、彼女からの思いがけないプレゼントに驚いた。サラ・ブライトマンの「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」だった。サラが世界の歌姫と言われ、その歌声が大きな話題になっていたことを知らなかったが、 NHKBSで放映された「坂の上の雲」の挿入歌で彼女の歌声が流れ、聴き入った。以前にもらった CDをサラ・ブライトマンが歌っていると知り、 CDラックを探した。
以来いつもわかる場所に移し、気が落ち込んだ時や滅入った時に聴いていた。最近は気分に関係なくゆったりと聴いているが、その歌声には何度も身震いをし、感動をした。
CDをくれた彼女を思い出
し、改めて素敵なプレゼントを
もらったことに感謝した。
6月、たまたま銀座に出掛け立ち寄った山野楽器の入り口に、サラの大きなポスターが貼ってあった。札幌を皮切りに日本ツアーがあるという。つい2〜3日前に CDを聴きながら、来日する機会があったら、是非生で聴いてみたいと思っていた矢先である。足早に家に帰り、武道館で行われるチケットを申し込んだ。まだ席に余裕はあったが、とにか
くいい席で聞きたいと高い
S
席をゲットした。武道館で
11
S
S
南 -Sの ……初めて知ったのは、 の次の 。つまり、後ろから数え
番とある。期待して南側の入り口を入った。が
は南( South
S
はアルファベットの
たほうが早いくらいの最後部、ステージは真正面だが遥か彼方。とても顔を見れる場所ではない。ここは3階かと思
A
ったほどで、2階席の先頭は 、順番に数えても確かにこ
S
で間違いない。同じ列に並ぶ人も何度もチケットと
照らし合わせ確認をしていた。仕方ない、ステージ正面が見れればよしとしようと覚悟を決めて、開演を待った。
S
のコンサートは何度か行っているが、 席は初めてである。
S
)の 、そ
つれづれなるままにサラ・ブライトマン感動のコンサート!!!
オーケストラのメンバーが入り、会場は突然暗くなり、サラ・ブライトマンが登場する。何度も CDで聴いていた歌が、息遣いもはっきりと、歌声とともにサラの姿が現れる。もらった CDジャケットの姿は華奢だったが、背丈もあり堂々のそして、その歌声の迫力は、武道館いっぱいに溢れ、曲が終わるたびにため息とともに、割れんばかりの拍手が響いた。最後には、指揮者のポール・ベイトマンが
S
ピアノを弾き、サラはタクトをもらって、オーケストラを指揮した。これもまた素晴らしかった。積み重ねた経験や円熟さが見事に表現
S
されたサラの指揮に大きな拍手がわいた。スペシャルゲスト、マリオ・フラングーリスとのデュエット、若手ナルシスの高音の美しさに息を飲み、ディ・ウーのピアノ演奏、サラだけでも十分なのに、ゲストもまた一流で素晴らしく、魅力たっぷりにその歌声と演奏を聴かせた。
顔が見えないと諦めていたが、最後の方で隣の方がオペラグラスを貸してくれた。サラの顔もゲストの顔もはっきりと見えた。サラの美しい髪も衣装もよく見えた。サラは何度も日本に来日しているようで、最初の挨拶は日本語だった。来ている人は年配の方も多い。根強いファンがいるようで、帰り際に「今日の衣装は地味だった」と話す、婦人もいた。
今回初めてのコンサートだったが、 CDをもらわなかったら、こ
んな素晴らしい感動は味わえなかったかもしれない。追加公演があ
ると聞き、その場で 席を申し込んだ。次回は、必ずオペラグラス
を持っていくことを忘れずに ……
ひとつだけ今回の最後部 席でよかったことがある。それは正面
上段でステージ全体がよく見られたことである。オーケストラはも
ちろん、ステージに上がるサラ、ゲストとの間合い、千変万化のス
テージスポットライト、客席を包み込むライト、開演前、日の丸が
