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時空にえがく美意識 コラージ
5月号 更衣 2013
花と太陽と雨の5月よ
群馬県 伊香保温泉 竹久夢二伊香保記念館
上は最初に建てられた江戸末期の長屋門(移築)。蔵造りの本館は夢二の描いた「江戸呉服橋之図」から着想を得ています。設計は民家建築の第一人者として知られる、故・山本勝巳氏(信建築設計事務所)です。
竹久夢二作品を1万 6千点以上所蔵する竹久夢二伊香保記念館。クヌギやナラの木々にかこまれた敷地には、長屋門や蔵造りの本館、大正ロマンを思わせる黒船館、日本建築の義山楼(ぎやまんろう)などが、長い年月をかけこつこつと作り上げられてきました。400年以上続く伊香保の老舗旅館に生まれた館長の木暮享さん。様々な職を経験し、生家から受け継いだこの土地に夢二の記念館を建てる構想を抱いたのは35年程前。
「その当時はまだ一点も夢二の作品をもっていませんでした。それから不思議なえにしに導かれるように、ここに集まってきたのです」と語ります。元々この土地は、伊香保の温泉旅館が薪につかうための木々を植え、輪伐を行ってきた薪山だったそうです。夢二のスケッチ帳 430冊余りを所蔵。紙面から画家の素顔と鋭いデッサン力をうかがえます。
黒船館から館内に入ります。玄関ホールの奥には、アンティークオルゴールや伊香保ゆかりの夢二の資料を展示した「夢二ホール」があります。夢二の作詞で知られる「宵待草」の演奏や資料映像なども観られます。
▼夢二に宛てた松沢ミドリさんのファンレター。伊香保で夢二と出会ったと思うことなどが書かれています。
『愛らしいお手紙うれしくうれしく拝見しました。イカホとやらでお逢ひになったのは私でありません。それが私であったろうならと心惜しく思はれます』。思いやりを感じさせるこの手紙は、明治 44年、伊香保・松沢ミドリさんのファンレターに応えた夢二の手紙です。この手紙から 8年後、夢二はいくどとなく伊香保を訪ねるようになります。「記念館構想を知ったミドリさんから寄贈された、当館最初のコレクションです」と木暮館長。
榛名山のもと、手仕事による工芸を志した夢二
▼音楽会には淡谷のり子さんも出演されています。中央の夢二は、かわいいカゴを手元に抱えています。
柳宗悦が京都で「民芸運動」を展開したのと同時期に、竹久夢二は「榛名山美術研究所構想」を立ち上げます。昭和初期、古き良き日本の事物が失われていくなか、地場の素材や自然から着想した手作りの日用品によって、本来のもの作りを取り戻そうと夢二は考えたようです。榛名湖畔に拠点となるアトリエを構えた夢二は構想の PRも兼ね、群馬県各地で音楽会を開きます。昭和5年 47歳の夢二が発表した「榛名山美術研究所建設趣旨書」(次ページ)は、現在にも共通するテーマをいくつも掲げ、夢二の先見性を表しています。
榛名山美術研究所建設につき
あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは誰からも示されてゐない。吾々はもはや現代の權力爭闘及政活的施設を信用し待望しては居られない。しかも吾々は生活せねばならない。
快適な生活のためには、各々が最単位の自己の生活から建ててゆかねばならない。まづ衣・食・住から手をつけるとする。
さういふ吾々の生活條網を充たしてくれるために、今の所、僅かに山間が残されてゐた。
幸ひ榛名山上に吾々のため若干の土地が与へられた。美術研究所をそこへ建てる所以である。
吾々は地理的に手近かな材料から生活に即した仕事から始めやうと思ふ。吾々の日常生活の必要と感覚は、吾々に絵画・木工・陶工・染織等々の製作を促すだらう。同様の必要と感興を持つ隣人のために、最低労銀と材料費で製作品を頒つことが出来る。或は製作品と素材とを物物交換する便利もあらう。
そこで商業主義が作る所の流行品と大量生産の粗製品の送荷を断る。また市場の移り気な顧客を強て求めないがゆゑに、吾々は自己の感覚に忠実であることも出来る。かういふ心構へから、生活と共にある新鮮な素朴な日用品をつくる希望をもつ隣人のために研究所を開放する。
吾々の教師はあくまで自然である。しかし吾々は既成品を模倣するためでなくに、先人が自然から学んだ体験をきくために、時に講演会・講習会を開く。また吾等の製作品を人々に示すために時に展覧会を開く。榛名山美術研究所を設ける所以である。
千九百三十年五月 榛名山美術研究所
竹久夢二
夢二の代表作である「黒船屋」や「榛名山賦」をはじめ、1万点以上の作品・資料を記念館に託したのが、夢二研究の大家故・長田幹雄氏(元岩波書店専務)です。長田氏は同館を何度も訪れ、展示の指導や勉強会を行っていたそうです。館内夢二は千代紙やポチ袋、封筒などの図案をデザインし、大正 12年にはグラフィックデザイン事務所のルーツともいえる「どんたく図案社」を計画します(関東大震災により実現されず)。館内には同時代に作られた上質な照明器具やステンドグラスなどもコレクションされ、往時の空気をかもしだしています。
22歳の夢二が雑誌「中学世界」に一等入選し、プロデビューへのステップとなったコマ絵「筒井筒」。
1915年から僅か7年しか流通しなかった、幻の日本製ビスクドール「モリムラドール」。吉井勇著「新訳絵入 伊勢物語」(大正 6年)のため、夢二は 21枚の挿絵を描きます。カラーの挿絵は木版で擦られていました。
資料となる写本を、最愛の恋人であった彦乃が写したことを記した手紙も残っています。「山」「河」と呼び合った二人は、創作の面で