上がった武道館は、いつの間にか、広い美しい別世界、宇宙にいる
ような気にさえなった。
アンコールの拍手は鳴り止まず、最後はスタンディングとなった。感動ものは何度でも何回でもいい。美しい余韻で、この夏の暑さを乗り切ることができれば言うことはない。
八女福島の提灯屋の多く並んだ通りに面しています。
▲ 松延工芸(八女市)の桶やおひつ。竹製のタガで締めています。
▼ 長岡由紀さん(八女市)による竹編みの買い物カゴ。
城下町として発展した八女福島は、提灯や八女和紙など手仕事が盛んな町でした。八女を中心に九州・筑後地方の手仕事を伝えたいと白水高広さん、 春口丞悟さんが開いたアンテナショップ「うなぎの寝床」を訪ねました。
▼古くからゴム産業の盛んな久留米「ムーンスター」の靴。手作りの品だけでなく、地域の特性や歴史を物がたる製品も扱っています。
店長の春口丞悟さんに話を聞きました。白水さんと共に厚生労働省の地方活性化プラン「九州ちくご元気計画」に参加したことが、「うなぎの寝床」設立のきっかけになったそうです。製品開発や販路拡大を手掛けるなかで、東京など大消費地から来たバイヤーが地元の製品を見られる場所がないことに気付きます。まずは製品に触れてもらうと共に、地域の特性や作り手の考えを伝える拠点をつくろうと店を開いたのは 4年まえのことでした。タイル張りの手洗いや石敷きの通り庭などからも、町家の生活を感じられます。以前、白水さんが暮らしていた時期もあったそうです。
明治期に建てられこの町家は、元々は 3棟がつながった提灯の店でした。所有者が市外に出たため放置されていましたが、平成 3年の大型台風をきっかけに町並み保存運動がはじまり、地元有志の融資や公的補助により改修工事が行われ、白水さんが借り手となりました。他の 2棟は一棟賀しの泊まれる町家「川のじ」や木工家の住居として活用されています。
九州の珍しい伝統人形や各地の陶芸も揃っています。福岡県のものが約 7割、ほかは佐賀、長崎、熊本県などのものです。
城下町には衣食住をまかなう職人が揃っていました。「うなぎの寝床」もその形にそって、車で往復 1日範囲の地域から様々な生活用品を仕入れ、衣食住の一式を揃えています。ヒット商品となった「もんぺ」は、八女周辺の名物である「久留米絣」を現代に活かす試みです。久留米絣の織元は今も 30軒ほどあり、それぞれに個性があります。その魅力を全国へ伝えるため、毎年、八女、東京、福岡などで「もんぺ博覧会」を開催しています。
▲正面の板戸を外すと縁側が表れオープンな店先として使えます。
▼玄関の引き戸は跳ね上げ式になっていて、玄関を開放できます。
開口部を様々な姿に変化できる町家の戸。仕事と生活を両立した古い町家には、現在にも通じる沢山のアイデアが備わっています。「うなぎの寝床」に揃った生活用品にも、古さと新しさの両方が詰まっているように感じました。
19
『 ……だからさ、もしお前がツキに見放されて、なにもかもうまくいかない時は、遠くを見つめる女を見つけろよ』
真夏の海岸通りをバイクで走っていた。フューエルタンクに自分の姿が映っていた。あと青い空とでかい入道雲も。イヤホンからはミックジャガー。
蜃気楼に揺らめく江ノ島を右に見て左折。江ノ電の線路を越えてしばらくするとガードレールに女が座っていた。その女はどこにも焦点を合わさず、どこか遠くを見つめていた。
真昼の炎天下。信号待ちしていた俺は、その間、その女をジッと観察した。インディゴ色のノースリーブ。日に焼けた長い手足。茶色くて長い髪が夏の陽に透けていた。
信号が青になる。エンジンを切った。シャリシャリとバイクを押した。コンビニの前でスタンドを立てた。女に声をかけた。
なにやってんの ?
女がこっちをチラッと見てまた顔を戻した。
戻したまま言った。
待ってんの。
ふーん。
アスファルトの上で二人の影がジリジリと焼かれている。
お兄さんいくつ ?
。ハハッ。女が笑った。んで ?ん?
僕らの
Vol.9
Far Away Eyes
リズム
野田 豪 (AREA )
19歳の僕はどこに行くの ?
T
真夏の海岸通りをバイクで走っていた。フューエルタンクに自分の
19
姿が映っていた。あと青い空とでかい入道雲も。イヤホンからはミックジャガー。T
C
藤沢で シャツと Dを買った帰り道。
急に空が暗くなった。路肩にバイクを止めた。シャツをめくって腹に CDを入れた。 シャツはシャツの下に着てしまっていた。
すぐに大粒の雨が落ちてきた。アスファルトがみるみる真っ黒に染まっていった。俺はそのままの格好で国道の上に雨が弾けるのをぼんやりと見つめていた。
誰かが言っていた。バイクは爽やかな晴天の日のためだけにあるものではない。たとえば、真っ暗な闇の中、霧の中、炎天下、夕立ちの中。そんなとこにこそバイクはあるべきだと。
人生と同じだと。
『 ……だからさ、もしお前がツキに見放されて、なにもかもうまくいかない時は、遠くを見つめる女を見つけろよ』
スロットルを開けて再び走り出した。部屋では彼女が待っている。
家の近くまで来たとき、遥か西、大磯の向こうに夕立ちの終わりが
見えた。ピンクがかったオレンジが遠くの空でかすかに揺れていた。
なぜかは分からないが、俺にはそれがとても魅惑的で恐ろしいものに
見えた。
んで ? 歳の僕はどこに行くの ?
チッと舌打ちをして、家へ続くウィンカーを引っ込めた。車線を戻
した。スロットルを回した。単気筒のエンジンが唸りを上げた。
あの空の下までどのくらいの時間がかかるだろうか。
八女茶の名付け親「矢部屋 許斐本家」
店舗は江戸後期に建てられたもので、平成 11年に改修工事を行い、平成 24 年には戦時中外されていた「日除け」も復元したそうです
八女福島の往還道を歩いていると、珍しい形をした黒い板壁を見つけました。ここ「矢部屋 許斐(このみ)本家」は江戸宝永年間(1704〜1710)に創業した九州最古の茶商といわれています。黒い板壁は安定した自然光を採り込むための「日除け」と呼ばれる装置で、室内側はお茶の品質を見るための拝見場「木皆室」となっています。奥に深い敷地には茶商などを招いた離れの座敷や母屋、土蔵などが建っていて、通りからは想像できない規模があります。中庭に面した水場の壁には、青い染め付けの鮮やかな有田焼のタイルが貼られていました。
店舗の奥に土蔵の「焙炉(ほいろ)」が置かれていました。幕末になると長崎の商人をとおしてお茶の海外輸出が盛んになり、許斐家も矢部屋から茶商部門を独立させ今の店舗を開き輸出に力を入れます。長い航海に耐えるよう製茶した茶葉をさらに加熱したのが「焙炉式焙煎法」です。八女和紙の上で茶葉を滑らせながら炭火でじっくりと焙煎した緑茶には独特の「焙炉香」があり、海外輸出の生き証人として今も作り続けられています。
▼アメリカ輸出向けの茶箱には福岡城が描かれています。
14代の許斐健一さん(6代目久吉)は古い建物の改修をすすめ、資料館や喫茶室としての活用を試みています。工事のなかで大発見がありました。キリル語の描かれた茶箱が発見され、明治期に八女で生産された和紅茶がロシアにまで輸出されたことが実証されたのです。大正期に入ると初代久吉は八女が玉露の生産に適していることに着目し研究を進めます。2代目久吉は、筑後茶、笠原茶、星野茶などバラバラだった産地名を「八女茶」に統一し、ブランド化や品質の向上を目指しました。離れ 2階の床の間には三省堂製(明治 41年頃)の世界地図が掛けられ、製茶業が世界相手のビジネスであった時代を彷彿とさせます。大正期に製茶業は内需に転換し、滋味の際立つ銘茶として、また玉露の産地としても八女は知られるようになりました。許斐本家の歴史から、千変万化するお茶の世界が伺えました。