も欠かせないパートナーだったようです。大正時代に次々に発刊された少女雑誌や絵本のため、夢二は膨大な表紙絵や挿絵の他、自ら詩や童話も書いています。こ創作の方向を決定したと言われる水彩画「こわれた水車小屋」も展示されています。明治 41年 25歳の夢二は、この絵を携え東京美術学校(現東京芸大)教授の岡田三郎助(62ページ参照)を訪ねます。「学校の型にはめられるより、自分自身で才能を伸ばしなさい」と忠告された夢二は、独学で日本画・洋画の手法を獲得し、独自の世界を拓いていくのです。
木暮館長の最も大切にしている部屋が、黒船館 3階の「蔵座敷」です。「夢二の肉筆画を最高の環境で味わって欲しい」という想いから、作品鑑賞のために設計された特別な和室をととのえました。ここで空間まるごと作品を体感する試みを実践しながら、夢二のエピソードを館長自ら伝えています(館長在館時に不定期で公開)。代表作「黒船屋」は、夢二の誕生日(9月16日)を中心に約 2週間、この部屋で特別公開されます(予約制)。
和ガラスに想いを託した「義山楼」
「榛名山美術研究所」の実現に向け、48歳のとき約 2年にわたり初めて米国・欧州を旅した夢二は、研究所の資金集めも兼ねた個展を各地で開きます。帰国して体調を崩した夢二は研究所設立の夢を果たせないまま、50年の生涯を終えました。夢二が伊香保に託した志を形とした「義山楼」は、和ガラスを展示した、木造純日本建築の建物です。玄関から中に入ると、目の前の襖が左右に開き、和ガラスの世界が広がります。展示棚の背面からは自然光を採り入れています。
江戸時代に作られた貴重なガラスから、明治・大正、昭和初期の吹きガラス、被せガラス、カットガラスなど、様々な技法を使った和ガラスを愉しめます。
BC工房 主人 鈴木惠三椅子の師匠 6デンマークの旧友岡村孝さん
岡村孝さんデザイン「安楽 母さん椅子」 2000年発行の BC工房カタログから。
「こぶり ARISAチェア」
古く万葉の頃に湯治場としてひらかれた伊香保。榛名山の中腹 700mに位置し、江戸時代には榛名詣のブームと共に多くの巡礼者でにぎわった、リゾート温泉のルーツともいえる名湯です。
今から 400年以上前に整備されたと伝えられる石段街。階段の左右に、温泉旅館やおみやげ屋、射的場、飲食店などがぎっしりと並んでいます。この特徴的な街並は江戸時代からほば変わらず、武士や町人、農民から滝沢馬琴、十返舎一九などの文人墨客まで、あらゆる人々が伊香保を目指し旅しました。高所にある湯元から引かれた温泉は、石段の中央を流れる樋から左右の旅館に決められた量が分配されます。今もこの仕組は生かされ、開発当初から続く旅館も営業を続けています。
多くの観光客は 365段の石段を一気にのぼりますが、一休みしながら脇の路地にそれるのも一興。大正ロマンを感じさせる和の小物店や旅館に出会えます。宝永年間(300年程前)に創業した横手館本館は、大正 9年に建築された総桧造りの 4階建です。石段街はたびたびの大火に見まわれながら、再建を繰り返して来ました。
横浜外国人居留地の指定保養地だったともいわれる伊香保には幕末から多くの外国人が訪れました。早い時期に外国人向けホテルが建設され、ハワイ国総領事の別荘も残されています。
現在の石段は 2010年に整備されたものです。新しい石段には与謝野晶子の著した「伊香保の街」が刻まれていました。
街を縦に貫く本道は雑多の店に縁どられて長い長い石の階段を作り伊香保神社の前にまでHの字を無数に積み上げて殊更に建築家と繪師とを喜ばせる
建築家と絵師とは、共に御茶ノ水・文化学院を創設した西村伊作や石井柏亭のことでしょうか?下は一時期数百人を数えたという伊香保温泉の芸妓衆。
源泉の近くにある温泉飲泉所(いんせんじょ)。黄金の湯と称される温泉水は、鉄分を多く含みアレルギーなどに効果のある、非常に濃度のこい温泉水です。源泉の噴出口からは、温泉水がなみなみと湧き出していました。
源泉に寄り添うようにベルツ博士の胸像が立っています。明治 9年に東京医学校教師として招聘されたベルツ博士は、伊香保をはじめ草津などの温泉地を訪れ飲泉療法や温泉開発の指導を行いました。シーボルトとも親交が深く、日本美術・工芸品の蒐集でも知られています。
石段街のふもと「徳冨蘆花記念文学館」へ。明治期に伊香保温泉を全国的に有名にした小説「不如帰」の作者・徳富蘆花は、伊香保をいくども訪れ千秋仁泉亭 (ちぎらじんせんてい )を定宿としました。記念館には蘆花終焉の部屋となった離れが移築されています。トルストイに憧れロシアの農園で面会した蘆花は、武蔵野の地に農地を購入し晴耕雨読の暮らしを実践しました。その地は東京市に寄贈され、今は蘆花恒春園(芦花公園)となっています。
第23回
『(捕虜としての初日)日の暮れるころ宿舎がきめられて横たわる。ぐった
星ら上卓きたの
食文化ヒストリアン
ビルマ負け戦の果て ……
大原千晴
英国骨董おおはら
『私たちの部隊は、終戦のときには、ビルマ南東端まで追いつめられ、シッタン河の河口で英軍と対陣していた。すでに乞食の竹槍部隊のようなものになり下がっていた。私の場合でいうと、二年間のビルマ戦線生活で、何かを配給されたのは、ごくはじめの昭和十九年夏以前をのぞくと一切なかった。食料は全部徴発、つまり略奪したり物々交換したりした。シャツ、靴、飯盒、水筒、地下足袋、小銃、帯皮、天幕、背嚢、みなボロボロで使えなくなってしまった。いま持っているものは、すべて前線でひろったり、戦死者のものをみなで分けあったりしたものばかりである。(我々の)師団の兵力は、昭和十九年夏に内地から補充をうけたころは総数二万にちかかったようである。それが終戦時には三千たらずに減っていた。』『(昭和二十年)八月十五日の夜である。(後方の補給部隊で)食料の塩干魚や砂糖や石鹸などをうけとって夜おそく私たちはふたたびこの寺へたどりついた。(寺に戻ってみると、人のよい班長は)食事の準備もしてくれていたのである。配給になった粉みそと砂糖で、牛の肉とバナナの葉の芯とが甘くたき合わせてある。(途中、仲間の一人が流されて命を失った危険な急流の渡河で)骨の髄まで冷え込んだ私たちには、腹にしみ入るほどのうまさである。』