英国の EU離脱について。今回は編集部から「この大きなテーマで」と依頼を受けました。確かに歴史的転換点です。その昔英国で暮らしていた母を訪ねて、英国に行き始めたのが 1970年代前半。以後何度も訪れながら、骨董銀器を仕事にしようと決心して英国に渡ったのが 1989年。ロンドンで 年弱の準備期間を経て 1991年に南青山で骨董銀器店開業。以後 年間ほぼ毎年、短い時でひと月半、長い時には二ヶ月半くらい英国に滞在。ロンドンから地方の場末のマーケットに至るまで、地を這うようにして歩き回り、古い銀器を探すという暮らしを続けてきた。なので、英国特にロンドンについては正直、「外国」という意識は、ありません。
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英国内に「 EU離脱」を求める政治的な動きがある。そのことを初めて知ったのは、今から 年ほど前、ロンドン郊外で開かれていた小さなアンティーク・フェアの会場でした。横幅 1ばかりの棚板に並べられたガラクタ2の中に、面白い銀器を発見。25値踏みをしようと、棚板の向mこう側に座る、くたびれたおじさんに話しかけようとしたとき、その手許のタブロイド紙に「 EUくそくらえ」みたいな大見出し。で、冗談半分に「 EU嫌いですか?」と聞いてみた。そしたらオジサン
「なんで我が大英帝国がドイツ
やフランスごときが決めたことに従わなきゃいけないんだ。大陸の
奴らが勝手にあれこれ決めやがって …」みたいな話しぶりで、これ
が大真面目。この出来事に刺激を受けた私は以後、いろいろな人に、
同じ質問をぶつけてみた。で、発見しました。シティで働く会計士
や金融マン、多国籍大会社にお勤めの人、そしてちゃんとした店を
構える骨董銀器商といった人々はほぼ例外なく、 EU加盟賛成派。
これに対して、家からガラクタ持ち出して棚に並べているようなオジサン、小さな商店の店員さん、荷物の配達をしてくれる人や、パブのカウンターの兄ちゃん、宿の下働き等々いわゆるワーキング・クラスの「白人」は、反 EU派。という感じで、これが私にとって、この問題を考える時の出発点となりました。平たく言えば、教育水準が高いミドルクラス以上のエリート層と EU諸国からやってきて英国で働く移民労働者層は、 EU賛成派。これに対して、社会の低層を支える工場や現場労働者的な人々、大学進学率が低い英国生まれの白人ワーキング・クラスは、英国中心主義的な考え方が強く、反 U派。そんな構図だと。とは言っても 年前の英国で「 EU脱退」という
20E
問題が国民レベルで政治的な大論争になるなんて、およそ考えられなかった。それが、この 年で、大きく変化。変化の裏側に、どのような事情が秘められているのか。
なんて固い話に行く前に、食文化ヒストリアンとして、食の世界への影響について
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少々。私が知るここ 年ほどの間に、英国の食文化は劇的に変化した。具体的には、家庭で使う食用油、かつては例外的だったオリーブオイルが標準に。今はもう「どこ産のエキストラ・ヴァージンがおいしいか」なんてあれこれ言うレベルです。
サンドイッチに使われる伝統的な白い四角いパン。これが標準ではなくなり、パンはフランス・イタリア・ドイツ・インド迄含めて多種多様な種類の中から選ぶのが当
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たり前へと大きく変化した。パンと油、生活の基本食材が、様変わりしています。