『そのうち(終戦により)後方への集結命令がでた。背嚢には、新しいタ
今回は、一冊の書物から、食に関する文章を抜き書きし、これを私の独断でつなげ合わせる形でご紹介してみたい。引用元は、会田雄次『アーロン収容所』(1962年初版、現在は中公文庫の一冊)。著者の見事な文章を刻むことを申し訳なく思いながらも、ぜひ、皆さんにこの一冊をご紹介したいという思いから、勝手な抜粋を行なった。(カッコ)内の言葉は、説明的に大原が書き加えた。
『アーロン収容所』より著者のスケッチ(次ページも)
オルやシャツ、米、塩、石鹸などが入っている。戦闘中これを失うと生命にかかわるほどのものだ。ビルマ人はタオルや石鹸を米に代えてくれたからである。やがて私たちは(捕虜として)ラングーン北東方の操車場に入れられた。ビルマ人はここには入って来てはいけないらしいのだが、イギリス兵の監視のすきまをぬっていろいろの男女が、モウ(米粉の菓子)などを売りに来る。終戦直後、敗戦を知ってやけになり、貯蔵品を売りとばして酒や食糧に代え騒いでいた主計(軍の会計係)連中のところへビルマの村長や顔役が、「戦争に勝たれたそうでおめでたい」と鶏などを持参して挨拶に来たという話もウソではなさそうである。』
りつかれる。朝から食事をしていない。英軍からはずっとなんの支給もない。どうして日本軍は後方に集積してあった米を(我々兵士に)配分しなかったのか、「命(令)」によって全部英軍にひきわたしたのである。とにかく私たちは食糧がなかった。みんな持っている米を供出したが、たちまち尽きてしまった。やっと英軍から食糧が支給されたが、それは米の粉だけであった。米にして一日一合にたりない。ひもじくてほとんど夜は眠れない。張りをなくしたせいか、病人や衰弱した人間はポツリポツリと死んでいった。私の中隊では犠牲者はなかったが、ときどきこういう死人の墓穴堀りをやらされた。』
この本には、大東亜戦争史に残る大失策「インパール作戦」のみじめな結末が、ひたすら冷静な筆致で綴られている。ここに記すことが憚られるような、人間性の根源に迫る凄まじい記述がいくつも出てくる。にもかかわらず、この書を読んだ会田氏の捕虜仲間の感想は大半が「収容所生活を少し楽しげに書きすぎている」というものであったという。
『私たちの食事に供された米はビルマの下等米であった。砕米で、しかもひどく臭い米であった。飢えている間はそれでよかったが、ちょっと腹がふくれてくると、食べられたものではない。その上ある時期にはやたらに砂が多く、三割ぐらい泥と砂の場合もあった。
15
私たちは歯はこわすし、下痢はするし散々な目に会い、とうとう日本軍司令部に対し英軍へ抗議してくれと申しこんだ。その結果を聞きに行った小隊長は、やがてカンカンになって帰ってきた。英軍の返答は、「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜飼料として使用し、なんら害なきものである」であった。それもいやがらせの答えで
はない。英軍の担当者は真面目に不審そうに、そして真剣にこう答えたそうである。』
『(捕虜としての強制労働の中で)とくにつらかったのは、紅茶の六十キロ入りの箱の整理である。(中略)しかし、こういうところでは楽しみがある。ほかでもない、ちょっと言いにくいが泥棒である。実のところ、泥棒なしに捕虜生活は語れないのである。私達の食事はドラム罐で炊いた半分すえたのや、焦げたのや、半煮えの飯に缶詰にしんかコンビーフをぶちこんでかき回したものであった。それを三度三度数ヶ月つづけて食べさせられたら、どうなるかご想像いただきたい。そういう人間に(食料品倉庫の)缶詰の山の中にいて何もしないでいろということは無理である。
まず私たちが始めたのは、作業場内での盗み食いである。作業の間にこっそり缶詰を失
敬し、荷物のかげに置いておいて仲間が交代で一人ずつぬけだして食べてくるのである。
そういうことには上手下手があるから、うまく盗み出してみんなにわけてくれる人間が
しだいに人望を得るようになる。飯のうらみは強い。これからも私は何度も書くことに
なろう。』
会田氏は 1947年に三十一歳で復員し、その 年後に本書は出版されている。戦後のイタリア・ルネサンス期研究などで、我が国の西洋史学界の中でも突出した一人といっていい学者が、十五年間抑えに抑えていたものを真正面から世に問うた。抑制された表現を通じて、その重みと真剣さが伝わってくる。会田氏が描いた世界を、はるか遠い時代の、自分にはまるで関係のない世界の出来事であるかのように思うかもしれない。しかし会田氏とて、昭和十一年に京都大学に入学したとき、十年後にこれほど過酷な運命が待ち受けているとは、夢にも思わなかったのではないだろうか。誰が十年前に、今の福島を予測し得ただろうか。「板子一枚下は地獄」この言葉を肝に銘じておきたい。それにしても、英国と日本という「列強」によって支配された挙句、その領土を破壊と殺戮の場とされたビルマの人々が本書を読んだならば、どう思うか。スーチーさんに尋ねてみたい。
みなかみ 谷川温泉天 一 美術館吉村 順三 …… 次世代へのメッセージ
『麗子に逢いに水上へ行った、と書くといで湯のあいびきをしたように思われるかもしれない。じつは岸田劉生の名作「麗子像」をみるため、先週末、群馬県水上町
にできた天一美術館に出掛けた
天一
美術館は「銀座天一」の創業者・矢吹勇雄氏のコレクションを展示するため、皇居新宮殿などの建築家・吉村順三氏が設計したが、昨年四月に急逝してしまった。谷川岳マナイタ倉に抱かれた美術館は吉村さんの最後の作品として昨秋、開館したばかりだった」(石井英夫 産経抄 1998年 7月15日)。産経新聞の名物コラム「産経抄」を 35年にわたり執筆した石井英夫さんにつづき、利根川をさかのぼる上越線に乗って群馬県・水上を目指しました。沿線では遅咲きの桜がひょうに打たれていました。水上駅から車で 10分ほど。谷川温泉の小高い丘の上に天一美術館はあります。エントランスは個人の別荘のようで「ごめんください」といいたくなるような、こぶりな建物に見えます。
吉村順三氏は建設前の敷地にやぐらを建て、まわりの環境を確認しながら、窓の位置や大きさを決めていったそうです。
▼展示室へ続く廊下。案内表示などはほとんど無く、自然と身体の導かれるような設計をしているそうです。
▼展示室ホールの受け付けカウンター
谷川からの農業用水を引き込み、建物の周囲を巡らせています。清々しいせせらぎは、ダイナミックな景観を受け止めるクッションになっているようです。
吉村氏の住宅には欠かせない煖炉がここにもありました。谷川をのぞむ一番気持ちのいい場所に、吉村氏デザインのラウンジチェアが置かれ、訪れる人に保養地の別荘でくつろぐようなひとときを与えています。
下の階へつづく特徴的なホールのスロープ。吉村順三氏最晩年の遺作(1997年完成)である天一美術館は、車椅子の方が心地よく過ごせるよう設計されています。滑り止めを施したゆるやかなスロープを降りていくと、まるでご褒美のようにホウの木が立つ美しい景色をのぞめます。細部まで綿密にデザインされた円形のオープンエレベーターは、人間の尊厳とはなにかを、最先端のエンジアリングによって表現しているかのようです。
チーフマネージャーの朝戸幸男さんが、天一美術館のコレクションについてお話ししてくださいました。1930年、矢吹勇雄氏によって日本橋人形町に創業した「天一」は、1932年銀座に移転し著名な政治家や実業家、芸術家、作家、海外の賓客の集うてんぷらサロンとなりました。収蔵作品の数々も芸術家との交流から蒐集されたもので、多くは店内に飾られていたものです。画家・熊谷守一の「わさび谷」(上写真左端)は、火事場で盗難にあった事を知った熊谷が、もう一度描き直して贈ったものだそうです。銀座天一と芸術家の交友の深さを物語るエピソードです。
▲ スロープの大窓は、建物から突き出ています。
陶磁器などの展示室。天一の創業者矢吹勇雄氏は、川喜田半泥子や魯山人の器を実際の盛りつけに使い、揚げたてのてんぷらを最高の空間と器で提供することを目指していたそうです。矢吹氏は銀座百店会の設立に尽力したことでも知られています
(二代目理事長)。同会の発行する「銀座百点」(1955年創刊・2013年 3月号で 700号)はタウン誌のルーツともいえ、毎月著名な作家・文化人が執筆する質の高い誌面には根強いファンがいます。百店会に加わってはじめて銀座の一流店ともいわれ、インテリアではギャラリー収納が加盟しています。
▼ ホール天窓から差し込む自然光。
美術館の目玉ともいえる、岸田劉生の「麗子像」。作品は4点あり、素描の麗子像(1919年)、水彩の麗子像(1920年)、油彩の村娘図(麗子の遊び相手お松の像)、そして正面を向いた珍しい麗子像(1922年)です。麗子像の展示室はこれらの作品のために設計され、作品と正面から向き合う贅沢なときを過ごせます。吉村氏は作品の展示位置まで、綿密に設計していたそうです。天一美術館となりの「冨士浅間神社中宮」。古くから谷川に伝わる山岳信仰の中心地で、かつてはここから山へ登る道もあり、山頂には奥の院が鎮座します。谷川岳マナイタグラの猛々しい山腹は、すこしだけ顔をのぞかせてくれました。毎年 4月 29日には太々神楽が奉納されます。
水上駅から谷川温泉へ向かう山道の途中に、太宰治の小説「姥捨」ゆかりの地があります。川端康成の紹介で谷川温泉に逗留した太宰は、温泉を再訪した際にこの山中で心中に失敗し、その顛末を「姥捨」に描いたといわれています。心中未遂が事実か小説か、今となっては分かりません。
素敵な人たち 4 吉田龍太郎(TIME&STYLE)
山田 長幸 (カタカナデザイン 葉山)
自由が丘でタイムアンドスタイルを始めて 1年くらいの頃、何気にパラパラと建築雑誌を見ていると、見慣れない広告が目に入ってきた。他の広告とは放っているオーラの違いを感じて、隅から隅まで集中して凝視した。そこにはこれまでに目にしたことの無いような美しく統一してデザインされたラタンの椅子やシーグラスのソファーからアイアンのシェルフ、美しく編み込まれたラタンの照明まで網羅されたフルラインナップの家具がきれいにページにレイアウトされていて何故だかワクワクドキドキとした高揚する感情を覚えた。今から16年前、1998年頃のことだ。それから直ぐにその広告にあった電話番号のダイヤルを回し、その日の内にその会社を訪問した。翌日には二人の共同経営
の社長が自由が丘にあったショップを訪ねて来てくれた。 スタイルを家具や雑貨などのカテゴリーの線引きをせずに総合
その二人の社長は、一人はデザインを担う山田長幸氏、そし 的に提案する会社やブランドは日本でも皆無であったと思う。そ
て営業を担う佐藤岳利氏。二人は自分たちの夢を 3時間も こに突然、もの凄く完成度の高いレベルの商品構成で登場し
一方的に語り尽くして行った。そして僕らが自由が丘のショッ たのがワイスワイスだった。B alance & Comfortと言うブランド
プでワイスワイスの家具を日本で初めて販売することとなった。 コンセプトを掲げたワイスワイスは登場と同時にとても高次元で