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中でも注目すべきは、ロンドンがこの 年ほどの間に、パリに優るとも劣らない、世界でも有数のグルメ都市のひとつへと変貌を遂げたこと。レストランの水準はもちろん、一般市民がスーパーや食品マーケットで、どれほどの水準の食材を入手することが可能か。この点においてロンドンは、魚介類を除いて東京をはるか以前に追い越し、惣菜屋とファーマーズ・マーケットを含めて、パリをも凌駕する水準に至っている。こうした一般人のグルメ度上昇を反映する形で、スターシェフや人気料理研究家が続々と登場し、料理&食文化関連の出版も大きく伸び、 TVのグルメ番組も花盛りという状況に。 年前と比べるならば、もはや別の国かと思わるほどの大きな変化です。こうした事実をきちんと認識せず、いまだに「イギリスは料理がね」なんて平気で言う日本の人が多いのには呆れてしまう。
それが、 EU脱退。その影響は、非常に大きなものになりそうだ。というのも、
このグルメ度大幅上昇の最大の要因は、 EU諸国のおいしい食材が関税抜きで豊富に
入ることで達成されている部分が大きいからだ。更に、 EU加盟国民への優遇もあり、
イタリアやフランスから、高い技術を持ったシェフがシティの唸るお金に惹かれてや
ってきて、素晴らしい料理を提供するというのが今では当たり前。サンドイッチ屋で
さえイタリア人の店がおいしく、店先にジェラート出したり、エスプレッソ売り物に
したりというのが珍しくない。で、 EU脱退。
これら英国で自由に働くことが出来た EU諸国の、今後は「外国人」という扱いになる人々が、どうなっていくのか。減るに決まってる。もちろん、一度美味しいものを知った舌は、そう簡単に、素朴な時代に戻ることはできない、はず。だが、離脱後は現在より2割3割高価になるであろう EU諸国からの食材やワインを、これまでのように気軽に購入できるかどうか。 EU脱退は、ロンドンのグルメ文化に、長く暗い影を落とし始めたと感じます。大きなテーマなので、次回へと続きます。
八女周辺には絣の工房が 30軒以上もあり、それぞれ個性的な織物を作っています。創業 68年の下川織物は、3代目の下川強臓(しもがわ きょうぞう)さんが、工場見学や SNSを利用した新しい試みを進めています。
工場の心臓ともいえるのが、1台のモーターで 20台の織機を動かしているベルト式の力織機です。昭和 23年の創業当時からほぼ変わらない形で使われています。
力織機はトヨタやスズキなど自動車メーカーの前身企業で生産されていました。60〜70年前の古い力織機はゆっくりとしたスピードで織るため、風合いのいい柔らかな生地になります。
数百本の縦糸を織機に通す作業「綜絖通し」。織り終わった生地の縦糸の端に、これから織る生地の縦糸を結んでいきます。糸の順番を間違えることのできない大変な作業です。
必要な分の糸を取り分ける「整経」作業。
下川強臓さんが小管の交換を説明してくれました。古い力織機にとって、交換はもっとも手間のかかる作業だそうです。
一人が数台の力織機を見守っています。左右に動くシャトルには、緯糸が巻かれた小管が入っています。緯糸が無くなると織機が自動で止まるので、小管をシャトルから取り出して交換します。
数種類の緯糸を使い分けられる力織機もあります。穴を開けた板の動きでシャトルを制御する仕組みは、最初期のコンピュータプログラムともいえます。
下川さんは「産業遺産」ともいえる工場を積極的に公開することで、久留米絣の魅力を多くの人に知って欲しいと考えています。今は海外からの見学者も増えているそうです。どの力織機で、どの柄を織るかによって作業のしやすさが変わってくるため(柄物は手間がかかるため無地と組み合わせる)、工場のマネジメントが働きやすさや作業効率を大きく左右します。
下川さんがいま力を入れているのが、フェイスブックやインスタグラムなどSNSを利用した情報発信です。その日に織った布の写真をすぐにアップすると、海外を含め沢山のファンが見てくれるようになったそうです。納期に追われる大量生産ではなく、作りたいものを無理なく作っていける環境を整えるため、下川さんの挑戦は続きます。
坐忘(ざぼう)とは、静座して現世の雑念を忘れ除くこと。