そこから長い二人との付き合いが始まった。 完成されていた。正直、参ったなー、やられたなーと思った。
1998年、ワイスワイスのインテリア業界への登場は、本当に インドネシアを生産拠点としてデザインされた家具はラタンやシ
衝撃的な出来事だった。正直、その衝撃を超えるものにその ーグラスと言った天然素材がその素材のポテンシャルを存分に
後、未だに出会うことは無い。今でこそ、インテリア業界で 引き出していたし、一つ一つの製品のデザインはどれも秀逸で
は家具から雑貨までをトータルで提案するライフスタイル提案 完成度が高く、そして新鮮さの中に優しい佇まいがあった。そ
型のお店が増えてきたものの、当時は生活を前提としたライフ してその物のデザインを超え、物と人間と空間を繋ぐワイスワイ
ス独自の空気感はBalance & Comfort=調和と豊かさを体現した時代を超える普遍的なものだと感じた。今から16年前に既にライフスタイルの様々な要素を総合的にデザインし、さらに生産拠点を国内外に設け、ワールドワイドに生産販売を目論むワイスワイスの活動は現在の日本のインテリアの方向を示唆するお手本になった。実際、ワイスワイスの活動には僕らも大きな刺激を受けながら、今日までお互いに切磋琢磨してきた。実際に1999年から2001年までの 3年間、ワイスワイスと当社は海外向けブランドとして Stylewiseと言うブランドを立ち上げ、2000年にはニューヨークの 49番街にショールームを設けて活動した。その活動の布石が現在のワイスワイスや私達が未来へ進んでゆく大切なビジョンの源泉、そして大切な経験となってきた。ワイスワイスの製品はデザインを担った山田長幸と営業を担う佐藤岳利の二人のビジョン、そして多くの仲間達によって生み出されたものだ。これまで多くの家具デザイナーやプロダクトデザイナーと出会ってきたが、山田は日本人の家具デザインの世界では突出した技能と才能を持ったデザイナーであり、常に独自のデザイン哲学を貫き通した。山田のデザインはワイスワイスのブランドコンセプトをそのままデザインとして、製品として体現することにあった。山田のデザインスケッチはホリゾンタルなパースの柔らかな美しい曲線によって描かれていた。そのデザインスケッチの繊細で柔らかなタッチは、そのまま山田のデザインする製品の持つ柔らかさに投影された。常に手を動かし、ドラフターで丁寧で美しい原寸図を起こし、詳細なディティールにこだわった。山田
の描き出すデザインには、視覚的美しさだけでなく、家具の構造や製造プロセスを熟知した人間にしか描けない本物のプロフェッショナルとしての技の極みを感じるものだった。そして常に新しいものを生み出すことを、作り手の人々と一緒になって挑戦してきた。そこには、山田のデザイン哲学であるBalance &Comfortの思想があった。特に椅子のデザインには独自の哲学と強いこだわりを持っていたけれど、けっしてデザイン単体、プロダクトそのものの完成度や美しさを追求するだけでなく、そのプロダクトの集積による世界観と、そこに生まれる空気が作用する人々の生活の中身のことを常に考えていた。高価で高尚な物を作り出すことよりも、普通の日常の生活を過ごす人々へ、山田が生み出す豊かさの感性と生活の質を提供してゆきたいと、いつも考えていたように思う。その後、ワイスワイスを離れた山田は病気を克服し、自身のインテリアブランドであるカタカナデザインをスタートし、今年 3月末には葉山にショップをオープンした。そこでは全国の素晴らしい物作りの仲間達の協力のもと、山田の新たな世界を作り始めていた。その矢先の 4月、山田長幸が逝ってしまった。生前、山田は子供達と離ればなれに暮らしていた僕に、『龍太郎さん、子供と一緒に暮らしなよっ。』と会う度に僕のことを心配してくれた。常に仕事よりも何よりも家族との時間を大事にし、家族との密度の濃い時間を生きた 50年間だった。そして、美しい沢山のデザインの椅子と物作りへの執念と夢を僕たちに残してくれたと感じている。心優しい父親であり、日本の誇る家具のデザイナーであり、ライバルであり、友である山田長幸のご冥福を祈る。
木材塗装プロスペックの実践ノウハウを知る
第 25回木材塗装基礎講座 6月 28日(金)開催
一般に学ぶ機会の少ない木材塗装について「その道のプロ」が基本から応用まで、わかりやすく解説する、木材塗装研究会主催の「木材塗装基礎講座」が開催されます。会場は東京都立産業技術研究センター。塗装や木材関連の機器設備、評価試験装置などの見学も行われるそうです。
■ 日時 2013年 6月 28日(金)9:30. 17:00
■ 場所 東京都立産業技術研究センター本部 (ゆりかもめ テレコムセンター駅前)
■プログラム
塗装から見た木材の性質 木工用塗料の種類と性質
着色剤の種類と着色方法 塗装工程の組み方とその役割
屋外木部の塗装 木工塗装の欠陥と対策
塗装関連機器設備の紹介
■ 受講料 (昼食含む) 会員 20,000円/ 会員外 25,000円詳しい内容やお申し込みは、木材塗装研究会のホームページ(下記リンク)へ
大正 6年(1917)、渋沢栄一などが中心となり東京・駒込に設立された理化学研究所(理研)。日本の自然科学をリードする総合研究所として、ビタミンを発見した鈴木梅太郎博士をはじめ、随筆家としても知られる寺田寅彦博士、日本現代物理学の父といわれる仁科芳雄博士、ノーベル賞学者・湯川秀樹博士などが活躍し100年近い歴史を刻んできました。今は埼玉県・和光市の他、全国に研究施設があります。
理研和光地区の目玉である「RIビームファクトリー」(仁科加速器研究センター)。最近は 113番元素の発見でも話題になりました。7階に相当する深さの地下施設では、複数の加速器を組み合わせ原子核を光速の70%まで加速し、世界最強の RIビーム強度を得られる巨大なシステムによって、原子核の謎にせまる研究が日々続けられています。エレベーターで地下にさがった階では、加速器の仕組みを説明した模型や超伝導の仕組みを体験できました。
▼ 装置の目の前で、研究員の方が説明してくださいました。
世界で初めて超伝導コイルの採用に成功し、世界最強のビーム強度をほこる「超伝導リングサイクロトロン(SRC)」。6基の超伝導電磁石を分厚い純鉄製のシールドで覆った重さ8300トン(東京タワーの約2倍)という巨大な鉄の塊です。この装置の発生する強力な磁場の中で重イオンビームは光速の70%まで加速され、標的の物質と衝突して原子核を壊すことで、RIビーム(不安定な放射性同位体ビーム)が生まれます。RIビーム実験装置のひとつ「SHARAQ」(下)は、原子核の極小世界を見る RIビーム顕微鏡だそうです。これら巨大装置と研究者の熱意によって、宇宙における物質創成など数々の謎が明かされようとしています。中性子は X線などに比べコンクリートへの透過性が高く、内部の様子を画像で記録できます。小型の中性子源を車両に搭載し、橋やトンネルなどをリアルタイムに検査することが期待されています。
「RANS」は中性子の発生装置を小型化することで、様々な産業に役立てようというプロジェクトです。中性子ビームは分厚いコンクリートも透過する性質があり、土木建築の検査に利用する計画も進んでいます。地震対策やインフラ維持の大きな課題である橋梁など大型構造物の安全管理を、飛躍的に効率化・ローコスト化することが可能になるかもしれません。「こうした装置を開発する際、理研には各ジャンルの研究者が揃っているので、適切な人材を短期間で集めて優秀なチームを組めます」と副チームリーダーの竹谷博士は語ってくれました。
▼線形加速器「RILAC」の模型。加速器や実験装置をベストの状態で動かすには、卓越した研究員の技が必要だそうです。それを次世代に引き継いでいくのも大切とのことです。
一般公開にあわせ、様々なセミナーも開催されました。なかでも注目を集めた森田浩介博士の講演会では、話題の「113番元素」発見にいたる実験現場のリアルなエピソードが語られました。森田博士のチームは線形加速器「RILAC」を使い、原子番号 83のビスマスを標的に原子番号30の亜鉛を加速したビームを衝突させ、113番元素の合成に3度成功しました。その確率はなんと100兆分の1。ひとつの研究のために加速器を長期間使用し続けるには、研究所全体の理解が不可欠といいます。113番元素の命名権が日本に与えられれば、史上初めて元素周期表にアジアで名付けられた「元素名」が載ることになります。
生物科学研究棟では、「自分の細胞を見てみよう!」という、ドキッとする体験も行われていました(小林脂質生物学研究室)。口の中の細胞を綿棒でとり、染色して顕微鏡で覗くと、細胞の核やミトコンドリア、細胞膜などがはっきり見えました。
研究交流棟・伊藤ナノ医工学研究室では、実物のヒト iPS細胞を大型モニタに映し出していました。伊藤研究室は、 iPS細胞の培養をサポートするフィーダー細胞の研究をしているそうです。フィーダー細胞は未分化のままで iPS細胞を培養するのに欠かせない一方、 iPS細胞にくっつき研究を阻害することもあります。それをどう防ぐかは、実用化に向け大切なステップといいます。報道の過熱する iPS細胞ですが、地道な積み重ねがあることを実感しました。
ケノス代表
実現間もない水素エネルギー社会の到来 -2【 スマートグリッド化を加速する定置型燃料電池発電の可能性 】
私の研究対象の一つに「2020年頃のスーパーマーケットはどんな施設や環境になるのか」というものがある。つい先日も最新のエコ店舗を視察してきた。4月12日にオープンした千葉県船橋市・新船橋駅近くのスマートイオン「イオンタウン新船橋」店である。スーパーマーケット「マックスバリュ」を核として、高効率の空調設備やオール LED照明を採用し、エネルギー消費量の一番大きい冷凍・冷蔵ショーケースの冷媒ガスには、代替フロンガスよりも地球温暖化係数の低い「CO 2冷媒」を使う機種を導入していた。使用エネルギー 50%の削減を目指す省エネ型最新店舗だ。あの東日本大震災から2年が経過した。政府からの要請もあり、その年と昨年は使用電力のピークカット(午後 2時から 3時頃)を目標にスーパーマーケットでもコンビニでもオフィスでも、照明を部分消灯して使用電力削減に努め大停電を免れた。つまり
家畜の糞尿などから発生するバイオガスで発電できる、スェーデンmetacon社による燃料電池発電システムの提案。(metacon社の HPから)
節電で難局を乗り切ったのだ。しかし「節電」だけ、言い換えれば「省エネ」の努力だけで現在レベルの社会生活を続けられるのだろうか。このところ建築業界では「ZEB」の話題が時々出てくるようになった。「ZEB」とはゼロエネルギービルのことで、ヨーロッパでは 2020年以降の新築ビルは全て(ただし家電等の、建築に付帯しないもののエネルギー消費を除く)、アメリカと日本は 2030年以降の新築ビルは全て「ZEB」でなければならないという、今後の社会を大きく変革するであろう思想だ。もちろんまだ法制化されている訳ではない。しかしいくら節電しても、それだけではビル単体の使用エネルギーをゼロには出来ない。当然のことながら照明も空調もエレベーターも動かさなければならないし、スーパーマーケットでは冷凍・冷蔵ショーケースで商品を冷やさなければ商売にならないからだ。つまり事業を行うために必要なエネルギーは、自己で作り出さなければならない。