自分自身の内面にある考えや、何かを意識することを忘れ去ることで自らの心の声さえも意識しない状態になることである。すなわち完全な無の状態となり、宇宙自然の動きに身を任せて澄み切った無心の状態を坐忘と言う。坐忘と言う言葉は禅の言葉、仏教の言葉で荘子の言葉に基づくと言われている。しかし、昔、誰かに坐忘について教えられたことは、何か新しいものを自分の中に吸収する為には、自分の中から何かを捨て去らねばならないと言う意味で教えられたことを思い出す。
3年前に体を煩ったとき、鎌倉の建長寺にしばらくの間、なぜか分からないが救いを求めて自然に足が向いた。禅寺である建長寺には誰でも座禅を組める小さな一角が本殿に開放されており、鎌倉の山から吹き下りて来る風がその本堂の中を通り抜けてゆく。夏だった時に山から吹き下ろして来る爽やかな霊気を帯びた風が、座禅を組んだ自分の心に心地良く流れ、死に向き合う乱れた心に静寂を与えてくれたことに本当に心が救われた。それからも時々、建長寺を訪れては一人で時間を過ごすことが、自分にとっての静寂の時間となった。日本や東洋には先人達が残してきた心の平安と向き合うことができる道と場所がある。
しかし、今、日本の社会を見てみると、そのような昔からの知恵が失われつつあるように思える。誰しも心は弱いものであり、乱れ混乱した心を静かにする知恵を私達は忘れてはならない。今、世界で起こる様々な意識の変貌と社会の変化に対して、これから私達、人間はどこに向かおうとしているのだろうか。日本に住む一人一人の個人、世界の国々や様々な人種もその岐路に立たされて、選択を迫られている。日々、これまでに起こらなかったような想像を超える事件や出来事が遠い所からヒタヒタと静かに着実に日本に住む私達にも近づいてきている足音が聞こ
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
坐忘
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
える。これから世界がどう変わって行くのかを知るよりも、私達自身の国、日本の変貌や日本人の変貌ぶりを見るとその変化が確実に迫り忍び寄っていることに気付く。私達一人一人の心の中に存在する不安や焦りなど様々な感情がこれからの世界の変貌の予兆を物語っているような気がしてならない。最近、特に感じることは人間に表情が無くなってしまったことだ。電車に乗り込んで来る人々の顔を見ていると表情が無い、何らかの感情も感じることができない。しかし、時々、その感情が一気
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に暴発したような無秩序で変質した事件が日常的に増えている。日本で日々起こっているような事件や出来事も日本国内に限ったことではなく、今や世界中で同時多発的に起こっていることであり、これからの未来の嵐の前の暗くて分厚い雨雲を想像させる。
さて、これから私達はどう生きて行くべきか。などと真顔で言うとシラケてしまいそうだ。しかし、それは私達一人一人の生きるもの全てに課された重要な一生の命題なのである。私一人などが考えてもどうにも世の中は変わらないし、多くの意思は私の考える方向とは反対の方向に向かっていることを知る度に、社会との断絶を感じて絶望する。しかし、また気を取り戻して自分の考える、あるべき方向に気持ちを向けて意思を強く持って生きなければならない。私達の様々な生き方の選択として何が正しいのかという答えは一つではない。世界中には多くの民族が存在し、多くの宗教や独自の長い歴史があり、それぞれの正解と間違いが存在している。そこで問われるのが、人間としての根本の在り方であり、生き方だろう。
世界を見渡してみると様々な解決出来ない問題が山積している。アフリカでは毎日多くの子供達が様々な病気で命を失い続けているが、私達は片方では大量の食料を作り出し毎日大量に捨て去っている。私自身もそんな人間の一人だ。自分を肯定することはできない。シリアなどのアラブ諸国では戦いや憎しみが減るどころか増大して行くばかりだ。そして、そこで殺されて、死んでゆく人々は数知れず、そこから逃れて移動してくる人々が多くのヨーロッパ諸国の問題を大きくしている。世界の様々な場所で日々多くの 代前半の若者達が銃を持ち、体に爆発物を巻き付けて自分の命と引き換えに多くの無実の人々の命を奪ってゆくようなことが世界中のいたるところで起こっている。私達は何をすればよいのだろうか。アメリカでは警官による黒人に対する迫害が起こり、その憎しみは相互に連鎖して拡大するばかりだ。フランスではまた多くの市