使う分を自前で作るか、あるいはスマートグリッドで繋がるコミュニティー等からエネルギーを購入するかなどして、自己完結型あるいは地域完結型として成立させる必要がある。その達成のためには、超高効率の創エネ機器・施設が不可欠となる。前回もご紹介した「第 9回スマートエネルギーウイーク2013」(東京ビッグサイト)の「FC EXPO(燃料電池展)」で出会ったのが、metacon(メタコン)社製の定置型燃料電池発電装置である。会場の奥まったコーナーに展示され目立たなかったし、展示機器も手作りっぽく、見た目の完成度は低いと感じた。意外だったのは、北欧第一の工業国スウェーデンの会社だったことだ。私の中では燃料電池と北欧はすぐには結びつかなかった。しかし展示品は、天然ガスやバイオガスで 5kWの発電能力を持つユニークな燃料電池であった。幅 80cm ×奥行100cm ×高さ180cmで我が家のエネファームの貯湯槽を少し大きくした様なサイズで、小型の割には発電量が高い。「今日は日本人説明員が不在」とのことで、翌週早々スウェーデンの方 2名と日本人担当者が来社され、改めて説明を受けた。面白かったのは、牛 2頭分の糞尿から FCV(燃料電池発電電気自動車)
FC EXPOに出展した metacon社のブースにて。展示された燃料電池発電装置は、5kWの発電能力がある。エネファームの 5倍以上の発電量だ。
が毎年 15,000km走行できる水素を供給できるという話である
(仕組みについてはまた詳しく解説したい)。そのとき閃いたのは、スーパーマーケットから出てくる食品残渣
(生ゴミ等)を利用して発電できるのではないかということだ。スーパーの生ゴミには、水素をもつ有機物が沢山含まれている。牛の糞尿から水素を取り出すプロセスを利用して、燃料電池による発電が可能になれば、まさに地産地消のエネルギー供給源になる。5月 3日の日経新聞でも、下水処理施設で発生するメタンガスを活用した富士電機による燃料電池発電システムが取り上げられていた。メタン等を利用したバイオガス発電は、再生可能エネルギーとして全量買い取り制度の対象になる。昨年末から今年にかけ、水素を取り出す様々な技術情報が堰を切ったように市場にあふれている。どうしても FCVの話題が先行するのは仕方が無いが、これから最も必要不可欠なものは暮らしの為のクリーンな電気エネルギーである。まだ開発途上とはいえ、その代表が定置型燃料電池発電装置・施設であろう。
「2020年頃のスーパーマーケット」はきっと水素社会の恩恵を大きく受けて、今よりももっと環境負荷を少なくしつつ、新鮮な食材を提供しているのではと期待している。
多彩な芸術家たちとの交流
会場の入り口のコーナーでは、岡田三郎助をはじめ明治〜昭和に活躍した洋画家の作品を展示していました。これらの絵画が通常の企業コレクションと異なるのは、.島屋の企業活動と作品が密接に関連している点でしょう。たとえば岡田三郎助には、.島屋のポスター原画となった作品もあります。また明治 42年(1911)に創設された.島屋美術部は、百貨店の美術画廊をつうじて沢山の新進画家を世に送り出してきました。
国際万博出展のさきがけ
今回の目玉ともいえるのは、創業時から続くグローバルな活動を示す作品の数々です。明治初期から外国人向けの染織品を扱った.島屋は、明治 18年頃からロンドン、バルセロナ、パリ、リヨン、アントワープ、シカゴなど欧米の万博に次々と参加し、数々の賞を得ます。その中心はビロード生地に手描き友禅をほどこした「ビロード友禅」で、京都画壇の中心となる日本画家たちによって原画が描かれました。ミュシャのポスターで有名な女優サラ・ベルナールは、1900年パリ万博に出展されたビロード友禅「波に千鳥図」を気に入り、会期中にも関わらず自宅に飾らせました。そのエピソードはパリで新聞報道され日本でも話題となります。こうした国際的な活動が、.島屋ブランドの確立に大きな役割を果たしました。
▲日本画家との交流は着物のデザインにも表れています。
建装・家具分野に果たした大きな役割
.島屋といえば、建装・家具分野にも強い百貨店です。そのルーツは明治 10年、京都店隣に開店した「緞通店」といわれ、主に外国人観光客向けの絨毯や壁掛けなどを扱っていたようです。1900年代に入ると建装業に着手し、高級住宅や官庁からの依頼を受ける一方、中村順平や村野藤吾が参加した「あるぜんちな丸」など豪華客船の仕事を手掛けます。昭和初めには「新時代洋家具展覧会」など洋家具の発表会も盛んに開かれ、中流階級にむけた和洋折衷の先進的な暮らしを提案する場となりました。こうした歴史は.島屋工作所(現・.島屋スペースクリエイツ)などに受け継がれていきました。
藤田嗣治がデザインした水着の原画。1934年水着通販カタログの表紙に使われていました。フランスの避暑地ドービルから着想を得たようです。
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[ 悪夢の前夜に至るまでの話 14 ]
ぁ……」明らかに警戒している。「えーと、あ、俺、陸上の自
「あーそうだな。例の小屋に入れといた」「余計な寄り道しない
主練習の場所を探してて」そもそも、ロックマンは陸上選手体
で早く帰ってこいよ。今日はバースデーパーティだろ ?俺とお前
型だ。アスリートに見えなくもないだろう。「あーそうなんです
の 」「…… な ークロ 」「 ん ? 」「 いや…なんでもない 」「 な
ね」女の子の顔がパッと輝いた。良かった。騙されてくれた。
んだよ、言えよ 」「 殴られたよ 」「 誰に ? 」「 相楽のジジイ
後はスラスラ言葉が出た。「この小屋は用具入ってんのかな」
「入
にだよ 」「 …… 」「 あいつ気づいてんぜ 」「 わかった… なん
ってると思います。私もそばの中学の陸上部してて、この春か
とかする」携帯を切って目を上げる。ロックマンは陸上競技の
らここを使う事になるんで状況見てこいって言われてきたんで
トラックを横切って歩く。閉鎖された市営の運動公園だ。夏の
匂いがする。小さい頃さんざん嗅いだ匂いだ。ホノルルの乾い
た風。草むらを逃げた記憶。右の脇腹がチリチリとむず痒くな
る。あの時の苦い記憶を振り払う。ふと立ち止まる。ついさっ
き、ロックマンが「 T 」を隠した用具小屋に誰かが近づいていく。
ちっ。クロの奴。使われてないって言ったじゃねーか。
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 15 ]
「俺はお前を守る。あの時の二の舞にはしない」
それでも地球は 回ってる
17ロックマン2
す。あ、顧問の先生に」言って彼女は小屋の扉をギィと開けた。
止める間も理由もなかった。「あ ! ありますね」確かにハードル
だの砲丸だの陸上競技用具がギッシリ詰まっている。右隅の
奥。幅跳び用のメジャーの下の段ボールの中に「 T」を隠して
いる。しかし、彼女は小屋の中には入らなかった。「使えそうで
すよ」振り向いてまた笑った。 ……。ああ、そうか。目だ。瞳
が似ているんだ。死んだ妹アラウラに。忘れたい記憶が吹き出
して来る。脇腹が疼き始める。チリチリと。チリチリと。壊れ
女か。近づく。不審にみえないように。さりげなく。どうやっ
た南京錠を引っ掛けて扉を閉める彼女の姿を見ながら言った。
「じゃ、市役所に申請出すかな」女の子は少し小首を傾げて「きっと大丈夫ですよ、適当に使っても」と言って得意げな顔をし
て追い払うか。頭を回転させた。いい案が浮かばない。くそっ。
俺は馬鹿だからな。クロに電話するには近づき過ぎて ……そ
の時、その女が振り向いた。ロックマンの足がギクリと止まる。
た。「ずっと管理人をやってたおじいさんが引退しちゃって、今
「 Alaura? 」
はまだ管理が手つかずなんだって」「そっか」「で、何をやって
いや、違う。もちろん別人だ。日本人だろ ?どう見ても。ロッ
るんですか ?」「え ?」ドキッとした。「種目 ?」「ああ。種目ね
野田 豪(AREA)
クマンは動揺を隠しながら話しかける。「ねえ」「はい ?」「あー、
……100?かな」適当に言った。「へえー。早そうですね」「う
あのさ、ここって普段は使ってないって聞いてたんだよね」「は
ん。遅くはないと思う」と言ったら今度は思いっきりケタケタ
と笑い始めた。ロックマンは呆然としてその姿を見ているしかなかった。人には良く笑われた。ホノルルの地下街に住んでいた頃、こっちに来てからは、日本語を上手く話せなかった頃。いつもいつも悔しくて毎晩眠れなかった。でもこれは全然違う。なんでだ ?なんで人に笑われてこんなに嬉しい気持ちになるんだ ?「 なー 」「 はい ?」「君、名前なんて言うの ?」「おじさんは ?」おじさん ……20だよ。「ロックマン」また笑い出した。「ゲームみたい !」よく笑うな。はは。ひとしきり笑った後彼女は顔を上げてロックマンを見上げた。「私は」「佐々木夏姫。 ?そっか」「ナツキ」「え …佐々木って言います」「ササキ
夏の姫って書きます」
[ 悪夢の前夜に至るまでの話 16 ]
走れ !倉庫の隅。コンテナの間に隠れる 2人。だってお兄ちゃんがぁ。いいから。俺の事はいいから。左手に泣きじゃくりダダをこねる妹。右手にハンドガン USP45。頼む。お前だけでも逃げてくれ。おーい。出てこいよ。近づく足音。子供の持つ銃じゃねーぞ。いいか。駆けっこだ。よくやっただろ ?な ?お前足早いじゃないか。学校で一番だって言ってただろ ?お兄ちゃんも必ず後から行くから。ホント ?ああ。約束だ。立ち上がるアラウラ。よし。いいか ?レディイ ……ゴー !!走り出すアラウラ。ああ駄目だ。そんなんじゃだめだ。泣きながらじゃ。上手く走れないだろう ?ああ。転んだっ。アラウラー起きろー。モタモタと起き上がる。よしっ走れー。しかし ……
coe
突っ立ったままその場で泣き始めるアラウラ。頼む頼む頼むぅ。走って逃げてくれ。あー ? みーつけたっ。くそっ。飛び出すロックマン。駆け抜けざまにアラウラを脇に抱えて走り出す。ガンッガンッ。銃弾が何発も近くをかすめる。倉庫を出た。背の高い雑草をかき分けて走る。夏の匂い。草の匂い。そして、ヘモグロビンの匂い。死の匂い。ああっくそっ。立ち止まる。脇腹。真っ赤に染まっている。俺じゃない。俺じゃない。アラウラが打たれた ?アラウラ ?自分でも驚くほどの優しい声。痛いか ?うん。痛い。お兄ちゃん痛いよ。か細い声。草の中にアラウラを寝かせた。アラウラの腰の辺りから赤い血が大量に吹き出ていた。だめだよ。こんなに血を出したら死んじゃうよ ?両手で吹き出る血を押さえた。押さえても押さえても押さえても。そうか。そうだな。もう無理だな。 ……なーアラウラ ?もう走らなくていいよ。ちょっと寝たらいい。 ……お兄ちゃん? ……何 ?寒いよ。あわてて上着を被せる。血が付いちゃうよ ?いいんだよ。また買うから。くそっなんでこんなことに。おにいちゃん ?あとね。うん。言ってごらん ? アラウラがゆっくりと目を閉じる。うまく走れなくてごめんね。アラウラの体からすごく大事なものが抜けて立ち上るのを見た。それは一瞬で遠く上空に吸い込まれていった。青く澄んだホノルルの空に。
「 アキャー∞∞∞∞ー! 」
ロックマンは自分の雄叫びを聞いた。同時に奴らの群れに躍り込んでいった。至近距離でハンドガンを打ちまくった。弾倉が空になる頃、その大地に立っていたのはロックマンただ一人だった。