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民を犠牲にしたテロが起こってしまった。日本では未だに沖縄にアメリカ軍が駐留し、住民を犠牲にする事件が戦後から今日まで絶えることが無い。東北の震災から続く原発の問題があり、唯一の被爆国でありながら原発を継続しようとする日本国。そして我が国の政治家達は日本の法律を変えて、戦争に参加できる国へと変えようとしている。しかし、その政治家を選んでいるのは、まさに私達日本人一人一人である。法律を変えて戦争に参加できる国にしたいと思っているのは政治家では無く、私達日本国民の総意だと言えるのだ。それが、現実であり、民意なのだろう。その現実を目の当たりにすると、私達自身の近くにある多くの出来事や事実は日本と言う国がこれから向かっている未来を想像させる。
遠くの国と思っている多くのアラブの国々もアフリカの国々も南米の国々やアジアの国々も、戦争をしたくて人を殺したくて生まれてきた訳ではない。さて、私達にいったい何ができるのだろうか。世界はつい 年前に大きな過ちを侵し、世界で7千万人以上の人々が敵味方関係なく、人間の生命を奪い去った。広島や長崎の原爆もナチの収容所だけでも多くの命が失われたが、罪の無い多くの子供や青年や少女達の命も奪い去った戦争は遠い過去のものではない。今でも多くの国でそのような無実の未来ある命が失われている。私達にもできることがあるはずだ。
心の波動は世界の意思となって人々を動かしてゆくと言われている。私達一人一人が日常の個々の幸せや子供、青年、少女達の幸せを願う気持ちだけでも世界は変わるかも知れない。そう信じたい。子供達の涙を笑顔にできるのは私達一人一人の心の在り方次第なのだ。そう信じて諦めずに向き合いたいと思う。世界で失われた多くの命に祈りを捧げ、これからの平和な未来を願いたい。こんな時代だからこそ、私達の先人達が残してくれた知恵である「坐忘」という心の在り方を思い起こして生きて行きたいと思う。地球上に私達は今、生きて存在することができている、しかし明日の私達の命は誰にも保証されてはいない。多くの人種や国々や宗教が混在する世界の中でも共通するものが、子供や家族、友人、仲間達への愛なのだ。世界は憎しみを乗り越える愛を獲得して行かなければ未来は無い。それが託されているのは今を生きて存在している私達なのである。
▼ Interior Lifestyle Tokyoでの募金風景。
2016年6月1日〜3日、東京ビッグサイトで開催された Interior Lifestyle Tokyo「JAPAN STYLE」にて熊本県・益城(ましき)町への支援が行われ123,370円の義援金が集まりました。熊本地震の被害が癒えぬ益城町では、ご高齢者の生活環境が緊急の課題となっています。益城町安永地区の有料老人ホーム「桜花」では4月14日、16日の2度にわたる震度7の地震により、ご高齢の利用者が福祉避難所に避難したものの、他の避難者との関係から屋外で過ごす事態となりました。施設の周りで倒壊した家々も未だ手付かずのままでした。
施設に戻る決断をした代表の奥村哲さんは、ご高齢者を玄関そばに寝かせながら幾度もの余震に耐え、避難を繰り返しました。激震により施設も危険な状態となったものの、現在も10名ほどの方が生活されています。奥村さんは安全な場所に移転することを検討中ですが、民間施設のため公的援助も得られません。老人ホームの運営に役立てていただくため、義援金を直接お渡ししてきました。義援金をお寄せ頂いた皆さまとご協力者の皆さまに心より感謝申し上げます。[コラージ取材班]